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月を隠した国  作者: 月読 龍
諏訪、逃れた神の湖
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第二部 諏訪、逃れた神の湖 第十一章 山へ入る

 道は、少しずつ細くなっていった。


 はじめはまだ、人の足が幾度も踏んだ跡があった。草は低く倒れ、泥は乾き、ところどころに荷を負う者の足跡や、獣の蹄が残っていた。だが、半日も歩くうちに、それらは雨に洗われ、石に紛れ、木の根に奪われていった。


 出雲を離れてから、空はずっと低かった。


 雲は山の肩にかかり、動いているのか留まっているのか分からぬほど重く垂れていた。風が吹くたび、湿った匂いが谷の底から上がってくる。腐葉の匂い。濡れた苔の匂い。遠い水の匂い。


 真鹿人は、その匂いを嗅ぎながら、何度も背後を振り返りそうになった。


 振り返っても、もう出雲は見えない。


 見えないが、ないわけではなかった。


 宇都志の声が、まだ耳の奥に残っている。


 ――諏訪で、出雲を探しすぎるな。


 その言葉は、山へ入るにつれて、かえって重くなった。


 真鹿人は、背に負った文箱の紐を直した。中には、大和から預かった木簡と、道中で書き付けた断片がある。因幡の浜で拾わなかった「名」の字の欠片はない。宇都志の示した三つの石もない。持っているのは、言葉だけだった。


 いや、言葉ですら、すべてではない。


 書かなかった歌がある。

 拾わなかった欠片がある。

 持ってこなかった石がある。

 そして、沈められたままの声がある。


 それらを抱えていると言えるのか、それとも、抱えているつもりになっているだけなのか。


 真鹿人には、まだ分からなかった。


 前を行く多加津が、足を止めた。


 佐那は、すぐに気づかず、数歩進んでから慌てて止まった。


「どうしたんです」


 多加津は答えず、足元を見た。


 そこには、細い流れがあった。流れというより、山肌から染み出した水が、石の間を伝って道を横切っているだけだった。水は浅く、草の根を濡らし、小さな砂を運んでいた。


 佐那は、肩の荷を下ろしかけてから、真鹿人の顔を見た。


「水ですか」


「水だ」


 多加津は短く答えた。


「渡れぬほどではない」


「なら、行きましょう」


 佐那がそう言って足を踏み出しかけると、多加津は低く言った。


「踏むな」


 佐那の足が、宙で止まった。


「え」


「その石を踏むな」


 多加津が顎で示した先に、半ば水に沈んだ平たい石があった。大きさは手のひらほどで、表面は黒く濡れ、苔が薄くついている。足を置くにはちょうどよく、佐那もそこを踏もうとしていた。


「滑るんですか」


「滑ることもある」


「他にも?」


 多加津は、少し黙った。


「水が最初に触れる石は、ただの石とは限らぬ」


 佐那は目を瞬かせた。


「それは、神の石ということですか」


「そう呼ぶ者もいる」


「呼ばない者は?」


「踏まぬ」


 佐那は、分かったような、分からぬような顔をした。それでも足を引き、少し上流側の土を踏んで水を越えた。


 真鹿人も続いた。


 水は細かった。だが、越えた瞬間、山の内側へ一歩入ったような気がした。


 その感じを言葉にしようとして、真鹿人はやめた。


 書けば、また何かを閉じる。


 閉じぬために書くには、まだ早かった。


 山道はさらに上がった。


 木々は深くなり、幹には蔓が巻きつき、枝は空を狭めた。ときおり霧が流れ、遠くの尾根を隠した。道の脇には石が多くなった。角の立った石、丸く磨かれた石、割れて中の白さを見せる石。中には、人の手で置かれたように見えるものもあったが、誰もそれを確かめようとはしなかった。


 多加津は、石のそばを通るたび、わずかに歩幅を変えた。


 それは礼のようでもあり、警戒のようでもあった。


「多加津殿は、山に慣れておられますね」


 真鹿人が言うと、多加津は前を向いたまま答えた。


「山は、人が慣れたと思ったときに牙を見せる」


「では、慣れてはいないと」


「慣れぬようにしている」


 佐那が後ろから息を弾ませて言った。


「私はもう、慣れたくないです。平たい道が恋しいです」


「大和の道か」


「はい。石が少なくて、泥が少なくて、飯を食う場所が分かりやすい道です」


 多加津は振り返らなかったが、わずかに口元が動いたように見えた。


「飯の場所を忘れぬ者は、山で死ににくい」


「それは褒めていますか」


「半分は」


「残り半分は何です」


「荷が重い」


 佐那はむっとして、自分の荷を見た。


「食べ物は大事です。逃げるときにも必要です」


 その言葉に、真鹿人は足を止めかけた。


 逃げるときに何を持つか。


 因幡を越え、出雲へ入り、そして東へ向かう道中で、佐那はそう問われた。食べ物、火打ち石、家族、思い出のもの。そう答えた佐那の声が、また戻ってきた。


 ――自分がどこの者だったか分からなくなりそう。


 タケミナカタもまた、そうだったのだろうか。


 出雲から東へ向かった神。抗い、敗れ、逃れた神。だが、ただ逃げたのではない。出雲が沈めず残したものを運んだ神。


 真鹿人は、そう聞いた。


 聞いたから、そう書きかけた。


 だが、山に入ると、その言葉は少し違って響いた。


 逃げる者が持つものは、持とうとして持てるものだけではない。背負いたくなくとも背負わされるものがある。置いていきたくなくとも置いていかねばならぬものがある。名を変えなければ持って行けないものもある。


 多加津の言葉も、そこに重なった。


 ――名を変えなければ、持って行けないものがあった。


 真鹿人は前を行く背中を見た。


 多加津は何も語らない。語らぬことで、何かを守っているようにも見える。あるいは、語れば失うものがあるのかもしれない。


 大和であれば、名を尋ねる。

 出自を記す。

 役目を置く。

 誰の子で、どこの者で、何に仕えるかを定める。


 だが、山では、それがどれほど役に立つのか。


 今、道を知っているのは多加津だった。

 水の音を聞き、石の置き方を見、獣の気配を避けているのも多加津だった。

 その多加津の過去を、記録のために暴くことが、果たして正しさなのか。


 真鹿人は、文箱の紐に触れた。


 空の木簡は、まだ空のままだった。


 山の中で、昼は短かった。


 日がまだ高いはずの刻限にも、樹々の下は薄暗かった。湿った風が衣の裾を重くし、草の先に溜まった水滴が足を濡らした。幾度も坂を上り、幾度も下った。上っているのか、回り込んでいるのか、真鹿人には分からなくなった。


 ただ、水音だけがあった。


 右手の谷から聞こえることもあれば、左手の岩の下から響くこともあった。見えぬところで、水は絶えず流れていた。細く、時に鋭く、時に土の下に沈み、また現れる。


 出雲では、沈黙は水へ行くと聞いた。


 ならば、この山の水は、何を聞いているのか。


 真鹿人は、ふとそう思った。


 だが、その問いを立てた瞬間、別の声が胸の内で返った。


 ――出雲の言葉で、山を測るな。


 諏訪には先に水がある。


 そう引き継がれた言葉を、真鹿人はまだ見ていない。けれど、山へ入っただけで、その意味の端には触れた気がした。


 この水は、出雲から運ばれてきたものではない。


 ここに、先にあったものだ。


 その水に、後から名が重なる。


 その名がタケミナカタであったとしても、水そのものがタケミナカタになるわけではない。湖が、出雲の傷をただ受ける器であったわけでもない。


 器という言葉すら、危うかった。


 器は、受けるものとして見られる。

 だが、土地はただ受けるだけではない。

 選び、拒み、沈め、変える。


 出雲が大国主を残したように。

 事代主の沈黙を海が抱いたように。

 因幡の兎が、道でも人でも神でもあるまま、白く剥がれていたように。


 諏訪もまた、何かを変える土地なのだろう。


 真鹿人は、そう思った。


 だが、その思いもまた、まだ早い。


 断ずるべからず。


 自分で書いたその言葉が、今度は自分を押し留めた。


「真鹿人様」


 佐那の声で、真鹿人は我に返った。


「足元です」


 見ると、道の真ん中を細いものが横切っていた。


 蛇だった。


 小さな蛇ではない。人の腕ほどの太さはないが、長い。濡れた草の間から現れ、黒とも緑ともつかぬ背をゆっくりくねらせて、道を渡っていた。頭は上げていない。ただ、水の流れと同じように、低く、音もなく進んでいる。


 多加津は動かなかった。


 佐那も息を止めた。


 真鹿人も、足を置くことができなかった。


 蛇は、こちらを見なかった。見る必要がないかのように進み、道の反対側の石の陰へ消えた。草が少し揺れ、それもすぐに止まった。


 しばらく、誰も話さなかった。


 最初に口を開いたのは佐那だった。


「……今のは、避けた方がよかったのですよね」


「避けた」


 多加津が言った。


「向こうがな」


 佐那は顔をしかめた。


「こちらが避けたのではなく?」


「道は、こちらだけのものではない」


 真鹿人は、その言葉を胸の内で繰り返した。


 道は、こちらだけのものではない。


 大和の道は、人が通るために整えられている。荷が行き、兵が行き、使者が行き、命令が行く。そこでは、道は人のものとして扱われる。


 だが、山の道は違う。


 獣が通る。水が通る。木の根が通る。蛇が通る。名のないものが通る。人は、その間を少し借りているにすぎない。


 ならば、神の道とは何か。


 真鹿人は、第一部の終わりに書いた言葉を思い出した。


 ――神の道とは、人の道に強き名のつきたるものか。


 だが今は、それだけでは足りないと思った。


 神の道とは、人の道に神の名がついたものかもしれない。

 同時に、人の道ではないものを、人が後からそう呼んだものかもしれない。


 水の道。

 蛇の道。

 石の道。

 沈黙の道。


 人がそこを歩いたとき、初めて道と呼ぶのではない。

 人が来る前から、何かはすでに通っていた。


 真鹿人は、そのことを木簡に書こうとして、またやめた。


 多加津が歩き出したからだった。


 山は、待たない。


 夕刻、三人は岩陰に身を寄せた。


 そこは道から少し外れた場所で、上に大きな岩が張り出し、雨を避けることができた。近くには細い流れがあり、手を浸すと骨に沁みるほど冷たかった。佐那は荷を下ろすなり座り込み、しばらく何も言わなかった。


「飯にする」


 多加津が言った。


 佐那はその言葉で少しだけ生き返ったように顔を上げた。


「火は」


「小さくなら」


 多加津は周囲を見てから答えた。


 湿った枝では火がつきにくい。佐那は乾いた皮や細枝を探し、多加津は岩陰の奥から、雨の当たりにくい枯れ枝を拾ってきた。火打ち石を打つ音が、薄暗い山中に小さく響いた。


 火は、なかなか立たなかった。


 何度も煙ばかりが出て、佐那は目を赤くしながら息を吹き込んだ。やがて細い炎が生まれ、枝の先を舐め、少しずつ太くなった。炎が安定すると、三人の顔に赤い光が揺れた。


 火を見ていると、山の水音が少し遠くなった。


 佐那は干した飯を湯に浸し、わずかな塩を入れた。贅沢とは言えぬが、温かいものが腹に入るだけで、身体は人の側へ戻ってくる。


「山の神も、飯を食うのでしょうか」


 佐那が唐突に言った。


 真鹿人は少し笑いそうになったが、笑わなかった。


「供えは受けるだろう」


「そうではなくて、腹が空くのかと思いまして」


 多加津は器を手にしたまま言った。


「腹が空かぬものに、供えは要らぬ」


「では、空くのですね」


「そう思って供える方が、粗末にはならぬ」


 佐那は納得したように頷いた。


「なら、山に入るなら、少し多めに持つべきです」


「お前の荷が重い理由はそれか」


「人の分です」


「山の分は」


 佐那は器の中を見た。


「……少しなら」


 多加津は、火のそばの平たい石に、飯粒をいくつか置いた。


 佐那は驚いた顔をしたが、すぐに自分の器からも少し取り、同じ石に置いた。


 真鹿人も倣った。


 飯粒は小さく、湯気もほとんど立たなかった。だが、火の赤い光の中で、それは妙に白く見えた。


 白。


 因幡の浜の白。

 布の白。

 剥がれた皮の白。

 納まらぬものの白。


 ここでは、その白は飯だった。


 食べるもの。

 生きるもの。

 分けるもの。


 同じ白でも、場所が変われば意味は変わる。


 真鹿人は、それを思った。


 出雲で得た言葉を、そのまま山に置けば、山の白を見落とすかもしれない。


 因幡の白は、因幡の白である。

 出雲の黒は、出雲の黒である。

 この山の白は、まだ名づけられていない。


 火の向こうで、多加津が言った。


「明日は、もっと道が悪くなる」


 佐那は器を抱えたまま、肩を落とした。


「これよりですか」


「これより」


「湖には、いつ着くのです」


「山が許せば」


「人が決めるのではないのですか」


「人が決めた道ならな」


 佐那は深く息を吐いた。


「山が許さないこともあるのですか」


「ある」


 多加津は炎を見ていた。


「霧が出る。水が増える。石が落ちる。獣が通る。人が焦る。そういう時、山は道を隠す」


「隠すのですか」


「見えなくする」


「同じでは?」


「違う」


 真鹿人は、その違いに耳を澄ませた。


 多加津は続けた。


「ない道は歩けぬ。見えぬ道は、待てば現れることがある」


 佐那は黙った。


 真鹿人も黙った。


 見えないものと、ないものは違います。


 佐保の声が、火の中でよみがえった。


 因幡で聞いた言葉が、山で別の形を取る。だが、それは同じ意味ではない。佐保の言葉を、多加津の言葉に重ねて分かったつもりになってはいけない。


 それでも、言葉は響き合う。


 旅とは、そういうものなのかもしれない。


 ひとつの土地で聞いた声が、別の土地で違う響きを持つ。似ているからといって同じではなく、違うからといって断ち切れるわけでもない。


 真鹿人は、文箱を開いた。


 佐那がちらりと見た。


「書くのですか」


「少しだけ」


「何を」


 真鹿人は、空の木簡には触れなかった。別の細い木簡を取り出し、筆を濡らした。


 火の光は弱く、字を書くには頼りなかった。だが、あまり明るすぎると、かえって書けぬ気がした。


 真鹿人はゆっくりと刻むように書いた。


 山に入る。

 出雲の重さを負う。

 されど、ここに先に水あり。

 出雲の名をもって呼ぶべからず。

 水、石、蛇、道を分かつ。

 人、少し借りて通る。

 断ずるべからず。


 そこまで書いて、筆を止めた。


 もう少し書ける気もした。だが、書けるからといって、書いてよいわけではない。


 真鹿人は木簡を乾かし、文箱に戻した。


 空の木簡は、まだ空でよい。


 夜が深くなると、山の音は変わった。


 昼には聞こえなかった小さな音が、あちこちから立ち上がった。枝から落ちる水滴。草を分ける虫。遠くの獣の声。石の下を流れる水。風が木の葉を揺らす音。


 それらは一つ一つは小さいのに、集まると大きな沈黙になった。


 真鹿人は、眠れなかった。


 火は小さく保たれ、多加津が時折枝を足した。佐那はすでに眠っている。疲れ切っていたのだろう。荷を枕にし、肩を丸め、子どものように息をしていた。


 多加津は起きていた。


 真鹿人は、しばらく迷ってから声をかけた。


「多加津殿」


「何だ」


「逃げる者は、山を選ぶのでしょうか」


 多加津はすぐには答えなかった。


 火の中で枝が折れ、小さく火花が散った。


「山を選ぶ者もいる」


「選ばされる者も?」


「いる」


「タケミナカタは、どちらだったのでしょう」


「知らぬ」


 その答えは冷たくはなかった。むしろ、簡単に知ったと言わないための答えだった。


 真鹿人は頷いた。


「私は、出雲で聞いた言葉を頼りにしています。ですが、山へ入ってから、それが危うい気がしてきました」


「危うい方がよい」


「なぜです」


「危ういと思う者は、足元を見る」


 真鹿人は、火の明かりの届かぬ足元を見た。暗く、湿った土があるだけだった。


「危ういと思わぬ者は?」


「先を見る」


「先を見るのは悪いことですか」


「足元を見ずに先だけ見る者は、谷に落ちる」


 真鹿人は、小さく息を吐いた。


「記録も同じかもしれません」


「知らぬ」


「ですが、そう思いました」


「なら、そう書くな」


 真鹿人は顔を上げた。


 多加津は火を見ていた。


「思ったことをすぐ書くな。山では、思いはよく転ぶ」


「……はい」


「明日になれば、違うことを思う」


 真鹿人は、その言葉を胸に留めた。


 多加津は、また黙った。


 それ以上は語らなかった。


 過去についても、名を変えた理由についても、どこから逃げたのかについても。


 真鹿人は尋ねなかった。


 尋ねないこともまた、記録の一部になるのかもしれない。少なくとも今は、そうしておくべきだと思った。


 夜半、雨が降った。


 激しい雨ではない。霧が濃くなり、そのまま水になったような雨だった。岩陰にいる三人を濡らすほどではなかったが、周囲の草木はしっとりと光り、火はさらに小さくなった。


 水音が増えた。


 谷の底から、昨日までより太い音が上がってくる。細い流れが集まり、石を叩き、どこかへ落ちていく音だった。


 真鹿人は、その音を聞きながら、目を閉じた。


 水は、出雲から来たのではない。


 この山に降り、この山を通り、この山の下へ行く。


 その先に、湖があるのだろうか。


 まだ見ぬ湖。


 逃れた神がたどり着いたと語られる湖。

 だが、神が来る前から、そこにあった湖。

 名を受ける前から、水を湛えていた場所。


 真鹿人は、湖を思い描こうとした。


 しかし、浮かんだのは出雲の海だった。因幡の浜だった。波が戻るところに置かれた「名」の欠片だった。


 違う。


 そう思い、真鹿人はその像を消した。


 諏訪を、まだ見ていない。


 見ていないものを、見た土地で埋めてはならない。


 その戒めだけを抱いて、真鹿人は浅い眠りに落ちた。


 翌朝、山は白かった。


 雪ではない。霧だった。


 木々の幹も、草も、石も、すべてが白い息に包まれていた。近くのものだけが見え、少し離れれば形は曖昧になった。音もまた、霧の中で柔らかくなっていた。水音は近いようで遠く、鳥の声は上からではなく、どこからともなく聞こえた。


 佐那は起きるなり、顔をしかめた。


「これは、道が見えません」


「見えぬだけだ」


 多加津が言った。


「ないわけではない」


 佐那は昨日の言葉を覚えていたのだろう。何か言い返そうとして、やめた。


 火の跡に土をかけ、飯を置いた石をそのままにして、三人は出発した。


 霧の中では、多加津の背中を見失わぬことが何より大事だった。真鹿人はその後ろを歩き、佐那が続いた。多加津は急がなかった。足元を確かめ、木の幹に触れ、時に耳を澄ませた。


 やがて、道は大きな岩の前で二つに分かれた。


 右は下る道。水音が近い。

 左は上る道。霧が濃い。


 真鹿人には、どちらが正しいのか分からなかった。


 多加津もすぐには進まなかった。


 岩の表面には、苔が厚くついていた。その苔の一部が剥がれ、下から白い石肌が見えている。そこに、細い筋のようなものがあった。


 文字ではない。


 少なくとも、大和で用いる字ではない。


 傷かもしれない。水の跡かもしれない。誰かが刻んだ印かもしれない。


 佐那が小声で言った。


「何か、書いてありますか」


「分からぬ」


 真鹿人は正直に答えた。


「文字ではないのですか」


「文字かもしれない。文字でないかもしれない」


 佐那は困った顔をした。


「記録官でも分からないのですね」


「記録官だから、分からないと言わねばならぬ時がある」


 言ってから、真鹿人はその言葉が自分に返ってくるのを感じた。


 分からない。


 それを書くことが、これほど難しいとは、大和にいた頃は思わなかった。


 多加津は岩の前にしゃがみ、地面を見た。濡れた土に、微かな跡がある。人の足跡ではない。獣か、あるいは荷を引いた跡か。霧で濡れ、半ば消えかけている。


「右へ行けば、沢へ下りる」


 多加津が言った。


「左は」


「尾根へ出る」


「どちらが諏訪へ近いのですか」


 佐那が尋ねた。


「近い道と、着く道は違う」


 佐那はまた黙った。


 真鹿人は岩に刻まれたような筋を見た。


 白い石肌。

 蛇のように曲がる線。

 水のようにも見える線。


 それを見ていると、背後から声がした。


「その岩に、名を読むな」


 三人は振り返った。


 霧の中に、人影があった。


 女だった。


 年は、若くもあり、老いても見えた。髪は後ろで束ねられ、濡れた麻の衣を身につけている。足元は草履ではなく、革のようなものを巻いていた。手には細い杖を持ち、その先で地面を軽く押さえている。


 佐那が息を呑んだ。


 多加津は、手を刀にかけなかった。ただ、半歩だけ前に出た。


 女は近づきすぎず、霧の境に立っていた。


「道を探しているのか」


 女が言った。


 声は低く、湿った土に染みるようだった。


 真鹿人は一礼した。


「東へ向かう者です」


「東は広い」


「湖のある土地へ」


 女の目が、わずかに動いた。


「湖も多い」


「諏訪へ」


 その名を口にした瞬間、霧が少し濃くなったように感じた。


 女はしばらく真鹿人を見ていた。


「大和の者か」


「はい」


「名を集める者か」


 真鹿人は、すぐには答えられなかった。


 そうだと言えば、何かを閉じる気がした。違うと言えば、嘘になる。


「名を集める役を持つ者です」


 女は、少しだけ頷いた。


「役と身は、同じではないか」


「同じであった時もあります」


「今は」


 真鹿人は、文箱に触れた。


「分けようとしています」


 女は、岩の方を見た。


「その岩に名を読む者は、よく道を間違える」


「これは文字ではないのですか」


「水が通った跡だ」


 女は言った。


「蛇が身を擦った跡だという者もいる。昔の者が印を残したという者もいる。どれも違わぬ。だが、ひとつにすれば道を誤る」


 真鹿人は息を呑んだ。


 ひとつにすれば道を誤る。


 それは、第一部で聞いた言葉の続きのようでありながら、別の土地の声だった。


 女は、右の道を杖で示した。


「水は下へ行く。だが、人が今下れば、戻れぬ」


 次に、左の道を示した。


「尾根は遠い。だが、霧の上に出ることがある」


 多加津が初めて口を開いた。


「左か」


「山が許せば」


 女は、多加津と同じ言い方をした。


 佐那が小さく呟いた。


「山は、誰にでも同じことを言わせるのですね」


 女は佐那を見た。


「山が言わせるのではない。聞いた者が、似た言葉を選ぶ」


 佐那は口を閉じた。


 真鹿人は、女に尋ねた。


「あなたは、諏訪の方ですか」


「そう呼ばれる土地の水を見ている」


「名を伺っても」


 女は、すぐには答えなかった。


 霧の向こうで、水音がした。


「水緒」


 やがて女は言った。


「そう呼ぶ者がいる」


 水緒。


 真鹿人は、その名を胸の内で繰り返した。


 水の緒。

 水を結ぶもの。

 水の続き。

 あるいは、水に結ばれた者。


 書きたくなった。


 だが、書かなかった。


 水緒は、それを見透かしたように言った。


「書くなら、湖を見てからにしろ」


「はい」


「出雲を通ってきたな」


 真鹿人は顔を上げた。


「分かるのですか」


「お前の背が重い」


 佐那が真鹿人の背の文箱を見た。


「荷のことですか」


「荷ではない」


 水緒は言った。


「持ってきたもののことだ」


 真鹿人は、宇都志の言葉を思い出した。


 石ではなく、その重さを持って行け。


 どうやら、自分は本当に重さを持ってきてしまったらしい。


 水緒は続けた。


「出雲の神を、湖に沈めに来たのか」


「違います」


 真鹿人はすぐに答えた。


 その早さに、自分で驚いた。


「では、湖から出雲の神を探しに来たのか」


 今度は答えられなかった。


 水緒の目は静かだった。責めているのではない。ただ、問うていた。


 真鹿人は、ゆっくりと言った。


「そのつもりで来たのかもしれません」


 佐那が不安そうに真鹿人を見た。


 多加津は黙っている。


「出雲で、タケミナカタのことを聞きました。敗れ、逃れ、東へ向かった神。ただ逃げたのではなく、出雲が沈めず残したものを運んだ神だと」


 水緒は何も言わなかった。


「ですが、山へ入り、水を見て、石を見て、蛇を見ました。ここには、私が聞く前から水がある。神の名より先に、道がある。そう思い始めています」


 水緒は、ほんの少しだけ目を伏せた。


「思い始めているなら、まだよい」


「まだ、ですか」


「思い終えた者は、湖に嫌われる」


 佐那が小声で言った。


「湖は嫌うのですか」


「受け入れぬものを、嫌うと呼ぶなら」


 水緒はそう答えた。


 それから、左の道へ少し歩き、振り返った。


「来るなら、足元を見て来い。出雲の名で呼ぶには、まだ早い」


 その言葉を残し、水緒は霧の中へ入った。


 姿はすぐに薄れた。


 白い霧の中で、衣の影が揺れ、水音と混ざり、やがて見えなくなった。


 佐那は、しばらくその方を見ていた。


「今の方が、水緒殿ですか」


「そう呼ぶ者がいる、と言った」


 真鹿人は答えた。


「本名ではないのですか」


「分からない」


「また、分からないのですね」


「そうだ」


 真鹿人は、霧の中の道を見た。


 分からないことが増えている。


 大和を出た時、記録とは、分からないことを減らすためのものだと思っていた。名を集め、系譜に置き、物事の位置を定める。それによって国の形は見える。


 だが、旅をすればするほど、分からないことは減らなかった。


 むしろ増えた。


 兎は、兎だけではなかった。

 大国主は、譲った神だけではなかった。

 事代主の沈黙は、承諾だけではなかった。

 タケミナカタは、敗走だけではなかった。


 そして諏訪は、出雲の受け皿だけではない。


 そのことを、まだ湖を見る前に、山が告げていた。


 多加津が左の道へ足を向けた。


「行くぞ」


 佐那は慌てて荷を背負った。


「水緒殿について行くのですか」


「道を借りる」


「借りるなら、何か返すのですか」


 多加津は少し考えた。


「踏み荒らさぬことだ」


 佐那は、真面目な顔で頷いた。


 真鹿人も歩き出した。


 岩の前を通る時、彼はもう一度、その白い筋を見た。文字に見えた。蛇にも見えた。水の跡にも見えた。どれか一つにしたくなる自分を感じた。


 だが、しなかった。


 水が通った跡。

 蛇が触れた跡。

 人が見た印。

 どれも違わぬ。

 ひとつにすれば道を誤る。


 その言葉を、真鹿人は木簡には書かなかった。


 まずは、足元を見ることにした。


 霧の中、三人は山を上った。


 水音は、背後へ遠ざかったようで、なお近かった。石は濡れ、木の根は道を横切り、時折、草の下で何かが動いた。蛇か、虫か、水か、分からなかった。


 分からぬまま、道は続いた。


 やがて霧の薄いところへ出ると、遠くにわずかな明るさが見えた。


 湖ではない。


 まだ、ただの空の切れ目だった。


 だが、その下に、広い水が眠っているような気配があった。


 真鹿人は立ち止まらなかった。


 見える前に名を呼んではならない。


 出雲の名で呼ぶには、まだ早い。


 彼はその戒めを胸に置き、濡れた山道をさらに進んだ。


 空の木簡は、まだ空のままだった。


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