第3話 最後のお仕事はお断りします
引き継ぎが始まって三日目の朝、セシルのもとに王太子からの呼び出しが届いた。
午前中は救貧局との確認作業が予定されていたため、指定された時刻には行けないと伝えたところ、先方から午後で構わないという返事があった。
以前なら、殿下から呼ばれれば予定を変更していただろう。
けれど今は、引き継ぎを終えることが自分の仕事だ。せっかく関係部署の職員たちが時間を空けてくれているのに、理由も分からない呼び出しで会議を延期するわけにはいかなかった。
セシルは予定どおり救貧局での確認を済ませ、昼食の後、王太子の執務室へ向かった。
「セシル、待っていたぞ」
入室すると、アレクシスは机の上に広げた紙を指差した。
「来週、東部の商業組合の代表者たちが王都へ来る。ちょうどよい機会だから、王宮で小規模な懇親会を開こうと思っているんだ」
セシルは差し出された書類に目を通した。
参加予定者は十数名。王宮で使う小広間と軽食を手配し、王太子自身も出席する計画らしい。
「商業組合の皆様をお招きするのですね」
「ああ。今後の取引について、直接話すよい機会になるだろう」
その考え自体は理解できた。
実際、商業組合との関係を深めておくことには意味がある。王都に滞在する予定があるのなら、招待を検討する価値もあるだろう。
しかし、セシルは書類の作成日を見て、小さく首を傾げた。
「こちらは昨夜作成された計画書でございますか」
「そうだ。今朝、担当の者と相談してまとめた」
「では、まだ正式な開催は決まっていないのですね」
「必要な準備が整えば、すぐにでも決められる。君には会場や招待状、食事の手配を頼みたい」
セシルは書類を机に戻した。
「申し訳ございません。こちらの業務はお引き受けできません」
アレクシスは、すぐには言葉の意味を理解できなかったようだった。
「……何だって?」
「新たな懇親会の準備については、現在の引き継ぎ業務に含まれておりません。王宮行事の担当部署へご依頼いただけますでしょうか」
「君は以前から、そのような仕事をしていただろう」
「はい。ですが、現在は既存業務の引き継ぎを行っております」
アレクシスは椅子の背にもたれ、少し不満そうに眉を寄せた。
「たかが十数人の懇親会だぞ。大がかりな式典でもあるまいし、それほど負担にはならないだろう」
「準備そのものは、担当部署で対応できると思います。ただ、招待状を出す前に、先方の予定と王宮側の受け入れ体制を確認する必要がございます」
セシルは計画書の一部分を示した。
「例えば、この日には商業組合の代表者のうち、お二人が別の会合に出席される予定です。また、使用を希望されている小広間は、翌朝から設備の点検が入ると聞いております」
「それなら、日程を変えればよいではないか」
「その調整も、王宮行事の担当部署で行えます。私が引き受けなければ進められないお仕事ではございません」
アレクシスは少し黙り込んだ。
セシルは、その沈黙を急かさなかった。
これまでなら、殿下が困った顔をした時点で代案をいくつか示し、必要な部署へ自分から連絡していた。
その方が早く話が終わるし、殿下の機嫌を損ねずに済む。
しかし、その方法を続ければ、婚約解消後も同じことを求められるだろう。
「君は、そこまで私の頼みを断りたいのか」
アレクシスの声には、苛立ちよりも戸惑いが混じっていた。
「断りたいのではございません。今回の私の役割が、引き継ぎに限られているためです」
「以前の君なら、こんなことは言わなかった」
「以前は、殿下の婚約者でございましたので」
セシルはそこで一度言葉を区切った。
同じことを何度も説明するのは、できれば避けたかった。殿下を責めたいわけでもないし、今さら自分の気持ちを理解してほしいと訴えるつもりもない。
ただ、これまでの関係が終わるのなら、仕事の関係も変わる。それを曖昧にしたくなかった。
「殿下。婚約解消のお申し入れを受け入れたのは、私自身の判断です。その後の引き継ぎも、責任を持って行います。ですが、新たにお仕事をお引き受けすることまで、お約束したわけではございません」
「……そうか」
アレクシスは机の上の書類へ視線を落とした。
「ならば、この件は行事担当の者に任せよう」
「ありがとうございます。担当部署へお渡しする際には、こちらの計画書をそのままお使いいただけます」
セシルが頭を下げると、アレクシスは小さく手を振った。
「もうよい。引き継ぎに戻ってくれ」
「失礼いたします」
執務室を出たセシルは、廊下を少し進んだところで歩みを緩めた。
断ること自体は、難しくなかった。
今回の取り決めに照らせば、自分が引き受けるべき仕事ではないと明確に分かっていたからだ。
それなのに、胸の奥には落ち着かない感覚が残っている。
殿下が困っているのに何もしなかった。
その事実が、どうにも気になってしまう。
セシルは抱えていた書類を持ち直し、午後の引き継ぎ会議が行われる事務棟へ向かった。
廊下の角を曲がったところで、見覚えのある女性が立っていた。
「セシル様」
リディアだった。
淡い黄色のドレスを着た彼女は、手に数枚の書類を持っている。
「今、殿下のお部屋にいらっしゃいましたよね」
「はい。少しお話がございました」
「もしかして、来週の懇親会についてでしょうか」
「ご存じなのですね」
「私も殿下から聞きました。商業組合の方々をお招きするのは、よいことだと思うんです。でも、準備については行事担当の方にお願いすることになったと……」
リディアは困ったように笑った。
「私、殿下のお力になれたらと思って、招待状の文面を考えていたんです。けれど、先に担当の方へ確認した方がよいのですよね」
「そうですね。正式な招待状には決められた書式もございますので、担当の方にご相談なさるのがよいと思います」
「分かりました。ありがとうございます」
素直に頷くリディアを見て、セシルは少し安心した。
彼女には、仕事を覚えようという意欲がある。
ただ、何を誰に尋ねればよいのか、まだ分かっていないだけなのだろう。
「セシル様は、そういうことを全部ご存じなのですね」
「七年間、教えていただきましたから」
「でも、覚えることが多くて大変そうです。私、昨日教わった部署のお名前も、まだ全部は覚えられていなくて」
「最初から覚えている必要はございません。どこに確認すればよいか分かることの方が大切です」
リディアは手元の書類を見下ろした。
「私にも、できるようになるでしょうか」
以前のセシルなら、大丈夫だと励ましたかもしれない。
しかし、王太子妃としての仕事には、本人の努力だけではどうにもならないこともある。
「分からないことを分からないとおっしゃるのは、大切なことだと思います。私も、知らないことは今でもございますから」
「セシル様にも、ですか?」
「ええ。例えば、今朝の救貧局の会議でも、新しい物資の保管方法について教えていただきました」
リディアは目を丸くした後、ほっとしたように笑った。
「そうなんですね。なんだか、少し安心しました」
彼女は礼を言って立ち去った。
セシルはその後ろ姿を見送りながら、昨夜までなら考えなかったことを思った。
リディアがどのような王太子妃になるのかは、これから彼女自身が決めることだ。
自分が代わりにすべてを整えてあげる必要はない。
それは少し寂しいようでもあり、肩の荷が下りるようでもあった。
午後の引き継ぎは予定どおり進んだ。
王宮行事に関する業務記録を担当部署へ渡し、進行中の案件と今後の確認事項を整理する。
十数名規模の懇親会であれば、担当職員たちが問題なく準備できるだろう。セシルも、以前から彼らの仕事ぶりを知っている。
会議の終わりに、行事担当の職員が尋ねた。
「セシル様、今朝殿下からお話のあった懇親会ですが、こちらで準備を進めることになりました。何か注意しておいた方がよいことはございますか?」
「会場の点検予定と、招待客の方々の日程をご確認ください。計画書に記載されている内容ですので、まずはそちらをご覧いただければ」
「承知しました。あとは私どもで進めます」
職員はそう言って、慣れた手つきで書類をまとめた。
その姿を見て、セシルは自分が必要以上に心配していたことに気づいた。
彼らは元々、自分の仕事をきちんとできる人たちなのだ。
セシルが間に入らなければ何も進まないわけではない。
むしろ、これまでは頼まれるたびに先回りしてしまい、職員たちが直接調整する機会を減らしていたのかもしれない。
会議が終わる頃には、窓の外が夕暮れの色に変わっていた。
セシルは記録簿を所定の棚へ戻し、机に残った紙を確認してから事務棟を出た。
まだ引き継ぎ期間の三日目だというのに、今日は一日が長く感じられる。
仕事を断るという行為が、これほど気力を使うものだとは思わなかった。
いつものように王宮の正門へ向かっていると、通路の先から一人の男性が歩いてきた。
「アーデン嬢」
ルシアン・ヴェルナーだった。
昨日の会議で見た濃紺の上着ではなく、今日は少し簡素な外出用の服を着ている。
「ヴェルナー様。本日も王宮へいらしていたのですか?」
「ええ。使節団の日程について回答が届いたので、外交局へ報告してきたところです」
「ありがとうございます。変更の件はいかがでしたか?」
「歓迎行事の開始を一時間早める案で、先方の了承が得られました。正式な返答は明朝、王宮の担当者へ届けます」
「それなら安心いたしました」
セシルが微笑むと、ルシアンは小さく頷いた。
「ところで、昨日お尋ねしたことは考えていただけましたか」
「昨日の……得意な仕事について、でしょうか」
「はい」
セシルは少し困った。
仕事を終えると、次の仕事について考えてしまう。自分が何をしたいのかを落ち着いて考える時間は、今日もなかった。
「申し訳ございません。まだ答えが出ておりません」
「急いで答えていただくような質問ではありませんよ」
「そうなのですが、何か答えを見つけなければと思ってしまって」
ルシアンは、わずかに眉を上げた。
「あなたは、質問をされると必ず正解を出そうとなさるのですね」
「……そうでしょうか」
「今のところは、そのように見えます」
セシルは反論しようとして、思い当たることが多すぎるのに気づいた。
王太子妃教育では、間違えた答えを出せば理由を説明し、正しい手順を覚え直した。公務でも、質問にはできる限り正確に答えるよう心がけてきた。
けれど、自分の好きなことや得意なことに、正解があるのだろうか。
「少し、考えすぎていたのかもしれません」
「考えること自体は悪くありません。ただ、仕事の時間が終わっても、仕事のように考えなくてよいのではありませんか」
ルシアンはそう言ってから、セシルの手元を見た。
「ところで、これからお帰りですか?」
「はい。今日は予定していた仕事が終わりましたので」
「では、夕食はこれから?」
「ええ。屋敷に戻ってからいただくつもりです」
「昼食は召し上がりましたか」
唐突な質問に、セシルは瞬きをした。
「もちろんです」
そう答えたものの、よく考えると昼食は仕事の合間に小さなパンを一つ食べただけだった。
朝から会議が続き、昼食の時間を十分に取れなかったのだ。
ルシアンは彼女の顔を見て、少し疑わしそうな表情をした。
「その返答は、どうも自信がなさそうですね」
「パンはいただきました」
「それだけですか?」
「……はい」
「なるほど」
ルシアンは一度考え、通路の先を示した。
「王宮の外に、外交官もよく利用する小さな食堂があります。夕食には少し早いですが、軽いものなら出してもらえるはずです」
「食堂、ですか?」
「ええ。私もこれから立ち寄るつもりでした。よろしければご一緒しませんか」
セシルは驚いた。
今まで殿方から食事に誘われることはあっても、そのほとんどは公的な会食だった。
仕事帰りに食堂へ行くというのは、経験がない。
「ですが、私がご一緒してもよろしいのでしょうか」
「もちろん。とはいえ、元王太子妃候補のお立場では、周囲の目が気になりますか」
セシルは思わず黙った。
確かに、王家との婚約解消はまだ正式に成立していない。今の段階で隣国の外交官と二人きりで食事をすれば、余計な噂が立つ可能性はある。
「……申し訳ございません。お気持ちは嬉しいのですが、今は控えた方がよいと思います」
「そうですね。私の配慮が足りませんでした」
ルシアンはあっさり引き下がった。
そのことに、セシルは少し意外な気持ちになった。
誘いを断ったのだから、多少は気分を害されるかもしれないと思っていたのだ。
「ですが、ひとつだけ忠告してもよろしいですか」
「何でしょう」
「仕事を終えた後くらい、きちんと食事をなさってください。どれほど優秀な方でも、空腹ではよい判断ができません」
真面目な顔で言われたので、セシルは思わず笑ってしまった。
「まるで、王太子妃教育の先生のようなお言葉ですね」
「それは、褒められているのでしょうか」
「どうでしょう。私の先生は、なかなか厳しい方でしたから」
ルシアンも少しだけ笑った。
「では、悪い意味ではないと受け取っておきます」
二人は王宮の正門まで一緒に歩いた。
途中、ルシアンは使節団の旅程について話し、セシルは明日の引き継ぎ予定について答えた。
話題の大半は仕事だったが、いつもの会議とは少し違う。
何かを決めなければならないわけでも、期限までに答えを出す必要があるわけでもない。
ただ、思いついたことを話し、相手の言葉に返事をする。
それだけの会話が、妙に心地よかった。
正門に着くと、セシルの迎えの馬車がすでに待っていた。
「それでは、私はここで失礼いたします」
「ええ。お気をつけて」
ルシアンは一礼してから、思い出したように付け加えた。
「アーデン嬢。昨日の質問ですが、答えが出なくても構いません。あなた自身が考えたいと思った時に、考えてみてください」
「……はい。ありがとうございます」
セシルは馬車へ乗り込み、窓越しにもう一度頭を下げた。
ルシアンは軽く手を上げ、王都の通りへ歩いていった。
馬車が動き始めてから、セシルは自分の頬が少し緩んでいることに気づいた。
今日は王太子の頼みを断った。
リディアにも、分からないことは担当者へ尋ねるよう伝えた。
そして、ルシアンからの食事の誘いも断った。
それでも、誰かに責められたわけではない。
相手が困ったり、不機嫌になったりすることはあったが、自分がすべてを引き受けなくても、物事はきちんと進んでいる。
もしかすると、これまで自分は、断ることを必要以上に恐れていたのかもしれない。
屋敷へ戻ったセシルは、出迎えた侍女に夕食の準備を頼んだ。
「お嬢様、今日は早めにお召し上がりになりますか?」
「ええ。少しお腹が空いてしまって」
「それはよかったです。今夜はお好きな魚料理ですよ」
侍女が嬉しそうに笑う。
セシルもつられて微笑んだ。
食事の支度が整うまでの間、自室へ戻って手帳を開く。
明日は王宮行事の引き継ぎに加え、外国使節の受け入れに関する確認がある。
予定を確認しようとして、セシルは筆を持った手を止めた。
手帳の端には、昨日書き込んだ『一日、休む』という予定が残っている。
あの日は何をしようか。
少し考えてから、セシルは空白の欄に小さく書き足した。
『おいしいものを食べる』
仕事とは何の関係もない、ささやかな予定だった。
けれど、今夜の彼女には、それが少し楽しみに思えた。




