第二十四章 名を持たぬ灯
川は、二つに分かれていた。
ひとつは広く、石を白く噛みながら、谷の正面へ向かって流れていた。水音は大きい。遠くからでも、その道を選べと言っているようだった。
もうひとつは、細かった。
木々の影の下へ入り、岩の間を縫うように曲がっていた。水音は小さい。耳を澄まさなければ、そこに流れがあることさえ見落としそうだった。
佐那は、二つの川を見比べた。
「広い方が、歩きやすそうです」
「そう見える」
多加津は答えた。
「では、危ないのですね」
「危ないとは限らぬ」
「でも、行かないのでしょう」
「行かない」
佐那は困ったように川を見た。
「山の道は、どうして歩きやすそうな方を疑うのですか」
「歩きやすそうだからだ」
多加津の答えは短かった。
真鹿人は、女の言葉を思い出していた。
川が二つに分かれる。広い方へ行くな。狭い方でもない。音の小さい方を聞け。
見るのではなく、聞け。
そう言われた。
真鹿人は、目を閉じた。
広い川の音は、すぐに耳へ入ってくる。石へぶつかり、白く砕け、谷に反響し、ここを通れと告げるように響いていた。
細い川の音は、その下にあった。
音というより、湿りだった。
岩の影で、水が自分の身を細くしながら進んでいる。葉が落ち、流れに触れ、すぐ岸へ寄る。小さな泡が石の裏で生まれ、消える。聞こうとしなければ聞こえない。
だが、一度聞こえると、不思議に離れなかった。
「こちらだ」
多加津が言った。
三人は、音の小さい流れに沿って歩き始めた。
川沿いの道は、道というより、水に借りた隙間だった。人が歩くために開かれたものではない。水が岩を避け、根を洗い、落葉を押し流し、少しだけ空けた場所を、人が後から歩いている。
それでも、山の斜面よりは進みやすかった。
昼を過ぎる頃には、空が少し広がった。
木々の密度が薄れ、谷の向こうに別の尾根が見えるようになった。山は幾重にも重なっていた。近い山は黒く、遠い山は青く、さらに遠い山は空と同じ色に溶けていた。
真鹿人は、それを見て思った。
飛騨は、近づくほど遠くなる。
地図の上なら、山を越え、川をたどり、集落を過ぎれば、目的地へ近づく。けれど、歩いてみると違う。一つの山を越えると、別の山が現れる。一つの川を選ぶと、選ばなかった川が背後に残る。一人の女に会うと、まだ会っていない者の多さを知る。
飛騨という名は、一つの土地を指すには大きすぎるのかもしれない。
大和で見た木簡には、国の名が並んでいた。
出雲。
因幡。
信濃。
飛騨。
それらは木簡の幅の中で、同じ大きさの文字として置かれていた。だが実際には、どの名も、山や水や浜や湖や人の息を抱えきれない。
名は便利だ。
便利だから、人は名で土地を畳む。
しかし、畳まれた土地は、歩く時にまた広がる。
真鹿人は、荷の中の木簡を思った。
書かれたものは、畳まれる。
語られたものは、広がりながら残る。
宇都志の言葉が、遠い出雲の夜から戻ってきた。
記録は閉じる。語りは閉じることを遅らせる。
では、書く者は、閉じることしかできないのか。
閉じることを遅らせる記録は、あり得るのか。
空白は、そのための余地なのか。
そう思いかけて、真鹿人はまた止めた。
空白をすぐ答えにしてはならない。
水緒は、それを戒めた。
空白を持つ者は、自分が深いと思い始めることがある。
飛騨へ入る前から、自分は幾度その罠へ足をかけたのだろう。
「真鹿人さま」
佐那が呼んだ。
「また、眉です」
「眉?」
「書くか書かないかの眉です」
真鹿人は、思わず額に手を触れた。
「そんなに分かるか」
「分かります。山道では、足元より先に眉が迷っています」
多加津が前で言った。
「足元が迷うよりはよい」
「それは、よいのですか」
佐那が聞く。
「眉は落ちぬ」
佐那は少し考えてから、納得したように頷いた。
「たしかに」
真鹿人は、苦く笑った。
その笑いは、自分でも意外なほど軽かった。
飛騨へ向かう道は重い。月の問いも、名の問いも、空の木簡も重い。だが、佐那の言葉は、その重さを少しだけ腹のあたりへ戻してくれる。
重いものを、頭だけで持ってはならない。
腹で持ち、足で持ち、時に笑いで持つ。
そうでなければ、人はすぐ神の話を、人の暮らしから離してしまう。
夕方近く、三人は川沿いの開けた場所に出た。
そこには、小さな小屋があった。
家というには簡素だった。柱は細く、屋根は低い。壁の一部は木の皮で覆われ、隙間には草が詰められている。人が常に住む場所ではなく、山へ入る者が一夜を越すための場所に見えた。
小屋の前には、古い火の跡があった。
灰は湿っていない。
誰かが近い日に使ったのだろう。
多加津は周囲を調べた。
「ここで夜を越す」
佐那は、露骨にほっとした顔をした。
「屋根があります」
「あるな」
「火も使えますか」
「小さくなら」
「飯は」
「食う」
佐那は、深くうなずいた。
「よい場所です」
その判断の速さに、真鹿人は少し笑った。
佐那にとって、よい場所とは、神の名がある場所ではない。
屋根がある。
火が使える。
飯が食える。
足を休められる。
それだけで、山の中では十分すぎるほどよい場所になる。
小屋の中には、乾いた枝が少し積まれていた。壁に吊るされた古い縄、欠けた土器、使い古された木椀。持ち主の名はない。誰のものとも書かれていない。
だが、誰のものでもないというより、通る者のために残されているようだった。
多加津は、積まれた枝を一部だけ取った。
「全部は使わないのか」
真鹿人が問う。
「次に来る者が困る」
多加津は当然のように答えた。
「次に誰が来るか、分かるのか」
「分からぬから残す」
真鹿人は、その言葉を胸の内で受け止めた。
分からぬから残す。
大和の記録は、分かるようにするためのものだった。名を残し、系譜を残し、祭りの順を残す。誰が見ても分かるように整える。
だが、山の小屋に残された枝は違う。
誰が使うか分からない。
いつ来るか分からない。
敵か味方かも分からない。
それでも、少し残す。
名のない者へ、名のないまま渡す。
それは記録ではない。
だが、残すという行為ではある。
真鹿人は、壁に吊るされた縄を見た。
使い古されている。何人もの手が触れたのだろう。だが、誰の名も刻まれていない。名がないからといって、軽いものではない。
佐那が火を起こした。
今度は少し慣れていた。昨夜ほど煙にむせることもない。多加津が枝の置き方を直し、火は小さく安定した。
小屋の外は、まだ明るかった。
だが山の夕は早い。
空が青さを失い始めると、谷の底から暗さが上がってくる。川の音が、昼よりも大きく聞こえた。虫の声が少しずつ混じり、遠くで鳥が短く鳴いた。
佐那は土器に水を入れ、干し飯を落とした。
「今日は少し、ましな飯にします」
「昨日より何が違う」
真鹿人が問う。
「気持ちです」
佐那は真顔で答えた。
多加津が、火の向こうで言った。
「それは大事だ」
「でしょう」
佐那は得意そうに頷いた。
飯が温まるまでの間、三人は火を囲んで座った。
小屋の中には入らず、入口の近くにいた。多加津が、外の気配を見やすい方がよいと言ったからである。
日が沈むと、川の上に細い霧が立った。
霧は白かった。
また白い。
真鹿人は、そう思ったが、すぐに一つに結ぶのをやめた。
霧の白は、昨日の石の白とは違う。朝の月とも違う。子どもの手を下ろした時の空の白とも違う。
けれど、白いものは、夜の中で人の目を引く。
目を引くものは、名を呼ばれやすい。
名を呼ばれやすいものは、集められやすい。
集められたものは、使われやすい。
月もまた、そうなのかもしれない。
空に白く、誰の目にも入る。離れた山の民にも、里に残る者にも、狩りに出た者にも、子を抱く者にも、老いた者にも、同じように見える。
同じように、というのは正しくないかもしれない。
場所によって、枝に裂かれ、水に揺れ、雲に隠れ、山に沈む。
それでも、人は思うのだろう。
今、自分が見ているこの月を、離れた者も見ているかもしれない。
真鹿人は、火を見つめた。
狩りに出た者が山の中で月を見る。
里に残った者も、同じ夜に月を見る。
互いの姿は見えない。
声も届かない。
火の匂いも、飯の湯気も、濡れた衣の冷たさも共有できない。
それでも月だけは、同じ空にある。
次の満月には戻る。
次の満月まで数えて待つ。
欠けた月を見て、まだ帰らぬ日を数える。
太りゆく月を見て、近づく帰りを思う。
満ちた月を見て、今夜こそ、あの者もこの月を見ているはずだと思う。
それは、神の名よりも前にある祈りではないか。
だが、祈りと呼んだ瞬間、それはすでに人の言葉になる。
真鹿人は、その考えを胸の内に置いた。
書かない。
まだ書かない。
けれど、見捨てない。
佐那が、鍋をかき混ぜながら言った。
「月が出そうですね」
空は、木々の隙間から少しずつ明るくなっていた。
まだ月そのものは見えない。だが、山の端が薄く白んでいる。夜の中に、どこか柔らかな光が混じり始めていた。
多加津は小屋の外を見た。
「出るだろう」
「今日は、歩かないのですよね」
「歩かない」
「では、見てもいいですね」
多加津は佐那を見た。
「見てもいい。だが、火を消すな」
「月が出るのに、火を残すのですか」
「月は遠い」
多加津はそう言った。
「火は近い」
真鹿人は、その言葉を静かに受け取った。
月は遠い。
火は近い。
月は、離れた者たちを同じ夜へ結ぶ。
火は、今ここにいる者の手と飯と顔を照らす。
月だけでは、飯は煮えない。
火だけでは、遠い者と時を分け合うことはできない。
遠い光と、近い灯。
その二つがあって、人は夜を越えるのかもしれない。
「月があるなら、火はいらないと思っていました」
佐那が言った。
「明るいですし」
「月で飯は炊けぬ」
多加津が言う。
「それは、とても大事ですね」
佐那は真剣に頷いた。
真鹿人は火を見た。
小さな火だった。
谷を照らさない。
山を動かさない。
獣を遠ざけきるほど強くもない。
だが、鍋の底を温めるには足りる。濡れた手を温めるには足りる。三人の顔を互いに見せるには足りる。
名を持たぬ灯。
ふと、そう思った。
この火にも名はない。
だが、名がないから軽いのではない。
むしろ、名を持たぬまま、役目を果たしている。
神にされず、系譜に置かれず、祈りの中心にもならず、ただ人の手の届くところで燃える。
その火の周りで、飯を分け、濡れた足を乾かし、夜の音を聞く。
そこには、記録されにくいものがある。
真鹿人は、自分の仕事が、どれほど多くのものを取り落としてきたかを思った。
神の名は記せる。
祭りの由来も記せる。
祠の位置も、石の形も、語り部の言葉も、木簡へ刻むことができる。
だが、火の周りで誰かが少し息を楽にすること。
遠くの家族も同じ月を見ていると思い、狩りの夜を越すこと。
虫の声と川の音の中で、帰る日を数えること。
欠けていく月を見て不安になり、満ちていく月を見て心を保つこと。
そういうものを、どの名の下へ置けばよいのか。
置いた瞬間、それはもう違うものになってしまうのではないか。
佐那が椀を差し出した。
「真鹿人さま、飯です」
真鹿人は、考えから引き戻された。
「ありがとう」
「考えごとをしていると、冷めます」
「それは困る」
「はい。神の名より困ります」
佐那は真面目だった。
多加津も椀を受け取った。
三人は小さな火のそばで、飯を食べた。
味は薄かった。
けれど、昨日よりましだった。
佐那の言う通り、気持ちが違うのかもしれない。屋根があり、火が安定し、川の音が近く、月が出ようとしている。そのすべてが、飯の味を少し変えていた。
飯を食べている間に、月が出た。
山の端から、ゆっくりと。
今夜の月は、昨夜より明るかった。
満月ではない。だが、満ちる方へ向かっていることが分かる月だった。欠けた輪郭の中に、これから満ちていく約束のようなものがある。
佐那は椀を持ったまま空を見上げた。
「きれいです」
また、その言葉だった。
誰も止めなかった。
真鹿人も空を見た。
月は、川の霧を白くしていた。木々の葉は銀のように見え、岩の上は薄く光っていた。火の赤さとは別の光が、谷の底へ静かに降りている。
虫の声が増えていた。
風が葉を揺らす。
川は昼よりも柔らかく鳴っているように聞こえた。
どこか遠くで、獣が短く鳴いた。
雨は降っていなかったが、湿った空気の中に、いつ降ってもおかしくない匂いがあった。
自然に抱かれる、という言葉を真鹿人は知らなかった。
だが、その感覚はあった。
人は山の中で、小さな火を持ち、薄い飯を分け、遠い月を見る。
周りには、虫が鳴き、川が流れ、風が葉を撫で、獣がどこかを通っている。
人はその中心にいるのではない。
ただ、その中に少し置かれている。
許されているのではない。
見逃されている。
けれど、見逃されているだけでも、夜を越すには十分な時がある。
佐那が、ふと呟いた。
「里の者も、見ているでしょうか」
真鹿人は佐那を見た。
「里?」
「大和でも、今夜、月は見えるのでしょうか」
「雲がなければ」
「では、誰かが見ていますね」
佐那は月を見上げたまま言った。
「私の母も、見ているかもしれません」
その声は明るくはなかった。
だが、暗くもなかった。
ただ、離れた者を思う声だった。
真鹿人は、佐那に家族のことを多く聞いたことがない。佐那も、あまり語らなかった。旅の間、彼はよく飯の話をし、寒さの話をし、足の痛みを訴え、怖いものは怖いと言った。だが、故郷の話は少なかった。
今、月がそれを連れてきた。
「母君は、月を見る方なのか」
「分かりません」
佐那は少し笑った。
「忙しい人でしたから。月を見る暇があったかどうか。でも、見ていたらいいなと思います」
「なぜ」
「同じものを見ていると思うと、少し近くなる気がします」
真鹿人は黙った。
佐那は続けた。
「私は、大和を出てから、何日も歩いています。どこにいるのか、時々分からなくなります。出雲も、諏訪も、今の山も、全部違います。でも、月は同じ空に出ます」
佐那は椀を膝に置いた。
「同じ形ではないです。山では枝に隠れますし、湖では水に揺れました。でも、あれを母も見ているかもしれないと思うと、少しだけ、同じ夜にいる気がします」
真鹿人は、その言葉を深く聞いた。
名ではない。
系譜でもない。
土地の支配でも、神の由来でもない。
同じ夜にいる気がする。
それだけのことが、人をどれほど支えるのか。
狩りに出た者も、そうなのだろう。
山に入り、谷を越え、獣を追い、時に雨に打たれ、火を小さく保ちながら、月を見る。里に残る者もまた、家の前で、あるいは水を汲みに出た道で、同じ月を見る。
帰ってこい。
次の満月には帰ってこい。
無事でいろ。
同じ月を見ていろ。
その祈りは、神の名を必要としない。
むしろ、名を与えれば、祈りは一つの器に入ってしまうのかもしれない。
月は、誰か一人の願いを聞く神ではない。
離れた者たちが、同じ時を過ごしていると思えるための遠い灯。
夜の暗闇の中で、人が変化を受け入れるための、わずかな光。
欠け、満ち、隠れ、また出る。
その変化を見ながら、人もまた待つ。
帰らぬ不安を、満ちていく光へ少し預ける。
別れた時間を、月の形で数える。
真鹿人は、胸の奥が静かに重くなるのを感じた。
これは書ける。
だが、書いてよいのか。
佐那の言葉として書くなら、まだよいのか。
いや、佐那の言葉を借りて、自分の思索を書けば、それは佐那を奪うことになるのではないか。
彼は椀を置いた。
荷へ手を伸ばしかけた。
だが、止めた。
佐那が気づいた。
「書くのですか」
「いや」
真鹿人は手を戻した。
「今は書かぬ」
「でも、今のは、書いてもよい気がします」
「なぜ」
「私が言ったことですから」
佐那は少し不思議そうに言った。
「私の言葉なら、書いてもよいのでは」
「お前の言葉を、私が持っていくことになる」
「いつも持っていっているではないですか」
佐那の答えは率直だった。
「出雲でも、諏訪でも、私が言った変なことを、真鹿人さまは時々すごく大事そうに持っていました」
「変なことではない」
「では、なおさらです」
佐那は笑った。
「私は、難しいことは分かりません。でも、母も月を見ていたらいいなと思ったことは、なくなってほしくないです」
真鹿人は言葉を失った。
書くことで失われるものがある。
書かぬことで失われるものもある。
この二つの間で、彼は何度も揺れてきた。
だが今、佐那は自分の言葉を、なくなってほしくないと言った。
ならば、それを書かぬことは、守ることではなく、取り落とすことになるのか。
真鹿人は、荷から普通の木簡を取り出した。
空の木簡ではない。
志斐の宿禰から渡された、あの空白ではない。
旅の記録に使う、いつもの木簡である。
佐那が、少し緊張したように見た。
多加津も、火の向こうから目を向けた。
真鹿人は筆を持たず、小刀を取った。
木簡の端に、短く刻む。
> 佐那、山中にて月を見て言う。
> 大和の母も同じ月を見ていれば、同じ夜にいる気がする、と。
それだけを書いた。
月の神とは書かなかった。
飛騨の信仰とは書かなかった。
月に名はないとも書かなかった。
狩人の祈りとも、里人の祭りとも書かなかった。
ただ、佐那がそう言ったことだけを刻んだ。
真鹿人は木簡を見た。
これでも、閉じている。
佐那の声は、木の上で乾いている。火の匂いも、飯の温さも、川の音も、虫の声も、月の白さも、この一文には入らない。
だが、何も残さぬよりはよいのかもしれない。
いや、それも断じてはならない。
彼は木簡を見つめたまま言った。
「佐那」
「はい」
「今、書いた。だが、これでお前の言葉がすべて残ったとは思わぬ」
「はい」
「むしろ、大事なものの多くは落ちた」
「飯の味も入っていませんしね」
「そうだ」
「火の暖かさも」
「それもだ」
「虫の声も」
「入っていない」
「では、あとで読んでも、あまり分かりませんね」
真鹿人は苦く笑った。
「そうかもしれぬ」
「でも、少しは思い出せます」
佐那は言った。
「全部ではなくても、少し思い出すためなら、書くのもよいのではないですか」
真鹿人は、木簡を伏せた。
全部を残すためではない。
少し思い出すため。
木簡は道ではない。道の杭にすぎぬ。
宇都志の言葉が戻る。
杭は道そのものではない。
だが、杭があることで、かつてそこに道を見た者がいたと分かることもある。
ならば記録とは、すべてを閉じるものではなく、思い出し直すための杭にもなれるのか。
それは、真鹿人がずっと探していたものに近かった。
だが、近いと思った瞬間、また遠ざかった。
近いからといって、正しいとは限らない。
月が出ている時、人は自分が賢くなったと思う。
多加津の言葉が戻る。
今夜の月は明るい。
だからこそ、分かったと思うことを疑わねばならない。
真鹿人は木簡をしまった。
空の木簡には、触れなかった。
小屋の外で、風が少し強くなった。
木々が揺れ、葉がこすれ合う音がした。虫の声が一瞬薄れ、また戻る。川の霧が少し流され、月明かりが水面へ落ちた。
多加津が、ふと月を見た。
ほんの短い時間だった。
それから、また周囲へ目を戻した。
「多加津」
真鹿人は呼んだ。
「何だ」
「お前も、同じ月を見る者を思うことがあるのか」
問うた瞬間、早かったかもしれないと思った。
だが、多加津は怒らなかった。
沈黙があった。
長い沈黙だった。
佐那も口を挟まなかった。
火が小さく鳴った。
やがて多加津は言った。
「ある」
それだけだった。
真鹿人は、それ以上問わなかった。
誰を思うのか。
どこにいるのか。
まだ生きているのか。
戻ると言った場所なのか。
名を変える前の誰かなのか。
問いたいことは多かった。
だが、聞かぬことで保たれる名もある。
多加津は、月を見ていたわけではなかった。
けれど、月が彼の沈黙を少しだけ照らした。
その照らし方は、暴くものではなかった。
ただ、そこに何かがあると知らせるほどの光だった。
夜が進むにつれ、月は高くなった。
小屋の中には入らなかった。入口の近くで、三人は交代で火を見た。多加津が一番長く起き、真鹿人が途中で代わり、佐那は起きると言いながら何度も眠りかけた。
夜の音は、絶えなかった。
虫が鳴く。
川が流れる。
風が葉を擦る。
遠くで獣が草を踏む。
時折、雨ではないかと思うほど細かな音が木々から落ちた。葉に溜まった露が、月明かりの中で一粒ずつ落ちているのだろう。
真鹿人は、その音を聞きながら思った。
月は、静かなものではない。
月そのものは黙っている。
だが、月の夜は多くの音を抱えている。
虫の声。
水の音。
風。
獣。
人の息。
火のはぜる音。
眠る佐那の浅い寝息。
多加津が身じろぎする衣の音。
それらすべてが、月の下にある。
月に名を与えないということは、月だけを守ることではないのかもしれない。
月の下にある、名を持たぬ多くの音を、一つの神名へ集めすぎないこと。
遠くにいる者たちが、それぞれ違う場所で同じ光を見ながら、別々の音に包まれていることを、そのままにしておくこと。
狩りに出た者は、獣の気配と火の匂いの中で月を見る。
里の者は、子の寝息と家の軒から落ちる露の音の中で月を見る。
同じ月を見ている。
だが、同じ夜を同じように過ごしているわけではない。
違う夜を、同じ月で少しだけ結ぶ。
その少しが、人を安らがせる。
真鹿人は、目を閉じた。
これを名にしてはならない。
だが、無きものにもしてはならない。
月は神なのか。
祈りなのか。
灯なのか。
時を数えるものなのか。
離れた者を結ぶものなのか。
それらのどれか一つでは、おそらく足りない。
月は、それらをすべて受けながら、どれにもなりきらずにいる。
だから、名を与えないのかもしれない。
かもしれない。
まだ、それでよい。
夜半を過ぎた頃、空に薄い雲がかかった。
月の輪郭が滲んだ。
さっきまで白くはっきりしていた川霧が、今はぼんやりと広がっている。火の光も、月の光も、雲の下で柔らかく混ざった。
佐那が寝返りを打ち、小さく呟いた。
「帰りますよ」
夢の中の声だった。
誰に言ったのか、本人にも分からないだろう。
真鹿人は、佐那を起こさなかった。
多加津も動かなかった。
月は雲に隠れかけていた。
それでも、夜は完全には暗くならなかった。
雲の向こうに月があると知っているだけで、闇は少し違う。
見えないものと、ないものは違う。
その言葉は、今夜、里に残る者と山にいる者の間にも置けるように思えた。
見えない家族と、いない家族は違う。
帰らぬ者と、戻らぬと決まった者は違う。
同じ月を見ているかもしれないと思える間、人はその違いにすがることができる。
それは弱さではない。
夜を越えるための知恵である。
真鹿人は、火に細い枝を足した。
火は一度沈み、また小さく立った。
名を持たぬ灯。
その赤い光は、月が雲に隠れた夜にも、人の膝先を照らした。
朝、目を覚ますと、雨が降っていた。
細い雨だった。
屋根の草を叩き、木の葉に溜まり、ぽたりぽたりと入口の前へ落ちていた。川の音は少し大きくなっている。空は灰色で、月の気配はどこにもなかった。
佐那は寝ぼけた顔で外を見た。
「月は」
「朝だ」
多加津が答えた。
「雨ですね」
「雨だ」
「歩くのですか」
「歩く」
佐那は深くため息をついた。
「昨夜の月が、もう少し雨を止めてくれればよかったのですが」
「月は雨を止めぬ」
多加津は言った。
「そういうところは、役に立ちませんね」
佐那の言葉に、真鹿人は少し笑った。
月は雨を止めない。
飯も炊かない。
獣を追い払わない。
足を乾かさない。
それでも、人は月を見る。
役に立つからではない。
役に立たぬものが、夜の中で心を保つこともある。
諏訪の名なし石を思い出した。
役に立たぬがゆえに大事なるものあり。
あの言葉は、ここにも続いている。
佐那は、昨夜使った枝の残りを見た。
「これは置いていきますか」
「置く」
多加津が答えた。
「次の人のためですね」
「そうだ」
佐那は、少し考えた後、荷の中から自分の持っていた乾いた細枝を二本出した。
「では、これも」
多加津が佐那を見た。
「よいのか」
「昨夜、少し暖まりましたから」
佐那は小屋の隅に枝を置いた。
「次の人も、少し暖まればよいです」
真鹿人は、その動きを見ていた。
名もない枝。
名もない火。
誰に渡るか分からぬ小さな残しもの。
それは、木簡には残りにくい。
だが、人の暮らしは、こうしたものによって続いている。
真鹿人は普通の木簡を取り出そうとして、やめた。
佐那がこちらを見た。
「今のは書かないのですか」
「書かない」
「なぜです」
「書くと、お前がよいことをした話になる」
「違うのですか」
「違わぬ。だが、それだけになる」
佐那は不思議そうにした。
真鹿人は続けた。
「これは、お前だけの話ではない。昨日、誰かが枝を残した。多加津が全部使わなかった。お前が少し足した。次に来る誰かが、また使い、残すかもしれぬ。そのつながりの中で、お前の枝がある」
「では、全部書けばよいのでは」
「全部は書けぬ」
「難しいですね」
「難しい」
佐那は肩をすくめた。
「では、覚えておいてください」
「そうする」
「忘れたら、また似たことをしましょう」
女の言葉が戻った。
忘れて、また似たものに出会えば、少し違って思い出す。それでよいものもある。
真鹿人は頷いた。
「そうだな」
雨の中、三人は小屋を出た。
川沿いの道は濡れていた。
石は滑り、土は柔らかく、草は足元を冷たくした。佐那は何度も不満を言いかけたが、そのたびに自分で飲み込んだ。おそらく、言っても雨は止まぬと悟ったのだろう。
小屋を振り返ると、屋根の下に残された枝は、暗がりの中でほとんど見えなかった。
だが、ある。
見えにくくても、ある。
次に来る者は、それを見るかもしれない。
あるいは見ずに通り過ぎるかもしれない。
それでも、置かれたものは置かれたまま、誰かを待たずにそこにある。
山は月を待たない。
火もまた、使う者の名を待たない。
月も、見上げる者の名を問わない。
三人は雨の中を進んだ。
昨夜の月は、もう見えなかった。
けれど真鹿人の中には、佐那の言葉が残っていた。
大和の母も同じ月を見ていれば、同じ夜にいる気がする。
その一文は木簡に刻まれている。
だが、本当に残ったものは、その一文の外にあった。
火の温さ。
虫の声。
川の霧。
多加津の短い「ある」。
佐那が夢の中で言った「帰りますよ」。
そして、雨の朝、小屋の隅に足された二本の枝。
それらはまだ名を持たない。
名を持たぬまま、真鹿人の内で小さく灯っていた。




