第十五章 蛇の古い神
朝、里は水の音で始まった。
大和の朝は、人の声で始まることが多い。
門を開ける音、役所へ向かう足音、馬の鼻息、木簡を運ぶ者の声、火を起こす音。人が起き、人の務めが動き出し、その中で朝が形を持つ。
だが、諏訪の里では、水が先に起きていた。
いや、水は眠っていなかったのかもしれない。
夜の間も湖は岸を洗い、細い流れは里の脇を通り、葦の根元には湿りが残っていた。人が眠っている間も、水は動き、留まり、染み、隠れ、また現れていた。
真鹿人は、里の端に設けられた小さな寝所で目を覚ました。
屋根は低く、壁は半ば開いている。夜露を避けるには十分だったが、外の音はそのまま入ってきた。佐那はすでに起きていた。昨夜、水緒から「朝の水を見たければ、日が出る前に起きろ」と言われていたからだろう。眠そうな顔をしながらも、荷をまとめている。
多加津は外にいた。
真鹿人が出ると、彼は湖ではなく、里の背後の小道を見ていた。
「何かありましたか」
「蛇が通った」
真鹿人は足元を見た。
湿った土の上に、細い跡があった。まっすぐではない。左右に緩く揺れながら、草の間から出て、石のそばを通り、また別の草むらへ消えている。
足跡ではない。
腹で進んだものの跡だった。
佐那も出てきて、それを覗き込んだ。
「思ったより、はっきり残るんですね」
「水気があるからだ」
多加津が言った。
「乾けば消える」
「では、急いで見ないといけませんね」
佐那は真面目に言った。
真鹿人は、その言葉を聞きながら、蛇の跡を見た。
消える前に見る。
記録もまた、そういうものだと思っていた。消える前に書く。忘れられる前に名を置く。声が途切れる前に木簡へ移す。
だが、蛇の跡を見ていると、別のことも思った。
消えることを前提に残された跡がある。
蛇は、自分の道を記すために跡を残したのではない。ただ通った。その結果として、湿った土が少しだけ形を変えた。やがて乾けば消える。雨が降れば流れる。人が踏めば乱れる。
それでも、今はある。
今あるものを見ずに、永く残るものだけを記すなら、蛇の道はいつも失われる。
水緒の声が背後からした。
「踏むな」
佐那は慌てて足を引いた。
「踏んでいません」
「踏もうとした」
「近づいただけです」
「近づき方を知れと言った」
佐那は素直に頭を下げた。
「はい」
水緒は、蛇の跡のそばにしゃがんだ。指で触れはしなかった。ただ、目で追っている。
「夜明け前に通った」
多加津が言った。
「小さい」
「まだ若い」
水緒は言った。
「湖へ向かったのですか」
真鹿人が尋ねると、水緒は首を振った。
「湖から来た」
「湖から」
「水辺で眠り、石で身を温め、草の中へ入る」
佐那が少し身を震わせた。
「里の中にも来るのですね」
「蛇は、人の境を知らぬ」
水緒は立ち上がった。
「人が後から境を置く」
その言葉は、湖の朝の冷たさより深く真鹿人に入った。
人が後から境を置く。
国も、里も、道も、神域も。
蛇はそれ以前に通る。
水と同じように。
水緒は言った。
「今日は、蛇の話をする」
佐那は、少し緊張した顔をした。
「本物の蛇を見ながらですか」
「見られるなら」
「できれば遠くからがよいです」
「遠すぎれば見えぬ」
「近すぎると怖いです」
「それでよい」
水緒は歩き出した。
三人はその後に続いた。
里の朝は、すでに動き始めていた。女たちは上流側で水を汲み、男たちは舟の周りに集まっている。子どもたちは葦束を運び、老人は昨日と同じ石のそばで縄を編んでいた。
その誰もが、蛇の跡を踏まなかった。
跡は道の端にあり、気づかず踏んでもおかしくない。だが、人々は自然に足を避けた。子どもでさえ、母に言われる前に少し回り込んだ。
真鹿人は、その動きを見ていた。
ここでは、蛇は珍しいものではない。
だが、ただの獣でもない。
恐れているのか。
敬っているのか。
避けているのか。
共にいるのか。
どれか一つではないのだろう。
水緒は里の背後へ向かった。
湖とは反対側である。そこには低い丘のような場所があり、木々が密に生えていた。山ほど高くはないが、里から見れば背であり、湖から見れば岸を抱く腕のようでもあった。
道は湿っていた。
水が多い土地なのだろう。丘へ上がる途中にも、いくつもの細い流れがあった。岩の間から染み出し、苔を濡らし、根の下を通って、やがて里の脇の流れへ集まっていく。
その流れのそばに、石が並んでいた。
自然に並んだのではない。誰かが置いたのだろう。大きさはまちまちで、丸い石もあれば、平たい石もある。どれも苔に覆われ、古いものは半ば土に沈んでいた。
その中に、一つだけ、細長い石があった。
蛇のような形だった。
佐那が小声で言った。
「これは……蛇ですか」
「石だ」
水緒が答えた。
「ですが、蛇に見えます」
「見える」
「蛇の石ですか」
「そう呼ぶ者もいる」
「違う呼び方も?」
「水の寝る石と呼ぶ者もいる」
真鹿人はその石を見た。
細長く、少し曲がっている。表面は滑らかで、苔がところどころについている。頭と尾があるわけではない。目が刻まれているわけでもない。それでも、見る者は蛇を思うだろう。
人が刻んだのか。
水が削ったのか。
初めからそういう形だったのか。
分からない。
水緒は石の前に立った。
「ここで、昔の者は水を待った」
「水を待つ?」
佐那が尋ねた。
「雨か、湧き水か、湖の上がりか」
「上がり?」
「湖は、いつも同じ高さではない」
水緒は丘の下を見た。
木々の隙間から、湖が少し見える。朝の光を受け、水面は白く光っていた。
「雨が続けば水は上がる。風が変われば岸を削る。雪が解ければ流れは太る。水が上がれば、里の場所も変わる」
「水に合わせて住むのですか」
「合わせねば、住めぬ」
真鹿人は、石に目を戻した。
「その水を待つことと、蛇が関わるのですか」
水緒はすぐには答えなかった。
その代わり、足元の湿った土を杖で示した。
「蛇は水を知る」
「水を」
「乾くところには長くいない。冷えすぎる石にもいない。水の近い草を通る。暖まる石に出る。雨の前に動くこともある」
「それを、人が見た」
「見た」
「そして、蛇を水の知らせとした」
「そういうこともある」
真鹿人は頷いた。
神は、天から降りてくるだけではない。
見ることから生まれることがある。
繰り返し見ること。
同じ季節に、同じ場所で、同じものが動くこと。
人がそれに気づき、畏れ、頼り、避け、やがて名を与える。
蛇は水を知る。
だから人は、蛇に水を見た。
そう書けそうだった。
しかし、水緒が先に言った。
「蛇は水の使いではない」
真鹿人は筆を取る前に止まった。
「違うのですか」
「そう語る者もいる」
「では」
「蛇は蛇だ」
水緒は言った。
「人が水を知りたくて、蛇に聞いた」
真鹿人は、その違いを胸に入れた。
蛇は水の使い、と書けば、分かりやすい。
神の使者として蛇を置けば、記録に収まりやすい。
水の神がいて、その使いとして蛇がいる。
そうすれば系譜にも祭祀にも置ける。
だが、水緒はそれを許さない。
蛇は蛇。
人が蛇を見て、水を知ろうとした。
神が先ではない。
関係が先にある。
佐那が、石を見ながら言った。
「蛇は、頼まれても困りそうですね」
水緒は佐那を見た。
「なぜ」
「水のことを教えてくださいと言われても、蛇はただ動いているだけでしょう」
多加津が低く言った。
「それを人が読む」
「はい」
佐那は頷いた。
「読まれる方は、知らないかもしれません」
真鹿人は、佐那の言葉に少し驚いた。
読まれる方は、知らない。
それは、記録にも言えるのではないか。
人が神を読む。
土地を読む。
蛇を読む。
沈黙を読む。
だが、読まれるものは、自分がそのように読まれていることを知らないかもしれない。
あるいは、知っていても、同意しているとは限らない。
事代主の沈黙を承諾として読んだ者がいた。
兎を憐れみとして読んだ者がいた。
タケミナカタを敗走として読んだ者がいた。
読んだ者の都合で、読まれたものの形は変わる。
水緒は、佐那に言った。
「よいことを言った」
佐那は目を丸くした。
「私がですか」
「そうだ」
佐那は嬉しそうにしたが、すぐに少し不安そうになった。
「でも、今のは思っただけです」
「思っただけのものが、時々水に近い」
真鹿人は、佐那を見た。
佐那は身体に近い。
だから、読む前のものに触れることがある。
記録官である真鹿人は、どうしても読む。意味を探す。言葉へ置く。
それは必要だ。だが、読む前に見ること、感じること、腹を通すことを忘れれば、記録は蛇を使いにしてしまう。
水緒は、石の前にしゃがんだ。
「昔、この石の下に水が溜まったという」
「今は?」
佐那が尋ねた。
「今は、雨の後だけだ」
「昔は、いつも?」
「そう語る者もいる」
「本当ですか」
「本当かどうかより、そう語るほど水を待った者がいた」
真鹿人は、その言葉を聞いた。
水があったかどうか。
石の下に湧き水があったのか。
蛇がそこに棲んだのか。
それは確かめられるかもしれないし、確かめられないかもしれない。
だが、そう語るほど水を待った者がいた。
それは確かに残る。
語りは、過去の事実だけを運ぶのではない。
何を待ち、何を恐れ、何を失いたくなかったかを運ぶ。
真鹿人は、木簡を出した。
水緒は止めなかった。
彼は書いた。
蛇、水を知ると見る者あり。
されど、蛇は水の使いにあらず。
人、水を知りたく、蛇に聞く。
読まれるもの、読まれることを知らぬことあり。
断ずるべからず。
そこまで書いて、筆を止めた。
水緒は木簡を覗き込まなかった。
「今のは、書いてよかったでしょうか」
真鹿人が尋ねると、水緒は言った。
「お前が見て、聞いて、止まったなら」
「止まる?」
「使い、と書かなかった」
真鹿人は頷いた。
「はい」
「なら、少しはよい」
少し。
水緒は決して全てを許さない。
だが、その少しが、今は十分だった。
丘の奥へ進むと、さらに古い場所へ出た。
そこには、木が少なかった。
丸く開いた地面の中央に、大きな石が三つ置かれている。黒い石、白い石、赤茶けた石。真鹿人は思わず息を止めた。
出雲の夜、宇都志が見せた石を思い出した。
黒は沈んだ言葉。
白は剥がれた道。
赤は運ばれる傷。
同じ色だった。
だが、同じではない。
真鹿人は、すぐにそう自分を止めた。
出雲を探しすぎるな。
宇都志の言葉が、この場所で強く響いた。
水緒は、真鹿人の表情を見て言った。
「何かを思い出したか」
「出雲で、似た色の石を見ました」
「同じに見えるか」
「見えそうになりました」
「今は」
「同じにしてはならないと思っています」
水緒は、三つの石を見た。
「ここでは、黒は水の底と言う者がいる」
真鹿人は、静かに聞いた。
「白は、脱いだ身」
蛇の抜け殻。
真鹿人の胸に、それが浮かんだ。
「赤は、冷えぬ血ではなく、温まる石と言う者がいる」
「温まる石」
「朝の蛇が、最初に触る石だ」
真鹿人は、三つの石を見た。
黒、白、赤。
同じ色でも、土地が違えば意味が違う。
出雲では沈んだ言葉、剥がれた道、運ばれる傷。
諏訪では水の底、脱いだ身、温まる石。
どちらが正しいのではない。
どちらも、その土地の見方である。
しかし、ここで出雲の意味を重ねれば、諏訪の石を奪う。
真鹿人は、深く息を吸った。
「書かぬのか」
水緒が尋ねた。
「書きます」
真鹿人は答えた。
「ただし、出雲と同じにしないために書きます」
彼は木簡を取り出した。
書いた。
黒、白、赤の石あり。
出雲に似ると見えしが、同じにあらず。
ここにて黒は水の底、白は脱ぎし身、赤は温まる石と語る者あり。
色、同じく見えても、土地により声を異にす。
出雲をもって諏訪を読むべからず。
書き終えると、真鹿人はしばらく木簡を見た。
これは大事な一文だった。
出雲をもって諏訪を読むべからず。
第一部から第二部へ入るために、真鹿人自身が越えねばならない境である。
水緒は、三つの石の前に立った。
「この場所では、昔、蛇が身を替えるのを待ったという」
佐那が言った。
「蛇は、待たれて困らないのでしょうか」
「困ったかもしれぬ」
水緒は答えた。
「ですが、待ったのですね」
「人は、変わるものを見たがる」
水緒の声は静かだった。
「変わるものを見て、自分も変われると思う。あるいは、変わらぬものがあると思いたい」
「蛇は変わるのですか、変わらないのですか」
佐那が尋ねた。
「身を脱げば変わる。だが、蛇であることは変わらぬ」
水緒は答えた。
「だから古い」
真鹿人は、その言葉を聞いた。
変わる。
だが、変わらない。
身を脱ぎ、なお蛇である。
蛇の古さは、動かぬ古さではない。
変わりながら続く古さ。
大和の系譜が求める古さとは違う。
血筋や名の連なりではなく、身を替えながら続くもの。
その古さは、湖に似ている。
水は常に変わる。
だが、湖は湖としてある。
昨日の水と今日の水は違う。
朝の湖と夜の湖は違う。
それでも人は湖と呼ぶ。
名は、変わるものを一つに保つ器でもある。
だが、その器を硬くしすぎれば、変わる力を失わせる。
蛇の古い神とは、そういうものかもしれない。
真鹿人は、まだ書かなかった。
水緒は、三つの石の向こうにある低い岩陰を示した。
そこには、小さな穴があった。人が入れるほどではない。獣なら入れるかもしれない。穴の周囲には湿った苔があり、細い水が染み出している。
「この穴から、昔、白い蛇が出たという」
佐那は少し後ずさった。
「今も出ますか」
「出るかもしれぬ」
「今ですか」
「今ではないかもしれぬ」
「水緒の答えは、心臓に悪いです」
水緒は、佐那を見た。
「蛇は、心臓のある者を驚かす」
「ない者もいますか」
「石にはない」
「石は驚かない?」
「驚いた石を見た者もいるかもしれぬ」
佐那はもう何も言えなくなった。
多加津が、穴を見ていた。
「ここは、隠れるには浅い」
「人には」
水緒が言った。
「蛇には違う」
多加津は頷いた。
「追われるものは、身に合う穴を知る」
その言葉に、真鹿人は多加津を見た。
水緒も、多加津を見た。
だが、誰もそれ以上問わなかった。
追われるものは、身に合う穴を知る。
それは、多加津自身の言葉でもあるのだろう。過去に逃げた者。名を変えなければ持って行けないものがあった者。その彼が、蛇の穴を見てそう言った。
蛇は、逃げるものなのか。
それとも、隠れるものなのか。
身を替えるものなのか。
水を知るものなのか。
古い神なのか。
すべてであり、どれか一つではない。
水緒は穴の前にしゃがみ、手を合わせることはしなかった。拝むこともしなかった。ただ、少しだけ頭を下げた。
それは礼のようであり、挨拶のようでもあった。
佐那も真似て頭を下げた。
真鹿人も下げた。
多加津は、ほんのわずかに顎を引いた。
水緒は言った。
「蛇の古い神と言っても、神の形を思うな」
「形を」
「人の姿をした神でも、大きな社に座る神でもない。名を呼べば来る神でもない。水が増える前に動くもの。石の温みを知るもの。古い身を脱ぐもの。穴に入り、また出るもの。見えず、しかし跡を残すもの」
真鹿人は聞いていた。
水緒の言葉は、神を説明しているようでいて、蛇そのものを述べていた。
蛇を神へ高めすぎない。
神を蛇から切り離さない。
その間に、古い信仰がある。
「では、蛇が神なのですか」
真鹿人が尋ねると、水緒は首を振った。
「その問いは早い」
「はい」
「蛇を見て、神を感じた者がいた。それでよい」
「神は、感じられた後に名になる」
「そういう時もある」
水緒は、穴の周りの苔に触れた。
「ただし、名になる前の方が長い」
名になる前の方が長い。
真鹿人は、その言葉に深く打たれた。
記録官が扱うのは、名になった後である。
名を集め、系譜に置き、神として記す。
しかし、土地においては、名になる前の時間の方が長い。
名もなく、形も曖昧で、ただ恐れられ、避けられ、頼られ、見られ、待たれてきた時間。その長い時間を落としてしまえば、名になった神だけが突然現れたように見える。
それは違う。
蛇の古い神とは、名になる前の長さを抱えたものなのだ。
真鹿人は、木簡を取り出した。
今度は迷わなかった。
蛇の古い神、形ある神にあらず。
水が増す前に動くもの。
石の温みを知るもの。
古き身を脱ぐもの。
穴に入り、また出るもの。
見えず、されど跡を残すもの。
蛇を見て、神を感じた者あり。
名になる前の方が長し。
断ずるべからず。
書き終えて、真鹿人は息を吐いた。
この木簡は、持ち帰れるだろうか。
大和の記録に、このまま置けるとは思えない。あまりに曖昧で、神名も系譜もない。だが、この曖昧さを削れば、諏訪の古さは消える。
水緒は、何も言わなかった。
それは許しではない。
だが、止められなかった。
今はそれでよかった。
昼近く、四人は丘を下りた。
佐那は、何度も後ろを振り返っていた。
「出てきませんでしたね」
「何が」
多加津が尋ねた。
「白い蛇です」
「出てほしかったのか」
「出てほしくはないですが、少し見たかったです」
「どちらだ」
「遠くからなら」
水緒が言った。
「見たいと思う時、蛇は出ぬことが多い」
「なぜですか」
「見たい目は、音を立てる」
佐那は目を瞬かせた。
「目が?」
「そうだ」
水緒は平然と答えた。
「蛇は、目の音を聞く」
佐那は真剣に考え込んだ。
真鹿人は、少し笑いそうになったが、笑わなかった。
目の音。
それは奇妙な言葉だが、分かる気もした。見ようとしすぎる視線は、確かに相手へ触れる。捕まえようとする目。名づけようとする目。記録しようとする目。
蛇は、それを聞いて隠れる。
土地もまた、そうなのかもしれない。
見たいと思いすぎる者には、土地は姿を隠す。
里へ戻る途中、小さな子どもが走ってきた。
手に何かを持っている。母親らしき女が後ろから追ってきていた。
「水緒!」
子どもはそう呼んだ。
水緒は足を止めた。
子どもは手を開いた。そこには、細い抜け殻の欠片があった。完全な形ではなく、途中で切れている。風に飛ばされてきたのか、草に引っかかっていたのか。
「見つけた」
子どもは誇らしげに言った。
母親が息を切らして追いついた。
「勝手に触るなと言っただろう」
子どもは口を尖らせた。
「でも、乾いていた」
「乾いていてもだ」
水緒は、子どもの手を見た。
「どこで拾った」
「水の下」
「上か下か」
子どもは少し考えた。
「洗うところより下」
水緒は頷いた。
「なら、戻してこい」
「持っていてはいけない?」
「持つなら、なぜ持つかを知れ」
子どもは困った顔をした。
「きれいだから」
「なら、見るだけでよい」
「でも、なくなる」
「なくなるものもある」
子どもは、まだ納得していないようだった。
水緒はしゃがみ、子どもの目の高さになった。
「蛇は、いらなくなったから置いた。お前が持てば、また何かにする。飾りか、遊びか、印か」
「だめなの?」
「だめな時もある」
「今は?」
「今は、蛇が置いたままにしてやれ」
子どもはしばらく抜け殻を見ていた。
それから、こくりと頷き、来た道を戻っていった。母親が水緒に頭を下げ、後を追う。
佐那が小声で言った。
「私も拾いたくなったかもしれません」
「拾っただろうな」
多加津が言った。
「そこまで言わなくても」
「事実だ」
水緒は、子どもの背を見送りながら言った。
「拾うことが悪いのではない」
真鹿人は水緒を見た。
「持つなら、なぜ持つかを知れ」
「そうだ」
水緒は答えた。
「持つとは、変えることだ」
真鹿人の胸に、その言葉が沈んだ。
持つとは、変えること。
出雲で宇都志は、石を持って行くな、その重さを持って行けと言った。
因幡の浜で、真鹿人は「名」の字の欠片を拾わなかった。
水緒は今、蛇の抜け殻を子どもに戻させた。
持って行くことは、残すことではない。
持った瞬間、そのものは場所から離れ、別の意味を帯びる。
木簡も同じだ。
真鹿人が書いて持ち帰れば、諏訪の声は諏訪から離れる。大和の記録に入る。そこで形を変える。だからこそ、何を持つかを知らねばならない。
持つなら、なぜ持つかを知れ。
それは、記録官に向けられた言葉でもあった。
里へ戻ると、昼の支度が始まっていた。
魚を焼く匂いがした。佐那の顔が少し明るくなる。水緒はそれを見て、里の女に何か短く告げた。しばらくして、三人にも焼いた魚と温かい飯が分けられた。
佐那は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
女は笑った。
「よく歩いた顔をしている」
「顔に出ますか」
「腹にも出ている」
佐那は少し恥ずかしそうにした。
真鹿人は魚を受け取りながら、湖の恵みを思った。
水は恐れられる。
蛇は避けられる。
石は蹴られない。
だが、湖は食をもたらす。
畏れと恵みは、分かれていない。
神とは、その両方の間に立ち上がるのかもしれない。
昼食の後、水緒はしばらく姿を消した。
佐那は里の子どもたちと話し、多加津は舟の近くにいた。真鹿人は、昨日の古い木の下で木簡を整理した。
水緒に止められたもの。
書いたもの。
書かなかったもの。
書きかけてやめたもの。
それらが文箱の中で重なっている。
第一部の木簡には、出雲の夜の重さがある。
第二部の木簡には、まだ水の湿りがある。
真鹿人は、空の木簡を取り出した。
白い。
旅の始まりから変わらず、何も書かれていない。だが、真鹿人には、以前と同じ空白には見えなかった。
空白は、何もない場所ではない。
書かずに残しているものが、そこに集まっている。
兎の歌。
拾わなかった名の欠片。
宇都志の三つの石。
事代主の沈黙。
タケミナカタの怒り。
曲戸の道。
夜の湖の月。
水緒の名。
蛇の古い身。
それらは書かれていない。
だが、空白はそれらを聞いている。
真鹿人は、木簡を戻した。
まだ書く時ではない。
夕方、水緒が戻ってきた。
彼女は、手に細い縄を持っていた。縄は湿っており、ところどころに白い繊維が見える。里の老人が編んでいたものと似ていた。
「これは何ですか」
佐那が尋ねた。
「水を渡す緒」
「水を?」
「器を結ぶ。舟を留める。石に巻く。時には、入ってはならぬ場所を示す」
水緒は縄を真鹿人に見せた。
「緒は、縛るだけではない」
「つなぐもの」
「切るために張ることもある」
「切る?」
「ここから先は入るな、と示す時、緒は道を切る」
真鹿人は、水緒の名を思った。
水緒。
水の緒。
つなぎ、示し、時に切るもの。
彼女の名は、やはり彼女自身ではない。だが、彼女の立つ位置をよく表している。
「蛇も、緒のようですね」
佐那が言った。
水緒は佐那を見た。
「なぜ」
「細くて、長くて、どこかへ続いていて、でも踏んではいけない」
多加津が低く言った。
「それは、緒より蛇だ」
「そうですね」
佐那は少し笑った。
水緒は縄を手の中で巻いた。
「蛇を緒と見る者もいる」
「やはり」
佐那は嬉しそうにした。
「だが、蛇は緒ではない」
佐那は肩を落とした。
「またですか」
「似ていることと、同じことは違う」
水緒は言った。
真鹿人は、その言葉を何度も聞いている。だが、聞くたびに違う。
似ていることと、同じことは違う。
出雲と諏訪。
兎の皮と蛇の抜け殻。
湖と海。
緒と蛇。
神と名。
人と守り手。
似ているから響く。
同じにすれば奪う。
この章全体が、そのことを教えているようだった。
日が暮れる前、水緒は三人をもう一度、蛇の跡があった道へ連れて行った。
朝の跡は、ほとんど消えていた。
人が踏んだわけではない。日が上がり、土の湿りが少し変わり、風が草を動かしただけで、蛇の道は曖昧になっていた。よく見れば分かるが、朝のようには見えない。
佐那が残念そうに言った。
「消えましたね」
「消えたように見える」
水緒が言った。
「違うのですか」
「土は覚えている」
「土が?」
「次に水が来る時、同じ窪みに水が寄ることがある。草も少し倒れている。虫はそこを通る。別の蛇も通るかもしれぬ」
真鹿人は、消えかけた跡を見た。
記録に残らないものも、完全には消えない。
形を変え、別のものの道になる。
蛇の跡が、水の筋になり、虫の道になり、草の倒れになり、次の蛇の道になる。
それは記録とは違う残り方だった。
土地の記録。
木簡ではなく、土に残る記録。
水緒は言った。
「蛇の古い神は、社に閉じる前から、こうして残っていた」
「跡として」
「跡として。避け方として。水の待ち方として。石の温め方として。子に触るなと叱る声として」
真鹿人は、深く頷いた。
神は、名になる前から暮らしの中にいる。
それは大きな姿ではない。
小さな動きの集まりである。
蛇の跡を踏まないこと。
抜け殻を持ち去らないこと。
水の上を濁さないこと。
石を蹴らないこと。
見たい目の音を小さくすること。
それらが長く続き、やがて神の名をまとう。
水緒は、夕闇の中で静かに言った。
「明日は、強い名の話をする」
真鹿人は顔を上げた。
「タケミナカタですか」
水緒は今度は否定しなかった。
ただ、湖の方を見た。
「お前たちは、逃げた神の名を追ってきた」
「はい」
「だが、今日見たものを忘れて聞け」
「忘れるのですか」
「忘れず、前に出すな」
真鹿人はその言葉を胸に受けた。
蛇の古い神を、タケミナカタの前に置きすぎれば、また物語を一つにしてしまう。だが、忘れれば、諏訪は出雲の受け皿になる。
忘れず、前に出すな。
それは難しい。
だが、その難しさを持たなければ、次の話は聞けない。
水緒は続けた。
「その名は、ここへ来た」
湖の風が、葦を鳴らした。
「だが、来たから神になったのではない」
真鹿人は、息を止めた。
「湖に受け入れられたからですか」
水緒は、まだ答えなかった。
その答えは次章にあるのだろう。
ただ、水緒は言った。
「明日、話す」
夕闇が深くなっていく。
蛇の跡は、ほとんど見えなくなった。
だが、ないわけではない。
真鹿人は、足元を見た。
湿った土の上に、かすかな曲がりが残っている。
それは文字ではない。
だが、読もうとすれば読める。
読みすぎれば、失う。
彼は、その曖昧な跡を胸に入れた。
木簡には、まだ書かなかった。
夜になれば、湖はまた名を隠す。
そして明日、隠された名の一つが、水緒の口から語られる。
逃げたのではない。
まだ聞いていないその言葉が、湖の向こうから静かに近づいていた。
空の木簡は、まだ空のままだった。




