第十四章 水緒
夜明け前、湖はまだ姿を持っていなかった。
ただ、音だけがあった。
水が岸に触れる音。
葦が擦れる音。
遠くで鳥が短く鳴く声。
湿った土の下で、何か小さなものが動く気配。
真鹿人は、目を開けた。
火はほとんど消えていた。灰の奥に赤い点が一つ残り、時折、風に触れて鈍く光る。佐那は荷を抱えるように眠っていた。多加津は起きている。いつ眠ったのか、あるいは眠っていなかったのか分からない。彼は火の向こうで、湖の方を見ていた。
水緒の姿はなかった。
昨夜、飯を食べ、湖の話を少しだけしてから、彼女は「明け方に戻る」とだけ言って闇の中へ消えた。どこで眠るのか、誰と暮らしているのか、里に家があるのか。真鹿人は何も知らない。
知らないことが、彼女には似合っていた。
水緒という名も、本名ではないのだろう。
そう呼ぶ者がいる。
彼女はそう言った。
曲戸もまた、そうだった。道の者も、水の者も、名を固定されることを嫌う。あるいは、固定された名では扱えぬ場所に立っているのかもしれない。
真鹿人は文箱に触れた。
水緒。
諏訪の守り手。
湖を見ている者。
名を持って来る者と、名を置いていく者を見る者。
書けることはある。
だが、それを書くと、水緒はすぐに何かの役目へ収まってしまう。
巫女。守人。語り部。水の番人。湖の女。
どれも当たっているようで、どれも早すぎた。
真鹿人は、文箱から手を離した。
空が少しだけ薄くなった。
湖の方から霧が上がっている。湖が霧を吐いているのか、霧が湖を包んでいるのか分からなかった。水と空の境が曖昧で、世界の下半分がまだ夢の中にあるようだった。
多加津が低く言った。
「来る」
真鹿人は顔を上げた。
葦の間から、水緒が現れた。
夜の闇では湖に溶けていた彼女は、明け方の霧の中ではさらに輪郭が薄かった。灰青い衣は水気を含み、裾には泥がついている。手には昨日と同じ細い杖を持っていた。髪は結ばれていたが、いくつかの細い毛が頬に貼りついている。
佐那が目を覚ました。
「……朝ですか」
「まだ朝になる前だ」
多加津が答えた。
佐那は起き上がり、水緒を見て慌てて姿勢を正した。
「おはようございます」
「まだ、日は出ていない」
水緒はそう言った。
佐那は困った顔をした。
「では、何と言えば」
「起きた、でよい」
「起きました」
「見れば分かる」
佐那はさらに困った。
多加津がわずかに息を漏らした。
水緒は、火の跡を見た。
「消したか」
「まだ芯が残っている」
多加津が答えた。
「なら、消す前に湯を立てろ。身体を冷やすな」
佐那はすぐに動き始めた。
水緒は昨夜と同じように、火の光の内側には入りきらない場所に立っていた。彼女は火を嫌っているわけではない。ただ、火の中心に座る者ではないように見えた。水の方へ身体の半分を残し、火の方へ言葉だけを置く。
佐那が湯を沸かしている間、水緒は湖の方を見ていた。
真鹿人はその横に立った。
湖は、まだ色を決めていなかった。
夜の黒は薄れ、灰になり、霧の白が水面を覆っている。山の影は湖に沈み、空はまだ青くない。鳥が一羽、葦の奥から飛び立った。羽音が霧の中に消える。
「夜の水は、名を隠す」
真鹿人は、昨夜の言葉を口にした。
水緒は湖を見たまま言った。
「書いたか」
「書いていません」
「なぜ」
「まだ、水緒の言葉のまま置くべきだと思いました」
「私の言葉にするな」
真鹿人は、少し顔を伏せた。
「では、湖の言葉でしょうか」
「それも早い」
「では」
「お前が昨夜聞いた言葉だ」
水緒は言った。
「誰のものにするかを急ぐな」
真鹿人は黙った。
誰のものにするか。
言葉にも、所有がある。
大和の記録に入れば、その言葉は大和の記録の一部になる。
水緒の言葉として書けば、水緒に帰る。
湖の言葉として書けば、湖へ重ねられる。
だが、言葉は時にそのどれでもなく、聞いた者の中でしばらく揺れているべきなのかもしれない。
真鹿人は頷いた。
「まだ、私が聞いた言葉として持ちます」
「持ちすぎるな」
「はい」
「置きすぎるな」
真鹿人は少しだけ笑った。
「難しいですね」
「水を運ぶのは難しい」
水緒は短く答えた。
その言葉は、何でもないことのようでいて、真鹿人の胸に残った。
水を運ぶには器がいる。
しかし器に入れれば、水は形を変える。
器がなければ、遠くへ運べない。
器が強すぎれば、水そのものを忘れる。
名も、記録も、同じなのだろう。
佐那が湯を差し出した。
「どうぞ」
水緒は受け取った。
湯だけだった。飯はまだ入っていない。水緒は器を両手で持ち、少し冷ましてから口をつけた。
「この水は、どこから汲んだ」
「昨日教えていただいた、湖へ入る前の細い流れです」
「なぜ湖から汲まなかった」
「……水緒が、そこを使うようにしたからです」
「それだけか」
佐那は困った。
「湖の水は、触る場所を選べと言われたので」
「それだけか」
佐那は湯気を見た。
「汲んでよい水と、見ておく水が違うのかなと」
水緒は頷いた。
「それでよい」
佐那はほっとした。
「合っていましたか」
「合っているというより、近い」
「近いならよいです」
「近いと思った時、足元を見ろ」
「はい」
佐那は素直に頷いた。
真鹿人は、そのやり取りを聞いていた。
水緒は、答えを与えない。だが、ただ突き放すわけではない。相手の言葉が水に近づくまで待ち、早ければ止め、浅ければもう一度問う。
守る者。
それは、禁じる者ではない。
問わせる者でもある。
やがて佐那が飯を入れ、朝の支度が整った。
簡素な飯だった。湯に戻した干し飯と、少しの塩、昨夜の残りの木の実。水緒はそれを受け取り、少しだけ食べた。多加津も黙って食べ、佐那はいつもより早く器を空にした。
「湖の前だと、腹が空きますね」
佐那が言った。
「歩いたからだ」
多加津が答えた。
「それもありますが」
「それだけだ」
水緒は佐那を見た。
「腹が空くのは、身体が土地に入ろうとしているからでもある」
佐那は目を丸くした。
「土地に?」
「見るだけの者は、腹を忘れる。入る者は腹が空く」
佐那は真面目に頷いた。
「では、私は諏訪に入っていますか」
「少し」
「少しですか」
「飯一杯分ほど」
多加津が低く笑った。
佐那は不満そうにしたが、どこか嬉しそうでもあった。
真鹿人は、飯一杯分の土地、という言葉を面白く思った。
大和の記録では、土地は境と名で測る。
里、郡、国。
山、川、湖。
しかし、水緒は飯で測る。
飯一杯分、土地に入る。
それは記録には書きにくい。
だが、旅人にはよく分かる。
食べたものが身体に入り、その土地の水で戻された飯が腹を満たす。そうして人は、その土地を少しだけ内側に入れる。
佐那は、それを誰より早くしている。
朝食を終えると、水緒は火の跡に土をかけた。
多加津がそれを見ていた。
「火を消す手に慣れている」
「水辺では、火を粗末にできない」
「水があるのにか」
「水があるからだ」
水緒は火の跡をならした。
「水辺の火は、人を呼ぶ。人だけでないものも呼ぶ」
「獣か」
「獣も。迷う者も。帰れぬ者も。名を失った者も」
多加津は黙った。
真鹿人はその言葉を聞き、書きたいと思った。
水辺の火は、帰れぬ者を呼ぶ。
だが、今はまだ、聞くだけにした。
水緒は立ち上がった。
「里へ行く」
佐那は荷を背負った。
「いよいよ諏訪の里ですか」
「里の一つだ」
「一つ?」
「湖の周りに、暮らしは一つではない」
水緒は歩き出した。
「水を同じくしても、祈り方は同じではない」
真鹿人は、すぐにその言葉を胸に留めた。
湖が一つであるからといって、湖畔の人々が一つの信仰を持つとは限らない。大和の記録は、ともすれば土地の名を一つにまとめ、その地に属する神を一つの形へ置こうとする。
だが、湖の周りには複数の暮らしがある。
水を汲む場所が違う。
葦を刈る時期が違う。
石を避ける理由が違う。
蛇を見た時の沈黙が違う。
それらを一つにすれば、諏訪の声は失われる。
三人は、水緒の後について湖畔を歩いた。
道は岸から少し離れていた。近すぎれば泥に足を取られ、遠すぎれば水の様子が見えない。水緒はその中間を選んで歩いた。近づきすぎず、離れすぎず。昨夜の言葉の通りだった。
湖は、朝の光を受けて少しずつ姿を変えていった。
霧が薄れ、水面に淡い青が差す。遠くの山の輪郭が現れ、また消える。葦の穂が朝日に濡れ、鳥の声が増えた。岸辺には小さな舟のようなものが幾つか引き上げられていた。丸木をくり抜いたものもあれば、板を合わせたものもある。
佐那がそれを見て言った。
「湖を渡るのですか」
「渡る者もいる」
水緒が答えた。
「渡らない者も?」
「湖は道でもあり、境でもある」
「どちらですか」
「その時による」
佐那は困ったように笑った。
「諏訪に来てから、その答えばかりです」
「水の近くでは、同じものが同じままでいることが少ない」
水緒は言った。
「凍れば道になる。解ければ境になる。荒れれば壁になる。凪げば鏡になる。濁れば隠す。澄めば見せる」
真鹿人は湖を見た。
同じ水が、時に道となり、時に境となる。
それなら、タケミナカタにとって、この湖は何だったのだろう。
逃げてきた者を阻む壁か。
追ってくるものを止める境か。
自らを映す鏡か。
名を隠す水か。
あるいは、別の神へ変わるための器か。
そう考えかけて、真鹿人はまた止めた。
まだ早い。
水緒が、まだその名を語っていない。
湖畔の道を進むと、やがて人の気配が濃くなった。
はじめは煙だった。
薄い煙が木立の奥から立っている。火を焚く匂い。湿った薪の匂いに、魚を焼く匂いが混じっていた。佐那の腹が小さく鳴った。
多加津が横目で見た。
「飯一杯分では足りなかったか」
「朝の飯は朝の飯です」
「今はまだ朝だ」
「歩けば別です」
水緒が言った。
「湖の里では、朝のうちに動く者が多い」
佐那は少し背筋を伸ばした。
「では、私も正しいです」
多加津は何も言わなかった。
木立を抜けると、数軒の家が見えた。
大和の家とは違った。柱は低く、屋根は草と木の皮で厚く葺かれている。湿気を避けるためか、床を少し上げたものもあった。家の周りには葦束が立てかけられ、網が干され、石がいくつも並べられている。
人々がいた。
女が水を運んでいる。
男が舟の底を直している。
子どもが葦の束を引きずっている。
老人が石のそばに座り、何か細い縄を編んでいる。
誰も、水緒を見て驚かなかった。
しかし、誰も軽く声をかけもしなかった。
水緒が通ると、人々はわずかに目を下げる。道を譲る者もいる。だが、拝む者はいない。水緒もまた、偉ぶる様子はなかった。そこにある石を避けるように、自然に人々の間を歩いた。
佐那が小声で言った。
「偉い方なのでしょうか」
水緒は振り返らずに答えた。
「偉い者は、もっとよく座る」
佐那は口を閉じた。
多加津が言った。
「では、よく歩く者か」
「水は座っているようで、歩いている」
水緒は答えた。
「私は、その端を見ているだけだ」
真鹿人は周囲を見た。
里の人々は、水緒を恐れているわけではない。親しげでもない。必要な距離がある。湖と人の間に置く距離と似ている。
近づきすぎず、離れすぎず。
水緒自身が、その距離の形なのかもしれなかった。
一人の老婆が、家の前から水緒に声をかけた。
「昨夜、外の者が火を焚いたか」
「焚いた」
水緒が答えた。
「大きくは」
「していない」
「ならよい」
老婆は三人を見た。
特に真鹿人を見た。
「大和か」
「はい」
真鹿人は一礼した。
「名を取りに来たか」
その言い方には、集める、ではなく、取る、という響きがあった。
真鹿人は、すぐには答えなかった。
「名を記す役を持っています」
老婆は鼻で笑った。
「同じことだ」
佐那が少し身じろぎしたが、真鹿人はそれを手で制した。
「そう見えることは、否定できません」
老婆は目を細めた。
「若いのに、曖昧な答えをする」
「旅の途中で、曖昧なものを多く見ました」
「曖昧なまま持って帰れるか」
その問いに、真鹿人は答えられなかった。
大和の記録は、曖昧なものを嫌う。名は定められ、系譜は整えられ、異なる語りは位置づけられる。曖昧なまま持ち帰ることは、役目を果たさないことにも見える。
だが、曖昧さを落として持ち帰れば、それは別のものになる。
真鹿人は静かに言った。
「持って帰れる形を、まだ探しています」
老婆は、少し黙った。
それから水緒を見た。
「この者を、湖の前に置いたのか」
「置いた」
「逃げなかったか」
「逃げなかった」
「泣いたか」
佐那がぎょっとした顔をした。
真鹿人は首を振った。
「泣いてはいません」
老婆は不満そうにした。
「泣く者の方が、まだ水に近いことがある」
「そうなのですか」
「泣かぬ者は、言葉で済ませようとする」
真鹿人は、深く頭を下げた。
「覚えておきます」
「覚えるな」
老婆はすぐに言った。
「覚えた言葉を、すぐ木に削るな。腹を通せ」
佐那が少し嬉しそうに真鹿人を見た。
「腹です」
「佐那」
「すみません」
水緒は、老婆に言った。
「この者は、まだ早いが、止まりはする」
「止まるなら、少しは聞ける」
老婆はそう言うと、家の中へ引っ込んだ。
名は聞けなかった。
真鹿人は、尋ねるべきか迷ったが、尋ねなかった。あの老婆は、まだ名を差し出していない。ならば、こちらから取るべきではない。
水緒は再び歩き出した。
里の中ほどに、小さな開けた場所があった。
そこには、大きな石があった。
人の背ほどもある石ではない。腰の高さほどの、平たい石だった。だが、その周囲には小さな石が円を描くように置かれている。石の上には水が少し溜まっていた。雨水なのか、誰かが注いだのかは分からない。
石のそばには、蛇の抜け殻が置かれていた。
佐那が息を呑んだ。
「蛇ですか」
「抜けた皮だ」
多加津が言った。
「触るな」
佐那はすでに手を伸ばしていなかったが、さらに一歩下がった。
真鹿人は、その抜け殻を見た。
白く、薄く、乾いている。頭の形まで残っているが、中身はない。かつてそこに身があった証であり、今はすでに空であるもの。
因幡の白兎の剥がれた皮が、一瞬、脳裏に浮かんだ。
白。
皮。
失われたもの。
残った形。
だが、すぐに重ねるのを止めた。
兎の皮と、蛇の抜け殻は違う。
兎は剥がされた。
蛇は脱いだ。
傷と、変化は違う。
それでも、どこかで響き合う。
真鹿人は、息を整えた。
水緒が彼を見ていた。
「何を思った」
「因幡を思いました」
真鹿人は正直に答えた。
「白兎の皮を」
「同じと思ったか」
「一瞬」
「今は」
「違うと思いました」
「どう違う」
「兎は奪われた皮でした。蛇は脱いだ皮です」
水緒は頷かなかった。
否定もしなかった。
「それだけか」
真鹿人は、抜け殻を見た。
「どちらも、そこにいたものが、そこにはもういないと示している」
「それだけか」
「残った皮を見て、本体を知ったつもりになるのは危うい」
水緒は、そこでようやく小さく頷いた。
「近い」
佐那が小声で言った。
「また近いですね」
水緒は佐那を見た。
「近いところにいれば、流されにくい」
「遠いと?」
「届かぬ」
「近すぎると?」
「呑まれる」
佐那は真面目に頷いた。
「近い、は大事ですね」
真鹿人は、蛇の抜け殻を見つめた。
抜け殻は空である。
だが、空だから何もないわけではない。
蛇はそこにいない。
しかし、蛇が変わったことは残っている。
失ったのではなく、古い身を置いた。
タケミナカタもまた、諏訪で何かを脱いだのだろうか。
出雲の神という古い皮を脱いだのか。
敗れた神という皮を脱いだのか。
それとも、脱げずに傷を抱えたまま、水に映されたのか。
まだ分からない。
だが、蛇の抜け殻は、次章へ続く問いを静かに置いていた。
水緒は、石の上の水に指を触れた。
その水を地面へ払うのではなく、石の窪みの中で軽く動かした。水面が揺れ、朝の光が細かく砕けた。
「この石は、何の石ですか」
真鹿人は尋ねた。
水緒は言った。
「座る石」
真鹿人は、以前聞いたような答えに少し目を伏せた。
「それだけではないのでしょう」
「それだけである時もある」
「今は」
「今は、蛇が皮を置いた石」
「祭る石ですか」
「祭る者もいる」
「水を置く石ですか」
「置く者もいる」
「神の石ですか」
水緒は、真鹿人を見た。
「お前は、石をすぐ高くする」
その言葉は、以前の沢で聞いたものと同じ響きを持っていた。
真鹿人は頭を下げた。
「はい」
「高くしすぎれば、人が触れなくなる」
「触れてよいものなのですか」
「触れてはならぬ時もある」
「どちらでしょう」
「見る者を見て決まる」
佐那が小さく言った。
「難しい……」
水緒は、佐那の方を見た。
「難しいと思う者は、まだ石を蹴らぬ」
多加津が短く言った。
「石を蹴るな」
佐那はすぐに頷いた。
「それはもう覚えました」
真鹿人は、多加津の言葉を思い出した。
――その石は、ただの石とは限らぬ。
今、その言葉は諏訪の里で別の響きを持っている。山道での警戒だけではない。石は座るものでもあり、供えるものでもあり、蛇が古い身を置くものでもあり、神と呼ばれることもある。
ただし、どれか一つではない。
水緒は石から離れた。
「今日は、里を見る」
「蛇のことを聞くのではないのですか」
真鹿人が尋ねると、水緒は首を振った。
「蛇の話は、蛇を見てからだ」
「今、抜け殻を見ました」
「皮だ」
「蛇ではない」
「そうだ」
真鹿人は頷いた。
また、早かった。
水緒は、常に手前で止める。
だが、その止め方は不思議と不快ではない。むしろ、止められることで、見落としかけていたものが見えてくる。
抜け殻は蛇ではない。
皮である。
だが、蛇の変化の跡である。
この区別を落とせば、次に聞く蛇の神もまた、早く閉じられてしまう。
里を歩くうちに、真鹿人は水緒が人々の中でどのような位置にいるのか、少しずつ見えてきた。
水緒は命じない。
しかし、彼女が立ち止まると、人々は手を止める。
水緒が水辺を見ると、誰かがその先を確かめに行く。
水緒が石を避けると、子どももその石を避ける。
水緒が何も言わずに通り過ぎると、老人は安心したように息を吐く。
彼女は長ではない。
祭主とも言い切れない。
語り部とも違う。
だが、里の水と沈黙の向きを知っている。
人々は、それを知っている。
だから従うのではなく、目を向ける。
水緒は、里の外れにある小さな流れへ三人を連れて行った。
山から下りてきた水が、里の脇を通り、湖へ注いでいる。その途中に、平たい石を組んだ場所があった。女たちがそこで水を汲み、手を洗い、器をすすいでいた。
だが、すべてを同じ場所ではしていない。
上流側では飲み水を汲む。
少し下で手を洗う。
さらに下で器をすすぐ。
泥のついた道具は、もっと下へ運ばれる。
佐那が感心したように言った。
「順番があるのですね」
「水は戻せぬ」
水緒が言った。
「上を濁せば、下が飲む」
佐那は頷いた。
「山の沢でも言われました」
「沢でも里でも同じことはある。だが、同じと思うな」
「またですか」
「ここでは、下に人がいる」
佐那は流れの先を見た。
そこには湖がある。
その手前にも、人がいる。
水を使う者がいる。
自分の手を洗う水は、誰かの飲む水の上にあるかもしれない。
真鹿人は、その順序を見ていた。
水の扱いから入れ。
昨夜、水緒はそう言った。
今、その意味が少し見えた。
信仰は、言葉だけではない。
どこで水を汲むか。
どこで手を洗うか。
どこを踏まないか。
何を上流に置かないか。
何を湖へ流さないか。
そこに、神の名前より古いものがある。
それは法でもあり、礼でもあり、恐れでもあり、暮らしの知恵でもある。どれか一つにすれば、また道を誤る。
真鹿人は木簡を取り出した。
今度は、書いた。
水を扱う順あり。
上を濁せば、下が飲む。
神の名を問う前に、水の扱いを見るべし。
そこまで書いて、筆を止めた。
水緒はそれを見ていたが、止めなかった。
「これは書いてよいのですか」
真鹿人が尋ねると、水緒は答えた。
「それは見たことだ」
「聞いたことではなく」
「見たことは、書いてもよい時がある」
「いつもではない」
「いつもではない」
水緒は少しだけ口元を緩めた。
真鹿人は木簡を乾かした。
見たことを書く。
それは当たり前のようでいて、これまでの真鹿人には難しくなっていた。語りを聞き、意味を追い、名の背後を探すほど、彼は目の前の動作を飛ばしそうになる。
だが、ここでは動作が先にある。
水を汲む。
手を洗う。
石を避ける。
蛇の皮に触れない。
火を小さくする。
飯を少し置く。
それらの中に、神へ至る道がある。
里を一回りした後、水緒は三人を湖畔の高台へ連れて行った。
そこには、一本の古い木があった。
幹は太く、枝は湖の方へ伸びている。根元には石がいくつか置かれ、その一つに細い縄が巻かれていた。縄は新しいものではない。何度も濡れ、乾き、色が薄くなっている。
木の下からは、湖がよく見えた。
朝の霧はほとんど晴れ、水面は淡い青を含んでいる。遠くの山も見えた。だが、向こう岸はまだ霞んでいる。湖は見えても、すべては見えない。
水緒は、その木の根元に座った。
「ここで話す」
真鹿人も、少し離れて座った。佐那は荷を下ろし、多加津は立ったままだった。
「水緒」
真鹿人は、殿をつけなかった。
水緒は何も言わなかった。
「あなたは、湖を守る者ですか」
水緒は湖を見ていた。
「その問いは、昨日もした」
「はい」
「なぜ、また聞く」
「昨日は、言葉として聞きました。今日は、里を見た後で聞いています」
水緒は少しだけ真鹿人を見た。
「なら、少し違う」
「はい」
「守るとは、何だと思う」
真鹿人は、すぐには答えなかった。
湖を閉ざすことではない。
人を遠ざけることでもない。
近づき方を教えること。
水の順を守ること。
石や蛇や沈黙を、早く名に渡さぬこと。
そう考えたが、まとめて言うには早い気がした。
「近づき方を失わせないこと」
真鹿人は言った。
水緒は黙っていた。
「湖へ近づく者、水を汲む者、神の名を問う者。それぞれが、近づき方を誤らぬように見ること。そう思いました」
水緒は、ゆっくり頷いた。
「少し近い」
佐那が、今度は笑わなかった。
真鹿人も、少し近いという言葉を、今はありがたいと思った。
「私は守っているのではない」
水緒は言った。
「少なくとも、湖を守っているとは言えぬ。湖は、私より古い。私が守ると言えば、湖を私の下に置くことになる」
真鹿人は、胸の内で息を止めた。
「では、何を」
「人の方を見ている」
水緒は湖を指した。
「湖は古い。水は強い。石は黙る。蛇は古い身を脱ぎ、また進む。人だけが、見たものにすぐ名をつけ、持って帰ろうとする」
その言葉は、真鹿人の胸にまっすぐ届いた。
「私のことですね」
「お前だけではない」
水緒は言った。
「この里の者もそうだ。私もそうだ。人は名をつけねば、遠くへ呼べぬ。子を呼ぶにも、死者を呼ぶにも、神を呼ぶにも、名がいる」
「名は必要」
「必要だ」
水緒は、昨夜と同じように、それを否定しなかった。
「だが、名をつけた途端、人は安心する。安心すると、見なくなる」
真鹿人は黙った。
名をつけることで、見えなくなる。
それは第一部からずっと追ってきた問いだった。
名は残す。
だが、名は閉じる。
名は器である。
だが、器を水そのものと思えば、水を失う。
「では、水緒という名も」
真鹿人が言うと、水緒は小さく頷いた。
「器だ」
「あなた自身ではない」
「そうだ」
「ですが、呼ぶためには必要」
「そうだ」
水緒は淡々と答えた。
その淡々とした態度が、かえって深かった。名を嫌っているのではない。名に縛られることを知っているだけなのだ。
「水緒という名は、誰がつけたのですか」
佐那が尋ねた。
水緒は佐那を見た。
「覚えていない」
「覚えていない?」
「最初に呼んだ者は、もういない。呼び方だけが残った」
「それは、本名より長く残るのですね」
「そういう名もある」
佐那は、少し不思議そうにした。
「寂しくはありませんか」
真鹿人は佐那を見た。
率直すぎる問いだった。
しかし、水緒は怒らなかった。
「寂しいと思う時もある」
佐那は、少し驚いた顔をした。
「あるのですか」
「水辺で名を持つ者は、皆少し寂しい」
「なぜです」
「呼ばれるたびに、水の方へ少し寄せられる」
水緒は湖を見た。
「人として呼ばれたのか、水の名として呼ばれたのか、分からなくなることがある」
多加津が、わずかに目を伏せた。
真鹿人は、多加津の言葉を思い出した。
名を変えなければ、持って行けないものがあった。
名は、器である。
しかし、器にされる者もいる。
水緒という名は、彼女を湖と人の間に置く。
その名に守られているものもあれば、その名に奪われているものもあるのだろう。
真鹿人は、書けなかった。
水緒は続けた。
「だから、お前は私を書く時、私を湖にしすぎるな」
真鹿人は深く頭を下げた。
「はい」
「人にしすぎてもならぬ」
真鹿人は顔を上げた。
水緒は静かに言った。
「私は湖ではない。だが、ただの人として書けば、水の緒が切れる」
真鹿人は、その言葉を受け止めた。
湖にしすぎるな。
人にしすぎるな。
その間を保つこと。
それが、水緒を書くということなのだ。
だが、それは難しい。
大和の記録では、分類する。神、人、地名、祭祀、系譜。水緒はどこに置けばよいのか。湖の守り手と書けば、役目になる。女と書けば、ただの人になる。巫女と書けば、別の形を被せる。神に近い者と書けば、湖へ引き上げすぎる。
真鹿人は、ゆっくり言った。
「水緒、湖と人の間に立つ者。されど、湖にあらず。人のみにもあらず」
水緒は、しばらく黙っていた。
「書くのか」
「まだ書きません」
「なぜ」
「今の言葉も、まだ私が近づけるための杭にすぎないと思うからです」
水緒は、ほんの少しだけ笑った。
「曲戸に会ったな」
「はい」
「杭という言い方は、道の者がよくする」
真鹿人は少し驚いた。
「知っているのですか」
「道の者と、水の者は、時々同じ場所を見る」
「曲戸は何者ですか」
「それを知りたがるうちは、まだ曲戸の道を歩いている」
真鹿人は、そこで尋ねるのをやめた。
佐那は不満そうだった。
「私は少し知りたいです」
「飯をもらった者としてか」
水緒が尋ねると、佐那は頷いた。
「はい。礼を言うにも、何者か分からないと」
「飯をくれた者」
「それだけですか」
「まずはそれでよい」
佐那は少し考えた。
「それなら、確かに礼は言えます」
水緒は頷いた。
「すべて知ってから礼を言う者は、礼が遅い」
佐那は深く納得したようだった。
真鹿人もまた、その言葉を胸に入れた。
すべて知ってから書こうとすれば、何も書けない。
だが、少し知っただけで書けば、閉じてしまう。
その間。
この旅は、ずっとその間を探している。
昼近くになると、湖の光は強くなった。
里の人々は動き続けている。水を汲み、網を干し、葦を束ね、舟を直す。誰かが石のそばに小さな供えを置き、子どもが蛇の抜け殻に近づこうとして母に止められていた。
水緒はそれを見て、何も言わなかった。
言わなくても、人々は分かっている。
真鹿人は、その沈黙を見た。
水緒はすべてを命じるわけではない。
彼女が何も言わないことも、里では一つの合図になっている。
沈黙は承諾ではない。
沈黙は聞いている時間である。
出雲で聞いた言葉が戻った。
だが、ここではさらに別の姿を持つ。
水緒の沈黙は、聞いているだけではない。
見ている。
止める必要があるかを測っている。
人が自分で近づき方を思い出すのを待っている。
沈黙にも土地の違いがある。
真鹿人は、そのことを強く感じた。
「水緒」
真鹿人は言った。
「あなたは、語り部ではないのですね」
「語る時もある」
「でも、宇都志とは違う」
「出雲の語り部か」
「はい」
「出雲では、沈んだものを声に戻す者がいるのだろう」
「そう思います」
「諏訪では、声に戻す前に、水に触れる」
水緒は湖を見た。
「語れば、早くなるものがある」
「早くなる」
「蛇の話も、石の話も、古い水の話も。語れば、人は分かった顔をする」
「だから、まず見せるのですか」
「見せる。歩かせる。汲ませる。止める。食わせる。冷えさせる」
佐那が目を瞬かせた。
「食わせる、も入るのですか」
「腹を通らぬ語りは、すぐ頭だけになる」
佐那は真鹿人を見た。
「真鹿人様、腹です」
「分かっている」
「本当ですか」
「たぶん」
多加津が低く言った。
「まだ足りぬ」
佐那が笑った。
真鹿人も、少しだけ笑った。
水緒も、ほんのわずかに口元を緩めた。
湖の前で、笑いはすぐに消えなかった。
水面へ落ち、葦の音に混じり、里の気配の中へほどけていった。
午後、真鹿人は一人で湖畔を少し歩いた。
水緒は止めなかった。ただし、「石のあるところまで」とだけ言った。佐那は里の女たちに水の汲み方を見せてもらい、多加津は舟を直す男たちの手元を見ていた。
真鹿人は、石場まで歩いた。
昨日、初めて湖に触れた場所である。
水は昨日と違っていた。昼の光を受け、少し緑を帯びている。岸に寄せる波は穏やかだった。真鹿人は手を入れなかった。ただ、見た。
湖と人の間。
水緒は、そこに立つ者だった。
だが、彼女だけではないのかもしれない。
水を汲む女も、湖と人の間にいる。
舟を直す男も、湖と人の間にいる。
葦を刈る子どもも、湖と人の間にいる。
石を避ける老人も、蛇の皮に触れない母も、皆その間にいる。
水緒は特別である。
だが、特別にしすぎれば、里の暮らしが見えなくなる。
記録は、象徴を好む。
水緒一人を書けば、諏訪の水の信仰を掴んだ気になる。
だが、それではまた奪う。
真鹿人は、木簡を取り出した。
今度は、書いた。
水緒、湖と人の間に立つと見ゆ。
されど、間に立つ者は一人にあらず。
水を汲む者、舟を直す者、葦を刈る者、石を避ける者、蛇の皮に触れぬ者。
皆、水との間を保つ。
水緒、その緒を見失わせぬ者か。
断ずるべからず。
書き終えると、彼はしばらく木簡を見た。
断ずるべからず。
その言葉を何度書いたか分からない。
だが、これは逃げではない。
今の真鹿人にとって、それは閉じないための杭だった。
夕方、三人は再び水緒のいる木の下に集まった。
佐那は少し興奮していた。
「水を汲む順番、本当に細かいんです。飲む水と、洗う水と、魚を扱う水と、泥を落とす場所が違います。それを間違えた子どもが、すごく叱られていました」
「叱られるのか」
真鹿人が尋ねると、佐那は頷いた。
「はい。でも、神様のためというより、下の人が困るから、という言い方でした」
水緒が言った。
「下の人が困ることを続ければ、いずれ神の名になる」
真鹿人は顔を上げた。
「どういうことです」
「最初は、人が困る。次に、してはならぬことになる。やがて、神が嫌うことになる」
水緒は淡々と言った。
「神の名が先ではないことも多い」
真鹿人は、その言葉を受け止めた。
禁忌は、神から降りるだけではない。
暮らしの中で必要なことが、長い時間をかけて神の名をまとうことがある。
上を濁せば、下が飲む。
それは現実である。
それが守られ続け、語られ続け、やがて「水の神が嫌う」となる。
その時、神の名は支配ではなく、暮らしを保つ器にもなる。
名は奪うだけではない。
器でもある。
真鹿人は、その両方を忘れてはならないと思った。
多加津も戻ってきた。
「舟は浅い」
それだけ言った。
佐那が首を傾げた。
「浅い?」
「深く作らぬ。岸の泥を越えるためだ。湖をまっすぐ渡るためだけの舟ではない」
水緒は頷いた。
「ここでは、遠くへ行く舟より、戻れる舟がいる」
多加津はその言葉に、わずかに反応した。
戻れる舟。
逃げる者の足。
名を変えた者。
持って行くために置いていくもの。
多加津の中で、何かが湖の言葉に触れたのかもしれない。だが、彼は何も語らなかった。
水緒も、問わなかった。
夕の光が、湖を染めていた。
昨日とは違う色だった。赤ではなく、淡い銅のような色が水面に広がっている。山の影は長く、葦は黒く、里の煙はまっすぐ上がらず、湖へ向かって少し流れていた。
水緒は、静かに言った。
「明日は、蛇の古い神の話をする」
真鹿人は背筋を正した。
「タケミナカタの話ですか」
「違う」
水緒の返答は早かった。
「その名より前の話だ」
真鹿人は黙った。
水緒は湖を見ていた。
「出雲から来た強い名を聞きたいのだろう」
「はい」
「だが、その前に、ここにあった弱く長い名を聞け」
「弱く長い名」
「名と呼べぬものもある。水の癖、蛇の跡、石の向き、湖の沈黙。そういうものだ」
真鹿人は、文箱に手を置いた。
「聞きます」
「聞くだけでは足りぬ」
「見ます」
「見るだけでも足りぬ」
佐那が口を挟んだ。
「腹を通す?」
水緒は佐那を見た。
「そうだ」
佐那は嬉しそうに頷いた。
多加津が低く言った。
「足も使う」
「それもそうだ」
水緒は答えた。
真鹿人は、二人を見て、そして湖を見た。
聞く。見る。腹を通す。足を使う。
記録官としての旅は、少しずつ変わっていた。
名を集める旅ではなく、名になる前のものに近づく旅へ。
だが、その先で彼は、名を書かねばならない。
書くために、今は書きすぎてはならない。
湖の上に、夕闇が落ち始めた。
水緒は立ち上がった。
「今夜は里の端で休め。湖に近すぎるな」
「水緒は?」
佐那が尋ねた。
「水を見る」
「眠らないのですか」
「眠る時もある」
「今日は?」
「水次第だ」
佐那はもう、その答えに困らなくなっていた。
「では、水が眠らせてくれるとよいですね」
水緒は、少しだけ佐那を見た。
「そうだな」
それは、水緒がこの日見せた中で、もっとも人に近い表情だった。
真鹿人は、その表情を書きたいと思った。
だが、書かなかった。
水緒を人にしすぎてもならない。
湖にしすぎてもならない。
その間に置くには、まだ真鹿人の筆は早い。
彼はただ、夕闇の中に立つ水緒の姿を見た。
湖と人の間に、一本の細い緒がある。
それは、水を縛るものではない。
人を縛るものでもない。
ただ、切れれば人が水へ近づく仕方を失うもの。
水緒は、その緒の名だった。
その名は、彼女自身ではない。
だが、彼女から切り離すこともできない。
真鹿人は、胸の内で静かに記した。
水緒。
そう呼ぶ者あり。
湖にあらず。
人のみにもあらず。
水と人との間を見失わせぬ者。
されど、断ずるべからず。
木簡には、まだ書かなかった。
夜が来る。
湖はまた、名を隠すだろう。
そして明日、蛇の古い神が語られる。
タケミナカタよりも前に、この土地で水と石とともに息をしていたもの。
名に届く前の、長く弱いもの。
真鹿人は、それを聞くために、里の端へ向かった。
空の木簡は、まだ空のままだった。




