第二十二章 白い夜道
日が沈む前に尾根を越えるはずだった。
だが、山は人の思い通りに道を開けてはくれなかった。
古い道標を過ぎてから、道はさらに頼りなくなった。踏み跡は消えたのではない。むしろ、増えた。斜面の上へ向かう細い筋。沢へ降りる獣の跡。倒木を避けて曲がった足跡。落葉の下へ隠れた、人のものとも獣のものともつかぬ沈み。
道が一つなら、迷いは少ない。
多すぎる道は、道でない場所よりも人を迷わせる。
真鹿人は、そう思った。
信濃の道、ひとつにあらず。
かつて自分が書いたその言葉は、いまや木簡の上の句ではなく、足元に広がる罠になっていた。
多加津は迷わなかった。
いや、迷っていないように見えただけかもしれない。
彼は立ち止まり、木の幹に手を当て、風の抜ける向きを見た。枝の折れ方を見て、湿った土を指で探り、ときに何もない空間へ耳を向けた。それから、何事もなかったように進む。
佐那は何度も転びかけた。
そのたびに、多加津が振り返らずに言う。
「そこは踏むな」
「先に言ってください」
「先に言っている」
「足を置いた後に聞こえます」
「なら、耳より足が早い」
佐那は不満そうに口を曲げたが、言い返さなかった。
山の暗さは、下から来る。
真鹿人はそのことを知った。
空はまだ薄く明るい。木々の高い枝には、夕の光が残っている。だが、根元はすでに夜になっていた。土の湿り、岩のくぼみ、倒れた幹の裏側、落葉の重なり。その一つひとつが、空より先に闇を持ち始めている。
湖の夜は、上から降りた。
水面へ空の黒さが落ち、月があれば白く揺れ、なければ水ごと深く沈んだ。
山の夜は違う。
地面から起き上がる。
足をつかみ、膝を濡らし、腰へまとわりつき、やがて目の高さまで満ちてくる。
その闇の中で、白いものだけが早く見えるようになった。
折れた枝の新しい傷。
石の角。
獣の骨かと思った、乾いた木の根。
葉の裏。
遠くの沢に浮いた泡。
どれも白く見えた。
けれど、どれも同じ白ではなかった。
真鹿人はそれを、一つに結びそうになるたび、胸の内で止めた。
白は納まらぬものの色。
因幡で聞いた言葉が、ふと戻る。
兎の白。
布の白。
浜に残った泡の白。
皮を失ったものの白。
諏訪では、白布の石があった。湖の月も白かった。蛇の抜け殻も、乾けば白く見えた。
そして今、飛騨へ向かう山の道には、まだ名を持たぬ白がある。
だが、それらは同じではない。
同じにすれば、道を誤る。
真鹿人は唇を結び、足元を見た。
「真鹿人さま」
佐那が小声で呼んだ。
「何だ」
「白いものが多いですね」
「そう見えるな」
「全部、何かの印でしょうか」
「分からぬ」
佐那は、少し安心したように息を吐いた。
「また、分からぬ、ですね」
「分かったと言えば、楽になるか」
「いえ。今は、分からぬ方がよいです。分かったことにされると、触ってよいのか、避けるべきなのか、分からなくなります」
佐那はそう言いながら、足元の白い根をまたいだ。
「ただの根かもしれません。でも、ただの根であっても、踏めば滑ります」
真鹿人は頷いた。
ただのもの。
その言葉もまた、危うい。
ただの石。
ただの水。
ただの白。
ただの沈黙。
ただの名。
人は、自分が使わぬものを、よく「ただの」と呼ぶ。だが、ただのものとして置かれたものほど、誰かにとっては置かれ方を持つ。
多加津が前で止まった。
夕が、急に深くなったように感じられた。
「ここで夜を越す」
佐那が、ほとんど悲鳴のように声を上げかけ、それを飲み込んだ。
「ここ、ですか」
「先へ進めば、足を失う」
「足を失うとは」
「滑る。落ちる。折る。あるいは、戻れなくなる」
多加津は周囲を見回した。
そこは尾根に近い斜面の途中だった。大きな岩が一つあり、その横に、風を少し避けられるくぼみがあった。木々は密に生えているが、頭上の枝はわずかに開けている。空は細く見えた。
佐那は空を見上げた。
「月は、見えますかね」
言った後、佐那はまた口を押さえた。
多加津は叱らなかった。
「見えるかもしれぬ。だが、頼るな」
「はい」
「月が見えれば、影も見える。影が見えれば、ない穴をあると思い、ある穴をないと思うことがある」
佐那は困った顔をした。
「明るくなっても危ないのですか」
「山では、明るさにも種類がある」
多加津は荷を下ろした。
「火を使う。小さく」
「煙は」
「この風なら、下へ流れる」
「人に見つかりませんか」
「人より先に、寒さに見つかる」
佐那は、それには強く頷いた。
火打ち石が鳴った。
乾いた草と細枝を集め、小さな火を起こす。火はなかなかつかなかった。湿りが強い。佐那が息を吹きかけすぎて、煙を顔に受け、涙目になった。多加津が無言で手を出し、火の息を整えた。
やがて、細い火が立った。
小さな火だった。
夜の山を照らすには足りない。岩のくぼみと三人の膝先を、わずかに赤くするだけである。
だが、その小ささに、真鹿人は安堵した。
月明かりとは違う。
火は、手の内にある。
消える時も、燃える時も、人の息と手の届く範囲にある。山全体を明るくはしない。遠くを見せない。けれど、自分たちの飯と指先と、互いの顔だけは見せる。
月は遠い。
火は近い。
近いものと遠いものを取り違えてはならない。
真鹿人は、火を見ながらそう思った。
佐那が干し飯を湯に浸した。
湯と言うにはぬるく、粥と言うには硬かったが、佐那はそれを大切そうにかき混ぜた。少しだけ塩を入れる。火の上で、湯気が立った。
「火があると、人の場所になりますね」
佐那が言った。
「火がなければ、人の場所ではないのか」
真鹿人が問うと、佐那は考え込んだ。
「人の場所ではあります。でも、火があると、ここで飯を食べてよいと言われている気がします」
「誰に」
「分かりません。山に、でしょうか」
多加津は火に枝を足した。
「山は、許しはしない」
「では、何です」
「見逃すことはある」
佐那は、湯気の向こうで眉を寄せた。
「見逃されながら飯を食べるのですか」
「山では、そうだ」
真鹿人は、その言葉を胸の内で繰り返した。
許されるのではない。
見逃される。
それは、諏訪の湖とも違っていた。
湖は、変わるなら立て、と受け入れた。水緒はそう語った。受け入れるとは、抱きしめることではない。そこで変わることを求めることだった。
山は、受け入れるのではないのかもしれない。
ただ、すべてを拒むわけでもない。
小さく火を焚き、小さく飯を食べ、小さく息をして夜を越す者を、見逃すことがある。
それを、許しと書けば違うのだろう。
恵みと書いても違うのだろう。
真鹿人は木簡を思った。
だが、取り出さなかった。
火のそばで、三人は黙って飯を食べた。
佐那が言った通り、硬い飯を湯でふやかしたものは、体に染みた。味は薄い。けれど、腹に入ると、考えごとの尖りが少し丸くなる。
腹を通らぬ語りは、すぐ頭だけになる。
水緒の言葉は、食べるたびに正しさを変えた。
聞いた時は、諭しだった。
今は、粥の温さだった。
言葉とは、場所を変えると、形を変える。
名も同じなのだろう。
真鹿人はそう思い、また考えを止めた。
同じなのだろう、と言うには早い。
断ずるべからず。
夜が落ちた。
火の外は、急に遠くなった。
昼間に通ってきた木々が、別のもののように立っている。幹は黒く、枝は交差し、葉は互いに重なり合って、空を狭くしていた。
その狭い空に、月はまだなかった。
佐那が何度も上を見ようとして、そのたびに粥の椀へ目を戻した。
真鹿人は、その様子を見ていた。
「見たいのか」
「はい」
佐那は素直に答えた。
「でも、見ない方がよいのかと思いまして」
「誰も、見るなとは言っていない」
「けれど、見すぎるなとは言われました」
「それは私が言われたことだ」
「私も聞きました」
佐那は椀を両手で包んだ。
「月が出たら、きれいだと思います。それはいけないことですか」
真鹿人は、すぐには答えられなかった。
きれい。
あまりに素朴な言葉だった。
神の名ではない。系譜でもない。祈りでも、畏れでも、記録でもない。ただ、きれい。
だが、その言葉は月を奪うだろうか。
きれいと言うことも、月へ近づきすぎることなのだろうか。
真鹿人には分からなかった。
分からぬまま、答えた。
「いけないことではないと思う」
「思う、ですか」
「断じるには早い」
佐那は少し笑った。
「便利ですね、それ」
「便利に使うものではない」
「はい」
佐那は、火に目を戻した。
「でも、私は、月が出たらきれいだと思います。名を知らなくても、そう思います」
真鹿人は、その言葉を聞きながら、胸の奥で何かが少し揺れるのを感じた。
名を知らなくても、美しさはある。
だが、美しいと呼ぶことも、ひとつの名なのか。
ならば、人は何も言えなくなる。
いや、何も言わぬことと、何も見ぬことは違う。
書かぬことと、見捨てることも違う。
真鹿人は、火を見た。
小さな火は、答えを出さなかった。
ただ、燃えていた。
しばらくして、多加津が立ち上がった。
彼は火から少し離れ、岩の横へ移動した。そこから斜面の下を見ている。
「何かいるのか」
真鹿人が問う。
「いる」
佐那の手が止まった。
「獣ですか」
「分からぬ」
多加津は腰の刀に手を置かなかった。だが、体の重心が少し変わっていた。いつでも動ける者の立ち方だった。
真鹿人も耳を澄ませた。
最初は何も聞こえなかった。
火のはぜる音。
沢の遠い音。
風が葉を撫でる音。
自分の息。
それらの向こうに、何かがあった。
足音ではない。
声でもない。
ただ、誰かが音を立てぬようにしている気配。
音を立てぬようにするものは、かえって気配を残す。
多加津は低く言った。
「火を大きくするな」
佐那は、枝を持った手を引っ込めた。
真鹿人は、闇を見た。
火の外側に、白いものが見えた。
一瞬だけだった。
木の幹の間を、細く白いものが横切ったように見えた。布か、獣の腹か、枝の傷か、霧か。分からない。
佐那も見たらしく、息を止めた。
「今」
「言うな」
多加津が短く止めた。
佐那は口を閉じた。
言えば、形になる。
形になれば、そこへ恐れが集まる。
恐れは名を欲しがる。
真鹿人は、そう思った。
闇の中の白いもの。
因幡なら、兎を思ったかもしれない。
諏訪なら、白布か蛇の抜け殻を思ったかもしれない。
だが、ここでそれらを呼んではならない。
ここはまだ、飛騨へ向かう途中の山である。
白いものは、白いものとして、闇へ戻した方がよい。
しばらく、三人は動かなかった。
やがて、遠くで小枝が折れた。
それきり、気配は離れた。
多加津はしばらく待ってから、火のそばへ戻った。
「何だったのですか」
佐那が小声で聞いた。
「分からぬ」
多加津はそう答えた。
その言い方に、真鹿人はわずかな違いを感じた。
多加津は、分かっていて言わぬ時がある。
分からぬと言いながら、いくつかの候補を捨てずに持っている時がある。
今の声は、そのどちらでもなかった。
本当に、分からなかったのだろう。
山は、多加津にもすべてを教えるわけではない。
そのことが、真鹿人には不思議に心強かった。
夜がさらに深くなった。
火は小さくなり、赤い芯だけが残る。
空の枝の間に、ようやく薄い光が差した。
月だった。
細い月ではない。
丸くもない。
欠けながらも、前夜よりは少し太い月が、枝の間に引っかかるように出ていた。
佐那は息を呑んだ。
真鹿人も顔を上げた。
月は、山の上にあるのではなかった。
木々の枝に裂かれ、葉に欠け、幹の間でいくつにも分かれていた。湖で見た月のように、水面で揺れているわけではない。山の月は、初めから分けられている。
完全な姿を見せない。
見ようとする者の位置によって、細くもなり、欠けも増し、時には消える。
真鹿人は、その月に名を与えなかった。
ただ、見た。
しかし見た瞬間、自分が見ていることも意識した。
月を見る前に、自分を見ろ。
水緒の言葉は、やはり消えない。
自分は今、月を見ている。
だが、月そのものを見ているのか。
月を見ている自分を見ているのか。
それとも、飛騨に着く前から、飛騨の月という名を心の中に置き、それを見ようとしているのか。
真鹿人は答えを出せなかった。
月の光が、火のそばに置かれた椀の縁を白くした。
佐那が、小さな声で言った。
「きれいです」
誰も止めなかった。
その言葉は、山の夜を乱さなかった。
むしろ、火の残り香と、粥の薄い匂いと、濡れた土の冷たさの中で、静かに置かれた。
きれい。
それだけで、佐那は月を手元へ引きずり下ろさなかった。
祈りにもせず、神名にもせず、記録にもせず、ただ見上げていた。
真鹿人は、その横顔を見た。
佐那の目には、月が映っているのだろうか。
それとも、火の赤さが残っているのだろうか。
分からなかった。
分からぬまま、よいと思った。
多加津は月を見ていなかった。
彼は斜面の下を見ていた。闇の奥、先ほど白いものが過ぎたあたりへ、ずっと注意を向けている。
「多加津」
真鹿人が呼ぶと、多加津は目だけを動かした。
「月を見ないのか」
「見た」
「いつ」
「出た時」
「もう見ないのか」
「見続けるものではない」
多加津はそう言った。
「月は、上にある。だが、危ういものは下から来る」
佐那が、思わず足元を見た。
多加津は続けた。
「月を見ている時、人は首を晒す」
その言葉に、真鹿人は背筋が冷えた。
月を見るとは、上を向くこと。
上を向くとは、喉を開くこと。
手元を離し、足元を忘れ、背後を捨てること。
見ることにも、姿勢がある。
見ることにも、危うさがある。
真鹿人は、月から目を下ろした。
火はほとんど消えていた。
闇に目が慣れてくると、月明かりはたしかに道を見せた。石の輪郭。木の影。斜面の傾き。昼には気づかなかった白い枝の傷。
けれど、多加津の言う通り、その光は危うかった。
見えるから進めると思わせる。
進めそうに見せる。
それが罠だった。
「夜は越すだけだ」
多加津が言った。
「歩かぬのですか」
佐那が問う。
「歩かぬ」
「月が出ています」
「だから歩かぬ」
佐那は首を傾げた。
多加津は短く言った。
「月が出ている時、人は自分が賢くなったと思う」
真鹿人は、返す言葉を失った。
それは、記録にも言えることだった。
木簡を持つ時、人は自分が忘れぬ者になったと思う。
名を知る時、人は自分が近づいたと思う。
空白を持つ時、人は自分が深くなったと思う。
月明かりも、木簡も、名も、空白も、人を少し賢くしたように思わせる。
だが、本当にそうなのか。
真鹿人は、空の木簡を取り出したい衝動を感じた。
月明かりの下で、その白い面を見れば、何かが分かるような気がした。
月に照らされた空白。
山に囲まれた空白。
まだ名を持たぬ飛騨へ向かう道の上で、それを見ることに意味があるような気がした。
だが、彼は動かなかった。
取り出せば、見てしまう。
見れば、意味を与えたくなる。
意味を与えれば、まだ出会っていないものを、先に閉じてしまうかもしれない。
真鹿人は、荷の紐に触れただけで手を戻した。
空の木簡は、今夜も空のままでよい。
いや、よいかどうかも分からない。
ただ、今はまだ、取り出してはならない。
そう思った。
夜半、月は山の端へ近づいた。
雲ではなかった。
山が、月を隠そうとしていた。
枝に裂かれていた月が、少しずつ低くなり、黒い稜線へ触れる。触れた途端、光は欠けた。欠けた月が、さらに山へ食われるように細くなる。
佐那は息を止めて見ていた。
真鹿人も、見た。
多加津だけは、周囲を見ていた。
月が沈むのは、珍しいことではない。
空に上ったものは、いずれ傾く。
だが、山の中で見るそれは、ただの移りではなかった。
月が、山に隠されていく。
月が失われるのではない。
消されるのでもない。
山の向こうへ入っていく。
見えなくなるだけで、なくなるわけではない。
見えないものと、ないものは違います。
佐保の声が、遠い因幡の白い布のように戻ってきた。
真鹿人は、月が最後の細い光になるまで見た。
そして、その光も消えた。
夜は暗くなった。
だが、月がなくなったとは思わなかった。
見えないだけだった。
そのことが、なぜか胸に残った。
月が隠れる。
隠れることで、月は遠くなる。
遠くなることで、触れられずに済む。
触れられぬことで、守られるものがあるのかもしれない。
そこまで思い、真鹿人はまた自分を止めた。
かもしれない。
それ以上は、まだ早い。
飛騨の者の声を聞いていない。
月を名づけぬ民を見ていない。
子どもが月を指すところも、大人がそれを止めるところも、まだ見ていない。
今あるのは、山が月を隠した夜だけである。
それを、飛騨の答えにしてはならない。
月が隠れた後、佐那が小さく息を吐いた。
「消えましたね」
「隠れた」
真鹿人は言った。
佐那は少し考え、頷いた。
「そうですね。消えたのではなく、隠れました」
多加津が、闇の中で言った。
「隠れたものを、追うな」
「追うと危ないからですか」
佐那が問う。
「それもある」
「他には」
多加津は答えなかった。
長い沈黙があった。
それから、彼は低く言った。
「隠れたことで、残るものもある」
真鹿人は、多加津を見た。
火はほとんどなく、顔は見えなかった。
だが、その声は、いつもの山道の言葉より少し深いところから出ていた。
「名も、ですか」
真鹿人は問うてしまった。
多加津はすぐには答えなかった。
闇の中で、彼の気配だけが静かにあった。
「名を隠せば、残るものがある」
やがて、多加津は言った。
「だが、隠した名が、そのまま残るとは限らぬ」
真鹿人は息を詰めた。
多加津は、それ以上語らなかった。
名を変えなければ、持って行けないものがあった。
第二部で聞いた言葉が、真鹿人の中に戻る。
多加津の過去は、まだ闇の中にある。
その闇を、月明かりで暴いてはならない。
白い夜道。
月がある時よりも、月が隠れた後の方が、白いものは胸に残った。
白い石。
白い木の皮。
闇を横切った白いもの。
佐那の「きれい」という白い声。
山に隠れた月の最後の光。
それらは一つではない。
同じ名で呼んではならない。
けれど、互いに知らぬふりをしているわけでもない。
真鹿人は、火の残りを見つめながら、眠らずにいた。
書きたいと思った。
書いてはならないとも思った。
何も書かなければ、この夜を見捨てることになるのではないかと思った。
だが、書けば、この夜を自分の言葉に閉じることになるのではないかとも思った。
書くなと言われたら、書くな。
だが、書かぬことで見捨てるな。
水緒の言葉は、夜の中で答えにはならなかった。
答えにならないからこそ、離れなかった。
やがて、佐那が眠りに落ちた。
多加津は起きているのか眠っているのか分からなかった。ただ、ときおり闇へ耳を向けていた。
真鹿人は、空の木簡に触れなかった。
普通の木簡にも、何も書かなかった。
その代わり、夜の白さを、名にせずに胸の内へ置いた。
置いたものは、やがて変わるかもしれない。
忘れるかもしれない。
別の土地の言葉と混ざるかもしれない。
それでも、今はそれでよかった。
いや、よかったと断じることも、まだ早い。
夜明け前、山はもっとも深く沈んだ。
月はなかった。
火も消えていた。
空は黒く、木々は黒く、石も黒かった。
その中で、昨日見た白いものたちだけが、真鹿人の内側で、かすかに残っていた。
朝になれば、それらのいくつかは白くなくなるだろう。
ただの枝になり、ただの石になり、ただの木の皮になるだろう。
だが、夜の間、それらは確かに白かった。
見えないものと、ないものは違う。
見えていたものが、朝には別のものになることもある。
真鹿人は、目を閉じた。
眠りは浅かった。
それでも、少しだけ眠った。
夢の中で、彼は白い道を歩いていた。
その道は因幡の浜にも似ていた。
諏訪の湖面にも似ていた。
飛騨へ向かう山道にも似ていた。
だが、どれでもなかった。
道の先に月があった。
真鹿人は、その名を呼ぼうとした。
声が出る前に、山が月を隠した。
目を覚ますと、まだ夜明け前だった。
多加津が立っていた。
「行くぞ」
佐那が、眠そうに身を起こした。
「まだ暗いです」
「暗いうちに動く」
「月はありませんよ」
「だから動く」
佐那は、半分眠った顔で首を傾げた。
「月がある時は歩かず、ない時は歩くのですか」
「月がない時、人は自分の足を思い出す」
多加津は荷を背負った。
真鹿人も立ち上がった。
闇の中で、足元は見えにくい。だが、見えない分だけ、足は慎重になった。石を探り、土の硬さを確かめ、枝に触れ、息を整える。
山は月を待たない。
人もまた、月ばかりを待っていては進めない。
三人は、夜明け前の道へ出た。
昨日の白い木の皮も、石も、もう見えなかった。
ただ、行く先の暗がりの中に、細い道だけがあった。
それが本当に道なのか、ただの跡なのかは分からない。
分からぬまま、三人は進んだ。
飛騨は、まだ名を持たぬ朝の向こうにあった。




