第十八章 出雲の神、諏訪の神
その朝、湖には風があった。
強い風ではない。
けれど、静かでもなかった。
水面には細かな皺が寄り、空の白は砕け、山の影は揺れていた。葦は一方向に倒れず、時折向きを変えながら鳴った。里の者たちは、いつもより少し早く網を上げ、舟を岸へ寄せ、干していたものを石で押さえた。
湖は、同じ顔を続けない。
真鹿人は、里の端に立ってそれを見ていた。
昨日、彼は石を見た。
火を受ける石。
戻る石。
止め石。
雨聞きの石。
名なし石。
強い名の熱を一晩だけ置いた石。
それらの石を見てから、湖の風を聞くと、土地というものは、思っていたよりも細かく記憶しているのだと感じた。
大和の記録は、名を持つものをよく残す。
神名。地名。人名。氏の名。国の名。
名は、遠くへ運びやすい。
だが、土地は名だけで覚えていない。
どこで火を受けるか。
どこで舟に触れるか。
どこで子を止めるか。
どの石を捨てずに持つか。
どの白布を水へ流さず、葦へ結ぶか。
それらは、木簡の上では小さすぎる。
けれど、小さいからこそ長く残るものがある。
真鹿人は、文箱を開いた。
昨日の木簡をもう一度見る。
名なき声、記すべし。されど、名を作るべからず。
自分で書いた言葉なのに、まだ扱いきれなかった。
記すべし。
だが、名を作るべからず。
それは矛盾に近い。記録官として、名のないものをどう残すのか。名を与えずに、どう遠くへ運ぶのか。空白として残すとは、どういう手つきなのか。
まだ分からない。
しかし、今日聞く話は、その問いにさらに重さを加えるはずだった。
出雲の神、諏訪の神。
ひとつの神が、二つの土地に立つ。
それは、ただ系譜をつなぐだけでは足りない。出雲にいた神が東へ来た。諏訪で祀られた。だから諏訪の神になった。そう書くことはできる。
だが、それでは薄い。
薄すぎる。
水緒は、湖畔の葦の中から現れた。
今日は、手に何も持っていなかった。杖も、縄もない。空の手で歩いてくる。その手が、かえって何かを持っているように見えた。
「今日は、里を出る」
水緒は言った。
佐那は、朝の飯の支度をしていた手を止めた。
「山へですか」
「山ではない」
「湖を渡るのですか」
「渡らぬ」
「では、どこへ」
「湖の向こうを見に行く」
佐那は湖を見た。
「渡らずに?」
「見える場所がある」
多加津が立ち上がった。
「道は」
「少し上がる」
「泥は」
「今日は深くない」
「風は」
「昼には変わる」
多加津は頷いた。
水緒と多加津の会話は、いつも短い。だが、必要なことはほとんど含まれている。水緒は水を見、多加津は道を見る。その間に、旅の安全が置かれる。
佐那は急いで飯をまとめた。
「出かけるなら、食べてからです」
「そうだ」
水緒が言うと、佐那は少し誇らしげにした。
「水緒も、だいぶ分かってきましたね」
多加津が低く言った。
「逆だ」
「何がですか」
「お前が少し水緒に慣れた」
佐那は不満そうだったが、反論はしなかった。
朝食は簡素だった。
湯に戻した飯、焼いた魚の残り、少しの塩。水緒も器を受け取り、黙って食べた。彼女が食べる姿を見ても、真鹿人はもう驚かなくなっていた。湖と人の間に立つ者であっても、腹は空く。
いや、腹が空くからこそ、人の側にも立てるのだろう。
食事を終え、火を消し、水を扱う場所を間違えぬよう器をすすいでから、四人は出発した。
道は湖岸に沿っていた。
里を離れると、葦は高くなり、人の手が入った跡は少なくなった。湖の水は見えたり隠れたりした。風が吹くたび、葦の穂が波のように揺れた。足元には湿った土があり、ところどころに平たい石が置かれている。
水緒は、その石を選んで歩いた。
佐那は何度も足元を確かめた。
「昨日から、石を見る目が変わりました」
「よいことだ」
水緒が言った。
「でも、疲れます」
「よいことだ」
「疲れるのもですか」
「疲れるほど見るなら、蹴りにくい」
佐那は納得したように頷いた。
「それは確かに」
多加津が前方を見ながら言った。
「疲れて足が雑になれば、蹴る」
「気をつけます」
「疲れたら言え」
「はい」
真鹿人は、二人の後ろを歩きながら、湖と葦を見ていた。
ここでは、湖は常に見えるわけではない。
葦に隠され、木々に遮られ、霧に溶ける。けれど、ないわけではない。水音があり、湿った風があり、鳥の声があり、足元の泥がある。
見えないものと、ないものは違う。
何度も戻る言葉。
だが、今日の真鹿人には、それが別の意味を持ち始めていた。
諏訪の神として語られるタケミナカタの背後には、出雲がある。出雲はここからは見えない。山を越え、道を隔て、語りを異にしている。けれど、ないわけではない。
同じように、出雲のタケミナカタを語る時、その背後には諏訪がある。大和で木簡に置かれる時、出雲も諏訪も、見えないものとして名の背後に沈む。
名は、見えないものを運ぶ。
だが、名だけ見れば、その背後は隠れる。
それが、強い名の難しさだった。
しばらく歩くと、道は湖岸から離れ、ゆるやかな丘へ上がった。
丘といっても高くはない。だが、少し上がるだけで、湖の見え方は変わった。葦の壁が低くなり、水面が横へ広がる。遠くの山も見え、湖を囲む土地の形が少しだけ分かった。
水緒は、丘の中腹にある大きな石の前で止まった。
石は平たく、上に立てるほど広かった。表面は風に晒されて乾いている。湖岸の湿った石とは違い、少し温かみがあった。
「ここから見る」
水緒は言った。
三人は石のそばに立った。
湖が見えた。
前に見た湖とは違っていた。
湖岸から見る湖は、近く、大きく、時に恐ろしかった。水面が目の前にあり、泥が足元にあり、波が岸を洗う。水の冷たさも、葦の湿りも、手の届くところにあった。
だが、この丘から見る湖は、形を持っていた。
山に囲まれ、空を受け、幾つもの岸を持つ水。里の煙が一筋立ち、別の場所にも小さな煙が見える。遠くに舟の影があり、さらに向こうには別の岸が霞んでいる。
諏訪は、一つの里ではなかった。
湖の周りに、いくつもの暮らしがある。
水緒が言った。
「見えるか」
「湖が」
佐那が答えた。
「湖だけか」
佐那は目を凝らした。
「煙があります。舟も。向こうにも、人がいるのでしょうか」
「いる」
水緒は言った。
「同じ水を見て、違う暮らしをする者たちだ」
真鹿人は湖を見渡した。
同じ水を見て、違う暮らしをする。
その一言だけで、諏訪という土地が一つに閉じないことが分かる。
水緒は続けた。
「出雲から来た名は、この湖の一箇所にだけ立ったのではない」
「湖全体に?」
真鹿人が尋ねると、水緒は首を振った。
「全体という言葉も早い」
「では」
「水際ごとに、受け方が違った」
真鹿人は黙った。
「ある者は、強い名を恐れた。ある者は、守りとして呼んだ。ある者は、古い蛇の名と重ねた。ある者は、石に置いた。ある者は、舟を出す時に呼んだ。ある者は、呼ばなかった」
「呼ばなかった者も」
「いる」
水緒は湖を見ていた。
「それでも、湖の周りにいた」
真鹿人は、その言葉の意味を考えた。
神を受け入れるとは、すべての者が同じ名を唱えることではない。
呼ぶ者もいる。
恐れる者もいる。
避ける者もいる。
古い名と重ねる者もいる。
あえて呼ばない者もいる。
それらが同じ湖の周りにある。
やがて、それらの揺れを含んだまま、タケミナカタは諏訪の神となっていく。
水緒は、足元の石に手を置いた。
「この石は、見渡しの石と呼ぶ者がいる」
佐那が言った。
「そのままですね」
「そのままの名もある」
「分かりやすくて助かります」
「だが、見渡すためだけの石ではない」
佐那は少し肩を落とした。
「やはり」
水緒は湖を見た。
「昔、ここで言い争いを止めたという」
「言い争い?」
真鹿人が尋ねた。
「どの岸の神か、という争いだ」
真鹿人は息を呑んだ。
「タケミナカタのことですか」
「その名も含む」
水緒は答えた。
「湖の向こうの者は、自分たちの水で呼ぶ。こちらの者は、こちらの石で呼ぶ。山に近い者は、山の道で呼ぶ。葦を刈る者は、葦の風で呼ぶ。舟を出す者は、戻る石で呼ぶ」
「同じ神なのに」
佐那が言った。
「同じ名でも、呼ぶ口が違う」
水緒は静かに答えた。
「それを同じにせよと言えば、争いになる」
真鹿人は、深く理解した。
大和の記録は、同じ名を同じ神として整える。系譜に置き、由来を決め、位置を与える。それは国を形作るには必要な行いである。
だが、土地では、同じ名が違う声で呼ばれる。
それを無理に一つにすれば、声は削られる。
削られた者は、失う。
失った者は、沈黙するか、怒る。
「ここで、どう止めたのですか」
真鹿人が尋ねると、水緒は、湖へ手を向けた。
「見渡させた」
「それだけですか」
「それだけではない。だが、まず見渡させた」
水緒は続けた。
「自分の岸だけを見ていれば、自分の水がすべてになる。少し上がれば、向こうにも煙があると分かる。舟があると分かる。別の水際があると分かる」
真鹿人は、湖を見渡した。
確かに、ここからなら見える。
自分たちの里だけではない。
別の煙。別の舟。別の葦原。別の岸。
同じ湖を囲みながら、違う暮らしがある。
それを見れば、神の名も一つの岸だけでは収まらないと分かるのかもしれない。
だが、それでも争いは消えなかっただろう。
水緒は、まるでその思いを読んだように言った。
「見渡せば、すべて解けるわけではない」
「はい」
「だが、自分の岸しか知らぬまま争うよりはよい」
真鹿人は頷いた。
見渡しの石。
それは、正しい答えを与える石ではない。
視線を少し上げさせる石である。
雨聞きの石が、雨を呼ぶのではなく、待ち方を思い出させる石であったように。見渡しの石は、争いを消すのではなく、自分の岸だけではないと気づかせる石なのだ。
真鹿人は、木簡を取り出した。
水緒は止めなかった。
彼は書いた。
見渡しの石あり。
湖の複数の岸を望む。
昔、どの岸の神かと言い争いし時、ここへ上がり湖を見渡せしと語る者あり。
同じ名も、呼ぶ口により声を異にす。
自らの岸のみ見れば、自らの水がすべてとなる。
見渡すこと、争いを消すにあらず。されど、自らの岸のみを神とするを遅らす。
書き終えて、筆を止めた。
水緒は、最後の一文に目を向けた。
「遅らす、か」
「違いますか」
「いや」
水緒は湖を見た。
「争いも、記録も、閉じることを遅らせる術がいる」
真鹿人は、出雲で聞いた言葉を思い出した。
記録は閉じる。
語りは閉じることを遅らせる。
ここでは、見渡すこともまた、閉じることを遅らせる。
出雲の言葉が、諏訪で別の道具を得たようだった。
水緒は、丘の上から湖を指した。
「その名は、出雲から来た」
真鹿人は聞いた。
「それは消えぬ」
「はい」
「出雲から来た名であることを消せば、その名の傷も、怒りも、運んできた水の記憶も消える」
「はい」
「だが、諏訪の神になった」
水緒の声は、静かだった。
「それも消えぬ」
真鹿人は頷いた。
「諏訪の神になったことを消せば、ここで変わったこと、湖に受け入れられたこと、水・蛇・石と結び直されたことが消えます」
「そうだ」
水緒は、初めてはっきりと肯定した。
真鹿人の胸に、少し熱が生まれた。
しかし、水緒はすぐに言った。
「熱くなるな」
真鹿人は小さく息を整えた。
「はい」
「出雲の神であり、諏訪の神である。そう書くのは易い」
「易い」
「難しいのは、その間を消さぬことだ」
「間」
「山道。逃げる足。来た者として見た湖。古い水。蛇の跡。石に置いた名。呼ぶ岸の違い。呼ばぬ者の沈黙」
水緒は一つずつ置くように言った。
「それらを飛ばして、出雲の神が諏訪の神となった、と書けば、道が消える」
真鹿人は、文箱を押さえた。
道が消える。
第一部の終わりに、タケミナカタの足跡は雨に消えた。だが、水は流れを残す、と書いた。
今、その流れの意味がさらに深くなった。
足跡は消える。
しかし、道の間を消してはならない。
出雲と諏訪を直接つなげば、山が消える。
山が消えれば、逃げる者の足も、佐那の疲労も、多加津の沈黙も、曲戸の道も、水緒の緒も消える。
それは、物語を失うことでもある。
「では、どう書けばよいのでしょう」
真鹿人が尋ねると、水緒は少し黙った。
湖から風が上がってきた。白く砕けた水面が、光を細かく返している。
「すぐ書くな」
水緒は言った。
「今日は歩け」
「歩く」
「出雲から諏訪へ来た名を、頭でつなぐな。岸を歩け。違う呼び方を聞け。同じ名が、違う手で扱われるところを見ろ」
真鹿人は頭を下げた。
「はい」
水緒は、丘を下り始めた。
そこから先は、湖の別の岸へ向かう道だった。
遠くへ行くわけではない。だが、いつもの里から離れ、別の集落の端へ入った。そこは、真鹿人たちが滞在している里よりも少し舟が多く、葦束が高く積まれていた。家の形も少し違う。屋根が低く、入口が湖の方を向いているものが多かった。
人々は、水緒を知っているようだった。
しかし、先の里ほど近くはない。目を伏せる者もいれば、遠くから見るだけの者もいる。子どもたちは隠れずに見ていたが、近寄っては来なかった。
水緒は、ここではあまり話さなかった。
代わりに、年配の男が近づいてきた。
「水緒」
彼はそう呼んだ。
「大和の者を連れているのか」
「見せている」
「何を」
「同じ名の違う岸」
男は、真鹿人を見た。
「名を取りに来たか」
また、その言い方だった。
取る。
集めるではなく、取る。
真鹿人は一礼した。
「名を記す役を持っています。ですが、取ることにもなると、今は思っています」
男は少し眉を上げた。
「では、返すことはできるか」
真鹿人は答えられなかった。
名を取るなら、返すことはできるのか。
記録した名を、土地へ返すとはどういうことか。木簡に書いて大和へ持ち帰れば、その名は大和のものにもなる。そこから再び土地へ返ることがあるのか。
真鹿人は正直に言った。
「分かりません」
男は、水緒を見た。
「分からぬと言う大和の者は珍しい」
「まだ早い」
水緒は答えた。
「早いなら、少し待たせろ」
男はそう言い、真鹿人たちを舟小屋のような場所へ案内した。
そこには、舟の舳先に結ぶ小さな木片や石片が吊るされていた。魔除けか、目印か、重しか、真鹿人には分からない。その中に、一つ、細長い石が緒で吊るされていた。
蛇に似ていた。
佐那が、それに気づいて小声で言った。
「蛇の石ですか」
男は答えた。
「舟戻しの蛇だ」
「蛇なのですか」
「蛇とも言う」
「違うとも?」
「水の筋とも言う」
真鹿人は、その石を見た。
先の里では、蛇は水を知るものだった。石の温みを知り、古い身を脱ぎ、穴に入り、跡を残すもの。ここでは、舟の戻りと結びついている。
「この蛇は、何をするのですか」
真鹿人が尋ねると、男は少し笑った。
「何もしない」
佐那が驚いた。
「しないのですか」
「舟に乗る者が、戻ることを忘れぬようにする」
「戻る石と似ていますね」
佐那が言うと、男は頷いた。
「向こうでは石か」
「はい」
「こちらでは蛇だ」
水緒は黙っていた。
真鹿人は、強く感じた。
同じ願いが、違う形を取っている。
戻ること。
湖へ出た者が、岸へ帰ること。
ある岸では石に触れる。
別の岸では蛇の石を舟に結ぶ。
どちらが正しいのではない。
同じ湖に向かう暮らしの中で、願いが違う形を取る。
もし大和の記録が、どちらか一つを正式な形として残せば、もう一方は誤りになるかもしれない。あるいは、省かれるかもしれない。
だが、省かれたものの中にも、戻りたいという同じ願いがある。
真鹿人は書いた。
こちらの岸にて、舟戻しの蛇あり。
舟に結び、戻ることを忘れぬためという。
向こうの岸に戻る石あり。
同じ願い、岸により石となり、蛇となる。
正しき一形を定むれば、他の岸の声を失うおそれあり。
断ずるべからず。
男は、真鹿人が書くのを黙って見ていた。
「長く書くな」
男は言った。
水緒とは違う響きだった。
真鹿人は顔を上げた。
「なぜですか」
「長く書く者は、だいたい都合のよいところを残す」
男の言葉は少し辛辣だった。
「短く書けばよいのですか」
「短く書く者は、だいたい都合の悪いところを削る」
佐那が困った顔をした。
「では、どうすれば」
「知らぬ」
男はあっさり言った。
「だから、大和の者は困れ」
水緒が少しだけ口元を緩めた。
真鹿人は深く頭を下げた。
「困ります」
「ならよい」
男はそう言って、舟小屋の奥から小さな干し魚を持ってきた。
「食え」
佐那の顔が明るくなった。
「よろしいのですか」
「腹が空いていそうな顔をしている」
「それは……はい」
男は笑った。
「腹の空いた者は、嘘をつく前に食う」
佐那は真面目に頭を下げ、干し魚を受け取った。
真鹿人も分けてもらった。
塩気が強かった。
湖の魚だろう。噛むほどに水の匂いと煙の匂いがした。
食べながら、真鹿人は思った。
同じ湖の魚でも、岸が違えば干し方も味も違うのかもしれない。
神の名も同じなのだ。
同じ名でも、塩の強さが違う。煙の匂いが違う。食べる者の腹への入り方が違う。
それを一つの味に整えれば、運びやすい。
だが、土地の味は消える。
昼過ぎ、四人はさらに別の小さな水際を見た。
そこには社らしいものはなかった。ただ、二本の木の間に緒が張られ、そこに小さな石や貝殻、鳥の羽が結ばれていた。真鹿人には、それが祭りの跡なのか、願掛けなのか、境なのか分からなかった。
水緒は言った。
「ここでは、その名をあまり呼ばぬ」
「タケミナカタを、ですか」
水緒は頷いた。
「なぜです」
「ここには、先に呼ぶ名がある」
「どの名ですか」
水緒は答えなかった。
代わりに、その緒に結ばれた白い小石を見た。
「名を聞くな」
「聞いてはならない名ですか」
「聞かぬことで保たれる名もある」
真鹿人は、息を止めた。
聞かぬことで保たれる名。
それは、名なし石の先にあるものだった。
名がないのではない。
だが、外の者が聞かぬことで保たれる。
聞き出して記録すれば、壊れる。
「では、私はここに何を書けばよいのでしょう」
水緒は言った。
「聞かぬ名あり、と書けばよい」
「それだけで」
「それ以上書けば、聞いたことになる」
真鹿人は、胸の内で震えた。
聞かぬ名あり。
それは空白に近い記録である。
名を記さず、名があることだけを記す。
その名を奪わず、しかし存在を消さない。
真鹿人は木簡を取り出し、慎重に書いた。
この水際に、聞かぬ名あり。
外より来たる者、問うべからず。
聞かぬことにより保たるる名もあり。
記すは、名にあらず。問わざりしことなり。
書き終えた時、真鹿人は強い感覚を覚えた。
これは、空の木簡に近い。
だが、まだ空の木簡ではない。
空白へ至るための練習のような記録だった。
水緒は、その木簡を見て言った。
「それは持って行け」
「はい」
「だが、人に見せる時を誤るな」
真鹿人は顔を上げた。
「見せてはいけませんか」
「見せれば、知りたがる者がいる」
「はい」
「知りたがる者は、守るために知りたいと言うこともある」
水緒の声は静かだった。
「だが、知ることが壊すこともある」
真鹿人は頷いた。
記録の危うさが、また一つ形を持った。
隠された名を、守るために知ろうとする。
しかし、その知る行為が、隠された名のあり方を壊す。
大和は、おそらく知りたがる。
名を集め、系譜に置き、国の形を整えるために。
真鹿人自身もまた、知りたがる。
だが、知らぬまま残すことも必要なのだ。
夕方に近づく頃、四人は最初の丘へ戻った。
見渡しの石の上に立つと、湖は昼とは違う色になっていた。風は少し弱まり、水面の皺は細かくなっている。いくつもの岸の煙が、夕方の光に薄く溶けていた。
水緒は、丘の石に座った。
珍しいことだった。
彼女が石に座る姿を見て、佐那も少し離れた石に腰を下ろした。多加津は立ったままだった。真鹿人も立っていたが、水緒に目で促され、石の端に座った。
石は温かかった。
昼の陽を受けていたのだろう。湖岸の冷たい石とは違い、じんわりと身体へ熱を返した。
「出雲の神であり、諏訪の神である」
水緒は、湖を見ながら言った。
「そのことを、今日見たか」
真鹿人は、ゆっくり頷いた。
「少し」
「どう見た」
真鹿人は言葉を探した。
「同じ名が、同じまま湖の周りに広がったのではない、と見ました」
水緒は黙っていた。
「岸ごとに、呼び方が違う。戻る願いが石になる岸もあれば、蛇になる岸もある。呼ぶ者もいれば、呼ばない者もいる。聞かぬことで保たれる名もある。それらの違いを含んで、ひとつの強い名が諏訪に立つ」
真鹿人は、湖を見た。
「だから、タケミナカタは出雲から来た神であると同時に、諏訪で呼び直された神なのだと思います」
「呼び直された」
水緒が繰り返した。
「はい」
「呼び直しは、名を変えることか」
「それだけではないと思います」
真鹿人は答えた。
「同じ名でも、呼ぶ口が変われば、名の中身が変わる。水のそばで呼ばれ、石の前で呼ばれ、蛇の跡とともに呼ばれ、舟の戻りとともに呼ばれ、時に呼ばれないことで、出雲から来た名は諏訪の水を含むようになった」
水緒は、湖を見ていた。
「続けろ」
真鹿人は少し息を整えた。
「しかし、諏訪の神になったからといって、出雲が消えるわけではない。出雲の傷、怒り、敗れた足、運んできたものは、その名の底に残る。諏訪の水はそれを消さず、映し、冷やし、待った」
風が、丘を越えた。
「だから、二つの土地が、一つの名の中で重なる。けれど同じにはならない。出雲の神であり、諏訪の神であるとは、二つを混ぜることではなく、その間に緒を張り続けることだと思います」
水緒は、長く黙っていた。
佐那も、多加津も、何も言わなかった。
やがて水緒は言った。
「近い」
佐那が、小さく笑った。
「今日は、かなり近いのでは」
「近い」
水緒は、もう一度言った。
それは、これまでより少しだけ深い肯定に聞こえた。
真鹿人は、頭を下げた。
「書いてよいでしょうか」
「書け」
水緒は言った。
「ただし、短くも長くもするな」
佐那が困った顔をした。
「それは、どうすればいいんですか」
「必要なだけ書く」
水緒は答えた。
真鹿人は木簡を取り出した。
筆を濡らす。
湖を見渡しながら、彼は書いた。
タケミナカタ、出雲より来たる名なり。
そのこと、消すべからず。
敗れし足、怒り、傷、運び来たりし水の記憶、その名の底に残る。
されど、諏訪にて呼び直されたる名なり。
湖の水、蛇の跡、石の沈黙、舟の戻り、岸ごとの声、呼ばぬ者の沈黙、その名に入りぬ。
同じ名も、呼ぶ口により声を異にす。
諏訪の神となるとは、出雲を失うことにあらず。
出雲の神であるとは、諏訪を従えることにあらず。
二つの土地、ひとつの名に重なり、されど同じにならず。
その間に緒あり。
断ずるべからず。
書き終えた時、真鹿人は、筆を持つ手をしばらく動かせなかった。
この木簡は重い。
しかし、空の木簡ではない。
やはり、まだ違う。
この言葉は必要だった。持って帰るべきものだった。だが、空白そのものではない。むしろ、空白へ至るために、今はまだ名と言葉を尽くしている。
水緒は、木簡を見なかった。
見ずに言った。
「それは、持て」
「はい」
「だが、持ち上げるな」
「持ち上げる」
「この言葉を高く置きすぎるな。高く置けば、また人が座れぬ石になる」
真鹿人は頷いた。
「分かりました」
「分かるのは早い」
「……覚えておきます」
「覚えるのも早い」
佐那が耐えきれずに少し笑った。
水緒も、わずかに口元を緩めた。
多加津は、湖の向こうを見ていた。
夕暮れが近づいていた。
湖は、いくつもの岸を静かに抱いている。
出雲から来た名も、諏訪で呼び直された名も、その水の前では一度揺れる。
そして揺れたまま、残る。
帰り道、真鹿人は、何度も後ろを振り返りそうになった。
見渡しの石は、すぐに葦と丘の陰に隠れた。そこから見えた湖の広さも、歩くにつれて失われた。再び湖岸の低い道へ戻ると、見えるのは目の前の水と泥と葦だけになる。
だが、先ほど見渡したものは消えていない。
見えないものと、ないものは違う。
そして、見えたことがあるものと、今見えているものも違う。
真鹿人は、その二つの違いを胸に入れた。
佐那は、干し魚を大事そうに少しずつ食べながら歩いていた。
「同じ湖でも、岸が違うと味も違うんでしょうか」
「おそらく」
真鹿人は答えた。
「食べ比べたいですね」
「佐那」
「でも、大事なことです。腹を通すのですから」
水緒が前を歩きながら言った。
「それは、間違っていない」
佐那は嬉しそうにした。
多加津が低く言った。
「食いすぎるな」
「そこは分かっています」
「分かっていない」
そのやり取りを聞きながら、真鹿人は少し笑った。
神の名を聞いた日にも、飯の話がある。
それでよいのだと思った。
神の名は、飯を食べる者の口で呼ばれる。
水を汲む者の手で扱われる。
舟を戻す者の願いの中に置かれる。
子を止める声とともに残る。
神は高いところだけにいるのではない。
暮らしの中で呼び直されることで、土地の神になる。
里へ戻る頃、湖は夕の色になっていた。
昨日よりも風があるせいか、水面は赤く染まりきらず、ところどころ白く砕けていた。葦に結ばれた白布は、まだ揺れている。昨日の強い名の熱は、少し冷えただろうか。
水緒は、その白布を見て言った。
「明日は、湖の上へ出る」
佐那は目を丸くした。
「舟に乗るのですか」
「少しだけ」
「少しなら、沈みませんか」
「少しでも沈む時は沈む」
佐那の顔が引きつった。
多加津は湖を見た。
「風次第だな」
「明朝なら出られる」
水緒は答えた。
真鹿人は、湖を見た。
次は、湖上の誓い。
水の上に出る。
岸から見る湖、丘から見渡す湖、夜に名を隠す湖。
その次に、湖の上で何を見るのか。
水緒は言った。
「岸からでは、まだ神を岸に置く」
「湖上では」
「水の上では、足元がない」
その言葉に、真鹿人は背筋を伸ばした。
足元を見る。
山でも、里でも、湖畔でも、何度も言われた言葉。
しかし、湖上では足元がない。
では、何を見るのか。
水緒は、それ以上言わなかった。
夜、真鹿人は文箱を開いた。
今日の木簡を一枚ずつ確かめる。
見渡しの石。
舟戻しの蛇。
聞かぬ名。
出雲の神、諏訪の神。
どれも重い。
しかし、空の木簡はまだ空だった。
その空白は、以前よりさらに重くなっている。
だが、水緒の言葉を思い出す。
空白を持つ者は、自分が深いと思い始めることがある。それもまた名だ。
真鹿人は、空の木簡を撫でなかった。
ただ、見た。
この空白は、何かを書くためだけの空白ではない。
書かないことを誇るためのものでもない。
おそらく、最後に何かを閉じないための場なのだ。
まだ、そこへは至らない。
湖の水音が、夜の中で続いている。
出雲の神。
諏訪の神。
同じ名に重なる二つの土地。
しかし、その名の外にも、聞かぬ名がある。名なし石がある。止め石の声がある。蛇の跡がある。
強い名を理解し始めたからこそ、強い名の外を見失ってはならない。
真鹿人は、文箱を閉じた。
明日は湖上へ出る。
水の上では、足元がない。
その場所で、神とは一つの名に閉じ込められないものだと、真鹿人はさらに深く知ることになるのだろう。
夜の湖は、また名を隠していた。




