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月を隠した国  作者: 月読 龍
第三部 飛騨、月に名はない
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27/32

第二十五章 月見ぬ者

 雨は、昼前にやんだ。


 やんだ、と言ってよいのかは分からなかった。


 空から落ちる水は止まった。だが、山はすぐには雨を終えない。葉に残った雫が落ち、苔に吸われた水が滲み出し、根の下から細い流れが生まれる。岩肌は黒く濡れ、土は柔らかく、足を置くたびに湿った音を立てた。


 雨の後の山は、すべてが少しだけ重い。


 衣も、髪も、荷も、息も。


 佐那は、何度目か分からぬため息をついた。


「雨がやんでも、雨の中を歩いているようです」


「山がまだ濡れている」


 多加津が答えた。


「私も濡れています」


「だから、山と同じだ」


「それは、あまり慰めになりません」


 佐那はそう言いながら、足元の泥を避けたつもりで、別の泥を踏んだ。顔をしかめる。


 真鹿人は、少し後ろからそれを見ていた。


 昨夜の小屋は、もう遠い。


 火の温さも、佐那が置いた二本の枝も、川霧の白さも、雨の朝の匂いも、歩くほどに背後へ沈んでいく。


 だが、消えたわけではない。


 木簡に刻んだ一文もある。


 大和の母も同じ月を見ていれば、同じ夜にいる気がする。


 その言葉は、今も荷の中にある。


 けれど、真鹿人が持っているのは、その一文だけではなかった。火の近さ。月の遠さ。虫の声。多加津の短い「ある」。佐那が夢の中で言った「帰りますよ」。それらは、木簡には入らないまま、真鹿人の内側で湿りを保っていた。


 湿っているものは、腐ることがある。


 だが、乾かしすぎても、別のものになる。


 女の言葉が戻る。


 全部を同じ形で持つな。腐る。


 では、どの形なら腐らずに持てるのか。


 いや、腐らぬことだけが大事なのか。


 木も、葉も、獣も、人の体も、いずれ腐り、土へ戻る。その土からまた草が伸び、木が立ち、虫が鳴く。腐ることを恐れすぎれば、土地の循環から語りを切り離すことにもなる。


 記録とは、腐らせぬためのものなのか。


 それとも、腐るべきものを腐らせずに閉じ込めてしまうものなのか。


 真鹿人は足を止めそうになった。


「止まるな」


 多加津が前から言った。


「考えただけだ」


「足も考えていた」


 佐那が振り返り、少し笑った。


「眉だけでなく、足も迷うのですね」


 真鹿人は言い返さなかった。


 たしかに、足が遅れていた。


 考えが深くなるほど、体は周囲から離れる。山道でそれは危うい。頭の中で名や記録を巡らせている間にも、土は滑り、石は動き、枝は顔を打つ。


 山は、思索だけの者を許さない。


 いや、許すも許さぬもない。


 ただ、足を誤れば落ちる。


 その単純さが、真鹿人を現実へ戻した。


 昼過ぎ、道は川から離れ、緩やかに上り始めた。


 雨の後の空は白かった。雲は厚く、太陽は見えない。だが、光はある。影の少ない、平たい明るさだった。月の白とも、霧の白とも、石の白とも違う白。


 佐那が空を見上げた。


「今日は月が見えますかね」


「雲が切れれば」


 真鹿人が答えた。


「見えなければ、見えないで、少し寂しいですね」


「昨日は月で雨を止めてくれればと言っていた」


「あれは、雨が嫌だったからです」


 佐那は当然のように言った。


「月が嫌だったわけではありません」


「月は役に立たぬのではなかったか」


「役には立ちません。でも、ないと寂しいものはあります」


 佐那は足元を見ながら続けた。


「飯も、火も、屋根も、役に立ちます。月は飯を炊きません。でも、母も見ているかもしれないと思えるのは、飯とは別です」


 真鹿人は、その言葉を黙って受け取った。


 役に立つもの。


 役に立たぬが、ないと寂しいもの。


 諏訪の名なし石。


 山の小屋に残された枝。


 朝の月。


 子どもの下ろされた手。


 それらは、すべて同じではない。


 だが、人の暮らしには、役に立つものだけでは足りない。


 役に立つものだけを記録すれば、人の夜は薄くなる。


 大和の木簡は、役に立つものを好む。


 どの神が何を司るか。


 どの土地がどの系譜に属するか。


 どの祭りが、どの由来を持つか。


 それらは、人を動かし、国を整えるために役立つ。


 だが、遠くの母も同じ月を見ているかもしれない、という佐那の安らぎは、何の役に立つのか。


 役に立たぬ。


 だからこそ、奪ってはならないのではないか。


 真鹿人はそう思い、また、その考えをそっと置いた。


 やがて、山の上に小さな平地が現れた。


 そこには、昨夜の小屋よりも大きな建物があった。


 建物と言っても、里の家ほどしっかりしたものではない。木の柱を組み、屋根を厚く葺き、周囲を低い柵で囲っている。柵の内側には、薪が積まれ、干した草が吊られ、いくつかの石が円を描くように置かれていた。


 その円の中央に、古い火の跡があった。


 黒く焼けた土。


 灰に埋もれた炭。


 幾度も火が起こされた場所だった。


 佐那が、ぱっと顔を明るくした。


「また火の場所です」


 多加津は周囲を見た。


「人がいる」


 真鹿人も気づいた。


 建物の奥から、煙が出ている。


 薪の匂いがした。


 しかし、火の気配だけではなかった。人の息、濡れた衣、草を干す匂い、煮炊きの残り。夜を越す場所ではなく、誰かが今も使っている場所だ。


 建物の横から、男が一人現れた。


 年は五十を過ぎているだろうか。髪に白いものが混じり、顔には深い皺がある。だが体は細く締まり、目は鋭かった。片手に薪を持ち、もう片方の手には短い刃物を下げている。


 男は三人を見ると、薪を地面へ置いた。


「雨に追われたか」


 問う声は、警戒を隠していなかった。


 多加津が答えた。


「道を借りている」


「道は、貸すものではない」


「では、踏ませてもらう」


 男は多加津を見た。


 それから、真鹿人の木簡袋を見た。


「書く者か」


「大和の記録官、真鹿人です」


 真鹿人は頭を下げた。


「諏訪より来ました。飛騨へ向かっています」


「飛騨へ向かう者は、自分がもう飛騨に入っていることを知らぬことがある」


 男はそう言った。


 真鹿人は顔を上げた。


「ここは、飛騨ですか」


「そう書くなら、そうだろう」


 男の声には、わずかな皮肉があった。


「だが、書かぬ者には、ただの山だ」


 ただの山。


 その言い方に、真鹿人は引っかかった。


 ただの、と言いながら、男の声には軽さがなかった。


 ただの山とは、名を持たぬ山ではない。


 飛騨という名をかぶせる前から、そこにあった山。


 そういう意味に聞こえた。


 男は佐那を見た。


「腹は」


 佐那は一瞬戸惑ったが、すぐ正直に答えた。


「減っています」


 男は、ほんの少しだけ頷いた。


「正しい」


 佐那は真顔で頭を下げた。


「ありがとうございます」


「褒めてはいない」


「でも、正しいと言われました」


 男は口元をわずかに動かした。


「火のそばへ来い。飯は少しだ」


「少しで十分です」


 佐那は、前にも同じことを言った。


 真鹿人は、それを聞いて、山の道にも同じような言葉が残るのだと思った。


 建物の中には、二人の女と、一人の老人がいた。


 老人は火の近くに座っていた。背を丸め、膝に手を置き、顔を火へ向けている。目は開いているが、何かを見ているというより、火の温さを受けているようだった。


 女たちは、草を束ねていた。


 旅人に驚いた様子はあるが、騒がない。昨日の集落と同じく、見知らぬ者を測る静かな目だった。


 中央の火は、小さくはなかった。


 昨夜の小屋の火より大きい。


 だが、荒々しい火でもなかった。薪がゆっくりと燃え、赤い芯を保ち、煙は天井の隙間から抜けていく。建物の中は薄暗く、火だけが人の顔を照らしていた。


 昼なのに、火の周りだけが夜のようだった。


 真鹿人は、そう思った。


 阿蘇の火は、まだ見ていない。


 だが、火というものが夜に属することは、ここでも分かる。


 昼の火は、煮炊きの道具であり、湿りを追うものであり、手を温めるものである。だが、建物の暗がりに置かれ、人々がその周りに座ると、火は別の顔を持つ。


 人を集める。


 顔を照らす。


 声を近づける。


 外の雨や闇や獣から、ほんの少しだけ人の輪を切り分ける。


 月が遠く離れた者を同じ夜へ結ぶなら、火は近くにいる者を同じ場所へ寄せる。


 遠い光と、近い灯。


 その二つは、違う。


 だが、人が夜を越えるためのものという意味では、同じところへ触れている。


 真鹿人は、火のそばに座った。


 佐那はすぐに手を温めた。


「生き返ります」


 老人が、初めて佐那を見た。


「何度死ぬ」


 佐那は少し考えた。


「山に入ってから、何度もです」


 老人は、低く笑った。


「なら、山はよい。何度も生き返らせる」


「死なせないでほしいです」


「それは山に言え」


 佐那は火を見た。


「山は聞いてくれますか」


「聞くこともある。答えぬことが多い」


 老人はそう言って、また火へ顔を戻した。


 男が、薄い汁を出した。


 佐那は丁寧に受け取り、真鹿人と多加津にも椀が渡された。


 汁には、山菜の苦みがあった。


 体に温かさが戻る。


 しばらく、誰も話さなかった。


 火が鳴る。


 建物の外で、葉に残った雫が落ちる。


 遠くで鳥が鳴く。


 老人の呼吸が、火の音に混じる。


 真鹿人は、この沈黙を心地よいと思った。


 だが同時に、少し怖いとも思った。


 心地よい沈黙は、すぐ意味を与えたくなる。


 これは何の場か。


 祭りか。


 祈りか。


 火の信仰か。


 山の民の集いか。


 そう問えば、木簡に書ける形が見えてくる。


 だが、今ここにあるのは、雨の後に旅人が火に当たり、山の者が汁を分けたということだけだ。


 そこへ大きな名を置くには早い。


 男が言った。


「書く者は、火を見ると何を書く」


 真鹿人は椀を置いた。


「これまでなら、火を守る者あり、と書いたかもしれません」


「今は」


「火のそばに人がいた、としか書けぬ」


 男は頷いた。


「それでよいこともある」


「よい、のですか」


「火を先に書くと、人が火に従うように見える。人を先に書くと、火が人の持ち物に見える」


 男は火を見た。


「だが、火のそばに人がいる時、火も人も、どちらが先とは言いにくい」


 真鹿人は、その言葉を深く聞いた。


 火のそばに人がいる。


 ただ、それだけ。


 だが、その「だけ」の中に、神名より重いものがある。


 男は続けた。


「夜になれば、ここへ人が来る」


「集まるのですか」


「雨の後は、火が要る。山へ出た者も戻る。里に残った者も来る。火があれば、帰ってきた者の顔が分かる」


 佐那が椀を持ったまま顔を上げた。


「顔が分かる」


「声だけでは足りぬ夜がある」


 男は答えた。


「月があれば、遠い者も同じ空にいると思える。火があれば、戻った者が本当にそこにいると分かる」


 真鹿人は息を止めた。


 男は、真鹿人が昨夜から考えていたことを、まったく別の場所から言った。


 月は、遠い者を同じ夜へ置く。


 火は、戻った者の顔を確かめる。


 どちらも、夜の安らぎに関わっている。


 だが、その安らぎは同じではない。


 月は、まだ帰らぬ者を思う光。


 火は、帰ってきた者を迎える光。


 月は、離れたまま結ぶ。


 火は、戻った者を輪の中へ入れる。


 真鹿人は、阿蘇をまだ知らない。


 だが、いつか火の山へ行くならば、この言葉は戻ってくるだろうと思った。


 火は天より古い。


 その言葉をまだ知らぬまま、真鹿人の中に、火の夜が小さく灯った。


 夕方まで、三人はその場に留まることを許された。


 男は、自分を名乗らなかった。


 真鹿人も、問わなかった。


 女たちも、必要なこと以外は話さなかった。だが、佐那が濡れた衣を乾かす場所に困っていると、無言で縄を少し空けてくれた。多加津が外の薪を割るのを手伝うと、男は一度だけ頷いた。


 名がなくても、やり取りはある。


 名がないからこそ、余計なものが挟まらないこともある。


 けれど、名がないままでは、後に残らぬこともある。


 真鹿人は、その間で揺れ続けた。


 日が傾くと、人が増え始めた。


 まず、若い男が二人、山の方から戻ってきた。肩に小さな獣を下げていた。狩りの帰りだろう。顔には疲れがあり、衣は濡れていた。彼らは火のそばへ来ると、何も言わずに腰を下ろした。


 次に、子を連れた女が来た。


 子は眠そうだったが、火を見ると少し目を開いた。火の赤さが、その頬を照らす。


 老人がもう一人、杖をついて入ってきた。


 外からは、雨上がりの草の匂いと、夜の湿りが流れ込んだ。


 火は、少し大きくされた。


 それでも、山を照らすほどではない。


 ただ、人の輪が少し広がった分だけ、火も広がった。


 佐那は、その様子をじっと見ていた。


「月が出る前に、皆さん火に来るのですね」


 小声で真鹿人に言う。


「寒いからだろう」


「それだけでしょうか」


 佐那にしては珍しく、問いが残った。


「飯の匂いもします。濡れた人もいます。子どもも眠そうです。でも、それだけなら家でもよいのでは」


「火のそばに来る理由があるのだろう」


「月を見る時と似ていますね」


 真鹿人は佐那を見た。


 佐那は火を見つめていた。


「月を見る時は、遠くの人も見ているかもしれないと思います。でも火のそばでは、ここにいる人の顔が見えます。どちらも、夜に一人ではないと思うためのものなのかもしれません」


 真鹿人は、すぐには答えられなかった。


 佐那は、理屈として言っているのではない。


 火に当たり、飯を待ち、濡れた衣を乾かしながら、そう感じているだけだ。


 だからこそ、その言葉は強かった。


 火のそばに、人が集まる。


 月の下で、人が同じ空を思う。


 人は、夜に一人であることを恐れる。


 だが、ただ誰かが隣にいればよいわけではない。


 遠くにいる者が、今も同じ時を生きていると思うこと。


 近くに戻った者の顔を、火で確かめること。


 その両方が、夜を人のものにする。


 いや、人のものにする、という言い方は違う。


 夜を奪うのではない。


 夜の中に、人が少しだけ居場所を得る。


 真鹿人は、そう思った。


 火の輪の中で、狩りから戻った男が、持ち帰った獣を置いた。


 女の一人が、それを受け取った。


 誰も大げさに喜ばない。


 だが、空気が少し緩んだ。


 戻った。


 獲物よりも、そのことが先にあるようだった。


 子どもが、狩りから戻った男の膝へ寄った。


 男は手を伸ばし、子の頭に触れた。


 それだけだった。


 けれど、その手つきに、夜を越えて帰った者と、待っていた者の間にしかない静けさがあった。


 真鹿人は、それを見ていた。


 書きたいと思った。


 だが、どう書けばよいのか分からなかった。


 狩人、帰る。


 子、その膝へ寄る。


 火、その顔を照らす。


 そう書けば、事は残る。


 だが、待っていた時間の長さはどこへ行く。


 月を見て数えた夜はどこへ行く。


 雨の音を聞きながら、帰らぬ足を思った者の息はどこへ行く。


 それらは、火の明かりの中で、言葉にならずにほどけている。


 書けば、ほどける前の形へ戻してしまうかもしれない。


 火のそばで、男が真鹿人へ椀を渡した。


「書く者」


「はい」


「見るだけにしておけるか」


 真鹿人は椀を受け取り、火を見た。


「今は」


「今は、でよい」


 男は言った。


「夜の火は、朝に書けば違うものになる」


「では、書かぬ方がよいのですか」


「それは知らぬ」


 男は、少し笑った。


「書く者が考えろ」


 真鹿人は、深く頭を下げた。


 それは突き放されたのではなかった。


 むしろ、役目を返されたのだと思った。


 書くなと言われれば、書かずに済む。


 書けと言われれば、書けば済む。


 だが、「考えろ」と言われることは、もっと重い。


 水緒もそうだった。


 書くなと言われたら、書くな。


 だが、書かぬことで見捨てるな。


 書くか書かぬかを、誰かの禁じごとへ預けてはならない。


 自分で、その重さを持たねばならない。


 夜になった。


 雲は薄く切れ、月が出た。


 建物の外には、月の白い光が落ちていた。


 だが、火の輪の中にいる者たちは、すぐには月を見なかった。


 誰かが見上げることもある。


 子どもが外へ走りかけ、母に肩を押さえられることもあった。


 けれど、月を避けているのではない。


 火のそばに、戻った者がいる。


 火のそばに、待っていた者がいる。


 今夜は、まずそちらを見る。


 そういう順があるようだった。


 真鹿人は外へ出た。


 佐那もついてきた。


 多加津は入口の近くに立ち、内と外の両方を見ていた。


 外の月は、雲の間から静かに山を照らしていた。


 雨上がりの葉が光り、柵の上の雫が白く光る。火の赤さに慣れた目には、月明かりは冷たく見えた。


 だが、その冷たさは拒むものではなかった。


 遠くまで届くために、そうであるだけのように思えた。


「中の火と、外の月」


 佐那が呟いた。


「どちらも明るいですね」


「違う明るさだ」


「はい」


 佐那は頷いた。


「火は、顔が見えます。月は、顔までは見えません。でも、山の向こうまで続いている気がします」


 真鹿人は、月を見た。


 その通りだった。


 火は、近い顔を返す。


 月は、見えない顔を思わせる。


 火は、帰った者を確かめる。


 月は、まだ帰らぬ者を待たせる。


 どちらも夜の光である。


 どちらも、人を集める。


 ただ、集め方が違う。


 佐那が、ふと入口の内側を見た。


「でも、あの方」


「誰だ」


「火のそばの老人です。ずっと火を見ています。月が出ても、一度も外を見ません」


 真鹿人も振り返った。


 老人は、確かに火のそばにいた。


 背を丸め、両手を膝に置き、赤い光を受けている。外に月が出たことは、おそらく知っている。だが見上げない。


 月を見られないのではない。


 見ようとしていない。


 真鹿人は、申し送りのように胸に残っていた水緒の言葉を思い出した。


 月を見ぬ者も見ろ。


 月が出た時に黙る者を見ろ。


 月が隠れた時に息を吐く者を見ろ。


 彼は、老人を見た。


 見すぎぬように、見た。


 老人は火だけを見ていた。


 火の中に何かを探しているようでもあり、火を見ることで何かを見ずにいるようでもあった。


 真鹿人は、入口へ戻った。


 老人の近くへは行かなかった。


 火の輪の外で、しばらく座った。


 やがて、老人が口を開いた。


「外へ出ぬのか」


 真鹿人に向けられた声だった。


「月が出ています」


「知っている」


「見ないのですか」


 問うた瞬間、真鹿人は早かったかもしれないと思った。


 だが、老人は怒らなかった。


「見た」


「いつ」


「若い頃」


 火が鳴った。


 真鹿人は黙った。


 老人は、火から目を離さずに続けた。


「見すぎた」


 その言葉は、静かだった。


 だが、火の周りの空気が少し重くなった。


 近くにいた者たちは、誰も口を挟まない。


 老人の言葉は、すでにこの場の者たちに知られているのかもしれない。


 あるいは、知られていなくとも、問うべきでないと分かっているのかもしれない。


「月を見すぎることがあるのですか」


 真鹿人は、慎重に問うた。


「ある」


 老人は言った。


「帰らぬ者を、月に探しすぎることがある」


 真鹿人は息を詰めた。


 老人の顔は、火に照らされていた。


 月ではない。


 火だった。


「山へ出た者がいた。満ちる前に帰ると言った。月が細い頃に出て、太る頃に戻る、と」


 老人は、ゆっくり語った。


「月は太った。だが、戻らなかった」


 火が小さく爆ぜた。


 佐那は、入口近くで動かなかった。


 多加津も、老人を見ていなかった。ただ、火の輪の外へ立ち、静かに聞いていた。


「次の満月には戻ると思った。次の月にも、また次の月にも。月を見るたび、今も同じ月を見ていると思った。そう思わねば、夜を越せなかった」


 老人の声は、乾いていなかった。


 古い傷を語る声だった。


 だが、泣いてはいない。


「ある夜、分かった。私は月を見ているのではなかった。戻らぬ者を、月の中に閉じ込めていた」


 真鹿人は、水緒の言葉を思い出した。


 月を見てすぐ書きたくなる者は、月を見ているのではない。月を見ている自分を見ている。


 老人の場合、それは少し違った。


 月を見ていたのではない。


 帰らぬ者を、月の中に見続けていた。


 それは安らぎでもあった。


 だが、いつか苦しみに変わったのだろう。


「それから、見ないのですか」


「見ない夜が増えた」


「見ないことで、忘れられるのですか」


 老人は、少しだけ笑った。


「忘れるためではない」


「では」


「月を、あの者だけにしないためだ」


 真鹿人は言葉を失った。


 月を、あの者だけにしないため。


 それは、名を与えないことと似ているようで、少し違った。


 月に一人の名を閉じ込めない。


 月を一つの悲しみにしない。


 月を、戻らぬ者だけの器にしない。


 見ないことで、月を遠くへ返す。


 それは、月を拒むことではなかった。


 むしろ、月を守ることなのかもしれない。


 そして、戻らぬ者をも、月の中へ閉じ込めすぎないためのことなのかもしれない。


 老人は火を見たまま言った。


「月は、待つ者を慰める。だが、待つ者が月を縛ることもある」


 真鹿人は、頭を垂れた。


 その言葉は、第三部に入ってから聞いたどの言葉よりも、月へ近かった。


 だが、老人は月を見ていない。


 月を見ぬ者が、月に近いこともある。


 見れば分かるという記録官の癖が、また崩れた。


 老人は続けた。


「火は近い。ここに戻った者の顔を照らす。戻らぬ者の顔は照らせぬ」


「だから、火を見るのですか」


「火は、いない者をいるようには見せぬ」


 真鹿人は、火を見た。


 たしかに、火は近いものを照らす。


 火の輪にいない者は、火の中に姿を持たない。思い出すことはできる。語ることもできる。だが、月のように遠くまで届かない。


 火は残酷なほど、近い。


 だからこそ、今ここにいる者を確かめるには誠実なのかもしれない。


 老人は、初めて真鹿人の方を見た。


「大和の書く者。月を見る者だけを書くな」


「はい」


「月を見ぬ者もいる」


「はい」


「見ぬ者は、月を知らぬのではない」


 真鹿人は深く頷いた。


「はい」


 老人は、また火を見た。


「見ないことで、月を残す者もいる」


 真鹿人は、その言葉を胸に置いた。


 書きたい。


 強く、そう思った。


 だが、書けばこの老人の傷を自分の木簡へ移すことになる。


 聞いたからといって、持ってよいわけではない。


 しかし、書かぬことで、この言葉を見捨ててもならない。


 真鹿人は、迷った。


 その迷いを、老人は見ていた。


「書くのか」


 老人が問うた。


 火の周りの者たちが、静かに真鹿人を見た。


 佐那も、多加津も、黙っている。


 真鹿人は、長く息を吸った。


「今、あなたの言葉をそのまま書けば、私はあなたの戻らぬ者を奪うことになるかもしれません」


 老人は黙っていた。


「だが、書かねば、月を見ぬ者もいるということを、大和へ持ち帰れないかもしれません」


「大和へ持ち帰るために聞いたのか」


 問いは鋭かった。


 真鹿人は答えに詰まった。


 そうだ。


 彼は大和へ持ち帰るために旅をしている。


 名を、語りを、土地の声を、木簡にして大和へ戻るために。


 だが、それだけではないと思いたかった。


 しかし、それだけではないという思いもまた、身勝手な慰めかもしれない。


 真鹿人は正直に言った。


「初めは、そうでした」


「今は」


「分かりません」


 老人は、少し目を細めた。


「分からぬか」


「はい」


「では、そのまま持て」


「書かずに、ですか」


「今夜は」


 老人は言った。


「朝になっても残るなら、考えろ」


 真鹿人は頭を下げた。


「はい」


 空の木簡は、荷の中で沈黙していた。


 普通の木簡も取り出さなかった。


 今夜は、書かない。


 しかし、書かないことで終えない。


 朝まで持つ。


 朝になって、火の匂いが薄れ、月が消え、雨上がりの湿りも変わった時、それでも残るなら考える。


 それは、記録を急がぬための時間だった。


 火の輪の中で、語りは続かなかった。


 老人は再び黙った。


 人々は、飯を分けた。狩りの獲物は小さく切られ、汁に入れられた。佐那は椀を受け取り、目に見えて元気を取り戻した。


 外では月が高くなっていた。


 中では火が赤く燃えていた。


 真鹿人は、老人が月を見ない理由を聞いた。


 だが、それで月見ぬ者を分かったとは思わなかった。


 月を見ぬ理由は、一つではないだろう。


 見ないことで距離を保つ者。


 見ないことで月を悲しみに閉じ込めない者。


 見ないことで、今ここに戻った者の顔を火で見る者。


 あるいは、ただ疲れて眠る者。


 それらを一つの名で呼んではならない。


 夜が深まると、集まっていた者たちは少しずつ帰っていった。


 子を抱いた女。


 狩りから戻った若い男。


 杖の老人。


 それぞれが火のそばで顔を見せ、短い言葉を交わし、闇の中へ戻っていく。


 火は、最後まで残った。


 火は、帰る者の背を追わない。


 戻らぬ者を探しにも行かない。


 ただ、そこにある者を照らし、そこから去る者を見送る。


 月は外で、遠くの山を照らしていた。


 火の光が届かぬ場所にも、月は届く。


 だが、月には顔の皺までは見えない。


 火には遠い山は見えない。


 どちらも足りない。


 だから、どちらも要るのかもしれない。


 真鹿人は、そう思った。


 夜の終わり近く、老人が眠った。


 火のそばで、座ったまま眠っていた。


 男がそっと上衣をかけた。


 その手つきは慣れていた。


 真鹿人は、その光景を見ながら、老人の言葉を胸の内で繰り返した。


 月を見る者だけを書くな。


 月を見ぬ者もいる。


 見ぬ者は、月を知らぬのではない。


 見ないことで、月を残す者もいる。


 朝になっても残るだろうか。


 残る気がした。


 だが、朝まで待つことにした。


 外へ出ると、月は西へ傾いていた。


 多加津が柵のそばに立っていた。


「眠らないのか」


 真鹿人が問う。


「少し眠った」


「いつ」


「火のそばで」


 真鹿人には分からなかった。


 多加津は月を見なかった。


 だが、見ていないわけでもないように思えた。


「老人の話を、どう聞いた」


 真鹿人が問うと、多加津はしばらく黙った。


「戻らぬ者を待つ者は、月を憎むこともある」


「憎む」


「照らすからだ」


 多加津は闇を見た。


「月がなければ、待たずに済む夜もある」


 真鹿人は、その言葉に胸を刺された。


 月は安らぎだけではない。


 月があることで、待ってしまう夜がある。


 期待してしまう夜がある。


 次の満月には帰ると信じてしまう夜がある。


 それが叶わぬ時、月は慰めではなく、痛みになる。


 それでも人は月を見る。


 ある者は見続ける。


 ある者は見ない。


 どちらも、月との距離である。


「お前は」


 真鹿人は言いかけて、止めた。


 多加津がこちらを見た。


「何だ」


「いや」


 真鹿人は首を横に振った。


「問うには早い」


 多加津は、わずかに息を吐いた。


「そうだな」


 その声は、拒絶ではなかった。


 いずれ問う時が来るのかもしれない。


 来ないのかもしれない。


 それも、今は断じてはならない。


 朝、火は灰になっていた。


 月はもうなかった。


 建物の外には、雨の後の匂いが残り、空は淡く晴れ始めていた。


 老人は起きていた。


 昨夜と同じ場所に座り、灰になった火を見ていた。


 真鹿人は、老人の前に座った。


「朝になりました」


 老人は頷いた。


「残ったか」


「残りました」


「何が」


 真鹿人は少し考えた。


「月を見ぬ者は、月を知らぬのではない、ということが」


 老人は何も言わなかった。


「それを書いてもよいでしょうか」


「私の名を書かぬなら」


「書きません」


「戻らぬ者の名も書かぬなら」


「書きません」


「なら、書け」


 真鹿人は頭を下げた。


 普通の木簡を取り出した。


 空の木簡ではない。


 そして、短く刻んだ。


> 山中、火のそばに月見ぬ者あり。

> 見ぬ者、月を知らざるにあらず。

> 見ないことで、月を残す者もあり。

> 断ずるべからず。


 刻み終えて、真鹿人はしばらく木簡を見た。


 やはり、足りない。


 老人の火に照らされた顔も、戻らぬ者の影も、昨夜の火の輪も、外にあった月も、この短い言葉には入りきらない。


 だが、すべてを書けばよいわけでもない。


 老人の名を書かない。


 戻らぬ者の名も書かない。


 それは欠落ではなく、距離だった。


 守るための距離なのか、恐れているだけなのか、まだ分からない。


 だから、最後に刻んだ。


 断ずるべからず。


 老人は木簡を見なかった。


「火を見ていけ」


 そう言った。


 真鹿人は灰を見た。


 昨夜の火は、もう火ではない。


 だが、灰の下には、まだ少し熱が残っていた。


 男が灰を寄せ、炭を一つ取り出した。


 赤くはない。


 しかし、息を吹きかけると、奥に小さな火が残っていた。


 男はそれを新しい草へ移した。


 草は、しばらく煙を出し、それから小さく火を持った。


 昨夜の火が、朝の火へ渡った。


 真鹿人は、それを見た。


 火もまた、消えるだけではない。


 残り、移り、次の火になる。


 月が欠け、満ち、隠れ、また出るように。


 火も、燃え、灰になり、炭の奥に残り、息を受けてまた立つ。


 阿蘇の火を、真鹿人はまだ知らない。


 だが、火というものが、夜だけでなく、夜を越えた朝にも続くことを知った。


 佐那が荷を背負った。


「行きましょうか」


 声には名残惜しさがあった。


 火のそばを離れるのは、月の下を去るのとは少し違う寂しさがあった。


 火は、置いていくものだ。


 月は、歩いてもついてくるように思える。


 だから火の別れは、少し具体的だった。


 男が道を教えた。


「この先、山が開ける。だが、開けたところで急ぐな。見える場所ほど、見られている」


 多加津が頷いた。


「分かった」


 老人は、真鹿人に言った。


「月を見ぬ者を書いたなら、火を見る者も忘れるな」


「はい」


「火を見る者も、火を知っているとは限らぬ」


 真鹿人は顔を上げた。


 老人は、少し笑った。


「見れば分かると思うな」


 真鹿人は、深く頭を下げた。


「はい」


 三人は建物を出た。


 朝の光は、昨日より澄んでいた。


 月はもう見えない。


 だが、見えないからといって、なかったことにはならない。


 火は建物の奥で、小さく朝へ移されていた。


 見えないところで、まだ続いている。


 真鹿人は歩きながら思った。


 月を見ぬ者。


 火を見る者。


 月を見る者。


 火を残す者。


 それらを一つにしてはならない。


 だが、ばらばらにしたままでも、何かを取り落とす。


 夜を越えるために、人は遠い光と近い灯を持つ。


 離れた者を思う月。


 戻った者を迎える火。


 それらは、やがて別の土地で、別の名を持つのかもしれない。


 あるいは、名を与えられることで、別のものにされていくのかもしれない。


 真鹿人は、まだ知らない。


 知らないまま、飛騨の山道を進んだ。


 空の木簡は、まだ空のままだった。


 だが、その空白は今、月の白さだけでなく、火の赤さも知り始めていた。


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