第三部 飛騨、月に名はない 第二十一章 山は月を待たない
朝になっても、月のことを考えていた。
そのことに気づいた時、真鹿人はまず自分を恥じた。
水緒は言った。
月を見る前に、自分を見ろ、と。
にもかかわらず、諏訪を離れた翌朝、彼の胸の内には、すでに月があった。まだ空にあるはずもない月が、夜を待たずに彼の内側へ入り込み、細い白さをもって、考えの端を照らしていた。
夜が来れば、また見えるのだろうか。
飛騨へ近づけば、名を与えぬ民の月を見られるのだろうか。
彼らは月を、何と呼ばずに見上げるのだろうか。
そこまで考えて、真鹿人は足を止めかけた。
問うな、と言われていた。
なぜ名を与えぬのか、すぐ問うな。月を見ろ。山を見ろ。月を見ぬ者も見ろ。月が出た時に黙る者を見ろ。月が隠れた時に息を吐く者を見ろ。
水緒の声は、湖を離れても消えなかった。
消えぬどころか、湖の水よりも細く、山道の湿りの中に染み込んでいた。足を踏み入れるたび、土の奥からそれが返ってくるようだった。
諏訪の水は、もう見えなかった。
振り返れば、山の肩の向こうに、かすかな白い気配が残っているようにも思えた。だが、それは湖ではなかった。朝霧であり、遠い空であり、昨日までそこに水があったと知る者だけが、勝手に水の名を与えたがるものだった。
真鹿人は振り返るのをやめた。
山道は、湖の道とは違っていた。
湖では、水が空を映した。歩く者は岸を知り、舟に乗る者は戻る場所を知っていなければならなかった。水緒は、足元がないと思う時、足元は広がっていると言った。
だが、山では違う。
足元は、ある。
ありすぎるほど、ある。
石がある。根がある。泥がある。朽ちた葉があり、濡れた枝があり、見えぬ穴があり、獣の通った浅い溝がある。足を置く場所はそこらじゅうにあるのに、少し誤れば、その場所が人を拒む。
山は、水より狭い。
狭いのに、深かった。
佐那が、後ろで大きく息を吐いた。
「真鹿人さま」
「何だ」
「月を待つのもよいですが、山は待ってくれませんよ」
真鹿人は、思わず振り向いた。
佐那は荷を背負い直し、片手で腹のあたりを押さえていた。顔に真剣さはある。だが、その真剣さは神の名や国の行方へ向かうものではなく、今、足が重いことと、腹が減りつつあることへ向けられていた。
「月を待っているように見えたか」
「見えました」
佐那は即座に答えた。
「夜に出るものを、朝から待っておられます。そういう顔です」
「そういう顔とは、どんな顔だ」
「飯の前から、夕餉の汁の味を考えている顔です」
多加津が前を歩いたまま、低く笑ったような息を漏らした。
真鹿人は返す言葉を失った。
佐那は、さらに続けた。
「私は、夕餉の汁なら考えます。考えても腹が減るだけですが、考えないよりは少しだけ楽です。でも、月は食べられません。考えても、腹は膨れません」
「佐那」
「はい」
「月を食べようとしているわけではない」
「分かっています。でも、月のことを考えすぎると、足元の石を見落とします」
その言葉は、軽く言われたものだった。
だが、真鹿人の胸の内では、思いがけず重く落ちた。
足元の石。
諏訪で、水緒は石に名を作るなと言った。名なき声を記すべし、されど名を作るべからず、と。
出雲で、宇都志は石を持つなと言った。石ではなく、その重さを持って行けと。
因幡で、佐保は白布を結べと言った。見えないものと、ないものは違う、と。
どの言葉も、今になって、山道の小石のように足裏へ触れてくる。
踏みしめれば痛い。
だが、痛いからこそ、そこにあることが分かる。
「止まれ」
多加津の声がした。
短い声だった。
佐那はすぐ足を止めた。真鹿人も止まった。
多加津は前方の道を見ていた。道と言ってよいのか分からぬほど、細い斜面である。左には濡れた岩があり、右は低く落ちていた。木々が茂っているため底は見えない。だが、見えぬことで浅くなるわけではなかった。
多加津は腰を落とし、土を指で払った。
「獣の跡ですか」
佐那が小声で問う。
「獣も通った」
「も?」
「人も通った」
多加津はそう言って、道の端にある石を軽く指した。苔に半ば埋もれた石だった。ひと目には、ただ斜面から転げ落ち損ねたものに見える。しかしよく見ると、その下に小さな別の石が噛ませてある。
自然ではない。
けれど、人の手が強く残っているわけでもない。
「古い道か」
真鹿人が問うと、多加津は首を横へわずかに振った。
「道と呼ぶには、細い」
「では何だ」
「通った跡だ」
多加津は立ち上がり、周囲を見た。
「道は、人が何度も使えば道になる。だが、跡は違う。一度でも残る。逃げる者の跡。追う者の跡。迷った者の跡。戻る者の跡。山では、それらが重なる」
信濃の道、ひとつにあらず。
真鹿人は、かつて木簡にそう書いた。
あの時は、まだ言葉だった。
今は、足元だった。
濡れた土と、苔を抱いた石と、折れた枝と、踏まれて少しだけ沈んだ落葉の層が、その一文を別の形で読ませていた。
「ここを進むのか」
「進むしかない」
多加津はそう言ってから、真鹿人を見た。
「だが、月を頼りには歩くな」
真鹿人は黙った。
「夜ならば、月明かりは助けになる。石の白さも、木の影も見せる。だが、助けになるものは、頼りきれば罠になる」
「雲に隠れれば終わる、か」
真鹿人が言うと、多加津はうなずいた。
「雲でなくともよい。山が隠す。枝が隠す。霧が隠す。目が慣れれば、かえって火を嫌うこともある。その時、月が消えれば、歩く者は自分の足を忘れる」
「自分の足を」
「そうだ」
多加津は、先へ進みながら言った。
「月を頼りに歩く者は、月が隠れた時、自分がどこに立っているかを知らぬことがある」
それは、山の話だった。
それだけでないことも、真鹿人には分かった。
月だけではない。
名も同じだ。
強い名を頼りに歩く者は、その名が隠れた時、自分の立つ土地を見失うことがある。
大国主。
事代主。
タケミナカタ。
それらの名は、大きかった。強く、遠くまで届き、多くの口に乗った。だが宇都志は、その名の奥に残ったものを見ろと言った。水緒は、強い名をそのまま受けぬ湖の話をした。
名は道を照らす。
だが、道そのものではない。
そう書きかけて、真鹿人は背の荷に入れた木簡を思った。
空の木簡。
志斐の宿禰から渡された、まだ一字も刻まれていない木簡。
どうしても書かねばならぬものに出会うまで、空のまま持て。
第一部の朝には、その空白は命令だった。
因幡では、拾わなかった名の字の代わりだった。
出雲では、石を持たずに重さを持つための余地だった。
諏訪では、名を与えてはならぬものの予兆になった。
では、飛騨では何になるのか。
そう考えた瞬間、真鹿人はまた恥じた。
まだ飛騨に入ってもいない。
まだ月を見てもいない。
まだ、その地の者の声も聞いていない。
それなのに、すでに空白の意味を定めようとしている。
空白を持つ者は、自分が深いと思い始めることがある。
水緒の言葉が、胸の奥で冷たく響いた。
真鹿人は、荷の紐を握った。
空白は、誇るものではない。
書かぬことは、ただ筆を止めることではない。
だが、それが何であるのか、まだ断じてはならない。
「また難しい顔をしています」
佐那が言った。
「私は、いつもそんな顔をしているのか」
「はい」
迷いのない返答だった。
「特に、書くか書かないかを考えている時です」
「それも分かるのか」
「分かります。真鹿人さまは、書く時より、書かない時の方が、眉が寄ります」
多加津が前で、今度は明らかに笑った。
「よく見ている」
「見ていないと、置いていかれますので」
佐那はそう言って、斜面を慎重に下りた。
その足取りは、諏訪に入る前より少し変わっていた。
湖上で、佐那は舟の上で立たないと誓った。誓いというほど大げさなものではなかったかもしれない。けれど、あの日から彼は、自分の重みを知ろうとしているように見えた。
水の上では、立てば揺れる。
山では、急げば滑る。
どちらも、足元を知らぬ者を許さない。
佐那は理屈ではなく、そのことを体に入れたのだろう。
真鹿人は、その背を見ながら、少しだけ安堵した。
自分は、まだ月を見ている自分を見ている。
だが佐那は、腹と足で山を見ている。
多加津は、道と跡と危うさで山を見ている。
ならば、自分はまだ、二人に止められながら進める。
山道は昼になっても薄暗かった。
木々は葉を重ね、空を細かく分けていた。風が吹くたび、光は揺れ、地面の上でばらばらになった。そこには湖のような大きな反射はなかった。水面が空を丸ごと受けることもない。ただ、葉の隙間から落ちた光が、石の角を小さく照らし、すぐに消える。
山は、物を長く見せない。
少し見せて、隠す。
また少し見せて、別のものを隠す。
真鹿人は、そのたびに目を凝らした。
だが、凝らしすぎれば、今度は全体を見失った。
「見すぎるな」
多加津が言った。
真鹿人は苦く笑った。
「今日は、見るなと言われてばかりだ」
「見るなとは言っていない」
「では何だ」
「目だけで追うな」
多加津は、枝を持ち上げて後ろの二人を通した。
「山では、目が早すぎる。耳の方が遅い。足の方がもっと遅い。遅いものに合わせろ」
「遅いものに」
「目が行った場所へ、足はすぐ行けない」
真鹿人は足元を見た。
なるほど、と思った。
目は、先へ行きたがる。
名もまた、先へ行きたがる。
まだ触れていないものに名を置き、まだ聞いていないものに意味を与え、まだ出会っていない土地を、すでに知っている形へ入れようとする。
記録官の目は、いつも早すぎる。
大和の木簡の上では、それが才と呼ばれることもある。早く聞き、早く分け、早く置き、早く系譜に結ぶ。神々の名が乱れぬように、土地の語りがこぼれぬように、民が迷わぬように。
けれど、早すぎる目は、時に奪う。
水緒はそれを知っていた。
宇都志も知っていた。
佐保も、おそらく知っていた。
そして飛騨の者たちも、知っているのだろうか。
真鹿人は、また問いかけそうになり、唇を閉じた。
問うには早い。
思うことすら、早いのかもしれない。
昼を少し過ぎた頃、三人は沢に出た。
水は細く、石の間を浅く流れていた。諏訪の湖を見た後では、あまりに頼りない水に見える。だが、多加津はそこで足を止め、周囲を確かめた。
「ここで休む」
佐那の顔が明るくなった。
「飯ですか」
「少しだけだ」
「少しでも飯です」
佐那は荷を下ろし、乾いた葉を払って座った。腰を下ろすと同時に、長く息を吐く。その息は祈りではなかったが、祈りに似ていた。
火は起こさなかった。
多加津が、煙を嫌ったからである。
「このあたりに人がいるのか」
真鹿人が問うと、多加津は沢の向こうを見た。
「いるかもしれぬ」
「見えないが」
「見えぬから、いないとは限らぬ」
佐保の言葉が戻ってきた。
見えないものと、ないものは違います。
真鹿人は黙って、干した飯を口に入れた。硬い。噛むほどに、米の甘みよりも顎の疲れを感じる。佐那はそれでも満足そうに食べていた。水を少し飲み、沢の音を聞きながら、まぶたを細める。
「月を待つより、飯を噛む方が難しいです」
「それは、飯が硬いだけだ」
「硬い飯は、考えごとを止めてくれます」
佐那はまじめに言った。
「柔らかい飯だと、考えながらでも食べられます。でも、これは噛まないと飲めません。噛んでいる間は、神の名も、月の名も、入りません」
「月の名は、まだ聞いていない」
「だから、なおさらです」
真鹿人は、思わず笑いそうになった。
佐那は、ときどき正面から大事なところへ足を置く。
名を知らぬものを、考えすぎるな。
それは、彼が言葉にすれば軽くなることだった。だが、佐那が硬い飯を噛みながら言うと、どこか逃れがたい真実味を帯びる。
腹を通らぬ語りは、すぐ頭だけになる。
水緒はそう言った。
その通りなのだろう。
神の名も、土地の声も、月の沈黙も、腹を通らなければ頭だけになる。頭だけになったものは軽い。軽いものは、木簡の上でよく動く。動かしやすく、並べやすく、使いやすい。
だから、危うい。
真鹿人は硬い飯を噛み続けた。
その時、沢の向こうで、小さな音がした。
多加津がすぐ顔を上げた。
佐那も飯を持ったまま固まった。
音は、枝の折れる音ではなかった。石が転がる音でもない。もっと軽く、乾いたものが触れ合う音だった。
多加津は指で、動くな、と示した。
三人は、沢の音に紛れて息を潜めた。
しばらくして、木々の間から一羽の鳥が飛び立った。灰色の羽を持つ小さな鳥だった。鳥は低く沢を越え、反対側の枝へ移ると、三人を見ずに首を振った。
佐那が息を吐く。
「鳥でしたか」
「鳥も、何かに驚いた」
多加津は立ち上がらなかった。ただ、目だけを動かしていた。
真鹿人は沢の向こうを見た。
そこには、古い木が一本立っていた。
周りの木と比べ、特に太いわけではない。だが、枝ぶりが奇妙だった。上へ伸びるのではなく、どこか横へ広がり、葉の影がその根元を覆っている。
根元に、石があった。
白い石だった。
いや、白いと思ったのは、光のせいかもしれない。葉の間から落ちた昼の光が、その石だけを照らしていた。石そのものは、灰色にも見えた。けれど、濡れた周囲の土の中で、そこだけが乾いたように薄く浮いていた。
真鹿人は立ち上がりかけた。
多加津の手が、それを止めた。
「近づくな」
「祠か」
「分からぬ」
「石だけに見える」
「石だけなら、なおさら近づくな」
真鹿人は動きを止めた。
白い石。
因幡の白。
白布。
諏訪の名なし石。
蛇の抜け殻。
湖に映った細い月。
いくつもの白が、彼の中で結びかけた。
違う。
真鹿人は、心の内で自分を止めた。
白だから同じなのではない。
重なることと、同じになることは違う。
白いものを見つけるたびに、それを一つの道へ並べてはならない。兎も、布も、石も、月も、それぞれ別の場所で白かった。白であることは、同じ名を与える理由にはならない。
「誰かが置いたのでしょうか」
佐那が小声で言った。
「そう見える」
多加津は答えた。
「でも、祠ではないのですか」
「祠なら、拝む形がある」
「これは?」
「見ない形だ」
見ない形。
真鹿人は、その言葉を聞き返そうとして、やめた。
たしかに、白い石は目立つ場所に置かれているようで、そうではなかった。道の正面ではない。沢からも少し外れている。木の根元にあるが、木を祀るにはあまりに低い。石の前に人が立つ場所もない。膝をつくには湿りすぎている。
人に見せるためのものではない。
だが、隠しているとも言い切れない。
そこにある。
ただ、それだけで何かを保っているようだった。
「月と関わるものか」
真鹿人は、つい口にした。
多加津が振り向いた。
責める目ではなかった。
だが、その沈黙だけで、真鹿人は自分の問いの早さを知った。
月を見てもいないのに。
夜にもなっていないのに。
白い石を見ただけで、月へ結ぼうとした。
水緒の言葉が、また戻る。
月を見る前に、自分を見ろ。
真鹿人は、ゆっくり息を吐いた。
「今のは、早かった」
多加津は何も言わなかった。
佐那も、珍しく口を挟まなかった。
沢の水だけが、石の間を流れていた。
真鹿人は白い石を見つめた。
見つめすぎぬようにしながら、見た。
それは難しかった。
記録官は、見たものを残すために見る。形を覚え、位置を測り、誰が置いたか、何のためかを探り、名を求める。
だが、この石は、そう見られることを好まぬようだった。
白い石。
古い木。
沢の音。
昼なのに薄暗い山。
火を使わぬ休み。
鳥が驚き、飛び立ったこと。
それらを一つに閉じれば、何かの意味にはなるだろう。
だが、その意味は、おそらく早すぎる。
真鹿人は、木簡を取り出さなかった。
普通の木簡にも、空の木簡にも、何も書かなかった。
ただ、見た。
見たことを、自分の内に置いた。
それが記録かどうかは、まだ分からなかった。
しばらくして、多加津が立ち上がった。
「行くぞ」
佐那は残りの飯を口に押し込み、慌てて水を飲んだ。
「もう少し休みたいところですが」
「日が傾く前に、尾根を越える」
「尾根の向こうに、宿はありますか」
「宿と呼べるものはない」
佐那は、深く肩を落とした。
「では、飯を食べられる場所は」
「場所ならある」
「火は」
「風次第だ」
「月は」
佐那が言ってから、自分で口を押さえた。
真鹿人と多加津が、同時に佐那を見た。
佐那は気まずそうに笑った。
「いえ。月は、聞くものではありませんでしたね」
多加津は、短く言った。
「山は月を待たない」
その言葉は、ただの山歩きの戒めだった。
けれど真鹿人には、それだけに聞こえなかった。
山は月を待たない。
山は、月が出ようと出まいと、そこにある。月が照らせば白く見え、雲が覆えば黒く沈み、雨が降れば匂いを変える。それでも山は、月のために形を変えるわけではない。
人が月を待つ。
記録官が名を待つ。
神の名を数える者が、まだ出会わぬ答えを待つ。
しかし、土地は待たない。
山は、すでにそこにある。
飛騨も、すでにそこにあるのだろう。
真鹿人たちが辿り着く前から。
大和の木簡に名が載る前から。
月に名を求める者が来る前から。
三人は沢を離れた。
白い石は、振り返ってもまだ見えた。だが、木々の影が動くと、その白さはすぐに薄れた。次に振り返った時には、もうどこにあったのか分からなくなっていた。
佐那が前を向いたまま言った。
「さっきの石、持って行かなくてよかったのですか」
「持って行くものではない」
真鹿人は答えた。
「では、覚えておくのですか」
「覚えておく、というより」
言いかけて、真鹿人は迷った。
覚える。
記す。
持つ。
置く。
どれも少しずつ違う。
宇都志なら、石ではなく重さを持てと言うだろう。
水緒なら、名を作るなと言うだろう。
佐保なら、見えないものと、ないものは違うと言うだろう。
だが、ここは飛騨へ向かう山である。
出雲の声でも、諏訪の声でも、因幡の声でも閉じてはならない。
「まだ、分からぬ」
真鹿人は言った。
佐那は、少し意外そうに振り向いた。
「真鹿人さまが、そう言うと安心します」
「なぜだ」
「分かった顔をされるより、歩きやすいです」
真鹿人は黙った。
多加津が、前から言った。
「分からぬ者の足は、慎重になる」
「分かった者の足は?」
佐那が問う。
「落ちる」
佐那は、黙って足元を見た。
山道は、さらに細くなった。
昼の光は傾き始めていた。まだ夕ではない。だが山の中では、夕は早く来る。木々の間に残っていた光が、少しずつ高い枝へ逃げていく。地面には湿りが増し、石の輪郭が曖昧になった。
やがて、道の先に古い道標が現れた。
それは道標と呼ぶには、あまりに朽ちていた。細い木の柱が斜めに立ち、上部は割れている。字はない。かつて何かが刻まれていたのかもしれないが、風雨に削られ、苔に覆われ、今ではただ、木がそこに立っているだけだった。
その根元にも、小さな石があった。
今度は白くなかった。
黒に近い、濡れた石だった。
だが、石の上に、白いものが結ばれていた。
布ではない。
糸でもない。
細く剥いだ木の皮のようなものが、石の上に一巻きだけ置かれていた。結んだというより、ほどけぬ程度に留めたものだった。
佐那が息を呑んだ。
「これは」
多加津は近づかなかった。
真鹿人も、足を止めた。
古い道標。
字のない柱。
黒い石。
白い木の皮。
道を示しているのか。
道ではないと言っているのか。
ここから先を見るなという印か。
ここまで来た者を戻すためのものか。
真鹿人の内に、いくつもの問いが立った。
だが、どれにも名を与えなかった。
ただ、夕の山の中で、その白い木の皮だけが、まだ出ていない月のように細く見えた。
空の木簡は、背の荷の中で沈黙していた。
真鹿人は、それを取り出さなかった。
山は月を待たない。
ならば、自分もまだ、月を待ってはならない。
そう思った。
だが、そう思ったことさえ、すぐには信じなかった。
断ずるには、まだ早かった。




