第一部 出雲、兎は海を渡らない 第一章 白い朝の大和
大和の朝は、いつも白かった。
山の端から昇る光が、まだ眠りを残した宮の甍を照らす。霧は低く地を這い、敷かれた白石の上を音もなく流れていた。人の声よりも先に、鳥の羽音がした。木々の梢がわずかに揺れ、遠くの庭で水が落ちる音がする。
私は、その朝も木簡の前に座っていた。
墨はまだ乾ききっていなかった。細く削られた竹の先に墨を含ませ、私は昨夜から書き写している神の名を、もう一度目で追った。
名は、ひとつでは足りない。
同じ神に、土地ごとの名がある。
同じ名に、別の土地の神が重なる。
ある土地では祖であり、ある土地では荒ぶるものとなり、また別の土地では、すでに語られなくなっている。
それを整えるのが、私たち記録官の務めだった。
神の名を集め、系譜に置き、誰が誰より先で、誰が誰に従い、誰がどの土地を治め、誰が国を譲ったのかを記す。そうして乱れた名をひとつの筋へ通す。それが国を整えることだと、私は教えられてきた。
国には形が要る。
人には祖が要る。
神には、居場所が要る。
そのように書き記されることで、土地は国となり、民は同じ空の下に並ぶ。私はそう信じていた。少なくとも、その朝までは。
「真鹿人」
背後から呼ばれ、私は筆を止めた。
振り返ると、板戸の向こうに老人が立っていた。宮の記録を司る、志斐の宿禰である。背はさほど高くない。だが、立っているだけで、その場の空気が一段低く沈むような人だった。白髪を後ろで束ね、細い目で私の手元を見る。
「まだ終わらぬか」
「もう少しです」
「急がずともよい。急いで書いた名は、後で人を誤らせる」
私は頭を下げた。
宿禰は部屋に入り、私の前に腰を下ろした。朝の光が横から差し込み、その顔の皺を深く見せた。皺は年の数ではなく、消した名の数のようにも見えた。
「何を書いていた」
「東の国から上がった神名です。山を守る神、水口に祀られる神、稲の穂を垂らす神。それから、同じ音を持つ名が三つあります」
「同じ神か」
「分かりません」
正直に答えると、宿禰はわずかに口元を緩めた。
「分からぬ、と書ける者はまだよい」
「分からぬままでは、系譜に置けません」
「置けぬものを置くのが、我らの仕事だ」
私は答えられなかった。
宿禰は、私が書いた木簡を一枚取り上げた。乾ききらぬ墨の黒が、朝の白さの中で、やけにはっきりと浮いて見えた。
「真鹿人。名とは何だ」
その問いは、教えの始まりに幾度も聞かされたものだった。
「名は、ものを他のものから分けるものです」
「それだけか」
「名は、呼ぶためのものです」
「それだけか」
私は少し考えた。
「名は、残すためのものです」
宿禰は木簡を置いた。
「ならば、残されぬものはどうなる」
部屋の外で、鳥が一声鳴いた。
私はすぐには答えられなかった。残されぬもの。書かれぬもの。系譜に置かれぬもの。そうしたものは、私たちの務めの外にある。務めの外にあるものは、いずれ忘れられる。それが当然だと思っていた。
けれど、それを口にするのはためらわれた。
「消えるのだと思います」
ようやくそう言うと、宿禰は目を伏せた。
「そうだ。多くは消える」
その言い方には、わずかな疲れがあった。
「だが、消えぬものもある。木に残る。石に残る。水の音に残る。祭りの手順に残る。子どもに聞かせる話の中に、形を変えて残る。名を失っても、気配だけが残ることがある」
「それも記録すべきものですか」
私が尋ねると、宿禰は私を見た。
「お前がそう思うならな」
それは命ではなく、試すような言葉だった。
私は筆を置いた。指先に墨が付いている。拭っても、爪の間に黒が残った。
宿禰は懐から一束の木簡を取り出し、私の前へ置いた。紐で結ばれた古いものだった。新しい墨の匂いはなく、乾いた木と埃の匂いがした。
「出雲へ行け」
私は顔を上げた。
「出雲、ですか」
「そうだ」
出雲。
その名は、この宮で何度も聞いた。国を造った神の地。国を譲った神の地。大和へ向かう前に、必ず整えねばならぬ名の塊。
「出雲の神々については、すでに記録があるはずです」
「ある」
「ならば、なぜ私が」
宿禰は、古い木簡の束を指で押した。
「あるからだ」
私は意味を取り損ねた。
「記録がある。だが、記録があることと、語りが尽きたことは同じではない。出雲には、まだこちらへ上がってこぬ話がある」
「国譲りのことですか」
「それもある」
「大国主の系譜ですか」
「それもある」
「では」
宿禰は声を低くした。
「逃れた神のことだ」
逃れた神。
私はその言葉を胸の内で繰り返した。
国を譲る神がいる。従う神がいる。沈黙する神がいる。抗う神がいる。
だが、逃れる神とは何か。
逃れたのなら、追われたのか。
追われたのなら、誰に。
どこへ。
何を抱えて。
私の中で、まだ書かれていない木簡の空白が広がった。
「その神の名を、確かめるのですか」
「名は、すでにある」
「では、行方を」
「行方も、話としてはある」
「ならば、何を」
宿禰は、しばらく黙った。
朝の白さが、少しずつ金に変わり始めていた。庭を流れていた霧が薄れ、遠くの柱がはっきり見えてくる。人の足音も増えていた。宮が目覚めていく。
「真鹿人。神が逃れるとは、どういうことだと思う」
「敗れることだと思います」
そう答えると、宿禰は首を横に振らなかった。肯定もしなかった。
「多くは、そう書く」
「違うのですか」
「違うかどうかを見てこい」
私はそこで初めて、この命がただの採録ではないことを悟った。
「出雲で、大国主のことを聞け。事代主の沈黙を聞け。そして、抗った神の足跡を聞け。その神が東へ向かったというなら、東の山に残る声も聞け」
「東の山」
「信濃だ」
信濃。
宮から見れば遠い山の国。道は険しく、霧が深く、冬は人を拒むと聞く。そこに、出雲から逃れた神の名が残るという。
宿禰はさらに言った。
「その先に、月を名づけぬ民がいるとも聞く」
私は眉をひそめた。
「月を名づけぬ、とは」
「知らぬ。だから行くのだ」
宿禰の言葉は短かった。
月を名づけぬ民。
神に名を与えることを務めとする私には、その言葉がうまく呑み込めなかった。月ほど明らかなものがあるだろうか。夜ごと空に浮かび、欠け、満ち、また欠ける。稲の時を測り、潮を呼び、人の眠りに影を落とす。
それほど近いものに名を与えぬとは、どういうことなのか。
「出立はいつですか」
「三日後」
「急ですね」
「遅いくらいだ」
宿禰は立ち上がった。
「因幡を通れ」
「出雲へ向かうなら、その道になるかと」
「ただ通るな。兎の話を聞け」
「白兎の話ですか」
「そうだ」
私は少しだけ戸惑った。
因幡の白兎。
子どもでも知っている話だった。海を渡ろうとして、和邇を欺き、皮を剥がれ、泣いていた兎。そこへ通りかかった神が、兎を救う。
よく知られた、慈悲深い神の話。
国を造る神の徳を示す話。
「それなら、私も聞いたことがあります」
「お前が聞いたのは、子どもに聞かせる兎だ」
宿禰はそう言った。
「では、本当は違うと」
「本当などというものは、たいてい幾つもある」
その言葉は、私たち記録官の教えとは少し違っていた。
記録とは、幾つもある話をひとつに整えるためのものだ。なのに宿禰は、幾つもあることをそのまま見よと言っているようだった。
「兎は海を渡らぬ」
宿禰は静かに言った。
「だが、話の中では渡る。ならば、その兎は何を示す」
私は答えられなかった。
「因幡で聞け。出雲で聞け。道を知る者に聞け。子どもの話の皮を剥げば、そこに別のものが残る」
皮を剥ぐ。
その言葉は、白兎の話と重なり、私は妙な寒さを覚えた。
宿禰は戸口まで歩き、そこで一度だけ振り返った。
「真鹿人」
「はい」
「聞いたものを、すべて書こうとするな」
私は思わず聞き返した。
「なぜですか。書くために行くのではないのですか」
「そうだ。だが、すべてを書いた記録は、時に何も残さぬ」
それだけ言うと、宿禰は部屋を出ていった。
私はしばらく動けなかった。
目の前には、まだ乾かぬ木簡と、古びた木簡の束がある。新しい墨の黒と、古い木の茶。書かれた名と、これから聞く名。残されたものと、まだ形を持たぬもの。
私は古い木簡の束をほどいた。
一枚目には、大国主の名があった。
二枚目には、その子らしき神々の名。
三枚目には、海辺の地名。
四枚目には、ところどころ削られた跡があった。
削られた文字は読めない。
だが、そこに何かが書かれていたことだけは分かった。
私は指でその跡に触れた。木の表面はわずかに窪み、爪の先が引っかかる。削られた名は、消えたのではなかった。読めぬ形で、そこに残っていた。
そのとき、部屋の外から若い記録官たちの声が聞こえた。今日も宮では、神々の名が集められ、並べられ、結ばれていく。誰かの祖が定められ、誰かの土地が系譜に組み込まれ、誰かの祭りが正しい名を与えられる。
それは国を作る仕事だった。
だが、削られた跡を指でなぞりながら、私は初めて思った。
国を作る仕事は、何かを消す仕事でもあるのではないか。
その思いは、まだ言葉にはならなかった。言葉になれば、私はそれを書かねばならない。書けば、それは私の考えとなる。私の考えとなれば、いずれ誰かに読まれる。
私は木簡を閉じた。
三日後、私は大和を発つ。
出雲へ向かう道は、まず因幡へ続く。白兎の話を聞き、海を渡らぬ兎の意味を探る。国を譲った神の言葉を聞き、沈黙した神の声を探る。そして、逃れた神の足跡を追い、東の山へ入る。
その先に、月を名づけぬ民がいるという。
私は部屋を出て、庭へ下りた。
朝の霧はほとんど消えていた。宮の上には、白い空が広がっている。太陽はすでに昇っているのに、私はなぜか、夜の月のことを考えていた。
名を持たぬ月。
呼ばれぬ神。
書かれぬ記録。
そのどれもが、まだ私には遠かった。
けれど、遠いものほど、歩き出した者の前に現れる。
そのことを、私はまだ知らなかった。




