第二章 神の名を数える者
神の名は、夜に増える。
そう教えたのは、まだ私が記録官見習いだったころの志斐の宿禰だった。
昼のあいだ、人は土地を耕し、魚を獲り、山へ入り、布を織る。人は働くことで国に属する。だが夜になると、人は火のまわりに集まり、祖の名を呼び、山に入ったまま戻らぬ者の話をし、川で聞いた声や、夢に立った影のことを語り始める。
昼の人は租を納める。
夜の人は神を増やす。
だから、神の名を集める者は、昼の帳面だけを見てはならない。夜の声を聞かねばならない。宿禰はそう言った。
けれど大和の宮で行われる記録は、たいてい昼の仕事だった。
私たちは朝早くから板敷の部屋に並び、各地から届いた木簡をほどき、名を写し、同じものを寄せ、異なるものを分けた。神の名、土地の名、氏の名、祭りの名。似た音、似た字、似た由来。どれが同じで、どれが違うのか。違うなら、どちらが古く、どちらが後に加わったのか。
判断は、いつも容易ではなかった。
たとえば、ある山の神がいる。
北の国では、雪を降らせる荒ぶる神として恐れられている。東の谷では、獣を与える恵みの神として祀られている。南の村では、死者の魂が帰る場所として、その山そのものが祖の神とされている。
それらは同じ神なのか。
同じ山を指しているなら、同じ神とするべきなのか。
同じ名を持つなら、同じ由来に結ぶべきなのか。
同じではないとすれば、国の系譜はどれほど枝分かれしてしまうのか。
枝が多すぎる木は、遠くから見れば乱れて見える。
だが、枝を落としすぎた木は、もはや木ではない。
記録官の仕事とは、その境を見極めることだった。
私はその日の昼、大和を発つための準備をしながらも、いつものように記録の部屋に呼ばれていた。出立まで残り二日。だが、旅に出る者にも仕事はある。むしろ旅へ出るからこそ、出立前に目を通すべき木簡が積まれていた。
部屋には、すでに十数人の記録官がいた。
若い者は墨を磨り、年長の者は木簡を読み上げ、別の者がそれを書き写す。壁際には国ごとに分けた木箱が並べられていた。箱には、山城、河内、和泉、伊賀、伊勢、美濃、尾張、丹波、播磨、因幡、伯耆、出雲と、黒い字で土地の名が記されている。
私は出雲の箱の前で立ち止まった。
他の箱より古い木簡が多かった。紐は擦り切れ、ところどころに虫の食った跡がある。それだけ、長く触れられてきた記録なのだろう。あるいは、何度も結び直され、何度も読み替えられてきた記録なのかもしれない。
「真鹿人、こちらへ」
声をかけたのは、同じ記録官の阿岐良だった。私より五つほど年上で、神名の音を聞き分けることに長けている。彼はいつも穏やかに笑うが、その指摘は鋭かった。
「出雲へ行くそうだな」
「もう耳に入ったのか」
「宮の中で、旅の話ほど早く広がるものはない」
阿岐良は薄く笑い、机の上に木簡を三枚並べた。
「なら、これを見ておくといい」
「何だ」
「因幡から上がった白兎の話だ」
私は思わず手を止めた。
「昨日、宿禰からも聞けと言われた」
「では、なおさらだ」
阿岐良は一枚目の木簡を指した。
そこには、よく知られた筋が簡潔に記されていた。兎が海を渡ろうとし、和邇を欺き、怒った和邇に皮を剥がれる。そこへ通りかかった神が、兎に水で洗わず、蒲の穂にくるまるよう教える。兎は癒え、神を祝福する。
私は頷いた。
「私が知る話と同じだ」
「では、二枚目を」
二枚目には、少し違う話があった。
兎は海を渡ろうとしたのではなく、海辺に倒れていた。皮を剥がれた理由も、和邇を欺いたからではない。ただ、境を越えようとした、とある。
「境を越えようとした」
私は声に出して読んだ。
阿岐良が頷く。
「何の境だと思う」
「海と陸か」
「そうも読める」
「国と国か」
「そうも読める」
「生者と死者か」
「それも、なくはない」
私は三枚目を見た。
そこには、さらに短い文しかなかった。
兎は道を知る。
皮を失い、名を失い、なお先へ行くもの。
その血の跡を追えば、出雲へ至る。
私は黙った。
子どもに聞かせる白兎は、助けられるものだった。弱く、愚かで、慈悲を受けるものだった。けれど、この木簡にある兎は違う。兎は道を知る。皮を失っても進む。血の跡を残し、誰かを出雲へ導く。
「これは、いつの記録だ」
「分からない」
「誰が上げた」
「それも、分からない」
「出どころが分からぬ記録を、なぜ残している」
阿岐良は肩をすくめた。
「消すには、気味が悪かったのだろう」
私は三枚目の木簡を手に取った。
皮を失い、名を失い、なお先へ行くもの。
その言葉は、昨日見た削られた木簡の跡と重なった。名を失っても、残るもの。読めなくなっても、そこにあったことだけは伝わるもの。
「兎は神なのか」
私が問うと、阿岐良は首を傾げた。
「神かもしれない。使いかもしれない。道そのものかもしれない」
「道が兎の形を取るのか」
「人は、形のないものを話せない」
阿岐良はそう言って、木簡を束ね直した。
「だから兎にする。蛇にする。鳥にする。火にする。月にする」
月。
私はその言葉に反応した。
「飛騨の月について、何か知っているか」
阿岐良の手が、わずかに止まった。
「宿禰から聞いたのか」
「月を名づけぬ民がいる、と」
「あれは、記録官の間ではあまり口にしない話だ」
「なぜ」
「名のないものは、帳面に置けない」
「だが、神なのだろう」
「そう聞く」
「なら、記録すべきだ」
私がそう言うと、阿岐良は少し困ったように笑った。
「お前はまだ素直だな」
「違うのか」
「違わない。だが、素直に書けることばかりなら、我らはこれほど困らない」
彼は出雲の箱を見た。
「出雲へ行けば分かる。あそこには、素直に書けば大和が困る話が多すぎる」
「大和が困る」
「国をまとめるには、神々にも順が要る。誰が先で、誰が後か。誰が上で、誰が下か。誰が従い、誰が譲り、誰が鎮まったのか。けれど土地の語りは、そんな順など知らない」
阿岐良の声は低かった。
「土地の神は、ただそこにいる。古いか新しいか、勝ったか負けたかなど、人の都合でしかない」
私は黙った。
その言葉が正しいと認めれば、私たちの仕事の土台が揺らぐ。だが、間違いだと退けるには、あまりに静かな重みがあった。
「阿岐良は、それをどう書いている」
「書けるところまで書く」
「書けないところは」
「残す」
「どうやって」
阿岐良は一本の木簡を見せた。
そこには神名の下に、細い余白が取られていた。名は書かれている。だが、その横に小さく、異名あり、詳らかならず、とだけ記されていた。
「これでは、不完全だ」
「完全な記録など、誰が読んでも嘘だ」
その言葉に、私は返す言葉を失った。
完全な記録。
矛盾のない系譜。
乱れのない神名。
それこそが私たちの目指すものだと教えられてきた。けれど、阿岐良はそれを嘘だと言う。
「真鹿人」
阿岐良は、少しだけ声を柔らかくした。
「お前は出雲へ行く。道中、いろいろな話を聞くだろう。おそらく、同じことを尋ねても、人によって違う答えが返る。老人と若者で違う。海辺と山際で違う。祭りを司る者と、魚を獲る者で違う」
「どれを信じればいい」
「信じるな」
私は顔を上げた。
「聞け。だが、すぐ信じるな。疑え。だが、すぐ捨てるな。話は、正しいかどうかだけで残るものではない」
「では、何で残る」
「その土地が、忘れたくなかったかどうかだ」
その土地が忘れたくなかったもの。
私は、三枚目の白兎の木簡を見た。皮を失い、名を失い、なお先へ行くもの。その話を誰かが残した。出どころも分からず、正しい形かどうかも分からない。それでも消されず、出雲の箱に紛れ込んでいる。
忘れたくなかったのだろうか。
兎を。
道を。
血の跡を。
出雲へ至る何かを。
部屋の奥で、別の記録官が声を上げた。
「この神名、二つに分けるべきではありませんか」
「いや、音が同じなら一つに寄せよ」
「しかし祭りの形が違います」
「祭りは土地によって変わる。神名を基準にする」
「けれど、その土地では別の祖とされています」
「ならば祖神としての名を傍記せよ」
いつものやり取りだった。
同じ名を寄せ、違う名を分け、分けきれぬものは傍に置く。そうして、神々は木簡の上で少しずつ大和の言葉へ移されていく。
私はその様子を見ながら、自分の中に小さな違和感が生まれているのを感じた。
これまで、その作業を疑ったことはなかった。
乱れた名を整える。
あいまいな話を系譜に置く。
土地の語りを、国の記録へ移す。
それは必要なことだ。今でも、そう思う。もし何も整えなければ、国はばらばらの声のまま互いを知らずに終わる。名を結ぶことで、遠い土地の神と神がつながり、人は自分の場所を知ることができる。
けれど、結ぶとは、縛ることでもある。
その思いが浮かび、私はすぐに打ち消した。
出立前に考えることではない。
私はまだ何も見ていない。出雲も、因幡も、信濃も、月を名づけぬ民も。
ただ、木簡の上の名を見ているだけだ。
昼過ぎ、私は記録の部屋を出た。
宮の外では、出立のための荷が用意されていた。旅装は簡素だった。替えの衣、乾かした飯、火打ち石、短い刀、筆、墨、空の木簡。そして、宿禰から渡された古い木簡の束。
護衛として、二人の舎人がつくことになっていた。ひとりは寡黙な年長の男で、名を多加津といった。もうひとりは若く、よく話す男で、佐那といった。
佐那は私の荷を見て、目を丸くした。
「それだけですか」
「多い方だと思うが」
「食べ物より木簡の方が多い」
「それが仕事だ」
「神の名は腹を満たしますか」
「満たさない」
「では、道中は私が満たします」
佐那は笑った。軽い男だが、その明るさは旅には必要なのだろう。多加津は黙ったまま、紐の結びを確かめている。彼の手つきは無駄がなく、長い道に慣れていることが分かった。
「因幡へは行ったことがあるか」
私が尋ねると、多加津が短く答えた。
「ある」
「どんな土地だ」
「海の匂いがする」
「それだけか」
「風が強い」
佐那が横から口を挟んだ。
「多加津殿は、山でも海でもだいたいそれしか言いません。寒い、暑い、遠い、近い」
「それで足りる」
多加津は淡々と言った。
佐那は笑ったが、私は少し羨ましく思った。土地を、海の匂いがする、とだけ言えること。風が強い、とだけ言えること。私たち記録官は、すぐにそこへ名を与え、由来を探し、系譜を結ぼうとする。
けれど旅の初めには、あるいはそれだけでよいのかもしれない。
海の匂い。
強い風。
それをまず感じること。
夕刻、私は再び宿禰のもとを訪ねた。
宿禰は庭に面した部屋で、ひとり木簡を読んでいた。斜めから差す光が、彼の手元だけを赤く照らしている。昼の白さとは違う、終わりの光だった。
「準備は」
「おおよそ整いました」
「そうか」
宿禰は顔を上げずに言った。
私は少しためらい、それから口を開いた。
「ひとつ、お聞きしてもよろしいですか」
「何だ」
「記録とは、何を残すものですか」
宿禰の手が止まった。
「朝も似たことを聞いたな」
「朝は、名とは何かを問われました」
「では、今度はお前が記録を問うか」
「出雲へ行く前に、考えておきたくなりました」
宿禰は木簡を置き、庭へ目を向けた。
しばらく沈黙があった。庭の木に夕鳥が戻ってきている。羽音が重なり、葉が揺れた。
「記録とは、忘れる順を決めるものだ」
私は息を止めた。
残すものではないのか。
そう尋ねようとして、できなかった。宿禰の横顔が、それ以上の問いを拒んでいるように見えたからだ。
しかし宿禰は続けた。
「すべては残せぬ。名も、声も、土地の匂いも、祭りの夜の火も、老人が言い淀んだ間も、子どもが怖がって泣いた顔も、すべては残せぬ。だから、何を先に忘れ、何を最後まで残すかを決める。それが記録だ」
「では、私たちは消しているのですか」
「そうだ」
あまりに静かな肯定だった。
「同時に、残してもいる。どちらかだけではない」
私は膝の上で拳を握った。
「出雲で、私は何を残せばよいのでしょう」
「それを決めるために行く」
「私が決めてよいのですか」
「お前が聞くのだ。聞いた者が決めるしかない」
宿禰は私を見た。
「ただし、ひとつ覚えておけ」
「はい」
「大和へ戻れば、お前の聞いた声は、大和の言葉で問われる」
「大和の言葉で」
「国に益するか。系譜に置けるか。矛盾はないか。従ったか。譲ったか。鎮まったか。そう問われる」
「それに答えられなければ」
「削られる」
削られる。
私はまた、昨日の木簡の跡を思い出した。文字があった場所だけが窪み、読めぬまま残っていた。
「では、削られぬように書けばよいのですね」
「そう思うか」
「違うのですか」
宿禰は少しだけ笑った。悲しむような笑みだった。
「削られぬように書いたものは、初めから削られていることがある」
私は言葉を失った。
夕日がさらに低くなり、部屋の中に影が伸びた。宿禰の顔も半分が影に沈んでいる。
「真鹿人。お前はまだ若い。若い者は、正しさを信じることができる。それは悪いことではない。だが旅に出るなら、正しさだけを持って行くな」
「では、何を」
「迷いを持って行け」
迷い。
それは、記録官にとって弱さに思えた。記録は迷いを減らすためにある。名を定め、由来を定め、順を定める。迷う者のために、書かれたものがある。
だが宿禰は、その迷いを持てと言った。
「迷う者は、聞き返す。聞き返す者は、聞き落としに気づく。聞き落としに気づく者だけが、沈黙の意味を考える」
「沈黙の意味」
「出雲には、それがある」
事代主の沈黙。
国を譲った神の沈黙。
あるいは、逃れた神の沈黙。
「分かりました」
私は頭を下げた。
それが本当に分かったという意味ではない。ただ、分からないまま持っていくほかないと分かっただけだった。
部屋を出ようとしたとき、宿禰が私を呼び止めた。
「これを持て」
渡されたのは、小さな空の木簡だった。まだ何も書かれていない。よく磨かれ、表面は滑らかだった。
「これは」
「最後まで書くな」
「え」
「どうしても書かねばならぬと思うものに出会うまで、空のまま持っていろ」
私はその木簡を受け取った。
軽かった。けれど、妙に手に残る重さがあった。何も書かれていないからこそ、そこには何でも書ける。神の名も、土地の名も、誰かの言葉も。あるいは、何も書かないこともできる。
「これも記録ですか」
私が問うと、宿禰は答えなかった。
答えないこともまた、ひとつの答えなのだろうか。私はそのとき、そう思った。
その夜、私は自分の部屋で旅支度を終えた。
外では風が出ていた。宮の柱の間を抜ける風が、低く鳴っている。私は灯火のそばに座り、空の木簡を膝に置いた。
何も書かれていない木片。
だが、見つめているうちに、それは白い朝の大和よりも深いものに思えた。白は何もない色ではない。まだ何も選ばれていない色なのだ。
私は筆を取らなかった。
代わりに、昼に見た白兎の木簡を思い出した。
兎は道を知る。
皮を失い、名を失い、なお先へ行くもの。
その血の跡を追えば、出雲へ至る。
出雲へ至った先に、何があるのか。
国を譲った神の言葉か。
沈黙した神の声か。
逃れた神の足跡か。
それとも、まだ名を持たない何かなのか。
火が小さく揺れた。
その揺れの中で、私はふと、まだ見ぬ月を思った。飛騨の山奥で、誰にも名を呼ばれず、それでも夜ごと人を照らす月を。
名がなければ、神ではないのか。
それとも、名がないからこそ、神なのか。
問いは増えていく。答えはひとつもない。
私は空の木簡を布で包み、荷の一番奥に入れた。
そして、灯火を消した。
闇が部屋を満たした。
目が慣れると、戸の隙間から細い光が差しているのが見えた。月の光ではなかった。宮の廊に残された火の名残だった。それでも私は、それを月の光のように見ていた。
翌朝、私は出立の前に記録の部屋へ向かった。
誰もいないと思っていたが、阿岐良がいた。彼は一人で、木簡の束を箱へ戻していた。
「早いな」
私が言うと、阿岐良は振り返らずに答えた。
「旅に出る者を見送るほど暇ではないから、先に渡しておく」
彼は小さな布袋を差し出した。
中には、細く削った筆先と、乾いた墨の欠片が入っていた。
「道中、足りなくなる」
「助かる」
「それから」
阿岐良は少し迷い、出雲の箱から一枚の木簡を取り出した。
「これは写しだ。持って行け」
受け取ると、そこには短い文があった。
名を問う者には、名を与えよ。
道を問う者には、兎を追わせよ。
神を問う者には、沈黙を聞かせよ。
私は顔を上げた。
「これは何だ」
「出雲の古い語りの断片だとされている。確かなことは分からない」
「なぜ私に」
「出雲では、分からないものほど役に立つことがある」
阿岐良はそう言って、いつものように穏やかに笑った。
「帰ってきたら、続きを聞かせてくれ」
「書ければ」
「書けなくてもいい」
「記録官らしくないな」
「記録官だから言っている」
私は木簡を布に包み、荷にしまった。
外に出ると、朝の大和はまた白かった。
門の前には、多加津と佐那がすでに待っていた。多加津は馬の手綱を確かめ、佐那は眠そうに欠伸を噛み殺している。
宮の奥から、宿禰がゆっくり歩いてきた。
「行け」
それだけだった。
祝詞も、長い訓戒もなかった。
私は深く頭を下げた。頭を上げたとき、宿禰はすでに私ではなく、東の空を見ていた。そこに何があるのか、私にはまだ分からない。
門が開いた。
白石の道が、宮の外へ伸びている。その先には、市があり、田があり、川があり、さらに遠く、山と海へ続く道がある。
私は一歩を踏み出した。
背に負った荷の中で、空の木簡が小さく揺れた気がした。
大和の白い朝を出て、私は因幡へ向かった。
神の名を数えるために。
そして、数えられぬものに出会うために。




