第4話 王宮を去る朝
引き継ぎの最終日を迎えた朝、セシル・アーデンはいつもより早く目を覚ました。
七年間通い続けた王宮へ、今日を最後に仕事のために足を運ぶことはなくなる。
その実感が湧くかと思っていたが、朝食を済ませて馬車に乗り込んだ時も、考えていたのは最後の確認事項だった。
救貧局への引き継ぎ記録、王宮行事の担当者からの受領書、外国使節の受け入れに関する日程表。それらはすべて各部署の管理下に移されている。残っているのは、手続きが完了したことを責任者と確かめ、記録を正式に閉じる作業だけだった。
車窓の向こうで、朝の王都が動き始めていた。焼きたてのパンを運ぶ荷車が通り、店先では商人たちが品物を並べている。
セシルは、その光景をこんなにゆっくり眺めたことがあっただろうかと思った。
いつもなら、馬車の中でも仕事の予定を確認していたからだ。
王宮の事務棟に着くと、会議室にはすでに数名の職員が集まっていた。
「おはようございます、セシル様」
救貧局の担当者が立ち上がり、軽く頭を下げた。
「おはようございます。十四日間、お世話になりました」
「こちらこそ。おかげで必要な記録を整理できました」
職員は机に置いてあった一枚の書類を差し出した。
「毛布の納入契約についても、昨日、正式な承認手順が確定しました。会計局が予算の確認を行い、救貧局長が契約内容を承認する形です」
「ありがとうございます。納入先への連絡は?」
「担当者が昨日のうちに済ませています。予定していた数量も変更ありません」
セシルは書類に目を通してから、ほっと息をついた。
引き継ぎの初日に問題になった、二つの部署の認識の食い違い。それが当事者同士の話し合いによって解消されたのだ。
以前の自分なら、双方の意見を聞いて結論を取りまとめていただろう。
今回、セシルが行ったのは、問題の所在と確認が必要な事項を明確にすることだけだった。
「私が間に入らなくても、きちんと決まるのですね」
思わず口にすると、職員が不思議そうに笑った。
「もちろんです。今までセシル様が調整してくださっていたので、私どもも任せきりになっていたところはありますが」
「そうでしたか」
「今回、自分たちで決めなければならないと分かって、かえって勉強になりました」
セシルは返事をしようとして、少し言葉を探した。
役に立てたことを喜ぶのは簡単だった。しかし、自分が長い間引き受けていた仕事の中には、本来なら担当部署同士で進めるべきものもあったのだと気づかされる。
そのことを認めるのは、少しだけ悔しかった。
「私にも、改善できたことがあったのでしょうね」
「いえ、そういう意味では」
「分かっております。責められたと思ったわけではありませんよ」
セシルが微笑むと、職員も安心したように表情を緩めた。
午前中の会議では、各部署から順番に引き継ぎの完了報告が行われた。
王宮行事の担当者は、今後の催しについて職員が直接調整する手順を説明した。外国使節の受け入れについては、外交局との連絡窓口が正式に指定されている。
先日アレクシスが計画した商業組合との懇親会も、担当部署の手によって準備が進んでいた。日程は当初の予定から一日変更されていたが、参加者にはすでに連絡済みだという。
セシルは、その報告を聞いて少し嬉しくなった。
自分が断った仕事が、問題なく進んでいる。
考えてみれば、当然のことなのかもしれない。
王宮には優秀な職員が大勢いる。自分がいなくなった途端、何もかもが止まってしまうような場所であってほしくはなかった。
「これで、すべての確認が終わりました」
会議の進行を務める事務官が、最後の書類を閉じた。
「各部署から受領書も提出されています。残るのは王宮の正式な承認のみです」
セシルは手元の記録を確認して、一礼した。
「皆様、十四日間ありがとうございました。今後の業務が滞りなく進むことを願っております」
職員たちからも礼が返された。
引き継ぎのために通い続けた会議室を出ると、廊下でリディアが待っていた。
「セシル様」
彼女は両手で小さな包みを抱えていた。
「今日で最後だと伺ったので、どうしてもご挨拶したくて」
「リディア様。お勉強の方はいかがですか」
「難しいことばかりです。でも、先生方に教えていただきながら、少しずつ覚えています」
リディアは恥ずかしそうに笑った。
「以前は、何でもセシル様に尋ねればよいと思っていました。けれど、それでは私が何も覚えられませんものね」
「ご自分で学ぼうと思われるのは、よいことだと思います」
「ありがとうございます。あの……これを」
差し出された包みには、小さな菓子が入っていた。
「私が作ったものではないんです。王都のお店で買っただけですけれど、お礼をお伝えしたくて」
「お気遣いありがとうございます」
受け取ろうとすると、リディアが少し俯いた。
「私、セシル様がこんなにたくさんのお仕事をしていらしたなんて、知りませんでした」
「知らなくても当然です。殿下のおそばにいらっしゃるようになったばかりなのですから」
「でも、知らないままでいてよいわけではありませんでした」
その言葉に、セシルは彼女の顔を見た。
最初に会った時、リディアは王太子に愛されることを何よりも喜んでいた。その気持ちは、今も変わっていないのだろう。
けれど、十四日間の間に彼女が学んだこともあるらしい。
「これからのことは、リディア様ご自身でお決めになることです」
セシルは包みを受け取って微笑んだ。
「私も、自分のことを決めなくてはなりませんので」
リディアは少し寂しそうな顔をしたが、それ以上引き留めることはなかった。
午後、セシルは最後の報告のため、王太子の執務室を訪れた。
アレクシスは机に向かって書類を読んでいたが、彼女が入室すると顔を上げた。
「引き継ぎが終わったそうだな」
「はい。各部署から受領の確認をいただきました。最終報告書も事務局へ提出しております」
「随分と念入りだったようだ」
「今後、担当者が困らないようにするためです」
アレクシスは報告書の控えを手に取り、軽く目を通した。
「君は昔から、こうした仕事が得意だったな」
「多くの方に教えていただきました」
「それでも、君ほど几帳面な人間は珍しい」
褒め言葉なのだろう。
七年前のセシルなら、きっと嬉しかったと思う。
しかし今は、その言葉に何と答えればよいのか分からなかった。
アレクシスは書類を置いた。
「婚約解消についても、王家とアーデン伯爵家の協議がまとまった。正式な承認は今日付で行われる」
「承知しております。父から伺いました」
「これで君も、ようやく自由になるわけだ」
アレクシスはそう言って、どこか安堵したように笑った。
セシルは目を伏せた。
自由になる。
確かに、そうなのだろう。
けれど、七年間続けてきた関係が終わることを、その一言で片づけられるほど、彼女の気持ちは単純ではなかった。
「殿下」
「何だ?」
「これまで、お世話になりました」
セシルは深く頭を下げた。
「王太子妃となるために学ばせていただいたことは、今後も私の糧になると思います」
「そうか。それはよかった」
「どうか、お体にお気をつけて」
顔を上げると、アレクシスはわずかに意外そうな表情をしていた。
「君もな。今後のことは、父君と相談するとよい」
「はい。失礼いたします」
セシルはそれ以上言葉を重ねず、執務室を出た。
これが最後の挨拶なのだと思うと、胸の奥が重くなった。
恨みたいわけではない。
ただ、もう少し違う別れ方があったのではないかという思いは、簡単には消えなかった。
王宮の正門へ向かう途中、セシルはいつもの廊下を通った。
七年前、王太子から「一緒によい国を作ろう」と言われた庭園が、窓の外に見える。
あの時の自分は、きっと幸せだった。
その気持ちまで間違いだったことにしたくはない。
窓際で足を止めたセシルは、しばらく庭を眺めてから、静かに歩き出した。
正門を出ると、迎えの馬車が待っていた。
御者が扉を開けてくれたので、セシルは礼を言って乗り込もうとした。
ところが、名前を呼ばれて振り返った。
「アーデン嬢」
ルシアン・ヴェルナーが、通りの向こうから歩いてくるところだった。
「ヴェルナー様。お久しぶりです」
「と言っても、四日ぶりですが」
彼の真面目な顔を見て、セシルは笑ってしまった。
「そうでしたね」
「今日が引き継ぎの最終日だと伺いました。お疲れ様でした」
「ありがとうございます。無事に終えることができました」
「では、明日からはお休みですか」
「はい。まずは一日、何も予定を入れずに過ごそうと思っております」
「それはよい考えですね」
ルシアンはそこで一度言葉を切り、少し考えるように彼女を見た。
「実は、お渡ししたいものがあります」
差し出されたのは、小さな封筒だった。
セシルが首を傾げると、ルシアンは続けた。
「エルフェルト王国に、公益事業を行っている財団があります。現在、事業調整を担当する職員を募集しているそうです」
「公益財団、ですか」
「ええ。以前、一緒に仕事をしたことがあるのですが、担当者が不足していると聞きまして」
セシルは封筒を受け取った。
「どうして、私に?」
「あなたが、こうした仕事に向いていると思ったからです」
ルシアンの返事は、驚くほど簡潔だった。
「ただし、私には採用を決める権限はありません。通常の選考がありますし、隣国で暮らすことになりますから、簡単な話ではないでしょう」
「そうですね……」
「ですから、興味がなければ捨てていただいて構いません」
セシルは封筒を見下ろした。
今までの自分なら、次に何をするかは誰かから与えられるものだと思っていた。
婚約者としての仕事を終えたばかりで、まだ新しい人生のことなど考えられない。
けれど、こうして選択肢を示してもらえたことが、少し嬉しかった。
「ありがとうございます。考えてみます」
「ええ。まずは予定どおり休んでください」
ルシアンは軽く会釈し、その場を離れようとした。
「あの、ヴェルナー様」
「はい?」
「以前、お食事に誘っていただいたことがございましたね」
「ありましたね」
「その時は、お断りしてしまって申し訳ございませんでした」
「事情があったのでしょう。気になさる必要はありません」
セシルは少し迷ってから、封筒を胸元に抱えた。
「もし、また機会がございましたら……」
そこまで言って、急に恥ずかしくなった。
自分から食事の話を持ち出すなど、今までしたことがない。
ルシアンは彼女の言葉を待っていたが、やがて何かを察したように微笑んだ。
「では、その機会を楽しみにしています」
セシルは返事の代わりに、一礼した。
馬車へ乗り込むと、窓の向こうでルシアンが軽く手を上げた。
セシルも小さく手を振り返す。
馬車が走り出すと、王宮の門が少しずつ遠ざかっていった。
思っていたよりも、寂しさはあった。
けれど、胸の中にあるのはそれだけではない。
七年間、誰かの予定で埋め尽くされていた手帳には、明日一日、何の予定も入っていない。
そして、その先の予定はまだ白紙だった。
セシルは封筒を膝に置き、窓の外を眺めた。
今までなら、白紙の予定表を見て不安になっていたかもしれない。
けれど今日は、その空白が少しだけ楽しみに思えた。




