第5話 隣国から届いた採用通知
王宮を去った翌朝、セシルは久しぶりに目覚ましの鐘が鳴るまで眠っていた。
いつもなら、夜明け前に起きて手帳を確認している。王宮へ向かう日の朝は、前日のうちに整理した書類をもう一度読み返すのが習慣だった。
ところが今日は、起きてすぐにする仕事がない。
寝台の上でしばらく天井を眺めた後、セシルは枕元の手帳に手を伸ばした。
十四日後の予定欄に書いた『一日、休む』という言葉が、今日の日付のところにある。
「……本当に、何もしなくていいのね」
誰に聞かせるわけでもなく呟いてから、セシルは手帳を閉じた。
朝食の席で、父は娘の顔を見るなり眉を上げた。
「今朝はよく眠れたようだな」
「はい。おかげさまで」
「王宮へ行かなくなったのだから、しばらくは屋敷でゆっくりしなさい。今後のことを急いで決める必要はない」
「ありがとうございます、お父様」
父は頷いたが、すぐに少し気まずそうな顔になった。
「その……婚約の件だが」
「もう正式に解消されました。お父様が気になさることではありません」
「しかし、七年間も準備をしてきたのだぞ。お前がどれほど努力していたか、私も知っている」
セシルは食卓の上の茶器へ目を落とした。
父が自分のために怒ってくれていることは分かる。王家との補償交渉についても、父は娘が不利にならないようにと気を配ってくれていた。
「私も、まだ寂しい気持ちはあります」
そう答えると、父は何も言わずに続きを待った。
「ですが、今すぐ次のことを決めたいわけではありません。少し考える時間をいただければと思っています」
「もちろんだ。いつまででも構わん」
「……いつまでも、というわけにはまいりませんけれど」
セシルが笑うと、父もようやく笑みを浮かべた。
朝食の後、セシルは庭を歩いた。
秋の花が咲く小道をゆっくり進み、池の近くにある長椅子に腰を下ろす。
いつもなら、庭を散歩する時でさえ頭の中で仕事の段取りを考えていた。
今日は何も考えなくてよいはずなのに、気づけば明日の予定を探している。
落ち着かない。
仕事をしていないと、何か大切なことを忘れている気がするのだ。
セシルは息をついて、膝の上に置いた封筒を見た。
昨日、ルシアンから渡されたものだった。
王宮を離れたばかりなので、すぐに応募するつもりはなかった。ただ、どのような仕事があるのか興味はある。
封筒を開くと、数枚の募集案内が入っていた。
エルフェルト公益財団。
隣国で、救貧事業や地方の生活支援を行っている組織らしい。
募集されているのは、事業調整を担当する職員だった。
複数の部署や施設と連絡を取り、支援物資の配分計画や進行状況を管理する。必要な資格よりも、実務経験と調整能力を重視する、と書かれている。
セシルは文章を何度も読み返した。
王宮で行ってきた仕事と、よく似ている。
しかし、決定的に違うことがあった。
そこには、王太子妃候補という身分は求められていない。
必要とされているのは、あくまで仕事をする人間だった。
「……面白そう」
口にした瞬間、セシルは自分で驚いた。
面白そうだと思ったから、その仕事をしてみたい。
そんな単純な理由で何かを選ぼうとしたのは、いつ以来だろう。
その日は結局、募集案内を何度も眺めて過ごした。
応募を決めたのは、三日後だった。
父に相談すると、最初はひどく驚かれた。
「隣国へ行くのか?」
「採用されれば、ですが」
「この国でも仕事は探せるだろう。わざわざ遠くへ行かなくても」
「そうかもしれません。ただ、こちらの仕事に興味があるのです」
セシルは募集案内を差し出した。
父はしばらく目を通し、やがて書面から顔を上げた。
「殿下とのことがあったから、王都を離れたいのではないのか」
その問いには、すぐに答えられなかった。
王宮での生活を忘れたいという気持ちが、まったくないわけではない。
しかし、それだけなら領地へ戻ればよい。隣国へ行く必要はなかった。
「それも、少しはあると思います」
セシルは正直に答えた。
「でも、それだけではありません。私、自分が何をできるのか、王太子妃候補という立場を離れて確かめてみたいのです」
父は娘を見つめた。
やがて、深いため息をついた。
「……お前は本当に、母親に似て頑固だな」
「そうでしょうか」
「ああ。言い出したら、納得するまでやってみないと気が済まないところがそっくりだ」
父は書面を畳んで返した。
「ただし、先方の身元や職務条件はきちんと確認しなさい。王家との婚約が終わったからといって、伯爵家の娘であることに変わりはないのだから」
「はい。もちろんです」
こうして、セシルは応募書類を送ることになった。
王宮での職務経験は、守秘義務に触れない範囲で記載した。扱った資料の具体的な内容や、外交上の機密につながる事項は含めていない。
実績を誇張することもしなかった。
自分が担当したこと、各部署の職員たちと協力して進めたこと、その中で工夫したことを、できるだけ正確に書いた。
書類を提出してから十日ほど経った頃、一次選考を通過したという通知が届いた。
次は実務課題と面接だという。
セシルは手紙を読んで、胸が少し高鳴るのを感じた。
王太子妃教育でも数えきれないほど試験を受けてきたが、今回は事情が違う。
誰かの妻になるためではなく、自分自身の仕事を得るための試験だ。
緊張しないわけがなかった。
面接と実務課題は、エルフェルト王国の王都にある財団本部で行われた。
父の手配した付き添いの者と共に国境を越え、セシルは初めて訪れる街の景色を馬車の窓から眺めた。
石造りの建物が並ぶ通りには、商人や職人たちが行き交っている。ローデン王国の王都と似ているようで、どこか雰囲気が違った。
財団本部は、立派ではあるが華美ではない建物だった。
案内された部屋には三名の面接官が座っており、その中にルシアンの姿はなかった。
当然のことだと分かっていたが、セシルは少しだけ安堵した。
知り合いがいるから評価されるのではない。自分の力で選考を受けたいと思っていたからだ。
「では、こちらの課題をご覧ください」
面接官の一人が差し出したのは、複数の支援施設へ冬物資を届けるための計画書だった。
物資の数量、輸送日程、各施設の希望が記されている。
ただし、すべての希望を満たすだけの物資は用意されていなかった。
「限られた数量を、どのように配分しますか」
セシルはすぐに答えようとして、思いとどまった。
王宮であれば、過去の記録や担当者の判断を参考にできた。しかし、ここにはそれがない。
目の前の資料だけで、各施設の事情を完全に理解することはできなかった。
「まず、確認させていただきたいことがございます」
面接官が顔を上げた。
「どうぞ」
「各施設で現在保有している物資の数量と、次回の納入予定日は分かりますでしょうか。また、寒さの厳しい地域と、比較的温暖な地域で必要量が異なる可能性があります」
「それらの情報は、まだ揃っていないものとします」
「では、現時点で配分を確定するのは避けたいと考えます」
面接官の一人が眉を上げた。
「決めない、ということですか?」
「はい。ただし、何もしないという意味ではございません。まず緊急性の高い施設への最低限の配分を仮に設定し、不足している情報を集めたうえで残りを決定します」
「納入日まで時間がない場合は?」
「確認が間に合わない施設については、暫定的な配分を行う必要があります。その場合も、後から変更できるように記録を残しておきます」
面接官たちは何かを書き留めた。
セシルはその様子を見ながら、自分の答えが正しいのかどうか気になった。
けれど、分からないことを分かったふりはしたくなかった。
面接が終わった時には、緊張のあまり肩が凝っていた。
建物を出ると、同行していた付き添いの者が温かな茶を買ってきてくれた。
「お疲れ様でした、お嬢様」
「ありがとうございます」
「いかがでしたか?」
「……難しかったです」
そう答えてから、セシルは少し笑った。
「でも、楽しかったです」
採用通知が届いたのは、それから一週間後だった。
正式な書面には、事業調整職員として採用すること、試用期間中の待遇、職務内容、勤務地などが明記されていた。
セシルは何度も読み返し、最後に小さく息をついた。
嬉しかった。
王宮で褒められた時とは、少し違う喜びだった。
自分がこれから働く場所を、自分で選ぶことができたのだ。
それから数日後、セシルは必要な手続きを終え、エルフェルト王国へ移った。
住まいは財団から紹介された小さな借家で、王宮の近くにあった伯爵家の屋敷と比べればずっと質素だった。
けれど、窓からは街路樹が見え、朝になると近くのパン屋からよい香りが漂ってくる。
セシルは、その部屋が気に入った。
初出勤の日、財団本部の受付で名前を伝えると、職員が笑顔で案内してくれた。
「アーデン様ですね。お待ちしておりました」
「本日からお世話になります。よろしくお願いいたします」
新しく渡された職員証には、セシル・アーデンという名前と、事業調整担当という役職だけが記されていた。
王太子妃候補という肩書はない。
そのことが、妙に新鮮だった。
案内された事務室には、仕事をしている職員たちが十数名ほどいた。机の上には書類が積まれ、壁には各事業の進行状況が掲示されている。
セシルは一通り説明を受け、自分の机へ向かった。
机の上には、最初に担当することになった支援物資の輸送計画が置かれていた。
彼女は書類を開き、日程表と担当部署の一覧に目を通す。
まだ慣れない場所ではあるが、仕事内容には見覚えがある。
「まずは、こちらの部署へ確認を取った方がよいかしら……」
そう呟いて立ち上がろうとしたところで、隣の席の職員から声をかけられた。
「アーデンさん、その件は担当者同士で確認することになっていますよ」
セシルは足を止めた。
「そうなのですか?」
「はい。調整担当の方には、全体の進行を見ていただきたいので」
職員は不思議そうな顔をした。
「もしかして、以前のお仕事では違ったのですか?」
セシルは手元の書類を見下ろした。
王宮では、自分が間に入って確認するのが当たり前だった。
けれど、ここではそれが当たり前ではないらしい。
「……そうですね。少し、違っていたかもしれません」
新しい仕事を始めたばかりだというのに、早くも覚え直さなければならないことがありそうだった。




