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月を隠した国  作者: 月読 龍
諏訪、逃れた神の湖
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19/32

第十七章 石に宿る名

 強い名を聞いた翌朝、真鹿人は、しばらく筆を取らなかった。


 文箱は傍らにあった。

 木簡も、筆も、墨もある。

 書くべきこともある。


 だが、手が動かなかった。


 タケミナカタ。


 その名は、一度聞けば、他の声を押しのけて前へ出る。出雲から運ばれ、山を越え、湖の前に立った強い名。敗れたことを消さず、逃げた一語に閉じず、湖に変わることを許され、また求められた名。


 真鹿人は、昨日そのことを書いた。


 長く書いた。

 短くすれば軽くなると思ったからだ。


 だが、長く書いてもなお、その名の周りには、書かれないものが残っていた。


 湖畔の里は、朝から動いている。


 水を汲む女。

 網を直す男。

 火を起こす子ども。

 舟の底を叩く老人。

 葦を束ねる手。

 蛇の跡を避ける足。


 それらは、タケミナカタという名を知らぬわけではないのだろう。だが、朝の里はその名だけで動いていなかった。水の順があり、石の置き方があり、火の大きさがあり、泥を避ける知恵がある。


 強い名が来ても、暮らしは消えない。


 むしろ、強い名は、その暮らしの上に立たねばならなかった。


 真鹿人は、木の根元に座り、湖を見ていた。


 朝の水は薄い灰色だった。山はまだ霧の向こうにあり、水鳥が幾羽か、岸から少し離れたところに浮いている。昨日、白布を置いた石は、遠くからでもかすかに見えた。布は濡れて重くなり、風に揺れなくなっていた。


 名は、まだ石の上でよい。


 水緒はそう言った。


 名を水へ流さず、石の上に置く。


 その意味を、真鹿人は考えていた。


 水に流せば、広がる。

 広がれば、形は薄くなる。

 石に置けば、留まる。

 だが、石は水ほど優しくない。石の上に置かれた名は、風にも雨にも晒される。乾き、濡れ、冷え、時に鳥の影を受ける。


 石に置くとは、固めることではない。

 晒しておくことなのかもしれない。


 水緒が、背後から来た。


 足音は小さかったが、真鹿人には分かった。水緒が近づくと、里の音が少しだけ変わる。人が黙るのではない。むしろ、人々はそのまま動いている。ただ、言葉が少し低くなる。水際に立つ時のように、無意識に声の深さを変える。


「書かぬのか」


 水緒が言った。


「今日は、まだ」


「昨日は書きすぎた」


「はい」


「それでよい」


 真鹿人は、水緒を見た。


「書きすぎても、よいのですか」


「熱い筆で焼くなとは言った。だが、熱を持たぬ筆では、傷は書けぬ」


 水緒は湖を見た。


「昨日の名は、冷えた筆だけでは書けない」


「では、今日は」


「今日は、冷えた筆がいる」


 真鹿人は、その言葉の意味を考えた。


 昨日は強い名だった。敗れ、怒り、湖に映され、変わることを求められた名。熱を完全に失えば、その傷は書けない。


 だが今日は、石に宿る名。


 小さく、弱く、長く、時には名と呼ぶことすらためらうものたち。


 熱い筆では焼いてしまう。


 水緒は言った。


「今日は、石を見る」


 佐那は、水を汲んで戻ってきたところだった。


「また山へ行くのですか」


「遠くはない」


「石というのは、昨日の白布の石ですか」


「それもある」


「他にも?」


「里には、石が多い」


 多加津が低く言った。


「石の少ない土地など、少ない」


 水緒は頷いた。


「だが、どの石を見るかで、土地は変わる」


 佐那は、自分の足元を見た。


「では、踏んでいる石もですか」


「そうだ」


「今、踏んでいます」


「今は踏んでよい石だ」


「それは助かります」


 佐那は、少し安心したように足を置き直した。


 四人は里の奥へ向かった。


 昨日歩いた道とは違う。湖から少し離れ、家々の裏を通る道だった。そこには、暮らしの石があった。竈のそばの石、舟を支える石、網を干す柱の根元を押さえる石、水瓶の台にされた石、子どもが座っている石。


 どれも、神の石には見えなかった。


 だが、水緒は一つ一つの前で歩みを緩めた。


「この石は、何ですか」


 真鹿人が尋ねると、水緒は、竈のそばの黒い石を示した。


「火を受ける石」


「それだけですか」


「それだけである時もある」


「今は」


「この家では、死者を送る時にも火を受ける」


 真鹿人は、石を見直した。


 黒く煤けている。角は丸くなり、上面には細かなひびが入っていた。普段は竈の石として使われるのだろう。飯を炊き、魚を焼き、湯を沸かす。その同じ石が、死者を送る火も受ける。


 日々の火と、死者の火。


 それらは分けられていない。


「死者のためだけの石ではないのですね」


「死者のためだけにすれば、死が遠くなる」


 水緒は言った。


「遠くしてはいけないのですか」


「遠すぎれば、帰る道を失う」


 真鹿人は黙った。


 死者が帰る道。


 出雲では、死者の場を定めることも国造りの一部だった。大国主は、火の場、水の場、死者の場を定めた神として語られた。ここ諏訪では、死者は暮らしの火のそばにいるのかもしれない。


 しかし、すぐに出雲へ重ねてはならない。


 真鹿人は慎重に木簡を取り出した。


 火を受ける石あり。

 飯の火を受け、死者の火をも受く。

 死者を遠くしすぎぬため、と語る者あり。

 断ずるべからず。


 水緒は、それを見て何も言わなかった。


 次に向かったのは、舟のそばだった。


 湖岸に引き上げられた浅い舟の下に、平たい石がいくつも置かれている。舟底が直接泥に触れぬようにしているのだろう。多加津が昨日見ていた場所だった。


 水緒は、その中の一つを指した。


「この石は、戻る石と呼ぶ者がいる」


「戻る石」


 佐那が繰り返した。


「舟を出す前に触る者がいる。戻れるように」


「神の石ですか」


 真鹿人が尋ねる前に、佐那が言った。


 水緒は佐那を見た。


「そう呼ぶ者もいる」


 佐那は、もう続きが分かっているように頷いた。


「でも、舟を支える石でもある」


「そうだ」


 多加津が、その石を見た。


「戻れる舟がいる」


 昨日、水緒が言った言葉だった。


 ここでは、遠くへ行く舟より、戻れる舟がいる。


 多加津は、石に触れなかった。


 だが、目は長くその石に留まっていた。


 真鹿人は、彼の横顔を見た。


 戻る石。


 多加津にとって、その名はどう響いたのだろう。


 逃げた者は、戻れぬ場所を持つ。戻りたい場所を持つこともある。戻ってはならぬ場所を持つこともある。名を変えなければ持って行けないものがあったという多加津には、戻るという言葉は軽くないはずだった。


 しかし、真鹿人は問わなかった。


 石に宿る名を聞く日だからこそ、人の内に宿る名を無理に掘り出してはならない。


 水緒は、真鹿人を見た。


「書くか」


「書きます」


 彼は木簡に書いた。


 舟を支うる石あり。

 戻る石と呼ぶ者あり。

 舟を出す前に触れ、戻ることを願う。

 遠くへ行くためのみの石にあらず。戻るための石なり。

 されど、舟底を支うる石でもあり。

 名に高めすぎるべからず。


 書きながら、真鹿人は思った。


 名を高めすぎるな。


 この一文は、何度でも必要になる。


 神にすることで、触れなくなるものがある。

 ただの道具にすることで、聞こえなくなるものがある。


 その間を保つことが、今の真鹿人の役目だった。


 次に水緒が案内したのは、里の端にある細い道だった。


 湖へ向かう道ではない。背後の丘へ向かう道でもない。家々の間を抜け、葦原の脇を通り、やがて小さな湿地へ出る道である。そこには、子どもが近づかぬようにしているのか、低い縄が張られていた。


 縄のそばに、丸い石が一つ置かれていた。


 水緒は、その前で立ち止まった。


「これは、止め石」


「入ってはいけない場所を示す石ですか」


 真鹿人が尋ねると、水緒は頷いた。


「泥が深い」


 佐那は、すぐに後ずさった。


「それは分かりやすいです」


「昔、ここで子が沈んだという」


 佐那の顔から笑みが消えた。


 真鹿人も、石を見た。


 丸い石だった。特別な形ではない。苔も少ない。昨日置かれたと言われても信じられるほど、普通の石だった。


 しかし、その普通の石が、子どもの死と結びついている。


「その子の名は残っているのですか」


 真鹿人が尋ねると、水緒は少し黙った。


「残っていない」


「では、この石に」


「子の名は宿っていない」


 水緒は静かに言った。


「宿っているのは、近づくなという声だ」


 真鹿人は、はっとした。


 石に宿る名。


 そう題された章で、真鹿人は石に誰かの名が宿るのだと思っていた。死者の名。土地神の名。失われた小さな神の名。


 だが、水緒は言った。


 宿っているのは、近づくなという声。


 名ではなく、声。


 いや、その声がやがて名のように扱われるのかもしれない。


 佐那は、止め石を見つめていた。


「その子の名前が残っていないのは、寂しいですね」


「そうだな」


 水緒は言った。


「だが、名が残らなくても、次の子が止まれば、その子は少し残る」


 佐那は、何も言えなくなった。


 真鹿人も同じだった。


 名が残ることだけが、残ることではない。


 次の子が止まる。

 泥に入らない。

 石を見る。

 縄の手前で足を止める。


 その動きの中に、名のない子が残る。


 それは記録とは別の残り方である。


 真鹿人は、木簡を手にしたまま、しばらく書けなかった。


 水緒は急かさない。


 湿地から、かすかな水音がした。鳥の足音かもしれない。泥がゆっくり沈む音かもしれない。


 やがて、真鹿人は書いた。


 止め石あり。

 泥深き地の前に置かる。

 昔、子が沈みしと語る者あり。

 その子の名は残らず。

 されど、次の子が石の前に止まれば、その子は少し残る。

 石に宿るは名のみにあらず。止まれという声もまた宿る。


 書き終えた後、真鹿人は筆を止めたまま、最後に一文を加えた。


 名なき声、記すべし。されど、名を作るべからず。


 水緒が初めて、木簡を少し覗いた。


「それは重い」


 真鹿人は顔を上げた。


「書きすぎでしょうか」


「いや」


 水緒は止め石を見た。


「それは、持って行け」


 真鹿人は、静かに頭を下げた。


 名なき声、記すべし。されど、名を作るべからず。


 この言葉は、今後の真鹿人に必要になる。


 記録官として、名のないものを無視してはならない。

 しかし、名がないからといって勝手に名を作れば、それは支配になる。


 空白のまま記す方法。


 彼は、そこへ少し近づいているのかもしれない。


 昼近く、四人は里の中央へ戻った。


 佐那はいつもより静かだった。止め石の話が残っているのだろう。彼は子どもたちが走るたびに、足元を見ていた。誰かが泥の方へ行かないか、気にしているようだった。


 多加津は、戻る石のそばで一度だけ立ち止まった。


 触れはしなかった。


 ただ、視線を置いた。


 水緒は何も言わなかった。


 里の中央にある平たい石の前で、老人が縄を編んでいた。昨日も同じ場所にいた老人である。白い髪を後ろで束ね、膝の上で細い縄を撚っている。真鹿人たちが近づくと、老人は手を止めずに言った。


「今日は石か」


「そうだ」


 水緒が答えた。


「大和の者に石を見せて、どうする」


「石を神にしすぎぬようにする」


 老人は、しわの深い顔で笑った。


「難しいことをさせる」


「難しいと思う者は、蹴らぬ」


「それはよい」


 老人は、真鹿人を見た。


「石の名を聞きたいか」


「はい」


 真鹿人は正直に答えた。


「ですが、名だけでは足りないとも思っています」


「なら、少しは聞ける」


 老人は、脇に置いてあった小さな石を一つ取り上げた。


 黒く、平たい石だった。手のひらに収まるほどの大きさである。表面は滑らかで、中央に浅い窪みがあった。


「これは、雨聞きの石だ」


「雨を聞くのですか」


 佐那が尋ねた。


「雨が来る前に、湿ることがある」


「本当ですか」


「本当の時もある」


 老人は言った。


「外れる時もある」


 佐那は少し笑った。


「それでは困りませんか」


「石にすべて任せる者が困る」


「なるほど」


 老人は、石の窪みに指を置いた。


「昔、雨を待つ時、この石を外に置いた。湿れば、雨が近いと言った。湿らなくても、誰かが空を見る。風を見る。鳥を見る。結局、人が見る」


 真鹿人は頷いた。


「石は、人に見ることを思い出させるのですね」


 老人は、手を止めた。


 そして水緒を見た。


「この者、少しは見ている」


「少しは」


 水緒が答えた。


 佐那が小さく笑った。


 真鹿人は、少し恥ずかしくなったが、悪い気はしなかった。


 老人は言った。


「雨聞きの石は、雨を呼ぶ石ではない」


「雨を知らせる石ですか」


「知らせるというより、待たせる石だ」


「待たせる」


「雨を急がせることはできぬ。だが、待ち方を誤れば、種を失う。網を失う。火を失う」


 老人は石を地面に置いた。


「待つために、石がいることもある」


 真鹿人は、その言葉を書いた。


 雨聞きの石あり。

 雨を呼ぶにあらず。知らせるにさえ、常にあらず。

 人に空を見させ、風を見させ、待ち方を思い出させる石なり。

 待つために石がいることあり。


 書きながら、真鹿人は事代主の沈黙を思い出した。


 沈黙は聞いている時間。

 ここでは、石は待っている時間を支える。


 沈黙と待つことは似ている。

 だが、同じではない。


 出雲の沈黙。

 諏訪の待つ石。


 響き合うが、同じにしてはならない。


 老人は、もう一つ石を取り上げた。


 今度は白い石だった。


 丸く、小さい。子どもの拳ほどの大きさで、表面に細い線が入っている。


「これは、名なし石だ」


 真鹿人は、筆を止めた。


「名なし、という名があるのですか」


 老人は笑った。


「そういうことになるな」


 水緒は黙っている。


「なぜ、名なし石と」


「誰も由来を知らぬ。だが、捨てる者もない」


「何かの神ですか」


「かもしれぬ」


「違うかもしれない」


「そうだ」


 老人は、石を真鹿人の前に置いた。


「昔からここにある。家を移す時にも持って行く。何のためかは知らぬ。だが、ないと落ち着かぬ」


 佐那が言った。


「それは、少し分かります」


「分かるか」


「はい。何に使うか分からないけれど、捨てられないものがあります」


「例えば」


「紐とか、火打ち石の欠片とか、昔もらった小さなものとか」


 多加津が低く言った。


「荷が増える理由だ」


「大事なものです」


「役に立たぬ」


「役に立たないから大事なものもあります」


 その言葉に、老人が笑った。


「この若いのは、腹だけでなく、少し石も分かる」


 佐那は褒められたのか分からず、曖昧な顔をした。


 真鹿人は、名なし石を見ていた。


 名なし石。


 由来は分からない。

 神かどうかも分からない。

 役に立つかも分からない。

 だが、捨てられない。


 それは、記録から最もこぼれやすいものだった。


 役割がある石は書ける。

 祭られる石も書ける。

 死者を送る石、戻る石、止め石、雨聞きの石。


 しかし、名なし石は難しい。


 何も分からない、としか書けない。


 だが、それこそ書くべきなのかもしれない。


 真鹿人は、木簡に書いた。


 名なし石あり。

 由来を知る者なし。

 神か否かも定かならず。

 されど、捨てる者なし。家を移す時にも持ち行くという。

 役に立たぬがゆえに大事なるものあり。

 名なきまま残るもの、名を与えて閉ずべからず。


 書き終えた時、真鹿人は、空の木簡のことを思った。


 名なきまま残るもの。


 この旅の果てに待つ月も、そうなのではないか。


 まだ彼は知らない。

 飛騨の山も、月に名を与えぬ民も、まだ遠い。


 だが、名なし石は、明らかにその先へ細い緒を伸ばしていた。


 水緒が、老人から白い石を受け取った。


 そして、真鹿人へ差し出した。


「持つか」


 真鹿人は、すぐには受け取らなかった。


「持ってよいのですか」


「持つなら、なぜ持つかを知れ」


 昨日、水緒が子どもに言った言葉だった。


 真鹿人は、白い石を見た。


 持てば、大和へ持って帰れる。

 名なし石として、証になる。

 だが、持った瞬間、この石は里の石ではなく、真鹿人の持つ石になる。

 大和の記録のための石になる。


 それは変えることだ。


 真鹿人は、ゆっくり首を振った。


「持ちません」


「なぜ」


「この石は、由来が分からず、捨てられず、ここにあることで名なし石なのだと思います。私が持てば、私が持ち帰った石になります」


 水緒は、何も言わなかった。


 老人は、少し目を細めた。


「では、何を持つ」


 真鹿人は答えた。


「持たなかったことを持ちます」


 佐那が、小さく息を呑んだ。


 水緒は、白い石を老人に返した。


「それでよい」


 老人は石を元の場所へ置いた。


「大和の者が、石を持たずに帰るか」


 老人は笑った。


「珍しいこともある」


 真鹿人は頭を下げた。


「持たなかったことを、正しく持てるかは分かりません」


「分からぬなら、まだよい」


 水緒が言った。


 老人も頷いた。


 昼を過ぎると、里には少し風が出てきた。


 湖面に細かな波が立ち、舟が軋んだ。子どもたちは家の近くへ戻され、女たちは干していた網を少し移した。石の上に置かれていた小さなものが、風に飛ばされぬように押さえられる。


 石は、風の日にも働く。


 真鹿人は、それもまた思った。


 水緒は、最後に湖岸の白布の石へ三人を連れて行った。


 昨日、強い名を語る場で、縄を解いて白布を置いた石である。三つの白布は、夜露と朝の霧で濡れ、石に貼りついていた。


 水緒は、その前で立ち止まった。


「昨日の名は、まだここにある」


「タケミナカタの名ですか」


 真鹿人は慎重に言った。


 水緒は頷いた。


「水へ流してはいない」


「いつか流すのですか」


「流すとは限らぬ」


「では、どうするのです」


「乾けば、また結ぶこともある。燃すこともある。土へ埋めることもある。何もしないこともある」


 佐那が言った。


「決まっていないのですか」


「名の後始末は、その時の水による」


 水緒は言った。


「強い名は、聞いた後にも扱いがいる」


 真鹿人は、濡れた白布を見た。


 名は語って終わりではない。


 語られた名は、聞いた者の中に残る。場にも残る。石にも、布にも、水にも、人の顔にも残る。その扱いを誤れば、名はまた周囲を傷つけるのだろう。


 記録も同じだ。


 書いた後にも扱いがいる。

 持ち帰った後にも扱いがいる。

 誰に見せるか。

 どの順で置くか。

 どこを空けるか。

 何を断じないか。


 真鹿人は、自分の役目の重さを改めて感じた。


「この石は、名を宿しているのですか」


 真鹿人が尋ねた。


 水緒は答えた。


「一晩だけな」


「一晩だけ」


「ずっと宿せば、石がその名に取られる」


「石が」


「石には、石の名がある。あるいは、名がないままの石である時間がある」


 水緒は白布に触れた。


「強い名を長く置きすぎれば、その石は強い名の石になる。そうなれば、他の声が寄れなくなる」


 真鹿人は頷いた。


 強い名は、石さえ取る。


 だから、一晩だけ置く。

 水へ流さず、しかし永く留めもしない。


「では、今日、これをどうするのですか」


 水緒は、三つの白布を一つずつ剥がした。


 濡れた布は、石から離れる時にかすかな音を立てた。水緒はそれらを水へ投げなかった。火へも入れなかった。手の中で軽く絞り、湖岸の葦に結んだ。


「葦に」


 佐那が言った。


「葦は水と風の間に立つ」


 水緒は答えた。


「石から離し、水に流さず、風に預ける」


「名を?」


「昨日の名の熱を」


 真鹿人は、その動作を見ていた。


 石に置かれた強い名の熱を、葦へ移す。

 葦は揺れる。

 風を受け、水の近くに立ち、根は泥にある。

 そこに預けることで、名は少しずつ冷えるのだろう。


 熱い筆は弱いものを焼く。

 熱い名もまた、冷ます場所がいる。


 水緒は、三つの白布をそれぞれ違う葦に結んだ。


 白は風に揺れた。


 因幡の白布とは違う。

 蛇の抜け殻の白とも違う。

 名なし石の白とも違う。

 これは、強い名の熱を冷ます白だった。


 真鹿人は、それを木簡に書いた。


 昨日、強き名を置きし白布、石より離す。

 水へ流さず、火へ入れず、葦に結ぶ。

 葦、水と風の間に立つゆえなり。

 強き名の熱、すぐ消すべからず。されど、長く石に置くべからず。

 名の後始末あり。


 最後の一文を書いた時、真鹿人は強く思った。


 記録の後始末もある。


 それは、大和へ帰った後の課題になるだろう。

 いや、この旅の終着で、彼はその答えに向かうのだろう。


 名を与えない。

 空白として残す。


 まだ遠いが、道はそこへ続いている。


 夕刻、里の端で、真鹿人は今日書いた木簡を並べた。


 火を受ける石。

 戻る石。

 止め石。

 雨聞きの石。

 名なし石。

 白布を置いた石。


 どれも、石である。


 だが、同じ石ではない。


 そして、どれも神の名を持つわけではない。

 むしろ、名になりきらないまま残っているものが多かった。


 真鹿人は、そこでようやく理解し始めた。


 石に宿る名とは、石に神名が宿るということだけではない。


 石に宿るのは、時に火であり、時に帰る願いであり、時に止まれという声であり、時に待つ時間であり、時に捨てられない理由であり、時に強い名の熱である。


 名とは、人の名や神の名だけではない。


 呼ばれ方。

 避け方。

 触れ方。

 置き方。

 持たなかったこと。


 それらも、名の周りにあるものなのだ。


 佐那が、隣に座った。


「今日は、石ばかりでしたね」


「疲れたか」


「歩くより疲れました」


「なぜ」


「どの石も、ただの石ではないかもしれないと思うと、座る場所に困ります」


 真鹿人は少し笑った。


「水緒は、座る石もあると言っていた」


「でも、座ってよいか分からない時があります」


「その時は聞けばいい」


「誰にですか」


 真鹿人は、少し考えた。


「人に。水緒に。土地に。足元に」


 佐那は苦笑した。


「真鹿人様まで、水緒みたいになってきました」


「それは困る」


「少しなら、よいと思います」


 佐那は湖を見た。


「でも、止め石の話は、忘れにくいです」


「そうだな」


「名前が残っていないのに、残っているというのは、不思議です」


「記録には、そういう残り方が少ない」


「では、書くのですか」


「書く。ただし、名前を作らないように」


 佐那は頷いた。


「難しいですね」


「難しい」


「でも、それが大事なんですね」


 真鹿人は、止め石の木簡を見た。


 名なき声、記すべし。されど、名を作るべからず。


「たぶん、そうだ」


 佐那は、それ以上聞かなかった。


 夜になる前、水緒が来た。


 彼女は真鹿人の木簡を見たわけではない。だが、何かを察したように言った。


「今日は、空の木簡に触れたか」


「いいえ」


「触れたそうな顔をしている」


 真鹿人は苦笑した。


「名なし石を見た時、少し」


「なぜ書かなかった」


「名なし石を空の木簡に書けば、空白に名なしという名を与えてしまう気がしました」


 水緒は、しばらく真鹿人を見た。


「それでよい」


 真鹿人は頭を下げた。


「空白は、空白のまま強くなることがある」


 水緒は言った。


「何も書かぬから軽いのではない。書かぬものを抱えすぎれば、空白は重くなる」


「はい」


「だが、重さを誇るな」


 真鹿人は顔を上げた。


 水緒は静かに続けた。


「空白を持つ者は、自分が深いと思い始めることがある。それもまた名だ」


 その言葉は、真鹿人の胸に鋭く入った。


 書かないことを誇る。

 断じないことを誇る。

 空白を持つ自分を特別だと思う。


 それは、別の支配である。


「気をつけます」


「気をつけるだけでは足りぬ」


「飯を食え、ですか」


 水緒は少しだけ口元を緩めた。


「そうだ」


 佐那が横から言った。


「では、飯にしましょう」


 その声に、多加津が遠くから戻ってきた。


「今日は魚がある」


 佐那の顔が明るくなった。


「それは大事です」


 水緒は湖を見た。


「名より先に、飯が冷める」


 佐那は真剣に頷いた。


「それはいけません」


 真鹿人は、小さく笑った。


 重い話の後に、飯がある。


 それは、この第二部に必要な呼吸だった。


 神の名も、石の声も、空白の重さも、腹を通らなければ頭だけになる。佐那はいつも、それを思い出させる。


 夜、湖は再び名を隠した。


 葦に結ばれた白布は、闇の中で見えなくなった。止め石も、戻る石も、名なし石も、火を受ける石も、すべて闇に沈んだ。


 だが、それらはなくなっていない。


 見えないものと、ないものは違う。


 真鹿人は、もう何度目か分からないその言葉を思い出した。


 ただ、今夜は少し違って聞こえた。


 名がないものと、ないものも違う。


 それが、今日の石から受け取ったことだった。


 空の木簡は、まだ空のままだった。


 その空白もまた、何もないわけではない。


 だが、まだ書かない。


 書かぬことを誇らず、書くべきものから逃げず、名を作らず、名なき声を聞く。


 真鹿人は、文箱を閉じた。


 湖の水音が、夜の奥で続いている。


 次に聞くのは、出雲の神と諏訪の神のこと。


 強い名が、なぜ二つの土地に立つことができたのか。

 出雲から来た神が、なぜ諏訪の神にもなったのか。


 石に宿る名なき声を聞いた今なら、少しだけ、その問いに近づけるかもしれない。


 真鹿人は、火のそばで目を閉じた。


 石は黙っている。


 だが、その黙りの中に、多くの名が眠っていた。


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