第2話 引き継ぎ資料は三十二冊
王宮から引き継ぎ手続きの正式な承認が届いたのは、婚約解消を申し入れられてから二日後のことだった。
各部署には新しい担当責任者を指定するよう通達が出され、セシルが求めていた受領記録の作成も認められた。引き継ぎ期間は承認日の翌日から十四日間。期間中、セシルは既存業務の整理と説明に専念し、新たな仕事を引き受ける義務はない。
その条件を確認したセシルは、ようやく仕事に取りかかることができた。
引き継ぎ初日の朝、王宮の事務棟にある会議室には、各部署から集められた職員たちが顔を揃えていた。
「本日から十四日間、皆様にはお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」
セシルが一礼すると、長机の向こうに座っていた職員たちが、やや戸惑いながら頭を下げた。
これまで彼らとは何度も仕事をしてきたが、こうして正式な引き継ぎの席で向き合うのは初めてだった。
会議室の後方には、王宮の書庫から運び込まれた記録簿が並んでいる。革表紙の分厚いものから、紐で綴じた薄いものまで、合わせて三十二冊。
セシルが目録にまとめた、担当業務に関する既存の記録だった。
「ずいぶん多いのですね」
控えめな声を上げたのは、王太子の隣に座るリディア・クラウゼだった。
彼女は今日から王太子妃候補としての教育を受ける予定になっている。ただ、まだ正式な婚約者ではないため、今回の会議には業務の概要を学ぶ立場で参加していた。
「こちらは過去の記録も含めた資料ですので、すべてを覚えていただく必要はございません」
セシルが答えると、リディアはほっとしたように胸を撫で下ろした。
「よかった。三十二冊も勉強するのかと思ってしまいました」
「必要な時に、必要な記録を探せるようにしておくためのものです。まずはこちらの一覧をご覧ください」
セシルは席に配られている数枚の書類を示した。
そこには担当してきた業務が、目的、担当部署、実務責任者、進行状況ごとに整理されている。
王宮行事の進行管理、外国使節の受け入れ調整、救貧事業の物資手配、公務日程の照合。細かな項目まで含めると相応の数になるが、セシル自身がすべてを実行していたわけではない。
各部署には、それぞれ仕事のできる職員がいる。
ただ、部署をまたぐ調整については、長い間セシルが窓口になっていた。
「最初に確認したいのは、救貧事業の冬季物資についてです」
セシルは一覧の一項目を指した。
「毛布の納入契約について、現在、二つの部署で最終承認の担当が異なって認識されております」
会計局から出席していた中年の職員が顔を上げた。
「それは、こちらで承認することになっていたはずですが」
「私どもは会計局での予算確認後、救貧局長の承認を受けると聞いております」
向かい側にいた救貧局の職員が答えた。
二人は顔を見合わせた。
セシルは手元の記録を開き、確認した日付を示した。
「会計局の記録では、予算の適正を確認した後に契約の決裁を行うと書かれています。一方、救貧局の記録では、会計局の確認を受けた後、救貧局長が契約内容を承認する手順になっています」
「では、どちらが正しいのでしょうか」
会計局の職員が尋ねた。
いつもなら、セシルは関連する規定を確認し、必要な人間に連絡を取ってから、関係者の認識を合わせていただろう。
しかし、それを自分が最後まで担ってしまえば、後任者には判断の経緯が残らない。
「現行の規定では、予算の適正確認は会計局、事業に必要な数量と契約内容の承認は救貧局が担当することになっています。ただし、今回の書式では最終承認という言葉が両方の記録に使われているため、混同が生じたようです」
セシルは二つの書類を並べて見せた。
「今回は各部署の責任者に改めて手順を確認していただき、記録を統一していただけますか。承認の責任を私が決めることはできませんので」
会計局の職員は書類を覗き込み、やがて納得したように頷いた。
「なるほど。確かに、会計局が決めるべきことと救貧局が決めるべきことは別ですね。確認しておきましょう」
「こちらでも局長へ報告します。納入期限までには十分間に合います」
二人がそれぞれ記録を取るのを見届けてから、セシルは次の項目へ進んだ。
小さな食い違いではある。
それでも、こうした確認が後回しになれば、納入の直前になって誰も承認していなかったという事態が起こりかねない。
「セシル」
会議の途中で、アレクシスが口を開いた。
「今の話は、君が二つの部署に確認して済ませていたのではないのか?」
「これまではそうしておりました。ただ、今回のように担当者が変わる機会に、責任の所在も確認しておいた方がよいと考えました」
「それほど細かく決めなければならないものなのか」
不機嫌というより、純粋な疑問に聞こえた。
セシルは少し考え、答え方を選んだ。
「殿下。仮に納入予定日に毛布が届かなかった場合、どなたに確認なさいますか?」
「当然、担当の者に尋ねるだろう」
「その担当者が二つの部署におり、双方とも相手が承認すると考えていた場合は、どうでしょう」
アレクシスはすぐに返事をしなかった。
その隣で、リディアが遠慮がちに手を上げた。
「あの……そういう時は、どちらかにお願いしてはいけないのでしょうか?」
「お願いすることはできます。ただ、予算を確認する権限と契約内容を決定する権限は、同じではありません。権限のない方が承認してしまうと、後から問題になることがあります」
「そうなのですね」
リディアは書類の端に何かを書き込んだ。
理解しようとしている姿勢は伝わってくる。
セシルは、彼女が覚えるべきことの多さに少し気の毒になった。婚約者となることと、実務を身につけることは、必ずしも同時に進められるものではない。
「リディア様は、まず各部署がどのような仕事を担当しているのか知っていただければ十分かと存じます。詳細な判断は、正式に任命された責任者が行いますので」
「ありがとうございます。私、今まで王宮の仕事というのは、もっと簡単なものだと思っていました」
リディアは恥ずかしそうに笑った。
「お茶会や晩餐会の日程を決めたり、お客様をお迎えしたりするお仕事が中心なのかと」
「そうしたお仕事も大切です。私も最初は、招待客の名簿を作るところから教わりました」
「セシル様も、ですか?」
「はい。初めて任された時には、お名前の敬称を間違えてしまい、先生に三度も書き直しを命じられました」
リディアが驚いた顔をしたので、セシルは少しだけ微笑んだ。
「どなたでも、最初からできるわけではございません」
そこで会議室の空気が幾分和らいだ。
午前中の会議では、進行中の業務と引き継ぎ先の確認までを終えた。全項目の詳細に踏み込めば何日あっても足りないため、午後は外国使節の受け入れに関する関係者だけで話し合う予定になっている。
昼の休憩に入ると、リディアがセシルの席まで歩いてきた。
「セシル様、少しだけよろしいでしょうか」
「はい。何でしょう」
「私、今朝は三十二冊もあるなんて大げさだと思ってしまったんです。でも、説明を聞いたら、必要なものだと分かりました」
リディアは指先で持っていた紙を折り曲げそうになり、慌てて伸ばした。
「殿下のお役に立ちたいという気持ちは本当です。けれど、分からないことが多すぎて……」
「焦る必要はございません。分からないことは、担当の先生や職員の方に尋ねてくださいませ」
「セシル様にも、お尋ねしてよろしいでしょうか」
その問いに、セシルは一瞬返事を迷った。
引き継ぎ期間中であれば、必要な説明をすることは仕事のうちだ。
しかし、期間が終わった後まで頼られることになれば、昨日決めたことが曖昧になってしまう。
「この十四日間であれば、お引き受けいたします。その後は、正式に担当される方へご相談ください」
リディアは少し驚いたようだったが、すぐに頷いた。
「分かりました。では、今のうちにしっかり勉強します」
そう言って頭を下げる彼女に、セシルも礼を返した。
午後の会議が始まる前、セシルは外国使節の受け入れに関する資料を机に並べ直した。
午前とは異なり、今度は外交関係者も同席する。王宮側の担当者に加え、来月訪問予定の使節団から日程調整を委任されている隣国の外交文官も参加することになっていた。
「失礼いたします」
落ち着いた男性の声が入口から聞こえた。
入ってきたのは、濃紺の髪を整えた背の高い青年だった。黒を基調とした上着には、隣国エルフェルト王国の外交官を示す小さな徽章が留められている。
「エルフェルト王国外交局のルシアン・ヴェルナーです。本日の会議に同席させていただきます」
セシルは立ち上がり、一礼した。
「セシル・アーデンと申します。本日はよろしくお願いいたします」
ルシアンは簡潔に挨拶を返すと、指定された席に着いた。
会議で扱うのは使節団の訪問日程、宿泊施設、公式行事の準備状況など、両国間で共有を認められた事項に限られている。
セシルは事前にまとめておいた日程表を配り、最初の議題を説明した。
「現在、使節団のご到着翌日に予定している歓迎行事と、王都商工会への視察が同じ時間帯に重なっております」
担当者の一人が困ったように言った。
「歓迎行事は王宮側の日程で、商工会への視察は先方の希望です。どちらも変更が難しいと聞いておりますが」
「変更できないと決まったわけではございません。商工会側には午後の受け入れも可能か、仮の確認をしております。ただし、正式な変更には先方の同意が必要です」
セシルが説明を終えると、ルシアンが書類を見ながら尋ねた。
「商工会への視察は、午後に変更した場合も予定している施設をすべて回れますか?」
「移動時間を含めると、最後の施設は閉館時刻に間に合わない可能性があります」
「では、視察を翌日に移す案は?」
「翌日は地方視察のため、王都を出発する予定です。そちらを変更するには、宿泊と護衛の手配も見直さなければなりません」
セシルは、候補となる日程を示した別紙を差し出した。
ルシアンはそれを受け取り、しばらく目を通した。
「なるほど。では、歓迎行事の開始を一時間早める案も含め、こちらで使節団に確認します。回答は明日の午後でよろしいですか」
「はい。その時刻でしたら、王宮側も調整が可能です」
「分かりました」
会議はその後も続いたが、ルシアンは必要なこと以外をほとんど話さなかった。
質問は具体的で、結論も早い。無駄を好まない人なのだろうとセシルは思った。
予定していた議題が終わる頃には、夕方が近づいていた。
関係者が退室する中、セシルは翌日の確認事項をまとめ、机に残っていた資料を片づけ始めた。
「アーデン嬢」
顔を上げると、ルシアンがまだ会議室に残っていた。
「ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「はい。日程について、何か不足がございましたか?」
「いいえ。資料は分かりやすく、必要な確認事項も整理されています」
「ありがとうございます」
「ただ、会議中に少し気になったことがありまして」
ルシアンは机の上に置かれた業務一覧へ視線を落とした。
「あなたは、各部署の間で起こる問題を解決することが多いようですね」
「そうですね。私が判断するというより、担当者の方々が仕事を進められるように調整する役目です」
「それは、誰にでもできることではありません」
セシルは意外に思った。
王宮で仕事を褒められることはあっても、その多くは「早く終わった」「助かった」という感謝だった。
何をしているのかを具体的に指摘されたことは、あまりなかった。
「皆様がご自分のお仕事をきちんと進めてくださるからです。私は、その間をつないでいるだけですので」
「その『つなぐ』という仕事が、十分に理解されていないように見えます」
ルシアンの口調は穏やかだったが、褒め言葉を言おうとしているようにも聞こえなかった。
セシルは少し考えてから答えた。
「理解していただくことより、仕事が滞りなく進むことの方が大切だと思っておりました」
「そうですか」
ルシアンはそれ以上踏み込まず、書類を閉じた。
「では、最後にもうひとつだけ。あなたが最も得意とする仕事は、何でしょうか」
今度こそ、セシルは答えに困った。
得意な仕事と尋ねられても、これまで自分に与えられた仕事を順番にこなしてきただけだ。
行事の手配も、物資の調整も、日程管理も必要だから覚えた。どれが一番得意かなど、考えたことがない。
「……申し訳ございません。すぐには思いつきません」
「謝ることではありません。少し気になっただけです」
ルシアンは会議室の入口へ向かい、そこで振り返った。
「もし時間ができたら、一度考えてみるといいかもしれませんね。何を任されたかではなく、あなた自身が何をしたいのかも含めて」
セシルは返事をする前に、彼が軽く一礼して部屋を出ていくのを見送った。
会議室に一人残った彼女は、手元の業務一覧を見下ろした。
何を任されたかではなく、自分が何をしたいのか。
昨日、手帳に『一日、休む』と書いた時にも、似たようなことを考えた。
しかし、休んだ後に何をするかまでは決めていない。
目の前の仕事を終わらせれば、きっと次の仕事が来る。その繰り返しで七年間を過ごしてきたのだから、無理もないのかもしれない。
セシルは書類を鞄に収め、最後に会議室の机を確認してから扉を閉めた。
引き継ぎは、まだ始まったばかりだ。
それでも今日ひとつ、今まで考えたことのなかった問いが増えた。
自分は、何をするのが得意なのだろう。
その答えを探すことも、王宮を離れてからの予定に加えてみてもいいのかもしれなかった。




