第二十七章 多加津の影
翌朝、山はよく晴れていた。
雨の湿りは残っていたが、空は高く、雲は薄い。夜の月が通った跡を洗い流したように、山の稜線はくっきりと見えた。草の先に残った雫が光り、木々の葉は朝の風を受けて小さく揺れている。
飛騨の朝は、静かだった。
静かというより、音が遠くまで広がらない。
出雲では、海の音があった。
浜に立てば、波は絶えず寄せ、返し、遠くの舟の声も、浜で働く者の声も、潮の匂いとともに混じった。海は大きい。大きいものは、人の声さえ広げる。
諏訪では、水の広さがあった。
湖は音を飲み、また返した。岸に立つ者の声は、すぐに遠くへ行くわけではない。だが、水の上に置かれたものは、静かに広がる。舟の軋みも、櫂の音も、鳥の声も、岸の火も、どこか互いを知っているようだった。
飛騨では違う。
音は、山に当たって止まる。
川の音は谷へ落ち、木を割る音は家の周りで乾き、子どもの声も、尾根を越える前に柔らかく消える。
山は、声を抱く。
遠くへ押し出さず、近くへ抱え込む。
だからこそ、ここでは大きな声が似合わないのかもしれなかった。
真鹿人は、朝の火のそばで、昨夜の老人の言葉を思い返していた。
海を見る者は、広がる。
山を見る者は、隠す。
大和は、並べる。
それは鋭い言葉だった。
鋭すぎる言葉でもあった。
鋭い言葉は、使いやすい。
使いやすい言葉は、すぐ木簡の中心へ置きたくなる。
だが、その言葉だけで出雲も飛騨も大和も捉えたと思えば、また誤る。
出雲も、ただ広がるだけではなかった。
出雲には、残る神がいた。
国を渡しても、土地を離れぬ神がいた。
海は拡大を促す。だが、根を持たぬわけではない。
飛騨も、ただ隠すだけではない。
人は来る。
道はある。
火の場があり、山の小屋があり、集落へ導く者がいる。完全に閉じているのではない。閉じているように見せながら、必要なものだけを通す。
見せるものと、見せぬもの。
呼ぶものと、呼ばぬもの。
渡すものと、渡さぬもの。
その選び方が、飛騨なのかもしれない。
真鹿人は、そう思いかけ、また止めた。
かもしれない。
まだ、その程度でよい。
佐那は朝飯の支度を手伝っていた。
昨日より、手つきが少し慣れている。少女に何度も直されながら、それでも木の実を割り、干した草を分け、火の番をしている。
多加津は、少し離れたところにいた。
薪を割るでもなく、荷を整えるでもなく、集落の外れに立ち、山の向こうを見ている。
いつもなら道を見る目だ。
危うい場所を探し、獣の跡を読み、人の気配を測る目。
だが今朝の多加津は、少し違った。
目は山へ向いている。
けれど、見ているのは山そのものではなく、山の向こうにある何かのようだった。
真鹿人は、声をかけようとしてやめた。
問うには早い。
その言葉は便利になりすぎているかもしれない。だが、今朝の多加津の背には、軽く触れてよいものではない影があった。
老人が、真鹿人の横へ来た。
「聞きたそうだな」
真鹿人は、少し驚いて老人を見た。
「顔に出ていますか」
「お前は、顔より先に黙る」
「黙ると分かるのですか」
「問いたい者の沈黙は、騒がしい」
真鹿人は苦笑した。
「私は、よほど分かりやすいようです」
「書く者は、分かりやすい方がよい時もある」
老人は火のそばに座った。
少女が、木の椀を老人へ渡す。老人は受け取り、少し飲んでから言った。
「諏訪へ行ったのだったな」
「はい」
「良いところだったか」
真鹿人は、すぐには答えられなかった。
諏訪。
湖。
水緒。
蛇の古い神。
石。
舟。
湖上の誓い。
月を隠す夜の水。
良いところだったか、と問われれば、どう答えるべきか迷う。
美しかった。
怖かった。
難しかった。
優しかった。
拒んでいるようで、受け入れていた。
出雲をそのまま持ち込むことを許さず、しかし来た者をただ追い返すわけでもなかった。
「良いところでした」
真鹿人は、ようやくそう答えた。
「ただ、良いという言葉だけでは足りません」
「足りぬ方がよい」
老人は言った。
「良い、と言い切れる土地は、だいたい見方が浅い」
佐那が近くで聞いていたらしく、振り向いた。
「でも、飯がうまいところは良いところです」
老人は佐那を見た。
「それは浅くない」
佐那は真剣に頷いた。
「でしょう」
少女が小さく笑った。
真鹿人も少し笑った。
老人は、諏訪の方角を見た。
「諏訪は、飛騨より明るい」
「明るい」
「水が多い。水辺の幸がある。山の幸も降りる。道が寄る。人が来る。声が集まる。祈りも集まる」
真鹿人は、諏訪の湖畔を思い出した。
水緒は静かな者だった。
だが、諏訪そのものは静寂だけの土地ではない。湖は多くのものを受ける。人も、物も、語りも、逃れてきた名も、先にあった水の声も。
湖の周囲には暮らしがあった。
火があり、飯があり、舟があり、石があり、岸で待つ者がいた。
飛騨の山と比べれば、たしかに諏訪は開けていた。
きらびやか、と言ってよいのかは分からない。
だが、飛騨の隠れた火や名を置かぬ場に比べれば、諏訪は多くのものを見せる土地だった。
「諏訪は、飛騨の外衣でもある」
老人が言った。
「外衣」
「山の奥を見せぬために、湖が光る」
真鹿人は、黙って聞いた。
「人は、光るものを見る。水の広さを見る。集まる声を見る。そこで満ち足りれば、さらに奥へ来ようとは思わぬ」
「諏訪が、飛騨を隠しているのですか」
「そう書けば、また軽い」
老人はすぐに言った。
真鹿人は頭を下げた。
「はい」
「諏訪は諏訪だ。飛騨のためだけにあるのではない。湖には湖の声がある」
「それは、水緒にも言われました」
「なら、覚えておけ」
老人は椀を置いた。
「だが、諏訪の明るさが、飛騨の暗さを見えにくくしていることはある」
真鹿人は、その言葉を胸に置いた。
諏訪は飛騨の隠れ蓑。
そう言えば、分かりやすい。
だが、それでは諏訪を飛騨の道具にしてしまう。
諏訪には諏訪の水がある。
それでも、諏訪の華やぎが、飛騨の隠れを覆うことはある。
表に見える湖。
奥に残る山。
水辺の恵み。
山奥の沈黙。
訪れる者の多い地。
訪れる者を測る地。
両者は、重なりながら同じではない。
「飛騨の者も、諏訪へ行くのですか」
真鹿人は問うた。
老人は頷いた。
「代が替わる時。約められた時。水の声を聞かねばならぬ時。あるいは、こちらに置けぬ者を一時、湖へ預ける時」
「預ける」
「山は隠す。だが、隠しすぎれば息が詰まる」
老人の目が、多加津の背へ一瞬だけ向いた。
「湖は、息を広げる」
真鹿人は、諏訪で聞いた言葉を思い出した。
湖は、逃げてきた者を見たのではない。来た者を見た。
受け入れるとは、ここで変わるなら立て、ということ。
諏訪は、飛騨にとっても、変わるための場所なのかもしれない。
だが、それは真鹿人の推測だった。
まだ書けない。
老人は続けた。
「南から来た者の話もある」
「南」
「火の方から来た者だ。はるか南の山を越え、火の匂いを連れて諏訪へ来た。子ができぬと言われていたが、湖のそばで子を得た」
佐那が目を丸くした。
「子宝ですか」
「そう語る者もいる」
「本当なのですか」
老人は佐那を見た。
「子は生まれた」
「では、本当です」
「なぜ生まれたかを語る時、人はそれぞれ別の名をつける」
佐那は少し考えた。
「それは、たしかに」
老人は火を見た。
「南の火を持つ者。諏訪の水。飛騨の山。そういうものが、時に一つの子の上で出会う」
真鹿人は、その言葉を聞きながら、阿蘇を思った。
まだ見ぬ火の山。
夜に人を集める火。
月とは違う、しかし夜を越えるための光。
その火の気配が、諏訪に届いていたという語り。
それは単なる由来ではない。
土地と土地の間を、人が移動し、祈りが移り、子が生まれ、名が変わる。その長い流れの中で、諏訪は水として、多くのものを受けていた。
飛騨は、それを見ていたのだろうか。
山の奥から。
隠れたまま。
老人は、真鹿人の考えを読んだように言った。
「諏訪は、良い」
「はい」
「水がある。声がある。人が来る。子も生まれる。戻る者も、留まる者もいる。山の者が行けば、眩しい」
眩しい。
その言葉は、飛騨から見た諏訪をよく表しているように思えた。
諏訪は、飛騨ほど隠れていない。
湖は空を映す。
人が集まり、祈りが見える。
外から来た者にも、良さが分かりやすい。
「飛騨の者は、諏訪を羨むのですか」
真鹿人が問うと、老人は少し黙った。
「羨む者もいる」
「あなたも?」
老人は真鹿人を見た。
真鹿人は、また早かったかと思った。
だが老人は怒らなかった。
「若い頃は、そう思った」
老人は言った。
「代が替わる時、諏訪へ赴いた。湖を見た。水の広さを見た。山とは違う豊かさを見た。人が来る。物が来る。話が来る。南の火の話も、東の道の話も、海から来た小さな飾りもあった」
老人の声は、少し遠くなった。
「良いと思った」
真鹿人は黙っていた。
「ここより良いと思った。山に戻れば、木を削り、火を守り、名を伏せ、余計なものを入れぬように暮らす。諏訪では、水が多く、人も多く、子どもの声もよく響いた」
佐那は、真剣に聞いていた。
多加津は、まだ遠くに立っている。
しかし、老人の声は届いているはずだった。
「それなのに」
老人は、火のない朝の炉を見た。
「しばらくすると、ここを思った」
「飛騨を」
「そうだ」
「諏訪が良いのに?」
「良いのに、だ」
老人は言った。
「それが厄介だった」
真鹿人は、その言葉に胸を掴まれた。
良いところにいても、別の場所を思う。
豊かな水を見ても、山の静けさを思う。
人の声に囲まれても、声が山に抱かれて消える場所を思う。
それは、理屈ではない。
何が良いのか分からない。
なぜ戻りたいのか分からない。
戻ればまた、不便で、暗く、寒く、名を伏せ、火を小さく守り、山に見逃されるように暮らすだけかもしれない。
それでも、ここは良いと思う。
それを何と呼ぶのか。
真鹿人は、言葉を探した。
故郷。
郷愁。
戻る場所。
だが、どれもすぐには木簡へ刻めなかった。
老人は言った。
「人は、良いところへ行けば満ちるわけではない」
佐那が、小さく頷いた。
「飯がうまいところでも、ですか」
「飯がうまくてもだ」
老人は答えた。
佐那は少し悲しそうな顔をした。
「それは、困りますね」
「困る」
老人は、わずかに笑った。
「だから人は、時々戻る。あるいは、戻れぬまま、戻る場所のことを考える」
真鹿人は、多加津を見た。
今度は見てしまった。
多加津は背を向けたままだった。
だが、肩がわずかに動いた。
戻る。
出たなら、戻る。
多加津は、かつてそう言った。
戻るとは、どこへ戻ることなのか。
名を変えた者が、どの名で戻るのか。
戻る場所は、まだその者を待っているのか。
あるいは、戻るという言葉だけが、足を前へ進めるために残っているのか。
真鹿人は問わなかった。
問えば、多加津の月を指すことになる。
老人は、真鹿人の視線に気づいていた。
「戻る場所を、勝手に書くな」
その言葉に、真鹿人は胸を突かれた。
水緒も似たことを言った。
戻ると言った者が、どこへ戻るかを勝手に書いてはならない。
諏訪で聞いた言葉が、飛騨で別の重さを持った。
「はい」
真鹿人は答えた。
「戻る場所は、本人にも分からぬことがある」
老人は続けた。
「分からぬまま、戻りたいと思うことがある」
「それが、郷愁ですか」
言ってから、真鹿人はその言葉が適切か迷った。
老人は少し考えた。
「そう呼ぶ者もいるだろう」
「あなたは何と呼びますか」
「急き立て」
真鹿人は、老人を見た。
「急き立て」
「そうだ。良い場所にいるのに、別の場所が胸を急かす。戻れと言うのではない。忘れるなとも違う。ただ、胸の奥を小さく突く」
老人は、自分の胸へ手を当てた。
「ここは良い。そう思う。だが、あの地も良い。そう思う。その差が分からぬ。分からぬまま、立っている場所が少し揺れる」
真鹿人は、息を深く吸った。
それは、多加津だけでなく、自分にも触れる言葉だった。
大和を出てから、真鹿人は多くの土地を見た。
因幡の白。
出雲の海。
諏訪の湖。
飛騨の山。
どれも、大和とは違う。
そして、どこも良かった。
怖く、重く、時に拒まれ、それでも良かった。
では、大和はどうなのか。
自分は大和へ戻る。
戻らねばならない。
しかし、戻った時、大和を以前と同じように良いと思えるのか。
あるいは、旅で見た土地の方を思うのか。
自分の郷愁は、どこへ向くのか。
真鹿人には、まだ分からなかった。
佐那が、静かに言った。
「私は、大和の母を思います。でも、昨日の小屋の火も、もう少し恋しいです」
「早いな」
真鹿人が言うと、佐那は少し恥ずかしそうに笑った。
「屋根があって、火があって、飯がありましたから」
老人は頷いた。
「それでよい」
「よいのですか」
「人は、いくつもの小さな戻りたい場所を持つ」
佐那は、その言葉を嬉しそうに聞いた。
「では、飯がうまかった場所も、戻りたい場所です」
「そうだ」
「火が暖かかった場所も」
「そうだ」
「舟の上は、あまり戻りたくありません」
真鹿人は笑った。
「諏訪の舟か」
「はい。湖は良かったですが、舟は怖かったです」
老人が佐那を見た。
「怖い場所を覚えている者は、戻れる」
「なぜです」
「怖さを忘れた者は、同じ場所で落ちる」
佐那は真剣に頷いた。
「それは、よく分かります」
朝飯の後、三人は集落を離れることになった。
少女は、道の途中まで案内すると言った。
老人は、火の場に残った。
真鹿人は礼を述べ、頭を下げた。
「ここで聞いたことを、すぐには書けません」
「すぐでなくてよい」
老人は言った。
「だが、忘れてもよいとは言わぬ」
「昨日の女とは違うのですね」
「女?」
「川沿いの集落で、忘れてもよい、と言われました。忘れて、また似たものに出会えば、少し違って思い出す。それでよいものもあると」
老人は、少し笑った。
「あの者らしい」
「ご存じなのですか」
「山は狭い」
それだけを言った。
老人は続けた。
「忘れてよいものもある。忘れてはならぬものもある。だが、どちらかを決めるのは、すぐでなくてよい」
「はい」
「郷愁は、忘れたと思った後に来る」
真鹿人は、その言葉を静かに受け取った。
忘れたと思った後に来る。
それは、月が雲に隠れた後、なお空にあると知ることに似ていた。
火が灰になった後、炭の奥に熱が残っていることに似ていた。
見えなくなってから、むしろ残るものがある。
「多加津」
老人が呼んだ。
多加津は振り向いた。
その名を呼ばれた瞬間、彼の体がわずかに硬くなった。
老人は、何も見逃していない顔をしていた。
「その名でよいのか」
空気が止まった。
佐那が、はっと多加津を見た。
真鹿人も息を詰めた。
多加津は、しばらく答えなかった。
山の風が、火のない炉の灰をわずかに動かした。
「今は」
多加津は言った。
短い答えだった。
老人は頷いた。
「なら、今はそれでよい」
それ以上は問わなかった。
真鹿人は、胸の内で深く息を吐いた。
その名でよいのか。
それは、名を暴く問いではなかった。
今の名を、今の器として認める問いだった。
多加津は「今は」と答えた。
今は、それでよい。
名とは、永久に同じものではない。
だが、だからといって軽く変えてよいものでもない。
名を変えた者にも、今の名で立たねばならぬ時がある。
老人は、少女へ目を向けた。
「道を見せてやれ」
「はい」
少女は頷いた。
三人は荷を背負った。
佐那は、名残惜しそうに火の場を見た。
「ここも、戻りたい場所になりますかね」
少女が言った。
「飯は少なかった」
「でも、良いところでした」
「それなら、なるかもしれない」
佐那は満足そうに頷いた。
集落を出る時、真鹿人は一度振り返った。
家々は、朝の光の中で静かに立っていた。
諏訪のような水のきらめきはない。
出雲のような海の広がりもない。
火の建物のように人が集まる大きな場も、ここにはない。
それでも、ここは良い。
なぜ良いのか。
豊かだからではない。
便利だからでもない。
人が多いからでもない。
名高いからでもない。
山に抱かれ、声が遠くへ逃げず、火が小さく守られ、名を置かぬ場が残されている。
そこにある不自由さも、暗さも、寒さも含めて、ここは良い。
真鹿人は、その感覚をすぐ言葉にしなかった。
言葉にすれば、軽くなる。
だが、何も持たずに去れば、見捨てることになるかもしれない。
彼は、普通の木簡を取り出さなかった。
空の木簡にも触れなかった。
ただ、胸の内で、短く持った。
良いところにいても、別の良いところが胸を急かすことがある。
それを、今は郷愁と呼びきらない。
ただ、急き立てとして持つ。
少女は、山道へ入る前に言った。
「この先で、道が古くなる」
「古くなる?」
佐那が問う。
「人の足より、前のものが残っている」
「神の道ですか」
少女は首を横に振った。
「そう呼ぶ者もいる。でも、呼ぶと歩き方を間違える」
多加津が頷いた。
「神の道とは、人の道に神の名がついただけだ」
真鹿人は、多加津を見た。
それは、以前にも聞いた言葉だった。
だが今、その言葉の奥に、多加津自身の影が見えた。
人の道。
逃げる者の道。
戻る者の道。
名を変えた者の道。
そこへ後から神の名がつく。
名がつけば、道は高くなる。
高くなれば、人の足跡は見えにくくなる。
多加津は、それを知っている。
なぜ知っているのかは、まだ分からない。
少女は、多加津を見た。
「知っているなら、歩ける」
「知っていても、間違える」
多加津は答えた。
「間違えたことがあるのか」
少女の問いは、無邪気ではなかった。
鋭かった。
多加津は黙った。
しばらくして、言った。
「ある」
それだけだった。
少女はそれ以上問わなかった。
真鹿人も問わなかった。
佐那も、珍しく黙っていた。
山道は、木々の間へ入った。
集落の音が背後で薄れていく。
木を削る音。
子どもの声。
火に枝を足す音。
それらが山に抱かれ、やがて聞こえなくなった。
諏訪は、遠くなって久しい。
出雲は、さらに遠い。
大和は、もっと遠いのかもしれない。
それでも、それらは真鹿人の中で消えていない。
海を見た出雲。
水を抱いた諏訪。
火に集う夜。
名を空ける飛騨。
そして、どこへ戻るのか分からぬまま歩く多加津の背。
真鹿人は、その背を見ながら思った。
戻る場所とは、土地だけではないのかもしれない。
名へ戻ること。
名を捨てる前の自分へ戻ること。
戻れぬと知りながら、それでも戻ると言い続けること。
あるいは、戻らぬまま、戻りたいと思う場所を胸に持つこと。
どれも、軽く書けない。
しばらく歩いた後、多加津が足を止めた。
前方に、古い石段があった。
石段と言っても、ほとんど崩れている。苔に覆われ、根に割られ、雨水に削られていた。だが、人の手が石を置いた跡は残っている。
石段の上は、木々に隠れて見えない。
少女が言った。
「ここから先は、月が見えにくい」
「山が隠すのですか」
真鹿人が問う。
「山も、木も」
少女は答えた。
「でも、月がないわけではない」
佐那が言った。
「見えないものと、ないものは違いますから」
真鹿人は、佐那を見た。
佐那は少し照れたように笑った。
「覚えました」
「よい覚え方だ」
少女が言った。
多加津は、石段を見上げていた。
その顔は、普段よりも固かった。
「知っている道なのか」
真鹿人は、思わず問うた。
多加津は答えなかった。
少しの間があった。
それから、低く言った。
「似た道を知っている」
「似た道」
「戻るための道と、戻らぬための道は、よく似ている」
その言葉は、山の中に静かに置かれた。
真鹿人は、それ以上何も聞けなかった。
少女も黙っていた。
佐那は、不安そうに石段を見た。
「どちらの道ですか」
多加津は、わずかに口元を動かした。
「歩いてみなければ分からぬ」
佐那は深く息を吐いた。
「山は、いつもそうですね」
「そうだ」
多加津は一歩、石段へ足を置いた。
石は濡れていなかった。
だが、苔は柔らかく、足を滑らせる危うさがあった。
多加津は振り返らずに言った。
「急ぐな」
三人と少女は、その後に続いた。
石段を上るにつれて、集落の気配は完全に消えた。
木々が空を覆い、昼だというのに薄暗くなった。
月は、まだ出ていない。
だが、この道では、たとえ月が出ても見えにくいのだろう。
山が月を隠す。
木が月を隠す。
そして、人もまた、自分の中に何かを隠して歩く。
真鹿人は、多加津の背を見た。
その名でよいのか。
今は。
その短いやり取りが、何度も胸に戻る。
今は、という言葉の中には、過去の名も、未来の名も、戻る場所も、戻れぬ場所も、すべて入らずに残っている。
空の名。
空の木簡。
空けておくことで、保たれるもの。
だが、空けておくことが、人を孤独にすることもある。
真鹿人は、そこまで思い、足元を見た。
石段は続いている。
一段ずつ、確かめて進むしかない。
郷愁も、名も、戻る場所も、たぶん同じなのだろう。
一度に分かるものではない。
歩いて、迷って、見えなくなり、また似たものに出会って、少し違って思い出す。
その繰り返しの中でしか、持てないものがある。
石段の途中で、多加津がまた止まった。
前方に、小さな木片が落ちていた。
少女が腰に下げていたものと似ている。
細く、何も書かれていない。
ただ、端が割れていた。
多加津は、それを見下ろした。
拾わなかった。
真鹿人も拾わなかった。
佐那も手を伸ばさなかった。
少女だけが、静かに言った。
「戻れなかった者のものかもしれない」
誰も答えなかった。
「あるいは、戻らないと決めた者のものかもしれない」
それでも、誰も答えなかった。
多加津は、長くその木片を見ていた。
やがて、低く言った。
「どちらでも、勝手に決めるな」
少女は頷いた。
「そう教わった」
真鹿人は、その木片を見た。
名はない。
だから分からない。
だが、名があったとしても、分かったとは限らない。
名は器である。
だが、水そのものではない。
名は道標である。
だが、戻る道そのものではない。
真鹿人は木片をそのままにした。
拾わず、書かず、名を作らず、ただそこにあるものとして残した。
出雲の浜で拾わなかった、名の字の木簡片を思い出した。
あの時の自分より、少しは分かっているのだろうか。
いや、分かったと思えば、また落ちる。
断ずるべからず。
多加津は再び歩き出した。
その背は、さきほどより少し重く見えた。
だが、足は止まらなかった。
戻るための道か。
戻らぬための道か。
まだ分からない。
分からぬまま、彼は歩いている。
真鹿人は、その足を見た。
逃げる足は悪い足ではない。
残るための足である。
水緒の言葉が、山の石段でまた別の意味を持った。
郷愁は、戻る者だけのものではない。
戻れぬ者にも、戻らぬ者にも、名を変えた者にも、胸を急き立てるものがある。
その急き立てを、勝手に慰めとして書いてはならない。
勝手に悲しみとして閉じてもならない。
真鹿人は、空の木簡に触れなかった。
だが、背の荷の中で、その空白がまた少し重くなったことを感じた。
それは、月の白さでも、火の赤さでも、水の冷たさでも、海の広さでもない。
戻る場所を持つ者と、持たぬ者の間にある、名のない重さだった。




