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月を隠した国  作者: 月読 龍
第三部 飛騨、月に名はない
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26/32

第二十四章 名を持たぬ灯

 川は、二つに分かれていた。


 ひとつは広く、石を白く噛みながら、谷の正面へ向かって流れていた。水音は大きい。遠くからでも、その道を選べと言っているようだった。


 もうひとつは、細かった。


 木々の影の下へ入り、岩の間を縫うように曲がっていた。水音は小さい。耳を澄まさなければ、そこに流れがあることさえ見落としそうだった。


 佐那は、二つの川を見比べた。


「広い方が、歩きやすそうです」


「そう見える」


 多加津は答えた。


「では、危ないのですね」


「危ないとは限らぬ」


「でも、行かないのでしょう」


「行かない」


 佐那は困ったように川を見た。


「山の道は、どうして歩きやすそうな方を疑うのですか」


「歩きやすそうだからだ」


 多加津の答えは短かった。


 真鹿人は、女の言葉を思い出していた。


 川が二つに分かれる。広い方へ行くな。狭い方でもない。音の小さい方を聞け。


 見るのではなく、聞け。


 そう言われた。


 真鹿人は、目を閉じた。


 広い川の音は、すぐに耳へ入ってくる。石へぶつかり、白く砕け、谷に反響し、ここを通れと告げるように響いていた。


 細い川の音は、その下にあった。


 音というより、湿りだった。


 岩の影で、水が自分の身を細くしながら進んでいる。葉が落ち、流れに触れ、すぐ岸へ寄る。小さな泡が石の裏で生まれ、消える。聞こうとしなければ聞こえない。


 だが、一度聞こえると、不思議に離れなかった。


「こちらだ」


 多加津が言った。


 三人は、音の小さい流れに沿って歩き始めた。


 川沿いの道は、道というより、水に借りた隙間だった。人が歩くために開かれたものではない。水が岩を避け、根を洗い、落葉を押し流し、少しだけ空けた場所を、人が後から歩いている。


 それでも、山の斜面よりは進みやすかった。


 昼を過ぎる頃には、空が少し広がった。


 木々の密度が薄れ、谷の向こうに別の尾根が見えるようになった。山は幾重にも重なっていた。近い山は黒く、遠い山は青く、さらに遠い山は空と同じ色に溶けていた。


 真鹿人は、それを見て思った。


 飛騨は、近づくほど遠くなる。


 地図の上なら、山を越え、川をたどり、集落を過ぎれば、目的地へ近づく。けれど、歩いてみると違う。一つの山を越えると、別の山が現れる。一つの川を選ぶと、選ばなかった川が背後に残る。一人の女に会うと、まだ会っていない者の多さを知る。


 飛騨という名は、一つの土地を指すには大きすぎるのかもしれない。


 大和で見た木簡には、国の名が並んでいた。


 出雲。


 因幡。


 信濃。


 飛騨。


 それらは木簡の幅の中で、同じ大きさの文字として置かれていた。だが実際には、どの名も、山や水や浜や湖や人の息を抱えきれない。


 名は便利だ。


 便利だから、人は名で土地を畳む。


 しかし、畳まれた土地は、歩く時にまた広がる。


 真鹿人は、荷の中の木簡を思った。


 書かれたものは、畳まれる。


 語られたものは、広がりながら残る。


 宇都志の言葉が、遠い出雲の夜から戻ってきた。


 記録は閉じる。語りは閉じることを遅らせる。


 では、書く者は、閉じることしかできないのか。


 閉じることを遅らせる記録は、あり得るのか。


 空白は、そのための余地なのか。


 そう思いかけて、真鹿人はまた止めた。


 空白をすぐ答えにしてはならない。


 水緒は、それを戒めた。


 空白を持つ者は、自分が深いと思い始めることがある。


 飛騨へ入る前から、自分は幾度その罠へ足をかけたのだろう。


「真鹿人さま」


 佐那が呼んだ。


「また、眉です」


「眉?」


「書くか書かないかの眉です」


 真鹿人は、思わず額に手を触れた。


「そんなに分かるか」


「分かります。山道では、足元より先に眉が迷っています」


 多加津が前で言った。


「足元が迷うよりはよい」


「それは、よいのですか」


 佐那が聞く。


「眉は落ちぬ」


 佐那は少し考えてから、納得したように頷いた。


「たしかに」


 真鹿人は、苦く笑った。


 その笑いは、自分でも意外なほど軽かった。


 飛騨へ向かう道は重い。月の問いも、名の問いも、空の木簡も重い。だが、佐那の言葉は、その重さを少しだけ腹のあたりへ戻してくれる。


 重いものを、頭だけで持ってはならない。


 腹で持ち、足で持ち、時に笑いで持つ。


 そうでなければ、人はすぐ神の話を、人の暮らしから離してしまう。


 夕方近く、三人は川沿いの開けた場所に出た。


 そこには、小さな小屋があった。


 家というには簡素だった。柱は細く、屋根は低い。壁の一部は木の皮で覆われ、隙間には草が詰められている。人が常に住む場所ではなく、山へ入る者が一夜を越すための場所に見えた。


 小屋の前には、古い火の跡があった。


 灰は湿っていない。


 誰かが近い日に使ったのだろう。


 多加津は周囲を調べた。


「ここで夜を越す」


 佐那は、露骨にほっとした顔をした。


「屋根があります」


「あるな」


「火も使えますか」


「小さくなら」


「飯は」


「食う」


 佐那は、深くうなずいた。


「よい場所です」


 その判断の速さに、真鹿人は少し笑った。


 佐那にとって、よい場所とは、神の名がある場所ではない。


 屋根がある。


 火が使える。


 飯が食える。


 足を休められる。


 それだけで、山の中では十分すぎるほどよい場所になる。


 小屋の中には、乾いた枝が少し積まれていた。壁に吊るされた古い縄、欠けた土器、使い古された木椀。持ち主の名はない。誰のものとも書かれていない。


 だが、誰のものでもないというより、通る者のために残されているようだった。


 多加津は、積まれた枝を一部だけ取った。


「全部は使わないのか」


 真鹿人が問う。


「次に来る者が困る」


 多加津は当然のように答えた。


「次に誰が来るか、分かるのか」


「分からぬから残す」


 真鹿人は、その言葉を胸の内で受け止めた。


 分からぬから残す。


 大和の記録は、分かるようにするためのものだった。名を残し、系譜を残し、祭りの順を残す。誰が見ても分かるように整える。


 だが、山の小屋に残された枝は違う。


 誰が使うか分からない。


 いつ来るか分からない。


 敵か味方かも分からない。


 それでも、少し残す。


 名のない者へ、名のないまま渡す。


 それは記録ではない。


 だが、残すという行為ではある。


 真鹿人は、壁に吊るされた縄を見た。


 使い古されている。何人もの手が触れたのだろう。だが、誰の名も刻まれていない。名がないからといって、軽いものではない。


 佐那が火を起こした。


 今度は少し慣れていた。昨夜ほど煙にむせることもない。多加津が枝の置き方を直し、火は小さく安定した。


 小屋の外は、まだ明るかった。


 だが山の夕は早い。


 空が青さを失い始めると、谷の底から暗さが上がってくる。川の音が、昼よりも大きく聞こえた。虫の声が少しずつ混じり、遠くで鳥が短く鳴いた。


 佐那は土器に水を入れ、干し飯を落とした。


「今日は少し、ましな飯にします」


「昨日より何が違う」


 真鹿人が問う。


「気持ちです」


 佐那は真顔で答えた。


 多加津が、火の向こうで言った。


「それは大事だ」


「でしょう」


 佐那は得意そうに頷いた。


 飯が温まるまでの間、三人は火を囲んで座った。


 小屋の中には入らず、入口の近くにいた。多加津が、外の気配を見やすい方がよいと言ったからである。


 日が沈むと、川の上に細い霧が立った。


 霧は白かった。


 また白い。


 真鹿人は、そう思ったが、すぐに一つに結ぶのをやめた。


 霧の白は、昨日の石の白とは違う。朝の月とも違う。子どもの手を下ろした時の空の白とも違う。


 けれど、白いものは、夜の中で人の目を引く。


 目を引くものは、名を呼ばれやすい。


 名を呼ばれやすいものは、集められやすい。


 集められたものは、使われやすい。


 月もまた、そうなのかもしれない。


 空に白く、誰の目にも入る。離れた山の民にも、里に残る者にも、狩りに出た者にも、子を抱く者にも、老いた者にも、同じように見える。


 同じように、というのは正しくないかもしれない。


 場所によって、枝に裂かれ、水に揺れ、雲に隠れ、山に沈む。


 それでも、人は思うのだろう。


 今、自分が見ているこの月を、離れた者も見ているかもしれない。


 真鹿人は、火を見つめた。


 狩りに出た者が山の中で月を見る。


 里に残った者も、同じ夜に月を見る。


 互いの姿は見えない。


 声も届かない。


 火の匂いも、飯の湯気も、濡れた衣の冷たさも共有できない。


 それでも月だけは、同じ空にある。


 次の満月には戻る。


 次の満月まで数えて待つ。


 欠けた月を見て、まだ帰らぬ日を数える。


 太りゆく月を見て、近づく帰りを思う。


 満ちた月を見て、今夜こそ、あの者もこの月を見ているはずだと思う。


 それは、神の名よりも前にある祈りではないか。


 だが、祈りと呼んだ瞬間、それはすでに人の言葉になる。


 真鹿人は、その考えを胸の内に置いた。


 書かない。


 まだ書かない。


 けれど、見捨てない。


 佐那が、鍋をかき混ぜながら言った。


「月が出そうですね」


 空は、木々の隙間から少しずつ明るくなっていた。


 まだ月そのものは見えない。だが、山の端が薄く白んでいる。夜の中に、どこか柔らかな光が混じり始めていた。


 多加津は小屋の外を見た。


「出るだろう」


「今日は、歩かないのですよね」


「歩かない」


「では、見てもいいですね」


 多加津は佐那を見た。


「見てもいい。だが、火を消すな」


「月が出るのに、火を残すのですか」


「月は遠い」


 多加津はそう言った。


「火は近い」


 真鹿人は、その言葉を静かに受け取った。


 月は遠い。


 火は近い。


 月は、離れた者たちを同じ夜へ結ぶ。


 火は、今ここにいる者の手と飯と顔を照らす。


 月だけでは、飯は煮えない。


 火だけでは、遠い者と時を分け合うことはできない。


 遠い光と、近い灯。


 その二つがあって、人は夜を越えるのかもしれない。


「月があるなら、火はいらないと思っていました」


 佐那が言った。


「明るいですし」


「月で飯は炊けぬ」


 多加津が言う。


「それは、とても大事ですね」


 佐那は真剣に頷いた。


 真鹿人は火を見た。


 小さな火だった。


 谷を照らさない。


 山を動かさない。


 獣を遠ざけきるほど強くもない。


 だが、鍋の底を温めるには足りる。濡れた手を温めるには足りる。三人の顔を互いに見せるには足りる。


 名を持たぬ灯。


 ふと、そう思った。


 この火にも名はない。


 だが、名がないから軽いのではない。


 むしろ、名を持たぬまま、役目を果たしている。


 神にされず、系譜に置かれず、祈りの中心にもならず、ただ人の手の届くところで燃える。


 その火の周りで、飯を分け、濡れた足を乾かし、夜の音を聞く。


 そこには、記録されにくいものがある。


 真鹿人は、自分の仕事が、どれほど多くのものを取り落としてきたかを思った。


 神の名は記せる。


 祭りの由来も記せる。


 祠の位置も、石の形も、語り部の言葉も、木簡へ刻むことができる。


 だが、火の周りで誰かが少し息を楽にすること。


 遠くの家族も同じ月を見ていると思い、狩りの夜を越すこと。


 虫の声と川の音の中で、帰る日を数えること。


 欠けていく月を見て不安になり、満ちていく月を見て心を保つこと。


 そういうものを、どの名の下へ置けばよいのか。


 置いた瞬間、それはもう違うものになってしまうのではないか。


 佐那が椀を差し出した。


「真鹿人さま、飯です」


 真鹿人は、考えから引き戻された。


「ありがとう」


「考えごとをしていると、冷めます」


「それは困る」


「はい。神の名より困ります」


 佐那は真面目だった。


 多加津も椀を受け取った。


 三人は小さな火のそばで、飯を食べた。


 味は薄かった。


 けれど、昨日よりましだった。


 佐那の言う通り、気持ちが違うのかもしれない。屋根があり、火が安定し、川の音が近く、月が出ようとしている。そのすべてが、飯の味を少し変えていた。


 飯を食べている間に、月が出た。


 山の端から、ゆっくりと。


 今夜の月は、昨夜より明るかった。


 満月ではない。だが、満ちる方へ向かっていることが分かる月だった。欠けた輪郭の中に、これから満ちていく約束のようなものがある。


 佐那は椀を持ったまま空を見上げた。


「きれいです」


 また、その言葉だった。


 誰も止めなかった。


 真鹿人も空を見た。


 月は、川の霧を白くしていた。木々の葉は銀のように見え、岩の上は薄く光っていた。火の赤さとは別の光が、谷の底へ静かに降りている。


 虫の声が増えていた。


 風が葉を揺らす。


 川は昼よりも柔らかく鳴っているように聞こえた。


 どこか遠くで、獣が短く鳴いた。


 雨は降っていなかったが、湿った空気の中に、いつ降ってもおかしくない匂いがあった。


 自然に抱かれる、という言葉を真鹿人は知らなかった。


 だが、その感覚はあった。


 人は山の中で、小さな火を持ち、薄い飯を分け、遠い月を見る。


 周りには、虫が鳴き、川が流れ、風が葉を撫で、獣がどこかを通っている。


 人はその中心にいるのではない。


 ただ、その中に少し置かれている。


 許されているのではない。


 見逃されている。


 けれど、見逃されているだけでも、夜を越すには十分な時がある。


 佐那が、ふと呟いた。


「里の者も、見ているでしょうか」


 真鹿人は佐那を見た。


「里?」


「大和でも、今夜、月は見えるのでしょうか」


「雲がなければ」


「では、誰かが見ていますね」


 佐那は月を見上げたまま言った。


「私の母も、見ているかもしれません」


 その声は明るくはなかった。


 だが、暗くもなかった。


 ただ、離れた者を思う声だった。


 真鹿人は、佐那に家族のことを多く聞いたことがない。佐那も、あまり語らなかった。旅の間、彼はよく飯の話をし、寒さの話をし、足の痛みを訴え、怖いものは怖いと言った。だが、故郷の話は少なかった。


 今、月がそれを連れてきた。


「母君は、月を見る方なのか」


「分かりません」


 佐那は少し笑った。


「忙しい人でしたから。月を見る暇があったかどうか。でも、見ていたらいいなと思います」


「なぜ」


「同じものを見ていると思うと、少し近くなる気がします」


 真鹿人は黙った。


 佐那は続けた。


「私は、大和を出てから、何日も歩いています。どこにいるのか、時々分からなくなります。出雲も、諏訪も、今の山も、全部違います。でも、月は同じ空に出ます」


 佐那は椀を膝に置いた。


「同じ形ではないです。山では枝に隠れますし、湖では水に揺れました。でも、あれを母も見ているかもしれないと思うと、少しだけ、同じ夜にいる気がします」


 真鹿人は、その言葉を深く聞いた。


 名ではない。


 系譜でもない。


 土地の支配でも、神の由来でもない。


 同じ夜にいる気がする。


 それだけのことが、人をどれほど支えるのか。


 狩りに出た者も、そうなのだろう。


 山に入り、谷を越え、獣を追い、時に雨に打たれ、火を小さく保ちながら、月を見る。里に残る者もまた、家の前で、あるいは水を汲みに出た道で、同じ月を見る。


 帰ってこい。


 次の満月には帰ってこい。


 無事でいろ。


 同じ月を見ていろ。


 その祈りは、神の名を必要としない。


 むしろ、名を与えれば、祈りは一つの器に入ってしまうのかもしれない。


 月は、誰か一人の願いを聞く神ではない。


 離れた者たちが、同じ時を過ごしていると思えるための遠い灯。


 夜の暗闇の中で、人が変化を受け入れるための、わずかな光。


 欠け、満ち、隠れ、また出る。


 その変化を見ながら、人もまた待つ。


 帰らぬ不安を、満ちていく光へ少し預ける。


 別れた時間を、月の形で数える。


 真鹿人は、胸の奥が静かに重くなるのを感じた。


 これは書ける。


 だが、書いてよいのか。


 佐那の言葉として書くなら、まだよいのか。


 いや、佐那の言葉を借りて、自分の思索を書けば、それは佐那を奪うことになるのではないか。


 彼は椀を置いた。


 荷へ手を伸ばしかけた。


 だが、止めた。


 佐那が気づいた。


「書くのですか」


「いや」


 真鹿人は手を戻した。


「今は書かぬ」


「でも、今のは、書いてもよい気がします」


「なぜ」


「私が言ったことですから」


 佐那は少し不思議そうに言った。


「私の言葉なら、書いてもよいのでは」


「お前の言葉を、私が持っていくことになる」


「いつも持っていっているではないですか」


 佐那の答えは率直だった。


「出雲でも、諏訪でも、私が言った変なことを、真鹿人さまは時々すごく大事そうに持っていました」


「変なことではない」


「では、なおさらです」


 佐那は笑った。


「私は、難しいことは分かりません。でも、母も月を見ていたらいいなと思ったことは、なくなってほしくないです」


 真鹿人は言葉を失った。


 書くことで失われるものがある。


 書かぬことで失われるものもある。


 この二つの間で、彼は何度も揺れてきた。


 だが今、佐那は自分の言葉を、なくなってほしくないと言った。


 ならば、それを書かぬことは、守ることではなく、取り落とすことになるのか。


 真鹿人は、荷から普通の木簡を取り出した。


 空の木簡ではない。


 志斐の宿禰から渡された、あの空白ではない。


 旅の記録に使う、いつもの木簡である。


 佐那が、少し緊張したように見た。


 多加津も、火の向こうから目を向けた。


 真鹿人は筆を持たず、小刀を取った。


 木簡の端に、短く刻む。


> 佐那、山中にて月を見て言う。

> 大和の母も同じ月を見ていれば、同じ夜にいる気がする、と。


 それだけを書いた。


 月の神とは書かなかった。


 飛騨の信仰とは書かなかった。


 月に名はないとも書かなかった。


 狩人の祈りとも、里人の祭りとも書かなかった。


 ただ、佐那がそう言ったことだけを刻んだ。


 真鹿人は木簡を見た。


 これでも、閉じている。


 佐那の声は、木の上で乾いている。火の匂いも、飯の温さも、川の音も、虫の声も、月の白さも、この一文には入らない。


 だが、何も残さぬよりはよいのかもしれない。


 いや、それも断じてはならない。


 彼は木簡を見つめたまま言った。


「佐那」


「はい」


「今、書いた。だが、これでお前の言葉がすべて残ったとは思わぬ」


「はい」


「むしろ、大事なものの多くは落ちた」


「飯の味も入っていませんしね」


「そうだ」


「火の暖かさも」


「それもだ」


「虫の声も」


「入っていない」


「では、あとで読んでも、あまり分かりませんね」


 真鹿人は苦く笑った。


「そうかもしれぬ」


「でも、少しは思い出せます」


 佐那は言った。


「全部ではなくても、少し思い出すためなら、書くのもよいのではないですか」


 真鹿人は、木簡を伏せた。


 全部を残すためではない。


 少し思い出すため。


 木簡は道ではない。道の杭にすぎぬ。


 宇都志の言葉が戻る。


 杭は道そのものではない。


 だが、杭があることで、かつてそこに道を見た者がいたと分かることもある。


 ならば記録とは、すべてを閉じるものではなく、思い出し直すための杭にもなれるのか。


 それは、真鹿人がずっと探していたものに近かった。


 だが、近いと思った瞬間、また遠ざかった。


 近いからといって、正しいとは限らない。


 月が出ている時、人は自分が賢くなったと思う。


 多加津の言葉が戻る。


 今夜の月は明るい。


 だからこそ、分かったと思うことを疑わねばならない。


 真鹿人は木簡をしまった。


 空の木簡には、触れなかった。


 小屋の外で、風が少し強くなった。


 木々が揺れ、葉がこすれ合う音がした。虫の声が一瞬薄れ、また戻る。川の霧が少し流され、月明かりが水面へ落ちた。


 多加津が、ふと月を見た。


 ほんの短い時間だった。


 それから、また周囲へ目を戻した。


「多加津」


 真鹿人は呼んだ。


「何だ」


「お前も、同じ月を見る者を思うことがあるのか」


 問うた瞬間、早かったかもしれないと思った。


 だが、多加津は怒らなかった。


 沈黙があった。


 長い沈黙だった。


 佐那も口を挟まなかった。


 火が小さく鳴った。


 やがて多加津は言った。


「ある」


 それだけだった。


 真鹿人は、それ以上問わなかった。


 誰を思うのか。


 どこにいるのか。


 まだ生きているのか。


 戻ると言った場所なのか。


 名を変える前の誰かなのか。


 問いたいことは多かった。


 だが、聞かぬことで保たれる名もある。


 多加津は、月を見ていたわけではなかった。


 けれど、月が彼の沈黙を少しだけ照らした。


 その照らし方は、暴くものではなかった。


 ただ、そこに何かがあると知らせるほどの光だった。


 夜が進むにつれ、月は高くなった。


 小屋の中には入らなかった。入口の近くで、三人は交代で火を見た。多加津が一番長く起き、真鹿人が途中で代わり、佐那は起きると言いながら何度も眠りかけた。


 夜の音は、絶えなかった。


 虫が鳴く。


 川が流れる。


 風が葉を擦る。


 遠くで獣が草を踏む。


 時折、雨ではないかと思うほど細かな音が木々から落ちた。葉に溜まった露が、月明かりの中で一粒ずつ落ちているのだろう。


 真鹿人は、その音を聞きながら思った。


 月は、静かなものではない。


 月そのものは黙っている。


 だが、月の夜は多くの音を抱えている。


 虫の声。


 水の音。


 風。


 獣。


 人の息。


 火のはぜる音。


 眠る佐那の浅い寝息。


 多加津が身じろぎする衣の音。


 それらすべてが、月の下にある。


 月に名を与えないということは、月だけを守ることではないのかもしれない。


 月の下にある、名を持たぬ多くの音を、一つの神名へ集めすぎないこと。


 遠くにいる者たちが、それぞれ違う場所で同じ光を見ながら、別々の音に包まれていることを、そのままにしておくこと。


 狩りに出た者は、獣の気配と火の匂いの中で月を見る。


 里の者は、子の寝息と家の軒から落ちる露の音の中で月を見る。


 同じ月を見ている。


 だが、同じ夜を同じように過ごしているわけではない。


 違う夜を、同じ月で少しだけ結ぶ。


 その少しが、人を安らがせる。


 真鹿人は、目を閉じた。


 これを名にしてはならない。


 だが、無きものにもしてはならない。


 月は神なのか。


 祈りなのか。


 灯なのか。


 時を数えるものなのか。


 離れた者を結ぶものなのか。


 それらのどれか一つでは、おそらく足りない。


 月は、それらをすべて受けながら、どれにもなりきらずにいる。


 だから、名を与えないのかもしれない。


 かもしれない。


 まだ、それでよい。


 夜半を過ぎた頃、空に薄い雲がかかった。


 月の輪郭が滲んだ。


 さっきまで白くはっきりしていた川霧が、今はぼんやりと広がっている。火の光も、月の光も、雲の下で柔らかく混ざった。


 佐那が寝返りを打ち、小さく呟いた。


「帰りますよ」


 夢の中の声だった。


 誰に言ったのか、本人にも分からないだろう。


 真鹿人は、佐那を起こさなかった。


 多加津も動かなかった。


 月は雲に隠れかけていた。


 それでも、夜は完全には暗くならなかった。


 雲の向こうに月があると知っているだけで、闇は少し違う。


 見えないものと、ないものは違う。


 その言葉は、今夜、里に残る者と山にいる者の間にも置けるように思えた。


 見えない家族と、いない家族は違う。


 帰らぬ者と、戻らぬと決まった者は違う。


 同じ月を見ているかもしれないと思える間、人はその違いにすがることができる。


 それは弱さではない。


 夜を越えるための知恵である。


 真鹿人は、火に細い枝を足した。


 火は一度沈み、また小さく立った。


 名を持たぬ灯。


 その赤い光は、月が雲に隠れた夜にも、人の膝先を照らした。


 朝、目を覚ますと、雨が降っていた。


 細い雨だった。


 屋根の草を叩き、木の葉に溜まり、ぽたりぽたりと入口の前へ落ちていた。川の音は少し大きくなっている。空は灰色で、月の気配はどこにもなかった。


 佐那は寝ぼけた顔で外を見た。


「月は」


「朝だ」


 多加津が答えた。


「雨ですね」


「雨だ」


「歩くのですか」


「歩く」


 佐那は深くため息をついた。


「昨夜の月が、もう少し雨を止めてくれればよかったのですが」


「月は雨を止めぬ」


 多加津は言った。


「そういうところは、役に立ちませんね」


 佐那の言葉に、真鹿人は少し笑った。


 月は雨を止めない。


 飯も炊かない。


 獣を追い払わない。


 足を乾かさない。


 それでも、人は月を見る。


 役に立つからではない。


 役に立たぬものが、夜の中で心を保つこともある。


 諏訪の名なし石を思い出した。


 役に立たぬがゆえに大事なるものあり。


 あの言葉は、ここにも続いている。


 佐那は、昨夜使った枝の残りを見た。


「これは置いていきますか」


「置く」


 多加津が答えた。


「次の人のためですね」


「そうだ」


 佐那は、少し考えた後、荷の中から自分の持っていた乾いた細枝を二本出した。


「では、これも」


 多加津が佐那を見た。


「よいのか」


「昨夜、少し暖まりましたから」


 佐那は小屋の隅に枝を置いた。


「次の人も、少し暖まればよいです」


 真鹿人は、その動きを見ていた。


 名もない枝。


 名もない火。


 誰に渡るか分からぬ小さな残しもの。


 それは、木簡には残りにくい。


 だが、人の暮らしは、こうしたものによって続いている。


 真鹿人は普通の木簡を取り出そうとして、やめた。


 佐那がこちらを見た。


「今のは書かないのですか」


「書かない」


「なぜです」


「書くと、お前がよいことをした話になる」


「違うのですか」


「違わぬ。だが、それだけになる」


 佐那は不思議そうにした。


 真鹿人は続けた。


「これは、お前だけの話ではない。昨日、誰かが枝を残した。多加津が全部使わなかった。お前が少し足した。次に来る誰かが、また使い、残すかもしれぬ。そのつながりの中で、お前の枝がある」


「では、全部書けばよいのでは」


「全部は書けぬ」


「難しいですね」


「難しい」


 佐那は肩をすくめた。


「では、覚えておいてください」


「そうする」


「忘れたら、また似たことをしましょう」


 女の言葉が戻った。


 忘れて、また似たものに出会えば、少し違って思い出す。それでよいものもある。


 真鹿人は頷いた。


「そうだな」


 雨の中、三人は小屋を出た。


 川沿いの道は濡れていた。


 石は滑り、土は柔らかく、草は足元を冷たくした。佐那は何度も不満を言いかけたが、そのたびに自分で飲み込んだ。おそらく、言っても雨は止まぬと悟ったのだろう。


 小屋を振り返ると、屋根の下に残された枝は、暗がりの中でほとんど見えなかった。


 だが、ある。


 見えにくくても、ある。


 次に来る者は、それを見るかもしれない。


 あるいは見ずに通り過ぎるかもしれない。


 それでも、置かれたものは置かれたまま、誰かを待たずにそこにある。


 山は月を待たない。


 火もまた、使う者の名を待たない。


 月も、見上げる者の名を問わない。


 三人は雨の中を進んだ。


 昨夜の月は、もう見えなかった。


 けれど真鹿人の中には、佐那の言葉が残っていた。


 大和の母も同じ月を見ていれば、同じ夜にいる気がする。


 その一文は木簡に刻まれている。


 だが、本当に残ったものは、その一文の外にあった。


 火の温さ。


 虫の声。


 川の霧。


 多加津の短い「ある」。


 佐那が夢の中で言った「帰りますよ」。


 そして、雨の朝、小屋の隅に足された二本の枝。


 それらはまだ名を持たない。


 名を持たぬまま、真鹿人の内で小さく灯っていた。


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