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月を隠した国  作者: 月読 龍
出雲、兎は海を渡らない
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第四章 兎は海を渡らない

 因幡へ入る道は、白かった。


 はじめは、気のせいだと思った。

 雨に洗われた石が、朝の光を受けて白く見えているだけだと。


 だが、歩くほどに白いものは増えていった。


 道の脇に置かれた小石。

 木の枝に結ばれた布。

 川辺に落ちている鳥の羽。

 浜へ近づくにつれて混じり始めた、砕けた貝殻。


 佐保の言葉が、何度も思い出された。


 白いものを探せ。

 布、石、鳥、骨。

 因幡へ近づくほど、白いものが道に増える。


 それは確かに目印のようでもあった。けれど、目印と呼ぶにはあまりに頼りない。道を示すには、小石は小さすぎ、布は風に揺れすぎ、羽は軽すぎた。


 目印と思えば、目印になる。

 思わなければ、ただの白いものだ。


 佐保はそう言った。


 私は歩きながら、その言葉の意味を考えていた。


 記録も同じなのかもしれない。


 木簡に書かれた名は、ただの墨の跡にすぎない。

 だが、そこに神を見ようとする者には、神の名になる。

 そこに国を見ようとする者には、国の形になる。

 そこに支配を見ようとする者には、支配の証になる。


 目印とは、そこにあるものではなく、見る者が道と結んだものなのかもしれない。


 「また考えていますね」


 佐那が横から言った。


 「歩きながら考えると転ぶのではなかったか」


 「真鹿人殿が転ぶ前に、声をかけているのです」


 「助かる」


 「皮を剥がれた兎のように転ばれては困りますから」


 冗談めかして言った佐那の言葉に、多加津が少しだけ眉を動かした。


 「因幡で兎を軽く言うな」


 「申し訳ありません」


 佐那は素直に頭を下げた。


 この数日で、彼は多加津の短い言葉に逆らわない方がよいと覚えたらしい。


 私は多加津を見た。


 「因幡では、白兎は神なのか」


 「場所による」


 「人によって違うということか」


 「浜の者、山の者、商いの者、祀る者で違う」


 「多加津はどう聞いた」


 多加津はしばらく黙った。


 彼の沈黙は、出雲の沈黙とも、佐保の沈黙とも違う。隠しているというより、言葉にする必要を吟味しているような沈黙だった。


 「兎は、海を渡らない」


 やがて彼は言った。


 「宿禰も同じことを言った」


 「なら、そうなのだろう」


 「だが、話の中では渡る」


 「話は、足で歩かない」


 私はその言葉をしばらく考えた。


 話は、足で歩かない。


 ならば、海を渡ったのは兎ではなく、話なのか。

 兎の姿を借りた誰かの記憶なのか。

 あるいは、海を越えたものを兎と呼んだだけなのか。


 道はやがて、緩やかに下り始めた。


 風の匂いが変わる。土と草の匂いの中に、塩が混じった。佐那が顔を上げる。


 「海ですね」


 多加津は頷いた。


 「近い」


 私はまだ見えぬ海の気配を感じた。


 宮に届く木簡では、海は地名の横に添えられるだけだ。海辺、浦、島、渡し。だが実際の海は、見える前から近づいてくる。風に入り、鳥の声に入り、道の白さに入り込む。


 白い貝殻が増えた。


 足元で砕けるたび、乾いた小さな音がした。骨を踏んだようにも聞こえた。


 昼近く、私たちは小さな浜の集落に着いた。


 家々は風を避けるように低く、屋根には石が置かれている。干された網が並び、魚の匂いが強かった。浜には数人の子どもがいて、貝殻を集めて遊んでいた。彼らの手元にも、白いものばかりが集まっている。


 佐那が子どもたちに近づき、柔らかい声で尋ねた。


 「白兎の浜は、このあたりか」


 子どもたちは互いに顔を見合わせた。


 ひとりの少女が、海の方を指した。


 「あっち」


 別の少年が首を振る。


 「違う。あっちは兎が泣いたところ」


 「じゃあ、渡ったところは」


 「兎は渡ってない」


 少年は当然のように言った。


 佐那が私を振り返る。


 私は少年の前にしゃがんだ。


 「兎は渡っていないのか」


 「うん」


 「でも、話では和邇の背を渡るだろう」


 少年は少し困った顔をした。


 「それは大人が言う話」


 「子どもの話ではないのか」


 「子どもには、渡ったって言う。だけど、兎は渡ってない」


 少女が口を挟んだ。


 「兎は、先にいたの」


 「先に」


 「うん。海の向こうから来たんじゃなくて、ここにいた」


 「では、なぜ皮を剥がれた」


 少女は答えなかった。


 代わりに少年が、浜の端を指した。


 「婆様に聞けばいい」


 「婆様」


 「兎の歌を知ってる」


 兎の歌。


 その言葉に、私はすぐに立ち上がった。


 子どもたちはそれ以上答えず、また貝殻を拾い始めた。彼らにとって、兎は怖い話でも、珍しい話でもないのだろう。ただ、浜の風や貝殻と同じように、そこにある話なのだ。


 少年に教えられた家は、集落の奥にあった。


 他の家よりもさらに低く、戸口には白い布が何本も垂れている。風が吹くたび、布が細く鳴った。中からは、魚を燻す煙と、乾いた草の匂いがした。


 私たちが戸口に立つと、奥から老婆の声がした。


 「大和の者か」


 まだ名乗っていない。


 私は戸口で頭を下げた。


 「大和から参りました。真鹿人と申します」


 「名を集める者だな」


 「記録官です」


 「同じことだ」


 老婆は部屋の奥に座っていた。


 髪は白く、肌は日に焼け、目だけが妙に明るかった。膝の上には、白い布が置かれている。彼女はそれを裂いて、細い紐にしていた。


 「兎の歌を知っていると聞きました」


 私が言うと、老婆は手を止めなかった。


 「兎の歌は、誰でも知っている」


 「私が知っているものとは違うかもしれません」


 「お前が知っている兎は、泣く兎か」


 「はい」


 「助けられる兎か」


 「はい」


 「神を祝う兎か」


 「はい」


 老婆は、かすかに笑った。


 「それは、皮を戻されたあとの兎だ」


 「では、皮を剥がれる前の兎がいるのですか」


 「いる」


 「それを聞かせていただけますか」


 老婆は私を見た。


 「書くのか」


 この問いは、もう何度目だろう。


 私はすぐに答えなかった。


 これまでは、書くために聞くのだと思っていた。だが、ここへ来るまでに、何度もその前提を揺さぶられた。


 書くと忘れることもある。

 すべてを書いた記録は、時に何も残さない。

 削られぬように書いたものは、初めから削られていることがある。


 私はゆっくり答えた。


 「今は、聞くために来ました」


 老婆は手元の白布を裂いた。


 細い布の音が、部屋に静かに響いた。


 「なら、聞け」


 そう言って、老婆は低く歌い始めた。


 歌というには、旋律はほとんどなかった。言葉と息の間に、わずかな揺れがあるだけだった。海辺の風が、戸口の布を鳴らす音と重なる。


 白きもの、浜に伏す

 皮なきもの、潮を聞く

 名なきもの、道を知る

 呼ぶな、呼ぶな

 呼べば波が寄る

 追うな、追うな

 追えば血が残る

 血の白きものをたどれば

 出雲の門は開かれる


 歌はそこで途切れた。


 私は息をするのを忘れていた。


 血の白きもの。


 血は赤いはずだ。

 なのに、歌では白い。


 「白い血、とは何ですか」


 私が尋ねると、老婆は布を裂く手を止めた。


 「血は乾けば黒くなる。海に洗われれば薄くなる。骨に近づけば白くなる」


 「骨」


 「兎の道は、骨の道だ」


 佐那が小さく身じろぎした。


 多加津は黙っている。


 「それは、死者の道という意味ですか」


 「死者だけではない」


 老婆は言った。


 「名を失った者の道だ」


 私は膝の上で指を握った。


 名を失った者。


 兎は弱い獣ではない。

 道を知るもの。

 皮を失い、名を失い、なお先へ行くもの。


 阿岐良から渡された木簡と、村の老人の言葉と、この老婆の歌が、少しずつ重なっていく。


 「兎は誰なのですか」


 私が問うと、老婆は目を細めた。


 「誰でもない」


 「神ではないのですか」


 「神でもある」


 「人でもあるのですか」


 「人でもある」


 「道でもある」


 老婆は、私が言う前に頷いた。


 「道でもある」


 「では、どう記録すれば」


 その言葉を口にした瞬間、老婆の目が鋭くなった。


 「記録のことを考えながら聞くな」


 私は口を閉じた。


 叱られたのは、子どものころ以来かもしれない。だが、その叱責は不思議と不快ではなかった。むしろ、こちらの姿勢を正されるようだった。


 「お前は、兎を何かにしたがっている。神か、人か、道か。名をつけ、箱に入れ、持って帰るつもりだ」


 「それが務めです」


 「なら、兎は逃げる」


 老婆は静かに言った。


 「兎は、捕まえるものではない。追うものだ。追って、見失って、また白いものを探す。そうして出雲へ近づく」


 「なぜ出雲へ」


 「出雲には、名を失ったものが集まるからだ」


 出雲には、名を失ったものが集まる。


 私はその言葉を、すぐに木簡へ書きたい衝動に駆られた。だが、筆は取らなかった。取れば、何かを取り逃がす気がした。


 老婆はまた布を裂き始めた。


 「海を見に行け」


 「白兎の浜へですか」


 「浜など、どこも白兎の浜だ」


 「では、どこへ」


 「波が戻るところへ」


 それもまた、道のようで道ではない言葉だった。


 私は深く頭を下げた。


 「ありがとうございました」


 「礼は要らぬ。聞いたなら、忘れるな」


 「書いてもよろしいですか」


 老婆は少し考えた。


 「歌は書くな」


 「なぜです」


 「歌は、声でなければ皮だけになる」


 皮だけになる。


 白兎の話で、皮は剥がれるものだった。

 だが、歌を書けば、今度は歌から声が剥がれ、皮だけが残るのか。


 「では、何を残せば」


 老婆は、裂いた白布を一本、私に差し出した。


 「これを結べ」


 「どこに」


 「波が戻るところに」


 私は布を受け取った。


 佐保から受け取った白布よりも長く、粗い手触りだった。だが同じように白かった。漂白された白ではない。雨や潮や日差しにさらされ、色が抜けた白だった。


 家を出ると、風が強くなっていた。


 集落の向こうには海が見えた。灰色に近い青。波は荒くはないが、絶えず寄せては戻っている。浜には貝殻や流木が散らばり、ところどころ白い鳥が立っていた。


 佐那が息を吐いた。


 「何だったんでしょう、今の話は」


 「分からない」


 「また分からないのですか」


 「そうだ」


 佐那は困ったように笑った。


 「大和に戻るころには、真鹿人殿の記録は『分からない』で埋まりそうですね」


 「それは困る」


 「でも、そういう旅になってきています」


 否定できなかった。


 私たちは浜へ向かった。


 砂は湿っていて、歩くたびに足跡が残る。だが次の波が来れば、その足跡はすぐに崩れていく。海辺の記録は短い。足で書いても、波が消す。声を上げても、風がさらう。


 それでも、人はここに話を残した。


 白兎の話を。

 皮を失ったものの話を。

 道を知るものの話を。


 浜の端に、岩場があった。


 波が岩に当たり、白い泡を立てて戻っていく。海藻が揺れ、岩の隙間には小さな貝がびっしりとついていた。多加津が岩場を見て言った。


 「ここだろう」


 「なぜ分かる」


 「波が戻る」


 「どこでも戻るのでは」


 「ここは、戻る音が違う」


 私は耳を澄ませた。


 波が寄せる音。

 岩に当たる音。

 隙間へ吸い込まれる音。

 そして、引いていくときに、何かを連れて帰るような低い音。


 確かに、砂浜で聞く波とは違った。


 私は老婆から受け取った白布を取り出した。どこへ結べばよいのか分からなかったが、岩の間に突き出した細い木の根があった。海風にさらされ、白っぽく乾いている。


 道ではないと思うものに。


 佐保の言葉がよぎった。


 木の根は道ではない。

 波が戻る場所も道ではない。

 けれど、兎の道は、普通の道ではない。


 私は白布をその根に結んだ。


 布は風を受けて震えた。


 その瞬間、波が寄せ、岩の隙間に白い泡が満ちた。泡は一瞬だけ布の白と重なり、すぐに消えた。


 私は、なぜか胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 「真鹿人殿」


 佐那の声が硬かった。


 振り返ると、浜の少し先に、白いものが落ちていた。


 最初は貝殻かと思った。だが近づくと、それは骨だった。小さな獣の骨。兎かどうかは分からない。背骨の一部のようにも、脚の骨のようにも見えた。


 多加津がしゃがみ、骨を見た。


 「触るな」


 「兎か」


 私が尋ねると、多加津は首を横に振った。


 「分からない」


 その言葉が、今は妙に重く響いた。


 分からない。


 だが、分からないからといって、それは何でもないものになるわけではない。


 私は骨のそばに膝をついた。白い骨は砂の上に半ば埋もれていた。波が少しずつ近づき、また戻っていく。次の満ち潮では、この骨も流されるかもしれない。


 ふと、骨の近くに、小さな赤黒いものがあるのに気づいた。


 木片だった。


 流木かと思ったが、表面が平らに削られている。私は多加津を見た。彼が頷いたので、そっと拾い上げる。


 古い木簡の欠片だった。


 文字はほとんど消えている。潮にさらされ、木目は荒れ、端は丸くなっている。だが、かろうじて一つだけ字の跡が残っていた。


 名。


 そう読めた。


 あるいは、私がそう読みたかっただけかもしれない。


 名。


 たった一文字。


 誰の名なのか。

 名を問えという意味なのか。

 名を失ったという意味なのか。

 それとも、ただ別の文字の一部が、そう見えただけなのか。


 「持って行くのですか」


 佐那が尋ねた。


 私は迷った。


 これは誰かが書いたものだ。だが、海に流され、削られ、すでにほとんど読めない。拾えば記録になる。置いていけば、波に戻る。


 どちらが残すことなのだろう。


 老婆は、歌は書くなと言った。

 佐保は、道ではないと思うものに白布を結べと言った。

 宿禰は、すべてを書こうとするなと言った。


 私は木簡の欠片を掌に置いたまま、波を見た。


 やがて、私はそれを骨のそばに戻した。


 佐那が少し驚いた顔をした。


 「持たないのですか」


 「これは、ここにある方がいい」


 「記録官なのに」


 「記録官だからだ」


 口にしてから、阿岐良と同じ言い方だと思った。


 多加津は何も言わなかった。


 私は荷から自分の木簡を取り出した。拾った欠片ではなく、新しい木簡だ。そこに、短く書いた。


 波が戻るところに、名の字あり。

 拾わず。


 書いてから、少しだけ息を吐いた。


 持ち帰らなかったことを、私は記録した。

 これは残したことなのか。

 それとも、取り逃がしたことなのか。


 答えは出なかった。


 浜を離れようとしたとき、背後から声がした。


 「拾わなかったのですね」


 振り返ると、佐保が立っていた。


 朝霧の中へ消えたはずの彼女が、いつの間にか浜に来ていた。風に髪が揺れている。彼女の手には、白い貝殻が一枚あった。


 「見ていたのですか」


 「兎を追う者は、たいてい何かを拾いたがる」


 「拾うべきではなかったのですか」


 「私には分かりません」


 「あなたにも、分からないことがあるのですね」


 佐保は微かに笑った。


 「分かる者は、兎を追いません」


 私は彼女の手元の貝殻を見た。


 「それも目印ですか」


 「これは、ただの貝です」


 「思えば目印になる」


 「覚えていたのですね」


 彼女は貝殻を私に渡した。


 「これは持って行ってよいのですか」


 「それは浜から離れても、浜であったことを忘れにくい」


 「木簡の欠片は」


 「それは、波に忘れさせた方がよいものもある」


 「名の字がありました」


 「だからです」


 その答えは、分かるようで分からなかった。


 「佐保殿」


 私は初めて、彼女の名に敬称をつけて呼んだ。


 「あなたは、白兎の話をどう知っているのですか」


 「私は、皮を剥がれたものの話を聞いて育ちました」


 「因幡の方として」


 「今は」


 また、その言い方だった。


 「以前は違ったのですか」


 佐保は海を見た。


 「人は、いくつもの土地を通ります。通った土地ごとに、違う名で呼ばれます。最後にどの名が残るかは、本人が決められるとは限りません」


 「では、佐保という名も」


 「この浜で呼ばれる名です」


 「本当の名は」


 「本当の名を聞く者は、たいてい本当の話を持ち帰ろうとします」


 「それはいけないことですか」


 「危ういことです」


 風が強く吹き、岩場に結んだ白布が激しく揺れた。


 佐保はそれを見て言った。


 「うまく結びましたね」


 「なぜ、ここだと」


 「波が戻るところだから」


 「それは老婆も言いました」


 「でしょうね」


 「知り合いですか」


 「因幡では、古い女たちはみな知り合いのようなものです」


 それは答えではなかった。


 だが、私はそれ以上追わなかった。


 佐保は浜の先を指した。


 「あちらに、小さな祠があります。大和の話に出てくる白兎を祀る者もいれば、もっと古いものを祀る者もいます」


 「案内していただけますか」


 「途中までなら」


 私たちは浜沿いを歩いた。


 佐保は砂に足跡を深く残さない歩き方をした。波打ち際に近づきすぎず、かといって陸側にも寄りすぎない。まるで、海と陸の境を踏み外さないように歩いている。


 「境に立つものだけが道を知る」


 私が呟くと、佐保が振り返った。


 「誰に聞きました」


 「途中の村の老人に」


 「では、その人はまだ忘れていなかったのですね」


 「何を」


 「兎が、境のものだということを」


 「境のもの」


 「海のものでも、陸のものでもない。生きているものでも、死んだものでもない。神でも、人でも、獣でもない。そういうものは、たいてい白く語られます」


 「白く」


 「どの色にも属さないからです」


 私は、白い朝の大和を思い出した。宮の白さは、整えられた白だった。石も、衣も、木簡の余白も、清められた秩序の色に見えた。


 だが因幡の白は違う。


 貝殻の白。

 骨の白。

 潮にさらされた布の白。

 皮を剥がれた兎の白。

 どこにも属せなくなったものの白。


 同じ白でも、意味が違う。


 「大和の白は、ここでは通じないのですね」


 私が言うと、佐保はしばらく黙った。


 「通じないのではありません。通じすぎるのです」


 「通じすぎる」


 「大和は、白いものを見ると清めたがる。名を与え、系譜に置き、正しい場所へ納めようとする。けれど因幡の白は、納まらないから白いのです」


 私は足を止めた。


 その言葉は、この旅に出てから聞いたどの言葉よりも鋭く、私の中の何かを裂いた。


 納まらないから白い。


 ならば、白兎を大和の物語として納めたとき、その白は別のものに変わってしまったのではないか。


 慈悲を受ける兎。

 神を祝福する兎。

 国造りの神の徳を示す兎。


 それは美しい話だ。

 だが、その前にあったかもしれない、名を失ったものの道は、どこへ行ったのか。


 やがて、小さな祠が見えた。


 岩陰に寄せるように建てられている。立派なものではない。古い木で作られ、潮風にさらされて黒ずんでいる。前には白い石が積まれ、布が結ばれ、貝殻が供えられていた。


 祠の奥には、何もなかった。


 少なくとも、私の目にはそう見えた。神像も、鏡も、剣もない。ただ暗い空間があるだけだった。


 「何を祀っているのですか」


 私が尋ねると、佐保は答えた。


 「空いたところです」


 「空いたところ」


 「かつて何かがあった。あるいは、これから何かが来る。そういう場所です」


 「神ではなく」


 「神が入る前の場所、と言う者もいます」


 私は祠の前に立ち、深く頭を下げた。


 何に対して頭を下げたのか、自分でも分からなかった。白兎か。空いた場所か。名を失ったものか。あるいは、これから名を奪われるものか。


 佐那もぎこちなく頭を下げた。多加津は自然に手を合わせた。佐保は何もしなかった。ただ祠の横に立ち、風を聞いていた。


 私は筆を取ろうとして、やめた。


 その代わり、宿禰から渡された空の木簡を荷の中から取り出した。まだ何も書かれていない木簡。最後まで書くな、と言われたもの。


 祠の前でそれを手にした瞬間、書きたい衝動が湧いた。


 空いたところ。

 神が入る前の場所。

 白いものが納まらない理由。


 これは書くべきものではないのか。


 しかし、まだ早いとも思った。


 どうしても書かねばならぬと思うものに出会うまで、空のまま持っていろ。


 宿禰の言葉が、私を押しとどめた。


 私は空の木簡を再び布に包んだ。


 佐保がそれを見ていた。


 「書かないのですか」


 「まだ、書けません」


 「それなら、少しは兎に近づいています」


 「兎に近づくとは、どういうことですか」


 「捕まえられないものを、捕まえないまま追うことです」


 そのとき、祠の奥から風が抜けた。


 何もないはずの暗がりで、白い布が一瞬だけ揺れたように見えた。私は目を凝らしたが、次の瞬間には何もない。


 見間違いかもしれない。


 だが、旅に出てから、私は見間違いという言葉を簡単には使えなくなっていた。


 見えないものと、ないものは違う。


 佐保の言葉が、また胸に戻ってきた。


 浜を離れるころ、日は傾き始めていた。


 佐保は祠の前で立ち止まった。


 「私はここまでです」


 「出雲へは行かないのですか」


 「因幡には、因幡の役目があります」


 「あなたの役目は」


 「兎を、兎のままにしておくこと」


 私はその言葉を受け止めた。


 「兎を神にしない、ということですか」


 「神にしてもよいのです。ただ、神だけにしない」


 「人にも、道にも、境にもしておく」


 「そうです」


 佐保は少しだけ頷いた。


 「大和の記録官。あなたはこれから出雲へ行く。出雲では、おそらくもっと大きな名が出てきます。大国主、事代主、逃れた神。大きな名は、小さなものを呑み込みます」


 「白兎のようなものを」


 「白兎も、白い石も、浜の骨も、波が戻る音も」


 彼女は私を見た。


 「大きな名を書いてもよい。けれど、小さなものがあったことを忘れないでください」


 「それを記録すればよいのですか」


 佐保は首を横に振った。


 「まず、覚えてください」


 書く前に覚える。


 簡単なことのはずなのに、私はそれをどれほどしてきただろう。


 記録官である私は、聞いた言葉をすぐ木簡に移す。それは忘れないためだった。だが、木簡に移した瞬間、その言葉は私の中を通り過ぎていたのかもしれない。


 「佐保殿」


 「はい」


 「あなたの名は、書かない方がよいですか」


 佐保は少し驚いたように私を見た。


 それから、穏やかに言った。


 「今は」


 「では、覚えておきます」


 「忘れても構いません」


 「なぜ」


 「必要なら、また別の名で会います」


 そう言って、佐保は浜の祠の横を抜け、白い布の揺れる道へ戻っていった。


 私はその背が見えなくなるまで見送った。


 佐那が小さく息を吐いた。


 「真鹿人殿」


 「何だ」


 「あの人、本当に人ですか」


 私は少し考えた。


 以前の私なら、即座に答えただろう。人である、と。あるいは、祀る者である、と。巫女か、語り部か、浜の女か、道案内か。何かの名を与え、分類したはずだ。


 だが今は、そうしなかった。


 「分からない」


 佐那は、やはりそうですか、と肩を落とした。


 多加津が歩き出す。


 「日が沈む」


 私たちは集落へ戻り、その夜は浜の外れの小屋を借りた。


 夜になると、海の音はいっそう近くなった。闇の中で波だけが動いている。寄せて、戻る。寄せて、戻る。その繰り返しが、眠りかけた意識の奥まで入り込んできた。


 私は眠る前に、どうしても木簡を取り出したくなった。


 だが、老婆の歌は書かなかった。

 佐保の名も書かなかった。

 祠の空いたところも、まだ書かなかった。


 代わりに、今日見たものを、短く並べた。


 因幡に白きもの多し。

 兎は海を渡らず。

 白は納まらぬものの色。

 波が戻るところに布を結ぶ。

 名の字ある木片、拾わず。

 歌は声に残すべし。


 そこまで書いて、私は筆を止めた。


 歌は声に残すべし。


 書いたことで、私はすでに歌を少し裏切っているのかもしれない。だが、書かなければ、老婆の声は私の中で薄れていく。いや、書いたからこそ、薄れていくのか。


 私は木簡を見つめた。


 記録とは、残すことか。

 消すことか。

 忘れる順を決めることか。

 それとも、忘れられないものの周りに、ただ印を置くことなのか。


 答えは出なかった。


 夜半、私は夢を見た。


 白い兎が浜を歩いていた。


 兎には皮がなかった。だが血も流していない。ただ白い骨と薄い光だけでできているようだった。兎は波打ち際を歩く。海へは入らない。陸へも上がらない。ただ、波が届くか届かないかの境を、音もなく進んでいく。


 私はその後を追った。


 追っているはずなのに、足跡は私のものではなく、兎のものでもなかった。砂の上に残るのは、細い文字のような跡だった。読み取ろうとすると、波が来て消す。


 それでも一字だけ、何度も残った。


 名。


 私は兎に向かって叫ぼうとした。


 お前の名は何か、と。


 だが声は出なかった。


 兎が振り返る。


 その目は、空いていた。黒い穴ではない。何もない白い空間だった。祠の奥と同じ、神が入る前の場所。


 兎は言った。


 いや、声は聞こえなかった。だが私は、そう言われたと感じた。


 名を問うなら、出雲へ行け。


 そこで目が覚めた。


 小屋の中は暗かった。佐那は隣で眠り、多加津は入口近くに座っている。彼は起きていた。


 「うなされていた」


 「夢を見た」


 「兎か」


 私は驚いて多加津を見た。


 「なぜ分かる」


 「因幡で兎を聞いた夜は、たいてい兎を見る」


 「多加津も見たのか」


 「昔に」


 「どんな夢だった」


 多加津はしばらく黙った。


 「追いついたと思ったら、兎ではなかった」


 「何だった」


 「道だった」


 それだけ言って、多加津はまた入口の外へ目を向けた。


 私はそれ以上聞かなかった。


 夜明け前、浜へ出た。


 空はまだ暗く、東の端だけが薄く白み始めている。波は昨夜と同じように寄せては戻っていた。岩場に結んだ白布は、遠くからでもかすかに見えた。


 だが、骨はなかった。


 名の字が残っていた木簡の欠片も、消えていた。


 波が持っていったのだろう。


 佐那が遅れてやってきて、砂を見た。


 「本当に、なくなっていますね」


 「そうだな」


 「持って帰ればよかったと思いますか」


 私はしばらく海を見ていた。


 波は答えない。

 布だけが風に揺れている。


 「思わない」


 「なぜです」


 「持って帰っていたら、失われたことを見られなかった」


 佐那は首を傾げた。


 「難しいですね」


 「私にも難しい」


 多加津が背後から言った。


 「出立する」


 因幡の朝は、白かった。


 けれどそれは、大和の白とは違っていた。

 大和の白は、始まりの白だった。

 因幡の白は、剥がれたあとの白だった。


 私は最後にもう一度、岩場の白布を見た。


 兎は海を渡らない。

 だが、兎を追う者は、海と陸の境を歩かされる。


 そしてその境に立った者だけが、出雲の門へ近づく。


 私はそのことを、まだ完全には理解していなかった。けれど、理解する前に進むしかないこともある。


 私たちは浜を離れた。


 道は西へ続いている。

 出雲へ。

 名を失ったものが集まるという土地へ。

 国を譲った神と、沈黙した神と、逃れた神の待つ場所へ。


 背後で、波が戻る音がした。


 それは、呼び止める声にも、送り出す声にも聞こえた。


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