第七章 事代主の沈黙
沈黙には、形がある。
大和にいたころ、私はそう考えたことがなかった。
沈黙とは、言葉がない状態だと思っていた。問われても答えないこと。答えるべき場で、声を出さないこと。あるいは、答えを持たないこと。記録官にとって沈黙は厄介だった。言葉がなければ書けない。書けなければ、記録に置けない。記録に置けなければ、後の者はそれを扱えない。
だから私たちは、沈黙にも意味を与える。
承諾。
拒絶。
畏れ。
服従。
敗北。
祈り。
どれかの名を与えなければ、沈黙は木簡の上に置けない。
だが、出雲に来てから、私は少しずつ分かり始めていた。
沈黙は、空ではない。
そこには、言葉にならなかったものが沈んでいる。言葉にすれば壊れるもの、言葉にすれば誰かを傷つけるもの、言葉にすれば都合よく拾われてしまうもの。あるいは、多すぎる声を聞きすぎて、ひとつの声として外へ出せなかったもの。
事代主の沈黙。
その名を思うたび、私は宇都志の言葉を思い出した。
沈黙は、承諾ではない。
聞いている、ということだ。
その日、出雲は朝から雨だった。
因幡で浴びた雨とは違う。因幡の雨は道を濡らし、白いものを浮かび上がらせる雨だった。出雲の雨は、音を低くし、土地の奥へ染み込んでいく雨だった。屋根を打つ音も、木の葉から滴る音も、川へ落ちる音も、すべてが何かを隠しているように聞こえる。
私は宿の軒下に座り、雨を見ていた。
佐那は朝から落ち着かなかった。
「雨の日は、歩くのも嫌ですが、じっとしているのも嫌ですね」
「どちらがよい」
「食べて寝るのがよいです」
「いつもと同じだな」
佐那は軽く笑ったが、すぐに表情を曇らせた。
「今夜も宇都志殿に会うのですか」
「そのつもりだ」
「昨日より、重い話になりますか」
「たぶん」
「大国主の話より重いのですか」
私は雨の向こうを見た。
「沈黙の話だからな」
佐那はしばらく黙り、それから小さく言った。
「私は、黙っている人が苦手です」
「なぜ」
「怒っているのか、悲しんでいるのか、考えているのか、何もないのか分からないからです」
「分からないのが嫌か」
「はい」
正直な答えだった。
私は少し考えた。
「私も、以前はそうだった」
「今は違うのですか」
「まだ嫌だ。だが、すぐに意味を決める方が、もっと怖くなってきた」
佐那は不思議そうに私を見た。
「意味を決めるのが怖い?」
「間違えれば、沈黙していた者の声を奪うことになる」
「でも、決めないと記録できないのでは」
「そうだ」
そこが、私を苦しめていた。
記録には形が要る。後の者が読めるよう、言葉にしなければならない。だが、言葉にするとは、ひとつの形を選ぶことだ。ひとつを選べば、他の形は薄れる。承諾と書けば、拒絶は消える。拒絶と書けば、聞いていた時間は消える。
書くとは、選ぶこと。
選ぶとは、消すこと。
それを理解し始めた今、筆は以前より重くなっていた。
多加津は入口近くで、雨具を点検していた。彼は私たちの会話を聞いていたのか、いないのか分からない。ただ、ふと短く言った。
「戦のあと、よく黙る者がいる」
佐那が振り返った。
「多加津殿が、ですか」
「皆だ」
多加津は布の結び目を確かめながら続けた。
「勝った者も黙る。負けた者も黙る。生き残った者も黙る。黙っている者を、勝ったから安堵した、負けたから悔しい、と決めると間違う」
「では、どうするのです」
「そばにいる」
それだけだった。
だが、出雲で聞くには十分すぎる言葉だった。
そばにいる。
沈黙に意味を与える前に、そのそばにいる。大和の記録官である私には、これまであまりなかった姿勢だ。私は聞き、書き、整理するために人の前に座ってきた。沈黙のそばに、ただいるためではなかった。
雨は昼を過ぎても止まなかった。
私は宿の主に、事代主について尋ねた。
宿の主は、濡れた薪を土間の隅に積みながら、私を見た。
「宇都志に聞くのだろう」
「はい。ただ、土地の方の声も聞きたいのです」
「事代主は、声の少ない神だ」
「だからこそ、聞きたい」
宿の主は少し笑った。
「大和の者がそれを言うとはな」
「おかしいですか」
「大和の者は、声のないところへ言葉を入れるのが好きだと思っていた」
返す言葉がなかった。
宿の主は、濡れた手を布で拭いた。
「事代主は、釣りをする神として語られることがある」
「はい」
「釣りをする者は、待つ」
「魚を」
「魚だけではない。潮を待つ。風を待つ。水の濁りが変わるのを待つ。糸の先に触れる、ほんの小さな動きを待つ。待てぬ者には、釣れぬ」
「沈黙は、待つことですか」
「そう聞く者もいる」
私は宇都志の言い回しと同じものを感じた。
そう語る者もいる。
そう聞く者もいる。
出雲の人々は、ひとつの答えに寄せるのを避ける。いや、避けているというより、ひとつの答えに寄せることが、語りへの不敬だと知っているのかもしれない。
「事代主は、何を待ったのでしょう」
私が尋ねると、宿の主は外の雨を見た。
「父の決断か。国の行く末か。海から返る声か。あるいは、自分の中で言葉が沈むのを待ったのか」
「言葉が沈む」
「浮いた言葉は軽い。軽い言葉で国は渡せない」
その言葉は、胸に残った。
浮いた言葉は軽い。
軽い言葉で国は渡せない。
宿の主はそれ以上話さなかった。
私は木簡に書こうとしたが、少し迷い、まず声に出さず口の中で繰り返した。事代主は待つ神。釣りをする者。潮を待ち、糸の先の小さな動きを待つ。沈黙とは、言葉が沈むのを待つこと。
それから、短く書いた。
事代主、待つ神とも聞く。
浮いた言葉にて国は渡せず。
沈黙、言葉の沈むを待つことか。
最後に「か」と付けた。
断定できなかった。いや、したくなかった。
夕刻になっても雨は細く続いていた。
宇都志に指定された場所へ向かうころ、空はすでに暗くなり始めていた。社の裏へ続く道は、昨日よりもさらに深く湿っていた。苔は水を含み、踏むと足元が沈む。杉の幹は黒く濡れ、根元の石は鈍く光っている。
昨日の古杉の下には、宇都志はいなかった。
代わりに、杉の奥へ続く細い道があった。昨日は気づかなかった道だ。人がよく通る道ではない。草が覆い、ところどころに小さな白い石が置かれている。因幡の白とは違う。これは潮に晒された白ではなく、雨に洗われた白だった。
多加津が道を見た。
「行くのか」
「宇都志殿が、こちらへ来いと言っているのかもしれない」
「言ってはいない」
「だが、道がある」
多加津は少しだけ目を細めた。
「道があるから進めるとは限らない」
「因幡でも似たことを言われた」
佐那が不安そうに辺りを見た。
「戻りませんか」
そのとき、奥から低い声がした。
「来たなら、入れ」
宇都志の声だった。
私たちは顔を見合わせ、細い道へ入った。
道は杉の林を抜け、やがて小さな水辺へ出た。池というほど広くはない。湧き水が溜まったような、静かな水面だった。雨が落ちているのに、水は不思議と大きく乱れない。周囲には石が置かれ、ひとつの石の上に古い釣り針のようなものが供えられていた。
宇都志は、水辺の向こう側に立っていた。
「ここは」
私が尋ねると、彼は答えた。
「聞く場所だ」
「祀る場所ではなく」
「祀る前に、聞く」
雨が水面に落ちる。小さな波紋がいくつも生まれ、すぐに重なり、消えていく。
宇都志は私たちに座るよう示した。
「今夜は、事代主の話をする」
私は頷いた。
「木簡は」
「出さない」
宇都志は満足したように、わずかに目を細めた。
「少しは覚えたな」
それは褒め言葉なのか、単なる確認なのか分からなかった。
宇都志は水面を見た。
「事代主は、言葉を司る神ともされる」
「名にも、こと、があります」
「そうだ。こととは、言であり、事である。言葉になったものは、事になる。事になったものは、人を動かす」
私は静かに聞いた。
「だから、言葉を持つ者は怖い。何かを言えば、それはただの音では済まぬ。国を渡すと言えば、国が動く。従うと言えば、人が従う。拒むと言えば、血が流れる」
雨音が少し強くなった。
「事代主は、それを知っていた」
宇都志の声は水面の上を滑るようだった。
「問われたとき、彼はすぐには答えなかった。答えれば、その言葉は自分のものではなくなる。大和のものになり、出雲のものになり、後の者のものになる。承諾として使われ、拒絶として使われ、正しさの証として掲げられる」
私の手が膝の上で固くなった。
それは、今の私のことでもあった。
私は言葉を聞き、木簡に移す。移された言葉は、語った者の手を離れる。大和へ戻れば、その言葉は問われ、削られ、整えられ、別の意味を与えられる。私が書いた時点で、すでに語りは語り手のものではなくなる。
「言葉は奪われるのですか」
私が尋ねると、宇都志は答えた。
「言葉は、使われる」
「使われることと、奪われることは違いますか」
「違う。だが、使う者によっては同じになる」
雨が水面に落ちる。
波紋が広がり、重なる。ひとつひとつの雨粒は別々なのに、水面ではすぐに見分けがつかなくなる。
「事代主は、何を聞いていたのですか」
私は問うた。
宇都志は水の上を見つめたまま語った。
「天つ神の使いの声を聞いた。国を渡せという声を聞いた。父の深い息を聞いた。海辺の民の不安を聞いた。山の民の怒りを聞いた。市を守る者たちの恐れを聞いた。子を抱く女の声を聞いた。戦えば死ぬ若者の声を聞いた。戦わずとも名を奪われる老人の声を聞いた」
私は息を詰めた。
「そして、自分の中の声も聞いた。従えば残る。拒めば誇れる。だが、誇りで人は食えぬ。残るために従えば、残ったものは何になる。沈めば消える。沈まねば使われる」
雨音が、急に遠くなったように感じた。
沈めば消える。
沈まねば使われる。
「だから、黙ったのですか」
「黙ったという語りがある」
「それは承諾ではない」
「承諾も含んでいたかもしれぬ」
私は宇都志を見た。
彼は静かに続けた。
「拒絶も含んでいたかもしれぬ。怒りも、恐れも、疲れも、父への情も、民への責も、海への未練も。沈黙は、それらを分けなかった」
「大和は、分けた」
思わず言っていた。
宇都志は私を見た。
「そうだ」
その肯定は重かった。
「大和は、沈黙を扱える形にした。扱える形にしなければ、国の記録に置けぬ。だが、扱える形になった沈黙は、もはや沈黙ではない」
私は水面を見た。
雨粒が落ち、波紋が生まれる。生まれたそばから、別の波紋と重なる。もしこの水面を木簡に描くなら、円をいくつか描けばよいのかもしれない。だが、重なり続ける波紋の変化は、決して描ききれない。
沈黙も同じなのだろう。
「では、私はどう書けばよいのですか」
その問いは、ほとんど悲鳴に近かった。
「書かなければ、大和では残りません。書けば、沈黙は沈黙ではなくなる。私は、何をすればよいのですか」
宇都志はすぐには答えなかった。
長い沈黙があった。
それは、私を突き放す沈黙ではなかった。私に答えを急がせないための沈黙だった。
やがて彼は言った。
「沈黙を、答えとして書くな」
「では」
「沈黙を、聞いている時間として書け」
「聞いている時間」
「事代主、問われて黙る、と書けば、後の者は勝手に意味を入れる。承諾、拒絶、畏怖、服従。そうではなく、事代主、諸々の声を聞き、言葉を沈める、と書け」
私は胸の内で、その文を繰り返した。
事代主、諸々の声を聞き、言葉を沈める。
それなら、沈黙が単なる空白ではないことを少しは残せるかもしれない。もちろん不完全だ。だが、承諾とだけ書くよりは、沈黙の形に近い。
「それは、大和で受け入れられるでしょうか」
「知らぬ」
宇都志はあっさり言った。
「だが、お前は聞いた」
その一言で、逃げ場がなくなった。
聞いた者が決めるしかない。
宿禰の言葉が戻ってくる。
私は聞いてしまった。ならば、聞かなかった者のようには書けない。
佐那は黙っていた。彼にしては珍しく、長く口を閉じている。多加津も動かない。三人とも、水辺の前で、事代主の沈黙のそばに座っていた。
宇都志は、石の上に置かれた古い釣り針を指した。
「釣る者は、糸を垂れる」
「はい」
「糸の先は見えぬ。水の下で何が触れたか、手に来るわずかな震えで知る。強く引けば逃げる。弱すぎれば気づかぬ。待ち、聞き、触れたものの重さを知る」
「事代主の沈黙も、それと同じですか」
「そう語る夜もある」
宇都志は釣り針を見つめた。
「彼は、国という大きな魚を釣ったのではない。沈めたのだ」
「何を」
「自分の言葉を」
私は水面を見た。
もし事代主が言葉を沈めたのなら、その言葉は消えたのか。水の底に残ったのか。底に残った言葉は、誰かに拾われることを待っているのか。それとも、拾われないために沈んだのか。
「沈んだ言葉は、どこへ行くのでしょう」
私が問うと、宇都志は言った。
「水のあるところへ行く」
「諏訪へも」
宇都志は、わずかに私を見た。
「そこへ結ぶか」
「タケミナカタが東へ何かを運んだなら、事代主の沈黙も運ばれたのではないかと思いました」
自分で言って、胸が高鳴った。
出雲で沈んだ言葉。
東へ運ばれた何か。
諏訪の湖。
それらが、ひとつの線でつながり始めていた。
「真鹿人」
宇都志は、私の名を静かに呼んだ。
「急ぐな」
「はい」
「だが、その考えは捨てるな」
「では」
「諏訪で聞け」
また、諏訪。
出雲の話は、どうしても東へ流れる。大国主は土地に残った。事代主は言葉を沈めた。タケミナカタは何かを運んだ。ならば出雲の傷も沈黙も、すべてここに閉じているわけではない。
東へ。
山へ。
湖へ。
私は諏訪へ向かわねばならないのだと、改めて思った。
「事代主は、最後に海へ入ったのですか」
私は尋ねた。
宇都志の目が細くなった。
「大和では、どう書く」
「身を隠した、と」
「海へか」
「そう語るものもあります」
「身を隠す、か」
また、きれいな言葉だと言われるのだろうと思った。だが宇都志は、今度はそう言わなかった。
「身を隠すとは、身を守ることではない」
「では」
「身を、言葉から離すことだ」
「言葉から」
「問われる場から離れる。答えとして使われる場から離れる。自分の体が、承諾の証にも拒絶の旗にもならぬよう、場から消える」
私は息を呑んだ。
事代主は、逃げたのではない。隠れたのでもない。自分の存在が、誰かの言葉として使われることを避けた。
それでも後の世は、彼の沈黙と身を隠したことを意味づける。
人は、空いた場所を見ると、そこに言葉を入れたがる。
私もそうだ。
「それでも、消えたことで意味を持ってしまった」
私が言うと、宇都志は頷いた。
「そうだ。消えることもまた、使われる」
なんと厳しいことかと思った。
語れば使われる。
黙れば意味を入れられる。
場に残れば証にされる。
消えれば物語にされる。
では、神も人も、どうすれば自分のままでいられるのか。
「だから、出雲は語る」
宇都志は言った。
「沈黙を、ひとつの答えにされぬように。消えた者を、都合よく使われぬように。語りは、死者や神を完全に守ることはできぬ。だが、ひとつに閉じることを遅らせることはできる」
「語りは、閉じることを遅らせる」
「記録は、閉じる力が強い」
私は胸を刺されたように感じた。
宇都志は責めてはいない。だが、記録官である私の仕事の性質を、これほどはっきり言われたことはなかった。
記録は閉じる。
確かにそうだ。木簡に書かれた言葉は固定される。固定されるから残る。だが、固定されるから動きを失う。語りは揺れる。揺れるから変わる。変わるから残れないこともある。だが、揺れるから閉じ切られない。
どちらが正しいのかではない。
どちらにも、失うものがある。
「私は、記録をやめるべきでしょうか」
思わずそう言っていた。
佐那が驚いた顔をした。多加津もこちらを見た。
宇都志は、静かに私を見た。
「やめれば、記録できる者がひとり減るだけだ」
「しかし、記録は閉じます」
「閉じる記録もあれば、開けたままにする記録もある」
「そのような記録が」
「お前が作ればよい」
それは、思いがけない言葉だった。
「私が」
「木簡にすべてを書けとは言わぬ。だが、木簡に余白を残すことはできる。断定を避けることはできる。異なる語りを並べることはできる。沈黙を承諾とだけ書かぬことはできる。拾わなかったものを、拾わずと書くことはできる」
波が戻るところに、名の字あり。拾わず。
私は因幡で書いた一文を思い出した。
拾わなかったことも、記録になる。
書かないことも、空白として残る。
「完全には守れぬ」
宇都志は言った。
「だが、少しは遅らせられる」
「閉じることを」
「そうだ」
私は雨の水面を見た。
波紋は重なり続けている。どれがどの雨粒から生まれたのか、すでに分からない。だが、水面に波紋が生まれ続けていることだけは見える。
記録も、そうできるのだろうか。
ひとつの答えに閉じるのではなく、波紋があったことを残す。すべてを写せなくても、重なりがあったことを残す。
「今夜、何を書けばよいですか」
私は尋ねた。
宇都志は少し考えた。
「事代主、沈黙す。されど、承諾と定めるべからず」
「はい」
「諸々の声を聞き、言葉を沈める。身を隠すとは、言葉として使われる場を離れること」
「はい」
「そして」
宇都志は水面を見た。
「沈んだ言葉は、水のあるところへ行く、と書け」
私はその言葉を深く受け止めた。
「諏訪への伏線として」
そう言いかけて、やめた。
これは物語の都合ではない。出雲の沈黙が、水を通じて東へ流れるという感触だ。まだ確定してはいけない。諏訪で聞くまで、これは問いとして持っていくべきものだ。
宇都志は、私が言葉を飲み込んだことに気づいたのか、わずかに頷いた。
「よい。今のは書くな」
「分かりました」
雨が少し弱まった。
水辺の暗さが、わずかに薄くなる。雲の向こうに月があるのかもしれない。光は見えないが、闇の濃さが少し変わった。
「今夜はここまでだ」
宇都志は立ち上がった。
私は慌てて言った。
「明日は、逃れた神の話を聞かせていただけますか」
「聞く覚悟はできたか」
「分かりません」
正直に答えた。
宇都志は、少し笑った。
「なら、聞ける」
彼は水辺から離れ、杉の奥へ向かった。
去り際、彼は言った。
「事代主の沈黙を、軽くするな」
「はい」
「沈黙を軽くする者は、言葉も軽くする」
その言葉を残し、宇都志は雨の杉林へ消えた。
私たちはしばらく水辺に座っていた。
佐那がようやく息を吐いた。
「黙っているだけでも、こんなに重いんですね」
「そうだな」
「私、今まで黙っている人に、早く答えてほしいと思っていました」
「私もだ」
多加津が立ち上がった。
「戻る」
その短い言葉も、今は以前と違って聞こえた。
多加津は、もともと言葉が少ない。私はそれを彼の性格だと思っていた。だが、言葉が少ないことにも、形がある。彼の沈黙は、周囲を聞くためのものかもしれない。言えば軽くなることを、言わずに置いているのかもしれない。
宿へ戻る道で、誰も話さなかった。
その沈黙は気まずいものではなかった。むしろ、それぞれが水辺に残された言葉を、自分の中で沈めているようだった。
宿に戻ると、私はすぐ木簡を取り出した。
今夜は、書くことから逃げてはいけないと思った。
だが、書く前にしばらく座った。雨で濡れた衣を替え、手を温め、水を飲み、宇都志の声が自分の中で少し沈むのを待った。
浮いた言葉は軽い。
軽い言葉で国は渡せない。
私は筆を取った。
出雲、水辺にて宇都志語る。
事代主、言と事の境に立つ神。
問われて沈黙す。されど、承諾と定めるべからず。
諸々の声を聞く。父の声、海の声、民の恐れ、戦の気配、残るための声、拒むための声。
沈黙とは、答えなきことにあらず。言葉を沈めること。
身を隠すとは、言葉として使われる場を離れること。
沈んだ言葉は、水のあるところへ行く。
後に諏訪にて聞くべし。
私は筆を置いた。
最後に「聞くべし」と書いたことで、この記録は結論ではなく、次の問いになった。それでよいと思った。少なくとも今は。
佐那が寝床からこちらを見ていた。
「書けましたか」
「少し」
「難しいですね。聞いたことを書くのに、こんなに時間がかかるなんて」
「聞いたことだからこそ、時間がかかるのかもしれない」
佐那は目を閉じた。
「私は、真鹿人殿が記録官でよかったと思います」
「なぜ」
「他の人なら、たぶんもっと簡単に書いていました」
私は少し黙った。
それは慰めなのだろう。けれど、その言葉をそのまま受け取るには、まだ私は自分を信じられなかった。
「簡単に書けないことが、良い記録になるとは限らない」
「でも、簡単に書いたら消えるものもあるのでしょう」
佐那は眠そうな声で言った。
「今日、そう聞いた気がします」
私は返事をしなかった。
佐那はすぐに眠りに落ちた。
多加津は入口のそばで、外の雨音を聞いている。私は木簡の文字が乾くのを待ちながら、空の木簡を取り出した。
まだ何も書かれていない。
けれど今夜、私はその空白の意味を少しだけ理解した気がした。
沈黙を、答えとして書くな。
沈黙を、聞いている時間として書け。
空白もまた、何もない場所ではない。何かを聞いている時間なのだ。
私は空の木簡を掌に置き、目を閉じた。
大和を出る前、宿禰はこれを最後まで書くなと言った。どうしても書かねばならぬと思うものに出会うまで、空のまま持っていろと。
今夜、書きたいと思った。事代主の沈黙を書きたいと思った。
だが、まだ違う。
事代主の沈黙は、すでに水に沈んでいる。私はその水の行く先をまだ見ていない。諏訪へ行き、湖の前に立ち、沈んだ言葉が本当にそこへ届くのかを聞かなければならない。
だから、空の木簡にはまだ書かない。
私はそれを再び布に包んだ。
夜更け、雨が止んだ。
雲が切れ、窓の外に月が出た。昨日よりも薄い光だった。雨に洗われた空に、月は静かに浮かんでいる。私はその月を見て、飛騨のまだ見ぬ民を思った。
月を名づけぬ民。
彼らは、月の沈黙を聞いているのだろうか。
それとも、月に名を与えないことで、月を使われる場から離しているのだろうか。
問いは、出雲を越えて広がっていく。
因幡の兎は、境を示した。
大国主は、土地に残った。
事代主は、言葉を沈めた。
そして明日、逃れた神が何を運んだのかを聞く。
私は月を見ながら、初めてはっきりと思った。
この旅は、大和へ神の名を持ち帰る旅ではない。
名になる前のもの。
名を失ったもの。
名にされることを拒んだもの。
それらが、どのように土地を渡り、水を渡り、山を越えて残るのかを追う旅なのだ。
翌朝、出雲の空は晴れていた。
雨に洗われた道は黒く光り、川の水は少し増えていた。社の方からは、いつもの祈りの声が聞こえる。大きな神の名が呼ばれ、人々はその名の下へ集まっていく。
私は宿の前で、濡れた土を踏んだ。
足元には、小さな水たまりがあった。そこに空が映っている。私はその水面を見下ろし、昨夜の言葉を思い出した。
沈んだ言葉は、水のあるところへ行く。
その水は、どこへ流れるのか。
川へ。
海へ。
湖へ。
そして、諏訪へ。
その前に、まだ出雲で聞くべき最後の痛い名がある。
タケミナカタ。
強い名。
痛い名。
逃れた神。
運んだ神。
私は木簡の包みを背負い直した。
今日の夜、出雲の語りは東へ動き始める。




