第二十九章 書かれぬ神
朝になると、山は何事もなかったように立っていた。
昨夜、月を隠した山である。
黒い稜線で月を覆い、白い光を細く削り、三人の前から月を見えなくした山である。
だが、朝の光の中では、その山はただの山だった。
木々は湿りを含み、岩は冷え、尾根の端には薄い雲がかかっている。鳥が鳴き、遠くで水が流れ、火の灰は白く沈んでいた。昨夜の月の出来事など、山自身は覚えていないように見えた。
真鹿人は、そのことに少し戸惑った。
人は、夜に見たものを特別にしたがる。
月が隠れた。
山が月を守った。
山が月を奪った。
月が山へ入った。
そう呼びたくなる。
だが、朝になれば、山は山である。
月が出た時も、隠れた時も、朝になった時も、山は同じ場所にある。変わったのは、月であり、光であり、見る者の胸である。
それを忘れて、山にばかり意味を負わせてはならない。
真鹿人は、灰を見た。
多加津が昨夜の火を丁寧に処理していた。まだ熱の残る炭を土で覆い、燃え残りの枝を脇へ寄せる。佐那は、少ない水で器をすすいでいた。飯はもうほとんど残っていない。
朝は、考えよりも先に片付けを求める。
それがありがたかった。
月のことだけを考えていれば、また自分を見失う。
佐那が、器を持ったまま言った。
「昨夜は、月がなくなったみたいでしたね」
「隠れただけだ」
真鹿人は答えた。
「はい。消えたのではありません」
佐那は少し得意げに頷いた。
「でも、見えなくなると、不安になります」
「なぜ」
「あると分かっていても、見えないと、やはり寂しいです。母が同じ月を見ているかもしれないと思えるのも、見えるからです」
真鹿人は黙った。
見えないものと、ないものは違う。
けれど、見えないものを、ないものと同じように寂しく思うこともある。
人は理屈だけでは夜を越えられない。
見えないと分かっているから大丈夫だ、と言われても、大丈夫ではない夜がある。
佐那は器をすすぎ終え、荷へしまった。
「月が隠れるなら、火があると助かります」
「昨夜もそうだったな」
「はい。月が見えない時、火を見ると、ここにいる人は見えます」
佐那は多加津を見た。
「多加津どのも見えました」
多加津は短く答えた。
「見えた方がよい時もある」
「見えない方がよい時も?」
「ある」
佐那は、深く聞かなかった。
それが、彼なりに覚えた距離なのだろう。
三人は荷を背負い、尾根の肩を離れた。
古い石三つは、そのまま残した。
真鹿人は一度だけ振り返った。
石は、朝の光の中では、月と何の関係もないように見えた。山の稜線も、ただ遠くにあるだけだった。
夜には、あれほど意味を持って見えたものが、朝には乾いている。
その差を、どう持てばよいのか。
夜の意味を捨てれば軽すぎる。
朝の姿を無視すれば重すぎる。
記録は、どちらの時刻を選ぶのか。
真鹿人は、まだ答えを持たなかった。
道は、尾根を越えて下り始めた。
昨日より空が広い。
木々の間から、山の重なりが見えた。そのさらに向こうに、白く霞む空がある。海は見えない。湖も見えない。だが、山と山の間に、遠い光が差していた。
朝の日だった。
月ではない。
夜の白い光ではなく、物の輪郭を一つずつ取り戻す光である。
石は石に戻り、木は木に戻り、道は道に戻る。夜には同じ黒さへ沈んでいたものが、朝日を受けて、それぞれ別の形を持ち始める。
真鹿人は、その光を見て、大和を思った。
大和も山に囲まれている。
広い海を直接見る土地ではない。
飛騨ほど深く隠れているわけではないが、山の間に身を置く土地である。朝日は山の端から出て、夕日は山の向こうへ早く沈む。山間の日は短い。光は限られ、影は早く来る。
月では足りなかったのかもしれない。
夜を越えるには月がある。
離れた者を思うには月がある。
だが、国を立て、田を開き、人を数え、神々の名を並べ、明日だけでなく、さらに先の時を綴るには、月では短い。
月は欠ける綴るには、月では短い。
月は欠ける。
隠れる。
夜に属する。
人の胸を慰めるが、昼の仕事をすべて支えるわけではない。
大和は、日を求めた。
山間に隠れながら、上を見た。
短い日を追い、その光を長くしたいと願った。
山を頼り、川を頼り、やがて海へ届く道を求めながら、今だけではない時を綴ろうとした。
そのために、日を信じた。
そのために、記録を信じた。
月のように、その夜その夜の胸を照らすものではなく、日がまた昇るように、明日も、その先も続くものを求めた。
だから大和は、名を並べる。
神々を系譜へ置く。
土地の声を一つの時の流れへ入れる。
それは、支配だけではない。
短い日を生きる者が、もっと長い時を得ようとした祈りでもあったのかもしれない。
真鹿人は、そう思った。
そして、同時に怖くなった。
祈りは、支配に変わる。
安寧は、道具に変わる。
日を求めることは、光を求めることだ。
だが、強い光は影を濃くする。
大和が日を求め、長き時を綴ろうとした時、月の下で守られていた小さな夜の安らぎは、どう扱われるのか。
月に名を与えぬ民の沈黙は、日の下の記録に耐えられるのか。
真鹿人は、足を止めた。
多加津が振り返る。
「どうした」
「大和のことを考えていた」
「今か」
「今だからだ」
多加津は、少しだけ目を細めた。
佐那も振り返った。
「大和が恋しくなりましたか」
真鹿人は答えに迷った。
「恋しい、とは少し違う」
「では、戻りたい?」
「それも違う」
「では?」
「大和が、なぜああなのかを考えていた」
佐那は首を傾げた。
「ああ、とは」
「名を集め、神を並べ、記録しようとすることだ」
「真鹿人さまの仕事ですね」
「そうだ」
佐那は少し考えた。
「悪い仕事なのですか」
真鹿人は、すぐには答えなかった。
それは、この旅の初めから自分の中にあった問いだった。
記録は悪なのか。
名づけは奪うことなのか。
大和は、土地の声を潰す者なのか。
答えは、簡単ではない。
「悪いだけではない」
真鹿人は言った。
「大和は、長く残そうとしている。今だけではない時へ、神の名や土地の語りを渡そうとしている」
「それは、良いことでは」
「良いことでもある」
「でも、困ることもあるのですね」
「そうだ」
佐那は頷いた。
「飯を干すのに似ていますか」
真鹿人は、思わず佐那を見た。
「飯?」
「はい。干し飯は長く持ちます。旅では助かります。でも、炊きたての飯とは違います」
多加津が、わずかに口元を動かした。
真鹿人は黙った。
佐那は続けた。
「炊きたての飯をそのまま持って旅はできません。腐ります。だから干します。でも、干したら、湯で戻しても元の飯にはなりません」
真鹿人は、深く息を吐いた。
「そうだな」
「記録も、それに似ているのでは」
佐那は干し飯の袋を軽く叩いた。
「残すために、少し違うものにする。でも、違うものになったと忘れると、困ります」
真鹿人は、しばらく何も言えなかった。
佐那は、腹と足で理解する。
その理解は、時に真鹿人の思索よりも、土地に近い。
記録は、干し飯に似ている。
残すために、乾かす。
乾かせば、長く持つ。
だが、元の温さも、湯気も、匂いも、炊いた者の手つきも失う。
旅の途中でそれを食べる時、ありがたい。
しかし、それを炊きたての飯そのものだと思えば、間違える。
大和の記録も、そうであるべきなのかもしれない。
長く持たせるために変えたもの。
後の者が、湯を加え、火にかけ、自分の時代の腹で受け直すもの。
だが、大和がそのことを忘れれば、乾いた名を生きた神だと思い込む。
それは、危うい。
「佐那」
「はい」
「それは、書いてよいか」
佐那は驚いたように目を丸くした。
「今のですか」
「そうだ」
「干し飯の話を?」
「記録に似ている」
佐那は少し照れたように頭をかいた。
「よいですが、あまり偉そうに書かないでください。私は腹が減っていただけです」
「そのまま書く」
真鹿人は普通の木簡を取り出し、小刀で短く刻んだ。
> 佐那曰く、記録は干し飯に似たり。
> 長く持たせるため乾かす。されど、炊きたての飯にあらず。
> 違うものになったと忘るべからず。
刻み終えると、佐那は木簡を覗き込んだ。
「本当に書いたのですか」
「書いた」
「少し恥ずかしいです」
「大事なことだ」
「では、次は飯も多めに残してください」
「それは別の話だ」
多加津が言った。
「別ではない」
佐那は真剣だった。
三人はまた歩き出した。
道は、昨日の古い石段とは違い、少しずつ人の手が増えてきた。枝が払われ、踏み跡が固くなり、ところどころに木の杭が打たれている。
しかし、杭には字がなかった。
道を示すためのものではなく、何かを避けるためのものかもしれない。あるいは、冬に雪が積もった時の目印かもしれない。
真鹿人は、いちいち意味を与えようとする自分を感じ、そのたびに止めた。
見たものを、すぐ名にするな。
だが、見なかったことにするな。
その間は、狭い。
昼を過ぎる頃、彼らは小さな作業場へ出た。
数人の男たちが、木を削っていた。
木材は、どれも丁寧に選ばれている。中に、ひときわ赤みを帯びた木があった。硬そうで、目が細かく、光を受けると深い色を返す。
多加津が足を止めた。
真鹿人も、その木から目を離せなかった。
作業場の奥に、年長の男がいた。
昨日の老人とは別の者だ。髭を短く整え、腕は太く、手には細かな傷がいくつもある。男は三人を見ると、仕事の手を止めた。
「道の者か」
「はい」
真鹿人は頭を下げた。
「大和の記録官、真鹿人です。飛騨の奥へ向かっています」
男は、大和という言葉に大きく反応しなかった。
ただ、赤みを帯びた木へ一度目を向けた。
「大和の者なら、木を見るか」
「木を?」
「見ておけ」
男は、赤い木のそばへ真鹿人を招いた。
佐那も興味深そうについてきた。
多加津は少し離れて周囲を見ている。
男は木に手を置いた。
「これは、ただの木ではないと言う者もいる」
真鹿人は息を止めた。
「何の木ですか」
「イチイ」
その名は、静かに置かれた。
イチイ。
真鹿人は、その響きを胸の内で受けた。
資料としてではなく、初めて物として見る木だった。
赤みを帯び、硬く、静かで、どこか深い。華やかではない。だが、軽くは扱えぬ気配がある。
「この木は、何に使うのですか」
佐那が問うた。
「使い方はいろいろある」
男は答えた。
「弓にもなる。器にもなる。印にもなる」
「印」
真鹿人が繰り返す。
「名ではなく、印だ」
男は木を撫でた。
「遠い者へ、背を向けぬと示す時に使うことがある」
「背を向けぬ」
「従うとは違う」
男の声は静かだった。
「名を渡すとも違う。こちらはここにあり、そちらを見ている。そう示す」
真鹿人の胸が強く打った。
飛騨の承認。
大和へ従うのではない。
名を渡すのでもない。
ただ、背を向けぬと示す。
それは、王を作る木ではない。
王であると名づける木でもない。
ただ、触れた者に、背を向けぬと告げる木。
そんな言葉が、真鹿人の内に浮かびかけた。
しかし、まだ書かない。
これは大きすぎる。
この木は、第五部へ続く。
今ここで意味を閉じてはならない。
「大和にも渡るのですか」
真鹿人は慎重に問うた。
男は答えなかった。
しばらく、木を見ていた。
「渡ることもある」
それだけだった。
「その時、大和はどう受けるのですか」
「大和は、名にしたがるだろう」
男は言った。
「印を名に。承りを支配に。背を向けぬことを、従うことに」
真鹿人は、返す言葉を失った。
男は責めているのではない。
ただ、そうなることを知っている声だった。
「しかし、大和にも大和の事情がある」
男は続けた。
「山の間に日を求める地だ。短い光を長くしたいのだろう。今だけでなく、先の時へ渡すために、名を置く。名がなければ、後の者が触れられぬと思っている」
真鹿人は、胸の奥を突かれた。
この男も、大和を悪としては見ていない。
だが、大和の危うさを見ている。
「名がなければ、後の者が触れられぬ」
真鹿人は繰り返した。
「大和では、そう考える者が多い」
「ここでは違うのですか」
「名があるから触れられぬものもある」
男は、イチイの木を軽く叩いた。
「この木を、ただの献上の木と書くな」
真鹿人は頭を下げた。
「はい」
「王を作る木とも書くな」
「はい」
「神の木とも、まだ書くな」
「はい」
「なら、何と書く」
問われた。
真鹿人は、木を見た。
赤みを帯びた木。
触れれば硬いだろう。
山に育ち、切られ、ここに置かれ、何かへ変わるのを待っている木。
名ではなく印。
従属ではなく、背を向けぬこと。
だが、その意味をすべて書けば、早すぎる。
「今は、書けません」
真鹿人は言った。
男は頷いた。
「それでよい」
「しかし、見捨ててはならない」
「そうだ」
男は、少しだけ満足したように息を吐いた。
「書けぬものを見た時、すぐ空白へ逃げるな」
真鹿人は、はっとした。
男は続けた。
「空白は、逃げ場にもなる」
「はい」
「逃げた空白は、やがて嘘になる」
真鹿人は、深く頭を下げた。
その言葉は痛かった。
空の木簡を持つ自分が、どれほど空白を逃げ場にしてきたか。
書かないことを守りだと思いたがる。
だが、書く責任から逃れるために空白を使うこともできる。
その違いを見失えば、空白は記録ではなく、怯えになる。
男は、イチイの木から手を離した。
「大和の書く者」
「はい」
「日を求めるなら、影も書け」
真鹿人は顔を上げた。
「影」
「日を長くしようとする者は、影を忘れる」
男は言った。
「月を隠す山だけでなく、日を遮る山もある。大和が日を求めたなら、その日を受けられぬ者もいる」
真鹿人は、その言葉を受け止めた。
大和は日を求める。
長き時を綴ろうとする。
だが、日の下へ出されたものは、隠れて保たれていたものを失うことがある。
月の夜に安らいでいた祈り。
名を置かぬ場。
戻り方を空けた木片。
月を見ぬ老人の傷。
名を変えた多加津の寒さ。
それらは、強い日の下でどのように残るのか。
真鹿人には、まだ分からなかった。
作業場を離れる時、男は赤い木を削っていた。
イチイの香りが、かすかに風へ混じった。
佐那が小声で言った。
「きれいな木でしたね」
「そうだな」
「でも、難しい木です」
「木が難しいのではない。人が難しくする」
多加津が言った。
佐那は納得したような、していないような顔をした。
「それは、月も同じですか」
多加津は答えなかった。
真鹿人も答えなかった。
山道は、夕へ向かった。
今日の空はよく晴れていた。
西の山へ日が傾くと、光は一気に短くなった。山間の日は、本当に短い。さきほどまで明るかった道が、たちまち影を含む。日を求める気持ちが、真鹿人にも分かった。
月では足りぬ。
夜を慰める光だけでは、田を開けない。
木を削れない。
道を築けない。
遠い先の時へ記録を渡すには、日が要る。
だから大和は、日を求めた。
そして、日を求めすぎたのかもしれない。
真鹿人は、暮れゆく山道で立ち止まった。
背の荷の中に、空の木簡がある。
その空白は、月のためだけではなくなっていた。
火の赤さ。
出雲の海。
諏訪の水。
信濃の急き立て。
多加津の寒さ。
イチイの印。
大和の日。
それらが、何も書かれていない白い面の周りに、少しずつ集まり始めている。
だが、まだ書かない。
書けないのではない。
書いてはならない、と断じるのでもない。
ただ、まだ時ではない。
佐那が空を見上げた。
「今日は月が出ますかね」
「出るだろう」
真鹿人は答えた。
「その前に、日が沈みますね」
「そうだ」
「日が沈むのは、少し寂しいです。でも、月が出るなら、少し安心します」
佐那はそう言ってから、少し考えた。
「大和の人は、月では足りなかったのですね」
真鹿人は、佐那を見た。
「なぜそう思う」
「真鹿人さまの顔が、そうでした」
「また顔か」
「はい。今日は日を見ている顔でした」
真鹿人は、苦く笑った。
「大和は、日を求めたのかもしれない」
「月ではなく?」
「月も見ただろう。だが、月だけでは足りなかった」
「飯も炊けませんしね」
「そうだ」
「でも、日だけでも夜は越せません」
佐那は言った。
真鹿人は、静かに頷いた。
「それも、そうだ」
日だけでは夜を越せない。
月だけでは昼を渡れない。
火だけでは遠くを結べない。
海だけでは根を保てない。
山だけでは広がれない。
水だけでは形を留めない。
だから、人は土地ごとに違うものを頼る。
そして大和は、それらを並べようとしている。
並べることは、もしかすると、人が互いの足りなさを知るためでもあるのかもしれない。
だが、並べ方を誤れば、足りなさではなく、上下になる。
神々の系譜は、時に助けとなり、時に縄となる。
真鹿人は、その危うさを胸に持った。
夜が来た。
日が沈むと、山は急に冷えた。
三人は小さな火を起こした。
月はまだ出ていない。
空は深く、星が少しずつ現れ始めている。
佐那は火のそばで、残り少ない飯を見てため息をついた。
「明日は、食べ物を得たいです」
「得られる場所へ向かう」
多加津が言った。
「本当ですか」
「おそらく」
「おそらくは、少し怖いです」
真鹿人は火を見た。
火の赤さ。
日を失った後の小さな日。
月が出るまでの、近い光。
大和が求めた日も、阿蘇の火も、飛騨の月も、今この小さな火の中で、まだ名を持たずに響いている。
遠い日。
近い火。
夜の月。
それぞれ違う。
だが、人が時を越えるための光という意味では、どこかでつながる。
今だけではない時。
大和はそれを綴ろうとした。
しかし、今この火のそばにいる三人の寒さと空腹と沈黙を抜きにして、長き時だけを綴れば、それは誰のための記録になるのか。
真鹿人は、火の向こうの闇を見た。
そこに月はまだない。
だが、やがて出る。
日が沈み、火を守り、月を待つ。
その順の中に、人の一日はある。
どれか一つでは足りない。
記録もまた、どれか一つでは足りないのだろう。
木簡に書かれた名。
語られずに残る沈黙。
書かぬことで守る空白。
飯の匂い。
火の温さ。
月を見ぬ者の背。
日を求める大和の祈り。
そのすべてを、同じ形で残すことはできない。
だからこそ、真鹿人は迷う。
迷わずに書く者は、強い。
だが、その強さは危うい。
迷い続ける者の記録は、遅い。
だが、その遅さが、閉じることを少しだけ遅らせるのかもしれない。
月が出た。
山の端から、ゆっくりと。
昨夜よりも少し形を変えていた。
欠け、満ち、隠れ、また出る。
同じ月であり、同じではない月。
真鹿人は、その月を見た。
そして、月を見ている自分も見た。
大和の日を思う自分。
飛騨の月を記せずにいる自分。
出雲の海を、諏訪の水を、信濃の急き立てを、阿蘇の火をまだ知らぬまま想像する自分。
それらすべてを、すぐには信じなかった。
空の木簡は、まだ空のままだった。
その空白は、もはや白いだけではない。
夜の月を受け、火の赤を受け、日の短さを受け、山の影を受けている。
だが、なお何も書かれていない。
真鹿人は思った。
神の名を書くべきところに、何も書かぬ日が来るのかもしれない。
だが、その日が来る前に、自分は日を求める大和の理由も、月を隠す飛騨の寒さも、どちらも持たねばならない。
片方だけでは、空白はただの逃げになる。
火が小さく鳴った。
佐那が飯を配った。
多加津が闇の方へ目を向けた。
月は山の上にあり、日はすでに沈んでいた。
その間で、真鹿人は何も書かなかった。
だが、書かぬことの重さを、少しだけ以前より疑えるようになっていた。




