第三話 王の条件
十四日。
その数字が頭から離れないまま、エレノアは牢の寝台に腰掛けていた。
昨日までなら、十四日もあれば随分いろいろなことができると思っていただろう。読みかけの本を片づけることも、母とお茶を楽しむことも、卒業後の予定を考えることだってできたはずだ。
けれど今、その十四日は自分の命に付けられた期限だった。
「エレノア、難しい顔してる」
「難しい状況ですから」
「それはそうだね」
アレクシスは向かいの椅子に座っていた。正確には、座っているように見えた。椅子に触れられないはずなのに、妙に自然な姿勢でくつろいでいる。
「……ずいぶん慣れましたね」
「何が?」
「幽霊でいることです」
「慣れたというより、できることが少ないからね。工夫しないと退屈なんだ」
「退屈を理由に人の寝顔を観察しないでくださいね」
「まだしてないよ」
「まだ?」
エレノアが睨むと、アレクシスは悪びれもせず笑った。
その笑顔を見るたびに、彼が死んだという事実が遠のいてしまう。けれど、目を逸らしたところで現実は変わらない。
自分は王子殺害の容疑者で、彼はもう生きた人間ではないのだ。
「……このままでは、何もできませんね」
エレノアは膝の上で手を組んだ。
「あなたが調べてくださるのは助かります。でも、私がここにいる限り、確かめられることには限界があります」
「うん」
「クラリスの話だって、直接聞ければもっと詳しく確認できるのに」
「僕から質問できないからね」
「それに、私が知ったことを正式な調査に反映してもらうには、弁護人を通す必要があります」
アレクシスはしばらく黙っていた。
やがて、少し考えるように首を傾げる。
「父上に頼めたらいいんだけど」
「国王陛下に?」
「君をここから出してほしいって」
「……無理に決まっています」
「そうかな」
「私は、陛下のご子息を殺した疑いをかけられているのですよ」
「疑いでしょ?」
「その疑いが重大なのです」
エレノアは溜息をついた。
「そもそも、あなたの声は陛下には届かないでしょう」
「そこなんだよね」
「そこなんです」
二人で揃って考え込んだ、そのときだった。
廊下から足音が近づいてきた。アレクシスが扉の方へ顔を向ける。
「また誰か来た」
「今度は壁から覗かないでくださいね」
「分かってる」
そう言って彼が姿勢を正した直後、鍵が回る音がした。
扉の向こうに立っていたのは、昨日、特別審理について説明した役人だった。
「ローゼンベルク公爵令嬢」
「はい」
「国王陛下がお呼びです」
エレノアは思わず瞬きをした。
「……国王陛下が?」
「これより王宮へお連れします。身支度を整えてください」
役人の言葉を理解するまで、少し時間がかかった。
隣ではアレクシスが、目を丸くしている。
「……父上?」
その呟きに答えられる者は、エレノアしかいなかった。
◇ ◇ ◇
久しぶりに見る王宮の廊下は、見慣れているはずなのに、ひどく遠い場所のように感じられた。
両脇には衛兵が付き、前後にも護衛がいる。逃走を防ぐための措置だと分かっていても、かつて婚約者として何度も歩いた廊下を、容疑者として進むのは気が重かった。
幸い、手枷は外されていた。
国王の前に出る公爵令嬢への配慮なのか、それとも逃げられないと判断されているからなのか。どちらにしても、ありがたいことだった。
「エレノア」
隣からアレクシスが声をかけてくる。
「緊張してる?」
「……少し」
「父上は、君を怒鳴りつけたりしないよ」
「それは分かっています」
少なくとも、エレノアが知っている国王は、感情に任せて人を裁くような人物ではなかった。
アレクシスによく似た好奇心の強さと、王としての厳格さを併せ持つ人。幼い頃には、アレクシスと一緒にいたずらを企てて王妃に叱られていたこともある。
そんな記憶があるからこそ、今は余計につらかった。
(……私は、あの方の息子を殺したと思われている)
エレノアが視線を落としたとき、アレクシスが静かに言った。
「大丈夫。僕もいる」
触れられない手が、そっと差し出される。
エレノアはそれを見つめ、小さく頷いた。
やがて一行は、王の私的な執務室の前で足を止めた。
衛兵が扉を開く。
「ローゼンベルク公爵令嬢、参りました」
「入れ」
低く落ち着いた声が響いた。
エレノアは背筋を伸ばし、室内へ足を踏み入れた。
執務机の向こうに座っていた国王は、記憶にある姿よりも少し老けて見えた。
目元には疲労が滲み、机の上には書類が積まれている。いつもなら穏やかな笑みを浮かべて迎えてくれる人が、今日は厳しい表情をしていた。
「エレノア・フォン・ローゼンベルク。お召しにより参上いたしました」
エレノアは深く礼をした。
「顔を上げなさい」
「はい」
国王はしばらく、何も言わなかった。
その視線を受け止めながら、エレノアは指先が冷たくなっていくのを感じた。
「……痩せたな」
最初にかけられたのは、意外な言葉だった。
「……恐れ入ります」
「食事は取っているか」
「はい。問題ございません」
「そうか」
国王は小さく息を吐いた。
「本来なら、卒業を祝ってやるはずだった」
エレノアは唇を結んだ。
「アレクシスも、あの日を楽しみにしていた。卒業したら少し自由な時間ができると、何度も話していたよ」
隣に立つアレクシスが、目を伏せた。
「……はい」
「それが、あのようなことになるとはな」
国王の声は静かだった。だからこそ、言葉の奥にある悲しみが痛いほど伝わってきた。
「エレノア」
「はい」
「私は、息子を失った父親だ」
国王はまっすぐに彼女を見た。
「お前を疑わずにいることはできぬ」
「……承知しております」
「だが、王として、疑わしいというだけで人を裁くわけにもいかぬ」
エレノアは顔を上げた。
「茶葉から毒が見つかったことは事実だ。お前がそれを贈ったことも、疑いようがない。だが、そこからお前が毒を入れたと結論づけるには、まだ足りぬものがある」
「陛下……」
「私は、アレクシスを殺した者を見つけたい。誰であろうと、必ずだ」
その声には、王としての威厳と、父親としての怒りがあった。
エレノアは胸が締めつけられるのを感じた。
「お前は、何を望む」
「……え?」
「自分が無実だと言うのなら、何をしたい」
突然の問いに、エレノアは戸惑った。
無実を証明したい。もちろん、それが一番の望みだ。
けれど、それだけではない。
隣に立つアレクシスを見る。
彼は何も言わず、エレノアを見つめていた。
「……真実を、知りたいのです」
エレノアは答えた。
「私が何を疑われているのか、なぜ殿下が亡くなられたのか。何一つ、納得できておりません」
声が震えそうになるのを、必死に抑える。
「私が贈った茶葉から毒が見つかったことは事実です。ですが、私は毒など入れておりません。だからこそ、誰が、どこで、何をしたのかを確かめたいのです」
「……自分で調べたいと?」
「はい」
エレノアは頷いた。
「もちろん、私が容疑者であることは理解しております。自由に行動できないことも承知しています。ですが、このまま牢の中で結果を待つだけでは……」
言葉が詰まった。
十四日後。その日が来れば、自分は裁かれる。何も分からないまま、命を奪われるかもしれない。
「……私は、何もできないまま終わりたくありません」
国王はしばらく黙っていた。
その沈黙が長く感じられ、エレノアは膝の上で握った手に力を込めた。
やがて、国王が口を開いた。
「お前の父からも、申し入れがあった」
「お父様から……?」
「身柄の扱いを改めてほしいとな。弁護人からも、証拠の確認に関する要請が届いている」
国王は机上の書類を一枚取り上げた。
「だが、当然ながら反対もあった。王族殺害の容疑者を王宮内で自由に歩かせるなど、前例がないとな」
エレノアは息を呑んだ。
「……それは、もっともなご意見かと存じます」
「宰相も、慎重であるべきだと進言してきた。捜査を妨げる危険がある以上、身柄を移すにしても厳格な監視が必要だとな」
国王は書類を机に戻した。
「私も、その意見には同意している」
「……はい」
「ただし、弁護人から提出された申し入れにも、一理ある」
国王はエレノアを見つめた。
「お前が無実ならば、証拠の確認を妨げることは正しい裁きにつながらぬ。逆に、お前が犯人ならば、監視下での言動が新たな証拠になる可能性もある」
エレノアは静かに頷いた。
自分にとって有利な措置であると同時に、より厳しく観察されるということでもあるのだ。
「ただし、王族殺害の容疑者を無条件に解放することはできぬ。捜査に関係する者への接触も、証拠の扱いも、厳しく制限する必要がある」
「はい」
「それでも、調べたいか」
「……はい」
エレノアは迷わず答えた。
「どうか、機会をお与えください」
国王は彼女を見つめたあと、静かに頷いた。
「よかろう」
エレノアは息を呑んだ。
「お前の身柄を、王宮内の監視付き居室へ移す」
「……本当、ですか?」
「ただし、自由の身になるわけではない。王宮の外へ出ることは許さぬ。移動には必ず監視役を付け、関係者への聞き取りも正式な許可を必要とする。証拠品への接触も同様だ」
「はい!」
「そして、十四日後の最終審理は変わらぬ」
その言葉に、エレノアは表情を引き締めた。
「……承知しております」
「よいか、エレノア」
国王は静かに言った。
「これは、お前を無実と認めたということではない」
「はい」
「だが、お前が真実を求めるというのなら、その機会まで奪うつもりはない」
エレノアは深く頭を下げた。
「ありがとうございます、陛下」
その隣で、アレクシスが小さく笑った。
「……父上らしいや」
エレノアは、今度こそ顔を上げなかった。
泣いてしまいそうだったからだ。
◇ ◇ ◇
国王との面会を終えたエレノアは、王宮の一室へ案内された。
地下牢とは違い、大きな窓から陽光が差し込む客室だった。寝台も机も整えられている。ただし、扉の外には衛兵が立ち、窓にも逃走を防ぐための措置が施されている。
見た目が変わっただけで、監視される立場に変わりはなかった。
「……それでも、ありがたいですね」
エレノアが呟くと、アレクシスが窓辺に立った。
「少なくとも、ここなら明るい」
「ええ」
「僕の部屋より少し狭いけど」
「比べる相手がおかしいです」
そんなやり取りをしていると、扉がノックされた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、茶色の髪をきちんとまとめた侍女だった。髪には、小さな白い花の飾りが付いている。
「クラリス……」
エレノアが名前を呼ぶと、彼女は丁寧に頭を下げた。
「クラリス・ベルモンでございます。本日より、ローゼンベルク様のお世話を仰せつかりました」
「あなたが?」
「はい。身支度やお食事のご用意など、生活全般を担当いたします。また、陛下のご命令により、私室での行動についても記録を取らせていただきます」
淡々とした説明だった。けれど、その声はどこか硬い。
アレクシスの身の回りを世話していた彼女にとって、自分は主人を殺したかもしれない人物なのだ。
「……よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
クラリスは礼をしたあと、衣装箱へ視線を向けた。
「まずはお召し替えを。必要なものは公爵家から届けられております」
「もう届いているのですか?」
「はい。奥様から、できる限り普段どおりに過ごせるようにとのお申し付けがございました」
エレノアは胸が温かくなるのを感じた。
「……お母様らしいですね」
「ええ」
クラリスはそう答えたが、それ以上は何も言わなかった。
エレノアが衣装箱へ近づくと、アレクシスも興味深そうに覗き込む。
「何が入ってるの?」
「アレクシス様」
「うん?」
「着替えますので、出ていってください」
「えっ」
「えっ、ではありません」
「僕、幽霊だよ?」
「関係ありません!」
思わず声が大きくなった。
クラリスが顔を上げる。
「……ローゼンベルク様?」
「な、なんでもありません!」
エレノアは慌てて取り繕った。
「少し……独り言を」
「……左様でございますか」
クラリスは不思議そうに瞬きをしたが、それ以上追及しなかった。
アレクシスは口元を押さえて笑っている。
(あなたのせいですからね!)
エレノアが目で訴えると、彼はようやく両手を上げた。
「はいはい。廊下で待ってるよ」
そう言って、壁をすり抜けていく。
エレノアは深い溜息をついた。
これから毎日、こんなことが続くのだろうか。
◇ ◇ ◇
身支度を終えると、今度は二人の男性が部屋を訪れた。
一人は、赤い髪と同じ色の瞳を持つ青年。もう一人は、整った身なりの、穏やかな表情をした青年だった。
「ユリウス……それに、フェリクス様」
エレノアは二人を見つめた。
ユリウスはアレクシスの幼なじみで、騎士見習いとして王宮に仕えている。
フェリクスは宰相の息子で、王宮の法務に関わる仕事を任されている人物だ。
どちらも、エレノアがよく知る顔だった。
「ローゼンベルク嬢」
先に口を開いたのはフェリクスだった。
「本日より、あなたの監視に関する手続きと記録の管理を担当いたします。どうぞよろしくお願いいたします」
いつもどおり、丁寧な口調だった。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「今回の措置は異例です。あなたが容疑者であることに変わりはありませんので、いくつか制限を設けさせていただきます」
「承知しております」
「ご理解いただけて何よりです」
フェリクスは穏やかに微笑んだ。
その表情には、好意も敵意も見えない。あくまで職務として接しているのだろう。
「移動を希望される場合は、事前に私どもへお申し出ください。必要な許可を確認したうえで、護衛を手配いたします」
「分かりました」
「なお、調査資料の閲覧については、弁護人を通じた正式な申請が必要です。すべての資料をお見せできるとは限りませんが、可能な範囲で対応いたします」
エレノアは頷いた。
自由に調べられるわけではない。それでも、牢の中にいたときよりはずっと前進している。
「それから」
フェリクスはユリウスへ視線を向けた。
「こちらのユリウスが、近接護衛と行動監視を担当します。騎士団の指揮下での任務となりますので、必要に応じてほかの騎士も同行いたします」
「……よろしくお願いします」
ユリウスが短く頭を下げた。その表情は硬かった。
「よろしくお願いいたします、ユリウス」
エレノアが微笑みかけても、彼は笑わなかった。
「任務ですから」
それだけだった。
アレクシスが隣で、困ったように眉を下げる。
「……ユリウス、怒ってるなあ」
エレノアにも、それは分かった。
幼い頃からアレクシスと親しかった彼にとって、今回の事件がどれほどつらいものか、想像に難くない。
だからこそ、エレノアは何も言わなかった。
自分が無実だと訴えるだけでは、彼の気持ちは変わらないだろう。
「以上が、基本的な監視体制となります」
フェリクスが書類を閉じた。
「クラリスは日常生活を、ユリウスは移動時の行動を、私は手続きと記録を担当します。それぞれ別の部署へ報告を行いますので、特定の者だけが判断を下すことはありません」
「……相互に監視する、ということですね」
「ええ。その方が公平でしょう」
フェリクスは微笑んだ。
「あなたにとっても、私どもにとっても」
エレノアは小さく頷いた。
確かに、そのとおりだ。誰か一人の判断で自分の行動が決められるよりは、ずっと安心できる。
もっとも、監視されること自体に慣れるには時間がかかりそうだった。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
エレノアは、弁護人との面会に向かうため、王宮の廊下を歩いていた。
少し前をユリウスが進み、後ろには護衛騎士が付いている。フェリクスも書類を抱えて同行していた。
クラリスは客室での準備を終え、侍女長への報告に向かっている。
そして、エレノアの隣には当然のようにアレクシスがいた。
「こうして歩くの、久しぶりだね」
「……そうですね」
「卒業式の前は、君がなかなか一緒に歩いてくれなかったから」
「その話は今しなくてもよろしいでしょう」
「でも、ちょっと嬉しいよ」
エレノアは返事に困った。
アレクシスが生きていた頃、自分はできるだけ彼と距離を取ろうとしていた。ゲームの結末を避けるためだった。
けれど今、彼と一緒に歩いている。
姿が見えるのは自分だけで、声も自分にしか届かない。
そんな状況になって初めて、もっと普通に話しておけばよかったと思うのだから、皮肉なものだった。
「……エレノア様」
前を歩いていたユリウスが振り返った。
「はい?」
「先ほどから、どなたとお話しに?」
エレノアは固まった。
アレクシスが、楽しそうにこちらを見る。
「……独り言です」
「……独り言?」
「はい」
「随分と、会話のように聞こえましたが」
「気のせいです」
ユリウスは何か言いたげだったが、結局それ以上は追及しなかった。
アレクシスは肩を震わせて笑っている。
(あとで覚えていなさい……!)
エレノアが心の中で叫んだ、そのときだった。
「あっ……!」
廊下の向こうから、小さな声が聞こえた。
振り返ると、一人の少女が立っていた。
柔らかな橙色の髪に、明るい緑の瞳。腕には、薄い布で包まれた小さな花束を抱えている。
リリアだった。
「ローゼンベルク様……!」
彼女は驚いたように目を見開いた。
「……リリア様」
エレノアも足を止めた。
ゲーム『花々は愛を知る』のヒロイン。
十三年間、できるだけ関わらないようにしてきた相手だった。
「……もう、出てこられたんですね」
リリアがぽつりと言った。
エレノアはわずかに眉を動かした。
「……ええ。陛下のご命令で、監視付きの移動を許されました」
「そうだったんですね……」
リリアはほっとしたように胸元へ手を当てた。
「よかった……」
「……よかった?」
「あっ、いえ、その……」
彼女は少し慌てた様子で首を振った。
「こんなことになってしまって、私、どうしたらいいのか分からなくて……。でも、ローゼンベルク様が無事で、本当によかったです」
その言葉には、嘘のない心配が滲んでいるように見えた。
エレノアは戸惑った。
自分はまだ、アレクシスを殺した容疑者だ。それなのに、リリアはまるで自分が無事であることを心から喜んでいるようだった。
「……ありがとうございます」
エレノアは慎重に答えた。
リリアは小さく頷いたあと、ふと視線をユリウスへ向けた。
「ユリウス様も、お疲れさまです」
「……ああ」
ユリウスの返事は短かった。けれど、先ほどエレノアへ向けたものより、わずかに柔らかい声だった。
リリアはそれに気づいたのか、少しだけ微笑んだ。
「無理はなさらないでくださいね」
「……分かってる」
そのやり取りを見て、エレノアは胸の奥に小さな違和感を覚えた。
リリアとユリウス。
ゲームの中では、互いの気持ちを理解し合うことで距離を縮めていく二人だった。
現実でも、彼らは親しいらしい。
それ自体は、何もおかしくない。
けれど――。
「……殿下のこと、本当に残念です」
リリアは腕の中の花束を見下ろした。
「私、まだ信じられなくて。ついこの間まで、あんなにお元気だったのに……」
「……はい」
「これ、殿下にお供えしようと思って」
リリアは花束を少し持ち上げた。
白い花の中に、淡い青色の花が混じっている。
エレノアは、その花を見た瞬間、息を止めた。
(……どうして、この花が?)
忘れるはずがない。
『花々は愛を知る』のアレクシスの恋愛イベント。
卒業式の日、彼がヒロインへ想いを告げる場面で贈る花だった。
花の名前も、色も、形も、記憶にあるものとよく似ている。
けれど、現実ではアレクシスはリリアを選ばなかった。
エレノアとの婚約も続いていた。
だから、あのイベントが起こるはずはなかったのだ。
「……その花は?」
エレノアは、できるだけ平静を装って尋ねた。
「ああ、これですか?」
リリアは花束へ視線を落とした。
「殿下に似合うと思って選んだんです。優しい色でしょう?」
「……ええ」
「本当なら、もっとおめでたい日に贈りたかったんですけど……」
その言葉に、エレノアの胸が小さく跳ねた。
「……おめでたい日、ですか?」
「はい。卒業式とか、そういう日に」
リリアは少し寂しそうに笑った。
「でも、もう叶いませんね」
エレノアは返事ができなかった。
卒業式。
その日、ゲームではアレクシスがリリアへこの花を贈るはずだった。
けれど、現実ではリリアがアレクシスへ贈ろうとしている。
それも、彼が亡くなったあとに。
偶然だろうか。
それとも――。
「……本当なら、あんなことにはならなかったはずなのに」
リリアが小さく呟いた。
エレノアの思考が止まった。
「……あんなこと、とは?」
「あっ……」
リリアは慌てて首を振った。
「ごめんなさい。変な言い方をしてしまって。ただ、卒業式はおめでたい日だったのに、こんなことになるなんて……」
「……そう、ですね」
エレノアは微笑んだ。
けれど、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚が残っていた。
(……本当なら、あんなことにはならなかった?)
その言葉自体は、おかしくない。
誰だって、卒業式の日に王子が亡くなるなど想像もしなかっただろう。
でも。
エレノアは知っている。
『花々は愛を知る』の卒業式では、アレクシスが死ぬ展開など存在しなかった。
あるのは、ヒロインと攻略対象が結ばれる幸福な結末。
あるいは、悪役令嬢が断罪される結末だけだった。
(……まさか)
エレノアはリリアを見つめた。
彼女が言ったことは、どれも偶然で説明できる。
けれど、もし。
もし、リリアもゲームの展開を知っていたとしたら。
卒業式の日に起こるはずだったことを、知っていたとしたら。
(……いいえ。まだ、何も分からないわ)
エレノアはすぐに考えを打ち消した。
今の段階で疑う理由にはならない。
けれど、覚えておく必要はある。
リリアが何を知っているのか。
そして、どうしてそれを知っているのか。
「ローゼンベルク様?」
リリアが不思議そうに首を傾げた。
「……いえ。なんでもありません」
エレノアは微笑んだ。
「お気遣い、ありがとうございます」
「いいえ。私にできることがあれば、何でも言ってくださいね」
リリアは明るく笑った。
その笑顔は、エレノアがゲームで見ていたものとよく似ていた。
だからこそ、胸の奥に生まれた小さな疑念を、完全には消せなかった。
◇ ◇ ◇
リリアと別れたあと、エレノアはしばらく黙って歩いていた。
アレクシスも、珍しく何も言わなかった。
やがて、彼が小さく口を開く。
「……リリアのこと、気になる?」
エレノアは思わず足を止めそうになった。
「……どうしてですか?」
「ずっと考え込んでるから」
「……少しだけ」
「何か理由がある?」
エレノアは答えに迷った。
ゲームのことを話すわけにはいかない。
けれど、嘘をつくのも違う気がした。
「……私の知っている彼女と、少し違う気がするのです」
アレクシスは首を傾げた。
「君、リリアと親しかったっけ?」
「…………」
その一言に、エレノアは言葉を失った。
そうだ。
自分はリリアのことを、ほとんど知らない。
知っているのは、ゲームの中の彼女だけ。
現実のリリアが何を考え、誰と親しくし、どんな日々を過ごしてきたのか。
エレノアは、何一つ知らなかった。
「……そうですね」
エレノアは小さく息を吐いた。
「私は、彼女のことをよく知りません」
「だったら、これから知ればいいんじゃない?」
「……簡単に言いますね」
「難しく考えすぎだよ」
アレクシスは笑った。
エレノアは少しだけ口元を緩めた。
そうかもしれない。
けれど、十三年間信じてきた物語の筋書きから、簡単に離れられるほど器用でもなかった。
廊下の先では、ユリウスが立ち止まり、こちらを振り返っている。
「エレノア様。そろそろ参りましょう」
「……はい」
エレノアは歩き出した。
最終審理まで、あと十四日。
自分が知っているはずの世界は、少しずつ知らない顔を見せ始めていた。
そして、その違いこそが、事件の真相へつながっているのかもしれなかった。




