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月を隠した国  作者: 月読 龍
諏訪、逃れた神の湖
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16/32

第十四章 水緒

 夜明け前、湖はまだ姿を持っていなかった。


 ただ、音だけがあった。


 水が岸に触れる音。

 葦が擦れる音。

 遠くで鳥が短く鳴く声。

 湿った土の下で、何か小さなものが動く気配。


 真鹿人は、目を開けた。


 火はほとんど消えていた。灰の奥に赤い点が一つ残り、時折、風に触れて鈍く光る。佐那は荷を抱えるように眠っていた。多加津は起きている。いつ眠ったのか、あるいは眠っていなかったのか分からない。彼は火の向こうで、湖の方を見ていた。


 水緒の姿はなかった。


 昨夜、飯を食べ、湖の話を少しだけしてから、彼女は「明け方に戻る」とだけ言って闇の中へ消えた。どこで眠るのか、誰と暮らしているのか、里に家があるのか。真鹿人は何も知らない。


 知らないことが、彼女には似合っていた。


 水緒という名も、本名ではないのだろう。


 そう呼ぶ者がいる。


 彼女はそう言った。


 曲戸もまた、そうだった。道の者も、水の者も、名を固定されることを嫌う。あるいは、固定された名では扱えぬ場所に立っているのかもしれない。


 真鹿人は文箱に触れた。


 水緒。

 諏訪の守り手。

 湖を見ている者。

 名を持って来る者と、名を置いていく者を見る者。


 書けることはある。


 だが、それを書くと、水緒はすぐに何かの役目へ収まってしまう。


 巫女。守人。語り部。水の番人。湖の女。


 どれも当たっているようで、どれも早すぎた。


 真鹿人は、文箱から手を離した。


 空が少しだけ薄くなった。


 湖の方から霧が上がっている。湖が霧を吐いているのか、霧が湖を包んでいるのか分からなかった。水と空の境が曖昧で、世界の下半分がまだ夢の中にあるようだった。


 多加津が低く言った。


「来る」


 真鹿人は顔を上げた。


 葦の間から、水緒が現れた。


 夜の闇では湖に溶けていた彼女は、明け方の霧の中ではさらに輪郭が薄かった。灰青い衣は水気を含み、裾には泥がついている。手には昨日と同じ細い杖を持っていた。髪は結ばれていたが、いくつかの細い毛が頬に貼りついている。


 佐那が目を覚ました。


「……朝ですか」


「まだ朝になる前だ」


 多加津が答えた。


 佐那は起き上がり、水緒を見て慌てて姿勢を正した。


「おはようございます」


「まだ、日は出ていない」


 水緒はそう言った。


 佐那は困った顔をした。


「では、何と言えば」


「起きた、でよい」


「起きました」


「見れば分かる」


 佐那はさらに困った。


 多加津がわずかに息を漏らした。


 水緒は、火の跡を見た。


「消したか」


「まだ芯が残っている」


 多加津が答えた。


「なら、消す前に湯を立てろ。身体を冷やすな」


 佐那はすぐに動き始めた。


 水緒は昨夜と同じように、火の光の内側には入りきらない場所に立っていた。彼女は火を嫌っているわけではない。ただ、火の中心に座る者ではないように見えた。水の方へ身体の半分を残し、火の方へ言葉だけを置く。


 佐那が湯を沸かしている間、水緒は湖の方を見ていた。


 真鹿人はその横に立った。


 湖は、まだ色を決めていなかった。


 夜の黒は薄れ、灰になり、霧の白が水面を覆っている。山の影は湖に沈み、空はまだ青くない。鳥が一羽、葦の奥から飛び立った。羽音が霧の中に消える。


「夜の水は、名を隠す」


 真鹿人は、昨夜の言葉を口にした。


 水緒は湖を見たまま言った。


「書いたか」


「書いていません」


「なぜ」


「まだ、水緒の言葉のまま置くべきだと思いました」


「私の言葉にするな」


 真鹿人は、少し顔を伏せた。


「では、湖の言葉でしょうか」


「それも早い」


「では」


「お前が昨夜聞いた言葉だ」


 水緒は言った。


「誰のものにするかを急ぐな」


 真鹿人は黙った。


 誰のものにするか。


 言葉にも、所有がある。

 大和の記録に入れば、その言葉は大和の記録の一部になる。

 水緒の言葉として書けば、水緒に帰る。

 湖の言葉として書けば、湖へ重ねられる。


 だが、言葉は時にそのどれでもなく、聞いた者の中でしばらく揺れているべきなのかもしれない。


 真鹿人は頷いた。


「まだ、私が聞いた言葉として持ちます」


「持ちすぎるな」


「はい」


「置きすぎるな」


 真鹿人は少しだけ笑った。


「難しいですね」


「水を運ぶのは難しい」


 水緒は短く答えた。


 その言葉は、何でもないことのようでいて、真鹿人の胸に残った。


 水を運ぶには器がいる。

 しかし器に入れれば、水は形を変える。

 器がなければ、遠くへ運べない。

 器が強すぎれば、水そのものを忘れる。


 名も、記録も、同じなのだろう。


 佐那が湯を差し出した。


「どうぞ」


 水緒は受け取った。


 湯だけだった。飯はまだ入っていない。水緒は器を両手で持ち、少し冷ましてから口をつけた。


「この水は、どこから汲んだ」


「昨日教えていただいた、湖へ入る前の細い流れです」


「なぜ湖から汲まなかった」


「……水緒が、そこを使うようにしたからです」


「それだけか」


 佐那は困った。


「湖の水は、触る場所を選べと言われたので」


「それだけか」


 佐那は湯気を見た。


「汲んでよい水と、見ておく水が違うのかなと」


 水緒は頷いた。


「それでよい」


 佐那はほっとした。


「合っていましたか」


「合っているというより、近い」


「近いならよいです」


「近いと思った時、足元を見ろ」


「はい」


 佐那は素直に頷いた。


 真鹿人は、そのやり取りを聞いていた。


 水緒は、答えを与えない。だが、ただ突き放すわけではない。相手の言葉が水に近づくまで待ち、早ければ止め、浅ければもう一度問う。


 守る者。


 それは、禁じる者ではない。

 問わせる者でもある。


 やがて佐那が飯を入れ、朝の支度が整った。


 簡素な飯だった。湯に戻した干し飯と、少しの塩、昨夜の残りの木の実。水緒はそれを受け取り、少しだけ食べた。多加津も黙って食べ、佐那はいつもより早く器を空にした。


「湖の前だと、腹が空きますね」


 佐那が言った。


「歩いたからだ」


 多加津が答えた。


「それもありますが」


「それだけだ」


 水緒は佐那を見た。


「腹が空くのは、身体が土地に入ろうとしているからでもある」


 佐那は目を丸くした。


「土地に?」


「見るだけの者は、腹を忘れる。入る者は腹が空く」


 佐那は真面目に頷いた。


「では、私は諏訪に入っていますか」


「少し」


「少しですか」


「飯一杯分ほど」


 多加津が低く笑った。


 佐那は不満そうにしたが、どこか嬉しそうでもあった。


 真鹿人は、飯一杯分の土地、という言葉を面白く思った。


 大和の記録では、土地は境と名で測る。

 里、郡、国。

 山、川、湖。

 しかし、水緒は飯で測る。


 飯一杯分、土地に入る。


 それは記録には書きにくい。

 だが、旅人にはよく分かる。


 食べたものが身体に入り、その土地の水で戻された飯が腹を満たす。そうして人は、その土地を少しだけ内側に入れる。


 佐那は、それを誰より早くしている。


 朝食を終えると、水緒は火の跡に土をかけた。


 多加津がそれを見ていた。


「火を消す手に慣れている」


「水辺では、火を粗末にできない」


「水があるのにか」


「水があるからだ」


 水緒は火の跡をならした。


「水辺の火は、人を呼ぶ。人だけでないものも呼ぶ」


「獣か」


「獣も。迷う者も。帰れぬ者も。名を失った者も」


 多加津は黙った。


 真鹿人はその言葉を聞き、書きたいと思った。


 水辺の火は、帰れぬ者を呼ぶ。


 だが、今はまだ、聞くだけにした。


 水緒は立ち上がった。


「里へ行く」


 佐那は荷を背負った。


「いよいよ諏訪の里ですか」


「里の一つだ」


「一つ?」


「湖の周りに、暮らしは一つではない」


 水緒は歩き出した。


「水を同じくしても、祈り方は同じではない」


 真鹿人は、すぐにその言葉を胸に留めた。


 湖が一つであるからといって、湖畔の人々が一つの信仰を持つとは限らない。大和の記録は、ともすれば土地の名を一つにまとめ、その地に属する神を一つの形へ置こうとする。


 だが、湖の周りには複数の暮らしがある。


 水を汲む場所が違う。

 葦を刈る時期が違う。

 石を避ける理由が違う。

 蛇を見た時の沈黙が違う。


 それらを一つにすれば、諏訪の声は失われる。


 三人は、水緒の後について湖畔を歩いた。


 道は岸から少し離れていた。近すぎれば泥に足を取られ、遠すぎれば水の様子が見えない。水緒はその中間を選んで歩いた。近づきすぎず、離れすぎず。昨夜の言葉の通りだった。


 湖は、朝の光を受けて少しずつ姿を変えていった。


 霧が薄れ、水面に淡い青が差す。遠くの山の輪郭が現れ、また消える。葦の穂が朝日に濡れ、鳥の声が増えた。岸辺には小さな舟のようなものが幾つか引き上げられていた。丸木をくり抜いたものもあれば、板を合わせたものもある。


 佐那がそれを見て言った。


「湖を渡るのですか」


「渡る者もいる」


 水緒が答えた。


「渡らない者も?」


「湖は道でもあり、境でもある」


「どちらですか」


「その時による」


 佐那は困ったように笑った。


「諏訪に来てから、その答えばかりです」


「水の近くでは、同じものが同じままでいることが少ない」


 水緒は言った。


「凍れば道になる。解ければ境になる。荒れれば壁になる。凪げば鏡になる。濁れば隠す。澄めば見せる」


 真鹿人は湖を見た。


 同じ水が、時に道となり、時に境となる。


 それなら、タケミナカタにとって、この湖は何だったのだろう。


 逃げてきた者を阻む壁か。

 追ってくるものを止める境か。

 自らを映す鏡か。

 名を隠す水か。

 あるいは、別の神へ変わるための器か。


 そう考えかけて、真鹿人はまた止めた。


 まだ早い。


 水緒が、まだその名を語っていない。


 湖畔の道を進むと、やがて人の気配が濃くなった。


 はじめは煙だった。


 薄い煙が木立の奥から立っている。火を焚く匂い。湿った薪の匂いに、魚を焼く匂いが混じっていた。佐那の腹が小さく鳴った。


 多加津が横目で見た。


「飯一杯分では足りなかったか」


「朝の飯は朝の飯です」


「今はまだ朝だ」


「歩けば別です」


 水緒が言った。


「湖の里では、朝のうちに動く者が多い」


 佐那は少し背筋を伸ばした。


「では、私も正しいです」


 多加津は何も言わなかった。


 木立を抜けると、数軒の家が見えた。


 大和の家とは違った。柱は低く、屋根は草と木の皮で厚く葺かれている。湿気を避けるためか、床を少し上げたものもあった。家の周りには葦束が立てかけられ、網が干され、石がいくつも並べられている。


 人々がいた。


 女が水を運んでいる。

 男が舟の底を直している。

 子どもが葦の束を引きずっている。

 老人が石のそばに座り、何か細い縄を編んでいる。


 誰も、水緒を見て驚かなかった。


 しかし、誰も軽く声をかけもしなかった。


 水緒が通ると、人々はわずかに目を下げる。道を譲る者もいる。だが、拝む者はいない。水緒もまた、偉ぶる様子はなかった。そこにある石を避けるように、自然に人々の間を歩いた。


 佐那が小声で言った。


「偉い方なのでしょうか」


 水緒は振り返らずに答えた。


「偉い者は、もっとよく座る」


 佐那は口を閉じた。


 多加津が言った。


「では、よく歩く者か」


「水は座っているようで、歩いている」


 水緒は答えた。


「私は、その端を見ているだけだ」


 真鹿人は周囲を見た。


 里の人々は、水緒を恐れているわけではない。親しげでもない。必要な距離がある。湖と人の間に置く距離と似ている。


 近づきすぎず、離れすぎず。


 水緒自身が、その距離の形なのかもしれなかった。


 一人の老婆が、家の前から水緒に声をかけた。


「昨夜、外の者が火を焚いたか」


「焚いた」


 水緒が答えた。


「大きくは」


「していない」


「ならよい」


 老婆は三人を見た。


 特に真鹿人を見た。


「大和か」


「はい」


 真鹿人は一礼した。


「名を取りに来たか」


 その言い方には、集める、ではなく、取る、という響きがあった。


 真鹿人は、すぐには答えなかった。


「名を記す役を持っています」


 老婆は鼻で笑った。


「同じことだ」


 佐那が少し身じろぎしたが、真鹿人はそれを手で制した。


「そう見えることは、否定できません」


 老婆は目を細めた。


「若いのに、曖昧な答えをする」


「旅の途中で、曖昧なものを多く見ました」


「曖昧なまま持って帰れるか」


 その問いに、真鹿人は答えられなかった。


 大和の記録は、曖昧なものを嫌う。名は定められ、系譜は整えられ、異なる語りは位置づけられる。曖昧なまま持ち帰ることは、役目を果たさないことにも見える。


 だが、曖昧さを落として持ち帰れば、それは別のものになる。


 真鹿人は静かに言った。


「持って帰れる形を、まだ探しています」


 老婆は、少し黙った。


 それから水緒を見た。


「この者を、湖の前に置いたのか」


「置いた」


「逃げなかったか」


「逃げなかった」


「泣いたか」


 佐那がぎょっとした顔をした。


 真鹿人は首を振った。


「泣いてはいません」


 老婆は不満そうにした。


「泣く者の方が、まだ水に近いことがある」


「そうなのですか」


「泣かぬ者は、言葉で済ませようとする」


 真鹿人は、深く頭を下げた。


「覚えておきます」


「覚えるな」


 老婆はすぐに言った。


「覚えた言葉を、すぐ木に削るな。腹を通せ」


 佐那が少し嬉しそうに真鹿人を見た。


「腹です」


「佐那」


「すみません」


 水緒は、老婆に言った。


「この者は、まだ早いが、止まりはする」


「止まるなら、少しは聞ける」


 老婆はそう言うと、家の中へ引っ込んだ。


 名は聞けなかった。


 真鹿人は、尋ねるべきか迷ったが、尋ねなかった。あの老婆は、まだ名を差し出していない。ならば、こちらから取るべきではない。


 水緒は再び歩き出した。


 里の中ほどに、小さな開けた場所があった。


 そこには、大きな石があった。


 人の背ほどもある石ではない。腰の高さほどの、平たい石だった。だが、その周囲には小さな石が円を描くように置かれている。石の上には水が少し溜まっていた。雨水なのか、誰かが注いだのかは分からない。


 石のそばには、蛇の抜け殻が置かれていた。


 佐那が息を呑んだ。


「蛇ですか」


「抜けた皮だ」


 多加津が言った。


「触るな」


 佐那はすでに手を伸ばしていなかったが、さらに一歩下がった。


 真鹿人は、その抜け殻を見た。


 白く、薄く、乾いている。頭の形まで残っているが、中身はない。かつてそこに身があった証であり、今はすでに空であるもの。


 因幡の白兎の剥がれた皮が、一瞬、脳裏に浮かんだ。


 白。

 皮。

 失われたもの。

 残った形。


 だが、すぐに重ねるのを止めた。


 兎の皮と、蛇の抜け殻は違う。


 兎は剥がされた。

 蛇は脱いだ。


 傷と、変化は違う。


 それでも、どこかで響き合う。


 真鹿人は、息を整えた。


 水緒が彼を見ていた。


「何を思った」


「因幡を思いました」


 真鹿人は正直に答えた。


「白兎の皮を」


「同じと思ったか」


「一瞬」


「今は」


「違うと思いました」


「どう違う」


「兎は奪われた皮でした。蛇は脱いだ皮です」


 水緒は頷かなかった。


 否定もしなかった。


「それだけか」


 真鹿人は、抜け殻を見た。


「どちらも、そこにいたものが、そこにはもういないと示している」


「それだけか」


「残った皮を見て、本体を知ったつもりになるのは危うい」


 水緒は、そこでようやく小さく頷いた。


「近い」


 佐那が小声で言った。


「また近いですね」


 水緒は佐那を見た。


「近いところにいれば、流されにくい」


「遠いと?」


「届かぬ」


「近すぎると?」


「呑まれる」


 佐那は真面目に頷いた。


「近い、は大事ですね」


 真鹿人は、蛇の抜け殻を見つめた。


 抜け殻は空である。


 だが、空だから何もないわけではない。


 蛇はそこにいない。

 しかし、蛇が変わったことは残っている。

 失ったのではなく、古い身を置いた。


 タケミナカタもまた、諏訪で何かを脱いだのだろうか。


 出雲の神という古い皮を脱いだのか。

 敗れた神という皮を脱いだのか。

 それとも、脱げずに傷を抱えたまま、水に映されたのか。


 まだ分からない。


 だが、蛇の抜け殻は、次章へ続く問いを静かに置いていた。


 水緒は、石の上の水に指を触れた。


 その水を地面へ払うのではなく、石の窪みの中で軽く動かした。水面が揺れ、朝の光が細かく砕けた。


「この石は、何の石ですか」


 真鹿人は尋ねた。


 水緒は言った。


「座る石」


 真鹿人は、以前聞いたような答えに少し目を伏せた。


「それだけではないのでしょう」


「それだけである時もある」


「今は」


「今は、蛇が皮を置いた石」


「祭る石ですか」


「祭る者もいる」


「水を置く石ですか」


「置く者もいる」


「神の石ですか」


 水緒は、真鹿人を見た。


「お前は、石をすぐ高くする」


 その言葉は、以前の沢で聞いたものと同じ響きを持っていた。


 真鹿人は頭を下げた。


「はい」


「高くしすぎれば、人が触れなくなる」


「触れてよいものなのですか」


「触れてはならぬ時もある」


「どちらでしょう」


「見る者を見て決まる」


 佐那が小さく言った。


「難しい……」


 水緒は、佐那の方を見た。


「難しいと思う者は、まだ石を蹴らぬ」


 多加津が短く言った。


「石を蹴るな」


 佐那はすぐに頷いた。


「それはもう覚えました」


 真鹿人は、多加津の言葉を思い出した。


 ――その石は、ただの石とは限らぬ。


 今、その言葉は諏訪の里で別の響きを持っている。山道での警戒だけではない。石は座るものでもあり、供えるものでもあり、蛇が古い身を置くものでもあり、神と呼ばれることもある。


 ただし、どれか一つではない。


 水緒は石から離れた。


「今日は、里を見る」


「蛇のことを聞くのではないのですか」


 真鹿人が尋ねると、水緒は首を振った。


「蛇の話は、蛇を見てからだ」


「今、抜け殻を見ました」


「皮だ」


「蛇ではない」


「そうだ」


 真鹿人は頷いた。


 また、早かった。


 水緒は、常に手前で止める。


 だが、その止め方は不思議と不快ではない。むしろ、止められることで、見落としかけていたものが見えてくる。


 抜け殻は蛇ではない。


 皮である。


 だが、蛇の変化の跡である。


 この区別を落とせば、次に聞く蛇の神もまた、早く閉じられてしまう。


 里を歩くうちに、真鹿人は水緒が人々の中でどのような位置にいるのか、少しずつ見えてきた。


 水緒は命じない。


 しかし、彼女が立ち止まると、人々は手を止める。

 水緒が水辺を見ると、誰かがその先を確かめに行く。

 水緒が石を避けると、子どももその石を避ける。

 水緒が何も言わずに通り過ぎると、老人は安心したように息を吐く。


 彼女は長ではない。

 祭主とも言い切れない。

 語り部とも違う。

 だが、里の水と沈黙の向きを知っている。


 人々は、それを知っている。


 だから従うのではなく、目を向ける。


 水緒は、里の外れにある小さな流れへ三人を連れて行った。


 山から下りてきた水が、里の脇を通り、湖へ注いでいる。その途中に、平たい石を組んだ場所があった。女たちがそこで水を汲み、手を洗い、器をすすいでいた。


 だが、すべてを同じ場所ではしていない。


 上流側では飲み水を汲む。

 少し下で手を洗う。

 さらに下で器をすすぐ。

 泥のついた道具は、もっと下へ運ばれる。


 佐那が感心したように言った。


「順番があるのですね」


「水は戻せぬ」


 水緒が言った。


「上を濁せば、下が飲む」


 佐那は頷いた。


「山の沢でも言われました」


「沢でも里でも同じことはある。だが、同じと思うな」


「またですか」


「ここでは、下に人がいる」


 佐那は流れの先を見た。


 そこには湖がある。


 その手前にも、人がいる。

 水を使う者がいる。

 自分の手を洗う水は、誰かの飲む水の上にあるかもしれない。


 真鹿人は、その順序を見ていた。


 水の扱いから入れ。


 昨夜、水緒はそう言った。


 今、その意味が少し見えた。


 信仰は、言葉だけではない。


 どこで水を汲むか。

 どこで手を洗うか。

 どこを踏まないか。

 何を上流に置かないか。

 何を湖へ流さないか。


 そこに、神の名前より古いものがある。


 それは法でもあり、礼でもあり、恐れでもあり、暮らしの知恵でもある。どれか一つにすれば、また道を誤る。


 真鹿人は木簡を取り出した。


 今度は、書いた。


 水を扱う順あり。

 上を濁せば、下が飲む。

 神の名を問う前に、水の扱いを見るべし。


 そこまで書いて、筆を止めた。


 水緒はそれを見ていたが、止めなかった。


「これは書いてよいのですか」


 真鹿人が尋ねると、水緒は答えた。


「それは見たことだ」


「聞いたことではなく」


「見たことは、書いてもよい時がある」


「いつもではない」


「いつもではない」


 水緒は少しだけ口元を緩めた。


 真鹿人は木簡を乾かした。


 見たことを書く。


 それは当たり前のようでいて、これまでの真鹿人には難しくなっていた。語りを聞き、意味を追い、名の背後を探すほど、彼は目の前の動作を飛ばしそうになる。


 だが、ここでは動作が先にある。


 水を汲む。

 手を洗う。

 石を避ける。

 蛇の皮に触れない。

 火を小さくする。

 飯を少し置く。


 それらの中に、神へ至る道がある。


 里を一回りした後、水緒は三人を湖畔の高台へ連れて行った。


 そこには、一本の古い木があった。


 幹は太く、枝は湖の方へ伸びている。根元には石がいくつか置かれ、その一つに細い縄が巻かれていた。縄は新しいものではない。何度も濡れ、乾き、色が薄くなっている。


 木の下からは、湖がよく見えた。


 朝の霧はほとんど晴れ、水面は淡い青を含んでいる。遠くの山も見えた。だが、向こう岸はまだ霞んでいる。湖は見えても、すべては見えない。


 水緒は、その木の根元に座った。


「ここで話す」


 真鹿人も、少し離れて座った。佐那は荷を下ろし、多加津は立ったままだった。


「水緒」


 真鹿人は、殿をつけなかった。


 水緒は何も言わなかった。


「あなたは、湖を守る者ですか」


 水緒は湖を見ていた。


「その問いは、昨日もした」


「はい」


「なぜ、また聞く」


「昨日は、言葉として聞きました。今日は、里を見た後で聞いています」


 水緒は少しだけ真鹿人を見た。


「なら、少し違う」


「はい」


「守るとは、何だと思う」


 真鹿人は、すぐには答えなかった。


 湖を閉ざすことではない。

 人を遠ざけることでもない。

 近づき方を教えること。

 水の順を守ること。

 石や蛇や沈黙を、早く名に渡さぬこと。


 そう考えたが、まとめて言うには早い気がした。


「近づき方を失わせないこと」


 真鹿人は言った。


 水緒は黙っていた。


「湖へ近づく者、水を汲む者、神の名を問う者。それぞれが、近づき方を誤らぬように見ること。そう思いました」


 水緒は、ゆっくり頷いた。


「少し近い」


 佐那が、今度は笑わなかった。


 真鹿人も、少し近いという言葉を、今はありがたいと思った。


「私は守っているのではない」


 水緒は言った。


「少なくとも、湖を守っているとは言えぬ。湖は、私より古い。私が守ると言えば、湖を私の下に置くことになる」


 真鹿人は、胸の内で息を止めた。


「では、何を」


「人の方を見ている」


 水緒は湖を指した。


「湖は古い。水は強い。石は黙る。蛇は古い身を脱ぎ、また進む。人だけが、見たものにすぐ名をつけ、持って帰ろうとする」


 その言葉は、真鹿人の胸にまっすぐ届いた。


「私のことですね」


「お前だけではない」


 水緒は言った。


「この里の者もそうだ。私もそうだ。人は名をつけねば、遠くへ呼べぬ。子を呼ぶにも、死者を呼ぶにも、神を呼ぶにも、名がいる」


「名は必要」


「必要だ」


 水緒は、昨夜と同じように、それを否定しなかった。


「だが、名をつけた途端、人は安心する。安心すると、見なくなる」


 真鹿人は黙った。


 名をつけることで、見えなくなる。


 それは第一部からずっと追ってきた問いだった。

 名は残す。

 だが、名は閉じる。

 名は器である。

 だが、器を水そのものと思えば、水を失う。


「では、水緒という名も」


 真鹿人が言うと、水緒は小さく頷いた。


「器だ」


「あなた自身ではない」


「そうだ」


「ですが、呼ぶためには必要」


「そうだ」


 水緒は淡々と答えた。


 その淡々とした態度が、かえって深かった。名を嫌っているのではない。名に縛られることを知っているだけなのだ。


「水緒という名は、誰がつけたのですか」


 佐那が尋ねた。


 水緒は佐那を見た。


「覚えていない」


「覚えていない?」


「最初に呼んだ者は、もういない。呼び方だけが残った」


「それは、本名より長く残るのですね」


「そういう名もある」


 佐那は、少し不思議そうにした。


「寂しくはありませんか」


 真鹿人は佐那を見た。


 率直すぎる問いだった。


 しかし、水緒は怒らなかった。


「寂しいと思う時もある」


 佐那は、少し驚いた顔をした。


「あるのですか」


「水辺で名を持つ者は、皆少し寂しい」


「なぜです」


「呼ばれるたびに、水の方へ少し寄せられる」


 水緒は湖を見た。


「人として呼ばれたのか、水の名として呼ばれたのか、分からなくなることがある」


 多加津が、わずかに目を伏せた。


 真鹿人は、多加津の言葉を思い出した。


 名を変えなければ、持って行けないものがあった。


 名は、器である。

 しかし、器にされる者もいる。


 水緒という名は、彼女を湖と人の間に置く。

 その名に守られているものもあれば、その名に奪われているものもあるのだろう。


 真鹿人は、書けなかった。


 水緒は続けた。


「だから、お前は私を書く時、私を湖にしすぎるな」


 真鹿人は深く頭を下げた。


「はい」


「人にしすぎてもならぬ」


 真鹿人は顔を上げた。


 水緒は静かに言った。


「私は湖ではない。だが、ただの人として書けば、水の緒が切れる」


 真鹿人は、その言葉を受け止めた。


 湖にしすぎるな。

 人にしすぎるな。


 その間を保つこと。


 それが、水緒を書くということなのだ。


 だが、それは難しい。


 大和の記録では、分類する。神、人、地名、祭祀、系譜。水緒はどこに置けばよいのか。湖の守り手と書けば、役目になる。女と書けば、ただの人になる。巫女と書けば、別の形を被せる。神に近い者と書けば、湖へ引き上げすぎる。


 真鹿人は、ゆっくり言った。


「水緒、湖と人の間に立つ者。されど、湖にあらず。人のみにもあらず」


 水緒は、しばらく黙っていた。


「書くのか」


「まだ書きません」


「なぜ」


「今の言葉も、まだ私が近づけるための杭にすぎないと思うからです」


 水緒は、ほんの少しだけ笑った。


「曲戸に会ったな」


「はい」


「杭という言い方は、道の者がよくする」


 真鹿人は少し驚いた。


「知っているのですか」


「道の者と、水の者は、時々同じ場所を見る」


「曲戸は何者ですか」


「それを知りたがるうちは、まだ曲戸の道を歩いている」


 真鹿人は、そこで尋ねるのをやめた。


 佐那は不満そうだった。


「私は少し知りたいです」


「飯をもらった者としてか」


 水緒が尋ねると、佐那は頷いた。


「はい。礼を言うにも、何者か分からないと」


「飯をくれた者」


「それだけですか」


「まずはそれでよい」


 佐那は少し考えた。


「それなら、確かに礼は言えます」


 水緒は頷いた。


「すべて知ってから礼を言う者は、礼が遅い」


 佐那は深く納得したようだった。


 真鹿人もまた、その言葉を胸に入れた。


 すべて知ってから書こうとすれば、何も書けない。

 だが、少し知っただけで書けば、閉じてしまう。


 その間。


 この旅は、ずっとその間を探している。


 昼近くになると、湖の光は強くなった。


 里の人々は動き続けている。水を汲み、網を干し、葦を束ね、舟を直す。誰かが石のそばに小さな供えを置き、子どもが蛇の抜け殻に近づこうとして母に止められていた。


 水緒はそれを見て、何も言わなかった。


 言わなくても、人々は分かっている。


 真鹿人は、その沈黙を見た。


 水緒はすべてを命じるわけではない。

 彼女が何も言わないことも、里では一つの合図になっている。


 沈黙は承諾ではない。

 沈黙は聞いている時間である。


 出雲で聞いた言葉が戻った。


 だが、ここではさらに別の姿を持つ。


 水緒の沈黙は、聞いているだけではない。

 見ている。

 止める必要があるかを測っている。

 人が自分で近づき方を思い出すのを待っている。


 沈黙にも土地の違いがある。


 真鹿人は、そのことを強く感じた。


「水緒」


 真鹿人は言った。


「あなたは、語り部ではないのですね」


「語る時もある」


「でも、宇都志とは違う」


「出雲の語り部か」


「はい」


「出雲では、沈んだものを声に戻す者がいるのだろう」


「そう思います」


「諏訪では、声に戻す前に、水に触れる」


 水緒は湖を見た。


「語れば、早くなるものがある」


「早くなる」


「蛇の話も、石の話も、古い水の話も。語れば、人は分かった顔をする」


「だから、まず見せるのですか」


「見せる。歩かせる。汲ませる。止める。食わせる。冷えさせる」


 佐那が目を瞬かせた。


「食わせる、も入るのですか」


「腹を通らぬ語りは、すぐ頭だけになる」


 佐那は真鹿人を見た。


「真鹿人様、腹です」


「分かっている」


「本当ですか」


「たぶん」


 多加津が低く言った。


「まだ足りぬ」


 佐那が笑った。


 真鹿人も、少しだけ笑った。


 水緒も、ほんのわずかに口元を緩めた。


 湖の前で、笑いはすぐに消えなかった。

 水面へ落ち、葦の音に混じり、里の気配の中へほどけていった。


 午後、真鹿人は一人で湖畔を少し歩いた。


 水緒は止めなかった。ただし、「石のあるところまで」とだけ言った。佐那は里の女たちに水の汲み方を見せてもらい、多加津は舟を直す男たちの手元を見ていた。


 真鹿人は、石場まで歩いた。


 昨日、初めて湖に触れた場所である。


 水は昨日と違っていた。昼の光を受け、少し緑を帯びている。岸に寄せる波は穏やかだった。真鹿人は手を入れなかった。ただ、見た。


 湖と人の間。


 水緒は、そこに立つ者だった。


 だが、彼女だけではないのかもしれない。


 水を汲む女も、湖と人の間にいる。

 舟を直す男も、湖と人の間にいる。

 葦を刈る子どもも、湖と人の間にいる。

 石を避ける老人も、蛇の皮に触れない母も、皆その間にいる。


 水緒は特別である。

 だが、特別にしすぎれば、里の暮らしが見えなくなる。


 記録は、象徴を好む。


 水緒一人を書けば、諏訪の水の信仰を掴んだ気になる。

 だが、それではまた奪う。


 真鹿人は、木簡を取り出した。


 今度は、書いた。


 水緒、湖と人の間に立つと見ゆ。

 されど、間に立つ者は一人にあらず。

 水を汲む者、舟を直す者、葦を刈る者、石を避ける者、蛇の皮に触れぬ者。

 皆、水との間を保つ。

 水緒、その緒を見失わせぬ者か。

 断ずるべからず。


 書き終えると、彼はしばらく木簡を見た。


 断ずるべからず。


 その言葉を何度書いたか分からない。


 だが、これは逃げではない。


 今の真鹿人にとって、それは閉じないための杭だった。


 夕方、三人は再び水緒のいる木の下に集まった。


 佐那は少し興奮していた。


「水を汲む順番、本当に細かいんです。飲む水と、洗う水と、魚を扱う水と、泥を落とす場所が違います。それを間違えた子どもが、すごく叱られていました」


「叱られるのか」


 真鹿人が尋ねると、佐那は頷いた。


「はい。でも、神様のためというより、下の人が困るから、という言い方でした」


 水緒が言った。


「下の人が困ることを続ければ、いずれ神の名になる」


 真鹿人は顔を上げた。


「どういうことです」


「最初は、人が困る。次に、してはならぬことになる。やがて、神が嫌うことになる」


 水緒は淡々と言った。


「神の名が先ではないことも多い」


 真鹿人は、その言葉を受け止めた。


 禁忌は、神から降りるだけではない。

 暮らしの中で必要なことが、長い時間をかけて神の名をまとうことがある。


 上を濁せば、下が飲む。


 それは現実である。

 それが守られ続け、語られ続け、やがて「水の神が嫌う」となる。

 その時、神の名は支配ではなく、暮らしを保つ器にもなる。


 名は奪うだけではない。


 器でもある。


 真鹿人は、その両方を忘れてはならないと思った。


 多加津も戻ってきた。


「舟は浅い」


 それだけ言った。


 佐那が首を傾げた。


「浅い?」


「深く作らぬ。岸の泥を越えるためだ。湖をまっすぐ渡るためだけの舟ではない」


 水緒は頷いた。


「ここでは、遠くへ行く舟より、戻れる舟がいる」


 多加津はその言葉に、わずかに反応した。


 戻れる舟。


 逃げる者の足。

 名を変えた者。

 持って行くために置いていくもの。


 多加津の中で、何かが湖の言葉に触れたのかもしれない。だが、彼は何も語らなかった。


 水緒も、問わなかった。


 夕の光が、湖を染めていた。


 昨日とは違う色だった。赤ではなく、淡い銅のような色が水面に広がっている。山の影は長く、葦は黒く、里の煙はまっすぐ上がらず、湖へ向かって少し流れていた。


 水緒は、静かに言った。


「明日は、蛇の古い神の話をする」


 真鹿人は背筋を正した。


「タケミナカタの話ですか」


「違う」


 水緒の返答は早かった。


「その名より前の話だ」


 真鹿人は黙った。


 水緒は湖を見ていた。


「出雲から来た強い名を聞きたいのだろう」


「はい」


「だが、その前に、ここにあった弱く長い名を聞け」


「弱く長い名」


「名と呼べぬものもある。水の癖、蛇の跡、石の向き、湖の沈黙。そういうものだ」


 真鹿人は、文箱に手を置いた。


「聞きます」


「聞くだけでは足りぬ」


「見ます」


「見るだけでも足りぬ」


 佐那が口を挟んだ。


「腹を通す?」


 水緒は佐那を見た。


「そうだ」


 佐那は嬉しそうに頷いた。


 多加津が低く言った。


「足も使う」


「それもそうだ」


 水緒は答えた。


 真鹿人は、二人を見て、そして湖を見た。


 聞く。見る。腹を通す。足を使う。


 記録官としての旅は、少しずつ変わっていた。

 名を集める旅ではなく、名になる前のものに近づく旅へ。


 だが、その先で彼は、名を書かねばならない。


 書くために、今は書きすぎてはならない。


 湖の上に、夕闇が落ち始めた。


 水緒は立ち上がった。


「今夜は里の端で休め。湖に近すぎるな」


「水緒は?」


 佐那が尋ねた。


「水を見る」


「眠らないのですか」


「眠る時もある」


「今日は?」


「水次第だ」


 佐那はもう、その答えに困らなくなっていた。


「では、水が眠らせてくれるとよいですね」


 水緒は、少しだけ佐那を見た。


「そうだな」


 それは、水緒がこの日見せた中で、もっとも人に近い表情だった。


 真鹿人は、その表情を書きたいと思った。


 だが、書かなかった。


 水緒を人にしすぎてもならない。

 湖にしすぎてもならない。


 その間に置くには、まだ真鹿人の筆は早い。


 彼はただ、夕闇の中に立つ水緒の姿を見た。


 湖と人の間に、一本の細い緒がある。


 それは、水を縛るものではない。

 人を縛るものでもない。

 ただ、切れれば人が水へ近づく仕方を失うもの。


 水緒は、その緒の名だった。


 その名は、彼女自身ではない。


 だが、彼女から切り離すこともできない。


 真鹿人は、胸の内で静かに記した。


 水緒。

 そう呼ぶ者あり。

 湖にあらず。

 人のみにもあらず。

 水と人との間を見失わせぬ者。

 されど、断ずるべからず。


 木簡には、まだ書かなかった。


 夜が来る。


 湖はまた、名を隠すだろう。


 そして明日、蛇の古い神が語られる。


 タケミナカタよりも前に、この土地で水と石とともに息をしていたもの。

 名に届く前の、長く弱いもの。


 真鹿人は、それを聞くために、里の端へ向かった。


 空の木簡は、まだ空のままだった。


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