第十二章 信濃の道
山は、ひとつではなかった。
真鹿人は、歩きながらそのことを知った。
大和から見れば、山とはただ東西を隔てる高い襞であった。道を阻むもの。国と国の間に横たわるもの。越えねばならぬもの。地図に置けば、山は線になり、峰は境になり、峠は名になる。
だが、実際にその内へ入れば、山は線ではなかった。
斜面があり、谷があり、濡れた石があり、倒れた木があり、獣の通った草の割れ目があった。昨日まで道であったところが、朝には水に削られて消えている。人が避けた岩陰に、誰かが小さな供えを置いている。風は尾根ごとに匂いを変え、水音は谷ごとに声を変えた。
山は、ひとつの名で呼べるものではない。
それでも人は、呼ぶ。
信濃。
その名を、初めて道の上で聞いた。
言ったのは、多加津ではなかった。
昼を少し過ぎた頃である。
霧は薄くなったが、空はまだ白く、雲は尾根に低くかかっていた。三人は山腹を巻く細い道を歩いていた。道の右手は斜面で、左手は谷だった。谷底には水が流れているはずだったが、木々に遮られて見えない。ただ、湿った音だけが下から上がってきた。
前方の曲がり角に、小さな庵のようなものがあった。
庵というには粗末で、屋根は枝と草で葺かれている。壁は片側しかなく、風を避けるための囲いに近かった。そのそばに、老人が座っていた。
髪も髭も白く、しかし背は曲がっていない。膝の上には木の杖が置かれ、足元には小さな火の跡があった。今は火は消えているが、灰はまだ新しい。老人の隣には、山鳥の羽を結んだ枝が一本立てられていた。
多加津が足を止めた。
佐那も、真鹿人も、それに倣った。
老人は、三人を見ていた。
旅人を見る目ではなかった。追う者を警戒する目でも、物乞いを測る目でもない。山道を通る風を眺めるような目だった。
「下から来たか」
老人が言った。
声は低く、かすれていたが、よく通った。
「西より参りました」
真鹿人が答えると、老人は少しだけ目を細めた。
「海の匂いが残っている」
佐那が思わず自分の袖を嗅いだ。
「まだ匂いますか」
「お前ではない」
老人は佐那を見て、かすかに笑った。
「背の者だ」
真鹿人は、自分の文箱に触れた。
「これですか」
「箱ではない。背だ」
宇都志にも似たことを言われた。
出雲の重さを持っている、と。
真鹿人は一礼した。
「東へ向かっております」
「東は広い」
老人は、山の奥へ目を向けた。
「信濃へか」
その名が、そこで置かれた。
信濃。
真鹿人は、胸の内で静かに繰り返した。
大和の記録にも、その名はある。山に囲まれ、水多く、東国へ通じる地。馬、木、麻、山の道。だが、ここで聞くその名は、木簡の上のそれとは違った。
老人の口から出た「信濃」は、土地というより、道の奥に潜む気配の名だった。
「諏訪へ向かいます」
真鹿人がそう答えると、老人はすぐには頷かなかった。
「諏訪へ行く道は、諏訪だけへ行くわけではない」
「どういうことでしょうか」
「道は、行く先だけでできておらぬ。通ったものでもできている」
老人は杖を取った。
そして、地面にゆっくりと線を引いた。
一本の線。
それから、その線に交わるように、何本もの細い線を刻んだ。
「人は、今歩く道に名をつける。だが、道は人より先にあることがある」
多加津が静かに言った。
「獣の道か」
「獣も通る」
老人は答えた。
「水も通る。風も通る。逃げる者も通る。追う者も通る。死者を送る者も通る。神の名を持つ者も、名を捨てた者も通る」
佐那は、地面の線を覗き込んだ。
「全部、同じ道ですか」
「同じではない」
「でも、ここで重なっているように見えます」
「重なることと、同じになることは違う」
老人の言葉に、真鹿人は顔を上げた。
重なることと、同じになることは違う。
出雲で聞いた言葉が、また胸の内で動いた。
タケミナカタは、出雲から東へ向かった。
その道は、出雲の傷を運ぶ道だった。
だが、その道が重なったからといって、信濃の道すべてが出雲になるわけではない。
諏訪には、先に水がある。
引継がれたその言葉を、真鹿人は改めて思った。
「この道を、神も通ったのでしょうか」
真鹿人が尋ねると、老人は地面の線を杖で消した。
「神だけが通った道など、人には歩けぬ」
「では、人の道ですか」
「人だけの道でもない」
老人は、庵の背後にある岩を見た。
そこには、白い筋が入っていた。文字ではない。水が流れた跡か、石の割れ目か、何かが這った跡か。真鹿人には判じられなかった。
「昔、この道を大きな名が通ったと語る者がいる」
「大きな名」
「強い名、と言う者もいる。荒い名、と言う者もいる。痛い名、と言う者もいる」
佐那が、そっと真鹿人を見た。
タケミナカタ。
その名が、三人の間に声にならず置かれた。
老人は続けた。
「だが、その名が通る前から、道はあった」
真鹿人は頷いた。
「水の道が」
「水もある」
「蛇の道も」
「蛇もある」
「石の道も」
老人は真鹿人を見た。
「お前は、聞いた名を並べるのが早い」
真鹿人は言葉を失った。
責められたわけではない。だが、的を射られた。
大和の記録官である以上、彼は断片を集め、結ぶ。土地ごとの語りを拾い、似たものを見つけ、名を置く。そうして、散らばるものを一つの形へ近づける。
それは役目であり、技でもあった。
しかし、旅を続けるほど、その技が危うくなる。
「申し訳ありません」
真鹿人は頭を下げた。
老人は首を振った。
「謝ることではない。若い記録官は皆そうだ」
「私が記録官と分かるのですか」
「その顔をしている」
佐那が、少し身を乗り出した。
「記録官の顔とは、どんな顔です」
「分からぬものを、分かる形に置こうとする顔だ」
佐那は真鹿人を見て、微妙な表情をした。
「……確かに、少しあります」
「佐那」
「すみません」
だが、佐那の声には笑いが混じっていた。
老人も、薄く笑った。
「悪い顔ではない。形に置く者がいなければ、遠くへ届かぬものもある」
その言葉に、真鹿人は少し救われた気がした。
水緒ではない。まだ見ぬ守り手の言葉ではない。だが、この老人もまた、名や形をただ否定してはいなかった。
「ただし」
老人は言った。
「道を一つにするな」
「はい」
「信濃の道は、東へ向かう道だけではない。逃げる道でも、追う道でも、神の道でもない。すべてが重なり、すべてが離れる」
老人は杖で、今度は地面に丸を描いた。
「山では、道はまっすぐ進まぬ。水に避けられ、石に曲げられ、木に隠され、人の恐れに戻される。そうして、行く先よりも、通ったものの重さを増す」
真鹿人は、その言葉を胸に入れた。
通ったものの重さ。
宇都志は石を持たず、その重さを持てと言った。
老人は、道もまた通ったものの重さを増すと言う。
ならば、真鹿人が今歩いているこの道にも、すでに多くのものが重なっている。
名を持つ者。
名を失った者。
名を変えた者。
名を隠した者。
その中に、タケミナカタの名もあるのだろう。
だが、それは一つの層にすぎない。
厚く、大きく、強い層ではあっても、道そのものではない。
多加津が、老人に尋ねた。
「この先、沢は増えているか」
「昨夜の雨で増えた」
「渡れるか」
「渡る場所を間違えなければ」
「間違える者は」
「水に道を教わる」
佐那が顔をしかめた。
「それは、流されるということですか」
「そうとも言う」
「言い方を柔らかくしても、怖いものは怖いです」
老人は、佐那を見て笑った。
「怖がる者は、まだ足元を見る」
多加津が言った。
「怖がらぬ者は」
「流される」
「同じだな」
「山の言葉は、似る」
老人と多加津は、短く言葉を交わした。
真鹿人は、その二人を見ていた。
多加津は、この老人を知らないはずだった。少なくとも、旧知の者としての気配はない。だが、山を知る者同士の間には、すでに何かが通じている。
名ではない。
過去でもない。
足元を見る仕方、沈黙の長さ、危うい場所で言葉を減らす癖。そうしたものが、二人の間に道を作っている。
名より先に、分かるものがある。
真鹿人は、そう思った。
だが、それもまた、すぐ書くには早い。
老人は庵の中から、小さな乾いた枝束を取り出した。
「持って行け」
多加津が受け取った。
「よいのか」
「湿った枝では、夜に火が立たぬ」
佐那が、ほっとした顔をした。
「火があると助かります」
「火は助ける。だが、山では火も見られる」
「誰にですか」
「人に。獣に。水に。神に。名を持たぬものに」
佐那は枝束を見た。
「では、焚かない方がいいのですか」
「焚かねば冷える」
「どちらですか」
「焚く。だが、大きくするな」
佐那は真剣に頷いた。
「分かりました。火は小さく、飯は大事に」
「飯を忘れぬ者は、山で死ににくい」
老人が言うと、多加津がわずかに目を動かした。
同じことを、多加津も言っていた。
佐那は二人を交互に見た。
「山の人は、皆それを言うのですか」
「飯を軽く見る者が多いからだ」
老人はそう言って、佐那に小さな包みを渡した。
中には、乾いた木の実が入っていた。
「これも持て」
「よろしいのですか」
「山に置いておくより、人の腹に入る方がよい時もある」
佐那は丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます」
そして、すぐに一粒を取り出し、庵のそばの平たい石の上に置いた。
老人がそれを見た。
「誰に置いた」
佐那は少し考えた。
「いただいたものを、全部自分のものにしないためです」
老人は、しばらく佐那を見ていた。
それから、ゆっくり頷いた。
「よい」
佐那は少し照れたように笑った。
真鹿人は、その様子を見ながら思った。
佐那は、理屈で神を考えない。
水があれば飲む。飯があれば食べる。疲れれば座る。怖ければ怖いと言う。だが、その身体の近さが、時に真鹿人よりも土地に近いところへ触れる。
出雲でもそうだった。
逃げるときに持つものを問われ、佐那は食べ物と火打ち石と家族と思い出のものを挙げた。そこに、名を失う恐れが混じっていた。
真鹿人は、思考で追う。
佐那は、腹と足で知る。
多加津は、沈黙と道で知る。
では、自分はどう知るべきか。
記録官としてだけでは足りない。
だが、記録官でなくなることもできない。
老人は、真鹿人に向き直った。
「お前は、何を持っている」
「木簡を」
「それは見れば分かる」
「大和の命を」
「それも背にある」
「出雲で聞いた語りを」
「それも匂う」
真鹿人は答えに詰まった。
老人は待っていた。
答えを急がせる様子はない。ただ、山の道が旅人の足を待つように、黙っていた。
やがて真鹿人は言った。
「まだ書かないものを持っています」
老人の目が、少しだけ深くなった。
「空か」
「はい」
「空の木簡か」
真鹿人は驚いた。
「なぜ、それを」
「記録官が迷う時、空のものを持たされることがある」
「よくあるのですか」
「よくはない。だが、昔からある」
老人は、山の奥を見た。
「書く者に、書くなと言うのは難しい。書くなと言われた者は、多くの場合、かえって何かを書きたくなる」
真鹿人は、胸の奥を見られたような気がした。
その通りだった。
空の木簡を持ってから、真鹿人はずっと何かを書きたいと思っている。どうしても書かねばならぬものに出会うまで空のまま持てと言われたからこそ、何がその「どうしても」なのかを探している。
だが、探すほど、それは遠ざかる。
「空は、何もないということではない」
老人は言った。
「空けておくという形だ」
真鹿人は、静かに息を吸った。
空けておくという形。
第一部からずっと抱えてきた木簡の意味が、少しだけ別の面を見せた。
書かないことは、逃げではない。
空けておくことも、形である。
記録が閉じるなら、空白は閉じることを遅らせる。
そしてこの物語の果てに、月の神に名を与えず、空白として残す。
まだ真鹿人はそこを知らない。
だが、空の木簡はすでに、その終着点へ向かっている。
もちろん、今の真鹿人には分からない。
彼に分かるのは、ただ、空のまま持つことが少しだけ重くなったということだった。
「その木簡に、信濃の道を書くな」
老人が言った。
真鹿人は顔を上げた。
「なぜです」
「道は、まだ続く」
「では、別の木簡に」
「それならよい。だが、書くならこう書け」
老人は、杖の先で地面を軽く叩いた。
「信濃の道、ひとつにあらず」
真鹿人は、その言葉を聞いた。
「続きは」
「続けるな」
「それだけですか」
「それだけで足りる時がある」
真鹿人は、文箱を開いた。
空の木簡には触れなかった。別の細い木簡を取り出し、筆を湿らせる。山中の湿気で墨は重く、筆先は少し震えた。
彼は書いた。
信濃の道、ひとつにあらず。
それだけで止めた。
もっと書きたかった。水も通る、蛇も通る、逃げる者も追う者も通る、と書きたかった。強い名が通る前から道はあった、と書きたかった。
だが、書かなかった。
老人が、それだけで足りると言ったからではない。
今、自分にも、それだけで足りる気がしたからだった。
木簡を乾かし、文箱へ戻す。
その間、老人は黙っていた。
多加津は枝束を荷に括り、佐那は木の実の包みを大事そうにしまった。
出立の時、真鹿人は老人に尋ねた。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
老人は、少し笑った。
「道で名を聞くか」
「記録官ですので」
「正直だな」
老人は、庵の背にある岩へ目を向けた。
「この辺りでは、曲戸と呼ぶ者がいる」
「まがと」
「曲がる戸だ。道が曲がり、山が開き、また閉じるところにいるからだという者もいる。昔、そう名乗った者がいたからだという者もいる。どちらも、さほど違わぬ」
「本名ではないのですか」
「道に本名はいらぬことが多い」
真鹿人は頷いた。
「曲戸殿」
「殿はいらぬ」
「では、曲戸」
老人は満足したように頷いた。
「諏訪へ行くなら、湖の前で急ぐな」
「湖の前で」
「水は、近づく者を映す。映ったものを、すぐ自分だと思うな」
真鹿人は、その言葉を胸に留めた。
「はい」
「それから」
曲戸は、多加津を見た。
「逃げる足は、悪くない」
多加津は老人を見返した。
その顔には、驚きも怒りもなかった。ただ、薄い影が一度だけ通った。
「知ったように言うな」
多加津が言った。
「知らぬ」
曲戸はあっさり答えた。
「だが、足は見える」
多加津は黙った。
真鹿人も佐那も、何も言わなかった。
やがて多加津は、短く言った。
「行くぞ」
三人は庵を離れた。
曲戸は立ち上がらなかった。杖を膝に置き、山道の傍らに座ったまま、彼らを見送った。
少し進んでから佐那が振り返った。
老人の姿は、まだ見えていた。
だが、霧と木々の影に紛れ、庵も老人も、山の一部のように見えた。
「本当に人だったんでしょうか」
佐那が小声で言った。
多加津は答えた。
「飯をくれた」
「なら、人ですか」
「少なくとも、腹のある者だ」
佐那は少し笑った。
真鹿人は振り返らなかった。
振り返れば、確認したくなる。
確認すれば、何かに定めたくなる。
人であったのか、土地の者であったのか、道の声であったのか。
だが、今はそれを一つにしなくてよい。
信濃の道、ひとつにあらず。
その一文が、文箱の中で静かに重くなっていた。
午後の道は、曲戸の言った通り、さらに複雑になった。
沢が幾筋も道を横切り、濡れた木の根が足を取った。倒木を越え、岩の下をくぐり、時には道とは思えぬ草の間を進んだ。多加津は慎重だった。曲戸にもらった枝束を濡らさぬよう、荷の内側へ括り直していた。
佐那は、木の実を一粒ずつ食べながら歩いた。
「少しずつ食べると、長く持ちます」
「全部食うな」
「分かっています」
「前にもそう言って、干し飯を減らした」
「あれは疲れていたからです」
「今も疲れている」
「だから危ないのです」
多加津は何も言わなかった。
真鹿人は、二人のやり取りを聞きながら、道を見ていた。
山道で聞いた神々の古い道。
それは、物語として語られるような一本の荘厳な道ではなかった。石に囲まれ、旗が立ち、神の足跡がはっきり残るような道ではない。
むしろ、消えかけた道だった。
獣道に紛れ、水に削られ、人の足跡もすぐ消える。だが、消えるからこそ、何度も踏まれる。名が残らないからこそ、多くのものが通れる。
真鹿人は思った。
大和の記録は、道に名を立てる。
名が立てば、人は迷いにくくなる。
だが、名が立つことで、そこを通れなくなる者もいるのではないか。
敗れた神。
名を変えた者。
名を持たぬ土地神。
蛇や石や水としてしか語られぬもの。
それらは、名の立派な道ではなく、こうした消えかけの道を通るのかもしれない。
夕刻が近づく頃、三人は開けた場所へ出た。
そこは小さな峠だった。
峠といっても、石碑があるわけでも、里が見えるわけでもない。ただ、山の背が少し低くなり、風が左右から抜ける場所だった。草は短く、地面には平たい石がいくつか露出していた。
遠くに、山並みが重なっている。
そのさらに奥に、わずかに明るい空があった。
佐那が息を整えながら言った。
「湖ですか」
多加津は首を振った。
「まだ見えぬ」
「でも、水の匂いが」
「水は先に匂う」
真鹿人も、その匂いを感じていた。
沢の水とは違う。谷の水とも違う。まだ遠いが、どこかに広い水がある。その気配だけが、風に混じって届いている。
湖はまだ見えない。
だが、近づいている。
真鹿人は、その距離を不思議に思った。
見えないものと、ないものは違う。
因幡で佐保が言った言葉が、ここでもまた戻る。だが、同じではない。因幡では、白布を結ぶ道の話だった。ここでは、まだ見ぬ湖の気配として戻っている。
言葉は、土地を越える。
けれど、越えた先で同じままではいない。
真鹿人は、峠の石に腰を下ろした。
佐那も荷を下ろし、深く息を吐いた。多加津は少し離れて立ち、下る道を見ている。
空は、少しずつ暗くなっていた。
今夜はこの近くで休むことになるだろう。曲戸にもらった枝束がある。火は立つ。飯は少ないが、木の実がある。水は近い。
佐那が、ふと尋ねた。
「真鹿人様」
「何だ」
「信濃の道、というのは、どこからどこまでですか」
真鹿人は、すぐには答えられなかった。
大和にいれば、国境を挙げただろう。山と川を示し、郡や里の名を重ね、どこからが信濃で、どこからが別の国かを述べただろう。
だが、今は違った。
「分からない」
真鹿人は言った。
佐那は驚かなかった。
「最近、分からないが増えましたね」
「そうだな」
「悪いことですか」
「以前なら、悪いことだと思ったかもしれない」
「今は?」
真鹿人は、峠を渡る風を聞いた。
「今は、必要なことかもしれないと思う」
佐那は頷いた。
「私は、分からないと少し困ります」
「私も困っている」
「でも、進むのですね」
「進む」
「分からないまま?」
「分からないまま」
佐那は、少し考えた。
「山と同じですね」
真鹿人は、思わず佐那を見た。
「山と?」
「先が全部分からなくても、足元が見えれば少し進めます」
多加津が、遠くを見たまま言った。
「今日はまともなことを言う」
「今日は、とは何ですか」
「いつもではない」
「失礼ですね」
佐那はむくれたが、すぐに笑った。
真鹿人も、小さく笑った。
笑いは、山の風にすぐ消えた。だが、消えたからといって、なかったわけではない。
夜の支度を始める前に、真鹿人は文箱を開いた。
空の木簡には触れない。
昼に書いた木簡を取り出した。
信濃の道、ひとつにあらず。
その一文を見つめる。
続けたい言葉は、いくつもあった。
神々の通った古き道。
されど神のみの道にあらず。
水、蛇、石、人、逃げる者、追う者、名を持つ者、名を捨てた者、重なりて離る。
道、行く先のみにて成らず。通りしものの重さにて成る。
だが、書かなかった。
今はまだ、その一文だけでよい。
真鹿人は木簡を戻し、文箱を閉じた。
空は暗くなっていく。
峠の向こうには、まだ見ぬ湖の気配があった。
そこへ至れば、また別の声を聞くだろう。湖の前で、急ぐなと曲戸は言った。水は、近づく者を映す。映ったものを、すぐ自分だと思うな、と。
真鹿人は、その言葉を胸に置いた。
明日、湖の前に立つ。
だが、その湖を何と呼ぶのか。
そこに何を見るのか。
出雲から運ばれた名を、どのように扱うのか。
まだ、何も決めてはならない。
信濃の道は、夜の中へ沈んでいった。
火は小さく立ち、佐那は飯を温め、多加津は黙って闇を見た。遠くで水の音がしている。見えない水。まだ届かぬ湖。先にあるもの。
真鹿人は、火のそばで目を閉じた。
道は続いている。
神々の名より先に、道はあり、道より先に、水があったのかもしれない。
そう思ったが、書かなかった。
夜の山では、思いはよく転ぶ。
だから今は、足元だけを見る。
そして、明日、湖の前へ行く。




