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月を隠した国  作者: 月読 龍
第三部 飛騨、月に名はない
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第二十二章 白い夜道

 日が沈む前に尾根を越えるはずだった。


 だが、山は人の思い通りに道を開けてはくれなかった。


 古い道標を過ぎてから、道はさらに頼りなくなった。踏み跡は消えたのではない。むしろ、増えた。斜面の上へ向かう細い筋。沢へ降りる獣の跡。倒木を避けて曲がった足跡。落葉の下へ隠れた、人のものとも獣のものともつかぬ沈み。


 道が一つなら、迷いは少ない。


 多すぎる道は、道でない場所よりも人を迷わせる。


 真鹿人は、そう思った。


 信濃の道、ひとつにあらず。


 かつて自分が書いたその言葉は、いまや木簡の上の句ではなく、足元に広がる罠になっていた。


 多加津は迷わなかった。


 いや、迷っていないように見えただけかもしれない。


 彼は立ち止まり、木の幹に手を当て、風の抜ける向きを見た。枝の折れ方を見て、湿った土を指で探り、ときに何もない空間へ耳を向けた。それから、何事もなかったように進む。


 佐那は何度も転びかけた。


 そのたびに、多加津が振り返らずに言う。


「そこは踏むな」


「先に言ってください」


「先に言っている」


「足を置いた後に聞こえます」


「なら、耳より足が早い」


 佐那は不満そうに口を曲げたが、言い返さなかった。


 山の暗さは、下から来る。


 真鹿人はそのことを知った。


 空はまだ薄く明るい。木々の高い枝には、夕の光が残っている。だが、根元はすでに夜になっていた。土の湿り、岩のくぼみ、倒れた幹の裏側、落葉の重なり。その一つひとつが、空より先に闇を持ち始めている。


 湖の夜は、上から降りた。


 水面へ空の黒さが落ち、月があれば白く揺れ、なければ水ごと深く沈んだ。


 山の夜は違う。


 地面から起き上がる。


 足をつかみ、膝を濡らし、腰へまとわりつき、やがて目の高さまで満ちてくる。


 その闇の中で、白いものだけが早く見えるようになった。


 折れた枝の新しい傷。


 石の角。


 獣の骨かと思った、乾いた木の根。


 葉の裏。


 遠くの沢に浮いた泡。


 どれも白く見えた。


 けれど、どれも同じ白ではなかった。


 真鹿人はそれを、一つに結びそうになるたび、胸の内で止めた。


 白は納まらぬものの色。


 因幡で聞いた言葉が、ふと戻る。


 兎の白。


 布の白。


 浜に残った泡の白。


 皮を失ったものの白。


 諏訪では、白布の石があった。湖の月も白かった。蛇の抜け殻も、乾けば白く見えた。


 そして今、飛騨へ向かう山の道には、まだ名を持たぬ白がある。


 だが、それらは同じではない。


 同じにすれば、道を誤る。


 真鹿人は唇を結び、足元を見た。


「真鹿人さま」


 佐那が小声で呼んだ。


「何だ」


「白いものが多いですね」


「そう見えるな」


「全部、何かの印でしょうか」


「分からぬ」


 佐那は、少し安心したように息を吐いた。


「また、分からぬ、ですね」


「分かったと言えば、楽になるか」


「いえ。今は、分からぬ方がよいです。分かったことにされると、触ってよいのか、避けるべきなのか、分からなくなります」


 佐那はそう言いながら、足元の白い根をまたいだ。


「ただの根かもしれません。でも、ただの根であっても、踏めば滑ります」


 真鹿人は頷いた。


 ただのもの。


 その言葉もまた、危うい。


 ただの石。


 ただの水。


 ただの白。


 ただの沈黙。


 ただの名。


 人は、自分が使わぬものを、よく「ただの」と呼ぶ。だが、ただのものとして置かれたものほど、誰かにとっては置かれ方を持つ。


 多加津が前で止まった。


 夕が、急に深くなったように感じられた。


「ここで夜を越す」


 佐那が、ほとんど悲鳴のように声を上げかけ、それを飲み込んだ。


「ここ、ですか」


「先へ進めば、足を失う」


「足を失うとは」


「滑る。落ちる。折る。あるいは、戻れなくなる」


 多加津は周囲を見回した。


 そこは尾根に近い斜面の途中だった。大きな岩が一つあり、その横に、風を少し避けられるくぼみがあった。木々は密に生えているが、頭上の枝はわずかに開けている。空は細く見えた。


 佐那は空を見上げた。


「月は、見えますかね」


 言った後、佐那はまた口を押さえた。


 多加津は叱らなかった。


「見えるかもしれぬ。だが、頼るな」


「はい」


「月が見えれば、影も見える。影が見えれば、ない穴をあると思い、ある穴をないと思うことがある」


 佐那は困った顔をした。


「明るくなっても危ないのですか」


「山では、明るさにも種類がある」


 多加津は荷を下ろした。


「火を使う。小さく」


「煙は」


「この風なら、下へ流れる」


「人に見つかりませんか」


「人より先に、寒さに見つかる」


 佐那は、それには強く頷いた。


 火打ち石が鳴った。


 乾いた草と細枝を集め、小さな火を起こす。火はなかなかつかなかった。湿りが強い。佐那が息を吹きかけすぎて、煙を顔に受け、涙目になった。多加津が無言で手を出し、火の息を整えた。


 やがて、細い火が立った。


 小さな火だった。


 夜の山を照らすには足りない。岩のくぼみと三人の膝先を、わずかに赤くするだけである。


 だが、その小ささに、真鹿人は安堵した。


 月明かりとは違う。


 火は、手の内にある。


 消える時も、燃える時も、人の息と手の届く範囲にある。山全体を明るくはしない。遠くを見せない。けれど、自分たちの飯と指先と、互いの顔だけは見せる。


 月は遠い。


 火は近い。


 近いものと遠いものを取り違えてはならない。


 真鹿人は、火を見ながらそう思った。


 佐那が干し飯を湯に浸した。


 湯と言うにはぬるく、粥と言うには硬かったが、佐那はそれを大切そうにかき混ぜた。少しだけ塩を入れる。火の上で、湯気が立った。


「火があると、人の場所になりますね」


 佐那が言った。


「火がなければ、人の場所ではないのか」


 真鹿人が問うと、佐那は考え込んだ。


「人の場所ではあります。でも、火があると、ここで飯を食べてよいと言われている気がします」


「誰に」


「分かりません。山に、でしょうか」


 多加津は火に枝を足した。


「山は、許しはしない」


「では、何です」


「見逃すことはある」


 佐那は、湯気の向こうで眉を寄せた。


「見逃されながら飯を食べるのですか」


「山では、そうだ」


 真鹿人は、その言葉を胸の内で繰り返した。


 許されるのではない。


 見逃される。


 それは、諏訪の湖とも違っていた。


 湖は、変わるなら立て、と受け入れた。水緒はそう語った。受け入れるとは、抱きしめることではない。そこで変わることを求めることだった。


 山は、受け入れるのではないのかもしれない。


 ただ、すべてを拒むわけでもない。


 小さく火を焚き、小さく飯を食べ、小さく息をして夜を越す者を、見逃すことがある。


 それを、許しと書けば違うのだろう。


 恵みと書いても違うのだろう。


 真鹿人は木簡を思った。


 だが、取り出さなかった。


 火のそばで、三人は黙って飯を食べた。


 佐那が言った通り、硬い飯を湯でふやかしたものは、体に染みた。味は薄い。けれど、腹に入ると、考えごとの尖りが少し丸くなる。


 腹を通らぬ語りは、すぐ頭だけになる。


 水緒の言葉は、食べるたびに正しさを変えた。


 聞いた時は、諭しだった。


 今は、粥の温さだった。


 言葉とは、場所を変えると、形を変える。


 名も同じなのだろう。


 真鹿人はそう思い、また考えを止めた。


 同じなのだろう、と言うには早い。


 断ずるべからず。


 夜が落ちた。


 火の外は、急に遠くなった。


 昼間に通ってきた木々が、別のもののように立っている。幹は黒く、枝は交差し、葉は互いに重なり合って、空を狭くしていた。


 その狭い空に、月はまだなかった。


 佐那が何度も上を見ようとして、そのたびに粥の椀へ目を戻した。


 真鹿人は、その様子を見ていた。


「見たいのか」


「はい」


 佐那は素直に答えた。


「でも、見ない方がよいのかと思いまして」


「誰も、見るなとは言っていない」


「けれど、見すぎるなとは言われました」


「それは私が言われたことだ」


「私も聞きました」


 佐那は椀を両手で包んだ。


「月が出たら、きれいだと思います。それはいけないことですか」


 真鹿人は、すぐには答えられなかった。


 きれい。


 あまりに素朴な言葉だった。


 神の名ではない。系譜でもない。祈りでも、畏れでも、記録でもない。ただ、きれい。


 だが、その言葉は月を奪うだろうか。


 きれいと言うことも、月へ近づきすぎることなのだろうか。


 真鹿人には分からなかった。


 分からぬまま、答えた。


「いけないことではないと思う」


「思う、ですか」


「断じるには早い」


 佐那は少し笑った。


「便利ですね、それ」


「便利に使うものではない」


「はい」


 佐那は、火に目を戻した。


「でも、私は、月が出たらきれいだと思います。名を知らなくても、そう思います」


 真鹿人は、その言葉を聞きながら、胸の奥で何かが少し揺れるのを感じた。


 名を知らなくても、美しさはある。


 だが、美しいと呼ぶことも、ひとつの名なのか。


 ならば、人は何も言えなくなる。


 いや、何も言わぬことと、何も見ぬことは違う。


 書かぬことと、見捨てることも違う。


 真鹿人は、火を見た。


 小さな火は、答えを出さなかった。


 ただ、燃えていた。


 しばらくして、多加津が立ち上がった。


 彼は火から少し離れ、岩の横へ移動した。そこから斜面の下を見ている。


「何かいるのか」


 真鹿人が問う。


「いる」


 佐那の手が止まった。


「獣ですか」


「分からぬ」


 多加津は腰の刀に手を置かなかった。だが、体の重心が少し変わっていた。いつでも動ける者の立ち方だった。


 真鹿人も耳を澄ませた。


 最初は何も聞こえなかった。


 火のはぜる音。


 沢の遠い音。


 風が葉を撫でる音。


 自分の息。


 それらの向こうに、何かがあった。


 足音ではない。


 声でもない。


 ただ、誰かが音を立てぬようにしている気配。


 音を立てぬようにするものは、かえって気配を残す。


 多加津は低く言った。


「火を大きくするな」


 佐那は、枝を持った手を引っ込めた。


 真鹿人は、闇を見た。


 火の外側に、白いものが見えた。


 一瞬だけだった。


 木の幹の間を、細く白いものが横切ったように見えた。布か、獣の腹か、枝の傷か、霧か。分からない。


 佐那も見たらしく、息を止めた。


「今」


「言うな」


 多加津が短く止めた。


 佐那は口を閉じた。


 言えば、形になる。


 形になれば、そこへ恐れが集まる。


 恐れは名を欲しがる。


 真鹿人は、そう思った。


 闇の中の白いもの。


 因幡なら、兎を思ったかもしれない。


 諏訪なら、白布か蛇の抜け殻を思ったかもしれない。


 だが、ここでそれらを呼んではならない。


 ここはまだ、飛騨へ向かう途中の山である。


 白いものは、白いものとして、闇へ戻した方がよい。


 しばらく、三人は動かなかった。


 やがて、遠くで小枝が折れた。


 それきり、気配は離れた。


 多加津はしばらく待ってから、火のそばへ戻った。


「何だったのですか」


 佐那が小声で聞いた。


「分からぬ」


 多加津はそう答えた。


 その言い方に、真鹿人はわずかな違いを感じた。


 多加津は、分かっていて言わぬ時がある。


 分からぬと言いながら、いくつかの候補を捨てずに持っている時がある。


 今の声は、そのどちらでもなかった。


 本当に、分からなかったのだろう。


 山は、多加津にもすべてを教えるわけではない。


 そのことが、真鹿人には不思議に心強かった。


 夜がさらに深くなった。


 火は小さくなり、赤い芯だけが残る。


 空の枝の間に、ようやく薄い光が差した。


 月だった。


 細い月ではない。


 丸くもない。


 欠けながらも、前夜よりは少し太い月が、枝の間に引っかかるように出ていた。


 佐那は息を呑んだ。


 真鹿人も顔を上げた。


 月は、山の上にあるのではなかった。


 木々の枝に裂かれ、葉に欠け、幹の間でいくつにも分かれていた。湖で見た月のように、水面で揺れているわけではない。山の月は、初めから分けられている。


 完全な姿を見せない。


 見ようとする者の位置によって、細くもなり、欠けも増し、時には消える。


 真鹿人は、その月に名を与えなかった。


 ただ、見た。


 しかし見た瞬間、自分が見ていることも意識した。


 月を見る前に、自分を見ろ。


 水緒の言葉は、やはり消えない。


 自分は今、月を見ている。


 だが、月そのものを見ているのか。


 月を見ている自分を見ているのか。


 それとも、飛騨に着く前から、飛騨の月という名を心の中に置き、それを見ようとしているのか。


 真鹿人は答えを出せなかった。


 月の光が、火のそばに置かれた椀の縁を白くした。


 佐那が、小さな声で言った。


「きれいです」


 誰も止めなかった。


 その言葉は、山の夜を乱さなかった。


 むしろ、火の残り香と、粥の薄い匂いと、濡れた土の冷たさの中で、静かに置かれた。


 きれい。


 それだけで、佐那は月を手元へ引きずり下ろさなかった。


 祈りにもせず、神名にもせず、記録にもせず、ただ見上げていた。


 真鹿人は、その横顔を見た。


 佐那の目には、月が映っているのだろうか。


 それとも、火の赤さが残っているのだろうか。


 分からなかった。


 分からぬまま、よいと思った。


 多加津は月を見ていなかった。


 彼は斜面の下を見ていた。闇の奥、先ほど白いものが過ぎたあたりへ、ずっと注意を向けている。


「多加津」


 真鹿人が呼ぶと、多加津は目だけを動かした。


「月を見ないのか」


「見た」


「いつ」


「出た時」


「もう見ないのか」


「見続けるものではない」


 多加津はそう言った。


「月は、上にある。だが、危ういものは下から来る」


 佐那が、思わず足元を見た。


 多加津は続けた。


「月を見ている時、人は首を晒す」


 その言葉に、真鹿人は背筋が冷えた。


 月を見るとは、上を向くこと。


 上を向くとは、喉を開くこと。


 手元を離し、足元を忘れ、背後を捨てること。


 見ることにも、姿勢がある。


 見ることにも、危うさがある。


 真鹿人は、月から目を下ろした。


 火はほとんど消えていた。


 闇に目が慣れてくると、月明かりはたしかに道を見せた。石の輪郭。木の影。斜面の傾き。昼には気づかなかった白い枝の傷。


 けれど、多加津の言う通り、その光は危うかった。


 見えるから進めると思わせる。


 進めそうに見せる。


 それが罠だった。


「夜は越すだけだ」


 多加津が言った。


「歩かぬのですか」


 佐那が問う。


「歩かぬ」


「月が出ています」


「だから歩かぬ」


 佐那は首を傾げた。


 多加津は短く言った。


「月が出ている時、人は自分が賢くなったと思う」


 真鹿人は、返す言葉を失った。


 それは、記録にも言えることだった。


 木簡を持つ時、人は自分が忘れぬ者になったと思う。


 名を知る時、人は自分が近づいたと思う。


 空白を持つ時、人は自分が深くなったと思う。


 月明かりも、木簡も、名も、空白も、人を少し賢くしたように思わせる。


 だが、本当にそうなのか。


 真鹿人は、空の木簡を取り出したい衝動を感じた。


 月明かりの下で、その白い面を見れば、何かが分かるような気がした。


 月に照らされた空白。


 山に囲まれた空白。


 まだ名を持たぬ飛騨へ向かう道の上で、それを見ることに意味があるような気がした。


 だが、彼は動かなかった。


 取り出せば、見てしまう。


 見れば、意味を与えたくなる。


 意味を与えれば、まだ出会っていないものを、先に閉じてしまうかもしれない。


 真鹿人は、荷の紐に触れただけで手を戻した。


 空の木簡は、今夜も空のままでよい。


 いや、よいかどうかも分からない。


 ただ、今はまだ、取り出してはならない。


 そう思った。


 夜半、月は山の端へ近づいた。


 雲ではなかった。


 山が、月を隠そうとしていた。


 枝に裂かれていた月が、少しずつ低くなり、黒い稜線へ触れる。触れた途端、光は欠けた。欠けた月が、さらに山へ食われるように細くなる。


 佐那は息を止めて見ていた。


 真鹿人も、見た。


 多加津だけは、周囲を見ていた。


 月が沈むのは、珍しいことではない。


 空に上ったものは、いずれ傾く。


 だが、山の中で見るそれは、ただの移りではなかった。


 月が、山に隠されていく。


 月が失われるのではない。


 消されるのでもない。


 山の向こうへ入っていく。


 見えなくなるだけで、なくなるわけではない。


 見えないものと、ないものは違います。


 佐保の声が、遠い因幡の白い布のように戻ってきた。


 真鹿人は、月が最後の細い光になるまで見た。


 そして、その光も消えた。


 夜は暗くなった。


 だが、月がなくなったとは思わなかった。


 見えないだけだった。


 そのことが、なぜか胸に残った。


 月が隠れる。


 隠れることで、月は遠くなる。


 遠くなることで、触れられずに済む。


 触れられぬことで、守られるものがあるのかもしれない。


 そこまで思い、真鹿人はまた自分を止めた。


 かもしれない。


 それ以上は、まだ早い。


 飛騨の者の声を聞いていない。


 月を名づけぬ民を見ていない。


 子どもが月を指すところも、大人がそれを止めるところも、まだ見ていない。


 今あるのは、山が月を隠した夜だけである。


 それを、飛騨の答えにしてはならない。


 月が隠れた後、佐那が小さく息を吐いた。


「消えましたね」


「隠れた」


 真鹿人は言った。


 佐那は少し考え、頷いた。


「そうですね。消えたのではなく、隠れました」


 多加津が、闇の中で言った。


「隠れたものを、追うな」


「追うと危ないからですか」


 佐那が問う。


「それもある」


「他には」


 多加津は答えなかった。


 長い沈黙があった。


 それから、彼は低く言った。


「隠れたことで、残るものもある」


 真鹿人は、多加津を見た。


 火はほとんどなく、顔は見えなかった。


 だが、その声は、いつもの山道の言葉より少し深いところから出ていた。


「名も、ですか」


 真鹿人は問うてしまった。


 多加津はすぐには答えなかった。


 闇の中で、彼の気配だけが静かにあった。


「名を隠せば、残るものがある」


 やがて、多加津は言った。


「だが、隠した名が、そのまま残るとは限らぬ」


 真鹿人は息を詰めた。


 多加津は、それ以上語らなかった。


 名を変えなければ、持って行けないものがあった。


 第二部で聞いた言葉が、真鹿人の中に戻る。


 多加津の過去は、まだ闇の中にある。


 その闇を、月明かりで暴いてはならない。


 白い夜道。


 月がある時よりも、月が隠れた後の方が、白いものは胸に残った。


 白い石。


 白い木の皮。


 闇を横切った白いもの。


 佐那の「きれい」という白い声。


 山に隠れた月の最後の光。


 それらは一つではない。


 同じ名で呼んではならない。


 けれど、互いに知らぬふりをしているわけでもない。


 真鹿人は、火の残りを見つめながら、眠らずにいた。


 書きたいと思った。


 書いてはならないとも思った。


 何も書かなければ、この夜を見捨てることになるのではないかと思った。


 だが、書けば、この夜を自分の言葉に閉じることになるのではないかとも思った。


 書くなと言われたら、書くな。


 だが、書かぬことで見捨てるな。


 水緒の言葉は、夜の中で答えにはならなかった。


 答えにならないからこそ、離れなかった。


 やがて、佐那が眠りに落ちた。


 多加津は起きているのか眠っているのか分からなかった。ただ、ときおり闇へ耳を向けていた。


 真鹿人は、空の木簡に触れなかった。


 普通の木簡にも、何も書かなかった。


 その代わり、夜の白さを、名にせずに胸の内へ置いた。


 置いたものは、やがて変わるかもしれない。


 忘れるかもしれない。


 別の土地の言葉と混ざるかもしれない。


 それでも、今はそれでよかった。


 いや、よかったと断じることも、まだ早い。


 夜明け前、山はもっとも深く沈んだ。


 月はなかった。


 火も消えていた。


 空は黒く、木々は黒く、石も黒かった。


 その中で、昨日見た白いものたちだけが、真鹿人の内側で、かすかに残っていた。


 朝になれば、それらのいくつかは白くなくなるだろう。


 ただの枝になり、ただの石になり、ただの木の皮になるだろう。


 だが、夜の間、それらは確かに白かった。


 見えないものと、ないものは違う。


 見えていたものが、朝には別のものになることもある。


 真鹿人は、目を閉じた。


 眠りは浅かった。


 それでも、少しだけ眠った。


 夢の中で、彼は白い道を歩いていた。


 その道は因幡の浜にも似ていた。


 諏訪の湖面にも似ていた。


 飛騨へ向かう山道にも似ていた。


 だが、どれでもなかった。


 道の先に月があった。


 真鹿人は、その名を呼ぼうとした。


 声が出る前に、山が月を隠した。


 目を覚ますと、まだ夜明け前だった。


 多加津が立っていた。


「行くぞ」


 佐那が、眠そうに身を起こした。


「まだ暗いです」


「暗いうちに動く」


「月はありませんよ」


「だから動く」


 佐那は、半分眠った顔で首を傾げた。


「月がある時は歩かず、ない時は歩くのですか」


「月がない時、人は自分の足を思い出す」


 多加津は荷を背負った。


 真鹿人も立ち上がった。


 闇の中で、足元は見えにくい。だが、見えない分だけ、足は慎重になった。石を探り、土の硬さを確かめ、枝に触れ、息を整える。


 山は月を待たない。


 人もまた、月ばかりを待っていては進めない。


 三人は、夜明け前の道へ出た。


 昨日の白い木の皮も、石も、もう見えなかった。


 ただ、行く先の暗がりの中に、細い道だけがあった。


 それが本当に道なのか、ただの跡なのかは分からない。


 分からぬまま、三人は進んだ。


 飛騨は、まだ名を持たぬ朝の向こうにあった。


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