第二十八章 月を隠す山
石段は、途中で途切れていた。
崩れたのではない。
なくなったのでもない。
ただ、人が石を置くことをやめた場所があった。
そこから先は、土の道だった。根が浮き、苔が張り、落葉が重なり、ところどころに古い石が半ば埋もれている。石段の続きと言えば続きだったし、もう道ではないと言えば、そうでもあった。
少女は、そこで足を止めた。
「私はここまで」
佐那が振り返った。
「ここから先は、案内なしですか」
「案内はある」
「どなたが」
少女は、前方の木々を見た。
「水と、風と、足」
佐那は困ったような顔をした。
「その方々は、あまり親切ではなさそうです」
「親切ではない。でも、嘘は少ない」
少女はそう言って、腰に下げた空の木片へ手を触れた。
真鹿人は頭を下げた。
「世話になりました」
「世話をしたのは、火と飯」
「あなたにも」
「なら、少しだけ」
少女は淡く笑った。
その笑みは、朝の月のように薄かった。見ようとすれば消えてしまいそうで、しかし確かにあった。
多加津は、少女へ短く頷いた。
少女は多加津を見返した。
「その名で行くなら、その名の足で歩くといい」
多加津は、すぐには答えなかった。
やがて、低く言った。
「今は、そうする」
少女はそれ以上問わなかった。
問いは、そこで終わった。
だが、終わった問いが消えるわけではない。
真鹿人には、それが分かり始めていた。
問いは、答えられなかった時、別の形で残る。木簡に刻まれず、声にもされず、ただ人の背に影のようについていく。
多加津の背にも、今、その影があった。
少女と別れ、三人はさらに山へ入った。
道は上るのか、下るのか、しばらく分からなかった。尾根を越えているようで、谷へ巻いているようでもある。木々の間から見える空は狭く、太陽の位置もつかみにくい。
風はあった。
だが、その風も道を教えるというより、通り過ぎるだけだった。葉を揺らし、汗を冷まし、時に木の匂いを運んでくる。風を追えば道を失う。風は、人のために吹いているわけではない。
昼近く、三人は小さな沢に出た。
水は澄んでいた。
石の間を、細く、速く流れている。浅い水である。足を浸せば、すぐ底に触れるほどだった。それでも、音はよかった。せせらぎという言葉が自然に浮かぶほど、軽く、途切れず、耳に触れてくる。
沢の周りには、木々が静かに立っていた。
枝は高く、葉は薄く揺れ、ところどころに柔らかな光が落ちている。山の奥でありながら、その場所だけは少し開けていた。大きな火を焚く場所ではない。家を建てる場所でもない。ただ、荷を下ろし、水を飲み、息を整えるには十分だった。
佐那は、ほとんど倒れ込むように腰を下ろした。
「休みましょう」
多加津は周囲を見た。
「少しだけだ」
「少しだけでも、休みです」
佐那は足を伸ばし、沢の水へ手を入れた。
すぐに顔をしかめる。
「冷たい」
「山の水だ」
「分かっています。でも冷たいです」
佐那は手を振り、水を払った。
真鹿人も荷を下ろした。
肩が痛んでいた。
足の裏も熱い。
体は、休みを求めていた。
けれど、心は落ち着かなかった。
不思議な場所だった。
水はよい。
木陰もよい。
風もある。
石に腰を下ろせば、足を休められる。
なのに、長く座っていてはならない気がする。
誰に急かされているのでもない。
追っ手がいるわけでもない。
夜が迫っているにはまだ早い。
それでも、胸の奥で何かが言っていた。
行け。
ここに留まるな。
休め。
だが、休みきるな。
行け。
真鹿人は、水の音を聞いた。
信濃の道を思い出した。
山へ入り、曲戸という老人に会った道。人の道、水の道、獣の道、逃げる者の道、追う者の道、名を持つ者の道、名を捨てた者の道が重なっていた。
信濃の道、ひとつにあらず。
あの時の言葉は、今も足元に続いている。
長野。
信濃。
そこは目的地ではなかった。
出雲から諏訪へ向かう途中にあり、諏訪から飛騨へ向かう道にも影を落とす。川のせせらぎがあり、山の木々があり、休む場所はある。だが、そこでは十分な食物が得られない。獣はいるが、追えば道を失う。木の実はあるが、腹を満たすほどではない。水はあるが、留まる理由にはならない。
休むための地。
しかし、安住を許さぬ地。
足を止めると、心が叫ぶ。
行け、と。
真鹿人は、佐那を見た。
佐那は干し飯を取り出していたが、残りを数えて渋い顔をしている。
「少ないのか」
「少ないです」
「昨日、木の実をもらっただろう」
「あれは昨日です」
「正しいな」
「正しいです。腹は、昨日の礼だけでは今日を越せません」
佐那は干し飯を三つに分けた。
分けた後、さらに自分の分を少し削って、多加津の方へ寄せた。
多加津がそれを見た。
「いらぬ」
「歩く人が倒れると困ります」
「お前が倒れても困る」
「私は、文句を言いながら歩けます」
「それは知っている」
佐那は少しだけ笑った。
だが、笑いはすぐ消えた。
「このあたり、何か取れないのですか」
多加津は周囲を見た。
「取れるものはある。だが、探すと時を失う」
「少し探しては」
「少しで済まぬ」
「では、食べずに進むのですか」
「少し食べて進む」
佐那は干し飯を見つめた。
「休む場所なのに、休ませる気がありませんね」
その言葉に、真鹿人は頷いた。
まさにそうだった。
ここは休む場所である。
だが、休ませきらない。
水はあるが、食は乏しい。
木陰はあるが、夜を越すには心もとない。
音は穏やかだが、その穏やかさの奥に、足を進めろという急き立てがある。
安らぎに似たものがありながら、安住とは違う。
真鹿人は、そういう土地を初めて意識した。
出雲は、海を見ることで遠くを思わせた。
諏訪は、水を受けることで変化を許した。
飛騨は、山に隠すことで距離を守った。
信濃は、その間にある。
留まるには足りず、通り過ぎるには惜しい。
体は休む。
心は進む。
そのずれが、人を急き立てる。
多加津が、沢の上流を見た。
「長くいるな」
「なぜ」
真鹿人が問う。
「良い場所に見える」
「それが危ないのか」
「良い場所は、他のものにも良い」
多加津は低く言った。
「獣にも、人にも」
佐那は干し飯を口に入れかけて、止めた。
「人にも?」
「休みたい者は、皆こういう場所を探す」
「では、誰か来るかもしれない」
「来るかもしれぬ」
「それは、よいことでは」
「よい者とは限らぬ」
佐那は黙って干し飯を噛んだ。
真鹿人は、多加津の横顔を見た。
逃げる者は、休む場所の危うさを知っている。
追う者もまた、そこを知る。
水のある場所。
木陰のある場所。
足を休めたくなる場所。
そこには、出会いが起こる。
出会いは、恵みであることもある。
富であることもある。
出雲の海のように。
だが、出会いは別れも死も連れてくる。
富を呼ぶ場所は、奪う者も呼ぶ。
休息地は、休む者だけでなく、待つ者も集める。
真鹿人は、出雲の海と、この小さな沢を重ねかけた。
大きさはまるで違う。
だが、来る者を呼ぶという意味では、どこか似ている。
それでも同じではない。
海は広がるために呼ぶ。
沢は、進むために一時だけ呼ぶ。
海は、そこからまた別の土地を思わせる。
沢は、ここに留まるなと告げる。
真鹿人は水をすくい、口に含んだ。
冷たかった。
冷たさは、腹より先に胸へ届いた。
その冷たさの中で、彼はふと思った。
人は、休むためにも、時に急かされるのかもしれない。
休むとは、止まり続けることではない。
次に進むために、少しだけ足を置くこと。
信濃は、そのための土地なのかもしれない。
だが、そう書けば、また軽い。
水は水であり、木は木であり、ここに吹く風は、人の道のためだけに吹いているわけではない。
真鹿人は木簡を取り出さなかった。
この場所は書きにくい。
あまりに小さい。
神が現れたわけでもない。
語り部がいたわけでもない。
名を伏せる老人が言葉をくれたわけでもない。
月が出たわけでも、火が人を集めたわけでもない。
ただ、沢があり、木陰があり、乏しい飯を分け、少し休み、心が急いた。
それだけである。
だが、その「それだけ」を取り落とすと、旅は別のものになる。
神の名と大きな土地だけで旅を記せば、こうした休み場は消える。
消えた休み場の上に、後の者はどのように道を読むのか。
木簡は道ではない。
道の杭にすぎない。
ならば、杭にもならぬほど小さな場所は、どう残せばよいのか。
佐那が、沢の音を聞きながら言った。
「落ち着きませんね」
「お前もか」
「はい」
「休んでいるのに」
「休んでいるのにです」
佐那は足をさすった。
「足は助かっています。でも、胸のあたりが、早く行けと言います」
真鹿人は頷いた。
「私もだ」
「多加津どのは?」
多加津は沢の向こうを見たまま答えた。
「休む時は、急ぐために休む」
佐那は少し嫌そうな顔をした。
「それでは、休みが休みではありません」
「山では、そういう休みの方が多い」
「私は、腹いっぱい食べて眠る休みが好きです」
「それは、戻った時にしろ」
佐那は、その言葉に少しだけ黙った。
「戻った時」
小さく繰り返す。
「どこへ戻るのでしょうね」
その問いは、誰に向けたものでもなかった。
真鹿人は答えなかった。
多加津も答えなかった。
沢の音だけが、代わりに流れた。
戻る場所。
大和。
出雲。
諏訪。
飛騨。
あるいは、まだ名を出せぬどこか。
人はそれぞれ、違う戻り方を持つ。
戻る場所が一つとは限らない。
戻れない場所を、戻る場所として持ち続ける者もいる。
昨日の老人の郷愁が戻った。
良い場所にいても、別の良い場所が胸を急かす。
この沢の休息も、似ていた。
ここは良い。
だが、ここではない。
ここにいたい。
だが、行かねばならない。
その二つが同時にある。
それが、休まりきらぬ休息の正体なのかもしれない。
沢の上流で、鳥が一羽鳴いた。
多加津が顔を上げた。
「行くぞ」
佐那は、深くため息をついた。
「やはり」
「やはりだ」
「もう少しだけ」
「もう少しが、長い」
「それは、人によります」
「山には通じぬ」
佐那は名残惜しそうに沢を見た。
それから、残りの干し飯を口へ入れ、水を飲み、立ち上がった。
「良い場所でした」
真鹿人も立ち上がった。
「だが、落ち着かなかった」
「はい」
佐那は頷いた。
「良いのに、落ち着きませんでした」
多加津が言った。
「そういう場所もある」
真鹿人は、沢を振り返った。
水は変わらず流れていた。
三人が去っても、何も変わらないだろう。別の獣が来るかもしれない。別の人が休むかもしれない。誰も来ず、ただ水が石を洗い続けるかもしれない。
この場所は、三人を待っていたのではない。
だが、三人はここで休んだ。
それだけで、この場所は旅の中に残る。
書かれていなくても。
いや、書かれなければ、後から読む者には残らない。
真鹿人は迷った。
そして、普通の木簡を取り出した。
佐那が目を向けた。
「書くのですか」
「少しだけ」
真鹿人は、小刀を取り、木簡の端に短く刻んだ。
> 山中、沢あり。
> 水よく、木陰あり。食乏し。
> 足は休まり、心は急く。
> 行け、と胸に聞こゆ。
それだけだった。
地名は書かなかった。
神の名も書かなかった。
信濃とも、飛騨とも書かなかった。
その場所を、大きな名へ入れるには早い。
だが、ここで足が休まり、心が急いたことだけは残したかった。
佐那が木簡を覗き込んだ。
「食乏し、は必要ですか」
「必要だ」
「なぜです」
「それが、この場所をよく表している」
佐那は少し考え、真剣に頷いた。
「確かに。食が十分なら、私はもっと居たいと思いました」
「では、乏しいことにも意味がある」
「嬉しくはありませんが」
「私もだ」
多加津が先へ進みながら言った。
「書いたなら、行くぞ」
真鹿人は木簡をしまい、歩き出した。
沢から離れると、水音はすぐに細くなった。
聞こえなくなる直前、その音は一度だけ大きくなったように思えた。
行け。
そう聞こえた。
実際には、水が石に当たっただけだろう。
だが、真鹿人の胸には、その声が残った。
行け。
休みは終わった。
進め。
どこへ。
その問いに、まだ答えはない。
飛騨の奥へ。
月を隠す山へ。
名を置かぬ場へ。
多加津の影が落ちる道へ。
あるいは、やがて大和へ戻るための、戻り方を失わぬ道へ。
三人は進んだ。
道は次第に深くなった。
木々がまた密になり、空は狭くなった。昼のはずなのに、薄暗い。先ほどの沢の明るさが嘘のようだった。
佐那は一度振り返った。
「もう、水の音が聞こえません」
「聞こうとすれば、少しは聞こえる」
真鹿人が言うと、佐那は耳を澄ませた。
「……聞こえるような、気もします」
「それでよい」
多加津が言った。
「聞こえぬと思えば、戻りたくなる。少し聞こえると思えば、進める」
佐那は、なるほどという顔をした。
「多加津どのは、時々よいことを言います」
「時々か」
「はい。普段は怖いことを言います」
多加津は答えなかった。
だが、背中の固さが少しだけ緩んだように見えた。
真鹿人は、その背を見ながら歩いた。
沢の休息は、もう背後にある。
だが、完全には消えていない。
行け、と急かす声は、今も胸にある。
休んだことで、かえって進む力が戻った。
不思議なことだった。
休息とは、留めるものではなく、動かすものでもあるのだ。
落ち着かぬ休息。
それは矛盾ではなかった。
山道は夕方へ向かって、さらに険しくなった。
石が増えた。
根が道を横切り、時に膝ほどの高さで張り出している。木の間隔は狭まり、風は通りにくくなった。湿った匂いが濃く、土の下に古い水が眠っているようだった。
少女は言った。
この先で、道が古くなる。
その言葉の意味が、少しずつ見えてきた。
人の足より前のものが残っている。
神の道と呼ぶ者もいる。
だが、呼ぶと歩き方を間違える。
真鹿人は足元を見た。
道は、人が作ったようでもあり、山がたまたま残した隙間のようでもあった。時おり、石が左右に並ぶ。何かの境のようにも見える。だが、すぐに根と苔に隠れる。
神の道と呼べば、神の意味を探してしまう。
古い道と呼べば、人の歴史を探してしまう。
ただの山道と呼べば、置かれた石の意図を見落とす。
どの名も、少し足りない。
どの名も、少し余計だった。
夕が近づいた。
空は、木々の上でわずかに赤みを帯びた。
だが、道の上にはその赤さは届かない。山の内側は、すでに夜の準備を始めている。足元の石が黒くなり、木の幹が太く見え、鳥の声が少なくなる。
佐那が不安そうに言った。
「今夜は、どこで休むのですか」
「もう少し先だ」
多加津が答えた。
「もう少し、が長い時があります」
「今は長い」
「先に言わないでください」
佐那は肩を落とした。
真鹿人も疲れていた。
沢で休んだはずなのに、疲れは戻っている。いや、休んだからこそ、疲れに気づいたのかもしれない。歩き続けている時は、体はただ前へ動く。止まると、痛みが名を持つ。
足の裏。
肩。
腰。
喉の渇き。
空腹。
それらが一つずつ自分の名を主張し始める。
佐那が飯の話をする理由が、少し分かった。
腹が減ると、神話は遠くなる。
遠くなるから、かえって正しくなることもある。
やがて、道の先が開けた。
そこは、小さな尾根の肩だった。
木々が少し切れ、空が見えた。
遠くに山が重なっていた。
その一番奥に、黒い山の稜線があった。
高い山ではない。
だが、形が重かった。
夕の空を背にして、その山は月の出る方角を塞ぐように立っていた。
まだ月は出ていない。
しかし、真鹿人には分かった。
今夜、月はあの山に隠される。
多加津も同じことを思ったのだろう。
彼は足を止め、山の稜線を見た。
「ここで見ることになる」
佐那が問う。
「月ですか」
「月が隠れるところだ」
その言葉に、真鹿人の胸が静かに鳴った。
月を隠す山。
ついに、その場所へ来たのかもしれない。
いや、そう思うには早い。
飛騨の核心を、自分の都合で決めてはならない。
ただ、今夜、山が月を隠す。
それだけだ。
それだけを、まず見る。
尾根の肩には、古い石が三つ置かれていた。
祠ではない。
石積みでもない。
ただ、三つの石が、山の稜線へ向くように低く置かれている。
その前に立つための場所は狭い。
多くの人が集まる場ではない。
一人か二人が、静かに立つための場所だった。
佐那が小声で言った。
「ここも、月を見る場所ですか」
多加津は答えなかった。
真鹿人も答えられなかった。
見れば、月を見る場所に見える。
だが、もしかすると、月を見ないための場所かもしれない。
月が隠れるのを見届ける場所かもしれない。
山へ月を返す場所かもしれない。
あるいは、ただ旅人が腰を下ろした石かもしれない。
真鹿人は、意味を急がなかった。
三人は、少し離れた場所に荷を下ろした。
火はまだ起こさない。
多加津が周囲を見ている。
佐那は干し飯の残りを確認し、深刻な顔をした。
「今夜の飯は、かなり心細いです」
「明日、どこかで補う」
真鹿人が言うと、佐那は空を見た。
「月が食べられればよかったのですが」
「月で飯は炊けぬ」
多加津が言った。
「知っています。でも、そう言いたくなる夜もあります」
佐那はそう言いながら、飯を分け始めた。
夕は、さらに深くなった。
空の赤みが薄れ、青が沈み、山の稜線が黒くなる。
そして、黒い山の端に、淡い白さが触れた。
月だった。
まだ全ては見えない。
山の向こうから上がろうとしているのか、あるいは山の陰に沿って動いているのか、よく分からない。
ただ、山の背後に光があった。
佐那が息を止めた。
真鹿人も、見た。
白い光は、なかなか姿を見せなかった。
山の端を細く照らし、雲の下を淡く染めるだけで、月そのものは隠れている。
そこにある。
しかし見えない。
見えないものと、ないものは違う。
その言葉は、今夜また別の形で戻ってきた。
月は、出ていないのではない。
山が隠している。
山に奪われたのでもない。
山の向こうにある。
真鹿人は、胸の内で静かにその違いを確かめた。
佐那が小声で言った。
「見えませんね」
「ある」
多加津が答えた。
「見えないのに」
「あるから、山の端が白い」
佐那は山を見た。
「なるほど」
少しして、月の端が出た。
ほんのわずかだった。
山の稜線に沿って、白い弧が現れる。だが、すぐに木の枝が重なり、また欠ける。雲も流れ、光は見えたり消えたりした。
月は、完全には出なかった。
山がその姿を少しずつ隠している。
あるいは、少しずつ見せている。
どちらとも言えた。
真鹿人は、息を浅くした。
月を隠す山。
その言葉は、強すぎる。
強すぎる言葉は、土地を従わせる。
山は、月を隠そうとしているのか。
それとも、ただそこにあるだけなのか。
人が山を見て、月が隠れたと思うだけなのか。
月は隠されることで守られるのか。
それとも、人がそう思いたいだけなのか。
断じてはならない。
真鹿人は、自分の中で何度も止めた。
だが、それでも胸は揺れた。
隠れることで、保たれるものがある。
月を見ぬ老人。
子どもの下ろされた手。
名を書かぬ木片。
戻り方を空けておく山の札。
多加津の「今は」という名。
それらすべてが、この山の黒い稜線の上に、静かに重なりかける。
重ねすぎるな。
真鹿人は自分に言った。
だが、完全に切り離すこともできなかった。
月の白い端が、山に触れている。
触れているように見える。
遠い空の出来事であるはずなのに、山と月が互いに何かを渡しているように見えた。
佐那は、手にした飯を食べるのも忘れていた。
多加津は、月ではなく周囲を見ていた。
だが時折、山の端へ目を向けた。
その目には、警戒とは違うものがあった。
「多加津」
真鹿人は小声で呼んだ。
「何だ」
「このような月を、見たことがあるか」
多加津は、しばらく黙った。
「ある」
「どこで」
問うてから、早かったかもしれないと思った。
しかし多加津は、今度は拒まなかった。
「戻らぬための道で」
真鹿人は息を止めた。
佐那も、顔を向けた。
多加津は、山の稜線を見ていた。
「月が出れば、道が分かると思っていた。だが、山が隠した」
「それで」
「火もなかった」
多加津の声は低かった。
「名を呼ばれると、戻らねばならぬ。だから、名を捨てた。だが、月まで隠れると、自分がどこにいるのか分からなくなった」
真鹿人は、何も言えなかった。
多加津は続けた。
「その時、思った。名を捨てれば自由になると思っていたが、名がないと、呼ばれぬ。呼ばれぬ者は、時に自分の足音しか持たぬ」
佐那が、静かに聞いていた。
「怖かったですか」
佐那の問いは、真っ直ぐだった。
多加津は少しだけ佐那を見た。
「怖かった」
佐那は頷いた。
「そうですか」
それだけだった。
慰めも、詮索もなかった。
真鹿人は、その短いやり取りに救われる思いがした。
怖かったと言えること。
それを、そうですかと受けること。
大きな名も、深い解釈もいらない時がある。
多加津は、また月の方へ目を戻した。
「月を頼りに歩くなと言ったのは、そのためだ」
「雲に隠れれば終わるから」
「山にも隠れる」
「名も、隠れる」
真鹿人が言うと、多加津はわずかに頷いた。
「名を隠すことは、守ることにもなる。だが、寒い」
寒い。
その言葉が、真鹿人の胸に落ちた。
名を隠すこと。
名を与えないこと。
名を置かないこと。
それらは、これまでどこか高い思想のように響いていた。
月を守るため。
土地を奪われないため。
神を人のものにしないため。
だが、多加津は言った。
寒い、と。
名を隠した者は、守られるだけではない。
呼ばれなくなる。
戻る場所が曖昧になる。
自分の足音しか持たぬ夜がある。
空白は、温かいものではない。
空白は、時に寒い。
真鹿人は、空の木簡を思った。
その白い面を、これまで何度、深いものとして見そうになっただろう。
だが、空白は深さではない。
空白は寒さでもある。
書かれぬこと。
呼ばれぬこと。
戻れぬこと。
その重さを持たずに、空白を記録として扱うことはできない。
月は、さらに山に隠れた。
光の端が、黒い稜線に削られるように細くなる。
出るのではない。
沈むのでもない。
ただ、山の形によって、見える月が変わっていく。
佐那が、小さく言った。
「隠れているのに、明るいです」
たしかに、月の姿はほとんど見えない。
だが、山の端は白く、空には薄い光が残っている。
隠されても、光はこぼれる。
隠すことは、消すことではない。
その事実が、真鹿人の胸に静かに広がった。
飛騨は月を隠すのか。
それとも、月を消さぬために隠すのか。
その違いは大きい。
だが、今はまだ答えにしない。
夜が深くなった。
三人は尾根の肩で小さな火を起こした。
多加津が選んだ場所は、月の光から少し外れていた。風を避けられ、石に囲まれ、火の赤さが遠くへ漏れにくい。
佐那は、乏しい飯を湯に浸した。
「今日は、心細い飯です」
「そうだな」
真鹿人は答えた。
「でも、月を見ながら食べると、少しましです」
「月は食べられぬのではなかったか」
「食べられません。でも、見ながら食べることはできます」
佐那は真剣だった。
多加津が、火を見ながら言った。
「火もある」
「はい。火があると、かなりましです」
佐那は椀を配った。
少ない飯だった。
それでも、三人で食べた。
山は月を隠し、火は膝先を照らし、沢の休息はもう遠かった。
心は、まだ急いている。
行け。
その声は消えない。
だが、今夜はここで止まらねばならない。
行けと叫ぶ心を抱えたまま、足を止める。
それもまた、旅の一部だった。
真鹿人は、火の向こうで月に照らされた山を見た。
月は見えたり、隠れたりした。
山は動かない。
だが、月の動きによって、その黒さの意味が変わる。
隠すもの。
守るもの。
遮るもの。
抱くもの。
どれも言える。
どれも足りない。
やがて月は、完全に山の向こうへ隠れた。
空は暗くなった。
だが、月がないとは思わなかった。
見えないものと、ないものは違う。
真鹿人はその言葉を、もう何度目か分からぬほど胸の内で繰り返した。
そして、今夜はそこへもう一つ加わった。
隠れたものと、消されたものも違う。
山は月を消していない。
ただ、見えぬ場所へ置いた。
それが守ることなのか、遮ることなのか、今はまだ分からない。
多加津は、火に枝を足した。
その横顔には、さきほど語った恐れの影がまだ残っていた。
佐那は、少ない飯を大切そうに食べていた。
真鹿人は、木簡を取り出さなかった。
書きたいことはあった。
山が月を隠したこと。
隠されても光がこぼれたこと。
名を隠すことは寒いと多加津が言ったこと。
沢の休息が心を急かしたこと。
行け、と胸に聞こえたこと。
どれも書ける。
だが、今夜はまだ、火とともに持つべきだと思った。
月が隠れた後の山は、深かった。
火の外は、暗い。
けれど、火の内側には三人がいた。
名を隠した者。
名を集める者。
飯を大事にする者。
それぞれが、少しずつ違う寒さを持っている。
それでも、今夜は同じ火に当たっている。
真鹿人は、そのことを記録より先に、体で覚えようとした。
空の木簡は、まだ空のままだった。
だが、その空白は今、寒さを知った。
そして、寒いからこそ火が要るのだと知った。
月が隠れた山の下で、三人は小さな火を守った。
山は何も語らなかった。
月も、名を求めなかった。
ただ、暗い空の向こうで、見えない光がまだあることだけを、真鹿人は疑わずにいた。




