第十七章 石に宿る名
強い名を聞いた翌朝、真鹿人は、しばらく筆を取らなかった。
文箱は傍らにあった。
木簡も、筆も、墨もある。
書くべきこともある。
だが、手が動かなかった。
タケミナカタ。
その名は、一度聞けば、他の声を押しのけて前へ出る。出雲から運ばれ、山を越え、湖の前に立った強い名。敗れたことを消さず、逃げた一語に閉じず、湖に変わることを許され、また求められた名。
真鹿人は、昨日そのことを書いた。
長く書いた。
短くすれば軽くなると思ったからだ。
だが、長く書いてもなお、その名の周りには、書かれないものが残っていた。
湖畔の里は、朝から動いている。
水を汲む女。
網を直す男。
火を起こす子ども。
舟の底を叩く老人。
葦を束ねる手。
蛇の跡を避ける足。
それらは、タケミナカタという名を知らぬわけではないのだろう。だが、朝の里はその名だけで動いていなかった。水の順があり、石の置き方があり、火の大きさがあり、泥を避ける知恵がある。
強い名が来ても、暮らしは消えない。
むしろ、強い名は、その暮らしの上に立たねばならなかった。
真鹿人は、木の根元に座り、湖を見ていた。
朝の水は薄い灰色だった。山はまだ霧の向こうにあり、水鳥が幾羽か、岸から少し離れたところに浮いている。昨日、白布を置いた石は、遠くからでもかすかに見えた。布は濡れて重くなり、風に揺れなくなっていた。
名は、まだ石の上でよい。
水緒はそう言った。
名を水へ流さず、石の上に置く。
その意味を、真鹿人は考えていた。
水に流せば、広がる。
広がれば、形は薄くなる。
石に置けば、留まる。
だが、石は水ほど優しくない。石の上に置かれた名は、風にも雨にも晒される。乾き、濡れ、冷え、時に鳥の影を受ける。
石に置くとは、固めることではない。
晒しておくことなのかもしれない。
水緒が、背後から来た。
足音は小さかったが、真鹿人には分かった。水緒が近づくと、里の音が少しだけ変わる。人が黙るのではない。むしろ、人々はそのまま動いている。ただ、言葉が少し低くなる。水際に立つ時のように、無意識に声の深さを変える。
「書かぬのか」
水緒が言った。
「今日は、まだ」
「昨日は書きすぎた」
「はい」
「それでよい」
真鹿人は、水緒を見た。
「書きすぎても、よいのですか」
「熱い筆で焼くなとは言った。だが、熱を持たぬ筆では、傷は書けぬ」
水緒は湖を見た。
「昨日の名は、冷えた筆だけでは書けない」
「では、今日は」
「今日は、冷えた筆がいる」
真鹿人は、その言葉の意味を考えた。
昨日は強い名だった。敗れ、怒り、湖に映され、変わることを求められた名。熱を完全に失えば、その傷は書けない。
だが今日は、石に宿る名。
小さく、弱く、長く、時には名と呼ぶことすらためらうものたち。
熱い筆では焼いてしまう。
水緒は言った。
「今日は、石を見る」
佐那は、水を汲んで戻ってきたところだった。
「また山へ行くのですか」
「遠くはない」
「石というのは、昨日の白布の石ですか」
「それもある」
「他にも?」
「里には、石が多い」
多加津が低く言った。
「石の少ない土地など、少ない」
水緒は頷いた。
「だが、どの石を見るかで、土地は変わる」
佐那は、自分の足元を見た。
「では、踏んでいる石もですか」
「そうだ」
「今、踏んでいます」
「今は踏んでよい石だ」
「それは助かります」
佐那は、少し安心したように足を置き直した。
四人は里の奥へ向かった。
昨日歩いた道とは違う。湖から少し離れ、家々の裏を通る道だった。そこには、暮らしの石があった。竈のそばの石、舟を支える石、網を干す柱の根元を押さえる石、水瓶の台にされた石、子どもが座っている石。
どれも、神の石には見えなかった。
だが、水緒は一つ一つの前で歩みを緩めた。
「この石は、何ですか」
真鹿人が尋ねると、水緒は、竈のそばの黒い石を示した。
「火を受ける石」
「それだけですか」
「それだけである時もある」
「今は」
「この家では、死者を送る時にも火を受ける」
真鹿人は、石を見直した。
黒く煤けている。角は丸くなり、上面には細かなひびが入っていた。普段は竈の石として使われるのだろう。飯を炊き、魚を焼き、湯を沸かす。その同じ石が、死者を送る火も受ける。
日々の火と、死者の火。
それらは分けられていない。
「死者のためだけの石ではないのですね」
「死者のためだけにすれば、死が遠くなる」
水緒は言った。
「遠くしてはいけないのですか」
「遠すぎれば、帰る道を失う」
真鹿人は黙った。
死者が帰る道。
出雲では、死者の場を定めることも国造りの一部だった。大国主は、火の場、水の場、死者の場を定めた神として語られた。ここ諏訪では、死者は暮らしの火のそばにいるのかもしれない。
しかし、すぐに出雲へ重ねてはならない。
真鹿人は慎重に木簡を取り出した。
火を受ける石あり。
飯の火を受け、死者の火をも受く。
死者を遠くしすぎぬため、と語る者あり。
断ずるべからず。
水緒は、それを見て何も言わなかった。
次に向かったのは、舟のそばだった。
湖岸に引き上げられた浅い舟の下に、平たい石がいくつも置かれている。舟底が直接泥に触れぬようにしているのだろう。多加津が昨日見ていた場所だった。
水緒は、その中の一つを指した。
「この石は、戻る石と呼ぶ者がいる」
「戻る石」
佐那が繰り返した。
「舟を出す前に触る者がいる。戻れるように」
「神の石ですか」
真鹿人が尋ねる前に、佐那が言った。
水緒は佐那を見た。
「そう呼ぶ者もいる」
佐那は、もう続きが分かっているように頷いた。
「でも、舟を支える石でもある」
「そうだ」
多加津が、その石を見た。
「戻れる舟がいる」
昨日、水緒が言った言葉だった。
ここでは、遠くへ行く舟より、戻れる舟がいる。
多加津は、石に触れなかった。
だが、目は長くその石に留まっていた。
真鹿人は、彼の横顔を見た。
戻る石。
多加津にとって、その名はどう響いたのだろう。
逃げた者は、戻れぬ場所を持つ。戻りたい場所を持つこともある。戻ってはならぬ場所を持つこともある。名を変えなければ持って行けないものがあったという多加津には、戻るという言葉は軽くないはずだった。
しかし、真鹿人は問わなかった。
石に宿る名を聞く日だからこそ、人の内に宿る名を無理に掘り出してはならない。
水緒は、真鹿人を見た。
「書くか」
「書きます」
彼は木簡に書いた。
舟を支うる石あり。
戻る石と呼ぶ者あり。
舟を出す前に触れ、戻ることを願う。
遠くへ行くためのみの石にあらず。戻るための石なり。
されど、舟底を支うる石でもあり。
名に高めすぎるべからず。
書きながら、真鹿人は思った。
名を高めすぎるな。
この一文は、何度でも必要になる。
神にすることで、触れなくなるものがある。
ただの道具にすることで、聞こえなくなるものがある。
その間を保つことが、今の真鹿人の役目だった。
次に水緒が案内したのは、里の端にある細い道だった。
湖へ向かう道ではない。背後の丘へ向かう道でもない。家々の間を抜け、葦原の脇を通り、やがて小さな湿地へ出る道である。そこには、子どもが近づかぬようにしているのか、低い縄が張られていた。
縄のそばに、丸い石が一つ置かれていた。
水緒は、その前で立ち止まった。
「これは、止め石」
「入ってはいけない場所を示す石ですか」
真鹿人が尋ねると、水緒は頷いた。
「泥が深い」
佐那は、すぐに後ずさった。
「それは分かりやすいです」
「昔、ここで子が沈んだという」
佐那の顔から笑みが消えた。
真鹿人も、石を見た。
丸い石だった。特別な形ではない。苔も少ない。昨日置かれたと言われても信じられるほど、普通の石だった。
しかし、その普通の石が、子どもの死と結びついている。
「その子の名は残っているのですか」
真鹿人が尋ねると、水緒は少し黙った。
「残っていない」
「では、この石に」
「子の名は宿っていない」
水緒は静かに言った。
「宿っているのは、近づくなという声だ」
真鹿人は、はっとした。
石に宿る名。
そう題された章で、真鹿人は石に誰かの名が宿るのだと思っていた。死者の名。土地神の名。失われた小さな神の名。
だが、水緒は言った。
宿っているのは、近づくなという声。
名ではなく、声。
いや、その声がやがて名のように扱われるのかもしれない。
佐那は、止め石を見つめていた。
「その子の名前が残っていないのは、寂しいですね」
「そうだな」
水緒は言った。
「だが、名が残らなくても、次の子が止まれば、その子は少し残る」
佐那は、何も言えなくなった。
真鹿人も同じだった。
名が残ることだけが、残ることではない。
次の子が止まる。
泥に入らない。
石を見る。
縄の手前で足を止める。
その動きの中に、名のない子が残る。
それは記録とは別の残り方である。
真鹿人は、木簡を手にしたまま、しばらく書けなかった。
水緒は急かさない。
湿地から、かすかな水音がした。鳥の足音かもしれない。泥がゆっくり沈む音かもしれない。
やがて、真鹿人は書いた。
止め石あり。
泥深き地の前に置かる。
昔、子が沈みしと語る者あり。
その子の名は残らず。
されど、次の子が石の前に止まれば、その子は少し残る。
石に宿るは名のみにあらず。止まれという声もまた宿る。
書き終えた後、真鹿人は筆を止めたまま、最後に一文を加えた。
名なき声、記すべし。されど、名を作るべからず。
水緒が初めて、木簡を少し覗いた。
「それは重い」
真鹿人は顔を上げた。
「書きすぎでしょうか」
「いや」
水緒は止め石を見た。
「それは、持って行け」
真鹿人は、静かに頭を下げた。
名なき声、記すべし。されど、名を作るべからず。
この言葉は、今後の真鹿人に必要になる。
記録官として、名のないものを無視してはならない。
しかし、名がないからといって勝手に名を作れば、それは支配になる。
空白のまま記す方法。
彼は、そこへ少し近づいているのかもしれない。
昼近く、四人は里の中央へ戻った。
佐那はいつもより静かだった。止め石の話が残っているのだろう。彼は子どもたちが走るたびに、足元を見ていた。誰かが泥の方へ行かないか、気にしているようだった。
多加津は、戻る石のそばで一度だけ立ち止まった。
触れはしなかった。
ただ、視線を置いた。
水緒は何も言わなかった。
里の中央にある平たい石の前で、老人が縄を編んでいた。昨日も同じ場所にいた老人である。白い髪を後ろで束ね、膝の上で細い縄を撚っている。真鹿人たちが近づくと、老人は手を止めずに言った。
「今日は石か」
「そうだ」
水緒が答えた。
「大和の者に石を見せて、どうする」
「石を神にしすぎぬようにする」
老人は、しわの深い顔で笑った。
「難しいことをさせる」
「難しいと思う者は、蹴らぬ」
「それはよい」
老人は、真鹿人を見た。
「石の名を聞きたいか」
「はい」
真鹿人は正直に答えた。
「ですが、名だけでは足りないとも思っています」
「なら、少しは聞ける」
老人は、脇に置いてあった小さな石を一つ取り上げた。
黒く、平たい石だった。手のひらに収まるほどの大きさである。表面は滑らかで、中央に浅い窪みがあった。
「これは、雨聞きの石だ」
「雨を聞くのですか」
佐那が尋ねた。
「雨が来る前に、湿ることがある」
「本当ですか」
「本当の時もある」
老人は言った。
「外れる時もある」
佐那は少し笑った。
「それでは困りませんか」
「石にすべて任せる者が困る」
「なるほど」
老人は、石の窪みに指を置いた。
「昔、雨を待つ時、この石を外に置いた。湿れば、雨が近いと言った。湿らなくても、誰かが空を見る。風を見る。鳥を見る。結局、人が見る」
真鹿人は頷いた。
「石は、人に見ることを思い出させるのですね」
老人は、手を止めた。
そして水緒を見た。
「この者、少しは見ている」
「少しは」
水緒が答えた。
佐那が小さく笑った。
真鹿人は、少し恥ずかしくなったが、悪い気はしなかった。
老人は言った。
「雨聞きの石は、雨を呼ぶ石ではない」
「雨を知らせる石ですか」
「知らせるというより、待たせる石だ」
「待たせる」
「雨を急がせることはできぬ。だが、待ち方を誤れば、種を失う。網を失う。火を失う」
老人は石を地面に置いた。
「待つために、石がいることもある」
真鹿人は、その言葉を書いた。
雨聞きの石あり。
雨を呼ぶにあらず。知らせるにさえ、常にあらず。
人に空を見させ、風を見させ、待ち方を思い出させる石なり。
待つために石がいることあり。
書きながら、真鹿人は事代主の沈黙を思い出した。
沈黙は聞いている時間。
ここでは、石は待っている時間を支える。
沈黙と待つことは似ている。
だが、同じではない。
出雲の沈黙。
諏訪の待つ石。
響き合うが、同じにしてはならない。
老人は、もう一つ石を取り上げた。
今度は白い石だった。
丸く、小さい。子どもの拳ほどの大きさで、表面に細い線が入っている。
「これは、名なし石だ」
真鹿人は、筆を止めた。
「名なし、という名があるのですか」
老人は笑った。
「そういうことになるな」
水緒は黙っている。
「なぜ、名なし石と」
「誰も由来を知らぬ。だが、捨てる者もない」
「何かの神ですか」
「かもしれぬ」
「違うかもしれない」
「そうだ」
老人は、石を真鹿人の前に置いた。
「昔からここにある。家を移す時にも持って行く。何のためかは知らぬ。だが、ないと落ち着かぬ」
佐那が言った。
「それは、少し分かります」
「分かるか」
「はい。何に使うか分からないけれど、捨てられないものがあります」
「例えば」
「紐とか、火打ち石の欠片とか、昔もらった小さなものとか」
多加津が低く言った。
「荷が増える理由だ」
「大事なものです」
「役に立たぬ」
「役に立たないから大事なものもあります」
その言葉に、老人が笑った。
「この若いのは、腹だけでなく、少し石も分かる」
佐那は褒められたのか分からず、曖昧な顔をした。
真鹿人は、名なし石を見ていた。
名なし石。
由来は分からない。
神かどうかも分からない。
役に立つかも分からない。
だが、捨てられない。
それは、記録から最もこぼれやすいものだった。
役割がある石は書ける。
祭られる石も書ける。
死者を送る石、戻る石、止め石、雨聞きの石。
しかし、名なし石は難しい。
何も分からない、としか書けない。
だが、それこそ書くべきなのかもしれない。
真鹿人は、木簡に書いた。
名なし石あり。
由来を知る者なし。
神か否かも定かならず。
されど、捨てる者なし。家を移す時にも持ち行くという。
役に立たぬがゆえに大事なるものあり。
名なきまま残るもの、名を与えて閉ずべからず。
書き終えた時、真鹿人は、空の木簡のことを思った。
名なきまま残るもの。
この旅の果てに待つ月も、そうなのではないか。
まだ彼は知らない。
飛騨の山も、月に名を与えぬ民も、まだ遠い。
だが、名なし石は、明らかにその先へ細い緒を伸ばしていた。
水緒が、老人から白い石を受け取った。
そして、真鹿人へ差し出した。
「持つか」
真鹿人は、すぐには受け取らなかった。
「持ってよいのですか」
「持つなら、なぜ持つかを知れ」
昨日、水緒が子どもに言った言葉だった。
真鹿人は、白い石を見た。
持てば、大和へ持って帰れる。
名なし石として、証になる。
だが、持った瞬間、この石は里の石ではなく、真鹿人の持つ石になる。
大和の記録のための石になる。
それは変えることだ。
真鹿人は、ゆっくり首を振った。
「持ちません」
「なぜ」
「この石は、由来が分からず、捨てられず、ここにあることで名なし石なのだと思います。私が持てば、私が持ち帰った石になります」
水緒は、何も言わなかった。
老人は、少し目を細めた。
「では、何を持つ」
真鹿人は答えた。
「持たなかったことを持ちます」
佐那が、小さく息を呑んだ。
水緒は、白い石を老人に返した。
「それでよい」
老人は石を元の場所へ置いた。
「大和の者が、石を持たずに帰るか」
老人は笑った。
「珍しいこともある」
真鹿人は頭を下げた。
「持たなかったことを、正しく持てるかは分かりません」
「分からぬなら、まだよい」
水緒が言った。
老人も頷いた。
昼を過ぎると、里には少し風が出てきた。
湖面に細かな波が立ち、舟が軋んだ。子どもたちは家の近くへ戻され、女たちは干していた網を少し移した。石の上に置かれていた小さなものが、風に飛ばされぬように押さえられる。
石は、風の日にも働く。
真鹿人は、それもまた思った。
水緒は、最後に湖岸の白布の石へ三人を連れて行った。
昨日、強い名を語る場で、縄を解いて白布を置いた石である。三つの白布は、夜露と朝の霧で濡れ、石に貼りついていた。
水緒は、その前で立ち止まった。
「昨日の名は、まだここにある」
「タケミナカタの名ですか」
真鹿人は慎重に言った。
水緒は頷いた。
「水へ流してはいない」
「いつか流すのですか」
「流すとは限らぬ」
「では、どうするのです」
「乾けば、また結ぶこともある。燃すこともある。土へ埋めることもある。何もしないこともある」
佐那が言った。
「決まっていないのですか」
「名の後始末は、その時の水による」
水緒は言った。
「強い名は、聞いた後にも扱いがいる」
真鹿人は、濡れた白布を見た。
名は語って終わりではない。
語られた名は、聞いた者の中に残る。場にも残る。石にも、布にも、水にも、人の顔にも残る。その扱いを誤れば、名はまた周囲を傷つけるのだろう。
記録も同じだ。
書いた後にも扱いがいる。
持ち帰った後にも扱いがいる。
誰に見せるか。
どの順で置くか。
どこを空けるか。
何を断じないか。
真鹿人は、自分の役目の重さを改めて感じた。
「この石は、名を宿しているのですか」
真鹿人が尋ねた。
水緒は答えた。
「一晩だけな」
「一晩だけ」
「ずっと宿せば、石がその名に取られる」
「石が」
「石には、石の名がある。あるいは、名がないままの石である時間がある」
水緒は白布に触れた。
「強い名を長く置きすぎれば、その石は強い名の石になる。そうなれば、他の声が寄れなくなる」
真鹿人は頷いた。
強い名は、石さえ取る。
だから、一晩だけ置く。
水へ流さず、しかし永く留めもしない。
「では、今日、これをどうするのですか」
水緒は、三つの白布を一つずつ剥がした。
濡れた布は、石から離れる時にかすかな音を立てた。水緒はそれらを水へ投げなかった。火へも入れなかった。手の中で軽く絞り、湖岸の葦に結んだ。
「葦に」
佐那が言った。
「葦は水と風の間に立つ」
水緒は答えた。
「石から離し、水に流さず、風に預ける」
「名を?」
「昨日の名の熱を」
真鹿人は、その動作を見ていた。
石に置かれた強い名の熱を、葦へ移す。
葦は揺れる。
風を受け、水の近くに立ち、根は泥にある。
そこに預けることで、名は少しずつ冷えるのだろう。
熱い筆は弱いものを焼く。
熱い名もまた、冷ます場所がいる。
水緒は、三つの白布をそれぞれ違う葦に結んだ。
白は風に揺れた。
因幡の白布とは違う。
蛇の抜け殻の白とも違う。
名なし石の白とも違う。
これは、強い名の熱を冷ます白だった。
真鹿人は、それを木簡に書いた。
昨日、強き名を置きし白布、石より離す。
水へ流さず、火へ入れず、葦に結ぶ。
葦、水と風の間に立つゆえなり。
強き名の熱、すぐ消すべからず。されど、長く石に置くべからず。
名の後始末あり。
最後の一文を書いた時、真鹿人は強く思った。
記録の後始末もある。
それは、大和へ帰った後の課題になるだろう。
いや、この旅の終着で、彼はその答えに向かうのだろう。
名を与えない。
空白として残す。
まだ遠いが、道はそこへ続いている。
夕刻、里の端で、真鹿人は今日書いた木簡を並べた。
火を受ける石。
戻る石。
止め石。
雨聞きの石。
名なし石。
白布を置いた石。
どれも、石である。
だが、同じ石ではない。
そして、どれも神の名を持つわけではない。
むしろ、名になりきらないまま残っているものが多かった。
真鹿人は、そこでようやく理解し始めた。
石に宿る名とは、石に神名が宿るということだけではない。
石に宿るのは、時に火であり、時に帰る願いであり、時に止まれという声であり、時に待つ時間であり、時に捨てられない理由であり、時に強い名の熱である。
名とは、人の名や神の名だけではない。
呼ばれ方。
避け方。
触れ方。
置き方。
持たなかったこと。
それらも、名の周りにあるものなのだ。
佐那が、隣に座った。
「今日は、石ばかりでしたね」
「疲れたか」
「歩くより疲れました」
「なぜ」
「どの石も、ただの石ではないかもしれないと思うと、座る場所に困ります」
真鹿人は少し笑った。
「水緒は、座る石もあると言っていた」
「でも、座ってよいか分からない時があります」
「その時は聞けばいい」
「誰にですか」
真鹿人は、少し考えた。
「人に。水緒に。土地に。足元に」
佐那は苦笑した。
「真鹿人様まで、水緒みたいになってきました」
「それは困る」
「少しなら、よいと思います」
佐那は湖を見た。
「でも、止め石の話は、忘れにくいです」
「そうだな」
「名前が残っていないのに、残っているというのは、不思議です」
「記録には、そういう残り方が少ない」
「では、書くのですか」
「書く。ただし、名前を作らないように」
佐那は頷いた。
「難しいですね」
「難しい」
「でも、それが大事なんですね」
真鹿人は、止め石の木簡を見た。
名なき声、記すべし。されど、名を作るべからず。
「たぶん、そうだ」
佐那は、それ以上聞かなかった。
夜になる前、水緒が来た。
彼女は真鹿人の木簡を見たわけではない。だが、何かを察したように言った。
「今日は、空の木簡に触れたか」
「いいえ」
「触れたそうな顔をしている」
真鹿人は苦笑した。
「名なし石を見た時、少し」
「なぜ書かなかった」
「名なし石を空の木簡に書けば、空白に名なしという名を与えてしまう気がしました」
水緒は、しばらく真鹿人を見た。
「それでよい」
真鹿人は頭を下げた。
「空白は、空白のまま強くなることがある」
水緒は言った。
「何も書かぬから軽いのではない。書かぬものを抱えすぎれば、空白は重くなる」
「はい」
「だが、重さを誇るな」
真鹿人は顔を上げた。
水緒は静かに続けた。
「空白を持つ者は、自分が深いと思い始めることがある。それもまた名だ」
その言葉は、真鹿人の胸に鋭く入った。
書かないことを誇る。
断じないことを誇る。
空白を持つ自分を特別だと思う。
それは、別の支配である。
「気をつけます」
「気をつけるだけでは足りぬ」
「飯を食え、ですか」
水緒は少しだけ口元を緩めた。
「そうだ」
佐那が横から言った。
「では、飯にしましょう」
その声に、多加津が遠くから戻ってきた。
「今日は魚がある」
佐那の顔が明るくなった。
「それは大事です」
水緒は湖を見た。
「名より先に、飯が冷める」
佐那は真剣に頷いた。
「それはいけません」
真鹿人は、小さく笑った。
重い話の後に、飯がある。
それは、この第二部に必要な呼吸だった。
神の名も、石の声も、空白の重さも、腹を通らなければ頭だけになる。佐那はいつも、それを思い出させる。
夜、湖は再び名を隠した。
葦に結ばれた白布は、闇の中で見えなくなった。止め石も、戻る石も、名なし石も、火を受ける石も、すべて闇に沈んだ。
だが、それらはなくなっていない。
見えないものと、ないものは違う。
真鹿人は、もう何度目か分からないその言葉を思い出した。
ただ、今夜は少し違って聞こえた。
名がないものと、ないものも違う。
それが、今日の石から受け取ったことだった。
空の木簡は、まだ空のままだった。
その空白もまた、何もないわけではない。
だが、まだ書かない。
書かぬことを誇らず、書くべきものから逃げず、名を作らず、名なき声を聞く。
真鹿人は、文箱を閉じた。
湖の水音が、夜の奥で続いている。
次に聞くのは、出雲の神と諏訪の神のこと。
強い名が、なぜ二つの土地に立つことができたのか。
出雲から来た神が、なぜ諏訪の神にもなったのか。
石に宿る名なき声を聞いた今なら、少しだけ、その問いに近づけるかもしれない。
真鹿人は、火のそばで目を閉じた。
石は黙っている。
だが、その黙りの中に、多くの名が眠っていた。




