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月を隠した国  作者: 月読 龍
諏訪、逃れた神の湖
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22/32

第二十章 月の山へ

 湖は、朝から白かった。


 霧が濃い。


 岸も、葦も、舟も、里の煙も、すべて白いものの中に沈んでいた。水面は見えない。だが、水音はある。葦の根元を洗う音、遠くで鳥が羽ばたく音、まだ姿を持たぬ湖が、静かに息をしているような音。


 真鹿人は、里の端に立っていた。


 今日、諏訪を発つ。


 水緒は、そう言った。


 飛騨へ向かう道を告げる、とも。


 湖上に出た翌日から、真鹿人の内には、静かなざわめきが残っていた。


 湖を一つの名で閉じぬ。

 名なき声を無きものとしない。

 聞かぬ名を聞き出さない。

 湖は湖として残す。


 その言葉は、まだ熱を持っていた。


 水緒は、熱いまま飛騨へ向かえば月を焼く、と言った。だから真鹿人は、昨日の夜、筆を取らなかった。火のそばで飯を食べ、器を洗い、佐那の話を聞き、多加津が舟の縄を確かめる姿を見た。


 それでも、胸の奥は冷えきっていなかった。


 月。


 その名が、まだ姿を持たずに近づいている。


 真鹿人は、湖の白い霧を見た。


 見えない湖。

 見えない月。

 空の木簡。


 それらが、結ばれそうになる。


 だが、水緒の声がすぐに戻る。


 まだ結ぶな。


 真鹿人は息を吐いた。


 結ぶことは、記録官の癖である。

 断片を拾い、似たものを見つけ、線を引き、名を置く。

 それは必要な技だった。

 しかし、早すぎる結びは流れを止める。


 諏訪で、彼は何度も止められた。


 水を見ろ。

 足元を見ろ。

 石を高くしすぎるな。

 蛇を使いにするな。

 名を聞き出すな。

 湖を一つの名で閉じるな。

 空白を誇るな。


 その一つ一つが、真鹿人の筆に重さを与えている。


 文箱は、旅の始まりより明らかに重くなっていた。


 木簡の数が増えたからだけではない。


 書かなかったものが増えたからだ。


 佐那が、寝所から出てきた。


 髪は少し乱れ、まだ眠そうな顔をしている。それでも手には器を持っていた。朝の水を汲みに行くつもりなのだろう。


「今日は発つのですね」


「そうだ」


 真鹿人が答えると、佐那は霧の方を見た。


「湖が見えません」


「見えないな」


「最後なのに」


「見えないまま別れることもある」


 佐那は少し不満そうにした。


「でも、見ておきたかったです」


 その声は、素直だった。


 真鹿人も同じだった。


 湖を見ておきたい。


 最初に見た時の白い湖。

 夕に山を沈めた湖。

 夜に月を隠した湖。

 湖上で足元を失わせた湖。


 それらをもう一度見たい。


 しかし、今日の湖は霧の中にある。


 別れの時に、すべてを見せてはくれない。


「佐那」


 真鹿人は言った。


「見えない湖を覚えておくのも、悪くないかもしれない」


 佐那は、少し考えた。


「見えなかったことをですか」


「そうだ」


「それは、覚えにくいですね」


「だから、残るのかもしれない」


 佐那は納得したような、していないような顔をした。


「私は、飯の味の方が残りそうです」


「それも諏訪だ」


「そうですね」


 佐那は器を抱え直した。


「水を汲んできます。場所は間違えません」


「頼む」


 佐那は霧の中へ歩いていった。


 その足取りは、来た時よりも少し慎重だった。どこで水を汲み、どこで手を洗い、どの石を避けるのか。彼は身体で覚え始めている。


 佐那は、飯一杯分よりは深く諏訪に入ったのだろう。


 多加津は、舟小屋のそばにいた。


 昨日の舟を見ている。いや、舟そのものではなく、その縄を見ていた。戻るための結び。出るための結び。ほどく結び。残す結び。


 真鹿人が近づくと、多加津は言った。


「霧が深い」


「道は危ういでしょうか」


「水際はな」


「山道は」


「霧が抜けるまで待つ」


「水緒は」


「来る」


 多加津は、短く答えた。


 それから、少し間を置いて言った。


「今日は、急がぬ方がいい」


「はい」


「別れの日に急ぐ者は、忘れ物をする」


 真鹿人は、多加津を見た。


「物のことですか」


「物もだ」


 それだけ言って、多加津はまた縄へ目を戻した。


 物も。


 では、物ではない忘れ物もある。


 言えなかった言葉。

 聞きすぎた言葉。

 置くべき沈黙。

 持つべき重さ。

 返すべき礼。


 真鹿人は、自分が何を忘れかけているのか考えた。


 水緒に、まだ礼を言っていない。


 いや、礼を言えば足りるのか。


 諏訪に対して、湖に対して、水緒に対して、里の者に対して、曲戸に対して、蛇の跡に対して、止め石に対して、戻る石に対して。


 礼を言う対象は多すぎる。


 そして、その多さを一つの礼で済ませれば、それもまた軽い。


 真鹿人は、文箱に触れた。


 何かを残すべきだろうか。


 木簡ではない。

 大和の言葉ではない。

 出雲から持ってきた石もない。

 彼は何を置けるのか。


 その時、水緒が現れた。


 霧の中から歩いてきた。


 白い霧の中で、水緒の姿は湖から立ち上がったもののように見えた。だが、彼女の足元には泥がつき、裾は湿り、手には小さな包みを持っていた。


 湖ではない。

 ただの人でもない。


 水緒は、真鹿人と多加津を見た。


「佐那は」


「水を汲みに」


「場所は」


「覚えたと言っていました」


「なら、少しは諏訪に入った」


 水緒はそう言って、舟小屋の前の石に腰を下ろした。


 多加津が少し目を細めた。


「今日は歩くのか」


「霧が薄れてから」


「飛騨への道を?」


「まず、飛騨へ向かう前の道を」


 水緒は言った。


「月の山は、すぐには来ぬ」


 月の山。


 その言葉を聞いた瞬間、真鹿人の胸が静かに鳴った。


 水緒は包みを開いた。


 中には、薄い白い石が入っていた。


 名なし石よりもさらに薄く、指先で挟めるほどだった。石というより、剥がれた欠片に近い。表面は滑らかで、光を受けると鈍く白く見えた。


 佐那が戻ってきて、それを見た。


「月の石ですか」


 水緒は佐那を見た。


「すぐ名をつけるな」


 佐那は慌てて口を押さえた。


「すみません」


「だが、そう見える」


 水緒は石を掌に置いた。


「これは、山から来た白い石だという者がいる。湖の底から出たという者もいる。月の欠けたものという者もいる。どれも、確かではない」


 真鹿人は石を見た。


 白い石。


 因幡の白。

 蛇の抜け殻の白。

 葦に結んだ白布。

 名なし石の白。

 湖に隠れた月の白。


 また結びそうになる。


 真鹿人は、自分を止めた。


「これは、何のために」


 真鹿人が尋ねると、水緒は答えた。


「持って行くかを問うため」


「私がですか」


「そうだ」


 真鹿人は、すぐには答えなかった。


 持つなら、なぜ持つかを知れ。


 水緒の言葉が先に立つ。


 この白い石を持てば、飛騨への道に月の印を持つことになる。

 だが、それは早すぎるのではないか。

 月をまだ見ていない。

 月に名を与えぬ民にも会っていない。

 この石を持てば、真鹿人は月を白い石として先に掴んでしまうかもしれない。


「持ちません」


 真鹿人は言った。


 水緒は、驚かなかった。


「なぜ」


「月を、まだ見ていません」


「夜に見た」


「湖に隠された月を見ました。けれど、飛騨の月はまだ見ていません」


 真鹿人は慎重に続けた。


「今これを持てば、私は月をこの石で考え始めると思います。それは、早い」


 水緒は白い石を見た。


「では、置くか」


「ここに?」


「湖に置くか。石の上に置くか。水へ沈めるか。持たず、置かず、ただ見るか」


 真鹿人は、白い石を見つめた。


 持たないだけでは足りないのかもしれない。


 持たぬなら、どう持たぬか。

 置くなら、どこへ置くか。

 見たことをどう残すか。


 何もしないこともまた、選びである。


 佐那が小さく言った。


「私は、置かない方がよい気がします」


 水緒が佐那を見た。


「なぜ」


「この石は、まだ真鹿人様のものでも、湖へ返すものでもない気がします」


「では、何だ」


 佐那は困った顔をした。


「水緒が持ってきたものです」


 水緒は、少し黙った。


 多加津が低く言った。


「正しい」


 佐那は驚いた。


「本当ですか」


「今はな」


 真鹿人も、静かに頷いた。


「佐那の言う通りです。これは、まだ私が扱うものではありません」


 水緒は、白い石を再び包みに戻した。


「それでよい」


「試したのですか」


 真鹿人が尋ねると、水緒は言った。


「試しでもあり、別れでもある」


「別れ」


「持つか、置くか、見送るか。発つ者は、いつもそれを問われる」


 水緒は包みをしまった。


「お前は、見送った」


 真鹿人は、白い石の包みを見た。


 見送る。


 持たず、置かず、奪わず、返したふりもせず、ただ見送る。


 それは、今の真鹿人に必要な手つきだった。


 佐那は少し誇らしげだった。


「私、少し分かりました」


「誇るな」


 水緒が言った。


「はい」


 佐那は素直に頷いた。


 水緒は霧の湖を見た。


「今日は、湖が見えぬ」


「はい」


「別れに、すべて見えるとは限らぬ」


 佐那が、真鹿人をちらりと見た。


 同じことを先ほど話していたからだ。


 水緒は続けた。


「見えぬ湖を持って行け」


「水緒も同じことを言うのですね」


 佐那が言うと、水緒は少しだけ首を傾げた。


「誰が言った」


「真鹿人様です」


「なら、少しは水に近づいた」


 真鹿人は、思わず目を伏せた。


「まだ遠いです」


「遠いと思うなら、よい」


 水緒は立ち上がった。


「霧が薄れる前に、話す」


 三人は、舟小屋の近くの石に座った。


 水緒は立ったままだった。


 湖は見えない。

 霧の向こうにある。


 その見えない湖を背にして、水緒は語り始めた。


「飛騨は、山の奥だ」


 彼女の声は、霧に吸われず、静かに届いた。


「水は細くなり、石は硬くなり、道はさらに狭くなる。湖のように広く映す水は少ない。だが、月を見るには、湖より深い闇がある」


 真鹿人は聞いた。


「月に名を与えぬ民がいると聞いた、と言いましたね」


「そうだ」


「どのような民ですか」


「私は会ったことがない」


 水緒は言った。


「聞いたのですか」


「聞いた。道の者から。水を越えた者から。山で戻らなかった者を知る者から」


「曲戸ですか」


 真鹿人が尋ねると、水緒は答えなかった。


 答えぬことで、答えの周りを保っているようだった。


「その者たちは、月を祀らないのですか」


 佐那が尋ねた。


「祀るという者もいる。祀らぬという者もいる」


「名を与えないのに?」


「名を与えねば祀れぬと思うのは、名を持つ者の考えだ」


 佐那は黙った。


 真鹿人も、胸を突かれた。


 名がなければ呼べない。

 名がなければ祈れない。

 そう考えていた。


 だが、聞かぬ名がある。

 名なし石がある。

 名を作らず、名なき声を記す道がある。

 ならば、名を与えずに祀ることもあり得るのかもしれない。


 水緒は言った。


「彼らは、月を見る。隠れる月も、欠ける月も、満ちる月も、山に沈む月も見る。だが、月を一つの名へ入れぬという」


「なぜです」


「名を与えれば、月が近くなりすぎるからだと聞く」


「近く」


「名は呼ぶ。呼べば、こちらへ来る。来れば、器に入る。器に入れば、扱えると思う」


 水緒は霧を見た。


「月は、扱ってはならぬものなのだろう」


 真鹿人は、空の木簡を思った。


 白く、空のままの木簡。


 月に名を与えない。


 それが、この物語の終着にあるのだと、どこかで感じ始めていた。しかし、今はまだ、そこを知らない者として聞かねばならない。


「名を与えぬことで、何を守るのでしょう」


 真鹿人が尋ねると、水緒は答えた。


「それを、私の口から聞くな」


 真鹿人は息を止めた。


「飛騨で聞け、ということですか」


「聞くなと言われるかもしれぬ」


「では」


「見ろ」


 水緒は言った。


「お前は、諏訪で何を学んだ」


 真鹿人は黙った。


 水を扱う順。

 石を高くしすぎぬこと。

 蛇を使いにしないこと。

 名を聞き出さないこと。

 強い名を一語で閉じないこと。

 湖を一つの名で閉じないこと。

 空白を誇らないこと。


 水緒は続けた。


「飛騨で、月の名を聞こうとするな」


「はい」


「なぜ名を与えぬのか、すぐ問うな」


「はい」


「月を見ろ。山を見ろ。月を見ぬ者も見ろ。月が出た時に黙る者を見ろ。月が隠れた時に息を吐く者を見ろ。飯の時間が月で変わるか見ろ。子どもが月を指した時、大人がどう止めるか見ろ」


 真鹿人は、一つ一つ胸に入れた。


「そして、書くなと言われたら」


 水緒は、真鹿人を見た。


「書くな」


 その言葉は、湖上の誓いよりもまっすぐだった。


 真鹿人は、深く頷いた。


「はい」


「だが、書かぬことで見捨てるな」


 水緒は続けた。


「書かぬものを、無かったものにするな。書かぬなら、なぜ書かぬかを持て。誰のために書かぬのかを持て。自分が深いから書かぬのではない。守るために書かぬのか、恐れて書かぬのか、分からず書けぬのか、それを見失うな」


 真鹿人は、頭を下げたまま聞いていた。


 水緒は、最後まで厳しい。


 だが、その厳しさが必要だった。


 書かないことも、逃げになる。

 書かないことも、誇りになる。

 書かないことも、忘却になる。


 だから、書かない理由を持たねばならない。


 空白は、ただの空ではない。


 空けておくという形。


 曲戸の言葉が戻る。


 真鹿人は、静かに答えた。


「持ちます」


「重くなるぞ」


「はい」


「重さを誇るな」


「はい」


 水緒は頷いた。


 霧が少し薄れた。


 湖面の一部が白の中から現れた。岸に近い水だけが、ぼんやりと見える。湖全体はまだ隠れている。だが、水がそこにあることは分かる。


 水緒は、湖へ向き直った。


「諏訪で、お前が持って行くべきものを言う」


 真鹿人は、姿勢を正した。


「はい」


「出雲を諏訪で塗るな」


「はい」


「諏訪を出雲で読むな」


「はい」


「タケミナカタを、逃げた神だけにするな」


「はい」


「逃げていない神にもするな」


「はい」


「湖に受け入れられた、と書くなら、湖の冷たさも書け」


「はい」


「水・蛇・石を、その名の前に置きすぎるな。だが、消すな」


「はい」


「聞かぬ名を書き出すな」


「はい」


「名なし石に名を作るな」


「はい」


「佐那の飯を忘れるな」


 佐那が、驚いて顔を上げた。


「私の飯ですか」


「そうだ」


「それも持って行くものですか」


「腹を通らぬ語りは、頭だけになる」


 佐那は、少し照れたように頷いた。


「分かりました。飯は大事です」


 水緒は多加津を見た。


「多加津の戻る、も忘れるな」


 多加津は顔を動かさなかった。


 だが、指がわずかに動いた。


「戻ると言った者が、どこへ戻るかを勝手に書くな」


 水緒は言った。


 真鹿人は深く頷いた。


「はい」


 多加津の過去を、真鹿人はまだ知らない。

 知らないものを、神話の形に合わせて書いてはならない。

 タケミナカタの逃げる足と、多加津の逃げる足は響く。だが同じではない。


 水緒は最後に言った。


「そして、空の木簡を急ぐな」


 真鹿人は、文箱に手を置いた。


「はい」


「飛騨で、その木簡に書きたくなるだろう」


 真鹿人の胸が鳴った。


「分かるのですか」


「分かるのではない。そういう道だ」


 水緒は言った。


「だが、書きたくなる時ほど、まず月を見るな」


 真鹿人は顔を上げた。


「月を見ないのですか」


「見る前に、自分を見る」


 水緒は静かに答えた。


「月を見てすぐ書きたくなる者は、月を見ているのではない。月を見ている自分を見ている」


 真鹿人は、言葉を失った。


 それは、深く刺さる戒めだった。


 美しいものを見る。

 神秘を感じる。

 そして、それを書きたいと思う。

 その時、人は対象を見ているようで、自分の感動を見ていることがある。


 月に名を与えぬ民の前で、それをしてはならない。


「まず、自分を見る」


 真鹿人は、繰り返した。


「そうだ」


「その後、月を」


「その後でも早いかもしれぬ」


 佐那が小さく言った。


「難しいですね」


「難しい」


 水緒は答えた。


「月は、湖より遠い」


 霧がさらに薄れた。


 湖の一部が見え、葦も見え、舟小屋も見え始める。だが、遠くの山はまだ隠れていた。飛騨へ続く山々も、霧の向こうで姿を持たない。


 その見えない山へ向かう。


 真鹿人は、ようやく本当に諏訪を離れるのだと感じた。


 佐那は朝の飯を用意した。


 里の女が魚を分けてくれた。老人は小さな縄を一本くれた。戻る石のそばにいた男は、舟には乗らない道でも戻ることを忘れるな、と言った。止め石の近くの母親は、佐那に「泥を甘く見るな」と言った。


 それぞれの言葉が、短く、重かった。


 真鹿人は、全てを書かなかった。


 書けば長くなる。

 しかし、書かないから軽いわけでもない。


 彼は、今日受け取ったものを腹と足で持つことにした。


 朝食の後、水緒は三人を湖岸の石場へ連れて行った。


 初めて湖に触れた場所だった。


 今も、石は水際へ続き、湖水が薄くその上を洗っている。霧のせいで、湖はまだ遠くまで見えない。だが、足元の水は確かだった。


「ここで、別れる」


 水緒は言った。


 佐那が、少し寂しそうにした。


「水緒は、ここまでですか」


「私は湖にいる」


「飛騨へは」


「行かぬ」


「道を知らないのですか」


「知る道もある。知らぬ道もある。だが、私の緒はここにある」


 水緒は湖を見た。


「水と人の間に」


 佐那は頷いた。


「そうでした」


 多加津は、水緒へ短く言った。


「世話になった」


 水緒は多加津を見た。


「戻ると言ったな」


「ああ」


「どこへ戻るかは、まだ言わぬのだな」


「言わぬ」


「それでよい」


 多加津は、少しだけ目を伏せた。


「逃げる足は、悪くないと言ったな」


「言った」


「覚えておく」


「覚えすぎるな」


 多加津の口元が、ほんのわずかに動いた。


「難しい女だ」


「水辺では、簡単な者から沈む」


 佐那が小さく笑った。


 しかし、すぐに目を伏せた。


「水緒」


「何だ」


「飯を食べてください」


 水緒は、佐那を見た。


「今も食べた」


「これからもです」


 佐那は真剣だった。


「水を見ている人でも、腹は空くので」


 水緒は、しばらく佐那を見ていた。


 それから、静かに頷いた。


「食べる」


 佐那は、ほっとしたように笑った。


「よかったです」


 真鹿人は、そのやり取りを見ていた。


 佐那は、最後に最も佐那らしい言葉を置いた。


 飯を食べてください。


 それは、神話の言葉ではない。記録の言葉でもない。だが、水緒を湖にしすぎず、人としてだけにもせず、もっとも正しく見ている言葉のように思えた。


 真鹿人は、水緒に向き直った。


「水緒」


 殿はつけなかった。


「礼を言いたいのですが、どう言えばよいのか分かりません」


「分からぬなら、そのままでよい」


「ありがとうございます」


「それは分かるのか」


「はい」


 水緒は少しだけ笑った。


「なら、それでよい」


 真鹿人は、深く頭を下げた。


「私は、諏訪で多くを受け取りました」


「多くと言うと、軽くなる」


「では」


 真鹿人は考えた。


 湖。

 水。

 蛇。

 石。

 逃げたのではないという言葉。

 出雲の神、諏訪の神。

 湖上の誓い。

 月の山への道。


 それらを一つずつ挙げても足りない。


 やがて彼は言った。


「近づき方を、教わりました」


 水緒は、静かに真鹿人を見た。


「まだ、近づき始めただけだ」


「はい」


「それを忘れるな」


「忘れません」


「忘れる」


 水緒はすぐに言った。


「人は忘れる。だから、時々足元を見ろ」


 真鹿人は深く頷いた。


「はい」


 水緒は、湖水に手を浸した。


 そして、その水を少しだけ石の上へ落とした。


「これは、送りではない」


「違うのですか」


「送りと言えば、お前たちは送られる者になる。今日は違う」


「では」


「水を分けるだけだ」


 水緒は言った。


「飲むな。持つな。ただ、見ろ」


 三人は、石の上の水を見た。


 小さな水たまりだった。


 湖から掬われ、石の上に置かれた水。すぐに流れるほどではなく、しかし長く留まるほどでもない。霧の光を受け、白く揺れている。


 その小さな水に、空が映っていた。


 月はない。

 朝だから当然だった。


 だが、真鹿人は、その空の白の奥に、見えない月の気配を感じた。


 書きたくなった。


 しかし、書かなかった。


 水緒が見ている。


 いや、水緒が見ていなくても、書かなかっただろう。


 今は、見送る時だった。


 水は、ゆっくり石の窪みから溢れ、細い筋となって湖へ戻った。


「行け」


 水緒は言った。


 それだけだった。


 三人は荷を背負った。


 佐那は何度も振り返りそうになり、そのたびに自分で前を向いた。多加津は振り返らなかった。真鹿人は、一度だけ振り返った。


 水緒は、石場に立っていた。


 霧の中で、湖と人の間に立つ者。


 湖ではない。

 ただの人でもない。

 水緒。


 そう呼ぶ者がいる。


 真鹿人は、頭を下げた。


 水緒は何も返さなかった。


 しかし、その沈黙は拒絶ではなかった。


 聞いている時間。


 諏訪の沈黙。


 三人は、湖を離れた。


 道は、里の背後から山へ向かった。


 初めは緩やかな坂だった。湿った土が足裏に残り、湖の匂いがまだ衣に染みている。霧は少しずつ薄れ、木々の間から光が差し始めた。


 佐那が、しばらくして言った。


「湖が見えなくなりました」


 真鹿人は振り返らなかった。


「そうか」


「でも、水の匂いはします」


「まだ近いからだ」


 多加津が言った。


「そのうち消える」


 佐那は、少し寂しそうにした。


「消えるのですか」


「匂いはな」


 真鹿人は言った。


「重さは残る」


 佐那は少し考えた。


「出雲の時も、そうでしたね」


「そうだな」


「重さばかり増えますね」


「旅とは、そういうものかもしれない」


「荷が重くなるのは困ります」


 多加津が低く言った。


「要らぬものは置け」


「飯は要ります」


「それは持て」


 佐那は少し元気を取り戻したようだった。


 山道へ入る前、真鹿人は足を止めた。


 道の脇に、平たい石があった。


 座る石かもしれない。

 道標かもしれない。

 ただの石かもしれない。


 真鹿人は、その石に何も置かなかった。


 ただ、手を触れた。


 冷たかった。


 湖岸の石とは違う冷たさだった。山の冷たさ。これから向かう道の冷たさ。


 真鹿人は、心の中でだけ言った。


 諏訪に、そう語る湖あり。

 水、先にあり。

 強き名、来たりて変わることを許される。

 されど、湖はその名のみにならず。

 水、蛇、石、聞かぬ名、飯、戻る足、緒を切らぬ者あり。

 月の山へ向かう。

 断ずるべからず。


 木簡には書かなかった。


 まだ熱があった。

 そして、この言葉は第二部全体を閉じようとしている。

 閉じるには、少し早い。


 道は上り始めた。


 湖の気配は少しずつ後ろへ退いた。


 代わりに、山の気配が濃くなる。木々は高く、風は冷え、石は硬くなる。水音は細くなり、鳥の声は鋭くなった。


 飛騨へ。


 月の山へ。


 真鹿人は、空の木簡の重さを背に感じた。


 それは、諏訪へ入る前よりも重かった。

 だが、何も書かれていない。


 空白は、空白のまま強くなることがある。

 だが、重さを誇るな。


 水緒の言葉が、最後まで背を押すのではなく、背を正していた。


 午後、道は尾根へ出た。


 振り返ると、霧の切れ間から、湖がかすかに見えた。


 遠い。


 ほんの一部だけだった。

 白く光る水面が、山の間にわずかに覗いている。


 佐那が声を上げた。


「見えます」


 多加津も振り返った。


 真鹿人は、しばらくその水を見た。


 諏訪湖。


 そう呼びそうになり、口を閉じた。


 今は、名を呼ぶより見る方がよい。


 湖は遠く、白く、静かだった。


 その水面に、昼の薄い月が映っているように見えた。


 いや、実際に映っていたのかは分からない。空には雲があり、月があるのかどうかも判然としない。ただ、水の白が月のように見えた。


 佐那が言った。


「月みたいですね」


 真鹿人は、佐那を見た。


 佐那は、自分でも驚いたような顔をした。


「すみません。また早かったですか」


「いや」


 真鹿人は湖を見た。


「今は、そのままでよい」


 月みたい。


 それは名ではない。

 比べただけの、身体に近い言葉だった。

 佐那の言葉は、時に危うく、時に真鹿人を助ける。


 水緒なら、何と言っただろう。


 月と同じにするな、と言ったかもしれない。

 だが、見えたなら、見えたことは持て、とも言ったかもしれない。


 真鹿人は、その白い湖を見た。


 湖は、月を隠したのか。

 月が、湖に似たのか。

 それとも、真鹿人の内側が、すでに月へ向かっているだけなのか。


 分からない。


 分からないまま、彼は見た。


 やがて霧が動き、湖は隠れた。


 見えなくなった。


 佐那は小さく息を吐いた。


「消えました」


 真鹿人は答えた。


「見えなくなった」


「ないわけではない」


「そうだ」


 三人は、また前を向いた。


 道はさらに山へ入っていく。


 飛騨の山は、まだ遠い。


 だが、その方向に月がある。


 夜になれば、本当に月を見るだろうか。


 真鹿人は考えたが、すぐにやめた。


 月を待ちすぎる目は、音を立てる。


 蛇は目の音を聞く。

 土地も、月も、聞くかもしれない。


 彼は足元を見た。


 山道には、小さな石がいくつもあった。

 その間を、細い水が流れている。

 水は湖へ戻るのか、別の谷へ落ちるのか、土へ染みるのか、分からない。


 水の道も、一つではない。


 神の道も、一つではない。


 記録の道も、おそらく一つではない。


 真鹿人は、文箱に触れた。


 空の木簡は、まだ空のままだった。


 それでよい。


 今はまだ、月の名を知らない。


 そして、知らぬまま向かうことが必要なのだろう。


 夕暮れ前、三人は山中の小さな開けた場所で休むことにした。


 多加津が火を起こす場所を選び、佐那が飯の支度を始めた。湖の里でもらった魚の残りを少し炙る。塩気があり、山の空気の中では諏訪の匂いがした。


「湖の味ですね」


 佐那が言った。


「持ってきたのか」


 多加津が言うと、佐那は頷いた。


「腹の中に」


「それなら重くない」


「少し重いです」


「食いすぎだ」


 佐那は黙って飯を混ぜた。


 真鹿人は、火のそばに座った。


 諏訪を離れて初めての火。


 山の火である。

 だが、諏訪の魚が焼かれている。

 出雲から持ってきた重さも、まだ背にある。

 因幡の白も、事代主の沈黙も、宇都志の夜も、水緒の湖も、すべてがこの小さな火のそばにいる。


 旅は、土地を捨てて進むのではない。


 形は置く。

 重さを持つ。


 第一部の終わりに得た言葉が、ここでもまた戻る。


 真鹿人は、今夜初めて木簡を取り出した。


 空の木簡ではない。


 細い木簡を一本。


 彼は、火の明かりで短く書いた。


 諏訪を発つ。

 湖、霧に隠れ、すべてを見せず。

 水緒、月の山への道を告ぐ。

 月に名を与えぬ民ありという。

 名を聞くな。まず見ろ。書くなと言われれば書くな。されど、書かぬことで見捨てるな。

 空白を誇るな。重さを誇るな。

 持たず、置かず、見送るものあり。

 湖、遠く白く見え、月のごとし。されど、月と断ずるべからず。

 飛騨へ向かう。


 書き終えて、真鹿人は筆を置いた。


 この木簡は、第二部の終わりの杭になるだろう。


 空の木簡は、まだ空のまま。


 だが、それでよい。


 むしろ、今、空であることが必要だった。


 夜が降りた。


 山の夜は、湖の夜とは違った。


 湖の夜は広く、名を隠した。

 山の夜は深く、音を吸った。


 火の外側はすぐ闇である。木々の影が重なり、空は狭い。雲が薄れ始め、枝の間から、わずかに白い光が見えた。


 佐那が火を見ながら言った。


「月ですか」


 真鹿人は、すぐに見上げなかった。


 まず、自分を見る。


 水緒の言葉。


 月を見てすぐ書きたくなる者は、月を見ているのではない。月を見ている自分を見ている。


 真鹿人は、目を閉じた。


 自分は、何を期待しているのか。


 月に何かを与えたいのか。

 月から答えを得たいのか。

 空の木簡の意味を、月に決めてもらいたいのか。

 飛騨へ向かう前から、月を物語の終わりにしてしまいたいのか。


 そうだ。


 彼は、すでに月を待ちすぎている。


 真鹿人は深く息を吐いた。


 それから、ようやく空を見た。


 枝の間に、月があった。


 細い月だった。


 満ちた月ではない。

 欠けた月。

 鋭く、しかし弱く、雲の薄い衣をまとっている。


 その月には、まだ名がなかった。


 いや、大和の記録には名がある。月の神の名も、夜を司る神の名も、いくつか知っている。


 だが、今この山の枝の間にある月は、そのどれでもなかった。


 真鹿人は、名を呼ばなかった。


 佐那も、黙って見ていた。


 多加津は、火の向こうで夜を見ていた。月を見ているのか、道を見ているのか分からない。


 月は、雲に入った。


 すぐに隠れた。


 真鹿人は、文箱に手を伸ばさなかった。


 今見た月を、書かない。


 それは逃げではない。

 まだ書かぬ理由を持っている。


 見ただけでは足りない。

 名を与えぬ民に会う前に、この月を自分の木簡へ閉じてはならない。


 火が小さく鳴った。


 佐那が、小声で言った。


「綺麗でしたね」


「そうだな」


「それだけですか」


「今は」


 佐那は頷いた。


「今は、それでよい気がします」


 真鹿人は微笑んだ。


「私もだ」


 夜は深くなった。


 諏訪の湖は、もう見えない。

 水緒の姿もない。

 里の煙も、白布も、戻る石も、止め石も見えない。


 だが、ないわけではない。


 それらは、真鹿人の背にある。


 出雲の重さとともに。

 因幡の白とともに。

 事代主の沈黙とともに。

 タケミナカタの傷とともに。

 水緒の緒とともに。


 そして、その背の奥に、空の木簡がある。


 何も書かれていない。


 しかし、何もないわけではない。


 第二部は、湖から山へ移った。


 諏訪は後ろにある。

 飛騨は前にある。

 月は、まだ名を持たぬまま、雲の向こうに隠れている。


 真鹿人は、火のそばで目を閉じた。


 明日から、月の山へ入る。


 そこではきっと、これまでよりもさらに書けないものに出会うだろう。


 それでも、彼は行く。


 名を集めるために旅立った記録官は、今、名を与えぬことを学ぶために山へ向かっている。


 空の木簡は、まだ空のままだった。


 その空白だけが、夜の中で、細い月のように白かった。


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