第二十五章 月見ぬ者
雨は、昼前にやんだ。
やんだ、と言ってよいのかは分からなかった。
空から落ちる水は止まった。だが、山はすぐには雨を終えない。葉に残った雫が落ち、苔に吸われた水が滲み出し、根の下から細い流れが生まれる。岩肌は黒く濡れ、土は柔らかく、足を置くたびに湿った音を立てた。
雨の後の山は、すべてが少しだけ重い。
衣も、髪も、荷も、息も。
佐那は、何度目か分からぬため息をついた。
「雨がやんでも、雨の中を歩いているようです」
「山がまだ濡れている」
多加津が答えた。
「私も濡れています」
「だから、山と同じだ」
「それは、あまり慰めになりません」
佐那はそう言いながら、足元の泥を避けたつもりで、別の泥を踏んだ。顔をしかめる。
真鹿人は、少し後ろからそれを見ていた。
昨夜の小屋は、もう遠い。
火の温さも、佐那が置いた二本の枝も、川霧の白さも、雨の朝の匂いも、歩くほどに背後へ沈んでいく。
だが、消えたわけではない。
木簡に刻んだ一文もある。
大和の母も同じ月を見ていれば、同じ夜にいる気がする。
その言葉は、今も荷の中にある。
けれど、真鹿人が持っているのは、その一文だけではなかった。火の近さ。月の遠さ。虫の声。多加津の短い「ある」。佐那が夢の中で言った「帰りますよ」。それらは、木簡には入らないまま、真鹿人の内側で湿りを保っていた。
湿っているものは、腐ることがある。
だが、乾かしすぎても、別のものになる。
女の言葉が戻る。
全部を同じ形で持つな。腐る。
では、どの形なら腐らずに持てるのか。
いや、腐らぬことだけが大事なのか。
木も、葉も、獣も、人の体も、いずれ腐り、土へ戻る。その土からまた草が伸び、木が立ち、虫が鳴く。腐ることを恐れすぎれば、土地の循環から語りを切り離すことにもなる。
記録とは、腐らせぬためのものなのか。
それとも、腐るべきものを腐らせずに閉じ込めてしまうものなのか。
真鹿人は足を止めそうになった。
「止まるな」
多加津が前から言った。
「考えただけだ」
「足も考えていた」
佐那が振り返り、少し笑った。
「眉だけでなく、足も迷うのですね」
真鹿人は言い返さなかった。
たしかに、足が遅れていた。
考えが深くなるほど、体は周囲から離れる。山道でそれは危うい。頭の中で名や記録を巡らせている間にも、土は滑り、石は動き、枝は顔を打つ。
山は、思索だけの者を許さない。
いや、許すも許さぬもない。
ただ、足を誤れば落ちる。
その単純さが、真鹿人を現実へ戻した。
昼過ぎ、道は川から離れ、緩やかに上り始めた。
雨の後の空は白かった。雲は厚く、太陽は見えない。だが、光はある。影の少ない、平たい明るさだった。月の白とも、霧の白とも、石の白とも違う白。
佐那が空を見上げた。
「今日は月が見えますかね」
「雲が切れれば」
真鹿人が答えた。
「見えなければ、見えないで、少し寂しいですね」
「昨日は月で雨を止めてくれればと言っていた」
「あれは、雨が嫌だったからです」
佐那は当然のように言った。
「月が嫌だったわけではありません」
「月は役に立たぬのではなかったか」
「役には立ちません。でも、ないと寂しいものはあります」
佐那は足元を見ながら続けた。
「飯も、火も、屋根も、役に立ちます。月は飯を炊きません。でも、母も見ているかもしれないと思えるのは、飯とは別です」
真鹿人は、その言葉を黙って受け取った。
役に立つもの。
役に立たぬが、ないと寂しいもの。
諏訪の名なし石。
山の小屋に残された枝。
朝の月。
子どもの下ろされた手。
それらは、すべて同じではない。
だが、人の暮らしには、役に立つものだけでは足りない。
役に立つものだけを記録すれば、人の夜は薄くなる。
大和の木簡は、役に立つものを好む。
どの神が何を司るか。
どの土地がどの系譜に属するか。
どの祭りが、どの由来を持つか。
それらは、人を動かし、国を整えるために役立つ。
だが、遠くの母も同じ月を見ているかもしれない、という佐那の安らぎは、何の役に立つのか。
役に立たぬ。
だからこそ、奪ってはならないのではないか。
真鹿人はそう思い、また、その考えをそっと置いた。
やがて、山の上に小さな平地が現れた。
そこには、昨夜の小屋よりも大きな建物があった。
建物と言っても、里の家ほどしっかりしたものではない。木の柱を組み、屋根を厚く葺き、周囲を低い柵で囲っている。柵の内側には、薪が積まれ、干した草が吊られ、いくつかの石が円を描くように置かれていた。
その円の中央に、古い火の跡があった。
黒く焼けた土。
灰に埋もれた炭。
幾度も火が起こされた場所だった。
佐那が、ぱっと顔を明るくした。
「また火の場所です」
多加津は周囲を見た。
「人がいる」
真鹿人も気づいた。
建物の奥から、煙が出ている。
薪の匂いがした。
しかし、火の気配だけではなかった。人の息、濡れた衣、草を干す匂い、煮炊きの残り。夜を越す場所ではなく、誰かが今も使っている場所だ。
建物の横から、男が一人現れた。
年は五十を過ぎているだろうか。髪に白いものが混じり、顔には深い皺がある。だが体は細く締まり、目は鋭かった。片手に薪を持ち、もう片方の手には短い刃物を下げている。
男は三人を見ると、薪を地面へ置いた。
「雨に追われたか」
問う声は、警戒を隠していなかった。
多加津が答えた。
「道を借りている」
「道は、貸すものではない」
「では、踏ませてもらう」
男は多加津を見た。
それから、真鹿人の木簡袋を見た。
「書く者か」
「大和の記録官、真鹿人です」
真鹿人は頭を下げた。
「諏訪より来ました。飛騨へ向かっています」
「飛騨へ向かう者は、自分がもう飛騨に入っていることを知らぬことがある」
男はそう言った。
真鹿人は顔を上げた。
「ここは、飛騨ですか」
「そう書くなら、そうだろう」
男の声には、わずかな皮肉があった。
「だが、書かぬ者には、ただの山だ」
ただの山。
その言い方に、真鹿人は引っかかった。
ただの、と言いながら、男の声には軽さがなかった。
ただの山とは、名を持たぬ山ではない。
飛騨という名をかぶせる前から、そこにあった山。
そういう意味に聞こえた。
男は佐那を見た。
「腹は」
佐那は一瞬戸惑ったが、すぐ正直に答えた。
「減っています」
男は、ほんの少しだけ頷いた。
「正しい」
佐那は真顔で頭を下げた。
「ありがとうございます」
「褒めてはいない」
「でも、正しいと言われました」
男は口元をわずかに動かした。
「火のそばへ来い。飯は少しだ」
「少しで十分です」
佐那は、前にも同じことを言った。
真鹿人は、それを聞いて、山の道にも同じような言葉が残るのだと思った。
建物の中には、二人の女と、一人の老人がいた。
老人は火の近くに座っていた。背を丸め、膝に手を置き、顔を火へ向けている。目は開いているが、何かを見ているというより、火の温さを受けているようだった。
女たちは、草を束ねていた。
旅人に驚いた様子はあるが、騒がない。昨日の集落と同じく、見知らぬ者を測る静かな目だった。
中央の火は、小さくはなかった。
昨夜の小屋の火より大きい。
だが、荒々しい火でもなかった。薪がゆっくりと燃え、赤い芯を保ち、煙は天井の隙間から抜けていく。建物の中は薄暗く、火だけが人の顔を照らしていた。
昼なのに、火の周りだけが夜のようだった。
真鹿人は、そう思った。
阿蘇の火は、まだ見ていない。
だが、火というものが夜に属することは、ここでも分かる。
昼の火は、煮炊きの道具であり、湿りを追うものであり、手を温めるものである。だが、建物の暗がりに置かれ、人々がその周りに座ると、火は別の顔を持つ。
人を集める。
顔を照らす。
声を近づける。
外の雨や闇や獣から、ほんの少しだけ人の輪を切り分ける。
月が遠く離れた者を同じ夜へ結ぶなら、火は近くにいる者を同じ場所へ寄せる。
遠い光と、近い灯。
その二つは、違う。
だが、人が夜を越えるためのものという意味では、同じところへ触れている。
真鹿人は、火のそばに座った。
佐那はすぐに手を温めた。
「生き返ります」
老人が、初めて佐那を見た。
「何度死ぬ」
佐那は少し考えた。
「山に入ってから、何度もです」
老人は、低く笑った。
「なら、山はよい。何度も生き返らせる」
「死なせないでほしいです」
「それは山に言え」
佐那は火を見た。
「山は聞いてくれますか」
「聞くこともある。答えぬことが多い」
老人はそう言って、また火へ顔を戻した。
男が、薄い汁を出した。
佐那は丁寧に受け取り、真鹿人と多加津にも椀が渡された。
汁には、山菜の苦みがあった。
体に温かさが戻る。
しばらく、誰も話さなかった。
火が鳴る。
建物の外で、葉に残った雫が落ちる。
遠くで鳥が鳴く。
老人の呼吸が、火の音に混じる。
真鹿人は、この沈黙を心地よいと思った。
だが同時に、少し怖いとも思った。
心地よい沈黙は、すぐ意味を与えたくなる。
これは何の場か。
祭りか。
祈りか。
火の信仰か。
山の民の集いか。
そう問えば、木簡に書ける形が見えてくる。
だが、今ここにあるのは、雨の後に旅人が火に当たり、山の者が汁を分けたということだけだ。
そこへ大きな名を置くには早い。
男が言った。
「書く者は、火を見ると何を書く」
真鹿人は椀を置いた。
「これまでなら、火を守る者あり、と書いたかもしれません」
「今は」
「火のそばに人がいた、としか書けぬ」
男は頷いた。
「それでよいこともある」
「よい、のですか」
「火を先に書くと、人が火に従うように見える。人を先に書くと、火が人の持ち物に見える」
男は火を見た。
「だが、火のそばに人がいる時、火も人も、どちらが先とは言いにくい」
真鹿人は、その言葉を深く聞いた。
火のそばに人がいる。
ただ、それだけ。
だが、その「だけ」の中に、神名より重いものがある。
男は続けた。
「夜になれば、ここへ人が来る」
「集まるのですか」
「雨の後は、火が要る。山へ出た者も戻る。里に残った者も来る。火があれば、帰ってきた者の顔が分かる」
佐那が椀を持ったまま顔を上げた。
「顔が分かる」
「声だけでは足りぬ夜がある」
男は答えた。
「月があれば、遠い者も同じ空にいると思える。火があれば、戻った者が本当にそこにいると分かる」
真鹿人は息を止めた。
男は、真鹿人が昨夜から考えていたことを、まったく別の場所から言った。
月は、遠い者を同じ夜へ置く。
火は、戻った者の顔を確かめる。
どちらも、夜の安らぎに関わっている。
だが、その安らぎは同じではない。
月は、まだ帰らぬ者を思う光。
火は、帰ってきた者を迎える光。
月は、離れたまま結ぶ。
火は、戻った者を輪の中へ入れる。
真鹿人は、阿蘇をまだ知らない。
だが、いつか火の山へ行くならば、この言葉は戻ってくるだろうと思った。
火は天より古い。
その言葉をまだ知らぬまま、真鹿人の中に、火の夜が小さく灯った。
夕方まで、三人はその場に留まることを許された。
男は、自分を名乗らなかった。
真鹿人も、問わなかった。
女たちも、必要なこと以外は話さなかった。だが、佐那が濡れた衣を乾かす場所に困っていると、無言で縄を少し空けてくれた。多加津が外の薪を割るのを手伝うと、男は一度だけ頷いた。
名がなくても、やり取りはある。
名がないからこそ、余計なものが挟まらないこともある。
けれど、名がないままでは、後に残らぬこともある。
真鹿人は、その間で揺れ続けた。
日が傾くと、人が増え始めた。
まず、若い男が二人、山の方から戻ってきた。肩に小さな獣を下げていた。狩りの帰りだろう。顔には疲れがあり、衣は濡れていた。彼らは火のそばへ来ると、何も言わずに腰を下ろした。
次に、子を連れた女が来た。
子は眠そうだったが、火を見ると少し目を開いた。火の赤さが、その頬を照らす。
老人がもう一人、杖をついて入ってきた。
外からは、雨上がりの草の匂いと、夜の湿りが流れ込んだ。
火は、少し大きくされた。
それでも、山を照らすほどではない。
ただ、人の輪が少し広がった分だけ、火も広がった。
佐那は、その様子をじっと見ていた。
「月が出る前に、皆さん火に来るのですね」
小声で真鹿人に言う。
「寒いからだろう」
「それだけでしょうか」
佐那にしては珍しく、問いが残った。
「飯の匂いもします。濡れた人もいます。子どもも眠そうです。でも、それだけなら家でもよいのでは」
「火のそばに来る理由があるのだろう」
「月を見る時と似ていますね」
真鹿人は佐那を見た。
佐那は火を見つめていた。
「月を見る時は、遠くの人も見ているかもしれないと思います。でも火のそばでは、ここにいる人の顔が見えます。どちらも、夜に一人ではないと思うためのものなのかもしれません」
真鹿人は、すぐには答えられなかった。
佐那は、理屈として言っているのではない。
火に当たり、飯を待ち、濡れた衣を乾かしながら、そう感じているだけだ。
だからこそ、その言葉は強かった。
火のそばに、人が集まる。
月の下で、人が同じ空を思う。
人は、夜に一人であることを恐れる。
だが、ただ誰かが隣にいればよいわけではない。
遠くにいる者が、今も同じ時を生きていると思うこと。
近くに戻った者の顔を、火で確かめること。
その両方が、夜を人のものにする。
いや、人のものにする、という言い方は違う。
夜を奪うのではない。
夜の中に、人が少しだけ居場所を得る。
真鹿人は、そう思った。
火の輪の中で、狩りから戻った男が、持ち帰った獣を置いた。
女の一人が、それを受け取った。
誰も大げさに喜ばない。
だが、空気が少し緩んだ。
戻った。
獲物よりも、そのことが先にあるようだった。
子どもが、狩りから戻った男の膝へ寄った。
男は手を伸ばし、子の頭に触れた。
それだけだった。
けれど、その手つきに、夜を越えて帰った者と、待っていた者の間にしかない静けさがあった。
真鹿人は、それを見ていた。
書きたいと思った。
だが、どう書けばよいのか分からなかった。
狩人、帰る。
子、その膝へ寄る。
火、その顔を照らす。
そう書けば、事は残る。
だが、待っていた時間の長さはどこへ行く。
月を見て数えた夜はどこへ行く。
雨の音を聞きながら、帰らぬ足を思った者の息はどこへ行く。
それらは、火の明かりの中で、言葉にならずにほどけている。
書けば、ほどける前の形へ戻してしまうかもしれない。
火のそばで、男が真鹿人へ椀を渡した。
「書く者」
「はい」
「見るだけにしておけるか」
真鹿人は椀を受け取り、火を見た。
「今は」
「今は、でよい」
男は言った。
「夜の火は、朝に書けば違うものになる」
「では、書かぬ方がよいのですか」
「それは知らぬ」
男は、少し笑った。
「書く者が考えろ」
真鹿人は、深く頭を下げた。
それは突き放されたのではなかった。
むしろ、役目を返されたのだと思った。
書くなと言われれば、書かずに済む。
書けと言われれば、書けば済む。
だが、「考えろ」と言われることは、もっと重い。
水緒もそうだった。
書くなと言われたら、書くな。
だが、書かぬことで見捨てるな。
書くか書かぬかを、誰かの禁じごとへ預けてはならない。
自分で、その重さを持たねばならない。
夜になった。
雲は薄く切れ、月が出た。
建物の外には、月の白い光が落ちていた。
だが、火の輪の中にいる者たちは、すぐには月を見なかった。
誰かが見上げることもある。
子どもが外へ走りかけ、母に肩を押さえられることもあった。
けれど、月を避けているのではない。
火のそばに、戻った者がいる。
火のそばに、待っていた者がいる。
今夜は、まずそちらを見る。
そういう順があるようだった。
真鹿人は外へ出た。
佐那もついてきた。
多加津は入口の近くに立ち、内と外の両方を見ていた。
外の月は、雲の間から静かに山を照らしていた。
雨上がりの葉が光り、柵の上の雫が白く光る。火の赤さに慣れた目には、月明かりは冷たく見えた。
だが、その冷たさは拒むものではなかった。
遠くまで届くために、そうであるだけのように思えた。
「中の火と、外の月」
佐那が呟いた。
「どちらも明るいですね」
「違う明るさだ」
「はい」
佐那は頷いた。
「火は、顔が見えます。月は、顔までは見えません。でも、山の向こうまで続いている気がします」
真鹿人は、月を見た。
その通りだった。
火は、近い顔を返す。
月は、見えない顔を思わせる。
火は、帰った者を確かめる。
月は、まだ帰らぬ者を待たせる。
どちらも夜の光である。
どちらも、人を集める。
ただ、集め方が違う。
佐那が、ふと入口の内側を見た。
「でも、あの方」
「誰だ」
「火のそばの老人です。ずっと火を見ています。月が出ても、一度も外を見ません」
真鹿人も振り返った。
老人は、確かに火のそばにいた。
背を丸め、両手を膝に置き、赤い光を受けている。外に月が出たことは、おそらく知っている。だが見上げない。
月を見られないのではない。
見ようとしていない。
真鹿人は、申し送りのように胸に残っていた水緒の言葉を思い出した。
月を見ぬ者も見ろ。
月が出た時に黙る者を見ろ。
月が隠れた時に息を吐く者を見ろ。
彼は、老人を見た。
見すぎぬように、見た。
老人は火だけを見ていた。
火の中に何かを探しているようでもあり、火を見ることで何かを見ずにいるようでもあった。
真鹿人は、入口へ戻った。
老人の近くへは行かなかった。
火の輪の外で、しばらく座った。
やがて、老人が口を開いた。
「外へ出ぬのか」
真鹿人に向けられた声だった。
「月が出ています」
「知っている」
「見ないのですか」
問うた瞬間、真鹿人は早かったかもしれないと思った。
だが、老人は怒らなかった。
「見た」
「いつ」
「若い頃」
火が鳴った。
真鹿人は黙った。
老人は、火から目を離さずに続けた。
「見すぎた」
その言葉は、静かだった。
だが、火の周りの空気が少し重くなった。
近くにいた者たちは、誰も口を挟まない。
老人の言葉は、すでにこの場の者たちに知られているのかもしれない。
あるいは、知られていなくとも、問うべきでないと分かっているのかもしれない。
「月を見すぎることがあるのですか」
真鹿人は、慎重に問うた。
「ある」
老人は言った。
「帰らぬ者を、月に探しすぎることがある」
真鹿人は息を詰めた。
老人の顔は、火に照らされていた。
月ではない。
火だった。
「山へ出た者がいた。満ちる前に帰ると言った。月が細い頃に出て、太る頃に戻る、と」
老人は、ゆっくり語った。
「月は太った。だが、戻らなかった」
火が小さく爆ぜた。
佐那は、入口近くで動かなかった。
多加津も、老人を見ていなかった。ただ、火の輪の外へ立ち、静かに聞いていた。
「次の満月には戻ると思った。次の月にも、また次の月にも。月を見るたび、今も同じ月を見ていると思った。そう思わねば、夜を越せなかった」
老人の声は、乾いていなかった。
古い傷を語る声だった。
だが、泣いてはいない。
「ある夜、分かった。私は月を見ているのではなかった。戻らぬ者を、月の中に閉じ込めていた」
真鹿人は、水緒の言葉を思い出した。
月を見てすぐ書きたくなる者は、月を見ているのではない。月を見ている自分を見ている。
老人の場合、それは少し違った。
月を見ていたのではない。
帰らぬ者を、月の中に見続けていた。
それは安らぎでもあった。
だが、いつか苦しみに変わったのだろう。
「それから、見ないのですか」
「見ない夜が増えた」
「見ないことで、忘れられるのですか」
老人は、少しだけ笑った。
「忘れるためではない」
「では」
「月を、あの者だけにしないためだ」
真鹿人は言葉を失った。
月を、あの者だけにしないため。
それは、名を与えないことと似ているようで、少し違った。
月に一人の名を閉じ込めない。
月を一つの悲しみにしない。
月を、戻らぬ者だけの器にしない。
見ないことで、月を遠くへ返す。
それは、月を拒むことではなかった。
むしろ、月を守ることなのかもしれない。
そして、戻らぬ者をも、月の中へ閉じ込めすぎないためのことなのかもしれない。
老人は火を見たまま言った。
「月は、待つ者を慰める。だが、待つ者が月を縛ることもある」
真鹿人は、頭を垂れた。
その言葉は、第三部に入ってから聞いたどの言葉よりも、月へ近かった。
だが、老人は月を見ていない。
月を見ぬ者が、月に近いこともある。
見れば分かるという記録官の癖が、また崩れた。
老人は続けた。
「火は近い。ここに戻った者の顔を照らす。戻らぬ者の顔は照らせぬ」
「だから、火を見るのですか」
「火は、いない者をいるようには見せぬ」
真鹿人は、火を見た。
たしかに、火は近いものを照らす。
火の輪にいない者は、火の中に姿を持たない。思い出すことはできる。語ることもできる。だが、月のように遠くまで届かない。
火は残酷なほど、近い。
だからこそ、今ここにいる者を確かめるには誠実なのかもしれない。
老人は、初めて真鹿人の方を見た。
「大和の書く者。月を見る者だけを書くな」
「はい」
「月を見ぬ者もいる」
「はい」
「見ぬ者は、月を知らぬのではない」
真鹿人は深く頷いた。
「はい」
老人は、また火を見た。
「見ないことで、月を残す者もいる」
真鹿人は、その言葉を胸に置いた。
書きたい。
強く、そう思った。
だが、書けばこの老人の傷を自分の木簡へ移すことになる。
聞いたからといって、持ってよいわけではない。
しかし、書かぬことで、この言葉を見捨ててもならない。
真鹿人は、迷った。
その迷いを、老人は見ていた。
「書くのか」
老人が問うた。
火の周りの者たちが、静かに真鹿人を見た。
佐那も、多加津も、黙っている。
真鹿人は、長く息を吸った。
「今、あなたの言葉をそのまま書けば、私はあなたの戻らぬ者を奪うことになるかもしれません」
老人は黙っていた。
「だが、書かねば、月を見ぬ者もいるということを、大和へ持ち帰れないかもしれません」
「大和へ持ち帰るために聞いたのか」
問いは鋭かった。
真鹿人は答えに詰まった。
そうだ。
彼は大和へ持ち帰るために旅をしている。
名を、語りを、土地の声を、木簡にして大和へ戻るために。
だが、それだけではないと思いたかった。
しかし、それだけではないという思いもまた、身勝手な慰めかもしれない。
真鹿人は正直に言った。
「初めは、そうでした」
「今は」
「分かりません」
老人は、少し目を細めた。
「分からぬか」
「はい」
「では、そのまま持て」
「書かずに、ですか」
「今夜は」
老人は言った。
「朝になっても残るなら、考えろ」
真鹿人は頭を下げた。
「はい」
空の木簡は、荷の中で沈黙していた。
普通の木簡も取り出さなかった。
今夜は、書かない。
しかし、書かないことで終えない。
朝まで持つ。
朝になって、火の匂いが薄れ、月が消え、雨上がりの湿りも変わった時、それでも残るなら考える。
それは、記録を急がぬための時間だった。
火の輪の中で、語りは続かなかった。
老人は再び黙った。
人々は、飯を分けた。狩りの獲物は小さく切られ、汁に入れられた。佐那は椀を受け取り、目に見えて元気を取り戻した。
外では月が高くなっていた。
中では火が赤く燃えていた。
真鹿人は、老人が月を見ない理由を聞いた。
だが、それで月見ぬ者を分かったとは思わなかった。
月を見ぬ理由は、一つではないだろう。
見ないことで距離を保つ者。
見ないことで月を悲しみに閉じ込めない者。
見ないことで、今ここに戻った者の顔を火で見る者。
あるいは、ただ疲れて眠る者。
それらを一つの名で呼んではならない。
夜が深まると、集まっていた者たちは少しずつ帰っていった。
子を抱いた女。
狩りから戻った若い男。
杖の老人。
それぞれが火のそばで顔を見せ、短い言葉を交わし、闇の中へ戻っていく。
火は、最後まで残った。
火は、帰る者の背を追わない。
戻らぬ者を探しにも行かない。
ただ、そこにある者を照らし、そこから去る者を見送る。
月は外で、遠くの山を照らしていた。
火の光が届かぬ場所にも、月は届く。
だが、月には顔の皺までは見えない。
火には遠い山は見えない。
どちらも足りない。
だから、どちらも要るのかもしれない。
真鹿人は、そう思った。
夜の終わり近く、老人が眠った。
火のそばで、座ったまま眠っていた。
男がそっと上衣をかけた。
その手つきは慣れていた。
真鹿人は、その光景を見ながら、老人の言葉を胸の内で繰り返した。
月を見る者だけを書くな。
月を見ぬ者もいる。
見ぬ者は、月を知らぬのではない。
見ないことで、月を残す者もいる。
朝になっても残るだろうか。
残る気がした。
だが、朝まで待つことにした。
外へ出ると、月は西へ傾いていた。
多加津が柵のそばに立っていた。
「眠らないのか」
真鹿人が問う。
「少し眠った」
「いつ」
「火のそばで」
真鹿人には分からなかった。
多加津は月を見なかった。
だが、見ていないわけでもないように思えた。
「老人の話を、どう聞いた」
真鹿人が問うと、多加津はしばらく黙った。
「戻らぬ者を待つ者は、月を憎むこともある」
「憎む」
「照らすからだ」
多加津は闇を見た。
「月がなければ、待たずに済む夜もある」
真鹿人は、その言葉に胸を刺された。
月は安らぎだけではない。
月があることで、待ってしまう夜がある。
期待してしまう夜がある。
次の満月には帰ると信じてしまう夜がある。
それが叶わぬ時、月は慰めではなく、痛みになる。
それでも人は月を見る。
ある者は見続ける。
ある者は見ない。
どちらも、月との距離である。
「お前は」
真鹿人は言いかけて、止めた。
多加津がこちらを見た。
「何だ」
「いや」
真鹿人は首を横に振った。
「問うには早い」
多加津は、わずかに息を吐いた。
「そうだな」
その声は、拒絶ではなかった。
いずれ問う時が来るのかもしれない。
来ないのかもしれない。
それも、今は断じてはならない。
朝、火は灰になっていた。
月はもうなかった。
建物の外には、雨の後の匂いが残り、空は淡く晴れ始めていた。
老人は起きていた。
昨夜と同じ場所に座り、灰になった火を見ていた。
真鹿人は、老人の前に座った。
「朝になりました」
老人は頷いた。
「残ったか」
「残りました」
「何が」
真鹿人は少し考えた。
「月を見ぬ者は、月を知らぬのではない、ということが」
老人は何も言わなかった。
「それを書いてもよいでしょうか」
「私の名を書かぬなら」
「書きません」
「戻らぬ者の名も書かぬなら」
「書きません」
「なら、書け」
真鹿人は頭を下げた。
普通の木簡を取り出した。
空の木簡ではない。
そして、短く刻んだ。
> 山中、火のそばに月見ぬ者あり。
> 見ぬ者、月を知らざるにあらず。
> 見ないことで、月を残す者もあり。
> 断ずるべからず。
刻み終えて、真鹿人はしばらく木簡を見た。
やはり、足りない。
老人の火に照らされた顔も、戻らぬ者の影も、昨夜の火の輪も、外にあった月も、この短い言葉には入りきらない。
だが、すべてを書けばよいわけでもない。
老人の名を書かない。
戻らぬ者の名も書かない。
それは欠落ではなく、距離だった。
守るための距離なのか、恐れているだけなのか、まだ分からない。
だから、最後に刻んだ。
断ずるべからず。
老人は木簡を見なかった。
「火を見ていけ」
そう言った。
真鹿人は灰を見た。
昨夜の火は、もう火ではない。
だが、灰の下には、まだ少し熱が残っていた。
男が灰を寄せ、炭を一つ取り出した。
赤くはない。
しかし、息を吹きかけると、奥に小さな火が残っていた。
男はそれを新しい草へ移した。
草は、しばらく煙を出し、それから小さく火を持った。
昨夜の火が、朝の火へ渡った。
真鹿人は、それを見た。
火もまた、消えるだけではない。
残り、移り、次の火になる。
月が欠け、満ち、隠れ、また出るように。
火も、燃え、灰になり、炭の奥に残り、息を受けてまた立つ。
阿蘇の火を、真鹿人はまだ知らない。
だが、火というものが、夜だけでなく、夜を越えた朝にも続くことを知った。
佐那が荷を背負った。
「行きましょうか」
声には名残惜しさがあった。
火のそばを離れるのは、月の下を去るのとは少し違う寂しさがあった。
火は、置いていくものだ。
月は、歩いてもついてくるように思える。
だから火の別れは、少し具体的だった。
男が道を教えた。
「この先、山が開ける。だが、開けたところで急ぐな。見える場所ほど、見られている」
多加津が頷いた。
「分かった」
老人は、真鹿人に言った。
「月を見ぬ者を書いたなら、火を見る者も忘れるな」
「はい」
「火を見る者も、火を知っているとは限らぬ」
真鹿人は顔を上げた。
老人は、少し笑った。
「見れば分かると思うな」
真鹿人は、深く頭を下げた。
「はい」
三人は建物を出た。
朝の光は、昨日より澄んでいた。
月はもう見えない。
だが、見えないからといって、なかったことにはならない。
火は建物の奥で、小さく朝へ移されていた。
見えないところで、まだ続いている。
真鹿人は歩きながら思った。
月を見ぬ者。
火を見る者。
月を見る者。
火を残す者。
それらを一つにしてはならない。
だが、ばらばらにしたままでも、何かを取り落とす。
夜を越えるために、人は遠い光と近い灯を持つ。
離れた者を思う月。
戻った者を迎える火。
それらは、やがて別の土地で、別の名を持つのかもしれない。
あるいは、名を与えられることで、別のものにされていくのかもしれない。
真鹿人は、まだ知らない。
知らないまま、飛騨の山道を進んだ。
空の木簡は、まだ空のままだった。
だが、その空白は今、月の白さだけでなく、火の赤さも知り始めていた。




