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月を隠した国  作者: 月読 龍
諏訪、逃れた神の湖
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15/32

第十三章 湖の前で

 朝の火は、白く消えた。


 昨夜の峠で焚いた小さな火は、夜のあいだ三人の身体をかろうじて人の側に留めていた。だが、夜明け前には枝も尽き、灰は湿り、赤い芯もいつの間にか見えなくなっていた。


 佐那は、灰の中を覗き込んで小さく息を吐いた。


「火も眠るんですね」


 多加津は、荷を締めながら答えた。


「眠る火はよい」


「眠らない火は?」


「山を食う」


 佐那は灰に土をかける手を止め、少し真面目な顔になった。


「それは困ります」


「だから、消えたことを確かめる」


 多加津は足で灰を軽くならした。佐那もそれに倣った。灰は土と混ざり、ただの黒い跡になった。


 真鹿人は、その跡を見ていた。


 火の跡。


 昨夜、三人がそこにいた証である。だが、いずれ雨が降れば消えるだろう。獣が踏み、草が伸び、石が転がれば、そこに火があったことも分からなくなる。


 消えるものは、残らないのか。


 大和にいた頃なら、真鹿人はそう考えたかもしれない。記されぬものは忘れられ、忘れられたものは、やがて無かったものに近づく。だからこそ記録がいる。だからこそ名がいる。


 だが、今は少し違っていた。


 火の跡は消える。

 けれど、火で温まった身体は歩く。

 火で炊いた飯は腹に入り、腹に入った飯は足を動かす。

 足は道を進み、道は湖へ近づく。


 ならば、火は灰として残らなくても、三人の歩みに変わっている。


 残るとは、形を保つことだけではない。


 そう思いかけて、真鹿人は首を振った。


 朝の山では、思いもまた転ぶ。


 多加津の言葉が胸の内に残っていた。


 ――山では、思いはよく転ぶ。


 彼は文箱に触れず、荷を背負った。


 峠の朝は冷たかった。風は夜よりも細くなっていたが、その分、衣の隙間へ入り込む。空は曇っている。厚い雲ではなく、水を含んだ白い雲だった。下の方から霧が上がってきて、谷を満たしている。


 その霧の向こうに、湖がある。


 まだ見えない。


 だが、匂いはあった。


 昨夕より濃い。沢や川の水ではない。広く、動かず、それでいて死んではいない水の匂い。湿り、冷え、土と葦と遠い煙を含んだ匂い。


 佐那は鼻を鳴らした。


「やはり水の匂いがします」


「するな」


 真鹿人が答えた。


「湖は、もう近いのでしょうか」


 多加津は下る道を見ていた。


「近いものほど、道は曲がる」


「では、遠いのですか」


「見えるまでは遠い」


「見えたら近い?」


「見えても遠いことがある」


 佐那は顔をしかめた。


「山は、どうしていつも答えを濁すんです」


「濁すのは人だ。山は黙っている」


「それが困るんです」


 多加津は少しだけ口元を動かした。


 真鹿人は、そのやり取りを聞きながら、峠の向こうへ足を踏み出した。


 道は下っていた。


 初めは、緩い下りだった。草は短く、石も少ない。昨夜までの湿った山道に比べれば、歩きやすい。だが、しばらく進むと、道は斜面の間を縫うように細くなり、地面は黒い土に変わった。そこには水が染みていた。踏むと、靴裏から冷たさが上がる。


 木の種類も少し変わった。


 高い木の間に、低い木が増えた。枝は横へ広がり、葉は湿り、ところどころに葦のような草が見え始めた。山の奥にいる時には聞こえなかった鳥の声がした。鋭く短い声ではない。水辺を渡るような、横に流れる声だった。


 佐那は立ち止まりかけた。


「今の鳥、見ましたか」


「見ていない」


 真鹿人は答えた。


「声だけでした」


 佐那は少し残念そうにした。


「声だけでも、鳥はいますよね」


「いるだろう」


「見えないものと、ないものは違う」


 佐那はそう言ってから、自分で驚いたように口を押さえた。


「佐保殿の言葉ですね」


 真鹿人が言うと、佐那は頷いた。


「何度も聞いたので、覚えてしまいました」


「土地が変わると、同じ言葉も違って聞こえる」


「そうですか?」


「因幡では、道の話だった。今は、鳥の声の話になった」


 佐那は少し考えた。


「では、便利な言葉ですね」


「便利にしすぎると、軽くなる」


「難しいですね」


「そうだな」


 真鹿人は、小さく笑った。


 佐那の言葉は、時に真鹿人を困らせる。だが、その困り方がよいこともある。考えを急がせず、足元へ戻してくれる。


 記録官は、言葉を高く置きがちだ。

 佐那は、それを手の届くところへ戻す。


 見えない鳥。

 声だけの鳥。

 いるが、見えないもの。


 それだけで十分な時もある。


 道はさらに下った。


 霧は、谷の底から湧き上がり、時折、三人の周りを白く包んだ。濡れた草が足に触れ、露が衣に染みる。多加津はいつもより歩みを緩めていた。急げば滑るからだろう。彼は時折、立ち止まって耳を澄ませた。


 やがて、低い水音が聞こえ始めた。


 沢のように高く弾む音ではない。岩に当たって砕ける音でもない。もっと低く、広く、遠い音だった。水面が岸に触れ、戻り、また触れる。その繰り返しが、まだ見えない場所から届いていた。


 真鹿人は足を止めた。


「湖か」


 声に出してから、彼はすぐに自分を戒めた。


 まだ見ていない。


 だが、多加津は否定しなかった。


「近い」


 それだけ言った。


 佐那は、黙っていた。


 珍しく、何も言わなかった。疲れているのかと思ったが、違った。彼は耳を澄ませていた。腹や足で知る佐那が、今は音を聞いている。


 真鹿人も耳を澄ませた。


 水音は、ひとつではなかった。


 近くの湿地を流れる細い水の音。

 葉から落ちる露の音。

 遠くで広い水が揺れる音。

 その向こうで、人の営みが立てるかすかな音。


 犬の声のようなものも聞こえた。

 木を打つ音もした。

 女の歌か、あるいは鳥の長い声か分からぬものもあった。


 湖は、ただ静かな水ではない。


 水の周りに暮らしがある。


 そのことが、音から先に届いた。


 道の先が明るくなった。


 木々の幹の間に、白い空が見える。いや、空ではないかもしれない。空よりも低く、地よりも明るいもの。霧が薄いところで、白い光が横に広がっている。


 佐那が、小さな声で言った。


「見えますか」


「まだ」


 真鹿人は答えた。


 だが、見え始めていた。


 木々の間から、広い白が覗く。水面か、霧か、空の映りか、分からない。歩くたびに見え、また隠れる。近づくほどに、かえって形が分からなくなる。


 多加津は、そこで足を止めた。


「ここからは、急ぐな」


 曲戸も言っていた。


 湖の前で急ぐな。


 水は、近づく者を映す。映ったものを、すぐ自分だと思うな。


 真鹿人は頷いた。


 三人は、ゆっくり歩いた。


 木立を抜ける手前に、小さな石が並んでいた。誰が置いたのかは分からない。大きな石ではない。膝ほどの高さの石が、道の両側にまばらに立っている。苔むしたもの、割れたもの、半ば土に埋もれたもの。中には、上に小さな白い石を載せられたものもあった。


 佐那が尋ねた。


「道標ですか」


「かもしれぬ」


 真鹿人は答えた。


「墓ですか」


「それもあるかもしれぬ」


「神の石ですか」


 真鹿人は、少し黙った。


「そう呼ぶ者もいるだろう」


 佐那は石を見た。


「では、踏まない方がよいですね」


「それは確かだ」


 多加津が言った。


 三人は石の間を歩いた。


 石は黙っていた。


 それぞれに意味があるのかもしれない。あるいは、ただ置かれているだけかもしれない。だが、ただ置かれているだけの石など、この山と湖の前では、もう真鹿人には考えにくかった。


 だからといって、すべてに神の名を読むこともできない。


 石は石のまま、そこに立っている。


 そのあり方を損なわぬように、真鹿人は目を伏せて通った。


 木立を抜けた。


 湖があった。


 誰も、すぐには声を出さなかった。


 湖は、思っていたよりも近かった。そして、思っていたよりも遠かった。


 水面は目の前に広がっている。岸までは少し下れば届く。葦が揺れ、湿った土が低く続き、ところどころに水が入り込んでいる。白い鳥が一羽、水辺から飛び立ち、霧の中へ消えた。


 だが、湖そのものは近づけなかった。


 広すぎる。


 水は横へ広がり、霧の中で輪郭を失っていた。向こう岸は見えない。山々がうっすらと湖を囲んでいるが、その山も霧に沈み、どこまでが山で、どこからが空か分からなかった。


 湖は、空を映していた。


 しかし、空ではなかった。


 雲の白を受け、山の影を沈め、時折、風に細かく震えた。水面は静かに見えるのに、じっと見ていると、絶えず変わっている。白が灰になり、灰が青みを帯び、また白に戻る。


 真鹿人は、息をするのを忘れていた。


 出雲の海とは違う。

 因幡の浜とも違う。

 沢とも、谷とも違う。


 海は、外へ続いていた。波は戻りながらも、遠くへ行く気配を持っていた。

 湖は、留まっている。だが、閉じてはいない。

 山に囲まれながら、その内側で空を抱いている。


 水が、空を隠しているのか。

 空が、水に沈んでいるのか。


 分からなかった。


 佐那が、ようやく口を開いた。


「大きいですね」


 その声は、いつもより小さかった。


 多加津は黙っていた。


 彼は湖ではなく、岸の周りを見ている。人の気配、獣の跡、火の煙、逃げ道。湖を前にしても、彼の目は道を探していた。


 真鹿人は、そこに少し安心した。


 誰もが同じように湖を見るわけではない。

 それでよい。


 真鹿人は、湖を神のようだと思った。


 だが、その言葉をすぐに退けた。


 神のようだ、と言った瞬間、湖は神に似せられる。

 湖そのものではなく、真鹿人の知る神の形へ引き寄せられる。


 この湖は、神のようなのではない。


 人が神を感じる前から、ここに水を湛えていた。


 神が後から、この水に似ていったのかもしれない。


 そう思った時、真鹿人の背に冷たいものが走った。


 大和では、神に名を与える。

 名を与え、系譜に置き、祭るべき形に整える。

 だが、もし神が土地から立ち上がるものならば、名は後から来る。


 水が先にあり、名が後から来る。


 その順を誤れば、記録は土地を奪う。


 真鹿人は、膝をつきそうになった。


 実際には、まだ立っていた。だが、心の方が先に低くなっていた。湖の前では、立っていることが少しだけ傲慢に感じられた。


 佐那が、真鹿人の様子に気づいた。


「大丈夫ですか」


「大丈夫だ」


「顔が白いです」


「湖を見ていた」


「湖を見ると、顔が白くなるのですか」


 佐那の声には、心配と少しの戸惑いが混じっていた。


 真鹿人は、ようやく息を吐いた。


「分からない」


「またですか」


「まただ」


 佐那は少し困った顔をしたが、今度は笑わなかった。


 彼もまた、湖の前で何かを感じているのだろう。ただ、それを真鹿人のようには言葉にしないだけだ。


 湖面に、風が走った。


 水が細かく震え、白い光が砕けた。葦が揺れ、水鳥の声がした。遠くで、誰かが木を打つ音が聞こえた。湖畔には人がいる。煙が細く立つ場所もある。水を汲む者の姿が、霧の中に一瞬だけ見えた。


 湖は、人を拒んでいない。


 だが、人のものでもない。


 人はその岸に住み、水を汲み、魚を取り、葦を刈り、死者を送る。

 神を呼び、名を置き、祭る。

 それでも湖は、人の名より広い。


 真鹿人は、文箱に手を伸ばした。


 手が止まった。


 書くべきか。


 湖を初めて見たこの瞬間を、記録すべきか。


 大和の記録官としてなら、書くべきである。

 旅の目的からしても、諏訪へ至ったことは記すべきである。

 湖の位置、道の様子、岸の集落、人々の信仰。後で必要になる。


 だが、今書けば、湖を最初から言葉の中へ入れてしまう。


 言葉に入れた湖は、湖そのものではない。


 では、書かないのか。


 書かなければ、大和へ持ち帰れない。

 書かなければ、この湖の声は、真鹿人の身体とともに消える。

 それもまた、奪うことではないのか。


 記録は閉じる。

 だが、記録しないこともまた、失わせることがある。


 真鹿人は、文箱を開いた。


 空の木簡が、そこにあった。


 白く、何も書かれていない。旅の始まりからずっと持っている木簡。志斐の宿禰が渡したもの。どうしても書かねばならぬものに出会うまで、空のまま持てと言われたもの。


 湖の前で、その空白はこれまでになく重かった。


 書くのか。


 真鹿人は指を伸ばしかけた。


 しかし、触れる直前で止めた。


 まだ違う。


 湖は大きい。

 湖は古い。

 湖は名より先にある。


 だが、どうしても書かねばならぬものは、まだ湖そのものではない気がした。


 それは、湖を見て感じた何かであって、湖を閉じる言葉ではない。今ここで空の木簡に書けば、彼は湖を自分の覚悟の証にしてしまう。それは、湖に対して早すぎる。


 真鹿人は、空の木簡に触れず、別の木簡を取り出した。


 筆を持つ。


 湖を見ながら、しばらく何も書けなかった。


 佐那も多加津も、黙っていた。


 やがて真鹿人は、短く書いた。


 湖の前に立つ。

 水、先にあり。

 名、いまだ遠し。


 それだけで止めた。


 乾かすために木簡を持ち上げると、風が吹いた。水の匂いが墨に混じる。真鹿人は、その匂いまで閉じ込められればよいのにと思い、すぐにそれはできないと知った。


 記録できぬものがある。


 だからこそ、記録は謙虚でなければならない。


 彼は木簡を文箱に戻した。


 空の木簡は、まだ空のままだった。


 岸へ下る前に、三人は湖を見下ろせる場所でしばらく休んだ。


 佐那は荷を下ろし、木の実を一粒取り出した。口へ運びかけてから、少し迷い、近くの石の上に置いた。


 多加津が見た。


「食わぬのか」


「一粒だけです」


「誰に」


 佐那は湖を見た。


「分かりません」


「分からぬ相手に供えるのか」


「はい」


 多加津は何も言わなかった。


 佐那は続けた。


「湖を見たら、何か全部もらったような気がしたので、少し返そうと思いました」


「木の実一粒でか」


「私に返せるものが、それしかありません」


 多加津は、静かに湖を見た。


「それでよい」


 佐那は、ほっとしたように頷いた。


 真鹿人は、その一粒を見た。


 小さな木の実。


 湖に対しては、あまりにも小さい。だが、供えるとは、湖に釣り合うものを差し出すことではないのかもしれない。釣り合うものなど、人には持てない。だから、自分の手から出せるものを置く。


 大和の祭祀は、形を整える。


 それは必要なことだ。

 しかし、佐那の一粒もまた、必要な形である。


 大きさではない。


 向きの問題なのだろう。


 多加津は、自分の荷から乾いた枝を一本抜いた。曲戸からもらった枝束のうち、細いものだった。


 それを折り、半分だけ石のそばに置いた。


 佐那が目を向けた。


「火に使わないのですか」


「半分は使う」


「半分は?」


「置く」


「何のために」


 多加津は少し黙った。


「火が立つように」


「ここに置くのに?」


「火は、まだ先で立つ」


 佐那には分からなかったようだ。


 真鹿人にも、十分には分からなかった。


 だが、何となく、置かれた枝は湖へのものだけではなく、これから焚く火へのものでもあるように思えた。火を立てるために枝を使い切るのではなく、火が立つことの一部を置いていく。


 持って行くために、置いていく。


 出雲で聞いた言葉が戻った。


 ただし、ここでは出雲の言葉としてではない。


 多加津の手の動きとして戻った。


 真鹿人は、何も置かなかった。


 置くものがなかったわけではない。葉を置くこともできた。言葉を置くこともできた。だが、今は置かないことを選んだ。


 湖の前で、彼はまだ受け取っている途中だった。


 受け取る前に返すこともまた、早い。


 しばらくして、多加津が立ち上がった。


「下りる」


 佐那は木の実の包みをしまい、荷を背負った。


 真鹿人も立ち上がった。


 岸へ向かう道は、湿っていた。草の間に水が入り込み、ところどころ泥が深い。葦が増え、足元から小さな虫が跳ねた。水鳥がまた一羽、岸から離れた。羽音が静かな水面に広がった。


 湖に近づくにつれ、音が変わった。


 見下ろしていた時には、湖は大きな沈黙のようだった。だが、近づけば細かな音がある。水が葦の根元を洗う音。小さな波が泥に吸われる音。魚が跳ねる音。鳥が水を払う音。遠くで誰かが水を汲む音。


 沈黙は、空ではない。


 出雲で聞いた言葉が、ここで違う形になった。


 事代主の沈黙は、多くの声を聞いている時間だった。

 湖の沈黙もまた、多くの音を含んでいる。


 だが、同じではない。


 事代主の沈黙を湖に重ねれば、湖を狭める。

 湖の沈黙を事代主に重ねれば、事代主を薄める。


 響き合うが、同じではない。


 真鹿人は、何度も自分にそう言い聞かせた。


 岸に降り立った時、佐那が深く息を吸った。


「水が近い」


 目の前に湖があった。


 葦の間から、静かな水面が見える。薄い波が岸へ寄せ、泥の上に白い泡を少し残し、すぐ消えた。水は透明ではなかった。空と雲と土を混ぜたような色をしている。手を入れれば冷たいだろう。


 佐那は水辺に近づきかけ、多加津に止められた。


「待て」


「踏んではいけない石がありますか」


「泥が深い」


 佐那は足元を見た。


 確かに、水際の土は柔らかく、ところどころに足跡が沈んでいる。人のものもあれば、鳥のものも、獣のものもある。新しいものと古いものが重なり、どれがどれか分からなかった。


 多加津は長い枝を拾い、水際の泥を突いた。


 枝は深く入った。


 佐那は顔を青くした。


「入っていたら」


「膝まで取られた」


「膝だけですか」


「運がよければ」


「山でも湖でも、運がよければばかりですね」


「だから足元を見る」


 佐那は大人しく下がった。


 真鹿人は、泥に残る足跡を見た。


 人の跡。鳥の跡。獣の跡。

 湖の前では、それらが同じ泥に沈んでいる。


 神の足跡もまた、もしあるならば、同じように泥に沈んだのだろうか。


 強い名を持つ神が、山を越え、湖の前に立つ。

 その足も、泥に取られたのだろうか。

 怒りを持ったまま、水を見たのか。

 傷を抱えたまま、岸に立ったのか。

 逃げたのではないと、後の者が語る前に、その足はただ疲れていたのではないか。


 真鹿人は、そう思った。


 そして、すぐにその思いを閉じなかった。


 神を人へ落とすためではない。

 人を神へ高めるためでもない。

 ただ、道を歩いたものには足がある。

 足があれば、泥に触れる。


 その単純なことを、記録はしばしば消してしまう。


 湖の水が、細く岸へ寄せた。


 真鹿人は、水に触れたいと思った。


 だが、触れてよいのか分からなかった。


 その時、湖畔の葦の向こうから、声がした。


「そこは入るところではない」


 三人は振り向いた。


 葦の間に、人影があった。


 女だった。


 まだ遠く、霧と葦に半ば隠れている。年は分からない。若いようにも、老いているようにも見える。髪は後ろで束ねられ、手には細い杖を持っていた。衣は水辺の色に近く、灰とも浅い青ともつかない。


 多加津が半歩前に出た。


 手は刀にかけていない。


 女は、それ以上近づかなかった。


「湖に触れたいなら、触れる場所を選べ」


 声は低く、よく通った。


 佐那が小声で言った。


「湖の人でしょうか」


 真鹿人は、答えられなかった。


 女は、湖を背にして立っていた。


 いや、湖を背にしているのではない。

 湖との間に立っている。


 拒むためではなく、急ぐ者を止めるために。


 真鹿人は、一礼した。


「西より来た者です」


「見れば分かる」


 女は言った。


「背に海がある」


 真鹿人の胸が小さく鳴った。


 曲戸も、老人も、宇都志も、似たことを言った。背にあるものは、荷だけではない。旅人は、自分が思うより多くのものを背負って歩いている。


「諏訪へ参りました」


 真鹿人が言うと、女は静かに見返した。


「諏訪は、もうお前の前にある」


 真鹿人は、言葉を失った。


 その通りだった。


 諏訪とは、里に入ることではない。名を聞くことでも、神の話を得ることでもない。この湖の前に立った時点で、すでに彼は諏訪の前にいる。


 いや、諏訪の内側へ触れ始めている。


 女は、杖の先で岸の少し先を示した。


「水に触れるなら、あちらへ回れ。石がある。泥に足を取られぬ」


 多加津が目を細めた。


「案内か」


「警告だ」


「なぜする」


「湖を汚されると困る」


 女は淡々と言った。


 佐那が慌てて頭を下げた。


「汚すつもりはありません」


「つもりは、水に沈めば見えぬ」


 佐那は口を閉じた。


 女は、真鹿人を見た。


「名を集める者か」


 真鹿人は、少し間を置いて答えた。


「その役を持つ者です」


「役と身を分け始めたか」


 真鹿人は驚いた。


「なぜ」


「湖の前で、名を急がなかった」


 女は言った。


「急ぐ者は、ここへ来てすぐ問う。これは何の神か、誰の跡か、どの名を記せばよいか、と」


 真鹿人は、湖を見た。


「私も、問いたくなりました」


「なら、まだよい」


「問わなければよいのですか」


「違う」


 女は首を振った。


「問う前に、見る。見る前に、立つ。立つ前に、足元を知る」


 多加津が、かすかに頷いた。


 女はそれに気づいたようだったが、何も言わなかった。


 真鹿人は、胸の中でその順を繰り返した。


 足元を知る。

 立つ。

 見る。

 問う。


 大和では、しばしば順が逆だった。


 問いが先にあり、答えを探す。

 神の名が先にあり、土地の由来を集める。

 系譜が先にあり、語りをそこへ置く。


 だが、この湖の前では、それでは早すぎる。


 女は、葦の向こうへ歩き出した。


「来るなら、足元を見て来い」


 その言葉は、曲戸や多加津の言葉とよく似ていた。


 だが、声の底に水があった。


 佐那が真鹿人を見た。


「ついて行きますか」


 真鹿人は頷いた。


「行こう」


 多加津が先に立ち、佐那が続き、真鹿人は最後に歩いた。


 葦の間の道は、細かった。道というより、人が何度も通って自然にできた隙間だった。足元には湿った土があり、ときおり平たい石が置かれている。女はその石を選ぶように進んだ。


 少し歩くと、岸に張り出した石場へ出た。


 そこでは泥が浅く、平たい石が水際まで続いていた。水は石の上を薄く洗い、また戻っていく。触れるには、ここがよいのだろう。


 女は立ち止まった。


「ここならよい」


 佐那は、真っ先に水へ手を伸ばしかけ、途中で止まった。


「触っても?」


「聞く前に、手を見ろ」


 佐那は自分の手を見た。土で汚れ、枝で少し擦れている。彼は慌てて衣で拭こうとした。


「衣も汚れている」


 女が言った。


 佐那は困った。


「では、どうすれば」


「上の流れで洗ってから触れ」


 女は、石場の脇に流れ込む小さな水を示した。山から来た細い流れが、湖へ入る直前に石の間を通っている。


 佐那はそこで手を洗った。真鹿人も、多加津も同じようにした。


 それから、三人は湖の水に触れた。


 冷たかった。


 沢の水のように刺す冷たさではない。もっと深く、ゆっくりと指を包む冷たさだった。水は重いようにも感じた。手を入れたところで、湖全体がわずかにこちらを知ったような気がした。


 真鹿人は、すぐに手を引かなかった。


 水面に、自分の顔が映っていた。


 霧と雲の白が混ざり、顔ははっきりしない。目も口も揺れている。自分の顔のはずなのに、少し違う。湖が映しているのは真鹿人であり、真鹿人ではなかった。


 曲戸の言葉が戻る。


 水は、近づく者を映す。

 映ったものを、すぐ自分だと思うな。


 真鹿人は、水面の顔を見た。


 大和の記録官。

 出雲を通った旅人。

 名を集める者。

 名を疑い始めた者。

 空の木簡を持つ者。


 どれも自分である。


 だが、どれか一つが自分ではない。


 湖は、それを揺らしていた。


 佐那は隣で小さく声を上げた。


「冷たい」


 その声に、真鹿人は少し現実へ戻った。


 多加津は水に触れただけで、すぐ手を引いた。彼は水面を見なかった。あるいは、見たくなかったのかもしれない。


 女は、三人を見ていた。


 真鹿人は水から手を上げ、女に向き直った。


「あなたは、この湖を守る方ですか」


 女は答えなかった。


 湖面に風が走った。葦が鳴り、遠くで水鳥が飛び立った。


 しばらくして、女は言った。


「守っていると思う者もいる」


「ご自身では」


「見ている」


「湖を」


「水を。石を。人を。名を持って来る者を。名を置いていく者を」


 真鹿人は、静かに頭を下げた。


「名を伺ってもよろしいでしょうか」


 女は、真鹿人を見た。


 急いでいるかどうかを測るような目だった。


 真鹿人は、今度は言葉を重ねなかった。


 問うた後は、待つ。


 湖の前で急いではならない。


 やがて女は言った。


「水緒」


 佐那が小さく繰り返した。


「みお」


「そう呼ぶ者がいる」


 女は付け加えた。


「呼べば、来るとは限らぬ」


「本名ではないのですか」


 佐那が尋ねた。


 水緒は佐那を見た。


「水に本名を聞くか」


 佐那は困った顔をした。


「水には、聞かないかもしれません」


「だが、水を呼ぶだろう」


「はい。飲みたい時は」


「それで足りる名もある」


 佐那は、分かったような、分からないような顔をした。


 真鹿人は、水緒という名を胸に置いた。


 水の緒。

 水を結ぶもの。

 水につながるもの。

 水の始まりではなく、続き。

 あるいは、水と人との間にある細いもの。


 いくつもの解釈が浮かんだ。


 だが、今はどれも書かなかった。


 水緒は言った。


「今日は、湖の前に泊まれ」


「里へは入らぬのですか」


 真鹿人が尋ねると、水緒は首を振った。


「里へ入る前に、湖の前で夜を越せ」


「なぜです」


「昼の湖だけ見て、湖を見たと思うな」


 その声は、静かだった。


「夜の湖も見ろ。音を聞け。明け方の水を見ろ。それから里へ入れ」


 佐那は少し不安そうに湖を見た。


「夜の湖は、怖いですか」


「怖いと思うなら、近づきすぎるな」


「怖くないと思うなら?」


「なお近づくな」


 多加津が言った。


「正しい」


 佐那は肩を落とした。


「結局、近づいてはいけないのですね」


 水緒は答えた。


「近づくな、ではない。近づき方を知れ」


 真鹿人は、その言葉を深く聞いた。


 湖だけの話ではない。


 神へ近づくこと。

 名へ近づくこと。

 語りへ近づくこと。

 記録へ近づくこと。


 すべてに関わる言葉だった。


 近づくな、ではない。

 近づき方を知れ。


 水緒は、石場から少し離れた木立を示した。


「今夜は、あそこなら火を焚ける。風が弱い。水にも近すぎぬ」


 多加津が周囲を見た。


「見通しは悪い」


「見られたくないなら、悪くはない」


 水緒が言った。


 多加津は、水緒を見た。


「逃げる者の場所か」


「逃げる者も、祈る者も、泣く者も使う」


「死者は」


「送る者が使う」


 多加津は黙った。


 水緒はそれ以上言わなかった。


 真鹿人は、木立の方を見た。


 湖から少し上がった場所に、古い木が数本立っている。その根元には石があり、風を避けられる。確かに火を焚くにはよさそうだった。ただ、そこに宿る夜は、ただの野宿では済まないような気がした。


 水緒は、湖へ向き直った。


「私は日が落ちる頃に戻る」


「戻る?」


 佐那が尋ねた。


「夜の水を見せる」


 それだけ言って、水緒は葦の間を歩き出した。


 真鹿人は声をかけた。


「水緒殿」


 水緒は振り返らなかった。


「殿はいらぬ」


 その声だけが返ってきた。


 曲戸と同じだった。


 道の者も、水の者も、殿を好まないのかもしれない。あるいは、真鹿人がつい付けてしまう敬称が、土地の距離を誤らせるのかもしれない。


 水緒は葦の向こうへ消えた。


 姿が見えなくなっても、水面はそのまま揺れていた。葦は風に鳴り、白い鳥が遠くで鳴いた。


 佐那が、そっと言った。


「今の方が、水緒……ですね」


「そうだ」


 真鹿人は答えた。


「思っていたより、怖くはありませんでした」


「そうか」


「でも、近づきすぎると怒られそうです」


「それは、怖いということではないか」


「少し違います」


 佐那は湖を見た。


「怒られるというより、間違えたら止められる感じです」


 真鹿人は頷いた。


 確かに、水緒の言葉は拒絶ではなかった。湖へ近づくなとは言わない。むしろ、触れる場所を教えた。だが、急ぐな、汚すな、足元を知れと何度も止めた。


 守るとは、閉ざすことではないのかもしれない。


 近づき方を教えること。

 近づきすぎる者を止めること。

 遠すぎる者を、水際へ導くこと。


 それもまた、守るということなのだろう。


 多加津は、木立へ向かって歩き出した。


「日が落ちる前に支度する」


 佐那は慌てて荷を背負った。


「飯もですね」


「飯もだ」


「水は」


「汲む。だが、さっきの流れからだ」


「湖の水ではなく?」


「水緒がそうさせた」


 佐那は納得したように頷いた。


 真鹿人も歩き出した。


 湖を背にすると、不思議な感じがした。


 背後に広い水がある。

 見ていないのに、見られているような気がする。

 水面が背を映しているはずはない。だが、何かが背中に触れていた。


 出雲の重さとは違う。


 これは、まだ名のない重さだった。


 木立に着くと、多加津は手早く場所を整えた。濡れた枝を避け、曲戸にもらった乾いた枝束を取り出す。佐那は流れで手を洗い、水を汲み、干し飯を用意した。


 真鹿人は、木の根元に腰を下ろした。


 湖は木々の間から見える。


 昼の光が少しずつ傾き、水面の色が変わり始めていた。白かった湖は、灰になり、ところどころに淡い金を含んだ。山の影が伸び、岸の葦が黒く見える。


 湖は同じ場所にあるのに、同じではない。


 昼の湖だけ見て、湖を見たと思うな。


 水緒の言葉が、早くも意味を変え始めていた。


 火が立った。


 小さな火だった。煙は少なく、枝はよく乾いていた。曲戸の枝束がなければ、もっと苦労しただろう。火は、山の老人から湖の前へ運ばれた。


 道は、ものを運ぶ。


 名だけではない。

 火も、飯も、疲れも、沈黙も運ぶ。


 佐那が湯を沸かし、干し飯を入れた。少しの塩。木の実を砕いて加えると、香ばしい匂いが立った。


「曲戸殿の木の実です」


「殿はいらぬと言っていた」


 真鹿人が言うと、佐那は困った顔をした。


「でも、いただいたので」


「なら、心の中で付けておけ」


「そうします」


 佐那は器を三つに分けた。


 それから、少し迷い、四つ目の小さな分を石の上に置いた。


 多加津が見た。


「誰の分だ」


「分かりません」


「またか」


「湖かもしれませんし、山かもしれませんし、曲戸かもしれませんし、水緒かもしれません」


「多いな」


「だから少しです」


 多加津は何も言わなかった。


 真鹿人は、その小さな器を見た。


 分からぬものへ置く飯。


 それは雑なのではなく、開いているのだと思った。


 誰のものか定めない。

 だが、誰のものでもないとはしない。


 佐那は、そういうことを自然にする。


 真鹿人が言葉で慎重に避けようとする場所を、佐那は飯で越えることがある。


 日がさらに傾いた。


 水面の光が落ち、湖は急に深くなった。昼には白く広がっていた水が、今は青黒く沈んでいる。風が止み、波は小さくなった。遠くの山が影になり、湖の端はますます分からなくなった。


 水緒は、日が落ちる頃に戻ると言った。


 真鹿人は、湖の方を見た。


 まだ姿はない。


 しかし、湖はすでに別の顔を見せていた。


 昼の湖は空を抱いていた。

 夕の湖は山を沈めている。


 夜になれば、何を抱くのだろう。


 真鹿人は、文箱に触れた。


 書きたいことは多い。


 湖の前に立ったこと。

 水が先にあり、名がまだ遠いこと。

 水緒と名乗る者に出会ったこと。

 湖に触れる場所を教えられたこと。

 近づき方を知れと言われたこと。


 だが、今は書かなかった。


 夜の湖をまだ見ていない。


 湖は、一度見ただけでは湖ではない。


 そのことを、すでに水が教えていた。


 やがて、葦の向こうから足音がした。


 水緒が戻ってきた。


 夕闇の中で見る水緒は、昼よりも湖に近かった。衣の色は水面の灰に溶け、髪の影は葦の黒に混じっている。彼女は火の近くまでは来ず、光の縁に立った。


 佐那が立ち上がりかけた。


「飯を」


「後でよい」


 水緒は湖を見ていた。


「先に、夜の水を見る」


 三人は黙って立ち上がった。


 火を小さく残し、湖の方へ向かう。


 水緒は先に立った。昼に通った石場ではなく、少し別の道を選んだ。葦の間を抜け、木の根を越え、低い石の上に出る。


 そこから、夜に入りかけた湖が見えた。


 真鹿人は、息を呑んだ。


 湖は、黒くなかった。


 まだ空の光をわずかに含み、深い藍のような色をしていた。山々は黒い影となり、その間に水が静かに広がっている。風はほとんどなく、水面は大きな布のように横たわっていた。


 その上に、淡い月があった。


 雲の奥に、薄く隠れた月だった。


 丸いのか欠けているのか分からない。白くもなく、銀でもなく、水に沈んだ骨のように淡い。雲が動くたびに見え、また隠れる。


 湖面にも、その光があった。


 だが、はっきりとは映らない。


 月は、湖に隠されていた。


 真鹿人の胸が、静かに鳴った。


 月。


 その名を、彼はまだ深く考えていない。大和の記録にも、月の神の名はある。だが、今この湖に映る月は、名を持つ神というより、名の前にある白い沈黙のようだった。


 水緒は何も言わなかった。


 多加津も、佐那も黙っていた。


 湖は、夜の入口で月を抱き、そして隠していた。


 真鹿人は、空の木簡を思った。


 いつか、この空白は、月へ至るのかもしれない。


 もちろん、今の彼には分からない。


 分からないまま、月は雲に隠れた。


 湖面の淡い光も消えた。


 水緒が、ようやく言った。


「昼の水は、空を返す」


 その声は低かった。


「夕の水は、山を沈める」


 真鹿人は、湖を見た。


「夜の水は」


 水緒は少し黙った。


「名を隠す」


 その言葉は、静かに湖へ落ちた。


 波は立たなかった。


 だが、真鹿人の内側で、何かが深く沈んだ。


 夜の水は、名を隠す。


 書きたい。


 強く、そう思った。


 だが、今ここで書けば、その言葉を捕まえてしまう。水緒の声から切り離し、湖の夜から剥がし、木簡の上へ固定してしまう。


 真鹿人は、書かなかった。


 ただ聞いた。


 湖は暗く、月は隠れ、水音だけが小さく岸へ寄せていた。


 水緒は言った。


「明日、里へ入る」


 真鹿人は頷いた。


「そこで、何を聞けばよいのでしょう」


「まず、聞こうとするな」


「では」


「見ろ。誰が水を汲むか。誰が石を避けるか。誰が蛇を殺さぬか。誰が名を口にしないか」


 水緒は、夜の湖を見たまま続けた。


「諏訪の神を知りたいなら、神の名から入るな」


「何から入れば」


「水の扱いから入れ」


 真鹿人は、深く頭を下げた。


 第二部の道が、ここで変わった気がした。


 出雲から運ばれた強い名を追うだけでは、諏訪には入れない。

 諏訪には、先に水がある。

 そして、その水をどう扱うかの中に、神の前の信仰が残っている。


 水緒は振り返った。


「戻る。火が消える」


 佐那が慌てた。


「飯も冷めます」


「それも困る」


 水緒が言うと、佐那は少し驚き、それから笑った。


「水緒も、飯は食べるのですね」


「腹は空く」


 その答えに、多加津が短く息を漏らした。


 三人と水緒は、火の方へ戻った。


 背後で湖は暗くなっていく。


 夜の水は、名を隠す。


 真鹿人は、その言葉を胸に抱いたまま、木簡にはまだ書かなかった。


 火のそばへ戻ると、佐那が飯を温め直した。


 水緒は火の縁に座った。光の中に入りきらず、闇の側に半分身を置いている。多加津はその向かいに座り、真鹿人は文箱を脇に置いた。


 佐那が器を差し出す。


 水緒は受け取り、一口食べた。


「塩が少ない」


 佐那は少し慌てた。


「すみません」


「責めていない」


「では」


「山では、少ない方が長く持つ」


 佐那は安心したように息を吐いた。


「よかったです。まずいと言われたのかと思いました」


「まずければ、まずいと言う」


「言うのですか」


「言う」


 佐那は微妙な顔をした。


 多加津が低く言った。


「次は少しうまく作れ」


「多加津殿まで」


 火の周りに、わずかな笑いが生まれた。


 湖の前で笑うことに、真鹿人は少し驚いた。


 だが、すぐにそれもまた自然なことだと思った。


 神のような湖の前でも、人は腹を空かせる。飯を食べる。味を気にする。火を守る。寒ければ身を寄せる。


 それは湖を軽くすることではない。


 湖の前で生きるということだ。


 真鹿人は、水緒に尋ねた。


「明日、里で水の扱いを見るとして、その後に神の話を聞けるのでしょうか」


 水緒は器を置いた。


「聞ける」


「誰から」


「語る者はいる。語らぬ者もいる。間違って語る者もいる」


「間違いを、どう見分ければよいでしょう」


「急いで見分けるな」


 水緒は火を見た。


「間違いにも、残った理由がある」


 真鹿人は、息を止めた。


「間違いにも」


「そうだ」


「正しくない語りにも、ですか」


「正しい語りだけが残るなら、人は苦労せぬ」


 水緒の声は静かだった。


「間違いは、ただの誤りではない。恐れから生まれることもある。隠すために作られることもある。守るために曲げられることもある。忘れたくないのに、正しく覚えられず、形だけが残ることもある」


 真鹿人は、何も言えなかった。


 大和の記録では、誤りは正されるべきものだった。

 異なる語りは整理され、余分なものは削られる。

 矛盾は調えられ、名は系譜に従う。


 だが、水緒は言う。


 間違いにも、残った理由がある。


 それは、記録官にとって重い言葉だった。


「では、私は何を正せばよいのでしょう」


 真鹿人は思わず尋ねた。


 水緒は、すぐには答えなかった。


 火が小さく鳴った。


「正す前に、なぜ曲がったかを聞け」


 水緒は言った。


「道も語りも、曲がるには曲がるだけのものがある」


 曲戸。


 真鹿人は、山道の老人を思い出した。


 曲がる戸。道が曲がり、山が開き、また閉じるところにいる者。

 曲がることは、誤りではない。

 まっすぐ進めない理由がある。


「曲がった語りを、まっすぐにしてしまえば、何かを失うのですね」


 水緒は頷かなかった。


 否定もしなかった。


「それは、お前が見ることだ」


 真鹿人は頭を下げた。


 湖の夜は深くなった。


 火は小さく、飯は温かく、水緒は多くを語らなかった。佐那は疲れから早く眠り、多加津はいつものように闇を見ていた。


 真鹿人は、眠る前に一度だけ湖の方を見た。


 木々の間から、水面はもう見えなかった。闇があるだけだった。けれど、水音はある。低く、細かく、絶えず続いている。


 見えないものと、ないものは違う。


 夜の湖は見えない。

 だが、ないわけではない。


 名を隠す水は、闇の中で静かにそこにあった。


 真鹿人は、文箱に手を置いた。


 空の木簡は、まだ空のままだった。


 それでよい。


 今夜、湖は名を隠している。


 隠されたものを、無理に書いてはならない。


 彼は目を閉じた。


 水音が続いていた。


 その音は、眠りへ入る真鹿人の耳に、言葉になる前の語りのように聞こえた。


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