第五章 出雲の語り部
因幡を離れると、白いものは少しずつ減っていった。
道端の布は見えなくなり、浜の貝殻も、骨のような白い石も、やがて背後に遠ざかった。代わりに増えていったのは、低い山の影と、湿った風だった。
出雲へ近づくにつれ、空が重くなる。
それは天気のことだけではなかった。
山の端にかかる雲。
湿原の上に立つ霧。
川の水面に映る暗い木々。
道の脇にひっそり置かれた石。
すべてが、声を低くしているように見えた。
因幡では、境が白く開いていた。
出雲では、土地そのものが何かを抱え込んでいる。
佐那も、それを感じたのか、いつもより口数が少なかった。多加津は変わらず黙って歩いている。彼の沈黙は、出雲に近づいても揺れない。だが、歩幅だけが少し慎重になっているように見えた。
「多加津は、出雲へ来たことがあるのか」
私が尋ねると、彼は短く頷いた。
「ある」
「どんな土地だ」
「深い」
「山がか」
「土地が」
それ以上は言わなかった。
佐那が小さく笑う。
「多加津殿にしては、ずいぶん詩のようなことを言いますね」
「出雲では、浅いことを言うと、足を取られる」
「沼ですか」
「話に」
その言葉に、私は少し身構えた。
因幡では、兎を追う者は境を歩かされた。出雲では、話に足を取られるという。ならば、ここで聞く言葉は、木簡の上に真っ直ぐ写せるものではないのだろう。
昼過ぎ、私たちは大きな川を渡った。
水はゆるやかに見えたが、底には強い流れがあるらしい。渡し守の男は、私たちを舟に乗せる前に、荷を確かめた。
「木簡か」
「そうです」
「濡らすなよ」
「もちろんです」
男は鼻で笑った。
「大和の者は、木が濡れることばかり気にする」
「ほかに気にすることがありますか」
私が尋ねると、渡し守は櫂を手に取った。
「川を渡るなら、渡る前の名を置いていけ」
佐那が目を瞬いた。
「どういう意味ですか」
男は答えず、舟を押し出した。
水面が揺れ、舟底が軋む。川の中央へ出ると、岸の音が遠ざかった。風が湿り、流れの音だけが耳に残る。私は膝の上の荷を押さえた。
渡る前の名を置いていけ。
その言葉は、因幡で聞いた境の話と似ていた。人は土地を越えると、別の名で呼ばれる。佐保もそう言っていた。ならば出雲へ入るには、大和の記録官という名を少し置いていかねばならないのかもしれない。
だが、私は大和の記録官としてここへ来た。
名を置いていけば、何をもって聞けばよいのか。
名を持ったままでは、何を聞き落とすのか。
舟が対岸へ近づくと、渡し守は低く言った。
「出雲で最初に会う者には、急いで名を聞くな」
「なぜです」
「名より先に、声を聞け」
「声」
「名は、あとからついてくる」
舟が岸に着いた。
私は礼を言おうとしたが、渡し守はもう次の客を見ていた。彼にとって、私たちは川を渡る多くの者の一組にすぎない。だが、短い言葉だけは、川の水のように私の中へ入り込んだ。
名より先に、声を聞け。
それは、記録官にとって難しい命令だった。
私たちはさらに西へ進み、夕刻、出雲の社に近い集落へ着いた。
そこには、旅人のための宿があった。大和から来た使いも、他国の商人も、神事に関わる者も泊まるらしい。宿の主は私たちを見ると、私の荷に目を留めた。
「大和の記録官か」
まただ。
ここへ来るまで、何度その名で呼ばれただろう。私はまだ名乗っていないのに、人は私を見て大和の記録官と呼ぶ。私自身の名より、役目の名の方が先に立つ。
「真鹿人と申します」
あえてそう名乗った。
宿の主は少しだけ目を細めた。
「真鹿人殿。大和の記録官だな」
名を告げても、役目は消えない。私はそれを受け入れるほかなかった。
「出雲の語りを聞きに来ました」
「誰の語りを」
「大国主のこと。事代主のこと。国を譲った神々のこと。それから、逃れた神のことを」
宿の主は、その最後の言葉で表情を変えた。
わずかだった。だが、変わった。
「逃れた神、か」
「ご存じですか」
「出雲にいて、その名を知らぬ者はいない」
「では、誰に聞けば」
宿の主はしばらく考えた。
「宇都志に聞け」
「宇都志」
「語り部だ。だが、大和の者が聞きたい話を語るとは限らない」
「私は、聞ける話を聞きます」
そう言うと、宿の主は笑った。皮肉ではなく、どこか哀れむような笑いだった。
「出雲では、そう言って来る者ほど、聞けぬ話を欲しがる」
私は返答できなかった。
宿で荷を下ろしたあと、私はすぐに宇都志のもとへ向かおうとした。だが、多加津が止めた。
「夜に行くな」
「なぜ」
「語り部は夜に強い」
「なら、夜の方がよいのではないか」
「こちらが弱い」
佐那がうんうんと頷いた。
「私も今日は弱いです。足も腹も心も」
私は少し迷ったが、その日は休むことにした。
宿の部屋は簡素だった。板敷の上に藁を敷き、壁には潮と煙の匂いが染みついている。窓からは、遠くに黒い山の稜線が見えた。山の向こうに、出雲の神々がいる。そう思うと、木簡を開く手にも自然と力が入った。
私は、これまで書いた記録を読み返した。
兎を憐れむな。
白は納まらぬものの色。
波が戻るところに、名の字あり。拾わず。
歌は声に残すべし。
名より先に、声を聞け。
大和を出てから、私の木簡には、神名よりも問いが増えていた。
これでよいのか。
記録官として、私は役目を果たしているのか。
出雲へ着いたというのに、まだ大国主の名も、事代主の言葉も、逃れた神の足跡も書けていない。代わりに、兎と白布と波と声ばかりが残っている。
「焦っていますか」
佐那が寝転がったまま言った。
「そう見えるか」
「木簡を見る顔が、川を睨む多加津殿に似ています」
多加津は入口近くで刀の手入れをしていたが、何も言わなかった。
「私は、何を聞きに来たのか分からなくなっている」
口にしてから、自分でも驚いた。
佐那は上体を起こした。
「大国主のことを聞くのでは」
「そうだ」
「国譲りのことを」
「そうだ」
「逃れた神のことを」
「そうだ」
「なら、分かっているではありませんか」
彼の言葉は単純だった。だが、その単純さが、今は少し救いだった。
「佐那は迷わないのか」
「迷います」
「そうは見えない」
「私は、迷ったら腹が減ったことにします。食べれば、半分くらいの迷いは薄れます」
「残り半分は」
「寝ます」
多加津がぽつりと言った。
「それで足りることもある」
私は思わず笑ってしまった。
笑ったことで、自分の肩が強張っていたことに気づいた。
夜、外では風が吹いていた。
出雲の夜は、因幡の夜と違う。因幡では波が近く、白いものが闇の中にも浮かんでいる気がした。出雲では、闇が厚い。山と社と川が、すべて闇の中でつながっているようだった。
眠る前、私は空の木簡に触れた。
まだ何も書かれていない。
だが、不思議なことに、その空白は以前ほど軽くなかった。因幡の白を見たせいかもしれない。空白とは、何もないことではない。まだ納められていないものが、そこに留まっている状態なのかもしれない。
翌朝、私たちは宇都志を訪ねた。
彼の住まいは、集落の端にあった。大きな社へ続く道から少し外れ、古い榎の木の下に低い家が建っている。戸口には、何の印もなかった。白布も、神名を書いた札もない。
ただ、木があった。
幹は太く、根は地を掴むように広がっている。木の下に立つと、葉の影が顔に落ちた。朝だというのに、そこだけ少し夕方のように暗い。
私は戸口で声をかけた。
「宇都志殿はいらっしゃいますか」
返事はなかった。
もう一度呼ぼうとしたとき、背後から声がした。
「名を先に呼ぶのか」
振り返ると、木の根元に男が座っていた。
いつからそこにいたのか分からない。年は四十を越えているだろう。髪には白いものが混じり、頬は痩せている。だが目は静かで、笑っているのか怒っているのか読めなかった。
「失礼しました」
私は頭を下げた。
「大和から参りました。真鹿人と申します」
「それが名か」
「はい」
「役目は」
「記録官です」
「なら、そちらの方が本当の名だな」
私は言葉に詰まった。
男は立ち上がり、榎の幹に手を置いた。
「宇都志と呼ぶ者もいる」
「あなたが」
「そう呼ばれることがある」
佐保と似た言い方だった。名を自分のものとして差し出さない。誰かにそう呼ばれる、という形でしか出さない。
私は渡し守の言葉を思い出した。
名より先に、声を聞け。
遅かったかもしれない。私はすでに名を呼んだ。だが、ここからでも声を聞くことはできるはずだった。
「お話を伺いたく参りました」
「どの話を」
「出雲の神々のことを」
「出雲に神は多い」
「大国主のことを」
「大きな名だ」
「事代主のことを」
「静かな名だ」
「逃れた神のことを」
宇都志の目が、少しだけ変わった。
「痛い名だ」
痛い名。
その表現に、佐那がちらりと私を見た。多加津は背後で黙っている。
「痛い、とは」
「語ると、まだ痛む」
宇都志は家の中へ入らず、榎の下に座った。私たちにも座るよう、手で示す。
私は向かいに腰を下ろした。
「木簡は出すな」
最初にそう言われた。
私は荷へ伸ばしかけた手を止めた。
「書いてはならないのですか」
「今は」
また、その言葉だった。
今は。
出雲でも因幡でも、人はすぐにすべてを禁じるわけではない。ただ、今は、と言う。その「今」は、時間のことだけではないのだろう。関係がまだ浅い、声を聞く前である、土地に許されていない。そうしたものが、すべて含まれているように思えた。
「では、聞きます」
私が言うと、宇都志はしばらく私を見た。
「大和では、国譲りをどう書いている」
「大国主が国を造り、天つ神の使いが来て、国を譲ることになった、と」
「譲ったのか」
「そう記録されています」
「そうか」
宇都志は榎の葉を見上げた。
「譲るという言葉は、きれいだな」
私は黙った。
「譲る者は、乱れを起こさない。譲られる者は、奪ったことにならない。譲るという言葉を使えば、血の匂いは薄くなる」
「血が流れたのですか」
「お前は、血が流れなければ国が移ると思うか」
答えられなかった。
大和の記録では、国譲りは神々の交渉として語られる。荒ぶるものは鎮められ、神は納得し、国は移る。そこに血の匂いは薄い。
だが、宇都志の声には、乾いた土の下に残る血のようなものがあった。
「大国主は敗れたのですか」
私が問うと、宇都志はすぐには答えなかった。
榎の葉が風に揺れる。木漏れ日が彼の顔を移動し、皺を浮かび上がらせる。
「敗れた神は、普通は消える」
「はい」
「だが、大国主は消えなかった」
「だから、大きな神なのでは」
「違う」
宇都志は静かに首を振った。
「消えなかったから、大きな神にされたのだ」
私はその言葉を胸の中で繰り返した。
消えなかったから、大きな神にされた。
「どういう意味ですか」
「土地が忘れなかった。山も、川も、海辺の市も、縁を結ぶ者も、病を癒やす者も、旅をする者も、皆がその名を呼び続けた。消そうとしても、消えなかった。ならば、小さく残すより、大きな名として納めた方がよい」
「大和が、そうしたと」
「大和だけではない。出雲もそうした」
「出雲も」
宇都志は頷いた。
「残すために、大きくした。大きくすれば、多くのものがその中に入る。だが、大きくしすぎれば、中に入った小さな声は聞こえにくくなる」
白兎も、白い石も、浜の骨も、波が戻る音も。
佐保の言葉が蘇った。
大きな名は、小さなものを呑み込む。
「大国主という名の中に、多くの神が入っているのですか」
「それを大和の記録官に言えば、どう書く」
私は返答に詰まった。
同一神の異伝。
集合された土地神。
大国主の神格の広がり。
そんな言葉が浮かんだが、どれも宇都志の声には合わなかった。
「分かりません」
正直にそう言うと、宇都志はわずかに笑った。
「それなら、まだ聞ける」
私は息を吐いた。
「大国主は、国を譲ったのではないのですか」
「譲った」
「では」
「残った」
宇都志の声は低かった。
「国を譲り、土地に残った。そこが大事だ」
「国を譲ることと、土地に残ることは違うのですか」
「国は、上から数えるものだ。土地は、下から触れるものだ」
私は目を伏せた。
国は上から数える。
土地は下から触れる。
記録官である私は、国を数えてきた。どの土地がどの国に属し、どの神がどの系譜に置かれ、どの氏がどの祖を持つのか。それは上から見た形だった。
だが土地は、足の裏にある。水を飲み、土を踏み、風を受け、石に頭を下げる。そこに残る神は、国が移っても消えない。
「大国主は、土地に残った神」
私がそう呟くと、宇都志は頷いた。
「そう語る者もいる」
「あなたは」
「私は、語りを預かる者だ。ひとつを本当とは言わない」
「では、何を信じているのですか」
宇都志は少し黙った。
「信じるのではない。繰り返す」
「繰り返す」
「語りは、信じる者だけのものではない。疑う者も、怒る者も、忘れかけた者も、繰り返すことで残す。私の役目は、信じることではなく、途切れさせないことだ」
私は、老婆の歌を思い出した。
歌は、声でなければ皮だけになる。
語りも同じなのだろう。木簡に写せば、語りの皮だけが残る。声の湿り、間、苦さ、言い淀み、風の音。それらは剥がれ落ちる。
「事代主の沈黙について、聞かせてください」
私が言うと、宇都志は目を伏せた。
「大和では、どう書く」
「天つ神の使いに問われ、事代主は父神に国譲りを勧めた、と」
「それだけか」
「その後、身を隠したとも」
「身を隠した」
宇都志は、その言葉を舌の上で転がすように繰り返した。
「きれいな言葉だ」
まただ。
譲る。
身を隠す。
大和の記録にある言葉は、宇都志にとってきれいすぎるらしい。
「違うのですか」
「違うと言えば、大和は喜ぶか」
「喜びはしないでしょう」
「怒るか」
「内容によります」
「ならば、内容を大和が決めることになる」
私は返す言葉を失った。
宇都志は、私を責めているわけではない。ただ、私の背後にあるものを見ている。大和の宮。木簡の山。系譜を整える手。削られる文字。
「事代主は、沈黙した」
宇都志は言った。
「はい」
「沈黙は、承諾ではない」
私は顔を上げた。
「では、拒絶ですか」
「それも違う」
「では、何ですか」
宇都志は榎の根元に手を置いた。
「聞いている、ということだ」
「聞いている」
「父の声を。海の声を。国を渡せと言う者の声を。渡せば生き残る声を。抗えば滅びる声を。土地に残れと言う声を。海へ沈めと言う声を。すべてを聞いて、黙った」
私は息を呑んだ。
沈黙とは、答えを持たないことではない。
多すぎる声を聞いた結果、ひとつの言葉にできなかったもの。
「大和は、沈黙を答えにした」
宇都志は言った。
「出雲は、沈黙を傷にした」
その声は静かだった。静かすぎて、かえって深く刺さった。
佐那は俯いていた。多加津も目を伏せている。
私は、木簡を取り出したい衝動に耐えた。この言葉は書かねばならない。そう思った。だが、今書けば、宇都志の声を聞くより、文字を追ってしまう。
名より先に、声を聞け。
私は両手を膝の上で握った。
「逃れた神について、聞かせてください」
私が言うと、宇都志はしばらく沈黙した。
風が止まった。
榎の葉も動かない。遠くの鳥の声も聞こえない。まるで、土地そのものが息を潜めたようだった。
やがて宇都志は言った。
「その名を、大和ではどう書く」
私は答えた。
「タケミナカタ」
その名を口にした瞬間、空気が変わったように思えた。
榎の根元の影が濃くなる。佐那が無意識に姿勢を正す。多加津の手が膝の上で動きを止める。
宇都志は私を見ていた。
「その名は、強い」
「はい」
「強い名は、人を守る。だが、時に人を縛る」
「その神は、抗ったのですか」
「抗ったと語られる」
「逃れたのですか」
「逃れたと書かれる」
「では、本当は」
宇都志は首を横に振った。
「本当を求めるな」
「なぜですか」
「本当という名を与えた瞬間、ほかの語りが死ぬ」
私は唇を閉じた。
この旅で、何度も似たことを言われている。だが、出雲で聞くその言葉は、より重かった。ここには、神話の中心がある。大きな名があり、大きな傷があり、大きな沈黙がある。
「では、どう聞けばよいのですか」
「いくつも聞け」
「矛盾しても」
「矛盾ごと覚えろ」
「記録には」
「記録は後だ」
宇都志の声は厳しかった。
「タケミナカタは、抗った。そう語る者がいる。力を誇り、腕を取られ、敗れたと。タケミナカタは、逃げた。そう書く者がいる。東へ追われ、諏訪に至ったと」
「あなたは」
「私は、別の語りも預かっている」
「聞かせてください」
宇都志は榎の幹に背を預けた。
「タケミナカタは、運んだ」
「運んだ」
「出雲が失ってはならぬものを、東へ運んだ」
私は思わず身を乗り出した。
「それは何ですか」
「名かもしれぬ。水かもしれぬ。石かもしれぬ。敗れた者たちの息かもしれぬ。国を譲ったあとも土地に残るための、もう一つの道かもしれぬ」
「つまり、逃げたのではなく」
「逃げた。だが、ただ逃げたのではない」
宇都志は静かに言った。
「逃げるとは、捨てることではない。持って行くことでもある」
私はその言葉に、因幡の兎を思い出した。
皮を失い、名を失い、なお先へ行くもの。
その血の跡を追えば、出雲の門は開かれる。
兎は出雲へ導いた。
タケミナカタは、出雲から東へ何かを運んだ。
道は、そこで終わらない。
「諏訪へ行け」
宇都志は言った。
私は顔を上げた。
「やはり、そこへ」
「大和は、出雲で話を終わらせたいだろう」
「国譲りとして」
「そうだ。だが出雲の話は、そこで終わらない。東へ流れたものがある。諏訪の湖へ入ったものがある。そこで別の土地の神と結び直されたものがある」
「結び直された」
「神は、土地を移ると変わる」
「神が変わるのですか」
「人が変わる。呼び方が変わる。祭りが変わる。恐れ方が変わる。ならば、神も変わる」
大和の記録では、神は系譜の中で固定される。父があり、子があり、土地がある。だが宇都志は、神は移れば変わると言う。
それなら、タケミナカタは出雲の神であり、諏訪の神でもある。敗れた神であり、運ぶ神でもある。逃れた神であり、結び直す神でもある。
ひとつの名では足りない。
私は第一章の朝、自分が同じことを考えていたのを思い出した。
名は、ひとつでは足りない。
だがそのとき私は、足りない名を整えようとしていた。今は、名が足りないことそのものに意味があるように感じていた。
「宇都志殿」
「何だ」
「あなたは、なぜ私にそこまで話すのですか」
彼は少しだけ笑った。
「お前が、まだ書いていないからだ」
私は膝の上の手を見た。
確かに、私は木簡を出していない。
「書いたら、話していただけませんか」
「書く者にも話す。だが、書く前に聞いた者と、書きながら聞いた者では、残るものが違う」
「何が違うのですか」
「書きながら聞く者は、言葉を持ち帰る。聞いてから書く者は、声の重さを持ち帰る」
声の重さ。
それは木簡には載らない。だが、木簡を書く手を変えるものなのかもしれない。
「今日はここまでだ」
宇都志は立ち上がった。
「まだ、大国主についても、事代主についても、逃れた神についても、十分に聞けていません」
「十分に聞ける日などない」
「ですが」
「明日の夜、社の裏へ来い」
「夜ですか」
「出雲の神は、昼にすべてを見せない」
多加津がわずかに眉を寄せた。
「危ないか」
宇都志は多加津を見た。
「危ない話はする」
「場所は」
「古い杉のあるところだ。宿の者に聞けば分かる」
そう言うと、宇都志は家の戸を開け、中へ入った。戸が閉まる直前、彼は私に言った。
「真鹿人」
初めて、彼は私の名を呼んだ。
「はい」
「出雲では、神を探すな」
「では、何を」
「残ったものを探せ」
戸が閉じた。
私たちはしばらく榎の下に立っていた。
佐那が小さく言った。
「出雲の人は、どうして皆、謎を置いて去るのでしょう」
「たぶん、謎ではないのだ」
私は答えた。
「では何です」
「こちらが、まだ受け取れていないだけなのだと思う」
多加津は何も言わず、道へ歩き出した。
宿へ戻る途中、私は川の音を聞いた。出雲の川は、因幡の波とは違う。流れているのに、どこか土地の奥へ沈んでいくような音がした。
宿に戻ると、私はすぐには木簡を開かなかった。
まず、水を飲み、手を洗い、濡らした布で顔を拭いた。それから、宇都志の声を思い出した。
譲るという言葉は、きれいだな。
消えなかったから、大きな神にされた。
国は、上から数えるものだ。土地は、下から触れるものだ。
沈黙は、承諾ではない。聞いている、ということだ。
逃げるとは、捨てることではない。持って行くことでもある。
出雲では、神を探すな。残ったものを探せ。
私はようやく木簡を取り出した。
だが、すべては書かなかった。書けば、まだ声の形が固まりすぎる気がした。だから短く、ところどころを空けて書いた。
出雲、宇都志。
大国主、国を譲り、土地に残る。
事代主の沈黙、承諾にあらず。多くを聞く沈黙。
タケミナカタ、逃げし神にあらず。ただ逃げしにもあらず。
何かを東へ運ぶ。
諏訪へ行くべし。
神を探すな。残ったものを探せ。
書いたあと、私はしばらく筆を置けなかった。
これは、記録として不完全だ。
けれど、完全に書こうとすれば、もっと大事なものが抜け落ちる。
佐那が後ろから覗き込もうとしたので、私は木簡を伏せた。
「見せてくれないのですか」
「まだだ」
「皆、今は、まだ、と言いますね」
「私も言うようになったらしい」
佐那は苦笑した。
「出雲に染まってきましたね」
「そうかもしれない」
その夜、私はなかなか眠れなかった。
宇都志の言葉が、何度も戻ってくる。特に、ひとつの言葉が胸に残った。
逃げるとは、捨てることではない。持って行くことでもある。
出雲から諏訪へ逃れた神。
彼は何を持って行ったのか。
名か。
水か。
石か。
敗れた者の息か。
それとも、出雲が大和に渡さなかった、最後の沈黙か。
私は荷の奥から、空の木簡を取り出した。
書きたいことが増えている。だが、まだそこへは書けない。空白は、以前よりも強く私を見返しているようだった。
私は木簡を手にしたまま、窓の外を見た。
出雲の夜は暗い。けれど、その暗さの底には、何かが残っている。消えなかったもの。大きな名に納められても、なお小さく息をしているもの。
そのとき、遠くで低い音がした。
雷かと思った。だが空は晴れている。山の方から、地の底が鳴るような音が一度だけ響いた。
佐那が寝返りを打った。多加津は入口のそばで目を開けている。
「今のは」
私が尋ねると、多加津は短く答えた。
「太鼓だ」
「こんな夜に」
「社だろう」
社。
明日の夜、宇都志は社の裏へ来いと言った。
出雲の神は、昼にすべてを見せない。
私は空の木簡を布に包み直した。
翌日の夜、何を聞くことになるのか。
それはまだ分からない。
けれど、私はもう大和を出たときの私ではなかった。
あのときの私は、神の名を数えるために旅立った。
因幡で、名を失ったものの道を見た。
出雲で、国を譲ってなお土地に残る神の声を聞いた。
そして次に聞くのは、おそらく沈黙の奥にあるものだった。
夜の底で、もう一度太鼓が鳴った。
低く、遠く、土地の内側から響くように。
それは、神を呼ぶ音というより、まだ消えていないものが、ここに残っていると告げる音のようだった。




