第十二章 信濃の道(訂正の為、後ほど削除します)
霧は、昼近くになっても晴れなかった。
ただ、朝の霧とは少し違っていた。
白く覆うのではなく、薄い布を何枚も重ねたように、遠くのものを少しずつ隠していた。木の幹は近ければ黒く、離れれば灰になり、さらに遠くでは水に溶けた墨のように滲んだ。
道は尾根へ出た。
尾根とはいえ、そこに広がりがあるわけではなかった。片側は深い谷で、もう片側は急な斜面だった。足を置ける幅は狭く、草に隠れた石がときおり靴裏を滑らせる。多加津は先に立ち、歩く場所を選んだ。佐那はその後を慎重についていき、真鹿人は最後に続いた。
水緒の姿は、少し前にあった。
彼女は道案内をするとは言わなかった。ただ、同じ道を歩いていた。振り返ることも少ない。だが、分かれ道や崩れた箇所では、必ず足を止めた。彼女が立つところには、そこを通るべき理由があった。
踏むべき根。
避けるべき石。
枝を掴んでもよい木。
掴んではならぬ枯木。
足を置けば沈む土。
見た目より深い水溜まり。
それらを、水緒はほとんど言葉にしなかった。
多加津もまた、多くを尋ねなかった。
二人は似ていた。
山を知る者同士の沈黙が、言葉より早く道を渡っていた。
佐那だけが、ときおり小声で不安を口にした。
「今の石は、踏んでもよかったんでしょうか」
「踏んだから、今ここにいる」
多加津が答えた。
「そういう答えは、後からしか分からないので困ります」
「山では、先に分かることの方が少ない」
「なら、どうやって歩くんです」
「今、死なぬ方へ歩く」
佐那は顔をしかめた。
「もっと穏やかな言い方はないのですか」
「ある」
「あるなら、してください」
「足元を見ろ」
佐那はむっとしたが、それでも足元を見た。
真鹿人は、そのやり取りを聞きながら、濡れた土を踏みしめた。
今、死なぬ方へ歩く。
それは、記録の言葉ではなかった。系譜にも政にも置きにくい。だが、逃げる者、山を越える者、神の名がつく前の人の道には、そうした言葉の方が近いのかもしれなかった。
タケミナカタが東へ向かったとき、彼は何を見ていたのか。
大和の記録に置くならば、抗い、敗れ、逃げ、諏訪に至る。
それで筋は通る。
だが、筋が通ることと、道を歩いたことは同じではない。
足が濡れたか。
血は乾いたか。
誰がついてきたか。
誰を置いたか。
どこで火を焚き、どこで名を隠し、どこで怒りを置いたか。
そうしたものは、記録の上では小さくなる。
いや、小さくするために、記録は整えられるのかもしれなかった。
真鹿人は、出雲で聞いた言葉を思い出した。
――抗い、敗れ、東へ向かう。これを否定せず。されど、ただ逃ぐるにあらず。
その「ただ逃ぐるにあらず」の中に、どれほどの泥と水と息があったのか。
今の真鹿人には、まだ見えない。
見えないものを、出雲の語りだけで埋めてはならない。
尾根の先で、水緒が立ち止まった。
彼女は何かを聞いていた。風ではない。鳥でもない。耳を傾けるというより、足の裏で何かを受けているように見えた。
多加津も足を止めた。
「水が増えている」
水緒が言った。
佐那は周囲を見回した。
「水音は遠いですが」
「遠い水が増えれば、近い道が変わる」
「遠いのに?」
「水は遠くから来る」
水緒は、尾根の下を指した。
霧の底で、何かが白く動いていた。初めは雲かと思ったが、目を凝らすと、それは水だった。谷底を流れる川が、岩に当たり、白く泡立っていた。昨日よりも太い。昨夜の雨を集めたのだろう。
真鹿人は、谷を覗き込みすぎぬよう注意した。
水は低いところへ行く。
低いところに集まり、道を切る。
人の決めた道を、水は知らない。
水緒は、しばらく谷を見てから、尾根を先へ進んだ。
道はやがて下り始めた。
下るにつれ、空気は変わった。木々の間に冷たいものが流れ、土の匂いに石の匂いが混ざった。霧の奥から、時折、広い明るさが差し込む。真鹿人は、それが湖の方角なのかと思ったが、すぐに決めつけるのをやめた。
見える前に名を呼ぶな。
その戒めは、まだ胸にあった。
昼を少し過ぎた頃、四人は小さな沢へ出た。
沢とはいえ、そこには丸い石が多く、水はそれらの間を幾筋にも分かれて流れていた。水緒は沢の手前で立ち止まり、杖の先を水につけた。
水は澄んでいた。
底の砂まで見える。小さな葉が流れ、石の陰で止まり、また動いた。水面には霧が映り、白い空が細かく砕けていた。
佐那は水を見て、ほっとしたように言った。
「ここで休めますか」
「少しなら」
水緒が答えた。
佐那は荷を下ろし、手を洗おうとして沢へ近づいた。
「下から」
水緒が短く言った。
佐那は手を止めた。
「下?」
「流れの下から手を入れろ。上を濁すな」
「あ、はい」
佐那は少し下流側へ移り、そこで手を洗った。
多加津は周囲を見ていた。真鹿人も荷を下ろし、水のそばに座った。手を入れると、冷たさが指を噛むようだった。だが、痛いほどの冷たさの中に、妙な清さがあった。
水緒は、水を掬わなかった。
ただ、沢の上流を見ていた。
「この水は、湖へ行くのですか」
真鹿人が尋ねた。
水緒はすぐには答えなかった。
「行くものもある」
「行かないものも?」
「土に入る水もある。石の下を通る水もある。途中で別の流れに盗られる水もある。霧に戻る水もある」
「水にも、道は一つではないのですね」
水緒は、真鹿人を見た。
「神の道も、一つではないと聞いてきたのではないか」
「はい」
「聞いたことを、水に当てはめるな」
その声は厳しくはなかった。だが、真鹿人の胸に深く入った。
「申し訳ありません」
「謝ることではない。早いだけだ」
「早い」
「お前は、聞いた言葉を結びたがる」
真鹿人は黙った。
その通りだった。
記録官とは、散らばる名を結ぶ者である。
断片を集め、関係を見つけ、系譜を作る。
それが身につきすぎている。
出雲で聞いた言葉。
因幡で見た白。
大国主の残り方。
事代主の沈黙。
タケミナカタの東への道。
そして、諏訪へ向かう水。
それらを結ぶことが、真鹿人の役目だった。
だが、結べばよいわけではない。
結び目が早すぎれば、流れを止める。
水緒は沢の石を一つ指した。
丸く、白い石だった。水の中で半分だけ見えている。
「あの石を、何と見る」
真鹿人は慎重に見た。
「白い石です」
「それだけか」
「水に磨かれた石」
「それだけか」
真鹿人は、さらに考えた。
「道の印にも見えます」
「それだけか」
「供えの場にも」
「それだけか」
真鹿人は答えられなくなった。
水緒は言った。
「私なら、今日は座る石と見る」
佐那が、思わず笑った。
「座るのですか」
水緒は沢のそばに腰を下ろした。
「座れる」
確かに、石は座るのにちょうどよかった。濡れてはいたが、安定している。水緒は衣の裾を気にする様子もなく、そこに腰を下ろし、杖を横に置いた。
「名を読む者は、石を高くしすぎる」
水緒は言った。
「高く?」
「神のものにし、古いものにし、印にし、意味にする。すると、人がそこに座れなくなる」
真鹿人は、白い石を見た。
石を高くする。
それは、記録がよくすることだった。
小さな出来事を、神の名に結ぶ。
土地の声を、由来にする。
人の行いを、祭祀にする。
そうして残す。
だが、残されたものは、時に人の手から離れる。
座れる石が、座れぬ石になる。
それは尊ぶことでもあり、奪うことでもあった。
佐那は、水緒の隣に座るべきか迷っているようだった。しばらく石を見ていたが、結局、水に濡れていない別の石へ腰を下ろした。
「私は、乾いた石の方がありがたいです」
「それでよい」
水緒は答えた。
「ありがたさも、一つではない」
多加津は少し離れて立っていた。沢の上流と下流を交互に見ている。
水緒がそちらを見ずに言った。
「お前は座らぬのか」
「立つ方がよい」
「逃げる者の足だ」
その言葉に、空気がわずかに変わった。
佐那も真鹿人も、多加津を見た。
多加津は動かなかった。
「そう見えるか」
「見える」
水緒は静かに言った。
「追う者の足ではない。待つ者の足でもない。いつでも道を変えられる足だ」
多加津は黙った。
真鹿人は、胸の内で息を止めた。
多加津の過去に触れる言葉だった。だが、水緒はそれ以上踏み込まなかった。名を問わず、どこから来たかも聞かなかった。ただ、足を見た。
足は、名より先にある。
そういう見方があるのだと、真鹿人は思った。
「逃げる足は、悪い足ではない」
水緒は続けた。
「残るための足だ」
多加津の目が、ほんのわずかに動いた。
だが、彼は何も言わなかった。
佐那も、何も尋ねなかった。いつもの彼なら、何か聞いたかもしれない。だが、今は黙っていた。山に入ってから、佐那の率直さは消えてはいないが、少しずつ間合いを覚えているようだった。
真鹿人は、文箱に手を伸ばしかけた。
逃げる足は、悪い足ではない。
残るための足だ。
書きたい言葉だった。
だが、書かなかった。
水緒が言ったからではない。
多加津が黙っているからだった。
本人が沈めているものを、他人が先に拾ってはならない。
それは、事代主の沈黙から学んだことでもあった。
しばらく休んだ後、佐那は干し飯を少し取り出し、三人に配った。水緒にも差し出した。
「食べますか」
水緒は佐那を見た。
「余るのか」
「余りません」
「では、なぜ出す」
「道を教えていただいているので」
「私は道を教えてはいない」
「でも、私たちはついてきています」
「お前たちが勝手についてきている」
佐那は少し考えた。
「それでも、食べますか」
水緒は、初めてわずかに笑ったように見えた。
「少し」
佐那は嬉しそうに干し飯を渡した。
水緒はそれを受け取り、一粒だけ沢の水際に置いた。それから、残りを口にした。
真鹿人は、その仕草を見た。
供えるというより、分けるという感じだった。
神へ捧げるのではなく、水と食べる。
そう見えた。
だが、それもまた、真鹿人の解釈にすぎない。
水緒は干し飯を噛みながら言った。
「大和の者は、神に先に供えるか」
「祭祀では、そうすることが多いと思います」
「人は後か」
「形としては」
「形は、よく残る」
水緒は水を見た。
「心より長く残ることがある」
真鹿人は頷いた。
「形が残ることで、忘れずに済むこともあります」
「ある」
「しかし、形が残ることで、心が変わっても戻せないこともある」
「ある」
水緒は、あっさり認めた。
「だから、形を悪く言うな」
真鹿人は顔を上げた。
水緒は続けた。
「形がなければ、水は掬えぬ。器がなければ、火のそばへ水を持って行けぬ。名がなければ、遠くの者を呼べぬ」
「名は、必要なのですね」
「必要だ」
水緒は言った。
「だが、名を器だと忘れるな。水そのものではない」
真鹿人は、その言葉を胸に受けた。
名は支配であり、器でもある。
大和では、名は並べられる。
国を形作るために。
血筋を示すために。
神を配置するために。
だが、名がなければ呼べないものもある。
名があるから遠くの者へ届く声もある。
問題は、名を水そのものと思うことなのだ。
「タケミナカタという名も、器ですか」
真鹿人は尋ねた。
水緒の目が、少しだけ細くなった。
沢の水音が、急に近くなったように感じた。
「その名を、ここで軽く呼ぶな」
真鹿人は頭を下げた。
「失礼しました」
「恐れる必要はない。だが、急ぐな」
「はい」
「その名は、傷を入れた器だ」
水緒は低く言った。
「大きく、強く、割れやすい」
真鹿人は息を止めた。
強い名。
痛い名。
宇都志の言葉がよみがえる。
だが、水緒の言葉は少し違った。
傷を入れた器。
強いだけではない。
痛いだけでもない。
割れやすい。
名は、運ぶための器である。
しかし、器そのものにも傷が入る。
中の水が傷つくのではなく、器が傷を持つ。
真鹿人は、その違いを感じた。
「湖は、その器を受け入れたのですか」
水緒は、すぐには答えなかった。
沢の水を見ている。
「湖に聞け」
「水緒殿は、答えを持っておられないのですか」
「持っている」
「では」
「私の答えを、お前の記録の答えにするな」
真鹿人は、口を閉じた。
水緒は、厳しい。だが、その厳しさは拒絶ではなかった。むしろ、真鹿人が早く結論へ逃げないよう、何度も手前で止めている。
記録官にとって、答えは安心だった。
答えがあれば、書ける。
書ければ、持ち帰れる。
持ち帰れば、役目を果たせる。
だが、この旅では、答えの早さが危うい。
水緒は立ち上がった。
「行く」
佐那が慌てて干し飯を包み直した。
「もうですか」
「水が変わる前に沢を越える」
水緒は沢の石を見ながら言った。
「この沢は、細く見える時ほど足を取る」
多加津が頷いた。
「石が丸い」
「丸い石は、動く」
水緒はそう言い、杖で水中の石を押した。
一見安定していた石が、ゆっくりと転がった。水が濁り、小さな渦が生まれた。佐那は目を丸くした。
「今のを踏んだら」
「転ぶ」
「転ぶだけですか」
「運がよければ」
佐那は真顔で頷いた。
「上流は濁さず、足元は疑う。覚えました」
「覚えすぎるな」
水緒は言った。
「次の沢では違う」
佐那は困ったように空を見た。
「山は、覚えさせたいのか忘れさせたいのか、どちらなんです」
「どちらでもない」
水緒は沢へ足を入れた。
「その場にいろと言っている」
その場にいる。
真鹿人は、その言葉を聞きながら沢を渡った。
水は足首までだった。だが、流れは思ったより強かった。草履の下で石が動く。多加津が佐那の腕を掴み、水緒が先で待つ。真鹿人は杖をつき、ひと足ずつ進んだ。
沢の中では、過去も未来も遠かった。
出雲の語りも、大和の役目も、まだ見ぬ湖も、すべてが一度薄くなった。ただ、次に置く足だけがあった。どの石が動くか。水がどちらから押すか。身体の重さをどこへ逃がすか。
その場にいるとは、こういうことかもしれなかった。
渡り終えると、佐那は大きく息を吐いた。
「生きています」
「よかったな」
多加津が言った。
「もう少し喜んでください」
「生きているなら、十分だ」
佐那は不満そうだったが、少し笑った。
沢を越えてから、道は急に静かになった。
水音は背後に回り、代わりに風の音が近くなった。木々の間が少し開け、遠くの山並みが見え隠れする。霧はまだ残っていたが、白の向こうに青みがある。空が近づいているのだと真鹿人は思った。
やがて、道の脇に小さな石積みが現れた。
人が積んだものだった。
大きな石を下に、平たい石を重ね、その上に丸い石が一つ置かれている。祭壇というほど大きくはない。墓というには簡素すぎる。だが、ただの道標とも思えなかった。
佐那が立ち止まった。
「これは、何ですか」
水緒は歩みを緩めたが、近づかなかった。
「置いた者がいる」
「誰が」
「置かねばならなかった者が」
真鹿人は、石積みを見た。
石は古いものも新しいものも混ざっていた。苔むした石の上に、まだ角の立った石が載っている。長い時間をかけて、何人もの者が積んだのかもしれない。
「祈りですか」
真鹿人が尋ねると、水緒は言った。
「祈りのこともある」
「他には」
「迷った印。助かった礼。死んだ者の代わり。置いていく荷。戻らぬ約束」
佐那は、少し表情を曇らせた。
「そんなに色々あるのですか」
「石は黙るからな」
多加津が言った。
水緒は、多加津を見た。
「黙る石に、言わせすぎる者もいる」
多加津は答えなかった。
真鹿人は、その石積みの前で足を止めたまま、しばらく動けなかった。
置いていく荷。
戻らぬ約束。
タケミナカタは、何を置いていったのだろう。
出雲から運んだものがあるなら、運ぶために置いたものもある。
名を持っていくために、名の外へ出したものもある。
怒りを置いたという語りもあった。
だが、それも断じてはならない。
石積みは、答えを持っていなかった。
ただ、そこにあった。
人が通り、何かを置き、また通った。
それだけが分かる。
水緒は言った。
「何か置くか」
佐那は荷を見た。
「食べ物は、あまり」
「食べ物でなくてもよい」
「では、何を」
「置けるものを」
佐那は困った顔で考えた後、自分の衣の袖に結んでいた細い紐をほどいた。荷を括っていた予備の紐だった。少し擦り切れているが、まだ使える。
「これでもよいですか」
「お前がよいなら」
佐那は石積みの下に、その紐をそっと置いた。
「何を置いた」
水緒が尋ねた。
佐那は少し考えた。
「疲れです」
多加津が、わずかに目を細めた。
「疲れを置けば、歩けるのか」
「少しは」
「なら、よい」
佐那は満足そうに頷いた。
水緒は真鹿人を見た。
「お前は」
真鹿人は文箱に触れた。
置けるもの。
置くべきもの。
木簡を置くこともできた。だが、それは違う気がした。大和から預かったものを、旅の途中で手放すことはできない。では、言葉を置けるのか。書かずに置くとは、どういうことか。
真鹿人は、しばらく黙った後、石積みの前に膝をついた。
「私は、分かったつもりを置きます」
水緒は何も言わなかった。
「出雲で聞いたことを、諏訪にそのまま重ねる心を、ここに少し置きます。すべては置けません。ですが、少しでも」
真鹿人は、地面に落ちていた小さな葉を拾った。まだ青さの残る葉だった。彼はそれを石積みの端に置いた。
葉は軽かった。
置いたというほどの重さもない。風が吹けば飛ぶだろう。
だが、今の真鹿人には、それくらいがちょうどよかった。
多加津は、石積みを見ていた。
水緒は尋ねなかった。
佐那も尋ねなかった。
長い沈黙の後、多加津は道の脇に転がっていた小さな黒い石を拾った。丸くもなく、角ばってもいない、どこにでもありそうな石だった。
それを石積みの上ではなく、少し離れた根元に置いた。
真鹿人は、その場所を見た。
積まない。
加えない。
少し離して置く。
その意味を問いたくなった。
だが、問わなかった。
多加津は言った。
「行ける」
それだけだった。
水緒は頷き、先へ進んだ。
石積みは背後へ遠ざかった。
振り返ると、霧の中で形が曖昧になり、やがて見えなくなった。だが、そこに置いたものが消えたわけではない。見えないものと、ないものは違う。佐保の言葉がまた戻った。
同じ言葉が、土地を変えて戻ってくる。
真鹿人は、それを今度こそ書きたいと思った。だが、やはりまだ書かなかった。
午後の道は、下りだった。
しかし、下れば楽になるわけではなかった。斜面は湿り、落ち葉の下に石が隠れていた。膝に重みがかかり、足の指が痛む。佐那は何度か滑り、そのたびに多加津が手を貸した。
水緒は、ほとんど滑らなかった。
彼女は水の流れる向きと同じように下っていく。急がず、止まらず、曲がるところで曲がり、避けるところで避ける。真鹿人には、それが歩いているというより、道の方が水緒を通しているように見えた。
やがて、木々の間に風が抜けた。
冷たく、広い風だった。
谷の風ではない。
山肌を撫でる風でもない。
もっと大きな水面を渡ってきたような、湿りと冷たさを含む風。
佐那が顔を上げた。
「水の匂いがします」
多加津も足を止めた。
真鹿人は息を吸った。
確かに、水の匂いがした。
沢や谷の水とは違う。流れる水ではなく、留まる水の匂い。深く、冷たく、広いものが、どこか近くにある。
湖。
その名が喉まで上がり、真鹿人は飲み込んだ。
まだ見ていない。
水緒が振り返った。
「呼ばなかったな」
真鹿人は静かに答えた。
「まだ、見ていません」
「よい」
水緒は少しだけ頷いた。
道はさらに下った。
霧は薄くなり、白い幕の奥に明るさが広がっていった。木々の間隔が少しずつ開く。地面には湿った苔が増え、ところどころに黒い土が見えた。鳥の声が変わった。山の奥で鳴く鋭い声ではなく、水辺に近い柔らかな声だった。
そして、ふいに視界が開けた。
四人は、斜面の途中に出た。
眼下に、広いものがあった。
湖だった。
真鹿人は、しばらく息をすることを忘れた。
湖は、空を映していた。だが、空そのものではなかった。霧の白を受け、雲の灰を沈め、ところどころに青を隠している。水面は静かに見えたが、近くで見れば動いているのだろう。遠くの岸は霧でぼやけ、湖の端がどこで終わるのか、すぐには分からなかった。
山々が、その水を囲んでいた。
囲むというより、見守っているようだった。あるいは、押さえているのかもしれない。水はその中に留まっている。逃げず、溢れず、しかし死んでいない。
佐那が小さく言った。
「大きい」
多加津は黙っていた。
水緒も黙っていた。
真鹿人は、湖を見た。
出雲の海とは違う。
因幡の浜とも違う。
谷の水とも、沢の水とも違う。
波はない。だが、動いている。
道は見えない。だが、水は多くの道を持っている。
声は聞こえない。だが、沈黙は空ではない。
この湖は、タケミナカタを待っていたのだろうか。
そう思いかけて、真鹿人は止めた。
待っていた、という言葉は、人の都合が強すぎる。
湖は、ただ先にあった。
神が来る前から。
名が置かれる前から。
敗れた者の足音が山を越える前から。
湖は、先に水を湛えていた。
真鹿人は、ゆっくりと頭を下げた。
誰に対してかは分からなかった。
湖にか。
山にか。
水緒にか。
まだ名を呼ばぬ神にか。
分からないまま、頭を下げた。
水緒が言った。
「ここから先は、湖の声を聞け」
真鹿人は顔を上げた。
「水緒殿の声ではなく」
「私の声も、湖の声ではない」
「では、どう聞けば」
水緒は湖を見たまま答えた。
「急がず、決めず、近づきすぎず、離れすぎず」
「難しいですね」
「水を見るのは、難しい」
佐那がぽつりと言った。
「飲むだけなら、簡単なのに」
水緒は佐那を見た。
「飲むことを軽く見るな」
佐那は慌てて頭を下げた。
「いえ、そういうつもりでは」
「飲む者は、水に入る」
水緒は言った。
「見るだけの者より、深いこともある」
佐那は少し驚いた顔をした。
「私でも、聞けますか」
「腹が空く者は聞ける」
多加津が低く笑った。
佐那は不満そうに彼を見たが、どこか嬉しそうでもあった。
真鹿人は、湖を見ながら思った。
記録官として聞く耳。
旅人として聞く耳。
腹が空く者として聞く耳。
逃げる者として聞く耳。
守る者として聞く耳。
水辺に住む者として聞く耳。
聞くとは、一つではない。
事代主は、諸々の声を聞き、言葉を沈めた。
ならば、真鹿人はどう聞くのか。
沈めるためではなく。
閉じるためでもなく。
だが、残すためだけでもなく。
湖からの風が、頬を撫でた。
その風の中に、かすかな冷たさと、土の匂いと、遠い火の匂いがあった。湖畔に人の暮らしがあるのだろう。水だけではない。火もある。食もある。家もあり、死者もあり、名もある。
諏訪は、ただ古い水の土地ではない。
人が住み、神を呼び、神に呼ばれ、名を変えながら暮らしてきた土地である。
水緒は、斜面の下を指した。
「今夜は、あの木立の向こうで休める」
見ると、湖へ下る途中に、濃い木立があった。煙が細く上がっている。人家か、火を守る場所か、旅人の小屋か、まだ分からない。
「諏訪の里ですか」
真鹿人が尋ねると、水緒は首を振った。
「里の手前だ」
「境ですか」
「境と呼ぶなら」
「呼ばないなら」
「水が変わるところ」
水緒はそう言った。
水が変わるところ。
山の水が、湖の水へ変わるところ。
旅人が、土地に入る者へ変わるところ。
聞いてきた名が、まだ呼べぬ名へ変わるところ。
真鹿人は、空の木簡のことを思った。
どうしても書かねばならぬものに出会うまで、空のまま持て。
湖を見ても、まだ書けなかった。
それは失敗ではない。
むしろ、まだ空であることに意味があるのかもしれない。
彼は、文箱を静かに押さえた。
水緒が歩き出した。
三人はその後に続いた。
湖は、前にあった。
だが、まだ遠かった。
見えているのに、届いていない。
真鹿人は、その距離を大切にしようと思った。
近づけば、また別のものが見える。
だが、遠くからしか見えない形もある。
斜面を下りながら、彼は湖の名をまだ口にしなかった。
ただ、心の内で静かに記した。
湖、先にあり。
名、後より来る。
水、器にあらず。
器、水に触れて変わる。
断ずるべからず。
木簡には書かなかった。
今はまだ、水の緒をたどる時だった。




