第十三章 湖の前で
朝の火は、白く消えた。
昨夜の峠で焚いた小さな火は、夜のあいだ三人の身体をかろうじて人の側に留めていた。だが、夜明け前には枝も尽き、灰は湿り、赤い芯もいつの間にか見えなくなっていた。
佐那は、灰の中を覗き込んで小さく息を吐いた。
「火も眠るんですね」
多加津は、荷を締めながら答えた。
「眠る火はよい」
「眠らない火は?」
「山を食う」
佐那は灰に土をかける手を止め、少し真面目な顔になった。
「それは困ります」
「だから、消えたことを確かめる」
多加津は足で灰を軽くならした。佐那もそれに倣った。灰は土と混ざり、ただの黒い跡になった。
真鹿人は、その跡を見ていた。
火の跡。
昨夜、三人がそこにいた証である。だが、いずれ雨が降れば消えるだろう。獣が踏み、草が伸び、石が転がれば、そこに火があったことも分からなくなる。
消えるものは、残らないのか。
大和にいた頃なら、真鹿人はそう考えたかもしれない。記されぬものは忘れられ、忘れられたものは、やがて無かったものに近づく。だからこそ記録がいる。だからこそ名がいる。
だが、今は少し違っていた。
火の跡は消える。
けれど、火で温まった身体は歩く。
火で炊いた飯は腹に入り、腹に入った飯は足を動かす。
足は道を進み、道は湖へ近づく。
ならば、火は灰として残らなくても、三人の歩みに変わっている。
残るとは、形を保つことだけではない。
そう思いかけて、真鹿人は首を振った。
朝の山では、思いもまた転ぶ。
多加津の言葉が胸の内に残っていた。
――山では、思いはよく転ぶ。
彼は文箱に触れず、荷を背負った。
峠の朝は冷たかった。風は夜よりも細くなっていたが、その分、衣の隙間へ入り込む。空は曇っている。厚い雲ではなく、水を含んだ白い雲だった。下の方から霧が上がってきて、谷を満たしている。
その霧の向こうに、湖がある。
まだ見えない。
だが、匂いはあった。
昨夕より濃い。沢や川の水ではない。広く、動かず、それでいて死んではいない水の匂い。湿り、冷え、土と葦と遠い煙を含んだ匂い。
佐那は鼻を鳴らした。
「やはり水の匂いがします」
「するな」
真鹿人が答えた。
「湖は、もう近いのでしょうか」
多加津は下る道を見ていた。
「近いものほど、道は曲がる」
「では、遠いのですか」
「見えるまでは遠い」
「見えたら近い?」
「見えても遠いことがある」
佐那は顔をしかめた。
「山は、どうしていつも答えを濁すんです」
「濁すのは人だ。山は黙っている」
「それが困るんです」
多加津は少しだけ口元を動かした。
真鹿人は、そのやり取りを聞きながら、峠の向こうへ足を踏み出した。
道は下っていた。
初めは、緩い下りだった。草は短く、石も少ない。昨夜までの湿った山道に比べれば、歩きやすい。だが、しばらく進むと、道は斜面の間を縫うように細くなり、地面は黒い土に変わった。そこには水が染みていた。踏むと、靴裏から冷たさが上がる。
木の種類も少し変わった。
高い木の間に、低い木が増えた。枝は横へ広がり、葉は湿り、ところどころに葦のような草が見え始めた。山の奥にいる時には聞こえなかった鳥の声がした。鋭く短い声ではない。水辺を渡るような、横に流れる声だった。
佐那は立ち止まりかけた。
「今の鳥、見ましたか」
「見ていない」
真鹿人は答えた。
「声だけでした」
佐那は少し残念そうにした。
「声だけでも、鳥はいますよね」
「いるだろう」
「見えないものと、ないものは違う」
佐那はそう言ってから、自分で驚いたように口を押さえた。
「佐保殿の言葉ですね」
真鹿人が言うと、佐那は頷いた。
「何度も聞いたので、覚えてしまいました」
「土地が変わると、同じ言葉も違って聞こえる」
「そうですか?」
「因幡では、道の話だった。今は、鳥の声の話になった」
佐那は少し考えた。
「では、便利な言葉ですね」
「便利にしすぎると、軽くなる」
「難しいですね」
「そうだな」
真鹿人は、小さく笑った。
佐那の言葉は、時に真鹿人を困らせる。だが、その困り方がよいこともある。考えを急がせず、足元へ戻してくれる。
記録官は、言葉を高く置きがちだ。
佐那は、それを手の届くところへ戻す。
見えない鳥。
声だけの鳥。
いるが、見えないもの。
それだけで十分な時もある。
道はさらに下った。
霧は、谷の底から湧き上がり、時折、三人の周りを白く包んだ。濡れた草が足に触れ、露が衣に染みる。多加津はいつもより歩みを緩めていた。急げば滑るからだろう。彼は時折、立ち止まって耳を澄ませた。
やがて、低い水音が聞こえ始めた。
沢のように高く弾む音ではない。岩に当たって砕ける音でもない。もっと低く、広く、遠い音だった。水面が岸に触れ、戻り、また触れる。その繰り返しが、まだ見えない場所から届いていた。
真鹿人は足を止めた。
「湖か」
声に出してから、彼はすぐに自分を戒めた。
まだ見ていない。
だが、多加津は否定しなかった。
「近い」
それだけ言った。
佐那は、黙っていた。
珍しく、何も言わなかった。疲れているのかと思ったが、違った。彼は耳を澄ませていた。腹や足で知る佐那が、今は音を聞いている。
真鹿人も耳を澄ませた。
水音は、ひとつではなかった。
近くの湿地を流れる細い水の音。
葉から落ちる露の音。
遠くで広い水が揺れる音。
その向こうで、人の営みが立てるかすかな音。
犬の声のようなものも聞こえた。
木を打つ音もした。
女の歌か、あるいは鳥の長い声か分からぬものもあった。
湖は、ただ静かな水ではない。
水の周りに暮らしがある。
そのことが、音から先に届いた。
道の先が明るくなった。
木々の幹の間に、白い空が見える。いや、空ではないかもしれない。空よりも低く、地よりも明るいもの。霧が薄いところで、白い光が横に広がっている。
佐那が、小さな声で言った。
「見えますか」
「まだ」
真鹿人は答えた。
だが、見え始めていた。
木々の間から、広い白が覗く。水面か、霧か、空の映りか、分からない。歩くたびに見え、また隠れる。近づくほどに、かえって形が分からなくなる。
多加津は、そこで足を止めた。
「ここからは、急ぐな」
曲戸も言っていた。
湖の前で急ぐな。
水は、近づく者を映す。映ったものを、すぐ自分だと思うな。
真鹿人は頷いた。
三人は、ゆっくり歩いた。
木立を抜ける手前に、小さな石が並んでいた。誰が置いたのかは分からない。大きな石ではない。膝ほどの高さの石が、道の両側にまばらに立っている。苔むしたもの、割れたもの、半ば土に埋もれたもの。中には、上に小さな白い石を載せられたものもあった。
佐那が尋ねた。
「道標ですか」
「かもしれぬ」
真鹿人は答えた。
「墓ですか」
「それもあるかもしれぬ」
「神の石ですか」
真鹿人は、少し黙った。
「そう呼ぶ者もいるだろう」
佐那は石を見た。
「では、踏まない方がよいですね」
「それは確かだ」
多加津が言った。
三人は石の間を歩いた。
石は黙っていた。
それぞれに意味があるのかもしれない。あるいは、ただ置かれているだけかもしれない。だが、ただ置かれているだけの石など、この山と湖の前では、もう真鹿人には考えにくかった。
だからといって、すべてに神の名を読むこともできない。
石は石のまま、そこに立っている。
そのあり方を損なわぬように、真鹿人は目を伏せて通った。
木立を抜けた。
湖があった。
誰も、すぐには声を出さなかった。
湖は、思っていたよりも近かった。そして、思っていたよりも遠かった。
水面は目の前に広がっている。岸までは少し下れば届く。葦が揺れ、湿った土が低く続き、ところどころに水が入り込んでいる。白い鳥が一羽、水辺から飛び立ち、霧の中へ消えた。
だが、湖そのものは近づけなかった。
広すぎる。
水は横へ広がり、霧の中で輪郭を失っていた。向こう岸は見えない。山々がうっすらと湖を囲んでいるが、その山も霧に沈み、どこまでが山で、どこからが空か分からなかった。
湖は、空を映していた。
しかし、空ではなかった。
雲の白を受け、山の影を沈め、時折、風に細かく震えた。水面は静かに見えるのに、じっと見ていると、絶えず変わっている。白が灰になり、灰が青みを帯び、また白に戻る。
真鹿人は、息をするのを忘れていた。
出雲の海とは違う。
因幡の浜とも違う。
沢とも、谷とも違う。
海は、外へ続いていた。波は戻りながらも、遠くへ行く気配を持っていた。
湖は、留まっている。だが、閉じてはいない。
山に囲まれながら、その内側で空を抱いている。
水が、空を隠しているのか。
空が、水に沈んでいるのか。
分からなかった。
佐那が、ようやく口を開いた。
「大きいですね」
その声は、いつもより小さかった。
多加津は黙っていた。
彼は湖ではなく、岸の周りを見ている。人の気配、獣の跡、火の煙、逃げ道。湖を前にしても、彼の目は道を探していた。
真鹿人は、そこに少し安心した。
誰もが同じように湖を見るわけではない。
それでよい。
真鹿人は、湖を神のようだと思った。
だが、その言葉をすぐに退けた。
神のようだ、と言った瞬間、湖は神に似せられる。
湖そのものではなく、真鹿人の知る神の形へ引き寄せられる。
この湖は、神のようなのではない。
人が神を感じる前から、ここに水を湛えていた。
神が後から、この水に似ていったのかもしれない。
そう思った時、真鹿人の背に冷たいものが走った。
大和では、神に名を与える。
名を与え、系譜に置き、祭るべき形に整える。
だが、もし神が土地から立ち上がるものならば、名は後から来る。
水が先にあり、名が後から来る。
その順を誤れば、記録は土地を奪う。
真鹿人は、膝をつきそうになった。
実際には、まだ立っていた。だが、心の方が先に低くなっていた。湖の前では、立っていることが少しだけ傲慢に感じられた。
佐那が、真鹿人の様子に気づいた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫だ」
「顔が白いです」
「湖を見ていた」
「湖を見ると、顔が白くなるのですか」
佐那の声には、心配と少しの戸惑いが混じっていた。
真鹿人は、ようやく息を吐いた。
「分からない」
「またですか」
「まただ」
佐那は少し困った顔をしたが、今度は笑わなかった。
彼もまた、湖の前で何かを感じているのだろう。ただ、それを真鹿人のようには言葉にしないだけだ。
湖面に、風が走った。
水が細かく震え、白い光が砕けた。葦が揺れ、水鳥の声がした。遠くで、誰かが木を打つ音が聞こえた。湖畔には人がいる。煙が細く立つ場所もある。水を汲む者の姿が、霧の中に一瞬だけ見えた。
湖は、人を拒んでいない。
だが、人のものでもない。
人はその岸に住み、水を汲み、魚を取り、葦を刈り、死者を送る。
神を呼び、名を置き、祭る。
それでも湖は、人の名より広い。
真鹿人は、文箱に手を伸ばした。
手が止まった。
書くべきか。
湖を初めて見たこの瞬間を、記録すべきか。
大和の記録官としてなら、書くべきである。
旅の目的からしても、諏訪へ至ったことは記すべきである。
湖の位置、道の様子、岸の集落、人々の信仰。後で必要になる。
だが、今書けば、湖を最初から言葉の中へ入れてしまう。
言葉に入れた湖は、湖そのものではない。
では、書かないのか。
書かなければ、大和へ持ち帰れない。
書かなければ、この湖の声は、真鹿人の身体とともに消える。
それもまた、奪うことではないのか。
記録は閉じる。
だが、記録しないこともまた、失わせることがある。
真鹿人は、文箱を開いた。
空の木簡が、そこにあった。
白く、何も書かれていない。旅の始まりからずっと持っている木簡。志斐の宿禰が渡したもの。どうしても書かねばならぬものに出会うまで、空のまま持てと言われたもの。
湖の前で、その空白はこれまでになく重かった。
書くのか。
真鹿人は指を伸ばしかけた。
しかし、触れる直前で止めた。
まだ違う。
湖は大きい。
湖は古い。
湖は名より先にある。
だが、どうしても書かねばならぬものは、まだ湖そのものではない気がした。
それは、湖を見て感じた何かであって、湖を閉じる言葉ではない。今ここで空の木簡に書けば、彼は湖を自分の覚悟の証にしてしまう。それは、湖に対して早すぎる。
真鹿人は、空の木簡に触れず、別の木簡を取り出した。
筆を持つ。
湖を見ながら、しばらく何も書けなかった。
佐那も多加津も、黙っていた。
やがて真鹿人は、短く書いた。
湖の前に立つ。
水、先にあり。
名、いまだ遠し。
それだけで止めた。
乾かすために木簡を持ち上げると、風が吹いた。水の匂いが墨に混じる。真鹿人は、その匂いまで閉じ込められればよいのにと思い、すぐにそれはできないと知った。
記録できぬものがある。
だからこそ、記録は謙虚でなければならない。
彼は木簡を文箱に戻した。
空の木簡は、まだ空のままだった。
岸へ下る前に、三人は湖を見下ろせる場所でしばらく休んだ。
佐那は荷を下ろし、木の実を一粒取り出した。口へ運びかけてから、少し迷い、近くの石の上に置いた。
多加津が見た。
「食わぬのか」
「一粒だけです」
「誰に」
佐那は湖を見た。
「分かりません」
「分からぬ相手に供えるのか」
「はい」
多加津は何も言わなかった。
佐那は続けた。
「湖を見たら、何か全部もらったような気がしたので、少し返そうと思いました」
「木の実一粒でか」
「私に返せるものが、それしかありません」
多加津は、静かに湖を見た。
「それでよい」
佐那は、ほっとしたように頷いた。
真鹿人は、その一粒を見た。
小さな木の実。
湖に対しては、あまりにも小さい。だが、供えるとは、湖に釣り合うものを差し出すことではないのかもしれない。釣り合うものなど、人には持てない。だから、自分の手から出せるものを置く。
大和の祭祀は、形を整える。
それは必要なことだ。
しかし、佐那の一粒もまた、必要な形である。
大きさではない。
向きの問題なのだろう。
多加津は、自分の荷から乾いた枝を一本抜いた。曲戸からもらった枝束のうち、細いものだった。
それを折り、半分だけ石のそばに置いた。
佐那が目を向けた。
「火に使わないのですか」
「半分は使う」
「半分は?」
「置く」
「何のために」
多加津は少し黙った。
「火が立つように」
「ここに置くのに?」
「火は、まだ先で立つ」
佐那には分からなかったようだ。
真鹿人にも、十分には分からなかった。
だが、何となく、置かれた枝は湖へのものだけではなく、これから焚く火へのものでもあるように思えた。火を立てるために枝を使い切るのではなく、火が立つことの一部を置いていく。
持って行くために、置いていく。
出雲で聞いた言葉が戻った。
ただし、ここでは出雲の言葉としてではない。
多加津の手の動きとして戻った。
真鹿人は、何も置かなかった。
置くものがなかったわけではない。葉を置くこともできた。言葉を置くこともできた。だが、今は置かないことを選んだ。
湖の前で、彼はまだ受け取っている途中だった。
受け取る前に返すこともまた、早い。
しばらくして、多加津が立ち上がった。
「下りる」
佐那は木の実の包みをしまい、荷を背負った。
真鹿人も立ち上がった。
岸へ向かう道は、湿っていた。草の間に水が入り込み、ところどころ泥が深い。葦が増え、足元から小さな虫が跳ねた。水鳥がまた一羽、岸から離れた。羽音が静かな水面に広がった。
湖に近づくにつれ、音が変わった。
見下ろしていた時には、湖は大きな沈黙のようだった。だが、近づけば細かな音がある。水が葦の根元を洗う音。小さな波が泥に吸われる音。魚が跳ねる音。鳥が水を払う音。遠くで誰かが水を汲む音。
沈黙は、空ではない。
出雲で聞いた言葉が、ここで違う形になった。
事代主の沈黙は、多くの声を聞いている時間だった。
湖の沈黙もまた、多くの音を含んでいる。
だが、同じではない。
事代主の沈黙を湖に重ねれば、湖を狭める。
湖の沈黙を事代主に重ねれば、事代主を薄める。
響き合うが、同じではない。
真鹿人は、何度も自分にそう言い聞かせた。
岸に降り立った時、佐那が深く息を吸った。
「水が近い」
目の前に湖があった。
葦の間から、静かな水面が見える。薄い波が岸へ寄せ、泥の上に白い泡を少し残し、すぐ消えた。水は透明ではなかった。空と雲と土を混ぜたような色をしている。手を入れれば冷たいだろう。
佐那は水辺に近づきかけ、多加津に止められた。
「待て」
「踏んではいけない石がありますか」
「泥が深い」
佐那は足元を見た。
確かに、水際の土は柔らかく、ところどころに足跡が沈んでいる。人のものもあれば、鳥のものも、獣のものもある。新しいものと古いものが重なり、どれがどれか分からなかった。
多加津は長い枝を拾い、水際の泥を突いた。
枝は深く入った。
佐那は顔を青くした。
「入っていたら」
「膝まで取られた」
「膝だけですか」
「運がよければ」
「山でも湖でも、運がよければばかりですね」
「だから足元を見る」
佐那は大人しく下がった。
真鹿人は、泥に残る足跡を見た。
人の跡。鳥の跡。獣の跡。
湖の前では、それらが同じ泥に沈んでいる。
神の足跡もまた、もしあるならば、同じように泥に沈んだのだろうか。
強い名を持つ神が、山を越え、湖の前に立つ。
その足も、泥に取られたのだろうか。
怒りを持ったまま、水を見たのか。
傷を抱えたまま、岸に立ったのか。
逃げたのではないと、後の者が語る前に、その足はただ疲れていたのではないか。
真鹿人は、そう思った。
そして、すぐにその思いを閉じなかった。
神を人へ落とすためではない。
人を神へ高めるためでもない。
ただ、道を歩いたものには足がある。
足があれば、泥に触れる。
その単純なことを、記録はしばしば消してしまう。
湖の水が、細く岸へ寄せた。
真鹿人は、水に触れたいと思った。
だが、触れてよいのか分からなかった。
その時、湖畔の葦の向こうから、声がした。
「そこは入るところではない」
三人は振り向いた。
葦の間に、人影があった。
女だった。
まだ遠く、霧と葦に半ば隠れている。年は分からない。若いようにも、老いているようにも見える。髪は後ろで束ねられ、手には細い杖を持っていた。衣は水辺の色に近く、灰とも浅い青ともつかない。
多加津が半歩前に出た。
手は刀にかけていない。
女は、それ以上近づかなかった。
「湖に触れたいなら、触れる場所を選べ」
声は低く、よく通った。
佐那が小声で言った。
「湖の人でしょうか」
真鹿人は、答えられなかった。
女は、湖を背にして立っていた。
いや、湖を背にしているのではない。
湖との間に立っている。
拒むためではなく、急ぐ者を止めるために。
真鹿人は、一礼した。
「西より来た者です」
「見れば分かる」
女は言った。
「背に海がある」
真鹿人の胸が小さく鳴った。
曲戸も、老人も、宇都志も、似たことを言った。背にあるものは、荷だけではない。旅人は、自分が思うより多くのものを背負って歩いている。
「諏訪へ参りました」
真鹿人が言うと、女は静かに見返した。
「諏訪は、もうお前の前にある」
真鹿人は、言葉を失った。
その通りだった。
諏訪とは、里に入ることではない。名を聞くことでも、神の話を得ることでもない。この湖の前に立った時点で、すでに彼は諏訪の前にいる。
いや、諏訪の内側へ触れ始めている。
女は、杖の先で岸の少し先を示した。
「水に触れるなら、あちらへ回れ。石がある。泥に足を取られぬ」
多加津が目を細めた。
「案内か」
「警告だ」
「なぜする」
「湖を汚されると困る」
女は淡々と言った。
佐那が慌てて頭を下げた。
「汚すつもりはありません」
「つもりは、水に沈めば見えぬ」
佐那は口を閉じた。
女は、真鹿人を見た。
「名を集める者か」
真鹿人は、少し間を置いて答えた。
「その役を持つ者です」
「役と身を分け始めたか」
真鹿人は驚いた。
「なぜ」
「湖の前で、名を急がなかった」
女は言った。
「急ぐ者は、ここへ来てすぐ問う。これは何の神か、誰の跡か、どの名を記せばよいか、と」
真鹿人は、湖を見た。
「私も、問いたくなりました」
「なら、まだよい」
「問わなければよいのですか」
「違う」
女は首を振った。
「問う前に、見る。見る前に、立つ。立つ前に、足元を知る」
多加津が、かすかに頷いた。
女はそれに気づいたようだったが、何も言わなかった。
真鹿人は、胸の中でその順を繰り返した。
足元を知る。
立つ。
見る。
問う。
大和では、しばしば順が逆だった。
問いが先にあり、答えを探す。
神の名が先にあり、土地の由来を集める。
系譜が先にあり、語りをそこへ置く。
だが、この湖の前では、それでは早すぎる。
女は、葦の向こうへ歩き出した。
「来るなら、足元を見て来い」
その言葉は、曲戸や多加津の言葉とよく似ていた。
だが、声の底に水があった。
佐那が真鹿人を見た。
「ついて行きますか」
真鹿人は頷いた。
「行こう」
多加津が先に立ち、佐那が続き、真鹿人は最後に歩いた。
葦の間の道は、細かった。道というより、人が何度も通って自然にできた隙間だった。足元には湿った土があり、ときおり平たい石が置かれている。女はその石を選ぶように進んだ。
少し歩くと、岸に張り出した石場へ出た。
そこでは泥が浅く、平たい石が水際まで続いていた。水は石の上を薄く洗い、また戻っていく。触れるには、ここがよいのだろう。
女は立ち止まった。
「ここならよい」
佐那は、真っ先に水へ手を伸ばしかけ、途中で止まった。
「触っても?」
「聞く前に、手を見ろ」
佐那は自分の手を見た。土で汚れ、枝で少し擦れている。彼は慌てて衣で拭こうとした。
「衣も汚れている」
女が言った。
佐那は困った。
「では、どうすれば」
「上の流れで洗ってから触れ」
女は、石場の脇に流れ込む小さな水を示した。山から来た細い流れが、湖へ入る直前に石の間を通っている。
佐那はそこで手を洗った。真鹿人も、多加津も同じようにした。
それから、三人は湖の水に触れた。
冷たかった。
沢の水のように刺す冷たさではない。もっと深く、ゆっくりと指を包む冷たさだった。水は重いようにも感じた。手を入れたところで、湖全体がわずかにこちらを知ったような気がした。
真鹿人は、すぐに手を引かなかった。
水面に、自分の顔が映っていた。
霧と雲の白が混ざり、顔ははっきりしない。目も口も揺れている。自分の顔のはずなのに、少し違う。湖が映しているのは真鹿人であり、真鹿人ではなかった。
曲戸の言葉が戻る。
水は、近づく者を映す。
映ったものを、すぐ自分だと思うな。
真鹿人は、水面の顔を見た。
大和の記録官。
出雲を通った旅人。
名を集める者。
名を疑い始めた者。
空の木簡を持つ者。
どれも自分である。
だが、どれか一つが自分ではない。
湖は、それを揺らしていた。
佐那は隣で小さく声を上げた。
「冷たい」
その声に、真鹿人は少し現実へ戻った。
多加津は水に触れただけで、すぐ手を引いた。彼は水面を見なかった。あるいは、見たくなかったのかもしれない。
女は、三人を見ていた。
真鹿人は水から手を上げ、女に向き直った。
「あなたは、この湖を守る方ですか」
女は答えなかった。
湖面に風が走った。葦が鳴り、遠くで水鳥が飛び立った。
しばらくして、女は言った。
「守っていると思う者もいる」
「ご自身では」
「見ている」
「湖を」
「水を。石を。人を。名を持って来る者を。名を置いていく者を」
真鹿人は、静かに頭を下げた。
「名を伺ってもよろしいでしょうか」
女は、真鹿人を見た。
急いでいるかどうかを測るような目だった。
真鹿人は、今度は言葉を重ねなかった。
問うた後は、待つ。
湖の前で急いではならない。
やがて女は言った。
「水緒」
佐那が小さく繰り返した。
「みお」
「そう呼ぶ者がいる」
女は付け加えた。
「呼べば、来るとは限らぬ」
「本名ではないのですか」
佐那が尋ねた。
水緒は佐那を見た。
「水に本名を聞くか」
佐那は困った顔をした。
「水には、聞かないかもしれません」
「だが、水を呼ぶだろう」
「はい。飲みたい時は」
「それで足りる名もある」
佐那は、分かったような、分からないような顔をした。
真鹿人は、水緒という名を胸に置いた。
水の緒。
水を結ぶもの。
水につながるもの。
水の始まりではなく、続き。
あるいは、水と人との間にある細いもの。
いくつもの解釈が浮かんだ。
だが、今はどれも書かなかった。
水緒は言った。
「今日は、湖の前に泊まれ」
「里へは入らぬのですか」
真鹿人が尋ねると、水緒は首を振った。
「里へ入る前に、湖の前で夜を越せ」
「なぜです」
「昼の湖だけ見て、湖を見たと思うな」
その声は、静かだった。
「夜の湖も見ろ。音を聞け。明け方の水を見ろ。それから里へ入れ」
佐那は少し不安そうに湖を見た。
「夜の湖は、怖いですか」
「怖いと思うなら、近づきすぎるな」
「怖くないと思うなら?」
「なお近づくな」
多加津が言った。
「正しい」
佐那は肩を落とした。
「結局、近づいてはいけないのですね」
水緒は答えた。
「近づくな、ではない。近づき方を知れ」
真鹿人は、その言葉を深く聞いた。
湖だけの話ではない。
神へ近づくこと。
名へ近づくこと。
語りへ近づくこと。
記録へ近づくこと。
すべてに関わる言葉だった。
近づくな、ではない。
近づき方を知れ。
水緒は、石場から少し離れた木立を示した。
「今夜は、あそこなら火を焚ける。風が弱い。水にも近すぎぬ」
多加津が周囲を見た。
「見通しは悪い」
「見られたくないなら、悪くはない」
水緒が言った。
多加津は、水緒を見た。
「逃げる者の場所か」
「逃げる者も、祈る者も、泣く者も使う」
「死者は」
「送る者が使う」
多加津は黙った。
水緒はそれ以上言わなかった。
真鹿人は、木立の方を見た。
湖から少し上がった場所に、古い木が数本立っている。その根元には石があり、風を避けられる。確かに火を焚くにはよさそうだった。ただ、そこに宿る夜は、ただの野宿では済まないような気がした。
水緒は、湖へ向き直った。
「私は日が落ちる頃に戻る」
「戻る?」
佐那が尋ねた。
「夜の水を見せる」
それだけ言って、水緒は葦の間を歩き出した。
真鹿人は声をかけた。
「水緒殿」
水緒は振り返らなかった。
「殿はいらぬ」
その声だけが返ってきた。
曲戸と同じだった。
道の者も、水の者も、殿を好まないのかもしれない。あるいは、真鹿人がつい付けてしまう敬称が、土地の距離を誤らせるのかもしれない。
水緒は葦の向こうへ消えた。
姿が見えなくなっても、水面はそのまま揺れていた。葦は風に鳴り、白い鳥が遠くで鳴いた。
佐那が、そっと言った。
「今の方が、水緒……ですね」
「そうだ」
真鹿人は答えた。
「思っていたより、怖くはありませんでした」
「そうか」
「でも、近づきすぎると怒られそうです」
「それは、怖いということではないか」
「少し違います」
佐那は湖を見た。
「怒られるというより、間違えたら止められる感じです」
真鹿人は頷いた。
確かに、水緒の言葉は拒絶ではなかった。湖へ近づくなとは言わない。むしろ、触れる場所を教えた。だが、急ぐな、汚すな、足元を知れと何度も止めた。
守るとは、閉ざすことではないのかもしれない。
近づき方を教えること。
近づきすぎる者を止めること。
遠すぎる者を、水際へ導くこと。
それもまた、守るということなのだろう。
多加津は、木立へ向かって歩き出した。
「日が落ちる前に支度する」
佐那は慌てて荷を背負った。
「飯もですね」
「飯もだ」
「水は」
「汲む。だが、さっきの流れからだ」
「湖の水ではなく?」
「水緒がそうさせた」
佐那は納得したように頷いた。
真鹿人も歩き出した。
湖を背にすると、不思議な感じがした。
背後に広い水がある。
見ていないのに、見られているような気がする。
水面が背を映しているはずはない。だが、何かが背中に触れていた。
出雲の重さとは違う。
これは、まだ名のない重さだった。
木立に着くと、多加津は手早く場所を整えた。濡れた枝を避け、曲戸にもらった乾いた枝束を取り出す。佐那は流れで手を洗い、水を汲み、干し飯を用意した。
真鹿人は、木の根元に腰を下ろした。
湖は木々の間から見える。
昼の光が少しずつ傾き、水面の色が変わり始めていた。白かった湖は、灰になり、ところどころに淡い金を含んだ。山の影が伸び、岸の葦が黒く見える。
湖は同じ場所にあるのに、同じではない。
昼の湖だけ見て、湖を見たと思うな。
水緒の言葉が、早くも意味を変え始めていた。
火が立った。
小さな火だった。煙は少なく、枝はよく乾いていた。曲戸の枝束がなければ、もっと苦労しただろう。火は、山の老人から湖の前へ運ばれた。
道は、ものを運ぶ。
名だけではない。
火も、飯も、疲れも、沈黙も運ぶ。
佐那が湯を沸かし、干し飯を入れた。少しの塩。木の実を砕いて加えると、香ばしい匂いが立った。
「曲戸殿の木の実です」
「殿はいらぬと言っていた」
真鹿人が言うと、佐那は困った顔をした。
「でも、いただいたので」
「なら、心の中で付けておけ」
「そうします」
佐那は器を三つに分けた。
それから、少し迷い、四つ目の小さな分を石の上に置いた。
多加津が見た。
「誰の分だ」
「分かりません」
「またか」
「湖かもしれませんし、山かもしれませんし、曲戸かもしれませんし、水緒かもしれません」
「多いな」
「だから少しです」
多加津は何も言わなかった。
真鹿人は、その小さな器を見た。
分からぬものへ置く飯。
それは雑なのではなく、開いているのだと思った。
誰のものか定めない。
だが、誰のものでもないとはしない。
佐那は、そういうことを自然にする。
真鹿人が言葉で慎重に避けようとする場所を、佐那は飯で越えることがある。
日がさらに傾いた。
水面の光が落ち、湖は急に深くなった。昼には白く広がっていた水が、今は青黒く沈んでいる。風が止み、波は小さくなった。遠くの山が影になり、湖の端はますます分からなくなった。
水緒は、日が落ちる頃に戻ると言った。
真鹿人は、湖の方を見た。
まだ姿はない。
しかし、湖はすでに別の顔を見せていた。
昼の湖は空を抱いていた。
夕の湖は山を沈めている。
夜になれば、何を抱くのだろう。
真鹿人は、文箱に触れた。
書きたいことは多い。
湖の前に立ったこと。
水が先にあり、名がまだ遠いこと。
水緒と名乗る者に出会ったこと。
湖に触れる場所を教えられたこと。
近づき方を知れと言われたこと。
だが、今は書かなかった。
夜の湖をまだ見ていない。
湖は、一度見ただけでは湖ではない。
そのことを、すでに水が教えていた。
やがて、葦の向こうから足音がした。
水緒が戻ってきた。
夕闇の中で見る水緒は、昼よりも湖に近かった。衣の色は水面の灰に溶け、髪の影は葦の黒に混じっている。彼女は火の近くまでは来ず、光の縁に立った。
佐那が立ち上がりかけた。
「飯を」
「後でよい」
水緒は湖を見ていた。
「先に、夜の水を見る」
三人は黙って立ち上がった。
火を小さく残し、湖の方へ向かう。
水緒は先に立った。昼に通った石場ではなく、少し別の道を選んだ。葦の間を抜け、木の根を越え、低い石の上に出る。
そこから、夜に入りかけた湖が見えた。
真鹿人は、息を呑んだ。
湖は、黒くなかった。
まだ空の光をわずかに含み、深い藍のような色をしていた。山々は黒い影となり、その間に水が静かに広がっている。風はほとんどなく、水面は大きな布のように横たわっていた。
その上に、淡い月があった。
雲の奥に、薄く隠れた月だった。
丸いのか欠けているのか分からない。白くもなく、銀でもなく、水に沈んだ骨のように淡い。雲が動くたびに見え、また隠れる。
湖面にも、その光があった。
だが、はっきりとは映らない。
月は、湖に隠されていた。
真鹿人の胸が、静かに鳴った。
月。
その名を、彼はまだ深く考えていない。大和の記録にも、月の神の名はある。だが、今この湖に映る月は、名を持つ神というより、名の前にある白い沈黙のようだった。
水緒は何も言わなかった。
多加津も、佐那も黙っていた。
湖は、夜の入口で月を抱き、そして隠していた。
真鹿人は、空の木簡を思った。
いつか、この空白は、月へ至るのかもしれない。
もちろん、今の彼には分からない。
分からないまま、月は雲に隠れた。
湖面の淡い光も消えた。
水緒が、ようやく言った。
「昼の水は、空を返す」
その声は低かった。
「夕の水は、山を沈める」
真鹿人は、湖を見た。
「夜の水は」
水緒は少し黙った。
「名を隠す」
その言葉は、静かに湖へ落ちた。
波は立たなかった。
だが、真鹿人の内側で、何かが深く沈んだ。
夜の水は、名を隠す。
書きたい。
強く、そう思った。
だが、今ここで書けば、その言葉を捕まえてしまう。水緒の声から切り離し、湖の夜から剥がし、木簡の上へ固定してしまう。
真鹿人は、書かなかった。
ただ聞いた。
湖は暗く、月は隠れ、水音だけが小さく岸へ寄せていた。
水緒は言った。
「明日、里へ入る」
真鹿人は頷いた。
「そこで、何を聞けばよいのでしょう」
「まず、聞こうとするな」
「では」
「見ろ。誰が水を汲むか。誰が石を避けるか。誰が蛇を殺さぬか。誰が名を口にしないか」
水緒は、夜の湖を見たまま続けた。
「諏訪の神を知りたいなら、神の名から入るな」
「何から入れば」
「水の扱いから入れ」
真鹿人は、深く頭を下げた。
第二部の道が、ここで変わった気がした。
出雲から運ばれた強い名を追うだけでは、諏訪には入れない。
諏訪には、先に水がある。
そして、その水をどう扱うかの中に、神の前の信仰が残っている。
水緒は振り返った。
「戻る。火が消える」
佐那が慌てた。
「飯も冷めます」
「それも困る」
水緒が言うと、佐那は少し驚き、それから笑った。
「水緒も、飯は食べるのですね」
「腹は空く」
その答えに、多加津が短く息を漏らした。
三人と水緒は、火の方へ戻った。
背後で湖は暗くなっていく。
夜の水は、名を隠す。
真鹿人は、その言葉を胸に抱いたまま、木簡にはまだ書かなかった。
火のそばへ戻ると、佐那が飯を温め直した。
水緒は火の縁に座った。光の中に入りきらず、闇の側に半分身を置いている。多加津はその向かいに座り、真鹿人は文箱を脇に置いた。
佐那が器を差し出す。
水緒は受け取り、一口食べた。
「塩が少ない」
佐那は少し慌てた。
「すみません」
「責めていない」
「では」
「山では、少ない方が長く持つ」
佐那は安心したように息を吐いた。
「よかったです。まずいと言われたのかと思いました」
「まずければ、まずいと言う」
「言うのですか」
「言う」
佐那は微妙な顔をした。
多加津が低く言った。
「次は少しうまく作れ」
「多加津殿まで」
火の周りに、わずかな笑いが生まれた。
湖の前で笑うことに、真鹿人は少し驚いた。
だが、すぐにそれもまた自然なことだと思った。
神のような湖の前でも、人は腹を空かせる。飯を食べる。味を気にする。火を守る。寒ければ身を寄せる。
それは湖を軽くすることではない。
湖の前で生きるということだ。
真鹿人は、水緒に尋ねた。
「明日、里で水の扱いを見るとして、その後に神の話を聞けるのでしょうか」
水緒は器を置いた。
「聞ける」
「誰から」
「語る者はいる。語らぬ者もいる。間違って語る者もいる」
「間違いを、どう見分ければよいでしょう」
「急いで見分けるな」
水緒は火を見た。
「間違いにも、残った理由がある」
真鹿人は、息を止めた。
「間違いにも」
「そうだ」
「正しくない語りにも、ですか」
「正しい語りだけが残るなら、人は苦労せぬ」
水緒の声は静かだった。
「間違いは、ただの誤りではない。恐れから生まれることもある。隠すために作られることもある。守るために曲げられることもある。忘れたくないのに、正しく覚えられず、形だけが残ることもある」
真鹿人は、何も言えなかった。
大和の記録では、誤りは正されるべきものだった。
異なる語りは整理され、余分なものは削られる。
矛盾は調えられ、名は系譜に従う。
だが、水緒は言う。
間違いにも、残った理由がある。
それは、記録官にとって重い言葉だった。
「では、私は何を正せばよいのでしょう」
真鹿人は思わず尋ねた。
水緒は、すぐには答えなかった。
火が小さく鳴った。
「正す前に、なぜ曲がったかを聞け」
水緒は言った。
「道も語りも、曲がるには曲がるだけのものがある」
曲戸。
真鹿人は、山道の老人を思い出した。
曲がる戸。道が曲がり、山が開き、また閉じるところにいる者。
曲がることは、誤りではない。
まっすぐ進めない理由がある。
「曲がった語りを、まっすぐにしてしまえば、何かを失うのですね」
水緒は頷かなかった。
否定もしなかった。
「それは、お前が見ることだ」
真鹿人は頭を下げた。
湖の夜は深くなった。
火は小さく、飯は温かく、水緒は多くを語らなかった。佐那は疲れから早く眠り、多加津はいつものように闇を見ていた。
真鹿人は、眠る前に一度だけ湖の方を見た。
木々の間から、水面はもう見えなかった。闇があるだけだった。けれど、水音はある。低く、細かく、絶えず続いている。
見えないものと、ないものは違う。
夜の湖は見えない。
だが、ないわけではない。
名を隠す水は、闇の中で静かにそこにあった。
真鹿人は、文箱に手を置いた。
空の木簡は、まだ空のままだった。
それでよい。
今夜、湖は名を隠している。
隠されたものを、無理に書いてはならない。
彼は目を閉じた。
水音が続いていた。
その音は、眠りへ入る真鹿人の耳に、言葉になる前の語りのように聞こえた。




