第二十章 月の山へ
湖は、朝から白かった。
霧が濃い。
岸も、葦も、舟も、里の煙も、すべて白いものの中に沈んでいた。水面は見えない。だが、水音はある。葦の根元を洗う音、遠くで鳥が羽ばたく音、まだ姿を持たぬ湖が、静かに息をしているような音。
真鹿人は、里の端に立っていた。
今日、諏訪を発つ。
水緒は、そう言った。
飛騨へ向かう道を告げる、とも。
湖上に出た翌日から、真鹿人の内には、静かなざわめきが残っていた。
湖を一つの名で閉じぬ。
名なき声を無きものとしない。
聞かぬ名を聞き出さない。
湖は湖として残す。
その言葉は、まだ熱を持っていた。
水緒は、熱いまま飛騨へ向かえば月を焼く、と言った。だから真鹿人は、昨日の夜、筆を取らなかった。火のそばで飯を食べ、器を洗い、佐那の話を聞き、多加津が舟の縄を確かめる姿を見た。
それでも、胸の奥は冷えきっていなかった。
月。
その名が、まだ姿を持たずに近づいている。
真鹿人は、湖の白い霧を見た。
見えない湖。
見えない月。
空の木簡。
それらが、結ばれそうになる。
だが、水緒の声がすぐに戻る。
まだ結ぶな。
真鹿人は息を吐いた。
結ぶことは、記録官の癖である。
断片を拾い、似たものを見つけ、線を引き、名を置く。
それは必要な技だった。
しかし、早すぎる結びは流れを止める。
諏訪で、彼は何度も止められた。
水を見ろ。
足元を見ろ。
石を高くしすぎるな。
蛇を使いにするな。
名を聞き出すな。
湖を一つの名で閉じるな。
空白を誇るな。
その一つ一つが、真鹿人の筆に重さを与えている。
文箱は、旅の始まりより明らかに重くなっていた。
木簡の数が増えたからだけではない。
書かなかったものが増えたからだ。
佐那が、寝所から出てきた。
髪は少し乱れ、まだ眠そうな顔をしている。それでも手には器を持っていた。朝の水を汲みに行くつもりなのだろう。
「今日は発つのですね」
「そうだ」
真鹿人が答えると、佐那は霧の方を見た。
「湖が見えません」
「見えないな」
「最後なのに」
「見えないまま別れることもある」
佐那は少し不満そうにした。
「でも、見ておきたかったです」
その声は、素直だった。
真鹿人も同じだった。
湖を見ておきたい。
最初に見た時の白い湖。
夕に山を沈めた湖。
夜に月を隠した湖。
湖上で足元を失わせた湖。
それらをもう一度見たい。
しかし、今日の湖は霧の中にある。
別れの時に、すべてを見せてはくれない。
「佐那」
真鹿人は言った。
「見えない湖を覚えておくのも、悪くないかもしれない」
佐那は、少し考えた。
「見えなかったことをですか」
「そうだ」
「それは、覚えにくいですね」
「だから、残るのかもしれない」
佐那は納得したような、していないような顔をした。
「私は、飯の味の方が残りそうです」
「それも諏訪だ」
「そうですね」
佐那は器を抱え直した。
「水を汲んできます。場所は間違えません」
「頼む」
佐那は霧の中へ歩いていった。
その足取りは、来た時よりも少し慎重だった。どこで水を汲み、どこで手を洗い、どの石を避けるのか。彼は身体で覚え始めている。
佐那は、飯一杯分よりは深く諏訪に入ったのだろう。
多加津は、舟小屋のそばにいた。
昨日の舟を見ている。いや、舟そのものではなく、その縄を見ていた。戻るための結び。出るための結び。ほどく結び。残す結び。
真鹿人が近づくと、多加津は言った。
「霧が深い」
「道は危ういでしょうか」
「水際はな」
「山道は」
「霧が抜けるまで待つ」
「水緒は」
「来る」
多加津は、短く答えた。
それから、少し間を置いて言った。
「今日は、急がぬ方がいい」
「はい」
「別れの日に急ぐ者は、忘れ物をする」
真鹿人は、多加津を見た。
「物のことですか」
「物もだ」
それだけ言って、多加津はまた縄へ目を戻した。
物も。
では、物ではない忘れ物もある。
言えなかった言葉。
聞きすぎた言葉。
置くべき沈黙。
持つべき重さ。
返すべき礼。
真鹿人は、自分が何を忘れかけているのか考えた。
水緒に、まだ礼を言っていない。
いや、礼を言えば足りるのか。
諏訪に対して、湖に対して、水緒に対して、里の者に対して、曲戸に対して、蛇の跡に対して、止め石に対して、戻る石に対して。
礼を言う対象は多すぎる。
そして、その多さを一つの礼で済ませれば、それもまた軽い。
真鹿人は、文箱に触れた。
何かを残すべきだろうか。
木簡ではない。
大和の言葉ではない。
出雲から持ってきた石もない。
彼は何を置けるのか。
その時、水緒が現れた。
霧の中から歩いてきた。
白い霧の中で、水緒の姿は湖から立ち上がったもののように見えた。だが、彼女の足元には泥がつき、裾は湿り、手には小さな包みを持っていた。
湖ではない。
ただの人でもない。
水緒は、真鹿人と多加津を見た。
「佐那は」
「水を汲みに」
「場所は」
「覚えたと言っていました」
「なら、少しは諏訪に入った」
水緒はそう言って、舟小屋の前の石に腰を下ろした。
多加津が少し目を細めた。
「今日は歩くのか」
「霧が薄れてから」
「飛騨への道を?」
「まず、飛騨へ向かう前の道を」
水緒は言った。
「月の山は、すぐには来ぬ」
月の山。
その言葉を聞いた瞬間、真鹿人の胸が静かに鳴った。
水緒は包みを開いた。
中には、薄い白い石が入っていた。
名なし石よりもさらに薄く、指先で挟めるほどだった。石というより、剥がれた欠片に近い。表面は滑らかで、光を受けると鈍く白く見えた。
佐那が戻ってきて、それを見た。
「月の石ですか」
水緒は佐那を見た。
「すぐ名をつけるな」
佐那は慌てて口を押さえた。
「すみません」
「だが、そう見える」
水緒は石を掌に置いた。
「これは、山から来た白い石だという者がいる。湖の底から出たという者もいる。月の欠けたものという者もいる。どれも、確かではない」
真鹿人は石を見た。
白い石。
因幡の白。
蛇の抜け殻の白。
葦に結んだ白布。
名なし石の白。
湖に隠れた月の白。
また結びそうになる。
真鹿人は、自分を止めた。
「これは、何のために」
真鹿人が尋ねると、水緒は答えた。
「持って行くかを問うため」
「私がですか」
「そうだ」
真鹿人は、すぐには答えなかった。
持つなら、なぜ持つかを知れ。
水緒の言葉が先に立つ。
この白い石を持てば、飛騨への道に月の印を持つことになる。
だが、それは早すぎるのではないか。
月をまだ見ていない。
月に名を与えぬ民にも会っていない。
この石を持てば、真鹿人は月を白い石として先に掴んでしまうかもしれない。
「持ちません」
真鹿人は言った。
水緒は、驚かなかった。
「なぜ」
「月を、まだ見ていません」
「夜に見た」
「湖に隠された月を見ました。けれど、飛騨の月はまだ見ていません」
真鹿人は慎重に続けた。
「今これを持てば、私は月をこの石で考え始めると思います。それは、早い」
水緒は白い石を見た。
「では、置くか」
「ここに?」
「湖に置くか。石の上に置くか。水へ沈めるか。持たず、置かず、ただ見るか」
真鹿人は、白い石を見つめた。
持たないだけでは足りないのかもしれない。
持たぬなら、どう持たぬか。
置くなら、どこへ置くか。
見たことをどう残すか。
何もしないこともまた、選びである。
佐那が小さく言った。
「私は、置かない方がよい気がします」
水緒が佐那を見た。
「なぜ」
「この石は、まだ真鹿人様のものでも、湖へ返すものでもない気がします」
「では、何だ」
佐那は困った顔をした。
「水緒が持ってきたものです」
水緒は、少し黙った。
多加津が低く言った。
「正しい」
佐那は驚いた。
「本当ですか」
「今はな」
真鹿人も、静かに頷いた。
「佐那の言う通りです。これは、まだ私が扱うものではありません」
水緒は、白い石を再び包みに戻した。
「それでよい」
「試したのですか」
真鹿人が尋ねると、水緒は言った。
「試しでもあり、別れでもある」
「別れ」
「持つか、置くか、見送るか。発つ者は、いつもそれを問われる」
水緒は包みをしまった。
「お前は、見送った」
真鹿人は、白い石の包みを見た。
見送る。
持たず、置かず、奪わず、返したふりもせず、ただ見送る。
それは、今の真鹿人に必要な手つきだった。
佐那は少し誇らしげだった。
「私、少し分かりました」
「誇るな」
水緒が言った。
「はい」
佐那は素直に頷いた。
水緒は霧の湖を見た。
「今日は、湖が見えぬ」
「はい」
「別れに、すべて見えるとは限らぬ」
佐那が、真鹿人をちらりと見た。
同じことを先ほど話していたからだ。
水緒は続けた。
「見えぬ湖を持って行け」
「水緒も同じことを言うのですね」
佐那が言うと、水緒は少しだけ首を傾げた。
「誰が言った」
「真鹿人様です」
「なら、少しは水に近づいた」
真鹿人は、思わず目を伏せた。
「まだ遠いです」
「遠いと思うなら、よい」
水緒は立ち上がった。
「霧が薄れる前に、話す」
三人は、舟小屋の近くの石に座った。
水緒は立ったままだった。
湖は見えない。
霧の向こうにある。
その見えない湖を背にして、水緒は語り始めた。
「飛騨は、山の奥だ」
彼女の声は、霧に吸われず、静かに届いた。
「水は細くなり、石は硬くなり、道はさらに狭くなる。湖のように広く映す水は少ない。だが、月を見るには、湖より深い闇がある」
真鹿人は聞いた。
「月に名を与えぬ民がいると聞いた、と言いましたね」
「そうだ」
「どのような民ですか」
「私は会ったことがない」
水緒は言った。
「聞いたのですか」
「聞いた。道の者から。水を越えた者から。山で戻らなかった者を知る者から」
「曲戸ですか」
真鹿人が尋ねると、水緒は答えなかった。
答えぬことで、答えの周りを保っているようだった。
「その者たちは、月を祀らないのですか」
佐那が尋ねた。
「祀るという者もいる。祀らぬという者もいる」
「名を与えないのに?」
「名を与えねば祀れぬと思うのは、名を持つ者の考えだ」
佐那は黙った。
真鹿人も、胸を突かれた。
名がなければ呼べない。
名がなければ祈れない。
そう考えていた。
だが、聞かぬ名がある。
名なし石がある。
名を作らず、名なき声を記す道がある。
ならば、名を与えずに祀ることもあり得るのかもしれない。
水緒は言った。
「彼らは、月を見る。隠れる月も、欠ける月も、満ちる月も、山に沈む月も見る。だが、月を一つの名へ入れぬという」
「なぜです」
「名を与えれば、月が近くなりすぎるからだと聞く」
「近く」
「名は呼ぶ。呼べば、こちらへ来る。来れば、器に入る。器に入れば、扱えると思う」
水緒は霧を見た。
「月は、扱ってはならぬものなのだろう」
真鹿人は、空の木簡を思った。
白く、空のままの木簡。
月に名を与えない。
それが、この物語の終着にあるのだと、どこかで感じ始めていた。しかし、今はまだ、そこを知らない者として聞かねばならない。
「名を与えぬことで、何を守るのでしょう」
真鹿人が尋ねると、水緒は答えた。
「それを、私の口から聞くな」
真鹿人は息を止めた。
「飛騨で聞け、ということですか」
「聞くなと言われるかもしれぬ」
「では」
「見ろ」
水緒は言った。
「お前は、諏訪で何を学んだ」
真鹿人は黙った。
水を扱う順。
石を高くしすぎぬこと。
蛇を使いにしないこと。
名を聞き出さないこと。
強い名を一語で閉じないこと。
湖を一つの名で閉じないこと。
空白を誇らないこと。
水緒は続けた。
「飛騨で、月の名を聞こうとするな」
「はい」
「なぜ名を与えぬのか、すぐ問うな」
「はい」
「月を見ろ。山を見ろ。月を見ぬ者も見ろ。月が出た時に黙る者を見ろ。月が隠れた時に息を吐く者を見ろ。飯の時間が月で変わるか見ろ。子どもが月を指した時、大人がどう止めるか見ろ」
真鹿人は、一つ一つ胸に入れた。
「そして、書くなと言われたら」
水緒は、真鹿人を見た。
「書くな」
その言葉は、湖上の誓いよりもまっすぐだった。
真鹿人は、深く頷いた。
「はい」
「だが、書かぬことで見捨てるな」
水緒は続けた。
「書かぬものを、無かったものにするな。書かぬなら、なぜ書かぬかを持て。誰のために書かぬのかを持て。自分が深いから書かぬのではない。守るために書かぬのか、恐れて書かぬのか、分からず書けぬのか、それを見失うな」
真鹿人は、頭を下げたまま聞いていた。
水緒は、最後まで厳しい。
だが、その厳しさが必要だった。
書かないことも、逃げになる。
書かないことも、誇りになる。
書かないことも、忘却になる。
だから、書かない理由を持たねばならない。
空白は、ただの空ではない。
空けておくという形。
曲戸の言葉が戻る。
真鹿人は、静かに答えた。
「持ちます」
「重くなるぞ」
「はい」
「重さを誇るな」
「はい」
水緒は頷いた。
霧が少し薄れた。
湖面の一部が白の中から現れた。岸に近い水だけが、ぼんやりと見える。湖全体はまだ隠れている。だが、水がそこにあることは分かる。
水緒は、湖へ向き直った。
「諏訪で、お前が持って行くべきものを言う」
真鹿人は、姿勢を正した。
「はい」
「出雲を諏訪で塗るな」
「はい」
「諏訪を出雲で読むな」
「はい」
「タケミナカタを、逃げた神だけにするな」
「はい」
「逃げていない神にもするな」
「はい」
「湖に受け入れられた、と書くなら、湖の冷たさも書け」
「はい」
「水・蛇・石を、その名の前に置きすぎるな。だが、消すな」
「はい」
「聞かぬ名を書き出すな」
「はい」
「名なし石に名を作るな」
「はい」
「佐那の飯を忘れるな」
佐那が、驚いて顔を上げた。
「私の飯ですか」
「そうだ」
「それも持って行くものですか」
「腹を通らぬ語りは、頭だけになる」
佐那は、少し照れたように頷いた。
「分かりました。飯は大事です」
水緒は多加津を見た。
「多加津の戻る、も忘れるな」
多加津は顔を動かさなかった。
だが、指がわずかに動いた。
「戻ると言った者が、どこへ戻るかを勝手に書くな」
水緒は言った。
真鹿人は深く頷いた。
「はい」
多加津の過去を、真鹿人はまだ知らない。
知らないものを、神話の形に合わせて書いてはならない。
タケミナカタの逃げる足と、多加津の逃げる足は響く。だが同じではない。
水緒は最後に言った。
「そして、空の木簡を急ぐな」
真鹿人は、文箱に手を置いた。
「はい」
「飛騨で、その木簡に書きたくなるだろう」
真鹿人の胸が鳴った。
「分かるのですか」
「分かるのではない。そういう道だ」
水緒は言った。
「だが、書きたくなる時ほど、まず月を見るな」
真鹿人は顔を上げた。
「月を見ないのですか」
「見る前に、自分を見る」
水緒は静かに答えた。
「月を見てすぐ書きたくなる者は、月を見ているのではない。月を見ている自分を見ている」
真鹿人は、言葉を失った。
それは、深く刺さる戒めだった。
美しいものを見る。
神秘を感じる。
そして、それを書きたいと思う。
その時、人は対象を見ているようで、自分の感動を見ていることがある。
月に名を与えぬ民の前で、それをしてはならない。
「まず、自分を見る」
真鹿人は、繰り返した。
「そうだ」
「その後、月を」
「その後でも早いかもしれぬ」
佐那が小さく言った。
「難しいですね」
「難しい」
水緒は答えた。
「月は、湖より遠い」
霧がさらに薄れた。
湖の一部が見え、葦も見え、舟小屋も見え始める。だが、遠くの山はまだ隠れていた。飛騨へ続く山々も、霧の向こうで姿を持たない。
その見えない山へ向かう。
真鹿人は、ようやく本当に諏訪を離れるのだと感じた。
佐那は朝の飯を用意した。
里の女が魚を分けてくれた。老人は小さな縄を一本くれた。戻る石のそばにいた男は、舟には乗らない道でも戻ることを忘れるな、と言った。止め石の近くの母親は、佐那に「泥を甘く見るな」と言った。
それぞれの言葉が、短く、重かった。
真鹿人は、全てを書かなかった。
書けば長くなる。
しかし、書かないから軽いわけでもない。
彼は、今日受け取ったものを腹と足で持つことにした。
朝食の後、水緒は三人を湖岸の石場へ連れて行った。
初めて湖に触れた場所だった。
今も、石は水際へ続き、湖水が薄くその上を洗っている。霧のせいで、湖はまだ遠くまで見えない。だが、足元の水は確かだった。
「ここで、別れる」
水緒は言った。
佐那が、少し寂しそうにした。
「水緒は、ここまでですか」
「私は湖にいる」
「飛騨へは」
「行かぬ」
「道を知らないのですか」
「知る道もある。知らぬ道もある。だが、私の緒はここにある」
水緒は湖を見た。
「水と人の間に」
佐那は頷いた。
「そうでした」
多加津は、水緒へ短く言った。
「世話になった」
水緒は多加津を見た。
「戻ると言ったな」
「ああ」
「どこへ戻るかは、まだ言わぬのだな」
「言わぬ」
「それでよい」
多加津は、少しだけ目を伏せた。
「逃げる足は、悪くないと言ったな」
「言った」
「覚えておく」
「覚えすぎるな」
多加津の口元が、ほんのわずかに動いた。
「難しい女だ」
「水辺では、簡単な者から沈む」
佐那が小さく笑った。
しかし、すぐに目を伏せた。
「水緒」
「何だ」
「飯を食べてください」
水緒は、佐那を見た。
「今も食べた」
「これからもです」
佐那は真剣だった。
「水を見ている人でも、腹は空くので」
水緒は、しばらく佐那を見ていた。
それから、静かに頷いた。
「食べる」
佐那は、ほっとしたように笑った。
「よかったです」
真鹿人は、そのやり取りを見ていた。
佐那は、最後に最も佐那らしい言葉を置いた。
飯を食べてください。
それは、神話の言葉ではない。記録の言葉でもない。だが、水緒を湖にしすぎず、人としてだけにもせず、もっとも正しく見ている言葉のように思えた。
真鹿人は、水緒に向き直った。
「水緒」
殿はつけなかった。
「礼を言いたいのですが、どう言えばよいのか分かりません」
「分からぬなら、そのままでよい」
「ありがとうございます」
「それは分かるのか」
「はい」
水緒は少しだけ笑った。
「なら、それでよい」
真鹿人は、深く頭を下げた。
「私は、諏訪で多くを受け取りました」
「多くと言うと、軽くなる」
「では」
真鹿人は考えた。
湖。
水。
蛇。
石。
逃げたのではないという言葉。
出雲の神、諏訪の神。
湖上の誓い。
月の山への道。
それらを一つずつ挙げても足りない。
やがて彼は言った。
「近づき方を、教わりました」
水緒は、静かに真鹿人を見た。
「まだ、近づき始めただけだ」
「はい」
「それを忘れるな」
「忘れません」
「忘れる」
水緒はすぐに言った。
「人は忘れる。だから、時々足元を見ろ」
真鹿人は深く頷いた。
「はい」
水緒は、湖水に手を浸した。
そして、その水を少しだけ石の上へ落とした。
「これは、送りではない」
「違うのですか」
「送りと言えば、お前たちは送られる者になる。今日は違う」
「では」
「水を分けるだけだ」
水緒は言った。
「飲むな。持つな。ただ、見ろ」
三人は、石の上の水を見た。
小さな水たまりだった。
湖から掬われ、石の上に置かれた水。すぐに流れるほどではなく、しかし長く留まるほどでもない。霧の光を受け、白く揺れている。
その小さな水に、空が映っていた。
月はない。
朝だから当然だった。
だが、真鹿人は、その空の白の奥に、見えない月の気配を感じた。
書きたくなった。
しかし、書かなかった。
水緒が見ている。
いや、水緒が見ていなくても、書かなかっただろう。
今は、見送る時だった。
水は、ゆっくり石の窪みから溢れ、細い筋となって湖へ戻った。
「行け」
水緒は言った。
それだけだった。
三人は荷を背負った。
佐那は何度も振り返りそうになり、そのたびに自分で前を向いた。多加津は振り返らなかった。真鹿人は、一度だけ振り返った。
水緒は、石場に立っていた。
霧の中で、湖と人の間に立つ者。
湖ではない。
ただの人でもない。
水緒。
そう呼ぶ者がいる。
真鹿人は、頭を下げた。
水緒は何も返さなかった。
しかし、その沈黙は拒絶ではなかった。
聞いている時間。
諏訪の沈黙。
三人は、湖を離れた。
道は、里の背後から山へ向かった。
初めは緩やかな坂だった。湿った土が足裏に残り、湖の匂いがまだ衣に染みている。霧は少しずつ薄れ、木々の間から光が差し始めた。
佐那が、しばらくして言った。
「湖が見えなくなりました」
真鹿人は振り返らなかった。
「そうか」
「でも、水の匂いはします」
「まだ近いからだ」
多加津が言った。
「そのうち消える」
佐那は、少し寂しそうにした。
「消えるのですか」
「匂いはな」
真鹿人は言った。
「重さは残る」
佐那は少し考えた。
「出雲の時も、そうでしたね」
「そうだな」
「重さばかり増えますね」
「旅とは、そういうものかもしれない」
「荷が重くなるのは困ります」
多加津が低く言った。
「要らぬものは置け」
「飯は要ります」
「それは持て」
佐那は少し元気を取り戻したようだった。
山道へ入る前、真鹿人は足を止めた。
道の脇に、平たい石があった。
座る石かもしれない。
道標かもしれない。
ただの石かもしれない。
真鹿人は、その石に何も置かなかった。
ただ、手を触れた。
冷たかった。
湖岸の石とは違う冷たさだった。山の冷たさ。これから向かう道の冷たさ。
真鹿人は、心の中でだけ言った。
諏訪に、そう語る湖あり。
水、先にあり。
強き名、来たりて変わることを許される。
されど、湖はその名のみにならず。
水、蛇、石、聞かぬ名、飯、戻る足、緒を切らぬ者あり。
月の山へ向かう。
断ずるべからず。
木簡には書かなかった。
まだ熱があった。
そして、この言葉は第二部全体を閉じようとしている。
閉じるには、少し早い。
道は上り始めた。
湖の気配は少しずつ後ろへ退いた。
代わりに、山の気配が濃くなる。木々は高く、風は冷え、石は硬くなる。水音は細くなり、鳥の声は鋭くなった。
飛騨へ。
月の山へ。
真鹿人は、空の木簡の重さを背に感じた。
それは、諏訪へ入る前よりも重かった。
だが、何も書かれていない。
空白は、空白のまま強くなることがある。
だが、重さを誇るな。
水緒の言葉が、最後まで背を押すのではなく、背を正していた。
午後、道は尾根へ出た。
振り返ると、霧の切れ間から、湖がかすかに見えた。
遠い。
ほんの一部だけだった。
白く光る水面が、山の間にわずかに覗いている。
佐那が声を上げた。
「見えます」
多加津も振り返った。
真鹿人は、しばらくその水を見た。
諏訪湖。
そう呼びそうになり、口を閉じた。
今は、名を呼ぶより見る方がよい。
湖は遠く、白く、静かだった。
その水面に、昼の薄い月が映っているように見えた。
いや、実際に映っていたのかは分からない。空には雲があり、月があるのかどうかも判然としない。ただ、水の白が月のように見えた。
佐那が言った。
「月みたいですね」
真鹿人は、佐那を見た。
佐那は、自分でも驚いたような顔をした。
「すみません。また早かったですか」
「いや」
真鹿人は湖を見た。
「今は、そのままでよい」
月みたい。
それは名ではない。
比べただけの、身体に近い言葉だった。
佐那の言葉は、時に危うく、時に真鹿人を助ける。
水緒なら、何と言っただろう。
月と同じにするな、と言ったかもしれない。
だが、見えたなら、見えたことは持て、とも言ったかもしれない。
真鹿人は、その白い湖を見た。
湖は、月を隠したのか。
月が、湖に似たのか。
それとも、真鹿人の内側が、すでに月へ向かっているだけなのか。
分からない。
分からないまま、彼は見た。
やがて霧が動き、湖は隠れた。
見えなくなった。
佐那は小さく息を吐いた。
「消えました」
真鹿人は答えた。
「見えなくなった」
「ないわけではない」
「そうだ」
三人は、また前を向いた。
道はさらに山へ入っていく。
飛騨の山は、まだ遠い。
だが、その方向に月がある。
夜になれば、本当に月を見るだろうか。
真鹿人は考えたが、すぐにやめた。
月を待ちすぎる目は、音を立てる。
蛇は目の音を聞く。
土地も、月も、聞くかもしれない。
彼は足元を見た。
山道には、小さな石がいくつもあった。
その間を、細い水が流れている。
水は湖へ戻るのか、別の谷へ落ちるのか、土へ染みるのか、分からない。
水の道も、一つではない。
神の道も、一つではない。
記録の道も、おそらく一つではない。
真鹿人は、文箱に触れた。
空の木簡は、まだ空のままだった。
それでよい。
今はまだ、月の名を知らない。
そして、知らぬまま向かうことが必要なのだろう。
夕暮れ前、三人は山中の小さな開けた場所で休むことにした。
多加津が火を起こす場所を選び、佐那が飯の支度を始めた。湖の里でもらった魚の残りを少し炙る。塩気があり、山の空気の中では諏訪の匂いがした。
「湖の味ですね」
佐那が言った。
「持ってきたのか」
多加津が言うと、佐那は頷いた。
「腹の中に」
「それなら重くない」
「少し重いです」
「食いすぎだ」
佐那は黙って飯を混ぜた。
真鹿人は、火のそばに座った。
諏訪を離れて初めての火。
山の火である。
だが、諏訪の魚が焼かれている。
出雲から持ってきた重さも、まだ背にある。
因幡の白も、事代主の沈黙も、宇都志の夜も、水緒の湖も、すべてがこの小さな火のそばにいる。
旅は、土地を捨てて進むのではない。
形は置く。
重さを持つ。
第一部の終わりに得た言葉が、ここでもまた戻る。
真鹿人は、今夜初めて木簡を取り出した。
空の木簡ではない。
細い木簡を一本。
彼は、火の明かりで短く書いた。
諏訪を発つ。
湖、霧に隠れ、すべてを見せず。
水緒、月の山への道を告ぐ。
月に名を与えぬ民ありという。
名を聞くな。まず見ろ。書くなと言われれば書くな。されど、書かぬことで見捨てるな。
空白を誇るな。重さを誇るな。
持たず、置かず、見送るものあり。
湖、遠く白く見え、月のごとし。されど、月と断ずるべからず。
飛騨へ向かう。
書き終えて、真鹿人は筆を置いた。
この木簡は、第二部の終わりの杭になるだろう。
空の木簡は、まだ空のまま。
だが、それでよい。
むしろ、今、空であることが必要だった。
夜が降りた。
山の夜は、湖の夜とは違った。
湖の夜は広く、名を隠した。
山の夜は深く、音を吸った。
火の外側はすぐ闇である。木々の影が重なり、空は狭い。雲が薄れ始め、枝の間から、わずかに白い光が見えた。
佐那が火を見ながら言った。
「月ですか」
真鹿人は、すぐに見上げなかった。
まず、自分を見る。
水緒の言葉。
月を見てすぐ書きたくなる者は、月を見ているのではない。月を見ている自分を見ている。
真鹿人は、目を閉じた。
自分は、何を期待しているのか。
月に何かを与えたいのか。
月から答えを得たいのか。
空の木簡の意味を、月に決めてもらいたいのか。
飛騨へ向かう前から、月を物語の終わりにしてしまいたいのか。
そうだ。
彼は、すでに月を待ちすぎている。
真鹿人は深く息を吐いた。
それから、ようやく空を見た。
枝の間に、月があった。
細い月だった。
満ちた月ではない。
欠けた月。
鋭く、しかし弱く、雲の薄い衣をまとっている。
その月には、まだ名がなかった。
いや、大和の記録には名がある。月の神の名も、夜を司る神の名も、いくつか知っている。
だが、今この山の枝の間にある月は、そのどれでもなかった。
真鹿人は、名を呼ばなかった。
佐那も、黙って見ていた。
多加津は、火の向こうで夜を見ていた。月を見ているのか、道を見ているのか分からない。
月は、雲に入った。
すぐに隠れた。
真鹿人は、文箱に手を伸ばさなかった。
今見た月を、書かない。
それは逃げではない。
まだ書かぬ理由を持っている。
見ただけでは足りない。
名を与えぬ民に会う前に、この月を自分の木簡へ閉じてはならない。
火が小さく鳴った。
佐那が、小声で言った。
「綺麗でしたね」
「そうだな」
「それだけですか」
「今は」
佐那は頷いた。
「今は、それでよい気がします」
真鹿人は微笑んだ。
「私もだ」
夜は深くなった。
諏訪の湖は、もう見えない。
水緒の姿もない。
里の煙も、白布も、戻る石も、止め石も見えない。
だが、ないわけではない。
それらは、真鹿人の背にある。
出雲の重さとともに。
因幡の白とともに。
事代主の沈黙とともに。
タケミナカタの傷とともに。
水緒の緒とともに。
そして、その背の奥に、空の木簡がある。
何も書かれていない。
しかし、何もないわけではない。
第二部は、湖から山へ移った。
諏訪は後ろにある。
飛騨は前にある。
月は、まだ名を持たぬまま、雲の向こうに隠れている。
真鹿人は、火のそばで目を閉じた。
明日から、月の山へ入る。
そこではきっと、これまでよりもさらに書けないものに出会うだろう。
それでも、彼は行く。
名を集めるために旅立った記録官は、今、名を与えぬことを学ぶために山へ向かっている。
空の木簡は、まだ空のままだった。
その空白だけが、夜の中で、細い月のように白かった。




