第四話 最初の容疑者
王宮の一室で、エレノアは机の上に並べられた書類を見つめていた。
昨夜まで過ごしていた地下牢とは違い、窓からは柔らかな日差しが差し込んでいる。けれど、その明るさとは裏腹に、彼女の気分は少しも晴れなかった。
目の前にあるのは、アレクシスが倒れた夜の記録だった。
「……思ったより、少ないですね」
エレノアが呟くと、向かいに座っていたフェリクスが頷いた。
「現段階で開示を認められた資料は、こちらがすべてです。捜査の妨げになるおそれがある部分は伏せられています」
「承知しています。ありがとうございます」
「礼には及びません。正式な申請に基づく閲覧ですから」
フェリクスは穏やかに答えた。
その横には、エレノアの弁護人が座っている。公爵家が手配した年配の法律家で、朝から何度も資料の取り扱いについて確認していた。
部屋の扉近くにはユリウスが立ち、クラリスは壁際に控えている。
そして、エレノアの隣ではアレクシスが、興味深そうに書類を覗き込んでいた。
「僕の事件なのに、僕が読んでもいいのかな」
「……今さらでしょう」
思わず小声で返してしまい、エレノアは慌てて口を閉じた。
フェリクスが顔を上げる。
「何か?」
「い、いえ。資料の量が少なくても、確認すべきことは多いと思いまして」
「そのとおりですね」
幸い、フェリクスはそれ以上気にした様子もなく、書類へ視線を戻した。
アレクシスは隣で笑っている。
(あなたは少し静かにしていてください……!)
エレノアは心の中で抗議しながら、一枚目の書類を手に取った。
そこには、卒業祝賀会当日の茶葉の取り扱いについて記されていた。
エレノアがアレクシスへ贈った茶葉は、王宮の保管室に収められていた。
祝賀会当日、アレクシスがその茶葉を使うよう希望したため、係の侍女が保管室から取り出し、厨房へ運んだ。
そして、茶を淹れる準備が整えられた。
「……ここまでは、昨日クラリスから聞いた内容と同じですね」
エレノアが言うと、フェリクスが頷いた。
「ええ。複数の使用人からも、おおむね一致する証言が得られています」
「ただ、茶葉を取り出した方と、実際にお茶を淹れた方は別なのですね」
「はい」
エレノアは指先で書類の一行を示した。
「その間、茶葉はどこに置かれていたのでしょうか」
「厨房に隣接する準備室です」
「誰でも入れる場所ですか?」
「いいえ。使用人の出入りはありますが、関係者以外の立ち入りは制限されています」
「……つまり、絶対に誰も触れられなかったわけではないのですね」
フェリクスは少し考えてから答えた。
「そのとおりです。ただし、立ち入りが可能だったことと、実際に触れたことは別です」
「ええ。分かっています」
エレノアは頷いた。
推測だけで誰かを疑うわけにはいかない。
それは、リリアの件で改めて自分に言い聞かせたことでもあった。
アレクシスが書類を覗き込む。
「茶葉を運んだ人は、何か変わったことを見てないのかな」
エレノアはその言葉を頭の中で整理した。
「……運搬の途中で、誰かと接触した記録はありますか?」
フェリクスは別の書類を確認した。
「現時点では、特にありません」
「そうですか」
エレノアは小さく息を吐いた。
茶葉に毒が混入していた。
その事実だけは、変わらない。
けれど、誰が、いつ、どのように混入させたのかは、まだ分かっていなかった。
そもそも、アレクシスがその茶葉を使うよう希望したのは、祝賀会が始まってからだ。
最初からその茶葉が使われると知っていた人物は、いなかったはずだった。
(……本当に、いなかったのかしら)
エレノアは考え込んだ。
アレクシスが自分の贈った茶葉を好んでいたことを知る人物なら、いずれ使われると予想することはできたかもしれない。
けれど、それでも卒業祝賀会の夜に使われるとは限らない。
犯人は偶然の機会を利用したのか。
それとも、もっと別の方法でアレクシスに毒を飲ませたのか。
まだ、判断するには早かった。
「……次に、茶器について確認したいのですが」
エレノアが言うと、フェリクスは一枚の記録を差し出した。
「こちらです」
そこには、祝賀会当日に使用された茶器の管理記録が記されていた。
銀の装飾が施された茶器一式。
王宮の備品であり、祝賀会のために用意されたものだった。
使用前には侍女たちが点検し、異常がないことを確認している。
「……茶器に、破損はなかったのですね」
「使用前の点検では、そう報告されています」
「使用後は?」
フェリクスは一瞬、言葉を止めた。
「……茶器の一部が破損しています」
エレノアは顔を上げた。
「破損?」
「殿下が倒れられた際、茶器が床に落ちたためです」
エレノアはあの日の光景を思い出した。
アレクシスが苦しげに胸元を押さえ、身体を傾けた瞬間。
床に響いた、陶器の割れる音。
悲鳴。
駆け寄る人々。
そして、動かなくなったアレクシス。
「……そう、でしたね」
エレノアは小さく呟いた。
アレクシスが、隣から彼女を見つめる。
「……エレノア」
「大丈夫です」
彼女はほとんど息だけで答えた。
フェリクスが書類を置く。
「ご気分が優れないようでしたら、休憩を挟みましょうか」
「……いえ。続けさせてください」
「承知しました」
エレノアは深く息を吸い、改めて書類へ視線を戻した。
「破損した茶器は、現在どこに?」
「証拠品として保管されています」
「確認することは可能でしょうか」
「現物の閲覧には、別途許可が必要です」
「では、申請をお願いします」
弁護人が静かに頷いた。
「こちらで手続きを進めましょう」
「ありがとうございます」
エレノアは礼を言い、次の頁をめくった。
そこには、茶器に接触した可能性のある人物の名前が並んでいた。
侍女、給仕係、厨房の責任者。
祝賀会の準備に関わった者たち。
その中に、見慣れた名前があった。
エレノアは指を止めた。
「……え?」
もう一度、文字を確かめる。
間違いない。
そこに記されていたのは――。
レオナルド・フォン・ローゼンベルク。
自分の兄の名前だった。
「……お兄様?」
思わず声が漏れた。
アレクシスも書類を覗き込む。
「レオナルド?」
エレノアは顔を上げた。
「フェリクス様。こちらの記録について、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「はい」
「兄の名前があるのですが……」
フェリクスは書類を確認した。
「ええ。レオナルド卿ですね」
「兄が、茶器に触れたのですか?」
「祝賀会の準備中、茶器を手に取っていたという証言があります」
エレノアは息を呑んだ。
「……なぜ、兄が?」
「そこまでは、この記録にはありません」
フェリクスの口調は変わらなかった。
「ただし、関係者の証言によれば、レオナルド卿が茶器を確認していたことは事実のようです」
「……そう、ですか」
エレノアは書類へ視線を戻した。
兄が茶器に触れた。
それだけなら、何か理由があったのかもしれない。
レオナルドは昔から、物の形や装飾に強い関心を持っていた。
珍しい意匠の品を見つけると、つい手に取ってしまうこともある。
けれど、王宮の祝賀会で使われる茶器に、わざわざ触れる必要があったのだろうか。
しかも、その茶器は事件に使われたものだ。
(……お兄様が、そんなことをするはずがない)
真っ先に浮かんだのは、その思いだった。
けれど、エレノアはすぐに自分を戒めた。
身内だからといって、疑いから外していい理由にはならない。
自分が無実を訴えるのなら、ほかの人間についても公平に考えなければならない。
「……兄は、事情を聞かれているのでしょうか」
エレノアが尋ねると、フェリクスは頷いた。
「すでに確認が行われています。ただし、詳しい内容については、まだ開示の許可が下りておりません」
「……そうですか」
「ご希望であれば、弁護人を通じて面会を申請することは可能です」
エレノアは少し考えた。
兄を疑いたいわけではない。
むしろ、疑いたくなどなかった。
けれど、何も知らないままでは、兄の名前が記録に残っている理由すら分からない。
「……お願いします」
エレノアは静かに答えた。
「兄と、話をさせてください」
フェリクスは頷いた。
「承知しました。手続きを進めます」
その横で、ユリウスがわずかに眉を動かした。
エレノアは気づいたが、何も言わなかった。
アレクシスがそっと声をかけてくる。
「……エレノア」
「……はい」
「レオナルドは、僕のことを嫌ってなかったよ」
エレノアは彼を見た。
「……分かっています」
「むしろ、君のことを頼むって、何度も言われたくらいだし」
「……お兄様らしいですね」
エレノアは小さく笑った。
けれど、その笑みはすぐに消えた。
人を殺す理由は、嫌いだからとは限らない。
そして、どれほど親しい相手でも、知らない一面がないとは言い切れない。
エレノアは書類の上に置いた手を握りしめた。
◇ ◇ ◇
資料の閲覧を終えた頃には、窓の外が少しずつ夕暮れの色に染まり始めていた。
エレノアは客室へ戻る途中、廊下の窓から庭園を見下ろした。
色とりどりの花が咲いている。
卒業式の日には、あの庭園をアレクシスと歩くはずだった。
そんな未来を、当たり前のように思っていたわけではない。
むしろ、ゲームの結末を避けることばかり考えて、卒業後のことなどほとんど想像していなかった。
それでも。
こんな形で、その未来を失うとは思わなかった。
「……お兄様が、茶器に触れていたなんて」
エレノアは小さく呟いた。
アレクシスが隣に立つ。
「気になる?」
「……はい」
「でも、レオナルドには何か理由があったんじゃないかな」
「そう思いたいです」
エレノアは窓の外を見つめた。
「けれど、思いたいだけでは駄目なのでしょうね」
「……そうだね」
アレクシスは静かに頷いた。
少しの沈黙のあと、彼が口を開く。
「エレノア」
「はい?」
「君が誰を疑っても、僕は怒らないよ」
エレノアは顔を向けた。
アレクシスは、いつものように笑っていなかった。
「僕だって、何が起きたのか知りたい。だから、君が確かめたいと思うことは、全部確かめていい」
「……アレクシス様」
「それに、レオナルドならきっと、君が自分を疑ったとしても怒らないと思うよ」
「……どうでしょう」
「怒るとしたら、僕の方かな」
「え?」
「『妹をこんな事件に巻き込んでおいて、何をのんきに幽霊になってるんだ』って」
エレノアは思わず吹き出した。
「……お兄様なら、言いそうですね」
「でしょ?」
アレクシスは得意げに笑った。
その笑顔を見て、エレノアの胸が少しだけ軽くなる。
けれど、すぐに気を引き締めた。
兄が何をしていたのか。
茶器に触れた理由は何だったのか。
そして、アレクシスの命を奪った毒は、どこから来たのか。
確かめなければならないことは、まだ山ほどある。
エレノアは窓から離れ、ゆっくりと歩き出した。
最終審理まで、あと十三日。
最初に向き合う相手が、まさか自分の兄になるとは思ってもいなかった。




