第八章 逃れた神の名
強い名は、遠くからでも響く。
それが人の名であれ、神の名であれ、山の名であれ、口にする前から場の空気を変えるものがある。大和の宮にも、そういう名はいくつもあった。天照。素戔嗚。大国主。名を読み上げるだけで、木簡の上の墨が重くなるような名。
だが、出雲で聞くタケミナカタの名は、それらとは違っていた。
大国主の名は深く沈む。
事代主の名は水面に波紋を残す。
タケミナカタの名は、傷に触れる。
宇都志は、それを痛い名だと言った。
その意味を考えながら、私は朝の川辺を歩いていた。
昨夜の雨で川は少し増水していた。流れは濁り、岸辺の草を濡らしながら進んでいく。水面には空が映らない。昨日見た水たまりには空が映っていたのに、この川はすでに何かを運んでいるようだった。
沈んだ言葉は、水のあるところへ行く。
事代主の沈黙は、どこへ行ったのか。
そして、タケミナカタは何を運んだのか。
私は、昨日書いた木簡を思い返していた。
沈んだ言葉は、水のあるところへ行く。
後に諏訪にて聞くべし。
諏訪。
その地名は、まだ私にとって遠い。大和の木箱では信濃の一部として扱われる山の地。湖があり、水があり、古い神がいると聞く。出雲から東へ逃れた神が至った場所。だが、今の私はまだその湖を見ていない。
見ていないものを、記録の結末にしてはならない。
そう思う一方で、出雲で聞く言葉は何度も私を東へ向かわせようとする。
因幡の兎は、出雲へ至る道を示した。
出雲の神々は、諏訪へ続く流れを示している。
道とは、一本の線ではない。
話から話へ、沈黙から水へ、名から傷へ移るものなのかもしれない。
「真鹿人殿」
佐那が後ろから駆けてきた。
「朝からまた難しい顔です」
「いつもか」
「このところ、いつもです」
「それは困った」
「出雲に来てから、眉間に神が宿っています」
思わず笑ってしまった。
佐那は安心したように息を吐く。
「今日は、逃れた神の話ですね」
「ああ」
「正直、少し怖いです」
「なぜ」
「大国主の話は大きくて、事代主の話は静かでした。けれど、逃れた神の話は、動きそうです」
「動く?」
「はい。何かが、今でも追ってきそうな気がします」
佐那の感覚は、時に鋭い。
タケミナカタの話には、確かに動きがある。抗う。敗れる。逃れる。東へ向かう。大和の記録では、それは一連の筋として整理される。だが宇都志の語りでは、その動きの奥に別の意味が置かれようとしている。
逃げるとは、捨てることではない。持って行くことでもある。
「佐那」
私は川を見たまま尋ねた。
「もし逃げるとしたら、何を持って行く」
「え」
「急に逃げなければならないときだ。家を捨て、土地を離れ、戻れるか分からない。何を持つ」
佐那は真剣に考えた。
「食べ物です」
「まずそこか」
「まずそこです。腹が減れば逃げられません」
「ほかには」
「火打ち石。刃物。水袋。家族がいれば、家族」
そこで彼は少し黙った。
「あと、思い出のものを一つくらい」
「思い出」
「何も持たずに逃げたら、自分がどこの者だったか分からなくなりそうです」
私は佐那を見た。
彼はいつものように軽く言ったのではなかった。自分でも驚いたように、目を伏せている。
「自分がどこの者だったか」
私は繰り返した。
「タケミナカタも、それを持って行ったのかもしれないな」
「自分が出雲の者だったということですか」
「あるいは、出雲が何だったかを忘れないための何か」
佐那は川を見た。
「それは、重そうです」
「ああ」
重い。
逃れる者が持つ荷は、目に見えるものだけではない。火種、子、傷、恨み、約束。多加津の言葉も戻ってくる。佐那の言う思い出も、その中に入るのだろう。
その日、私たちは宇都志に会う前に、社の裏手のさらに奥を歩いた。
多加津が道を選んだ。彼は昨日の水辺への道を覚えており、そこから分かれる小道を見つけた。道と呼ぶには頼りない。だが、草の倒れ方、石の置かれ方、木の枝の折れ方に、人が通った跡がある。
「どこへ続く」
私が尋ねると、多加津は短く答えた。
「古い場所」
「なぜ分かる」
「新しい道は、迷わせない。古い道は、知っている者だけを通す」
また、道の話だった。
因幡でも、出雲でも、道はただの移動ではない。知る者だけが通れるもの。あるいは、知らない者だけが追えるもの。兎を追う道、神が逃れる道、沈黙が水へ沈む道。
道は、地面だけにあるのではない。
しばらく進むと、小さな開けた場所に出た。
そこには石があった。
ひとつではない。いくつもの石が、円を描くように置かれている。中央には何もない。ただ、そこだけ草が短く、土が黒く見えた。供え物はない。人の気配も薄い。だが、古い場所であることだけは、見れば分かった。
佐那が声を潜めた。
「ここは、何でしょう」
「分からない」
私は石の外側に立ち、内側へは入らなかった。
理由はない。ただ、入ってはいけない気がした。
多加津も入らなかった。彼は周囲を見てから、低く言った。
「何かを置いた場所だ」
「何を」
「今は、ない」
中央の空白。
因幡の祠を思い出した。空いたところ。かつて何かがあった。あるいは、これから何かが来る場所。ここも同じなのだろうか。
出雲には、空いた場所が多い。
大きな名の下に納められた場所。
言葉が沈んだ場所。
何かが東へ運び出された後に残った場所。
私は木簡を取り出さなかった。
代わりに、その場をしばらく見た。石の並び。中央の黒い土。周囲の木々。雨の後の湿った匂い。風の止まった感じ。
そこに何があったのかは分からない。
けれど、何かがなかったことにされた場所ではない。むしろ、何かがここから離れたことを覚えている場所のようだった。
佐那が私の横に立ち、囁いた。
「真鹿人殿。何か、持って行かれた後みたいですね」
私は頷いた。
彼も同じことを感じたのだろう。
「そうだな」
「逃れた神と関係がありますか」
「分からない。だが、今夜聞く話の前に、ここを見た意味はあると思う」
そのとき、背後から声がした。
「意味を急ぐなと言ったはずだ」
振り返ると、宇都志が立っていた。
昨日までと同じ粗い衣。雨に濡れたのか、裾に土がついている。彼は私たちを責めるでもなく、ただ石の円を見ていた。
「宇都志殿」
私は頭を下げた。
「ここは何ですか」
「答えを急ぐな」
「では、どう見れば」
「空いている、と見ればよい」
「因幡でも、同じような場所を見ました」
「なら、お前の目が少し開いたのだろう」
宇都志は石の外側に立ったまま、中央へは入らなかった。
「ここに何があったのか、私は語れる。だが、語ればお前はそれを答えにする。今は、空いていることを覚えろ」
「今夜の話に関わりますか」
「関わる」
それだけ言うと、宇都志は背を向けた。
「日が沈んだら、昨日の水辺へ来い。今夜は、歩きながら語る」
「歩きながら」
「逃れた神の話を、座って聞くな」
彼はそのまま林の奥へ消えた。
佐那が困った顔で私を見た。
「また重くなりましたね」
「ああ」
多加津が石の円を一度見て、短く言った。
「ここには長くいるな」
「なぜ」
「空いた場所は、戻ってくるものを待つ」
私はその言葉に、肌が冷たくなるのを感じた。
空いた場所は、戻ってくるものを待つ。
タケミナカタは、東へ何かを運んだ。
それは、いつか戻るものなのか。
それとも、戻らないからこそ、ここは空いているのか。
その問いを抱えたまま、私たちは宿へ戻った。
夕刻までの時間は長かった。
私は木簡を開いたが、何も書けなかった。空いた場所を見たことを、どう記せばよいのか分からなかったからだ。石の円。中央の黒い土。何かが運び出された後の気配。書けばすぐに、祭場、古祠跡、禁足地、などと名づけてしまいそうになる。
だが宇都志は言った。
空いている、と見ればよい。
私は結局、短く一文だけ書いた。
社奥、石の円あり。中央空く。意味を急がず。
それで筆を置いた。
日が沈むころ、空は赤くならなかった。
雲が厚く、光は灰色のまま薄れていった。出雲の夕暮れは、昼が夜に譲るというより、初めから夜が地面の下にいて、少しずつ上がってくるようだった。
私たちは水辺へ向かった。
昨日の雨で道はまだ湿っていたが、月は雲の裏にあるらしく、林は完全な闇ではなかった。水辺に着くと、宇都志はすでに待っていた。
「来たか」
「はい」
「今夜は、木簡を持て」
私は驚いた。
「出してよいのですか」
「持つだけだ。書くな」
私は頷き、木簡の束を手に持った。
「歩く」
宇都志はそう言って、水辺を離れた。
私たちは彼の後を追った。道は昨日の水辺からさらに奥へ続いていた。杉の林を抜け、低い丘へ上がる。足元には石が多く、濡れて滑りやすい。佐那は何度かつまずき、多加津が無言で支えた。
宇都志は振り返らずに語り始めた。
「大和の記録では、タケミナカタは抗う神だ」
「はい」
「力を示し、敗れ、逃げる」
「そう聞いています」
「分かりやすい話だ」
その言い方で、私はすでにそれだけでは足りないのだと悟った。
「抗ったのは、事実ではないのですか」
「抗った」
「敗れたのですか」
「敗れた」
「逃げたのですか」
「逃げた」
宇都志は歩き続ける。
「だが、抗うこと、敗れること、逃げること。その三つだけで神を閉じるな」
足元の石が、月のない光の中で鈍く見えた。
「タケミナカタは、強い名だ。強い名は、敗れたときに傷を深くする。人々はその傷を語りやすい。腕を取られた、力を砕かれた、追われた、逃げた。傷は形になるからだ」
「形になるから、記録しやすい」
「そうだ」
宇都志は頷いた。
「だが、傷だけを記録すると、なぜその神が東へ向かったのかが消える」
「なぜ、向かったのですか」
宇都志は立ち止まらなかった。
「出雲が、すべてを沈めなかったからだ」
「すべてを沈めなかった」
「大国主は土地に沈んだ。事代主は言葉を沈めた。だが、沈めてはいけないものもあった」
「それを、タケミナカタが運んだ」
「そう語る夜がある」
私たちは丘を越えた。
その先には、細い谷があった。谷の底を水が流れている。大きな川ではない。だが、岩の間を白く泡立ちながら流れるその水は、暗い中でもはっきり見えた。
宇都志は谷の入口で足を止めた。
「ここから先は、水の音を聞きながら歩け」
「なぜ」
「逃れる者は、水を探す」
多加津が頷いた。
「道を消せるからか」
宇都志は彼を見た。
「それもある」
「生きるためでもある」
「それもある」
「ほかには」
宇都志は水音を聞いた。
「運ぶためだ」
谷沿いの道を下りながら、彼は続けた。
「火は持てる。石も持てる。子も連れられる。だが、声や沈黙はどう運ぶ。土地に触れた跡はどう運ぶ。目に見えぬ縁はどう運ぶ」
「水ですか」
「水は形を持たない。器に従う。だが、流れを持つ。沈めたものを、遠くへ届かせることがある」
事代主の沈んだ言葉。
水のあるところへ行く。
「タケミナカタは、水を持って行ったのですか」
私は尋ねた。
「そう語る者もいる」
「出雲の水を?」
「水そのものではない。水の記憶だ」
「水の記憶」
「どこで人が住めるか。どこで川が暴れるか。どこで死者を流してはならぬか。どこで神に供えるか。大国主が土地に聞いて結んだ縁のうち、水に関わるもの」
私は息を呑んだ。
タケミナカタは、ただ逃れたのではない。
出雲が得た土地の知恵、水の知恵、結び方を東へ運んだ。
それが諏訪へ至り、湖の土地で別の神々と結ばれる。
まだ諏訪を見ていない私にも、その流れが少し見えた気がした。
「なぜ、そのような役目を彼が担ったのですか」
「強いからだ」
「力が」
「力も。名も。傷も」
宇都志は振り返った。
「傷ついた名は、遠くまで運ばれる。人は、勝った者の正しさよりも、敗れた者の傷を覚えることがある」
その言葉に、私は胸の奥が冷えた。
確かに、敗れた神の話は残る。追われた神、隠れた神、殺された神、封じられた神。傷は語りになる。語りになるから、土地を越える。土地を越えるから、別の地でまた根を張る。
「タケミナカタは、自ら運んだのですか」
「そう語る夜もある」
「では、別の夜は」
「運ばされた、と語る」
「誰に」
「大国主に。事代主の沈黙に。出雲の民に。敗れた者たちの目に。あるいは、土地そのものに」
宇都志の声は低かった。
「逃れる者が、自分の意思だけで逃れるとは限らぬ。背中を押すものがある。追う者だけではない。残る者の願いも、逃れる者を押す」
私たちは谷底へ降りた。
水は思ったより冷たく、足元の石を濡らしていた。宇都志は小さな平石の前で立ち止まった。その石には、細い溝が彫られている。自然の割れ目か、人の手によるものか分からない。
「触れろ」
宇都志が言った。
私は迷ったが、膝をつき、石に触れた。
冷たかった。
雨の冷たさではない。水の冷たさでもない。もっと奥から上がってくる冷たさだった。石の溝に水が流れ、指先を濡らす。
「これは何ですか」
「道の跡、と言う者もいる」
「神の道ですか」
「逃げた者の道でもある」
「タケミナカタの」
「そう語る夜もある」
また、その表現。
私は少し笑いそうになったが、笑わなかった。この曖昧さは逃げではない。語りをひとつに閉じないための作法なのだ。
宇都志は言った。
「ここで、水を受けたという語りがある」
「誰が」
「逃れた神が」
「何のために」
「出雲を忘れぬために」
私は指先の水を見た。
水を受ける。
それは出雲そのものを持ち運ぶことではない。だが、出雲を忘れないためのしるしになる。佐那が朝に言った、思い出のものと同じだ。逃げる者は、食べ物や火だけでなく、自分がどこの者だったかを失わないためのものを持つ。
神も同じなのかもしれない。
「その水は、諏訪へ届いたのでしょうか」
「諏訪で聞け」
宇都志は即座に言った。
「はい」
私は手を引いた。
冷たさが指先に残った。
多加津が石を見つめていた。
「水だけではないな」
宇都志は彼を見た。
「分かるか」
「水だけなら、器が要る」
「そうだ」
佐那が首を傾げた。
「器?」
多加津は短く言った。
「持ち運ぶなら、入れ物が要る」
宇都志は頷いた。
「水の記憶は、器なしには運べぬ」
「器とは何ですか」
私が尋ねると、宇都志は私を見た。
「名だ」
私は息を呑んだ。
ここへ来て、名に戻る。
「名は支配でもあるが、器でもある。何も名を持たぬものは、自由だ。だが、遠くへ運ぶには散りやすい。タケミナカタという強い名は、出雲の水の記憶を入れる器になった」
「強い名だから、運べた」
「そうだ」
「だが、その名は傷も運ぶ」
「そうだ」
宇都志は水音の中で言った。
「だから痛い名なのだ」
私はようやく、その意味を少し理解した。
タケミナカタの名は、単に敗れた神の名ではない。出雲の傷、水の記憶、残る者の願い、逃れる者の重荷を入れた器だ。強いからこそ壊れず、遠くへ運べる。だが、強いからこそ、そこに入れられた痛みも消えない。
「大和では、その名をどう扱う」
宇都志が尋ねた。
私は慎重に答えた。
「抗った神。敗れて、諏訪へ逃れた神」
「それは間違いではない」
「しかし、足りない」
「そうだ」
「では、私はどう書くべきでしょう」
宇都志は少し黙った。
「タケミナカタ、抗い、敗れ、東へ向かう。されど、ただ逃ぐるにあらず。出雲が沈めず残したものを、水の記憶として運ぶ。強き名、器となる。傷をも運ぶ」
私はその言葉を胸に刻んだ。
木簡に書きたい。だが今は書くなと言われている。私は手の中の木簡を握りしめた。
「覚えられるか」
宇都志が問う。
「覚えます」
「間違えてもよい」
私は顔を上げた。
「よいのですか」
「完全に覚えたと思う方が危うい。間違えたかもしれないと思いながら書け」
それは、記録官にとって不安な言葉だった。
だが、今の私には分かる。自分の記録に不完全さを残すこと。それは、語りを完全に所有しないための慎みなのだ。
谷を抜けると、再び小さな開けた場所に出た。
昼に見た石の円とは違う。こちらには一本の枯れた木が立っていた。幹は白く、枝は折れ、葉はない。だが根元には小さな石が積まれている。
宇都志はその木の前で立ち止まった。
「ここで、振り返ったという語りがある」
「誰が」
「逃れた神が」
「何を見たのですか」
「出雲を」
「見えますか、ここから」
周囲は林で囲まれ、社も川も見えない。
宇都志は首を振った。
「見えぬ」
「では」
「見えぬものを見るために、振り返ることもある」
私は黙った。
見えないものと、ないものは違う。
佐保の言葉が、また戻ってくる。
タケミナカタは、ここで出雲を振り返った。見えない出雲を。もう戻れない土地を。あるいは、自分の中に入れた出雲を。
「逃れる者は、何度も振り返る」
宇都志は言った。
「追手を恐れてか」
「それもある。だが、本当に恐ろしいのは、忘れることだ」
佐那が小さく息を呑んだ。
朝の彼の言葉と重なる。
何も持たずに逃げたら、自分がどこの者だったか分からなくなりそうです。
「タケミナカタは、出雲を忘れなかった」
私が言うと、宇都志は答えた。
「忘れてはならなかった」
「誰のために」
「出雲のために。諏訪のために。そして、彼自身のために」
「諏訪のためにも?」
「新しい土地へ入る者が、何も持たずに入れば、ただ呑まれる。持ちすぎれば、土地を壊す。何を持ち、何を置くか。それを誤れば、神は祟りになる」
私はその言葉に、第二部で待つ諏訪の気配を感じた。
タケミナカタは、諏訪を征服するのではない。出雲をすべて持ち込むのでもない。出雲から運んだものを、諏訪の古い神々とどう結び直すか。その物語が、次に始まる。
「諏訪には、すでに神がいたのですね」
「いる」
宇都志ははっきり言った。
「水の神。蛇の神。石の神。湖そのもの。名を持たぬものも、名を与えられたものも」
「そこへ、タケミナカタが入る」
「そうだ」
「受け入れられるのですか」
「諏訪で聞け」
また、それ以上は語られなかった。
宇都志は枯れ木の根元に、小さな黒い石を置いた。
「これは」
「今夜のしるしだ」
「何の」
「逃れる者は、何かを置いていく」
「持って行くだけではなく」
「持って行くために、置いていくものがある」
私は胸を衝かれた。
逃げるとは、捨てることではない。持って行くことでもある。
だが今夜、さらにその先を聞いた。
持って行くために、置いていくものがある。
「タケミナカタは、何を置いていったのですか」
「ここには、怒りを置いたと語る者がいる」
「怒りを」
「怒りをすべて持って行けば、諏訪は焼ける。怒りをすべて置いていけば、彼は彼でなくなる。だから一部を置き、一部を持った」
私は枯れ木を見た。
白い幹。折れた枝。根元の黒い石。
怒りを置いた場所。
そう聞けば、急にその枯れ木がただの木ではなくなる。だが同時に、意味を与えすぎているのではないかという怖さもあった。
「書くときは」
宇都志が私の迷いを読んだように言った。
「怒りを置いた、と断じるな。怒りを置いたと語る者あり、と書け」
「はい」
「語る者あり、は弱い言葉ではない」
私は頷いた。
大和の記録では、語る者あり、という表現は不確かなものとして扱われる。だが出雲では違う。それは、語りの余地を残す言葉だ。ひとつに閉じないための言葉だ。
私たちはさらに歩いた。
夜は深くなっていた。雲の切れ間から、半月が見える。出雲の月は、杉の梢の間を移動しながら、時折だけ姿を見せた。そのたびに、私は飛騨のことを思った。月に名を聞くな。月を見る者の目を見ろ。
まだ遠いはずの飛騨が、少しずつ近づいている。
やがて、道は社へ戻る方向へ曲がった。
宇都志は最後に、古い石段の前で立ち止まった。石段は苔に覆われ、上は闇に消えている。今は使われていない道のようだった。
「ここから先は、かつて東へ向かう道につながっていたと言う者がいる」
「今は」
「途切れている」
「なぜ」
「道は、歩かれなければ閉じる」
その言葉は、因幡から続く道の主題を締めるようだった。
道は残っているだけでは足りない。歩かれなければ閉じる。語りも、繰り返されなければ閉じる。記録も、読まれなければ閉じる。神も、呼ばれなければ消えるのかもしれない。いや、消えはしない。ただ、人の側からの道が閉じるのだ。
「お前は、ここから東へ行け」
宇都志は言った。
「出雲で聞くべきことは、もう終わりですか」
「まだ終わらぬ。だが、出雲だけで聞けば、出雲の中で閉じる」
「諏訪へ行けば、続きが聞ける」
「聞けるかどうかは知らぬ。だが、聞きに行かなければ、道は閉じる」
私は石段を見上げた。
苔に覆われた古い道。今は途切れた道。だが、語りの中ではまだ東へ続いている。
「タケミナカタは、この道を通ったのですか」
「そう語る夜もある」
「別の夜は」
「川を遡ったと言う。山を越えたと言う。獣道を行ったと言う。夢の中を行ったと言う者もいる」
「どれを信じれば」
「すべて持て」
「矛盾します」
「逃れる道は、ひとつではない」
私は静かに息を吐いた。
そうだ。ひとつの道だけを正しいとすれば、他の逃げ道は消える。逃れる者にとって、道がいくつもあることは生き延びるための条件だ。
「大和へ戻ったとき」
私は言った。
「私は、この話をどう説明すればよいのでしょう」
「説明するな」
「では」
「道を残せ」
宇都志は私を見た。
「大和が求めるのは、結論だろう。抗った。敗れた。逃げた。諏訪に鎮まった。それで筋は通る」
「はい」
「だが、お前はその筋の横に、道を残せ。出雲から諏訪へ何かが運ばれた可能性を残せ。水の記憶、沈んだ言葉、傷を入れた名。断じなくてよい。消すな」
消すな。
その言葉は、命のように聞こえた。
「分かりました」
「本当に分かったか」
私は少し黙った。
「分かりません。ですが、消さないように書きます」
宇都志は頷いた。
「それでよい」
夜の語りは、そこで終わった。
私たちは社の裏へ戻った。宇都志は古杉の前で足を止め、私に向き直った。
「明日、もう一度来い」
「まだ聞くことが」
「出雲の夜を閉じる」
「閉じる」
「東へ行くなら、出雲に別れを言わねばならぬ。別れを言わぬ者は、逃げたつもりで引きずられる」
「タケミナカタも、別れを言ったのですか」
「そう語る夜もある」
宇都志は、少しだけ笑った。
「明日は、その夜だ」
彼はそのまま杉の闇へ去った。
宿へ戻る道で、佐那はひどく静かだった。
「どうした」
私が尋ねると、彼は小さく答えた。
「逃げるって、もっと単純なことだと思っていました」
「私もだ」
「でも、何を持って行くか、何を置いていくか、何を忘れないかを決めなきゃいけないなら、逃げるのも大変ですね」
「そうだな」
多加津が前を歩きながら言った。
「逃げるのが下手な者は、死ぬ」
佐那は一瞬黙った。
「多加津殿は、逃げたことがありますか」
多加津はしばらく答えなかった。
やがて、短く言った。
「ある」
それ以上は言わなかった。
その沈黙に、私はもう意味を急がなかった。
宿に戻ると、私は灯火の前に座った。
今夜は書かなければならない。だが、書く前に、手を水で洗った。谷の石に触れた指先には、まだ冷たさが残っている気がした。
私は木簡を取り出した。
筆を持つ手が重い。だが、迷いを持てと言われた。間違えたかもしれないと思いながら書けと言われた。だから私は、確定の言葉を避け、語りの道を残すように書き始めた。
出雲夜、宇都志と歩く。
タケミナカタ、強き名、痛き名。
抗い、敗れ、東へ向かう。これを否定せず。されど、ただ逃ぐるにあらず。
出雲が沈めず残したものを運ぶと語る者あり。
水の記憶。土地に聞く術。沈んだ言葉。敗れた者の息。
強き名、器となり、傷をも運ぶ。
逃げるとは、捨てることのみにあらず。持って行くこと。
また、持って行くために置いていくこと。
怒りの一部を置いたと語る場所あり。断ずるべからず。
東への道、ひとつにあらず。
諏訪にて聞くべし。
私は筆を置いた。
木簡の文字は整っていなかった。ところどころ迷いが見える。だが、それでよいのかもしれない。整いすぎた文字は、整っていないものを消す。
佐那はすでに眠っていた。
多加津は入口のそばで、外を見ている。私は彼の背に向かって、静かに尋ねた。
「多加津」
「何だ」
「逃げたとき、何を持って行った」
多加津は答えなかった。
私は待った。
事代主の沈黙を聞いた夜のあとでは、この沈黙を急かすことはできなかった。
やがて彼は言った。
「名を変えた」
「持って行ったものではなく?」
「名を変えなければ、持って行けないものがあった」
「それは」
「今は言わぬ」
今は。
私は頷いた。
「分かった」
多加津は少しだけこちらを見た。
「分かったのか」
「分からない。だが、今は聞かない」
彼はまた外へ目を戻した。
「それでいい」
多加津の沈黙もまた、何かを運んでいるのだろう。
その夜、私は眠る前に空の木簡を取り出した。
書きたいことは増えていた。
兎は海を渡らない。
大国主は土地に残る。
事代主は言葉を沈める。
タケミナカタは水の記憶と傷を運ぶ。
どれも、空の木簡に書きたくなる言葉だった。
だが、まだ書かなかった。
この空白は、ひとつの神のためだけのものではない。もっと奥にあるものを待っている。名を与えれば奪われるもの。名を持つ前の夜の目。飛騨の月。
まだ私は、そこへ至っていない。
翌朝、出雲の空は薄く晴れていた。
社の方から、いつもの祈りの声が聞こえる。その中に、大国主の名があった。私はその名を聞きながら、昨日までとは違うものを感じていた。
大きな名は、小さなものを呑み込む。
だが、強い名は、遠くへ運ぶ器にもなる。
名は支配であり、器でもある。
ならば、名を拒む飛騨の民は、何を守ろうとしているのか。
名を持たぬ月は、何を運ばず、何を奪われずにいるのか。
問いは増えていく。
だが、今はまだ出雲だ。
今夜、出雲の夜を閉じる。
そして、その先に諏訪への道が開く。
私は木簡の束を背負った。
その重さは、出雲へ来たときよりも増していた。紙でも石でもない、木に刻まれた言葉の重さ。だが本当に重いのは、そこに書けなかった声の方だった。
逃れた神の名は、まだ耳の奥に残っている。
タケミナカタ。
強く、痛く、東へ向かう名。
その名の中で、出雲の水がまだ流れていた。




