第三章 因幡へ向かう道
宮を離れて最初に薄れたのは、音だった。
大和の宮には、いつも何かの音があった。木簡を束ねる紐の擦れる音、墨を磨る音、板敷を歩く足音、低く交わされる声、遠くで読み上げられる神名。そこでは、名も言葉も絶えず動いていた。
けれど門を出て、白石の道を下り、市を抜け、田の畦へ入るころには、それらの音は背後に沈んでいった。
代わりに聞こえてきたのは、水の音だった。
細い水路を流れる水。
田の面を渡る風。
畦に立つ鳥の声。
足元で跳ねる虫の気配。
記録の部屋では、土地は名として届く。大和、河内、播磨、因幡、出雲。木箱に書かれた黒い字。木簡の上に並ぶ地名。だが、実際の土地には、字になる前の気配がある。
湿った土の匂い。
朝露を含んだ稲の冷たさ。
遠くの山の青さ。
道端に供えられた小さな石。
それらは、木簡にはほとんど残らない。
私は歩きながら、宿禰の言葉を思い出していた。
記録とは、忘れる順を決めるものだ。
ならば、この水の音は、どの順で忘れられるのだろう。
この土の匂いは。
道端の石に手を合わせる老婆の背は。
「真鹿人殿」
佐那の声に、私は足を止めた。
彼は少し先で振り返り、腰に手を当てて笑っていた。
「記録官は歩くときも考えるのですか」
「考えない者もいるのか」
「います。私です」
「それは誇ることか」
「道では、考えすぎると転びます」
そう言って、佐那は足元の石を蹴った。石は畦の端へ転がり、小さな音を立てて止まった。
多加津が低く言った。
「石を蹴るな」
佐那はすぐに肩をすくめた。
「申し訳ありません」
「その石は、ただの石とは限らぬ」
多加津はそう言って、道端の石に一度だけ目を向けた。
私はその石を見た。
人の膝ほどの大きさで、苔がつき、根元に枯れた花が置かれている。誰かが供えたのだろう。名もない石。記録の部屋へ届くことはない石。
「祀られているのか」
私が尋ねると、多加津は短く答えた。
「そう思う者がいる」
「神か」
「そう思う者には」
佐那が小声で言った。
「多加津殿は、こういうところだけ急に怖いことを言います」
多加津は答えなかった。
私は石の前で軽く頭を下げた。正式な礼ではない。祈りでもない。ただ、先ほど佐那が蹴った石と、この石とを同じものとして通り過ぎることが、急にできなくなっただけだった。
大和を出てから、道は西へ伸びていた。
私たちはまず河内を抜け、そこからさらに西へ向かう。播磨を通り、山陰へ入る。因幡までは遠い。出雲はさらにその先だ。宮で木箱に書かれた名を読むだけなら、因幡と出雲は隣り合っている。だが歩いてみれば、その間には日数があり、雨があり、峠があり、川がある。
地図の上で近いものは、足にとって近いとは限らない。
その日の昼、私たちは小さな村で休んだ。
村の入り口には、背の低い木が一本立っていた。枝に白い布が結ばれている。風が吹くたび、布は細かく震えた。村人はその木の下を通るとき、わずかに頭を下げる。
佐那が水をもらいに行っている間、私は木のそばに立った。
木の名を知らない。
祀られている神の名も知らない。
だが、村人は知っているのだろうか。あるいは、名を知らぬまま手を合わせているのだろうか。
年老いた男が、私のそばへ来た。
「都の方か」
「大和から来ました」
「何をしに」
「出雲へ向かいます」
男は少しだけ目を細めた。
「遠い」
「ええ」
「出雲へ行く者は、たいてい何かを聞きに行く」
私は男を見た。
「なぜ、そう思われますか」
「出雲は、聞くところだからだ」
男は木の根元に腰を下ろした。私も少し離れて座る。
「あなたは、出雲へ行ったことがあるのですか」
「若いころにな。魚を運んだ。塩も運んだ。帰りには別のものを持って戻った」
「別のもの」
「話だ」
男は笑った。歯はあまり残っていなかったが、その笑いは楽しげだった。
「出雲の者は、よく話す。いや、よく黙ると言った方がいいかもしれぬ。こちらが一つ尋ねると、三つ話して、肝心なところで黙る」
「なぜ黙るのでしょう」
「話しても分からぬ者には、話さぬ方がいいからだろう」
その言葉に、私は宿禰の言った沈黙を思い出した。
「因幡の白兎の話をご存じですか」
私が問うと、男は少し姿勢を変えた。
「知っている」
「子どもに聞かせる話ではなく」
男の目が、私を探るように細くなった。
「誰からそれを聞いた」
「大和で」
「大和の者も、余計なことを知りたがる」
拒まれたのかと思い、私は頭を下げた。
「無理にとは言いません」
男はしばらく黙っていた。風が吹き、枝の布が震えた。白い布は光を受けて、鳥の羽のようにも、薄い皮のようにも見えた。
やがて男は言った。
「兎はな、弱いものではない」
私は顔を上げた。
「そうなのですか」
「弱いものなら、あの海のそばには近づかぬ。兎は足が速い。耳が利く。草の中に隠れる。血を流しても、穴を知っている。道を知っている」
阿岐良から渡された木簡の言葉が、胸の中で重なった。
兎は道を知る。
「では、白兎の話は、何を示すのですか」
「示すというほどのことは知らぬ。ただ、昔から言う。皮を剥がれたものだけが、海と陸の間を越える、と」
「海と陸の間」
「境だ」
男は木の枝に結ばれた布を見た。
「人は境を嫌う。村と村の境、国と国の境、生きる者と死んだ者の境。だが、境に立つものだけが道を知ることもある。兎はそういうものだと、聞いた」
「誰から」
「忘れた」
そう言って、男は笑った。
記録官なら、その笑いを許してはならないのかもしれない。誰から聞いたのか。いつ聞いたのか。どこで聞いたのか。それを問わねば、記録としては弱い。
だが私は、そのとき問い詰めなかった。
男の「忘れた」は、本当に忘れたのではなく、そこから先を私に渡さないための言葉にも聞こえたからだ。
「出雲へ行くなら」
男は続けた。
「兎を憐れむな」
「憐れむな」
「兎を憐れむと、道を見落とす」
それだけ言うと、男は立ち上がった。木の根元に手を置き、ゆっくりと村の奥へ戻っていく。
私はその背を見送った。
佐那が水の入った袋を持って戻ってきた。
「何か聞けましたか」
「兎を憐れむな、と」
佐那は顔をしかめた。
「兎は憐れむものでしょう。皮を剥がれて泣いているのなら」
「私もそう思っていた」
「違うのですか」
「分からない」
多加津が水を受け取りながら言った。
「道の話だろう」
私は彼を見た。
「知っているのか」
「海辺の者は、獣の話で道を伝えることがある」
「なぜ獣で」
「人の名で伝えると争いになる。獣なら争いにくい」
その簡潔な言葉に、私ははっとした。
人の名で伝えると争いになる。
神の名なら、なおさらかもしれない。
ならば兎とは、誰かの名を隠した姿なのか。
あるいは、道そのものに仮の姿を与えたものなのか。
私は荷から小さな木簡を取り出し、村の男の言葉を書き留めた。
兎を憐れむな。
憐れめば道を見落とす。
書いたあとで、私はしばらくその文字を見た。
書けば、男の声の間合いは失われる。木の枝に結ばれた白い布も、風の震えも、男が「忘れた」と笑った顔も、そこにはない。
残したのか。
消したのか。
まだ、分からなかった。
午後になると、空が曇り始めた。
西の空から灰色の雲が流れてきて、道の先を低く覆った。田の緑は暗く沈み、風は冷たくなる。佐那は空を見上げて顔をしかめた。
「降りますね」
「降る」
多加津が答えた。
「どこかで泊まるか」
私が言うと、多加津は前方の山を指した。
「あの手前に駅家がある。そこまで行く」
「間に合うか」
「濡れるが、着く」
その予言は正しかった。
しばらく進むと、雨が落ち始めた。最初は細く、やがて斜めに強くなった。道はぬかるみ、草は水を含み、衣の裾が重くなる。佐那は不平を言いながらも足を止めず、多加津はいつもと同じ歩幅で進んだ。
私は荷を濡らさぬよう肩にかけ直した。
古い木簡の束。
空の木簡。
阿岐良から渡された白兎の断片。
そのどれもが、濡れれば傷む。木に書かれた記録は、水に弱い。だが、山も川も海も、記録など気にしない。雨は、正しい名にも誤った名にも等しく降る。
雨の中で、私は妙なことを思った。
もし神の名が木簡ではなく、水に書かれていたら、私たちは何を記録と呼んだのだろう。
流れて消えるもの。
形を持たず、けれど土地を潤すもの。
同じ水でありながら、川となり、湖となり、海となるもの。
諏訪の湖にいるという神は、そうしたものなのだろうか。
出雲から逃れた神が湖に受け入れられたというなら、神の名もまた、水に沈むことがあるのかもしれない。
駅家に着いたころには、私たちはすっかり濡れていた。
そこは道沿いの小さな建物で、旅人や役人が休むための場所だった。土間にはすでに数人の旅人がいて、火のそばで衣を乾かしている。馬の匂い、湿った藁の匂い、煮た雑穀の匂いが混じっていた。
私たちは奥の一角を借り、荷を下ろした。
佐那は火のそばに座るなり、大きく息を吐いた。
「神の名を集める旅は、思ったより湿っていますね」
「まだ一日目だ」
「一日目でこれなら、出雲に着くころには苔が生えます」
多加津が無言で濡れた外套を絞った。水が土間に落ちる。
私は木簡の包みを確認した。幸い、内側までは濡れていない。空の木簡も無事だった。私はそれを布越しに触れ、なぜか安堵した。
火の向こうに、ひとりの女が座っていた。
年は私より少し上だろうか。旅装ではあるが、商人には見えない。髪は簡素に結ばれ、腰には小さな袋を下げている。彼女は火に手をかざしながら、こちらを見ていた。
「大和の記録官ですか」
唐突に声をかけられ、私は姿勢を正した。
「そうです」
「出雲へ?」
「なぜ分かるのです」
女は笑わなかった。
「この時期に大和から西へ向かい、木簡を濡らさぬよう抱えている者は、たいてい出雲へ行く」
「あなたも出雲へ」
「私は因幡まで」
「因幡の方ですか」
「今は」
今は。
その言い方が少し引っかかった。
佐那が興味深そうに身を乗り出した。
「因幡なら、白兎の話を知っていますか」
私は佐那を止めようとしたが、女は気にした様子もなく火を見つめた。
「知っている」
「やはり兎は皮を剥がれるのですか」
「剥がれる」
「なぜ」
「境を越えたから」
村の老人と同じ言葉だった。
私は女を見た。
「境とは、何ですか」
女は火の中へ細い枝をくべた。枝は小さく爆ぜ、赤い火が上がる。
「それを知っている者は、兎を追わない」
「では、知らぬ者が追うのですか」
「知らぬ者だけが、追える」
私は言葉の意味を考えた。
知らぬ者だけが追える。
知っている者は追わない。
それは、道の話なのか。
禁忌の話なのか。
あるいは、記録官のように、知らぬものを知ろうとする者への皮肉なのか。
「あなたは、兎を追ったことがありますか」
私が問うと、女は初めて私を正面から見た。
「私は、追われる方だった」
その場の空気が、わずかに変わった。
佐那も口を閉じた。多加津だけが、表情を変えずに火を見ている。
「追われる方、とは」
「話の中に入った者は、たいてい追われる」
女はそれ以上を語らなかった。
私は無理に聞かなかった。だが、その沈黙には、出雲のものとは違う硬さがあった。閉じた扉のような沈黙ではない。むしろ、薄い布の向こうに何かが動いているのに、こちらから触れることを拒むような沈黙だった。
しばらくして、駅家の者が粥を運んできた。
私たちは無言で食べた。雨は屋根を打ち続けている。火の音と雨の音が重なり、外の闇を厚くしていた。
食後、女は立ち上がり、外の雨を見た。
「明日は道が悪い」
「因幡へは、どの道を取るべきでしょう」
私が尋ねると、女は少し考えた。
「播磨を抜けたら、海を急がない方がいい」
「なぜ」
「海は近いようで遠い。兎を追うなら、海を見すぎてはいけない」
「また兎ですか」
佐那が小さく言った。
女は彼を見ずに続けた。
「白いものを探せ。布、石、鳥、骨。因幡へ近づくほど、白いものが道に増える」
「それが目印ですか」
「目印と思えば、目印になる」
「思わなければ」
「ただの白いものだ」
彼女の言葉は、記録にしにくいものばかりだった。
しかし、私は木簡を取り出した。
女はそれを見て、静かに言った。
「書くのですか」
「忘れないために」
「書くと、忘れることもある」
私は筆を止めた。
「なぜ、そう思うのです」
「書いたことで、覚えたつもりになるから」
私は答えられなかった。
女は火のそばへ戻らず、壁際に腰を下ろした。そして外の雨を聞くように、目を閉じた。
私は木簡を膝に置いたまま、しばらく動けなかった。
書かなければ忘れる。
書けば、覚えたつもりになる。
ならば、どうすればよいのか。
宿禰は、迷いを持って行けと言った。
阿岐良は、信じるな、捨てるなと言った。
村の老人は、兎を憐れむなと言った。
この女は、書くと忘れることもあると言った。
大和を出てまだ一日しか経っていないのに、私の持っていた記録の形は、もう少しずつほどけ始めていた。
夜更け、雨は弱まった。
佐那は火のそばで眠り、多加津は壁に背を預けたまま目を閉じている。眠っているのかどうか分からない。駅家の他の旅人たちも静かになっていた。
私は眠れず、外へ出た。
雨上がりの空は雲が切れ、ところどころに星が見えた。地面は濡れ、草の先に水滴が光っている。遠くで蛙が鳴いていた。
月は出ていなかった。
それでも私は、空のどこかに月を探した。
名を持たぬ月。
月を名づけぬ民。
まだ会ったこともない彼らのことが、なぜか気になっていた。
大和では、分からぬものには名を与える。
名を与えれば、扱える。
扱えれば、系譜に置ける。
系譜に置ければ、国の中に入る。
だが、名を拒むものがあるなら。
それは国の外にあるのか。
それとも、国よりも古い場所にあるのか。
背後で、土を踏む音がした。
振り返ると、因幡へ向かうという女が立っていた。彼女は空を見上げ、私と同じように月を探しているようだった。
「今夜は月がありませんね」
私が言うと、女は首を横に振った。
「見えないだけです」
「それは、同じではないのですか」
「見えないものと、ないものは違います」
そう言って、彼女は濡れた道の先を見た。
「あなたは出雲へ行く。そして、おそらくその先へも行く」
「なぜ、そう思うのです」
「目が、まだ帰る者の目ではないから」
私は返事をしなかった。
女は小さな白いものを私に差し出した。
それは、布だった。指先ほどの小さな白布。濡れているのに、不思議と汚れていない。
「因幡へ入る前に、道を見失ったら結びなさい」
「どこに」
「道ではないと思うものに」
「意味が分かりません」
「今は、それでいい」
私は白布を受け取った。
「あなたの名を聞いてもよろしいですか」
女は少し黙った。
「名を聞くのですね」
「記録官ですから」
「では、今は記録しないでください」
私は筆を持っていなかったが、なぜか咎められたように感じた。
「分かりました」
女は雨上がりの闇の中で、低く言った。
「因幡では、私を佐保と呼ぶ者がいます」
「佐保」
「それが名かどうかは、まだ決めていません」
また、記録しにくい言葉だった。
私はその名を口の中で繰り返した。佐保。柔らかい音なのに、どこか掴みどころがない。
「あなたは何者ですか」
そう尋ねると、佐保はわずかに笑った。
「道に先にいた者です」
それ以上は言わなかった。
駅家の中へ戻る彼女の背を見送りながら、私は手の中の白布を見た。小さな布は、夜の闇の中でもぼんやりと白かった。
白兎。
白い布。
白い朝の大和。
白い空。
そして、まだ見ぬ白い月。
白とは、何もない色ではない。
まだ何も選ばれていない色。
昨夜、私はそう思った。
だがこの夜、もう一つ別の考えが浮かんだ。
白とは、何かが剥がれたあとに残る色なのかもしれない。
皮を剥がれた兎。
名を剥がれた神。
記録から削られた木簡。
そして、まだどの名にも染められていない月。
私は白布を荷の奥、空の木簡のそばにしまった。
翌朝、道はまだ濡れていた。
雨雲は東へ去り、西の空は低く明るんでいる。佐那は眠そうに目をこすり、多加津はすでに出立の準備を終えていた。
佐保は、私たちより先に駅家を出るところだった。
「因幡で会えますか」
私が尋ねると、彼女は振り返った。
「道が合えば」
「合わなければ」
「兎を追ってください」
そう言って、佐保は濡れた道を西へ歩き出した。
その背は、すぐに朝霧の中へ溶けていった。
佐那が私の横に来て、ぽつりと言った。
「あの人、何者でしょうね」
「分からない」
「真鹿人殿は、分からないことが増えていませんか」
「増えている」
「それでよいのですか」
私は少し考えた。
「たぶん、それでよい」
多加津が先に歩き出した。
「遅れる」
私たちは荷を背負い、駅家を後にした。
道は西へ続いている。
因幡へ。
白兎の海へ。
出雲へ至るという、血の跡の残る道へ。
大和を出たとき、私は神の名を数えるために旅立った。
だがその朝、濡れた土を踏みながら、私は初めて思った。
この旅で私が数えることになるのは、神の名ではなく、名を失ったものたちの跡なのかもしれない。




