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月を隠した国  作者: 月読 龍
諏訪、逃れた神の湖
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13/32

第十二章 信濃の道(訂正の為、後ほど削除します)

 霧は、昼近くになっても晴れなかった。


 ただ、朝の霧とは少し違っていた。

 白く覆うのではなく、薄い布を何枚も重ねたように、遠くのものを少しずつ隠していた。木の幹は近ければ黒く、離れれば灰になり、さらに遠くでは水に溶けた墨のように滲んだ。


 道は尾根へ出た。


 尾根とはいえ、そこに広がりがあるわけではなかった。片側は深い谷で、もう片側は急な斜面だった。足を置ける幅は狭く、草に隠れた石がときおり靴裏を滑らせる。多加津は先に立ち、歩く場所を選んだ。佐那はその後を慎重についていき、真鹿人は最後に続いた。


 水緒の姿は、少し前にあった。


 彼女は道案内をするとは言わなかった。ただ、同じ道を歩いていた。振り返ることも少ない。だが、分かれ道や崩れた箇所では、必ず足を止めた。彼女が立つところには、そこを通るべき理由があった。


 踏むべき根。

 避けるべき石。

 枝を掴んでもよい木。

 掴んではならぬ枯木。

 足を置けば沈む土。

 見た目より深い水溜まり。


 それらを、水緒はほとんど言葉にしなかった。


 多加津もまた、多くを尋ねなかった。

 二人は似ていた。

 山を知る者同士の沈黙が、言葉より早く道を渡っていた。


 佐那だけが、ときおり小声で不安を口にした。


「今の石は、踏んでもよかったんでしょうか」


「踏んだから、今ここにいる」


 多加津が答えた。


「そういう答えは、後からしか分からないので困ります」


「山では、先に分かることの方が少ない」


「なら、どうやって歩くんです」


「今、死なぬ方へ歩く」


 佐那は顔をしかめた。


「もっと穏やかな言い方はないのですか」


「ある」


「あるなら、してください」


「足元を見ろ」


 佐那はむっとしたが、それでも足元を見た。


 真鹿人は、そのやり取りを聞きながら、濡れた土を踏みしめた。


 今、死なぬ方へ歩く。


 それは、記録の言葉ではなかった。系譜にも政にも置きにくい。だが、逃げる者、山を越える者、神の名がつく前の人の道には、そうした言葉の方が近いのかもしれなかった。


 タケミナカタが東へ向かったとき、彼は何を見ていたのか。


 大和の記録に置くならば、抗い、敗れ、逃げ、諏訪に至る。

 それで筋は通る。

 だが、筋が通ることと、道を歩いたことは同じではない。


 足が濡れたか。

 血は乾いたか。

 誰がついてきたか。

 誰を置いたか。

 どこで火を焚き、どこで名を隠し、どこで怒りを置いたか。


 そうしたものは、記録の上では小さくなる。


 いや、小さくするために、記録は整えられるのかもしれなかった。


 真鹿人は、出雲で聞いた言葉を思い出した。


 ――抗い、敗れ、東へ向かう。これを否定せず。されど、ただ逃ぐるにあらず。


 その「ただ逃ぐるにあらず」の中に、どれほどの泥と水と息があったのか。


 今の真鹿人には、まだ見えない。


 見えないものを、出雲の語りだけで埋めてはならない。


 尾根の先で、水緒が立ち止まった。


 彼女は何かを聞いていた。風ではない。鳥でもない。耳を傾けるというより、足の裏で何かを受けているように見えた。


 多加津も足を止めた。


「水が増えている」


 水緒が言った。


 佐那は周囲を見回した。


「水音は遠いですが」


「遠い水が増えれば、近い道が変わる」


「遠いのに?」


「水は遠くから来る」


 水緒は、尾根の下を指した。


 霧の底で、何かが白く動いていた。初めは雲かと思ったが、目を凝らすと、それは水だった。谷底を流れる川が、岩に当たり、白く泡立っていた。昨日よりも太い。昨夜の雨を集めたのだろう。


 真鹿人は、谷を覗き込みすぎぬよう注意した。


 水は低いところへ行く。

 低いところに集まり、道を切る。

 人の決めた道を、水は知らない。


 水緒は、しばらく谷を見てから、尾根を先へ進んだ。


 道はやがて下り始めた。


 下るにつれ、空気は変わった。木々の間に冷たいものが流れ、土の匂いに石の匂いが混ざった。霧の奥から、時折、広い明るさが差し込む。真鹿人は、それが湖の方角なのかと思ったが、すぐに決めつけるのをやめた。


 見える前に名を呼ぶな。


 その戒めは、まだ胸にあった。


 昼を少し過ぎた頃、四人は小さな沢へ出た。


 沢とはいえ、そこには丸い石が多く、水はそれらの間を幾筋にも分かれて流れていた。水緒は沢の手前で立ち止まり、杖の先を水につけた。


 水は澄んでいた。


 底の砂まで見える。小さな葉が流れ、石の陰で止まり、また動いた。水面には霧が映り、白い空が細かく砕けていた。


 佐那は水を見て、ほっとしたように言った。


「ここで休めますか」


「少しなら」


 水緒が答えた。


 佐那は荷を下ろし、手を洗おうとして沢へ近づいた。


「下から」


 水緒が短く言った。


 佐那は手を止めた。


「下?」


「流れの下から手を入れろ。上を濁すな」


「あ、はい」


 佐那は少し下流側へ移り、そこで手を洗った。


 多加津は周囲を見ていた。真鹿人も荷を下ろし、水のそばに座った。手を入れると、冷たさが指を噛むようだった。だが、痛いほどの冷たさの中に、妙な清さがあった。


 水緒は、水を掬わなかった。


 ただ、沢の上流を見ていた。


「この水は、湖へ行くのですか」


 真鹿人が尋ねた。


 水緒はすぐには答えなかった。


「行くものもある」


「行かないものも?」


「土に入る水もある。石の下を通る水もある。途中で別の流れに盗られる水もある。霧に戻る水もある」


「水にも、道は一つではないのですね」


 水緒は、真鹿人を見た。


「神の道も、一つではないと聞いてきたのではないか」


「はい」


「聞いたことを、水に当てはめるな」


 その声は厳しくはなかった。だが、真鹿人の胸に深く入った。


「申し訳ありません」


「謝ることではない。早いだけだ」


「早い」


「お前は、聞いた言葉を結びたがる」


 真鹿人は黙った。


 その通りだった。


 記録官とは、散らばる名を結ぶ者である。

 断片を集め、関係を見つけ、系譜を作る。

 それが身につきすぎている。


 出雲で聞いた言葉。

 因幡で見た白。

 大国主の残り方。

 事代主の沈黙。

 タケミナカタの東への道。

 そして、諏訪へ向かう水。


 それらを結ぶことが、真鹿人の役目だった。

 だが、結べばよいわけではない。


 結び目が早すぎれば、流れを止める。


 水緒は沢の石を一つ指した。


 丸く、白い石だった。水の中で半分だけ見えている。


「あの石を、何と見る」


 真鹿人は慎重に見た。


「白い石です」


「それだけか」


「水に磨かれた石」


「それだけか」


 真鹿人は、さらに考えた。


「道の印にも見えます」


「それだけか」


「供えの場にも」


「それだけか」


 真鹿人は答えられなくなった。


 水緒は言った。


「私なら、今日は座る石と見る」


 佐那が、思わず笑った。


「座るのですか」


 水緒は沢のそばに腰を下ろした。


「座れる」


 確かに、石は座るのにちょうどよかった。濡れてはいたが、安定している。水緒は衣の裾を気にする様子もなく、そこに腰を下ろし、杖を横に置いた。


「名を読む者は、石を高くしすぎる」


 水緒は言った。


「高く?」


「神のものにし、古いものにし、印にし、意味にする。すると、人がそこに座れなくなる」


 真鹿人は、白い石を見た。


 石を高くする。


 それは、記録がよくすることだった。


 小さな出来事を、神の名に結ぶ。

 土地の声を、由来にする。

 人の行いを、祭祀にする。

 そうして残す。

 だが、残されたものは、時に人の手から離れる。


 座れる石が、座れぬ石になる。


 それは尊ぶことでもあり、奪うことでもあった。


 佐那は、水緒の隣に座るべきか迷っているようだった。しばらく石を見ていたが、結局、水に濡れていない別の石へ腰を下ろした。


「私は、乾いた石の方がありがたいです」


「それでよい」


 水緒は答えた。


「ありがたさも、一つではない」


 多加津は少し離れて立っていた。沢の上流と下流を交互に見ている。


 水緒がそちらを見ずに言った。


「お前は座らぬのか」


「立つ方がよい」


「逃げる者の足だ」


 その言葉に、空気がわずかに変わった。


 佐那も真鹿人も、多加津を見た。


 多加津は動かなかった。


「そう見えるか」


「見える」


 水緒は静かに言った。


「追う者の足ではない。待つ者の足でもない。いつでも道を変えられる足だ」


 多加津は黙った。


 真鹿人は、胸の内で息を止めた。


 多加津の過去に触れる言葉だった。だが、水緒はそれ以上踏み込まなかった。名を問わず、どこから来たかも聞かなかった。ただ、足を見た。


 足は、名より先にある。


 そういう見方があるのだと、真鹿人は思った。


「逃げる足は、悪い足ではない」


 水緒は続けた。


「残るための足だ」


 多加津の目が、ほんのわずかに動いた。


 だが、彼は何も言わなかった。


 佐那も、何も尋ねなかった。いつもの彼なら、何か聞いたかもしれない。だが、今は黙っていた。山に入ってから、佐那の率直さは消えてはいないが、少しずつ間合いを覚えているようだった。


 真鹿人は、文箱に手を伸ばしかけた。


 逃げる足は、悪い足ではない。

 残るための足だ。


 書きたい言葉だった。


 だが、書かなかった。


 水緒が言ったからではない。

 多加津が黙っているからだった。


 本人が沈めているものを、他人が先に拾ってはならない。


 それは、事代主の沈黙から学んだことでもあった。


 しばらく休んだ後、佐那は干し飯を少し取り出し、三人に配った。水緒にも差し出した。


「食べますか」


 水緒は佐那を見た。


「余るのか」


「余りません」


「では、なぜ出す」


「道を教えていただいているので」


「私は道を教えてはいない」


「でも、私たちはついてきています」


「お前たちが勝手についてきている」


 佐那は少し考えた。


「それでも、食べますか」


 水緒は、初めてわずかに笑ったように見えた。


「少し」


 佐那は嬉しそうに干し飯を渡した。


 水緒はそれを受け取り、一粒だけ沢の水際に置いた。それから、残りを口にした。


 真鹿人は、その仕草を見た。


 供えるというより、分けるという感じだった。

 神へ捧げるのではなく、水と食べる。

 そう見えた。


 だが、それもまた、真鹿人の解釈にすぎない。


 水緒は干し飯を噛みながら言った。


「大和の者は、神に先に供えるか」


「祭祀では、そうすることが多いと思います」


「人は後か」


「形としては」


「形は、よく残る」


 水緒は水を見た。


「心より長く残ることがある」


 真鹿人は頷いた。


「形が残ることで、忘れずに済むこともあります」


「ある」


「しかし、形が残ることで、心が変わっても戻せないこともある」


「ある」


 水緒は、あっさり認めた。


「だから、形を悪く言うな」


 真鹿人は顔を上げた。


 水緒は続けた。


「形がなければ、水は掬えぬ。器がなければ、火のそばへ水を持って行けぬ。名がなければ、遠くの者を呼べぬ」


「名は、必要なのですね」


「必要だ」


 水緒は言った。


「だが、名を器だと忘れるな。水そのものではない」


 真鹿人は、その言葉を胸に受けた。


 名は支配であり、器でもある。


 大和では、名は並べられる。

 国を形作るために。

 血筋を示すために。

 神を配置するために。


 だが、名がなければ呼べないものもある。

 名があるから遠くの者へ届く声もある。

 問題は、名を水そのものと思うことなのだ。


「タケミナカタという名も、器ですか」


 真鹿人は尋ねた。


 水緒の目が、少しだけ細くなった。


 沢の水音が、急に近くなったように感じた。


「その名を、ここで軽く呼ぶな」


 真鹿人は頭を下げた。


「失礼しました」


「恐れる必要はない。だが、急ぐな」


「はい」


「その名は、傷を入れた器だ」


 水緒は低く言った。


「大きく、強く、割れやすい」


 真鹿人は息を止めた。


 強い名。

 痛い名。


 宇都志の言葉がよみがえる。


 だが、水緒の言葉は少し違った。


 傷を入れた器。


 強いだけではない。

 痛いだけでもない。

 割れやすい。


 名は、運ぶための器である。

 しかし、器そのものにも傷が入る。

 中の水が傷つくのではなく、器が傷を持つ。


 真鹿人は、その違いを感じた。


「湖は、その器を受け入れたのですか」


 水緒は、すぐには答えなかった。


 沢の水を見ている。


「湖に聞け」


「水緒殿は、答えを持っておられないのですか」


「持っている」


「では」


「私の答えを、お前の記録の答えにするな」


 真鹿人は、口を閉じた。


 水緒は、厳しい。だが、その厳しさは拒絶ではなかった。むしろ、真鹿人が早く結論へ逃げないよう、何度も手前で止めている。


 記録官にとって、答えは安心だった。


 答えがあれば、書ける。

 書ければ、持ち帰れる。

 持ち帰れば、役目を果たせる。


 だが、この旅では、答えの早さが危うい。


 水緒は立ち上がった。


「行く」


 佐那が慌てて干し飯を包み直した。


「もうですか」


「水が変わる前に沢を越える」


 水緒は沢の石を見ながら言った。


「この沢は、細く見える時ほど足を取る」


 多加津が頷いた。


「石が丸い」


「丸い石は、動く」


 水緒はそう言い、杖で水中の石を押した。


 一見安定していた石が、ゆっくりと転がった。水が濁り、小さな渦が生まれた。佐那は目を丸くした。


「今のを踏んだら」


「転ぶ」


「転ぶだけですか」


「運がよければ」


 佐那は真顔で頷いた。


「上流は濁さず、足元は疑う。覚えました」


「覚えすぎるな」


 水緒は言った。


「次の沢では違う」


 佐那は困ったように空を見た。


「山は、覚えさせたいのか忘れさせたいのか、どちらなんです」


「どちらでもない」


 水緒は沢へ足を入れた。


「その場にいろと言っている」


 その場にいる。


 真鹿人は、その言葉を聞きながら沢を渡った。


 水は足首までだった。だが、流れは思ったより強かった。草履の下で石が動く。多加津が佐那の腕を掴み、水緒が先で待つ。真鹿人は杖をつき、ひと足ずつ進んだ。


 沢の中では、過去も未来も遠かった。


 出雲の語りも、大和の役目も、まだ見ぬ湖も、すべてが一度薄くなった。ただ、次に置く足だけがあった。どの石が動くか。水がどちらから押すか。身体の重さをどこへ逃がすか。


 その場にいるとは、こういうことかもしれなかった。


 渡り終えると、佐那は大きく息を吐いた。


「生きています」


「よかったな」


 多加津が言った。


「もう少し喜んでください」


「生きているなら、十分だ」


 佐那は不満そうだったが、少し笑った。


 沢を越えてから、道は急に静かになった。


 水音は背後に回り、代わりに風の音が近くなった。木々の間が少し開け、遠くの山並みが見え隠れする。霧はまだ残っていたが、白の向こうに青みがある。空が近づいているのだと真鹿人は思った。


 やがて、道の脇に小さな石積みが現れた。


 人が積んだものだった。


 大きな石を下に、平たい石を重ね、その上に丸い石が一つ置かれている。祭壇というほど大きくはない。墓というには簡素すぎる。だが、ただの道標とも思えなかった。


 佐那が立ち止まった。


「これは、何ですか」


 水緒は歩みを緩めたが、近づかなかった。


「置いた者がいる」


「誰が」


「置かねばならなかった者が」


 真鹿人は、石積みを見た。


 石は古いものも新しいものも混ざっていた。苔むした石の上に、まだ角の立った石が載っている。長い時間をかけて、何人もの者が積んだのかもしれない。


「祈りですか」


 真鹿人が尋ねると、水緒は言った。


「祈りのこともある」


「他には」


「迷った印。助かった礼。死んだ者の代わり。置いていく荷。戻らぬ約束」


 佐那は、少し表情を曇らせた。


「そんなに色々あるのですか」


「石は黙るからな」


 多加津が言った。


 水緒は、多加津を見た。


「黙る石に、言わせすぎる者もいる」


 多加津は答えなかった。


 真鹿人は、その石積みの前で足を止めたまま、しばらく動けなかった。


 置いていく荷。


 戻らぬ約束。


 タケミナカタは、何を置いていったのだろう。


 出雲から運んだものがあるなら、運ぶために置いたものもある。

 名を持っていくために、名の外へ出したものもある。

 怒りを置いたという語りもあった。

 だが、それも断じてはならない。


 石積みは、答えを持っていなかった。


 ただ、そこにあった。


 人が通り、何かを置き、また通った。

 それだけが分かる。


 水緒は言った。


「何か置くか」


 佐那は荷を見た。


「食べ物は、あまり」


「食べ物でなくてもよい」


「では、何を」


「置けるものを」


 佐那は困った顔で考えた後、自分の衣の袖に結んでいた細い紐をほどいた。荷を括っていた予備の紐だった。少し擦り切れているが、まだ使える。


「これでもよいですか」


「お前がよいなら」


 佐那は石積みの下に、その紐をそっと置いた。


「何を置いた」


 水緒が尋ねた。


 佐那は少し考えた。


「疲れです」


 多加津が、わずかに目を細めた。


「疲れを置けば、歩けるのか」


「少しは」


「なら、よい」


 佐那は満足そうに頷いた。


 水緒は真鹿人を見た。


「お前は」


 真鹿人は文箱に触れた。


 置けるもの。

 置くべきもの。


 木簡を置くこともできた。だが、それは違う気がした。大和から預かったものを、旅の途中で手放すことはできない。では、言葉を置けるのか。書かずに置くとは、どういうことか。


 真鹿人は、しばらく黙った後、石積みの前に膝をついた。


「私は、分かったつもりを置きます」


 水緒は何も言わなかった。


「出雲で聞いたことを、諏訪にそのまま重ねる心を、ここに少し置きます。すべては置けません。ですが、少しでも」


 真鹿人は、地面に落ちていた小さな葉を拾った。まだ青さの残る葉だった。彼はそれを石積みの端に置いた。


 葉は軽かった。


 置いたというほどの重さもない。風が吹けば飛ぶだろう。


 だが、今の真鹿人には、それくらいがちょうどよかった。


 多加津は、石積みを見ていた。


 水緒は尋ねなかった。


 佐那も尋ねなかった。


 長い沈黙の後、多加津は道の脇に転がっていた小さな黒い石を拾った。丸くもなく、角ばってもいない、どこにでもありそうな石だった。


 それを石積みの上ではなく、少し離れた根元に置いた。


 真鹿人は、その場所を見た。


 積まない。


 加えない。


 少し離して置く。


 その意味を問いたくなった。


 だが、問わなかった。


 多加津は言った。


「行ける」


 それだけだった。


 水緒は頷き、先へ進んだ。


 石積みは背後へ遠ざかった。


 振り返ると、霧の中で形が曖昧になり、やがて見えなくなった。だが、そこに置いたものが消えたわけではない。見えないものと、ないものは違う。佐保の言葉がまた戻った。


 同じ言葉が、土地を変えて戻ってくる。


 真鹿人は、それを今度こそ書きたいと思った。だが、やはりまだ書かなかった。


 午後の道は、下りだった。


 しかし、下れば楽になるわけではなかった。斜面は湿り、落ち葉の下に石が隠れていた。膝に重みがかかり、足の指が痛む。佐那は何度か滑り、そのたびに多加津が手を貸した。


 水緒は、ほとんど滑らなかった。


 彼女は水の流れる向きと同じように下っていく。急がず、止まらず、曲がるところで曲がり、避けるところで避ける。真鹿人には、それが歩いているというより、道の方が水緒を通しているように見えた。


 やがて、木々の間に風が抜けた。


 冷たく、広い風だった。


 谷の風ではない。

 山肌を撫でる風でもない。

 もっと大きな水面を渡ってきたような、湿りと冷たさを含む風。


 佐那が顔を上げた。


「水の匂いがします」


 多加津も足を止めた。


 真鹿人は息を吸った。


 確かに、水の匂いがした。


 沢や谷の水とは違う。流れる水ではなく、留まる水の匂い。深く、冷たく、広いものが、どこか近くにある。


 湖。


 その名が喉まで上がり、真鹿人は飲み込んだ。


 まだ見ていない。


 水緒が振り返った。


「呼ばなかったな」


 真鹿人は静かに答えた。


「まだ、見ていません」


「よい」


 水緒は少しだけ頷いた。


 道はさらに下った。


 霧は薄くなり、白い幕の奥に明るさが広がっていった。木々の間隔が少しずつ開く。地面には湿った苔が増え、ところどころに黒い土が見えた。鳥の声が変わった。山の奥で鳴く鋭い声ではなく、水辺に近い柔らかな声だった。


 そして、ふいに視界が開けた。


 四人は、斜面の途中に出た。


 眼下に、広いものがあった。


 湖だった。


 真鹿人は、しばらく息をすることを忘れた。


 湖は、空を映していた。だが、空そのものではなかった。霧の白を受け、雲の灰を沈め、ところどころに青を隠している。水面は静かに見えたが、近くで見れば動いているのだろう。遠くの岸は霧でぼやけ、湖の端がどこで終わるのか、すぐには分からなかった。


 山々が、その水を囲んでいた。


 囲むというより、見守っているようだった。あるいは、押さえているのかもしれない。水はその中に留まっている。逃げず、溢れず、しかし死んでいない。


 佐那が小さく言った。


「大きい」


 多加津は黙っていた。


 水緒も黙っていた。


 真鹿人は、湖を見た。


 出雲の海とは違う。

 因幡の浜とも違う。

 谷の水とも、沢の水とも違う。


 波はない。だが、動いている。

 道は見えない。だが、水は多くの道を持っている。

 声は聞こえない。だが、沈黙は空ではない。


 この湖は、タケミナカタを待っていたのだろうか。


 そう思いかけて、真鹿人は止めた。


 待っていた、という言葉は、人の都合が強すぎる。


 湖は、ただ先にあった。


 神が来る前から。

 名が置かれる前から。

 敗れた者の足音が山を越える前から。


 湖は、先に水を湛えていた。


 真鹿人は、ゆっくりと頭を下げた。


 誰に対してかは分からなかった。

 湖にか。

 山にか。

 水緒にか。

 まだ名を呼ばぬ神にか。


 分からないまま、頭を下げた。


 水緒が言った。


「ここから先は、湖の声を聞け」


 真鹿人は顔を上げた。


「水緒殿の声ではなく」


「私の声も、湖の声ではない」


「では、どう聞けば」


 水緒は湖を見たまま答えた。


「急がず、決めず、近づきすぎず、離れすぎず」


「難しいですね」


「水を見るのは、難しい」


 佐那がぽつりと言った。


「飲むだけなら、簡単なのに」


 水緒は佐那を見た。


「飲むことを軽く見るな」


 佐那は慌てて頭を下げた。


「いえ、そういうつもりでは」


「飲む者は、水に入る」


 水緒は言った。


「見るだけの者より、深いこともある」


 佐那は少し驚いた顔をした。


「私でも、聞けますか」


「腹が空く者は聞ける」


 多加津が低く笑った。


 佐那は不満そうに彼を見たが、どこか嬉しそうでもあった。


 真鹿人は、湖を見ながら思った。


 記録官として聞く耳。

 旅人として聞く耳。

 腹が空く者として聞く耳。

 逃げる者として聞く耳。

 守る者として聞く耳。

 水辺に住む者として聞く耳。


 聞くとは、一つではない。


 事代主は、諸々の声を聞き、言葉を沈めた。

 ならば、真鹿人はどう聞くのか。


 沈めるためではなく。

 閉じるためでもなく。

 だが、残すためだけでもなく。


 湖からの風が、頬を撫でた。


 その風の中に、かすかな冷たさと、土の匂いと、遠い火の匂いがあった。湖畔に人の暮らしがあるのだろう。水だけではない。火もある。食もある。家もあり、死者もあり、名もある。


 諏訪は、ただ古い水の土地ではない。


 人が住み、神を呼び、神に呼ばれ、名を変えながら暮らしてきた土地である。


 水緒は、斜面の下を指した。


「今夜は、あの木立の向こうで休める」


 見ると、湖へ下る途中に、濃い木立があった。煙が細く上がっている。人家か、火を守る場所か、旅人の小屋か、まだ分からない。


「諏訪の里ですか」


 真鹿人が尋ねると、水緒は首を振った。


「里の手前だ」


「境ですか」


「境と呼ぶなら」


「呼ばないなら」


「水が変わるところ」


 水緒はそう言った。


 水が変わるところ。


 山の水が、湖の水へ変わるところ。

 旅人が、土地に入る者へ変わるところ。

 聞いてきた名が、まだ呼べぬ名へ変わるところ。


 真鹿人は、空の木簡のことを思った。


 どうしても書かねばならぬものに出会うまで、空のまま持て。


 湖を見ても、まだ書けなかった。


 それは失敗ではない。

 むしろ、まだ空であることに意味があるのかもしれない。


 彼は、文箱を静かに押さえた。


 水緒が歩き出した。


 三人はその後に続いた。


 湖は、前にあった。

 だが、まだ遠かった。

 見えているのに、届いていない。


 真鹿人は、その距離を大切にしようと思った。


 近づけば、また別のものが見える。

 だが、遠くからしか見えない形もある。


 斜面を下りながら、彼は湖の名をまだ口にしなかった。


 ただ、心の内で静かに記した。


 湖、先にあり。

 名、後より来る。

 水、器にあらず。

 器、水に触れて変わる。

 断ずるべからず。


 木簡には書かなかった。


 今はまだ、水の緒をたどる時だった。


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