第一章 記録されざるものは、存在しない
源橋学院の正門の上には、文字が刻まれている。
古代語だ。父さんの手稿に何度も出てきた字体だから、僕でもなんとか読める――
「知識は力なり」
僕はしばらく、見上げたまま動けなかった。
読めないからじゃない。読めすぎたからだ。
その言葉の下にも、もう一行ある。
削られている。
削り方は丁寧で、普通の人間なら気づかない。でも石は覚えている。文字を刻んだ場所
は石の質が変わり、風化の速さも変わる。陽が斜めに差すと、削られた一行だけがわず
かに窪む。治らない古傷みたいに。
僕はその窪みをなぞって、残った画を読んだ。
「記録されざるものは、存在しない」
「存在しない」の三文字は推測だ。途中の文字は完全に消えている。だが句の長さと、
残った画の位置と、前半の文法が、他の読み方を許さない。
背中が冷たくなった。
この言葉が怖いんじゃない。
これを削るために、誰かが相当な手間をかけたからだ。
前世では、この言葉は罵倒だった。知識は権力に独占され、学術は体制の付属物になる
、という意味で。
この世界では、これが正門に刻まれている。校訓として。
どちらの読み方がよりひどいのか、僕にはまだ分からない。
「何を見てるんだ?」
背後から周明遠の声がした。
彼は布の包みを提げている――違う、僕の両親の包みだ。灰谷からここまでずっと提げた
まま、僕に返してくれない。
「門に文字が刻まれてます」
「ああ。学院訓だ」
「下にもう一行ありますよね」
周明遠は顔を上げた。本当に一瞬だけ見て、すぐ戻した。
「昔は別の文字だった」と彼は言った。「入れ替えた時、僕はまだ生まれてもいない」
「なぜ入れ替えたんです?」
「知らない」
答えが滑らかすぎる。知らない人間は、一度止まる。彼は止まらなかった。
彼は包みを僕に渡した。
「入れ。今日から君は、源橋学院・古文化と生物学専攻の見習いだ」
「見習い?」
「君はまだ十歳だ。正式入学は十五歳から。それまでは、僕について来い」
僕はうなずいた。
靴は新しい。彼が麓の町で買ったものだ。少し大きくて、二歩ごとに足の指を丸めて引
き戻さないといけない。
五日前、両親は生きていた。
三日前、僕は雪の中で木の皮をかじっていた。
今日、僕は校訓のある学院の門の前に立って、削られた古代語について教授と話してい
る。
普通なら、ここで泣くところだ。
泣かなかった。そのことのほうが、何よりも怖かった。
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廊下はインクと古い紙の匂いがする。
本を抱えて早足で歩く人、壁際で小声で言い争う人。誰も僕を見ない。
僕は歩きながら数えた。この廊下は二十三歩。左に七つの扉、右に六つ。
道を覚えるためじゃない。癖だ。父さんは「数だけは嘘をつかない」と言っていた。後
に、彼も嘘をつく人だと分かったから、この言葉も完全には正しくない。それでも、今
の僕にとって一番使い勝手のいい作業仮説ではある。
「研究室は二階だ」
周明遠は僕を一人の少年に引き合わせた。
「林新年。古文化と生物学、文献学専攻。君より二歳上だ。これから彼と一緒にやれ」
林新年は眼鏡をかけ、髪は少し乱れているが、襟はきちんとしていて、袖口の銀のボタ
ンは磨かれていた。
「君が陳臨。教授から聞いてる」
彼は少し間を置いた。
「君の両親のことは、残念だった」
「ありがとうございます」
こういう時、ほとんどの人は目を横に逸らす。彼は逸らさなかった。僕はそれを覚えて
おくことにした。
「来い」
彼は振り返らずに歩き出した。歩幅はまっすぐで、踵の音が均一だった。
研究室は広くない。四方が本だ。壁には星図が貼られ、細密に描かれている。隅に空の
机があり、その上に白紙の束とペンが置かれていた。
「ここが君の席だ」と林新年は言った。「教授の指示で、まず両親のノートを整理する
ことになってる」
僕は包みを机に置いて、解いた。
手稿。地図。資料サンプルがいくつか。小さなインク瓶。
それから、石が一つ。
僕は急いで読まなかった。
まず見たのは、構造だ。
七巻。どの巻にも目次と番号と相互参照がある。第一巻が問題提起、第二巻が文献レビ
ュー、第三巻が調査設計、第四巻から第六巻が観測データ、第七巻が考察。
第七巻は途中で止まっている。
それに、最初の六巻は修正だらけだ。第三巻の調査設計だけで三回書き直されている。
第一版は「魔力減衰は線形過程である」。第二版では「線形」が消され、「非線形」に
変わっている。第三版の余白には小さくこうある。
「データ点不足。結論は保留」
僕はその一行を長いこと見ていた。
この世界のほとんどの人は、逆をする。反例に出くわした時、まず元の仮説を守ろうと
する。理由を探して丸め込み、「例外的な事例はあるが、全体の傾向は依然として成立
する」と書き添えて、先に進む。
両親はそうしなかった。自分で書いたものを、自分で消した。
これはノートじゃない。完成された研究方法だ。
前世で僕が実験室で見てきたものより、ずっと整っている。
僕自身が書いたものも含めて。
「何をしてる?」
いつの間にか林新年が横に立っていた。僕が長いことペンを動かさないから、行き詰ま
っていると思ったらしい。
「構造を見てます」
「構造?」
「ここです」と僕は第三巻の修正痕を指した。「最初は減衰を線形と仮定した。でも後
で消して、非線形に変えてる。つまり調査中に反例に当たった。しかも無理に丸めず、
仮説そのものを変えた」
林新年が覗き込んで、眉を寄せる。
「普通だろ。問題が見つかったら直す」
「普通じゃないです」と僕は首を振った。「ほとんどの人は、まず自分の仮説を守る。
魔法使いギルドの論文を見てください。十本のうち八本は『例外はあったが、全体的傾
向は依然として成立する』と書いてある。ご両親は書かなかった。自分で書いたものを
消した」
林新年はしばらく黙っていた。
「君の両親も、そうしてた」
僕は顔を上げた。
「教授が言ってた。君の両親の研究記録は、源橋学院で最も完全なものだ。だが――」
彼は口をつぐんだ。
「だが、何です?」
「何でもない」
彼は机から手を引いた。
「整理しろ。分からないことがあったら聞け」
彼は自分の机に戻っていった。
僕は続けた。だが、僕の整理の仕方は他の人と少し違う。時系列順じゃない。論証チェ
ーン順だ。それぞれの結論の横に、こう書き添えていく――どのデータに依存しているか
、前提は何か、後に別の証拠で覆されていないか、研究全体の中でどこに位置するか。
第三巻まで来て、僕は手を止めた。
紙が違う。
第三巻の第七頁は、前後の二頁より白い。
新品という意味じゃない。妙に清潔な、質の違う白だ。前後の紙はもう古い黄色で、縁
が少し毛立っている。この頁の黄は、一段階薄い。
僕はその頁を持ち上げて、窓に透かした。
繊維も違う。前後の紙は光に当てると簀の目が見える。この頁にはない。この頁の繊維
は散っていて、漉き上げて均していない――別の製紙法だ。
僕は紙を平らに戻して、字を見た。
父さんには筆写の癖がある。一度インクに浸すと、十一文字書く。十一文字で筆を上げ
て、また浸す。だから原稿の各行の墨は、必ず濃い方から薄い方へ、一行ごとに一周期
で変化する。疲れていると周期が短くなる。幼い頃から見てきた。見飽きるほどに。
この頁は、一行目から最後の行まで、墨の濃さがまったく同じだ。
そして、どの行もきっかり十一文字。
一つも多くなく、一つも少なくない。
書いたんじゃない。写したんだ。
しかも、写した人間は手慣れている。字はほとんど同じで、僕の目には区別がつかない
。身体のほうが尻尾を出した――書く人間には呼吸と疲労がある。写す人間には、型しか
ない。
僕は座ったまま、指を紙の端に押し当てていた。
よし。この頁は父さんのものじゃない。それは分かった。
では次の問題だ。元々、何が書いてあったのか。
僕は第一巻の巻頭に戻り、目次を開いた。
目次は母さんの字だ。どの記録の後ろにも一行の要約がある。要約は母さんが原記録か
ら整理したもので、一番早く書かれている。そして――
そして第二巻、第四巻、第六巻で、それぞれ一度ずつ引用されている。
合計七か所。
僕は第一四八号の要約を開いた。
「第一四八号 魔力減衰速度 〇・〇四七」
そして第三巻第七頁に戻る。
そこにはこう書いてあった。
「第一四八号 魔力減衰速度 〇・〇二三」
半分近く違う。
僕は二枚を並べて、長いこと見ていた。
そして合点がいった――合点がいったのは、写した人間のほうだ。
彼は本文を変えられる。目次は変えられない。目次にある数字は、残り六巻で七回引用
されているからだ。完全に消すなら、七巻すべてを書き直して、墨も紙も製本も番号も
全部辻褄を合わせなければならない。
できない。だから彼は、一番大事な一頁だけを変えた。
つまり――この記録を消したかったんじゃない。
読んだ人間に、より小さな数字を見せたかったんだ。
窓の外を見た。陽はもう傾いていた。
僕はその頁を元通りに挟み、自分の白紙の束を開いて、一枚目にこう書いた。
「第一四八号:目次と本文が不一致。本文は本人の筆跡にあらず。筆写者は原本を見て
いる」
書いてから、僕は一瞬止まった。
僕が使ったのは「父」でも「母」でもない。「本人」だった。
僕はその二文字を二秒ほど見つめて、紙を裏返して、机に伏せた。
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午後、周明遠が来た。
彼はまず、僕が整理したものを見た。中身はめくらず、最初に僕の注記の付け方を見た
。長いこと。
「君は、自分が何をしているか分かっているか?」
「ノートの整理です」
「違う」と彼は首を振った。「君は知識の考古学をやっている。ほとんどの人は文献を
読むとき、結論を読む。君は、結論がどう生産されたかを読む」
彼は少し間を置いた。
「君の両親も、そうやって文献を読んでいた」
僕は答えなかった。別のことを考えていた。
「教授」
「ん?」
「このノートが学院に来てから、誰が読みましたか?」
周明遠の指が、机の縁で一瞬止まった。
本当に一瞬だ。見間違いかと思うくらい。
「多くの人間だ」と彼は言った。「学院の決まりで、収蔵前に三人が目を通す。登録、
目録、捺印」
「登録簿に名前はありますか?」
「ある」
「見られますか?」
「いいだろう」と彼は少し笑った。「明日、林新年に案内させろ」
彼は立ち上がり、袖を整えた。
「そうだ。君の両親のノート、読んだよ。よく書けていた」
扉まで行って、彼は振り返った。
「陳臨」
「はい」
「ここでは、まず一つ覚えろ」
「何をですか?」
「誰が嘘をついているか、見抜くことだ」
そう言う時の彼は、笑っていた。口調も軽い。今日の天気の話でもするみたいに。
扉が閉まってから、僕はもうしばらく座っていた。
それから、机に伏せておいた紙を裏返し、下に一行足した。
「問:誰が嘘をついているか。既知:教授の答えが速すぎた」
---
日が傾いた頃、廊下で誰かが叫んだ。
「陳臨! 教授が呼んでる!」
僕はペンを置いて立った。
扉の外に少女がもたれかかっていた。金髪、顎を上げている。手には石板。ぎっしり数
字が詰まっている。
「君が、灰谷から来たって子?」
「はい」
「マティルド。教授に呼ばれて、君を連れて来いって」
彼女は振り返らずに歩き出した。僕は追う。
歩くのが速い。ほとんど小走りだ。振り返らないし、雑談する気もない。
廊下は長い。三つ目の角で、彼女が口を開いた。
「君の両親の研究記録、源橋で一番完全なんだってね」
「はい」
「じゃあ知ってる? あの記録の中に、魔法使いギルドの公式記録と一致しない数値が
一組ある」
僕は足が止まりかけた。
「どれですか?」
「魔力減衰の速度」と彼女は言った。「君の両親の記録は、ギルドの公式値のほぼ二倍
。ギルドは測定誤差と言った。両親は直さなかった」
「なぜ、それを?」
彼女はようやく振り返った。友好的な目ではない。悪意でもない。どちらかと言えば――
確認。
「年表を計算してるから」
「年表?」
「人文歴史学。旧暦を王暦に換算する仕事」と彼女は石板を抱え直した。「換算には各
都市の公式観測記録を基準に使う。北境のところで、どう計算しても合わない」
彼女は前を向いて、歩き続ける。
「後で分かった。合わないのは年表じゃない。あの区間の観測記録のほうが、誰かに触
られている。丁寧に、数か所だけ」
僕は立ったまま動けなかった。
彼女は二歩進んで、僕が来ないのに気づいて止まった。
「どうしたの?」
「何でもないです」
僕は追いついた。
別のことを考えていた。
――丁寧に、数か所だけ。
――一番大事な一頁だけを変えた。
同じ手だ。
「君、名前は?」
「陳臨」
「陳臨」と彼女は復唱した。保存するみたいに。「思ったより、ましね」
「思ったより、率直ですね」
「それ、褒めてる?」
「いいえ」
「そ」
彼女は最後の角を曲がった。
「着いた。一人で入れ」
---
周明遠の机の上に、手稿が広げてあった。
「座れ」
僕は座った。
「これは君の両親が十年前、学院に提出した最後の報告書だ。読んでみろ」
短い。三頁。
一頁目が要約、二頁目がデータ表、三頁目が結論。
データ表の第一四八号の行には、こうある。〇・〇四七。
三頁目の末尾に、別のインクで小さく一行。
「ギルドが収録を拒否。理由:公式データと不一致。提案:調査中止」
「この一行は、誰が書いたんですか?」
「当時の学院長だ」と周明遠は言った。「この一行の後、君の両親は源橋を去った。一
か月後、灰谷で事件が起きた」
彼は少し止まった。
「偶然だと思うか?」
僕は黙っていた。
数えていた。
報告書は十年前に出された。ノートは両親と灰谷へ戻った。ならノートが改変された時
間は、報告書を出す前か、ノートが源橋に戻って来た後だけだ。
ノートが源橋に戻ったのは、いつだ?
僕が持ってきた。
今日の午後、開いたばかりだ。
――つまり、僕が来てから動いたんじゃない。
十年前だ。
十年前、ノートがまだ学院にあった時だ。
「教授」
「ん?」
「このノートが学院を離れた時、全部で何巻ありましたか?」
「七巻だ」
「報告書は? 控えはあるんですか、それともこれ一冊だけですか?」
周明遠は僕を見た。今度は止まった。まる二秒。
「これだけだ」
僕はうなずいた。
十分だ。孤本は信用できない――前世の指導教員の口癖だった。本人は決して信じていな
かったけれど。
一冊だけなら、これが原本だ。原本には〇・〇四七と書いてある。
そしてノートは〇・〇二三に書き換えられている。
書き換えた人間は、学院にあるほうを、ギルドの数字に合わせた。
ギルドのために、両親の記録を「修正」したんだ。
そしてその人物は、十年前に源橋にいた。原本を見ている。どの頁を変えるべきか知っ
ている。目次に触ってはいけないことも知っている。
僕はそれらを順番に並べて、胸の奥に押し込んだ。標本を箱に収めるみたいに。
「今日から、君は僕について来い」と周明遠は言った。
「はい」
「だが、先に一つ言っておく」
「何ですか?」
「君の両親の研究は、学術だけのものじゃない」
彼は僕を見た。窓の外はもう完全に暗く、部屋にはランプが一つだけ。灯りの下で、彼
の目は明るい。
「源橋学院は広い」と彼は言った。「だが、信頼できる人間は多くない」
「覚えておきます」
「もう一つ」と彼は言った。「君の両親のノートは、最終巻が書き終えられていない」
僕は待った。
「君が続きを書け」
---
研究室に戻ると、扉は半開きだった。
中から声がする。
「君はいつもそう。読み終わったらそこに置いて、もう見もしない。中のものが、一瞥
に値しないみたいに」
マティルドだ。冷たい。でも少し急いでいる。
「データが間違っているなら、値しない」
林新年の声。平坦だ。
扉の隙間から覗く。彼は机に向かい、《王国編年史》第三巻を広げ、脇に参考書を二冊
開いている。彼は本を閉じ、机の端へ押しやった。そしてもう見ない――すでに無効にな
った観測記録を、「無用」の欄に落とすみたいに。
「あれは孤本よ!」とマティルド。
「違う。うちに六冊ある」
「……君は――」
「それに第三巻には確かに問題がある。北境異族の移動時期が、古物学の層位と合わな
い」
「分かってる! それを言いに来たの! 年表を計算し終えて、君が正しいって分かっ
たの!」
……じゃあ、なぜまだ喧嘩してるんだ。
林新年が顔を上げた。
「なら、なぜ怒ってる?」
「君が――」マティルドは手に持った紙を握り、また緩めた。「君の話し方よ。君は説明
しない。結論だけ置いていく。私が何も読めないみたいに」
「そうは思ってない」
「じゃあ、なぜ毎回――」
「君なら読めると思ってるからだ」
沈黙。
「じゃあ、なぜもっと説明しないの?」
「説明したら、君は来なくなる」
マティルドが固まった。
「……何?」
「君は毎回、喧嘩しに来る」と林新年は言った。「注釈を返したいだけなら、置いて帰
ればいい」
「私は――」
「君は来る」と彼は言った。「毎回な」
また沈黙。さっきより長い。
そしてマティルドの声が低くなった。
「……君って、本当に嫌な奴」
「分かってる」
「分かってて、そうするの」
「君も同じだろ」
小さく鼻を鳴らす音。彼女が振り返り、扉の外の僕を見つけた。
一瞬固まる。耳の先が少し赤い。顔はまだ冷たい。
「聞いてた?」
「いいえ」
「嘘つき」
彼女は僕の肩の横をすり抜けて、行った。
僕は部屋に入った。林新年はまだ座っていて、あの本は机の端に押しやられたまま、戻
されていない。
彼は顔を上げた。
「戻ったか」
「ああ」
「教授は何て?」
「いろいろ」
「例えば?」
「例えば、誰が嘘をついているか見抜け、と」
林新年の手が止まった。しばらく僕を見ている。
「じゃあ、さっきのはどっちが嘘だったと思う?」
僕は考えた。
「どちらも嘘じゃない」
「なら、君は何を見てた?」
僕が見ていたのは別のことだ。二人とも本当のことを言っている。両方とも本当なのに
、噛み合わない――僕は今日、これに二度目に出会った。一度は紙の上で。一度は人間の
上で。
でも、言わなかった。
「あの本を見てました」と僕は言った。
「どの本だ」
「《王国編年史》第三巻」
彼は眉を上げた。
「君も、問題があると思うのか?」
「まだ読んでません。ただ聞きたいのは――第三巻で合わないっていう時期は、何年です
か?」
「七四二年だ」
「第七四二年」と僕は繰り返した。「その年で、僕の両親の研究がちょうど止まってい
ます」
林新年が顔を上げた。
今度は長いこと僕を見ていた。
「なぜ、それを知ってる?」
「今日の午後、七巻の日付を全部通して見たからです」と僕は言った。「最後の観測記
録は、七四二年の冬です」
部屋が静かになった。
窓の外はもう真っ暗だ。ランプの光が頁の上で揺れる。
林新年は長いこと黙って、それから口を開いた。さっきより低い声で。
「七四二年、北境に禁地がある」
「知ってるんですか?」
「本に書いてあった」と彼は、机の端に押しやった本を引き戻し、第三巻を開いた。「
だが、消されている」
彼は本を僕のほうへ押し出した。
その頁には、一行が墨で塗り潰されていた。強く塗ってあり、元の画はほとんど分から
ない。
僕は本を裏返し、光に当てて紙の背を見た。圧痕はない。
つまり、塗った人間は、引っ掻いてもいないし、突いてもいない。ただ墨を載せただけ
だ。
それも、読み取られまいとするみたいに、厚く、均一に。
「元は何て書いてあったんです?」
「分からない」と林新年は言った。「六冊とも同じだ」
僕は顔を上げた。
「……六冊?」
「うちには《王国編年史》が六冊ある」と彼は言った。「三つの版、二つの刷。この一
行は、六冊すべてで塗り潰されている」
ランプの芯が爆ぜた。
六冊。三つの版、二つの刷。
なら、誰かが塗ったんじゃない。
刷られた時点で、すでに塗られていたんだ。
誰かが一文を消して、それを全ての版から同時に消した。
僕はペンを取り、午後の紙の下にもう一条足した。
「第二号:七四二年、北境、禁地。《王国編年史》第三巻に見られるが、現存する全て
の版で塗り潰されている。六冊、塗痕は一致」
少し止まって、もう一行。
「推定:改変は印刷以前。すなわち、これは個人の手ではなく『版』である」
---
僕はランプを消し、研究室の長椅子に横になった。
三日前、僕は雪の中で木の皮をかじっていた。
今晩、僕は誰かに手を入れられた記録を二つ、枕にして眠る。
眠れないと思っていた。
実際には、ぐっすり眠れた。
そのことのほうが、昼に見つけた何よりも、僕を不安にした。




