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月を隠した国  作者: 月読 龍
第三部 飛騨、月に名はない
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第二十七章 多加津の影

 翌朝、山はよく晴れていた。


 雨の湿りは残っていたが、空は高く、雲は薄い。夜の月が通った跡を洗い流したように、山の稜線はくっきりと見えた。草の先に残った雫が光り、木々の葉は朝の風を受けて小さく揺れている。


 飛騨の朝は、静かだった。


 静かというより、音が遠くまで広がらない。


 出雲では、海の音があった。


 浜に立てば、波は絶えず寄せ、返し、遠くの舟の声も、浜で働く者の声も、潮の匂いとともに混じった。海は大きい。大きいものは、人の声さえ広げる。


 諏訪では、水の広さがあった。


 湖は音を飲み、また返した。岸に立つ者の声は、すぐに遠くへ行くわけではない。だが、水の上に置かれたものは、静かに広がる。舟の軋みも、櫂の音も、鳥の声も、岸の火も、どこか互いを知っているようだった。


 飛騨では違う。


 音は、山に当たって止まる。


 川の音は谷へ落ち、木を割る音は家の周りで乾き、子どもの声も、尾根を越える前に柔らかく消える。


 山は、声を抱く。


 遠くへ押し出さず、近くへ抱え込む。


 だからこそ、ここでは大きな声が似合わないのかもしれなかった。


 真鹿人は、朝の火のそばで、昨夜の老人の言葉を思い返していた。


 海を見る者は、広がる。


 山を見る者は、隠す。


 大和は、並べる。


 それは鋭い言葉だった。


 鋭すぎる言葉でもあった。


 鋭い言葉は、使いやすい。


 使いやすい言葉は、すぐ木簡の中心へ置きたくなる。


 だが、その言葉だけで出雲も飛騨も大和も捉えたと思えば、また誤る。


 出雲も、ただ広がるだけではなかった。


 出雲には、残る神がいた。


 国を渡しても、土地を離れぬ神がいた。


 海は拡大を促す。だが、根を持たぬわけではない。


 飛騨も、ただ隠すだけではない。


 人は来る。


 道はある。


 火の場があり、山の小屋があり、集落へ導く者がいる。完全に閉じているのではない。閉じているように見せながら、必要なものだけを通す。


 見せるものと、見せぬもの。


 呼ぶものと、呼ばぬもの。


 渡すものと、渡さぬもの。


 その選び方が、飛騨なのかもしれない。


 真鹿人は、そう思いかけ、また止めた。


 かもしれない。


 まだ、その程度でよい。


 佐那は朝飯の支度を手伝っていた。


 昨日より、手つきが少し慣れている。少女に何度も直されながら、それでも木の実を割り、干した草を分け、火の番をしている。


 多加津は、少し離れたところにいた。


 薪を割るでもなく、荷を整えるでもなく、集落の外れに立ち、山の向こうを見ている。


 いつもなら道を見る目だ。


 危うい場所を探し、獣の跡を読み、人の気配を測る目。


 だが今朝の多加津は、少し違った。


 目は山へ向いている。


 けれど、見ているのは山そのものではなく、山の向こうにある何かのようだった。


 真鹿人は、声をかけようとしてやめた。


 問うには早い。


 その言葉は便利になりすぎているかもしれない。だが、今朝の多加津の背には、軽く触れてよいものではない影があった。


 老人が、真鹿人の横へ来た。


「聞きたそうだな」


 真鹿人は、少し驚いて老人を見た。


「顔に出ていますか」


「お前は、顔より先に黙る」


「黙ると分かるのですか」


「問いたい者の沈黙は、騒がしい」


 真鹿人は苦笑した。


「私は、よほど分かりやすいようです」


「書く者は、分かりやすい方がよい時もある」


 老人は火のそばに座った。


 少女が、木の椀を老人へ渡す。老人は受け取り、少し飲んでから言った。


「諏訪へ行ったのだったな」


「はい」


「良いところだったか」


 真鹿人は、すぐには答えられなかった。


 諏訪。


 湖。


 水緒。


 蛇の古い神。


 石。


 舟。


 湖上の誓い。


 月を隠す夜の水。


 良いところだったか、と問われれば、どう答えるべきか迷う。


 美しかった。


 怖かった。


 難しかった。


 優しかった。


 拒んでいるようで、受け入れていた。


 出雲をそのまま持ち込むことを許さず、しかし来た者をただ追い返すわけでもなかった。


「良いところでした」


 真鹿人は、ようやくそう答えた。


「ただ、良いという言葉だけでは足りません」


「足りぬ方がよい」


 老人は言った。


「良い、と言い切れる土地は、だいたい見方が浅い」


 佐那が近くで聞いていたらしく、振り向いた。


「でも、飯がうまいところは良いところです」


 老人は佐那を見た。


「それは浅くない」


 佐那は真剣に頷いた。


「でしょう」


 少女が小さく笑った。


 真鹿人も少し笑った。


 老人は、諏訪の方角を見た。


「諏訪は、飛騨より明るい」


「明るい」


「水が多い。水辺の幸がある。山の幸も降りる。道が寄る。人が来る。声が集まる。祈りも集まる」


 真鹿人は、諏訪の湖畔を思い出した。


 水緒は静かな者だった。


 だが、諏訪そのものは静寂だけの土地ではない。湖は多くのものを受ける。人も、物も、語りも、逃れてきた名も、先にあった水の声も。


 湖の周囲には暮らしがあった。


 火があり、飯があり、舟があり、石があり、岸で待つ者がいた。


 飛騨の山と比べれば、たしかに諏訪は開けていた。


 きらびやか、と言ってよいのかは分からない。


 だが、飛騨の隠れた火や名を置かぬ場に比べれば、諏訪は多くのものを見せる土地だった。


「諏訪は、飛騨の外衣でもある」


 老人が言った。


「外衣」


「山の奥を見せぬために、湖が光る」


 真鹿人は、黙って聞いた。


「人は、光るものを見る。水の広さを見る。集まる声を見る。そこで満ち足りれば、さらに奥へ来ようとは思わぬ」


「諏訪が、飛騨を隠しているのですか」


「そう書けば、また軽い」


 老人はすぐに言った。


 真鹿人は頭を下げた。


「はい」


「諏訪は諏訪だ。飛騨のためだけにあるのではない。湖には湖の声がある」


「それは、水緒にも言われました」


「なら、覚えておけ」


 老人は椀を置いた。


「だが、諏訪の明るさが、飛騨の暗さを見えにくくしていることはある」


 真鹿人は、その言葉を胸に置いた。


 諏訪は飛騨の隠れ蓑。


 そう言えば、分かりやすい。


 だが、それでは諏訪を飛騨の道具にしてしまう。


 諏訪には諏訪の水がある。


 それでも、諏訪の華やぎが、飛騨の隠れを覆うことはある。


 表に見える湖。


 奥に残る山。


 水辺の恵み。


 山奥の沈黙。


 訪れる者の多い地。


 訪れる者を測る地。


 両者は、重なりながら同じではない。


「飛騨の者も、諏訪へ行くのですか」


 真鹿人は問うた。


 老人は頷いた。


「代が替わる時。約められた時。水の声を聞かねばならぬ時。あるいは、こちらに置けぬ者を一時、湖へ預ける時」


「預ける」


「山は隠す。だが、隠しすぎれば息が詰まる」


 老人の目が、多加津の背へ一瞬だけ向いた。


「湖は、息を広げる」


 真鹿人は、諏訪で聞いた言葉を思い出した。


 湖は、逃げてきた者を見たのではない。来た者を見た。


 受け入れるとは、ここで変わるなら立て、ということ。


 諏訪は、飛騨にとっても、変わるための場所なのかもしれない。


 だが、それは真鹿人の推測だった。


 まだ書けない。


 老人は続けた。


「南から来た者の話もある」


「南」


「火の方から来た者だ。はるか南の山を越え、火の匂いを連れて諏訪へ来た。子ができぬと言われていたが、湖のそばで子を得た」


 佐那が目を丸くした。


「子宝ですか」


「そう語る者もいる」


「本当なのですか」


 老人は佐那を見た。


「子は生まれた」


「では、本当です」


「なぜ生まれたかを語る時、人はそれぞれ別の名をつける」


 佐那は少し考えた。


「それは、たしかに」


 老人は火を見た。


「南の火を持つ者。諏訪の水。飛騨の山。そういうものが、時に一つの子の上で出会う」


 真鹿人は、その言葉を聞きながら、阿蘇を思った。


 まだ見ぬ火の山。


 夜に人を集める火。


 月とは違う、しかし夜を越えるための光。


 その火の気配が、諏訪に届いていたという語り。


 それは単なる由来ではない。


 土地と土地の間を、人が移動し、祈りが移り、子が生まれ、名が変わる。その長い流れの中で、諏訪は水として、多くのものを受けていた。


 飛騨は、それを見ていたのだろうか。


 山の奥から。


 隠れたまま。


 老人は、真鹿人の考えを読んだように言った。


「諏訪は、良い」


「はい」


「水がある。声がある。人が来る。子も生まれる。戻る者も、留まる者もいる。山の者が行けば、眩しい」


 眩しい。


 その言葉は、飛騨から見た諏訪をよく表しているように思えた。


 諏訪は、飛騨ほど隠れていない。


 湖は空を映す。


 人が集まり、祈りが見える。


 外から来た者にも、良さが分かりやすい。


「飛騨の者は、諏訪を羨むのですか」


 真鹿人が問うと、老人は少し黙った。


「羨む者もいる」


「あなたも?」


 老人は真鹿人を見た。


 真鹿人は、また早かったかと思った。


 だが老人は怒らなかった。


「若い頃は、そう思った」


 老人は言った。


「代が替わる時、諏訪へ赴いた。湖を見た。水の広さを見た。山とは違う豊かさを見た。人が来る。物が来る。話が来る。南の火の話も、東の道の話も、海から来た小さな飾りもあった」


 老人の声は、少し遠くなった。


「良いと思った」


 真鹿人は黙っていた。


「ここより良いと思った。山に戻れば、木を削り、火を守り、名を伏せ、余計なものを入れぬように暮らす。諏訪では、水が多く、人も多く、子どもの声もよく響いた」


 佐那は、真剣に聞いていた。


 多加津は、まだ遠くに立っている。


 しかし、老人の声は届いているはずだった。


「それなのに」


 老人は、火のない朝の炉を見た。


「しばらくすると、ここを思った」


「飛騨を」


「そうだ」


「諏訪が良いのに?」


「良いのに、だ」


 老人は言った。


「それが厄介だった」


 真鹿人は、その言葉に胸を掴まれた。


 良いところにいても、別の場所を思う。


 豊かな水を見ても、山の静けさを思う。


 人の声に囲まれても、声が山に抱かれて消える場所を思う。


 それは、理屈ではない。


 何が良いのか分からない。


 なぜ戻りたいのか分からない。


 戻ればまた、不便で、暗く、寒く、名を伏せ、火を小さく守り、山に見逃されるように暮らすだけかもしれない。


 それでも、ここは良いと思う。


 それを何と呼ぶのか。


 真鹿人は、言葉を探した。


 故郷。


 郷愁。


 戻る場所。


 だが、どれもすぐには木簡へ刻めなかった。


 老人は言った。


「人は、良いところへ行けば満ちるわけではない」


 佐那が、小さく頷いた。


「飯がうまいところでも、ですか」


「飯がうまくてもだ」


 老人は答えた。


 佐那は少し悲しそうな顔をした。


「それは、困りますね」


「困る」


 老人は、わずかに笑った。


「だから人は、時々戻る。あるいは、戻れぬまま、戻る場所のことを考える」


 真鹿人は、多加津を見た。


 今度は見てしまった。


 多加津は背を向けたままだった。


 だが、肩がわずかに動いた。


 戻る。


 出たなら、戻る。


 多加津は、かつてそう言った。


 戻るとは、どこへ戻ることなのか。


 名を変えた者が、どの名で戻るのか。


 戻る場所は、まだその者を待っているのか。


 あるいは、戻るという言葉だけが、足を前へ進めるために残っているのか。


 真鹿人は問わなかった。


 問えば、多加津の月を指すことになる。


 老人は、真鹿人の視線に気づいていた。


「戻る場所を、勝手に書くな」


 その言葉に、真鹿人は胸を突かれた。


 水緒も似たことを言った。


 戻ると言った者が、どこへ戻るかを勝手に書いてはならない。


 諏訪で聞いた言葉が、飛騨で別の重さを持った。


「はい」


 真鹿人は答えた。


「戻る場所は、本人にも分からぬことがある」


 老人は続けた。


「分からぬまま、戻りたいと思うことがある」


「それが、郷愁ですか」


 言ってから、真鹿人はその言葉が適切か迷った。


 老人は少し考えた。


「そう呼ぶ者もいるだろう」


「あなたは何と呼びますか」


「急き立て」


 真鹿人は、老人を見た。


「急き立て」


「そうだ。良い場所にいるのに、別の場所が胸を急かす。戻れと言うのではない。忘れるなとも違う。ただ、胸の奥を小さく突く」


 老人は、自分の胸へ手を当てた。


「ここは良い。そう思う。だが、あの地も良い。そう思う。その差が分からぬ。分からぬまま、立っている場所が少し揺れる」


 真鹿人は、息を深く吸った。


 それは、多加津だけでなく、自分にも触れる言葉だった。


 大和を出てから、真鹿人は多くの土地を見た。


 因幡の白。


 出雲の海。


 諏訪の湖。


 飛騨の山。


 どれも、大和とは違う。


 そして、どこも良かった。


 怖く、重く、時に拒まれ、それでも良かった。


 では、大和はどうなのか。


 自分は大和へ戻る。


 戻らねばならない。


 しかし、戻った時、大和を以前と同じように良いと思えるのか。


 あるいは、旅で見た土地の方を思うのか。


 自分の郷愁は、どこへ向くのか。


 真鹿人には、まだ分からなかった。


 佐那が、静かに言った。


「私は、大和の母を思います。でも、昨日の小屋の火も、もう少し恋しいです」


「早いな」


 真鹿人が言うと、佐那は少し恥ずかしそうに笑った。


「屋根があって、火があって、飯がありましたから」


 老人は頷いた。


「それでよい」


「よいのですか」


「人は、いくつもの小さな戻りたい場所を持つ」


 佐那は、その言葉を嬉しそうに聞いた。


「では、飯がうまかった場所も、戻りたい場所です」


「そうだ」


「火が暖かかった場所も」


「そうだ」


「舟の上は、あまり戻りたくありません」


 真鹿人は笑った。


「諏訪の舟か」


「はい。湖は良かったですが、舟は怖かったです」


 老人が佐那を見た。


「怖い場所を覚えている者は、戻れる」


「なぜです」


「怖さを忘れた者は、同じ場所で落ちる」


 佐那は真剣に頷いた。


「それは、よく分かります」


 朝飯の後、三人は集落を離れることになった。


 少女は、道の途中まで案内すると言った。


 老人は、火の場に残った。


 真鹿人は礼を述べ、頭を下げた。


「ここで聞いたことを、すぐには書けません」


「すぐでなくてよい」


 老人は言った。


「だが、忘れてもよいとは言わぬ」


「昨日の女とは違うのですね」


「女?」


「川沿いの集落で、忘れてもよい、と言われました。忘れて、また似たものに出会えば、少し違って思い出す。それでよいものもあると」


 老人は、少し笑った。


「あの者らしい」


「ご存じなのですか」


「山は狭い」


 それだけを言った。


 老人は続けた。


「忘れてよいものもある。忘れてはならぬものもある。だが、どちらかを決めるのは、すぐでなくてよい」


「はい」


「郷愁は、忘れたと思った後に来る」


 真鹿人は、その言葉を静かに受け取った。


 忘れたと思った後に来る。


 それは、月が雲に隠れた後、なお空にあると知ることに似ていた。


 火が灰になった後、炭の奥に熱が残っていることに似ていた。


 見えなくなってから、むしろ残るものがある。


「多加津」


 老人が呼んだ。


 多加津は振り向いた。


 その名を呼ばれた瞬間、彼の体がわずかに硬くなった。


 老人は、何も見逃していない顔をしていた。


「その名でよいのか」


 空気が止まった。


 佐那が、はっと多加津を見た。


 真鹿人も息を詰めた。


 多加津は、しばらく答えなかった。


 山の風が、火のない炉の灰をわずかに動かした。


「今は」


 多加津は言った。


 短い答えだった。


 老人は頷いた。


「なら、今はそれでよい」


 それ以上は問わなかった。


 真鹿人は、胸の内で深く息を吐いた。


 その名でよいのか。


 それは、名を暴く問いではなかった。


 今の名を、今の器として認める問いだった。


 多加津は「今は」と答えた。


 今は、それでよい。


 名とは、永久に同じものではない。


 だが、だからといって軽く変えてよいものでもない。


 名を変えた者にも、今の名で立たねばならぬ時がある。


 老人は、少女へ目を向けた。


「道を見せてやれ」


「はい」


 少女は頷いた。


 三人は荷を背負った。


 佐那は、名残惜しそうに火の場を見た。


「ここも、戻りたい場所になりますかね」


 少女が言った。


「飯は少なかった」


「でも、良いところでした」


「それなら、なるかもしれない」


 佐那は満足そうに頷いた。


 集落を出る時、真鹿人は一度振り返った。


 家々は、朝の光の中で静かに立っていた。


 諏訪のような水のきらめきはない。


 出雲のような海の広がりもない。


 火の建物のように人が集まる大きな場も、ここにはない。


 それでも、ここは良い。


 なぜ良いのか。


 豊かだからではない。


 便利だからでもない。


 人が多いからでもない。


 名高いからでもない。


 山に抱かれ、声が遠くへ逃げず、火が小さく守られ、名を置かぬ場が残されている。


 そこにある不自由さも、暗さも、寒さも含めて、ここは良い。


 真鹿人は、その感覚をすぐ言葉にしなかった。


 言葉にすれば、軽くなる。


 だが、何も持たずに去れば、見捨てることになるかもしれない。


 彼は、普通の木簡を取り出さなかった。


 空の木簡にも触れなかった。


 ただ、胸の内で、短く持った。


 良いところにいても、別の良いところが胸を急かすことがある。


 それを、今は郷愁と呼びきらない。


 ただ、急き立てとして持つ。


 少女は、山道へ入る前に言った。


「この先で、道が古くなる」


「古くなる?」


 佐那が問う。


「人の足より、前のものが残っている」


「神の道ですか」


 少女は首を横に振った。


「そう呼ぶ者もいる。でも、呼ぶと歩き方を間違える」


 多加津が頷いた。


「神の道とは、人の道に神の名がついただけだ」


 真鹿人は、多加津を見た。


 それは、以前にも聞いた言葉だった。


 だが今、その言葉の奥に、多加津自身の影が見えた。


 人の道。


 逃げる者の道。


 戻る者の道。


 名を変えた者の道。


 そこへ後から神の名がつく。


 名がつけば、道は高くなる。


 高くなれば、人の足跡は見えにくくなる。


 多加津は、それを知っている。


 なぜ知っているのかは、まだ分からない。


 少女は、多加津を見た。


「知っているなら、歩ける」


「知っていても、間違える」


 多加津は答えた。


「間違えたことがあるのか」


 少女の問いは、無邪気ではなかった。


 鋭かった。


 多加津は黙った。


 しばらくして、言った。


「ある」


 それだけだった。


 少女はそれ以上問わなかった。


 真鹿人も問わなかった。


 佐那も、珍しく黙っていた。


 山道は、木々の間へ入った。


 集落の音が背後で薄れていく。


 木を削る音。


 子どもの声。


 火に枝を足す音。


 それらが山に抱かれ、やがて聞こえなくなった。


 諏訪は、遠くなって久しい。


 出雲は、さらに遠い。


 大和は、もっと遠いのかもしれない。


 それでも、それらは真鹿人の中で消えていない。


 海を見た出雲。


 水を抱いた諏訪。


 火に集う夜。


 名を空ける飛騨。


 そして、どこへ戻るのか分からぬまま歩く多加津の背。


 真鹿人は、その背を見ながら思った。


 戻る場所とは、土地だけではないのかもしれない。


 名へ戻ること。


 名を捨てる前の自分へ戻ること。


 戻れぬと知りながら、それでも戻ると言い続けること。


 あるいは、戻らぬまま、戻りたいと思う場所を胸に持つこと。


 どれも、軽く書けない。


 しばらく歩いた後、多加津が足を止めた。


 前方に、古い石段があった。


 石段と言っても、ほとんど崩れている。苔に覆われ、根に割られ、雨水に削られていた。だが、人の手が石を置いた跡は残っている。


 石段の上は、木々に隠れて見えない。


 少女が言った。


「ここから先は、月が見えにくい」


「山が隠すのですか」


 真鹿人が問う。


「山も、木も」


 少女は答えた。


「でも、月がないわけではない」


 佐那が言った。


「見えないものと、ないものは違いますから」


 真鹿人は、佐那を見た。


 佐那は少し照れたように笑った。


「覚えました」


「よい覚え方だ」


 少女が言った。


 多加津は、石段を見上げていた。


 その顔は、普段よりも固かった。


「知っている道なのか」


 真鹿人は、思わず問うた。


 多加津は答えなかった。


 少しの間があった。


 それから、低く言った。


「似た道を知っている」


「似た道」


「戻るための道と、戻らぬための道は、よく似ている」


 その言葉は、山の中に静かに置かれた。


 真鹿人は、それ以上何も聞けなかった。


 少女も黙っていた。


 佐那は、不安そうに石段を見た。


「どちらの道ですか」


 多加津は、わずかに口元を動かした。


「歩いてみなければ分からぬ」


 佐那は深く息を吐いた。


「山は、いつもそうですね」


「そうだ」


 多加津は一歩、石段へ足を置いた。


 石は濡れていなかった。


 だが、苔は柔らかく、足を滑らせる危うさがあった。


 多加津は振り返らずに言った。


「急ぐな」


 三人と少女は、その後に続いた。


 石段を上るにつれて、集落の気配は完全に消えた。


 木々が空を覆い、昼だというのに薄暗くなった。


 月は、まだ出ていない。


 だが、この道では、たとえ月が出ても見えにくいのだろう。


 山が月を隠す。


 木が月を隠す。


 そして、人もまた、自分の中に何かを隠して歩く。


 真鹿人は、多加津の背を見た。


 その名でよいのか。


 今は。


 その短いやり取りが、何度も胸に戻る。


 今は、という言葉の中には、過去の名も、未来の名も、戻る場所も、戻れぬ場所も、すべて入らずに残っている。


 空の名。


 空の木簡。


 空けておくことで、保たれるもの。


 だが、空けておくことが、人を孤独にすることもある。


 真鹿人は、そこまで思い、足元を見た。


 石段は続いている。


 一段ずつ、確かめて進むしかない。


 郷愁も、名も、戻る場所も、たぶん同じなのだろう。


 一度に分かるものではない。


 歩いて、迷って、見えなくなり、また似たものに出会って、少し違って思い出す。


 その繰り返しの中でしか、持てないものがある。


 石段の途中で、多加津がまた止まった。


 前方に、小さな木片が落ちていた。


 少女が腰に下げていたものと似ている。


 細く、何も書かれていない。


 ただ、端が割れていた。


 多加津は、それを見下ろした。


 拾わなかった。


 真鹿人も拾わなかった。


 佐那も手を伸ばさなかった。


 少女だけが、静かに言った。


「戻れなかった者のものかもしれない」


 誰も答えなかった。


「あるいは、戻らないと決めた者のものかもしれない」


 それでも、誰も答えなかった。


 多加津は、長くその木片を見ていた。


 やがて、低く言った。


「どちらでも、勝手に決めるな」


 少女は頷いた。


「そう教わった」


 真鹿人は、その木片を見た。


 名はない。


 だから分からない。


 だが、名があったとしても、分かったとは限らない。


 名は器である。


 だが、水そのものではない。


 名は道標である。


 だが、戻る道そのものではない。


 真鹿人は木片をそのままにした。


 拾わず、書かず、名を作らず、ただそこにあるものとして残した。


 出雲の浜で拾わなかった、名の字の木簡片を思い出した。


 あの時の自分より、少しは分かっているのだろうか。


 いや、分かったと思えば、また落ちる。


 断ずるべからず。


 多加津は再び歩き出した。


 その背は、さきほどより少し重く見えた。


 だが、足は止まらなかった。


 戻るための道か。


 戻らぬための道か。


 まだ分からない。


 分からぬまま、彼は歩いている。


 真鹿人は、その足を見た。


 逃げる足は悪い足ではない。


 残るための足である。


 水緒の言葉が、山の石段でまた別の意味を持った。


 郷愁は、戻る者だけのものではない。


 戻れぬ者にも、戻らぬ者にも、名を変えた者にも、胸を急き立てるものがある。


 その急き立てを、勝手に慰めとして書いてはならない。


 勝手に悲しみとして閉じてもならない。


 真鹿人は、空の木簡に触れなかった。


 だが、背の荷の中で、その空白がまた少し重くなったことを感じた。


 それは、月の白さでも、火の赤さでも、水の冷たさでも、海の広さでもない。


 戻る場所を持つ者と、持たぬ者の間にある、名のない重さだった。


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