第十六章 逃げたのではない
朝の湖は、静かだった。
けれど、その静けさは前の日までのものとは少し違っていた。
初めて湖の前に立った朝、真鹿人には、湖があまりにも大きく見えた。空を映し、山を沈め、名を遠ざける水。神のようだと思いかけ、すぐにその言葉を退けた。
水緒に導かれた翌朝には、湖は暮らしの中にあった。水を汲む女、舟を直す男、葦を運ぶ子、石を避ける老人。湖は遠い神域ではなく、人の腹と手と足を支える水でもあった。
そして、蛇の古い神を見た翌朝。
湖は、何かを待っているように見えた。
いや、待っていると見るのは、人の癖かもしれない。
湖は、ただあった。
水を湛え、霧を吐き、葦を濡らし、鳥を浮かべている。
けれど、真鹿人の目の方が変わっていた。
水より先に名を置いてはならない。
昨日、水緒が見せた蛇の跡、抜け殻、石、穴、三つの色。名になる前の長い時間。それらが、湖の見え方を変えていた。
今日、語られるのは、強い名である。
タケミナカタ。
出雲で聞いた名。
抗い、敗れ、東へ向かった神。
強い名。痛い名。
出雲が沈めず残したものを運んだ名。
だが、その名を、この湖へそのまま置くことはできない。
真鹿人は、まだ朝の薄い光の中で文箱を開いた。前の日に書いた木簡が、湿りを含んで少し重くなっているように見えた。
蛇の古い神、形ある神にあらず。
水が増す前に動くもの。
石の温みを知るもの。
古き身を脱ぐもの。
穴に入り、また出るもの。
見えず、されど跡を残すもの。
蛇を見て、神を感じた者あり。
名になる前の方が長し。
断ずるべからず。
真鹿人は、その木簡をしばらく見つめた。
名になる前の方が長い。
ならば、タケミナカタという名も、ここへ来た瞬間からすべてを覆ったわけではない。諏訪には、すでに水があり、蛇があり、石があり、跡があり、避け方があり、沈黙があった。
その中へ、強い名が来た。
今日、聞くべきなのは、強い名の勝ち負けではない。
強い名が、古い水の中で何を失い、何を保ち、何に変わったか。
真鹿人は文箱を閉じた。
佐那はすでに起きていた。
彼は里の女たちに教えられた通り、飲む水を汲む場所と手を洗う場所を分け、器をすすいでいた。少しぎこちないが、間違えぬよう慎重だった。
多加津は湖畔の低い石のそばに立っていた。
彼は湖を見ているようで、実際には水際の泥や葦の動きを見ていた。逃げ道、隠れる場所、足を取られる場所。そうしたものを目で拾っているのだろう。
水緒は、里の奥から現れた。
今日は杖を持っていなかった。代わりに、細い縄を手にしている。昨日、彼女が見せた水を渡す緒に似ていたが、少し長い。縄には、ところどころ小さな白い布片が結ばれていた。
佐那がそれを見て言った。
「今日は、何かを結ぶのですか」
「ほどく」
水緒は答えた。
「結んであるのに?」
「結んだものを見なければ、ほどき方を誤る」
佐那は、もう驚くより先に頷いた。
「分かるような、分からないような気がします」
「それでよい」
水緒は湖へ目を向けた。
「今日は、少し歩く」
「山へですか」
真鹿人が尋ねると、水緒は首を振った。
「湖の縁を」
「里の中ではなく」
「里の言葉だけで、その名は語れぬ」
その名。
誰も口にしなかったが、三人には分かった。
タケミナカタ。
水緒は、その名をまだ軽く呼ばない。
それだけで、真鹿人の背筋は自然に伸びた。
三人は水緒について歩き出した。
湖の縁の道は、里の中の道よりもさらに曖昧だった。葦の間を抜ける細い踏み跡があり、ところどころに石が置かれ、泥を避けるように曲がっている。水に近づく箇所もあれば、大きく離れる箇所もある。
水緒は、近すぎず、離れすぎずに進んだ。
朝の水面は淡く、空の白を受けている。ところどころ霧が残り、岸辺の葦を隠していた。水鳥が静かに浮かび、遠くの舟が一つ、まだ暗い影のように見えた。
しばらく歩くと、里から少し離れた場所へ出た。
そこには、低い石がいくつも並んでいた。石は道標のようでもあり、境のようでもあった。だが、直線には並んでいない。湖に沿うように曲がり、時に水際へ近づき、時に丘の方へ逃げる。
水緒は、その石の列の前で止まった。
「ここから先は、昔、水がよく上がった」
「今は乾いていますね」
佐那が言った。
「今は」
水緒は短く答えた。
「水は、昔の場所を忘れない」
真鹿人は足元を見た。
乾いた地面の中に、湿った筋がある。草の種類も少し違う。低い草の間に、葦に似た細い草が混じっていた。今は陸だが、かつて水に近かったことを土地がまだ示している。
「水が上がると、人は退く」
水緒は言った。
「人が退くと、蛇が通る。鳥が来る。魚が残る。泥が柔らかくなる。石の意味が変わる」
「石の意味が」
「座る石が、触れてはならぬ石になる。道の石が、水を測る石になる。境の石が、湖の中の石になる」
真鹿人はその石を見た。
同じ石が、水の高さで意味を変える。
水に沈めば、石は別のものになる。
水が引けば、また別のものになる。
諏訪の信仰は、水位のように変わるのかもしれない。固定された形ではなく、季節と水と人の暮らしによって、絶えず意味を変える。
水緒は、石列の一つに縄を結んだ。
白い布片が風に揺れた。
「これは何ですか」
佐那が尋ねた。
「今日は、ここから話すという印」
「誰に知らせるのです」
「人に。水に。自分に」
水緒は、もう一つの石へ縄を伸ばし、そこにも軽くかけた。
縄は張られすぎていない。足に引っかかるほど低くもない。ただ、石と石の間に細い線が生まれた。
「緒は、つなぐものでもあり、切るものでもある」
真鹿人は言った。
水緒は頷いた。
「今日は、出雲の名と諏訪の水の間に緒を張る」
「結ぶために」
「混ぜぬためにも」
その言葉に、真鹿人は黙った。
結ぶことと、混ぜることは違う。
出雲と諏訪は接続する。
だが、同じにしてはならない。
緒は、その間に張られる細い境である。
水緒は三つ目の石に縄をかけた。
その姿は祭祀のようにも見えた。だが、彼女は祝詞を唱えない。手を合わせもしない。ただ、石と石の間に距離を測り、布片の向きを見て、風の通りを確かめている。
佐那はそれをじっと見ていた。
「水緒は、神に祈っているのですか」
「今は祈っていない」
「では、何を」
「話す場所を整えている」
「話すだけでも、整えるのですね」
「強い名は、置く場所を間違えると人を傷つける」
真鹿人は、その言葉を聞いた。
強い名は、人を傷つける。
タケミナカタという名。
大国主という名。
事代主という名。
大和が記す神々の名。
名は残す。
名は呼ぶ。
名は遠くへ運ぶ。
だが、強すぎる名は、周りの弱い声を押し潰す。
水緒はそのために、緒を張っているのかもしれない。
強い名が湖に流れ込みすぎぬように。
古い水の声が強い名に呑まれぬように。
縄が張られた石列の中に、水緒は三人を座らせた。
湖を前にし、背後に低い丘を置く場所だった。風は水面から来て、三人の頬を冷やした。里の音は遠い。ここでは、人の声より湖の音の方が近かった。
水緒は立ったまま、湖を見た。
しばらく何も言わなかった。
その沈黙の中で、真鹿人は自分の内側に、出雲の声が立ち上がるのを感じた。
宇都志の声。
大国主は、消えなかったから大きな神にされた。
事代主の沈黙を、承諾として軽くするな。
タケミナカタを、敗走だけにするな。
出雲が沈めず残したものを運ぶ。
水の記憶。土地に聞く術。沈んだ言葉。敗れた者の息。
それらは消えていない。
しかし今、その声の前に、湖の水がある。
水緒が口を開いた。
「その名は、敗れて来た」
真鹿人は、静かに息を止めた。
水緒は逃げなかった。
まず、敗れたと言った。
「抗い、押され、退き、山を越えた。そう語る者がいる。そうでなかったと、ここで言うつもりはない」
水緒の声は冷静だった。
「敗れたことを消して、尊い神にする者もいる。逃げていないとだけ言い、傷を隠す者もいる。それは違う」
真鹿人は、水緒を見た。
「敗れた事実は、残すのですね」
「残す」
水緒は答えた。
「傷を消した神は、湖に立てぬ」
その言葉は重かった。
傷を消した神は、湖に立てぬ。
出雲で宇都志は、タケミナカタを強い名、痛い名と言った。水緒は、その痛みを消さない。むしろ、傷を持ったまま来たからこそ、湖の前に立てるのだと言っているようだった。
「では、逃げた神なのですか」
真鹿人は尋ねた。
水緒は、すぐには答えなかった。
湖の水音が、小さく岸に寄せた。
「逃げた、という言葉は、人が後ろから見る時の言葉だ」
水緒は言った。
「後ろから」
「追う者は、逃げたと言う。勝った者は、敗れて退いたと言う。記す者は、東へ走ったと書く。里の者は、来たと言う」
佐那が小さく呟いた。
「同じ道でも、見る場所で違う」
「そうだ」
水緒は頷いた。
「湖は、逃げてきた者を見たのではない」
「では、何を見たのです」
水緒は湖を指した。
「来た者を見た」
その言葉は、驚くほど静かだった。
逃げた者ではなく、来た者。
真鹿人は、胸の内で繰り返した。
同じ足取りであっても、追う者から見れば逃走であり、迎える土地から見れば到来である。
大和の記録がどちらの側に立つかによって、神の形は変わる。
水緒は続けた。
「湖は追わぬ」
「追わぬ」
「勝ったか負けたかを数えぬ。誰が押したか、誰が退いたかも、湖には遠い」
「では、何を見るのですか」
「水に立てるか」
真鹿人は、水面を見た。
「水に立つ」
「泥に足を取られ、膝を折り、息を乱しても、それでも水の前に立てるか。自分の名をすぐ叫ばず、怒りをすぐ投げず、傷を水に映せるか」
水緒の声は、わずかに低くなった。
「湖は、それを見る」
佐那は、息を詰めて聞いていた。
多加津も、珍しく視線を水緒へ向けている。
「その名は、怒りを持って来た」
水緒は言った。
「出雲の怒りかもしれぬ。己の敗れた怒りかもしれぬ。置いてきた者への怒りかもしれぬ。追う者への怒りかもしれぬ。自分を強い名にした者への怒りかもしれぬ」
真鹿人は、宇都志の言葉を思い出した。
怒りを置いたと語る者あり。断ずるべからず。
「ここで、怒りを置いたのですか」
真鹿人は尋ねた。
水緒は首を振った。
「そう語る者もいる」
「水緒は」
「怒りは、置けば消えるものではない」
真鹿人は黙った。
「湖に怒りを投げれば、湖は濁る。石に怒りを置けば、石は冷える。蛇に怒りを預ければ、蛇は穴へ入る。怒りは、どこかへ消えるのではなく、形を変える」
「では、タケミナカタは」
真鹿人は、初めてその名を口にした。
風が動いた。
葦が一斉に鳴り、水面に細い波が走った。
水緒は真鹿人を咎めなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
「その名は、怒りを抱いたまま水を見た」
水緒は言った。
「怒りを捨てたのではない。怒りを水に映した」
「映すと、どうなるのです」
「自分の怒りが、自分だけのものではないと知る」
真鹿人は、言葉を失った。
「怒りは、傷から出る。傷は一人のものに見える。だが、水に映せば、背後の山も、空も、泥も、一緒に映る」
水緒は湖を見た。
「その名が抱いた怒りには、出雲の傷もあっただろう。置いてきた者の息もあっただろう。敗れた者の恥も、守れなかったものの重さも、強い名に押し込められた痛みもあっただろう」
真鹿人は、何も書けなかった。
書くには、重すぎた。
水緒は言った。
「それを、ただ逃げたと書けば軽い」
「はい」
「だが、逃げていないと書いても軽い」
真鹿人は顔を上げた。
「逃げていない、と書いても」
「逃げたという傷を消すからだ」
水緒の声は厳しかった。
「敗れた。退いた。山を越えた。息を乱した。泥に足を取られた。怒りもあった。恥もあった。恐れもあった。そうしたものを消して、これは逃げではない、とだけ書けば、それもまた奪う」
真鹿人は深く頭を下げた。
今回の章題は、逃げたのではない。
だが、それは敗走を否定する言葉ではない。
逃げたという一語に閉じるな、という意味なのだ。
水緒は、静かに続けた。
「逃げるとは、後ろを持つことだ」
真鹿人は顔を上げた。
「後ろを」
「追う者がいる。置いてきた者がいる。戻れぬ場所がある。忘れられぬ名がある。捨てたくても捨てられぬ怒りがある」
水緒は、湖へ向けて手を伸ばした。
「来るとは、前に水を見ることだ」
佐那が、そっと言った。
「後ろがあるから、前もある」
水緒は佐那を見た。
「そうだ」
佐那は、自分の言葉に少し驚いたようだった。
多加津が低く言った。
「逃げる者は、後ろだけを見ていたら死ぬ」
水緒は、多加津へ目を向けた。
「前だけを見ても死ぬ」
「そうだ」
多加津は答えた。
「逃げるのが下手な者は、死ぬ」
以前、多加津が言った言葉だった。
だが、ここでは違う色を帯びた。
水緒は多加津に尋ねなかった。
多加津も語らなかった。
ただ、二人の間に、逃げる者だけが知る足場が一瞬現れた。
真鹿人は、それを記録したいと思った。
だが、しなかった。
多加津の沈黙は、多加津のものである。今、真鹿人がそれを拾えば、彼の過去を先に奪う。
水緒は、石に張った縄を見た。
「その名は、ここで前を見た」
「湖を」
「湖だけではない。湖の周りにあったものを」
「水、蛇、石」
「それだけではない。水を汲む者。石を避ける者。蛇を殺さぬ者。泥に足を取られても笑う者。水が上がれば家を移す者。魚を焼き、子を叱り、死者を送る者」
水緒の声に、里の暮らしが混ざった。
「その名は、強かった。だが、ここには強さだけでは入れぬ」
「なぜですか」
「水は、強いものをそのまま受けぬ」
真鹿人は、湖を見た。
水は柔らかい。
だが、何でも受けるわけではない。
水に石を投げれば、沈める。
火を投げれば、消す。
泥を入れれば、濁る。
血を入れれば、広げる。
名を入れれば、映す。
受け入れるとは、そのまま保つことではない。
「湖は、タケミナカタを変えたのですか」
真鹿人が尋ねると、水緒は答えた。
「変えた、だけでは足りぬ」
「では」
「変わることを許した」
その言葉は、湖面に静かに置かれた。
変えるのではなく、変わることを許す。
真鹿人は、その違いに胸を打たれた。
征服ではない。
同化でもない。
名を奪い、別の名へ作り替えたのでもない。
湖は、強い名に対して、変わる場を与えた。
タケミナカタは、そこへ入った。
逃げたのではない。
いや、逃げたのでもある。
敗れたのでもある。
退いたのでもある。
だが、それだけではない。
彼は、湖の前で変わることを許された神なのだ。
佐那が、慎重に尋ねた。
「受け入れられた、というのは、そういうことですか」
水緒は佐那を見た。
「近い」
「また近いですか」
「受け入れるとは、抱きしめることではない」
水緒は言った。
「ここでは、水に入る前に手を洗わせる。泥の深い場所では止める。汲んでよい水と、見ておく水を分ける。湖に近づく者には、近づき方を問う」
佐那は頷いた。
「はい」
「その名にも、そうした」
「神にも?」
「強い名にも、近づき方を求めた」
真鹿人は、息を呑んだ。
湖は、タケミナカタを無条件に受け入れたのではない。
諏訪には諏訪の水の扱いがある。
石の避け方がある。
蛇の通し方がある。
怒りの映し方がある。
名を急がぬ沈黙がある。
タケミナカタは、それらの前に立たされた。
強い名であっても、ここでは水の前に手を洗わねばならない。
それは、神を低くすることではない。
土地が先にあるということだった。
「その名は、諏訪を征服したのではないのですね」
真鹿人が言うと、水緒は静かに答えた。
「征服という言葉は、大和の者が好む」
真鹿人は口を閉じた。
「勝った者と負けた者を置けば、話は早い。上に立つ神、下に入る神。前からいた神、後から来た神。追われた神、受けた土地」
水緒は首を振った。
「だが、水辺では、それでは足りぬ」
「何が起きたのですか」
「結び直しだ」
水緒は、張った縄に触れた。
「強い名が来た。古い水があった。蛇の跡があった。石の沈黙があった。里の暮らしがあった。それらが、互いをそのままにはしておかなかった」
縄が風に揺れた。
「強い名は、諏訪の水を得た。諏訪の水は、強い名を得た。蛇の古さは、その名の内へ少し入り、石の沈黙は、その名を重くした。里の者は、その名で湖を呼ぶことを覚えた。だが、湖はその名だけにはならなかった」
真鹿人は、胸の内で繰り返した。
湖は、その名だけにはならなかった。
これが大事だった。
タケミナカタは諏訪の神となる。
だが、諏訪はタケミナカタだけにはならない。
水も、蛇も、石も、名を持たぬ土地神も、暮らしの禁忌も、残る。
結び直しとは、どちらかが消えることではない。
互いの形が変わり、なお残ることだ。
「逃げたのではない」
真鹿人は、静かに言った。
水緒は彼を見た。
「どういう意味で言う」
真鹿人は、湖を見た。
「逃げた、だけではない」
「逃げなかった、と言うのではないのか」
「はい」
真鹿人は慎重に言葉を選んだ。
「敗れ、退き、山を越えた。その事実を消してはならない。けれど、追う者から見た逃げる足だけで、その神を閉じてもならない。湖から見れば、来た者であり、水の前に立った者であり、変わることを許された者だった」
水緒は、しばらく黙っていた。
風が吹き、白い布片が揺れた。
「少し近い」
水緒は言った。
佐那が、小さく笑った。
「今日は、かなり近い気がします」
「近いと思った時、足元を見ろ」
水緒が言うと、佐那はすぐ下を見た。
真鹿人も見た。
足元には湿った土がある。小さな草が生え、石が一つ半ば埋もれていた。その石の脇に、細い虫が通っている。強い名の話をしていても、足元には名もない小さな道がある。
それを見た時、真鹿人は、今の自分の言葉もまだ大きすぎると感じた。
水緒は、縄の白布を一つ解いた。
「結びを一つ解く」
佐那が尋ねた。
「話が進んだからですか」
「少し混ざらずに済んだからだ」
水緒は白布を手に取り、湖へ投げず、石の上に置いた。
「この布は」
真鹿人が尋ねた。
「水に入れぬ」
「なぜです」
「今日は、名を水へ流す日ではない」
水緒は淡々と言った。
「名は、まだ石の上でよい」
真鹿人は頷いた。
今日、タケミナカタの名は、湖へ溶けたのではない。石の上に置かれた。見える場所に、しかし水にはまだ入らぬ場所に。
それが、この土地の慎重さだった。
多加津が口を開いた。
「その神は、追われなくなったのか」
水緒は、多加津を見た。
「追う者がいなくなれば、追われなくなるわけではない」
多加津は黙った。
「自分の中に追う者が残ることもある」
水緒の言葉は、多加津に向けられていたようにも、タケミナカタに向けられていたようにも聞こえた。
「湖は、それを消さぬ」
「消さぬのか」
「消せば、その者ではなくなる」
「では、どうする」
「映す。冷やす。待つ」
多加津は湖を見た。
「待つのは、長い」
「水は長い」
水緒は答えた。
真鹿人は、その会話を胸に刻んだ。
映す。冷やす。待つ。
怒りを消すのではない。
追われる心を消すのではない。
それを水に映し、熱を冷まし、時間を与える。
それが湖の受け入れ方なのだろう。
佐那が、ぽつりと言った。
「それなら、逃げてきた人も、少し休めますね」
水緒は佐那を見た。
「そうだ」
「神も?」
「神も」
「強い神でも?」
「強い者ほど、休む場所がいる」
佐那は、深く頷いた。
「それは分かります」
真鹿人は、佐那を見た。
佐那の言葉は素朴だったが、今この場では深かった。
強い者ほど、休む場所がいる。
タケミナカタは強い名だった。だからこそ、その名には休む場所が必要だったのかもしれない。出雲の傷と怒りを抱えたまま、強さだけで立ち続ければ、やがて割れる。
湖は、その強い名を休ませた。
ただし、眠らせたのではない。
沈めて消したのでもない。
映し、冷やし、待った。
水緒は、二つ目の白布を解いた。
「ここで、その名は湖の名を得た」
「湖の名を」
真鹿人は尋ねた。
「諏訪の神、と呼ばれるようになった」
「いつからですか」
「いつから、と聞くのは大和の癖だ」
水緒は答えた。
「名が変わる時は、一日ではない。今日からこの神、と決まるのではない」
「少しずつ」
「水が石を削るように」
真鹿人は湖を見た。
タケミナカタは、ある日突然、諏訪の神になったのではない。
人が語る。
水辺で名を呼ぶ。
石の前で祈る。
蛇の跡にその神の気配を少し重ねる。
湖の荒れをその名で恐れる。
静かな水をその名で感謝する。
子へ語る。
また語り直す。
そうして、強い名は少しずつ諏訪の水を含んでいく。
やがて、出雲の神でありながら、諏訪の神にもなる。
真鹿人は、未来の章の影を感じた。
出雲の神、諏訪の神。
だが、まだそこへは行かない。
今は、逃げたのではない、という言葉の手前にいる。
「水緒」
真鹿人は言った。
「その神は、湖に受け入れられたと言ってよいのでしょうか」
水緒は、三つ目の白布を解いた。
それを手の上に乗せたまま、しばらく湖を見ていた。
「言ってもよい」
真鹿人は息を吸った。
「ただし」
水緒は続けた。
「受け入れられた、という言葉を柔らかくしすぎるな」
「柔らかく」
「湖は母の腕ではない。傷を抱いて慰めただけではない。湖は冷たい。泥は深い。近づき方を誤れば足を取る。水は怒りを映すが、怒りを喜びには変えぬ」
真鹿人は頷いた。
「受け入れとは、甘いものではない」
「そうだ」
水緒は白布を石の上に置いた。
「受け入れるとは、ここで変わるなら立て、と言うことだ」
真鹿人の胸に、その言葉が深く入った。
ここで変わるなら立て。
湖の受け入れは、抱擁ではなく、試みである。
変わることを許すが、変わることを求める。
強い名をそのまま通すのではなく、水の前に立たせる。
タケミナカタは、その前に立った。
だから、逃げた神ではなく、湖に受け入れられた神になった。
だが、そこには敗北も傷も怒りも残る。
真鹿人は、文箱を開いた。
水緒は止めなかった。
筆を取る。
しかし、しばらく書けなかった。
書くべきことが多すぎる。多すぎる言葉は、かえって何も残せない。
彼は目を閉じた。
足元を見る。
水の音を聞く。
石の上の白布を見る。
水緒の声を、水緒のものにしすぎず、湖のものにしすぎず、自分が聞いたものとして持つ。
やがて、真鹿人は書いた。
その名、敗れて来たり。
敗れしこと、消すべからず。
されど、逃げたる一語に閉ずべからず。
追う者より見れば逃げし足、湖より見れば来たりし足なり。
湖、勝敗を数えず。水の前に立てるかを見たり。
怒りを捨てたるにあらず。水に映したるなり。
湖、強き名をそのまま受けず。変わることを許し、また求めたり。
受け入れるとは、ここで変わるなら立て、ということなり。
断ずるべからず。
書き終えた時、手が少し震えていた。
佐那は、木簡を覗き込もうとして、途中でやめた。
多加津は湖を見ている。
水緒は、静かに言った。
「長い」
真鹿人は顔を上げた。
「削るべきでしょうか」
「今はよい」
水緒は答えた。
「長く書かねば、軽くなるものもある」
真鹿人は、深く息を吐いた。
長く書かねば、軽くなるものもある。
それは、今の物語そのものにも当てはまるようだった。
敗れた神を、逃げたとも、逃げていないとも、簡単に言えない。
湖に受け入れられたと言うにも、柔らかすぎれば傷を消す。
強い名が変わったと言うにも、湖が征服したように書けば違う。
だから、長く書く必要がある。
言葉を重ねることでしか、軽くしない道がある。
水緒は、張っていた縄をすべて解いた。
白布は三つ、石の上に置かれたままになっている。縄は彼女の手に戻った。
「終わりですか」
佐那が尋ねた。
「今日の話は」
「まだ続くのですか」
「明日も続く。明後日も続く。人が語る限り、終わらぬ」
水緒は縄を巻いた。
「だが、ここで聞く分は終わりだ」
真鹿人は、木簡を乾かし、文箱に戻した。
空の木簡は、まだ空のままだった。
今日こそ、触れるかもしれないと思っていた。
タケミナカタの名。
敗れた神が湖に受け入れられたという言葉。
それは、どうしても書かねばならぬものに近いのではないかと。
だが、まだ違った。
重い。
だが、まだ空白そのものではない。
この名は強い。
強いからこそ、空の木簡に書けば、空白を支配してしまう。
空の木簡は、まだ別のものを待っている。
真鹿人には、それが何か分からない。
ただ、今はまだ書かないと分かった。
帰り道、佐那は長く黙っていた。
珍しいことだった。
しばらくして、彼は言った。
「逃げるって、悪いことだけではないんですね」
多加津は前を見たまま答えた。
「悪い時もある」
「はい」
「死ぬ時もある」
「はい」
「置いていく時もある」
「はい」
「だが、生きる時もある」
佐那は、静かに頷いた。
「持って行く時もある」
多加津は何も言わなかった。
真鹿人は、その背中を見た。
多加津の過去は、まだ明かされない。
だが、この湖の前で、その輪郭は少しだけ水に映った。彼は逃げた者を知っている。逃げる足を知っている。後ろを持ち、前を見なければ死ぬ道を知っている。
いつか、彼が語る時が来るかもしれない。
だが、それは真鹿人が急がせるものではない。
里へ戻ると、昼の支度が始まっていた。
魚を焼く匂いがした。子どもたちは水辺で遊んでいたが、泥の深い場所には近づかない。女たちは水を汲み、老人は石の上に置かれた白布を見て、何も言わずに通り過ぎた。
里は、強い名の話を聞いた後も変わらず動いていた。
それが不思議でもあり、当然でもあった。
神の名が語られても、飯は炊かれる。
水は汲まれる。
舟は直される。
蛇の跡は踏まれない。
子は叱られる。
強い名は、この暮らしの上に置かれる。
暮らしを消してはならない。
水緒は、里の端で立ち止まった。
「今日は、もう書きすぎるな」
真鹿人は頷いた。
「はい」
「強い名を聞いた日は、筆が熱くなる」
「熱くなる」
「熱い筆は、弱いものを焼く」
真鹿人は、文箱を押さえた。
「気をつけます」
「気をつけるだけでは足りぬ。飯を食え。歩け。水を汲む者を見ろ」
佐那が言った。
「飯なら任せてください」
「お前は食いすぎるな」
水緒が言うと、佐那は少しだけ肩を落とした。
多加津が短く笑った。
その笑いに、湖の風が混じった。
夕方、真鹿人は一人で湖を見た。
水面は穏やかだった。昨日よりも少し青く、遠くの山影を静かに抱いている。朝に張られていた縄はもうない。だが、石の上には白布が三つ残っている。
その白は、因幡の白とも、蛇の抜け殻の白とも違った。
名を水に流さず、石の上に置いた白。
真鹿人は、その違いを胸に刻んだ。
水緒の言葉を思い出す。
その名、敗れて来た。
湖は、逃げてきた者を見たのではない。来た者を見た。
逃げた、という言葉は、人が後ろから見る時の言葉。
受け入れるとは、ここで変わるなら立て、ということ。
真鹿人は、もう一度だけ文箱を開きかけた。
だが、水緒に言われた通り、書かなかった。
熱い筆は、弱いものを焼く。
彼は手を止め、湖を見た。
逃げたのではない。
その言葉は、湖の前では否定ではなかった。
逃げたという一語をほどくための緒だった。
敗れたことを消さず。
逃げた足を軽んじず。
来た者として水の前に立たせる。
変わることを許し、求める。
それが、諏訪の湖だった。
夜が近づくと、湖はまた少しずつ名を隠し始めた。
白布も見えにくくなった。
石も、葦も、岸も、闇に沈んでいく。
だが、消えたわけではない。
真鹿人は、空の木簡の重さを背に感じながら、里へ戻った。
明日は、石に宿る名を聞く。
名を持たない土地神たちのこと。
強い名の周りに消えずに残る、小さく古いものたちのこと。
タケミナカタの名を聞いたことで、ようやくその小さな名なきものを見る準備ができたのかもしれない。
湖の水音が、背後で続いていた。
逃げたのではない。
だが、逃げなかったのでもない。
その間に、諏訪の神は立ち始めていた。




