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月を隠した国  作者: 月読 龍
第三部 飛騨、月に名はない
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25/32

第二十三章 月を指すな

 夜明け前の山道は、ものの輪郭を奪っていた。


 月はなかった。


 火もなかった。


 ただ、昨日まで足元にあったはずの石や根や落葉が、闇の中でひとつに溶け、歩く者の足だけが、それらを少しずつ分けていた。


 見えぬ道を進む時、人は目ではなく、重みで道を知る。


 真鹿人は、そう思った。


 足を置く。


 土が沈む。


 石がわずかに動く。


 根が足裏を押し返す。


 そのたびに、そこが道であるかどうかを、体が問われる。


 木簡の上に道を書くことは、易い。


 ここより東へ、あるいは北へ、沢を越え、尾根を越え、谷へ下る。そう記せば、後から読む者は道があるように思うだろう。


 けれど実際の道は、文字のように乾いてはいない。


 滑る。


 沈む。


 崩れる。


 戻る。


 人の足を待たず、山の湿りと獣の重みと雨の流れによって、少しずつ形を変える。


 これを道と呼んでよいのか。


 あるいは、人が通ったことのある場所を、後から道と呼んでいるだけなのか。


 真鹿人は、考えながら歩いた。


 考えすぎれば、足元を失う。


 それは分かっている。


 だが考えを止めることも、またできなかった。


 空の木簡は、背の荷の中にあった。


 昨夜も、彼はそれを取り出さなかった。


 月に照らされた空白を見たいという衝動はあった。山に隠される月と、白いまま沈黙する木簡。その二つを重ねれば、何かが分かるのではないかと思った。


 だが、重ねるには早かった。


 分かった顔をすれば、足は落ちる。


 多加津の言葉は、山道よりも細く、彼の内側に続いていた。


 先頭を行く多加津の背は、夜の中でほとんど見えなかった。けれど、その気配は乱れなかった。歩幅は小さく、足音は低い。時に止まり、時に屈み、何かを聞いてからまた進む。


 佐那は、前よりも静かだった。


 眠いのか、寒いのか、怖いのか、そのすべてか。普段なら飯や休みのことを口にするところだが、今はただ、真鹿人のすぐ後ろを歩いている。足を置く音だけが、浅い息とともに続いていた。


 やがて、空がわずかに薄くなった。


 夜が明けるのではない。


 闇の奥に、闇より少し軽いものが混ざり始める。


 木々の上の方が、黒から灰へ変わった。枝の先に残った葉が、一枚ずつ形を持ち始める。足元はまだ暗い。だが、空が自分たちより先に朝を知っていることだけは分かった。


 佐那が、低く息を吐いた。


「朝ですね」


「まだだ」


 多加津が言った。


「でも、少し見えます」


「少し見える時が、一番危ない」


 佐那は口を閉じた。


 真鹿人も頷いた。


 少し見える。


 それは、少し分かった時に似ている。


 まったく見えない時、人は慎重になる。


 よく見える時、人は目で確かめる。


 だが、少しだけ見える時、人は足りないところを自分で補う。石を土と思い、穴を影と思い、影を道と思う。見えているものと、見たいものの境が、もっとも曖昧になる。


 記録もまた、そうなのかもしれない。


 少しだけ聞いた語り。


 少しだけ見た祭り。


 少しだけ知った名。


 その足りないところを、大和の木簡は埋めようとする。系譜で埋め、似た神の名で埋め、都合のよい言葉で埋める。


 それは便利である。


 便利だからこそ、恐ろしい。


 朝の薄明かりの中で、道は谷へ下り始めた。


 それまで高く密だった木々が、少しずつ間を開けた。空が広がり、遠くで水の音がした。沢ではない。もう少し大きい流れだった。谷の底に、川があるのだろう。


 多加津は立ち止まった。


「人の気配がある」


 佐那が、ぱっと顔を上げた。


「宿ですか」


「宿とは限らぬ」


「飯はありますか」


「それも限らぬ」


 佐那の肩が落ちた。


 だが、その顔には少し明るさが戻っていた。人の気配という言葉は、山の中では火に似ている。まだ見えずとも、人がいるかもしれないと思うだけで、腹の底に小さな力が戻る。


 真鹿人は周囲を見た。


 たしかに、山の様子が変わっていた。


 木の枝が切られている。切り口は古いものもあれば、新しいものもある。倒木の一部が脇へ寄せられ、石が三つ、斜面の崩れを止めるように置かれていた。自然の山ではない。だが、大和の近くの村道のように整えられてもいない。


 山に、人が少しだけ手を入れている。


 少しだけ。


 奪いすぎぬように。


 あるいは、奪う力がないだけなのかもしれない。


 真鹿人は、その判断を保留した。


 谷へ下りきると、細い川が現れた。


 水は澄んでいた。諏訪の湖のような広さはない。けれど、流れは早い。石に当たるたび白く砕け、すぐ透明に戻る。川岸には、平たい石が並べられていた。誰かが渡るために置いたものだろう。


 多加津は川の向こうを見た。


「渡る」


 佐那は川幅を見て、少し顔をしかめた。


「濡れますか」


「足を誤れば」


「誤らなければ」


「少し濡れる」


「では、濡れるのですね」


 多加津は答えなかった。


 三人は、石を伝って川を渡った。


 水は冷たかった。足袋の端が濡れた程度だったが、その冷たさはすぐに足首へ上がり、膝の奥まで届いた。佐那が小さく悲鳴を上げたが、転びはしなかった。


 川を越えた先に、細い煙が見えた。


 朝の薄い空へ、まっすぐではなく、横へ流れている。煙の下には、低い屋根がいくつかあった。土と木と草で作られた小さな家々である。村と呼ぶには少ない。宿場でもない。山の間に、身を寄せるように置かれた集まりだった。


 佐那の顔が明るくなった。


「人がいます」


 多加津は、まだ警戒を解かなかった。


「声を上げるな」


「はい」


「手を振るな」


「はい」


「近づきすぎるな」


「……飯は」


「言うな」


 佐那は口を閉じた。


 真鹿人は、その小さな集落を見た。


 家々は、山に背を預けていた。川の方へ開いてはいるが、広く道を作っているわけではない。中央に広場らしき場所があり、その端に薪が積まれている。干した草、木の皮、細い縄、籠のようなものが軒下に吊るされていた。


 大和の村とは違う。


 出雲の浜の集落とも違う。


 諏訪の湖辺の暮らしとも違う。


 山で息をするための形だった。


 人影が一つ、家の横から現れた。


 女だった。


 年は分からない。髪を後ろで束ね、肩に木の束を担いでいる。三人に気づくと、足を止めた。驚きはしたが、叫びはしなかった。


 多加津が、ゆっくりと両手を見える位置に下げた。


「道を借りる」


 女は、しばらく三人を見た。


 その目は、真鹿人の腰の木簡袋に一度触れた。次に多加津の刀を見た。最後に佐那の濡れた足元を見て、少しだけ眉を動かした。


「どこから」


 女が問うた。


 声は低く、朝の煙に似ていた。


「諏訪の方から」


 真鹿人が答えた。


 女は、すぐには反応しなかった。


「どこへ」


「飛騨へ」


 今度は、女の目が少し細くなった。


「飛騨は広い」


「その入口を探している」


「入口は、人が決めるものではない」


 真鹿人は黙った。


 女は三人を見回し、やがて言った。


「足を乾かすなら、火のそばへ寄れ。だが、家の奥へは入るな」


 佐那の顔が救われたようになった。


「ありがとうございます」


 女は答えず、先に歩いた。


 多加津が真鹿人を見た。


 真鹿人は頷いた。


 三人は、距離を保って女の後に続いた。


 集落の中へ入ると、いくつかの視線がこちらを向いた。


 老人が一人、軒下で縄をなっていた。若い男が、斧の刃を確かめていた。子を背負った女が、水を汲んでいた。誰も騒がなかった。歓迎もしなかった。ただ、見た。


 その見方が、真鹿人には印象に残った。


 大和の役人を見る目ではない。


 旅人を珍しがる目でもない。


 山の中で見知らぬ者に会った時、その者が何を奪うか、何を置いていくかを量る目だった。


 女は、広場の端にある火のそばを指した。


「そこで」


 火は、小さかった。


 昨夜、多加津が焚いた火と似ていた。大きく照らすためではない。鍋を温め、手を温め、煙で虫を遠ざけるほどの火である。


 佐那は火に近づき、濡れた足を少し伸ばした。


「ああ、生き返ります」


 女が、佐那を見た。


「死んでいたのか」


「いえ、少しだけです」


 佐那は真面目に答えた。


 女は、わずかに口元を動かした。笑ったのかどうかは分からない。


 真鹿人は、火のそばに座る前に頭を下げた。


「私は真鹿人。大和より、神々の名と土地の語りを記すために旅をしている」


 言った瞬間、広場の空気がわずかに変わった。


 大きな変化ではない。


 老人の手が止まった。斧を持つ男が顔を上げた。子を背負った女が、背中の子を少し抱き直した。


 多加津は、真鹿人を横目で見た。


 言うべきではなかったか。


 真鹿人はそう思ったが、もう遅い。


 隠して近づくこともまた、奪うことになり得る。大和の記録官であることは、黙って済むものではない。


 女は、しばらく真鹿人を見ていた。


「名を集めるのか」


「集めるというより、聞く」


「聞いた名は、どうする」


「記す」


「記した名は、どこへ行く」


「大和へ戻る」


「戻った名は、どうなる」


 真鹿人は答えられなかった。


 いつもなら答えられたはずだった。


 大和の神名帳に収められる。


 系譜に置かれる。


 祭りの順や、土地の由来を整えるために用いられる。


 忘れられぬように残される。


 そう答えればよかった。


 かつての真鹿人なら、迷わずそう言っただろう。


 しかし今、そのどれもが、ここでは少し違う気がした。


 女は待っていた。


 待つことで、真鹿人の答えの軽さを見ているようだった。


「まだ、分からぬ」


 真鹿人は言った。


 老人が、縄をなう手を再び動かした。


 女は、少しだけ目を伏せた。


「分からぬものを持って歩く者は、重いだろう」


「重い」


 真鹿人は素直に答えた。


「だが、軽くしてはならぬと思っている」


「思っているだけなら、山では足りぬ」


 女はそう言い、鍋の蓋を取った。


 湯気が立った。


 佐那の目が、湯気を追った。


 女はそれに気づいて、木の椀を三つ出した。


「少しだけだ」


 佐那は、ほとんど拝むように頭を下げた。


「少しで十分です」


 女は薄い汁を椀へ注いだ。


 草の匂いと、木の実のような香りがした。肉は入っていない。味は薄いだろう。それでも、朝の山道の後では、これ以上ないものに思えた。


 真鹿人は椀を受け取った。


「名を聞いてもよいか」


 女は答えなかった。


 真鹿人は、すぐに自分の過ちを知った。


 火を借り、汁を受け取り、まだ一口も飲まぬうちに、名を求めた。


 礼の前に、記録の手が伸びた。


 彼は椀を置き、頭を下げた。


「今の問いは早かった」


 女は真鹿人を見た。


「早いと知るなら、まだよい」


 そう言って、自分から名を名乗ることはしなかった。


 真鹿人も、それ以上問わなかった。


 汁は温かかった。


 佐那は椀を両手で包み、慎重に飲んだ。ひと口飲んで、目を閉じる。


「生き返りました」


「また死んでいたのか」


 女が言う。


「今度は、本当に少しだけです」


 佐那は答えた。


 火のそばの空気が、ほんのわずかに緩んだ。


 その時、家の間から子どもが走ってきた。


 五つか六つほどだろうか。髪は短く、手に細い木の枝を持っている。何かを追っていたのか、あるいは一人で遊んでいたのか。子どもは三人の旅人に気づいて足を止めた。


 佐那が笑いかけた。


 子どもは佐那を見た。


 次に多加津を見て、少し後ずさった。


 最後に真鹿人の木簡袋を見た。


 そして、首を傾げた。


「それ、何」


 子どもが言った。


 真鹿人は木簡袋に手を触れた。


「書くものだ」


「何を書くの」


「聞いたことや、見たことを」


「見たら、なくならないのに」


 子どもは言った。


 真鹿人は、答えに詰まった。


 子どもはさらに続けた。


「なんで書くの」


 無邪気な問いだった。


 だが、志斐の宿禰の問いより、宇都志の言葉より、水緒の沈黙より、鋭く胸へ入った。


 なぜ書くのか。


 忘れぬため。


 伝えるため。


 整えるため。


 残すため。


 それらの答えは、どれも本当である。


 だが、すべてではない。


 書くことで、書いた者のものになる。


 書くことで、書かれた形に閉じる。


 書くことで、忘れることもある。


 真鹿人が答えられずにいると、佐那が横から言った。


「この方は、忘れないために書いています」


 子どもは佐那を見た。


「忘れたら、また見ればいい」


 佐那も黙った。


 女が、静かに子どもの名を呼んだ。


 その名は、短かった。


 だが真鹿人は、その音を心の中で追わなかった。


 記さなかった。


 拾わなかった。


 子どもは女の方を見たが、叱られたと思ってはいないようだった。ただ、呼ばれたことで少しだけ立つ場所を変えた。


 朝の光は、いつの間にか谷へ降りていた。


 集落の屋根の端が白く光る。川の水が細かく反射する。山の稜線はまだ暗いが、その上の空は淡く開いている。


 そして、そこに月があった。


 朝の月だった。


 夜の月とは違う。


 薄く、白く、空に残った跡のような月だった。見ようとしなければ見落とす。けれど、いったん気づくと、そこに確かにある。


 子どもが空を見上げた。


「あ」


 その顔が明るくなった。


 手に持っていた木の枝を上げる。


 月を指そうとした。


 その瞬間、女が子どもの手を取った。


 強くはなかった。


 叩いたのでも、怒鳴ったのでもない。


 ただ、上がりかけた小さな手を、静かに下ろさせた。


 子どもは不満そうに女を見た。


「見えた」


「見えたなら、それでよい」


 女は言った。


「でも、あそこに」


「指すな」


 声は静かだった。


 だが、その一言で、広場の空気が止まった。


 佐那は椀を持ったまま固まった。


 多加津は何も言わず、周囲の大人たちを見ていた。


 老人は縄をなう手を止めていない。斧の男も、子を背負った女も、月を見上げてはいなかった。


 あるいは、見上げぬようにしていた。


 真鹿人は、息を浅くした。


 水緒の言葉が、胸の奥で静かに鳴った。


 子どもが月を指した時、大人がどう止めるか見ろ。


 今、それを見ている。


 だが、見たからといって、分かったわけではない。


 女は、子どもの手を下ろしたまま、少し屈んだ。


「見えたものを、すぐ手で追うな」


「届かないよ」


「届かぬものにも、手は届きすぎることがある」


 子どもは分かったような、分からないような顔をした。


「名前も言っちゃだめ?」


 女は、ほんのわずかに目を伏せた。


「今は言うな」


「いつならいいの」


「言わなくてよい時を知れば」


 子どもはますます不満そうになった。


「分からない」


「分からなくてよい」


 女はそう言い、子どもの手を離した。


 子どもは、もう一度空を見上げた。


 今度は指さなかった。


 ただ、見た。


 その横顔に、悔しさが残っていた。だが、恐怖はなかった。月を禁じられた子の顔ではない。何かを乱暴に触るなと教えられた時の顔だった。


 真鹿人は、椀の温さを忘れていた。


 朝の月は、空に薄く残っている。


 誰も拝まない。


 誰も名を呼ばない。


 誰も、あれは神だと言わない。


 けれど、軽んじてはいない。


 むしろ、指すことさえ止めるほどに、遠ざけている。


 指すとは、手で示すこと。


 手で示すとは、そこにあると、人に教えること。


 人に教えるとは、見る者の目を集めること。


 目が集まれば、言葉が集まる。


 言葉が集まれば、名が生まれる。


 名が生まれれば、祈りが生まれる。


 祈りが生まれれば、願いが寄る。


 願いが寄れば、月は人のための器にされる。


 そこまで考えて、真鹿人は身を固くした。


 早い。


 これは、早すぎる。


 今見たのは、子どもの手を大人が下ろしたということだけだ。


 その理由を、真鹿人が勝手に大和の言葉で組み立てようとしている。


 危うい。


 とても危うい。


 彼は椀を置き、両手を膝に置いた。


 女が、真鹿人を見た。


 その目は、責めてはいなかった。


 だが、見ていた。


「書くのか」


 女が問うた。


 真鹿人は、答える前に背の荷を感じた。


 空の木簡。


 普通の木簡。


 筆。


 小刀。


 彼の旅の道具。


 彼の役目。


 彼の罪になり得るもの。


「今は書かぬ」


 真鹿人は言った。


「なぜ」


 女が問う。


 それは試す声ではなかった。


 ただ、理由を求めていた。


 書かぬなら、なぜ書かぬかを持て。


 水緒の言葉が戻る。


 真鹿人は、ゆっくり答えた。


「まだ、見ただけだからだ」


「見たなら、書けるだろう」


「書ける」


 真鹿人は認めた。


「だが、書けることと、書いてよいことは違う」


 女は黙った。


 真鹿人は続けた。


「今、私が書けば、子が月を指そうとし、大人が止めた、と書く。だが、それだけでは軽い。なぜ止めたかを書こうとすれば、私はまだ聞いていないことを、自分の考えで埋める。聞かずに書けば、あなたたちの声ではなく、私の声になる」


 子どもが、真鹿人を見ていた。


 何を言っているのか、よく分かっていない顔だった。


 佐那も半分ほどしか分かっていない顔をしていた。


 多加津は、黙って聞いていた。


 女は、しばらくして言った。


「書かぬことで、なかったことにする者もいる」


「それを恐れている」


 真鹿人は答えた。


「だから、今は書かぬ。だが、忘れてよいとは思わぬ」


「忘れぬ自信があるのか」


「ない」


 女の目が、少しだけ動いた。


「なら、どう持つ」


 真鹿人は、朝の月を見上げなかった。


 見れば、答えを月へ求めてしまいそうだった。


 彼は火を見た。


 薄い汁の残った椀を見た。


 子どもの下ろされた手を見た。


 女の指が、その手を強く握らなかったことを思い出した。


「重さとして持つ」


 真鹿人は言った。


「名としてではなく、重さとして」


 女は、何も言わなかった。


 老人の縄をなう音が戻った。


 朝の川の音も戻った。


 止まっていた集落の空気が、少しずつ動き出した。


 子どもは、真鹿人の前へ来た。


「重いの?」


「重い」


「それ、背中の?」


 子どもは木簡袋を指そうとして、途中で少し迷った。月ではないからよいのか、それでも指すのはよくないのか、判断しかねたようだった。


 その迷いに、真鹿人は小さく胸を突かれた。


 指すことは、子どもにとって当たり前の動きである。


 見つけたものを、誰かに知らせたい。


 あそこにある、と言いたい。


 それを止めるとは、ただ禁じることではない。


 世界との触れ方を、少し変えさせることなのだ。


「これも重い」


 真鹿人は、自分で木簡袋に触れた。


「だが、今言った重さは、背中ではなく、ここにある」


 胸に手を当てる。


 子どもは真似をして、自分の胸に手を当てた。


「ここ?」


「そうだ」


「痛い?」


「時々」


「じゃあ、持たなきゃいい」


 佐那が小さく吹き出しそうになり、慌てて汁を飲んだ。


 真鹿人は少し笑った。


「そうできれば、楽だ」


 子どもは、納得しない顔をした。


「大人は変だ」


 女が言った。


「そうだ」


 子どもは女を見た。


「母も?」


「私も」


「この人も?」


「この人は、かなり」


 佐那が今度こそ笑った。


 真鹿人も、苦笑を抑えられなかった。


 多加津だけは、相変わらず静かだったが、目元がわずかに緩んだように見えた。


 朝の月は、だんだん薄くなっていた。


 空が明るくなるにつれて、月の白さは失われていく。まだある。だが、見えにくくなる。


 見えないものと、ないものは違う。


 その言葉が、また戻った。


 だが今度は、少し違う形だった。


 見えていたものが、見えなくなっていく。


 それは、なくなることではない。


 しかし、見えなくなったものをどう持つかは、人によって違う。


 書く者は、書いて持つ。


 語る者は、語って持つ。


 祈る者は、祈って持つ。


 黙る者は、黙って持つ。


 そして、指さぬ者は、指さぬことで持つのかもしれない。


 真鹿人は、そこまで思い、また止めた。


 かもしれない。


 まだ、その程度でよい。


 女が立ち上がった。


「飛騨へ行くなら、川沿いに半日進め。その後、川が二つに分かれる。広い方へ行くな」


「狭い方ですか」


 佐那が問う。


「狭い方でもない」


 佐那は困った顔をした。


「では、どちらへ」


「分かれたところで、音の小さい方を聞け」


「音の小さい方」


 真鹿人は繰り返した。


「水が大きく鳴る方は、人が通りたがる。人が通りたがるところには、人を待つものも多い」


 多加津が頷いた。


「分かった」


 女は多加津を見た。


「あんたは、少し知っている」


「少しだけだ」


「少し知る者が、一番危ない」


「知っている」


 多加津の声は、いつもより低かった。


 女は、それ以上問わなかった。


 真鹿人は気づいた。


 彼女は、多加津にも名を求めない。


 過去を問わない。


 どこから来たのか、なぜ道を知るのか、なぜ逃げる者と追う者の跡を見分けられるのか。問おうと思えば、いくらでも問えるはずだった。


 だが、問わない。


 聞かぬことで保たれる名もある。


 諏訪で聞いたその言葉が、今度は多加津の背に落ちた。


 女は、最後に真鹿人へ向き直った。


「大和の書く者」


「はい」


「ここで見たことを、すぐ神にするな」


 真鹿人は、深く頭を下げた。


「はい」


「すぐ禁じごとにもするな」


「はい」


「すぐ深いものにもするな」


 その言葉に、真鹿人は胸の奥を突かれた。


 空白を持つ者は、自分が深いと思い始めることがある。


 水緒の言葉と重なった。


 女は続けた。


「子の手を下ろしただけだ」


 真鹿人は、その一言を受け止めた。


 子の手を下ろしただけ。


 そう書けば、軽すぎる。


 だが、それ以上を書けば、早すぎる。


 この間に、今は立つしかない。


「忘れません」


 真鹿人は言った。


 女は、すぐに返した。


「忘れてもよい」


 真鹿人は顔を上げた。


「忘れても?」


「忘れて、また似たものに出会えば、少し違って思い出す。それでよいものもある」


 女は、朝の月を見なかった。


「全部を同じ形で持つな。腐る」


 真鹿人は、言葉を失った。


 記録は、腐らぬためにあると思っていた。


 木に刻み、紙に写し、都へ収めれば、語りは失われずに残ると信じていた。


 だが、同じ形で持ち続けることが、腐ることもある。


 形を変えず、場所を変えず、声の湿りを抜き、生活の匂いを落とし、ただ名だけを残す。


 それは、残すことなのか。


 それとも、腐らせぬふりをして、すでに乾かしているだけなのか。


 真鹿人は、女の名をまだ知らない。


 子どもの名は聞いた。だが、心で追わなかった。


 この集落の名も知らない。


 月の名も知らない。


 知らないものばかりだった。


 それなのに、昨日より多くのものを持っている気がした。


 その持ち方は、危うい。


 大切だと思った瞬間、人はそれを自分のものにしたくなる。


 真鹿人は、自分の胸にある重さを、少しだけ遠ざけるように息を吐いた。


 佐那が椀を返した。


「ごちそうさまでした」


 子どもが佐那を見た。


「ごちそうって何」


「食べ物をいただいた時に言う言葉です」


「少しだったよ」


「少しでも、ごちそうです」


 子どもは考えた後、女を見た。


「少しでも?」


「腹が減っていたなら」


 女が答えた。


 子どもは納得したようだった。


 佐那は、真剣に頷いた。


「その通りです」


 そのやり取りに、集落の空気がまた少し柔らかくなった。


 多加津が荷を背負った。


 真鹿人も立ち上がった。


 女は、道の方を指さなかった。


 ただ、川の音へ耳を向けた。


「聞いて行け」


 それだけを言った。


 真鹿人は、その言葉を受け取った。


 見るのではなく、聞く。


 指すのではなく、聞く。


 名を問うのではなく、音の小さい方を聞く。


 三人は集落を離れた。


 子どもは少しだけ後をついてきたが、女に呼ばれて戻った。今度も、その名を真鹿人は追わなかった。


 川沿いの道へ出る前に、真鹿人は一度だけ振り返った。


 朝の月は、もうほとんど見えなかった。


 空にはあるはずだった。


 だが、見えなかった。


 集落の人々は、それぞれの朝へ戻っていた。縄をなう者。薪を割る者。水を汲む者。子どもの手を洗わせる者。誰も月を見上げていない。


 月がないのではない。


 月だけを見て暮らしているのでもない。


 月がある空の下で、飯を作り、火を保ち、縄をない、水を汲み、子の手を下ろす。


 その暮らしの中に、名を与えぬ距離があるのかもしれない。


 真鹿人は、また、かもしれない、で止めた。


 川の音がした。


 大きい音と、小さい音が、遠くで混じっている。


 やがて分かれ道に着くだろう。


 その時、見るのではなく聞かねばならない。


 真鹿人は歩き出した。


 空の木簡は、まだ空のままだった。


 だが、その空白は今朝、ひとつの小さな手が月へ伸び、静かに下ろされたことを知っていた。


 書かれてはいない。


 それでも、なかったことにはならなかった。


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