第1話 婚約破棄、承知いたしました
「セシル。君との婚約を解消したい」
王太子アレクシス・ローデン殿下がそう告げたのは、王宮の晩餐会が終わり、招待客の大半が退席した後のことだった。
セシル・アーデンは、手にしていた扇を閉じた。
つい先ほどまで音楽が流れていた小広間には、壁際に控える侍従と数名の貴族だけが残っている。王太子の隣には、淡い桃色のドレスを着た若い令嬢が立っていた。
リディア・クラウゼ男爵令嬢。近頃、殿下が親しくしていると噂されていた女性だ。
彼女がここにいる時点で、話の内容はある程度想像できた。それでもセシルは、王太子の口から理由を聞くまでは返事をしないことにした。
「婚約の解消でございますか。差し支えなければ、理由をお聞かせいただけますでしょうか」
「君と私は、夫婦になるべきではないと判断した」
アレクシスは、用意していた言葉を読み上げるような口調で答えた。
「君が王太子妃となるために努力してきたことは知っている。公務の補佐にも感謝している。しかし、結婚には互いを思いやる気持ちが必要だろう。君との間には、それがない」
セシルはすぐには答えられなかった。
思いやりがなかった、と言われれば否定したい気持ちはある。
殿下が忙しいと聞けば公務の日程を調整したし、体調を崩した際には医師を手配した。苦手な外国使節との会談があれば、事前に相手の関心事を調べ、必要な資料を用意した。
もちろん、それらは婚約者としての務めでもあった。
けれど、仕事だからという理由だけで七年間を過ごしたわけではない。
「……殿下は、そのようにお考えだったのですね」
「ああ。リディアと出会って、ようやく分かったのだ。私が求めていたのは、公務をそつなくこなす婚約者ではなく、共に笑い、喜びを分かち合える女性だったのだと」
アレクシスが隣へ視線を向けると、リディアは頬を染めて俯いた。
セシルは二人を見つめながら、最後にアレクシスと仕事以外の話をした日を思い出そうとした。
去年の王家主催の舞踏会だっただろうか。あの時も、翌日の視察日程について相談しただけだった気がする。
もっと前、まだ婚約したばかりの頃は違った。
十六歳だったセシルは、殿下が好む菓子を侍女に尋ねたり、彼が読んでいる本を取り寄せたりしていた。少しでも会話のきっかけが欲しかったからだ。
けれど、いつからか二人の会話は予定の確認ばかりになった。
それを寂しいと思ったことは、何度もある。
ただ、殿下も忙しいのだから仕方がないと、自分を納得させていた。
「セシル嬢。突然のお話で驚かれたと思いますけれど、どうか私たちをお許しください」
リディアがおずおずと口を開いた。
「私、殿下のお仕事を一生懸命お支えするつもりです。まだ分からないことばかりですが、これから勉強して……」
「リディア」
アレクシスが彼女の言葉を遮り、安心させるように微笑んだ。
「君は君らしくいてくれればいい。難しい仕事は周囲の者に任せればよいのだから」
その言葉を聞いた時、セシルの胸にあった小さな痛みが、別の感情に変わった。
殿下は、リディアには自分と同じ苦労をさせたくないのだろう。
それ自体を責めるつもりはない。
ただ、セシル自身も、誰かからそのように言ってもらいたかったのかもしれない。
「承知いたしました」
セシルは背筋を伸ばし、王太子へ礼をした。
「殿下のお考えは理解いたしました。私から婚約の継続をお願いすることはございません」
アレクシスが安堵した表情を浮かべる。
「そうか。君なら理解してくれると思っていた」
「ただし、正式な婚約解消には王家とアーデン伯爵家の合意が必要です。父にもお話しいただけますでしょうか」
「もちろんだ。父上には私から説明する」
「ありがとうございます。では、もう一点だけ確認させてくださいませ」
セシルは扇を持ち直した。
「これまで私が担当しておりました王宮の公務補助についても、婚約解消に伴い終了するという認識でよろしいでしょうか」
アレクシスが不思議そうに眉を上げる。
「公務補助?」
「はい。王太子妃教育の一環としてお預かりしていた業務でございます」
「ああ、そのことか」
殿下は軽く頷いた。
「それについては、当面これまでどおり頼みたい。君は仕事に慣れているし、急に担当者を変えれば不便が生じるだろう」
セシルは、聞き間違いかと思った。
「婚約解消後も、でございますか」
「正式に解消するまででも構わない。その後も必要があれば相談するだろうが、君ほど手際よく仕事のできる者は珍しいからな」
アレクシスに悪びれた様子はなかった。
どうやら本当に、婚約を解消しても今までの仕事だけは続けてもらえると考えているらしい。
セシルは一度、息を整えた。
「申し訳ございませんが、新たな業務をお引き受けすることはできません」
「何?」
「婚約者としての職務を終えるのであれば、お預かりしていた業務も後任の方へ引き継ぐ必要がございます。正式に合意された引き継ぎ期間中は責任を持って対応いたしますが、それ以降は担当を外れさせていただきます」
アレクシスは困惑したようにセシルを見た。
「君らしくないな。今まで、頼んだ仕事を断ったことなどなかっただろう」
「はい。これまでは殿下の婚約者でしたので」
自分の声が思った以上に落ち着いていることに、セシル自身が驚いた。
「しかし、今後は違います」
その言葉を口にすると、胸の奥に残っていた迷いが、ほんの少し軽くなった。
アレクシスはしばらく黙っていたが、やがて肩をすくめた。
「分かった。君にも事情があるのだろう。では後任を決めよう。引き継ぎが終われば、それで問題ないな?」
「はい。必要な書類と業務記録は、これまでのものをすべて整理してお渡しいたします」
「大げさなことだ。君は何事も几帳面すぎる」
アレクシスは笑ってから、リディアへ顔を向けた。
「後任の人選は、王宮の担当部署に任せればよいだろう。リディアには、いずれ全体を把握してもらえれば十分だ」
リディアは少し不安そうだったが、アレクシスに微笑まれると、小さく頷いた。
セシルは二人の会話が終わるのを待ってから、もう一度礼をした。
「それでは、正式な通知をお待ちしております」
話が済んだと思ったのだろう。アレクシスはそれ以上引き留めなかった。
セシルは広間を出ると、廊下の途中で立ち止まった。
窓の外には、王宮の庭園が広がっている。七年前、婚約が決まった日に殿下から案内してもらった場所だった。
あの日のことは、今でもよく覚えている。
春の花が咲き始めたばかりの庭を歩きながら、アレクシスは「一緒によい国を作ろう」と言った。
セシルは、その言葉が嬉しかった。
自分も少しでも役に立てる人間になろうと考えたし、王太子妃教育が始まってからは、どんな課題にも真剣に取り組んできた。
いつしか教育の一環だった仕事は、実際の公務補助へと変わっていった。
最初は行事の招待客名簿を整理する程度だったが、部署間の予定を調整する役目を任され、やがて救貧事業の物資手配や予算案の照合まで担当するようになった。
難しい仕事を引き受けるたび、殿下の役に立てていると思っていた。
それなのに、最後まで自分が何を望んでいるのか、一度も聞かれなかった。
「……帰りましょう」
セシルは窓から目を離し、待たせている馬車へ向かった。
涙が出るのは、きっと家に帰ってからだ。
今はまだ、するべきことがある。
王宮を出てから一時間ほど後、セシルはアーデン伯爵家の屋敷に戻った。すでに夜も更けていたが、父は娘の帰宅を待っており、晩餐会で何があったのかを聞くと、すぐに王宮へ抗議に行くと言い出した。
それを止めるのには、思った以上に時間がかかった。
婚約解消に関して正式な申し入れが届けば、伯爵家として話し合う必要がある。セシルも、その手続きを軽んじるつもりはない。
ただ、今夜のうちに怒鳴り込んだところで、元の関係に戻れるとは思えなかった。
父には翌朝、王家からの正式な連絡を待ってほしいと頼んだ。
ようやく自室へ戻ったセシルは、机に仕事用の鞄を置き、椅子に腰を下ろした。
鞄から取り出した手帳には、翌月までの予定と、担当部署への確認事項が細かく書き込まれている。
来週は救貧院向けの冬物資の納入契約、その翌週には外国使節団の受け入れ準備がある。
王宮の仕事から離れることになれば、これらも後任者へ渡さなければならない。
セシルは引き出しから新しい紙を取り出し、引き継ぎに必要な作業を書き始めた。
業務の一覧、担当部署、進行中の案件、判断を待っている事項。
書き進めるうちに、思いのほか多くの仕事が自分の手元に集まっていたことに気づいた。
「……これは、整理するだけでも大変そうね」
独り言を漏らしたところで、扉を叩く音がした。
「お嬢様、少しよろしいでしょうか」
長年仕えてくれている侍女の声だった。
セシルが返事をすると、侍女は温かな茶と軽食を載せた盆を運んできた。
「旦那様からお聞きしました。今夜はお夕食もほとんど召し上がっていないのでしょう」
「ありがとう。でも、まだ少し仕事が残っていて」
「そのお仕事は、今日中に終えなければならないのですか?」
セシルは手元の紙を見た。
婚約解消はまだ正式に成立していない。引き継ぎ期間も、王家からの書面が届かなければ確定しない。
つまり、今すぐ資料を完成させる必要はなかった。
「……いいえ。明日でも間に合うわ」
「でしたら、先にお召し上がりください。厨房で温め直してもらいましたから」
侍女はそれ以上何も言わず、茶を注いだ。
セシルは少し迷ってから筆を置いた。
食事の皿には、好物の鶏肉の煮込みが盛られている。王宮では食事の時間さえ仕事の話になりがちで、ゆっくり味わった記憶がしばらくなかった。
一口食べると、空腹だったことを思い出した。
「おいしいわ」
「よかったです」
侍女の返事は、いつもと変わらなかった。
セシルも微笑んだが、二口目を食べようとして手が止まった。
誰かに必要とされることが、自分の価値だと思っていた。
仕事が増えるたびに頼りにされていると感じ、忙しいことにも満足していた。けれど、それは殿下にとって、婚約を続けたい理由にはならなかったのだろう。
分かっていたはずなのに、胸が痛む。
セシルはしばらく皿を見つめた後、温かな煮込みをもう一口食べた。
今夜くらい、仕事のことを忘れてもいいのかもしれない。
翌朝、セシルが父と朝食を終えて間もなく、王宮から正式な使者が訪れた。
昨夜の出来事から一晩しか経っていないにもかかわらず、王家の印章が押された書面はすでに用意されていた。
父と共に受け取ったその書面には、王太子からの婚約解消の申し入れと、解消に伴う手続きの提案が記されている。
王家の最終承認を経て婚約を解消すること、婚約者として任されていた職務については十四日間を引き継ぎ期間とすること、その間は新規業務を追加しないこと。
昨夜セシルが求めた内容が、概ね反映されていた。
父はなおも納得がいかない様子だったが、セシル本人に婚約を続ける意思がないことを確認すると、家としての補償条件を別途協議することにした。
セシルは職務引き継ぎについての書面を確認し、ひとつだけ追加を求めた。
引き継ぎを受領する責任者を、各部署で明確にすること。
資料を渡すだけでは、誰が次の判断をするのか分からなくなるからだ。
使者はその要望を書き留め、王宮へ持ち帰った。
セシルは承認された返答が届くまで、これまでの業務記録の目録を作ることにした。
机の上に並べた記録簿を数え、担当業務ごとに分類していく。
救貧事業に関するものが九冊、王宮行事が七冊、外国使節の受け入れが六冊。公務の日程調整や各部署との連絡記録なども合わせると、全部で三十二冊になった。
もっとも、中身の大半は各部署の職員たちが積み重ねてきた記録だ。
セシルが一人で作ったものではない。
ただ、それらがどの業務につながり、どこで判断が必要になるのかを把握している人間は、思ったより少なかった。
机に広げた目録を眺めながら、セシルはひとつの欄に目を留めた。
冬の救貧事業に使う毛布の手配状況だ。
納入先の施設、必要数、発注担当の部署までは記載されている。けれど、契約の最終承認を行う部署だけが、二つの書類で異なっていた。
「これは……」
以前なら、セシルが双方に確認し、間に入って調整していただろう。
今もそうすることはできる。
しかし、それでは自分がいなくなった後、同じ問題が起きた時に誰が判断するのか分からないままだ。
セシルは新しい紙に、二つの部署へ確認を求める文面を書いた。
どちらが最終承認の責任を負うのか。責任者同士で協議し、引き継ぎ会議までに回答してほしい。
そこまで書いて、少し考えてから筆を置いた。
自分が答えを用意する方が、ずっと早い。
それでも今回は、そうしないことにした。
七年間続けてきた仕事を終えるのだから、最後くらいは、次に担当する人たちが困らない形にしておきたい。
セシルは確認事項の紙を目録の一番上に重ねた。
十四日間。
それが今の自分に残された、王宮の仕事を整理するための時間だ。
すべて終えたら、何をしよう。
その問いには、まだ答えが出なかった。
けれど、これから先の予定を決める時、もう王太子の都合を最初に考えなくてもいい。
セシルは机の端に置いてあった自分の手帳を開き、十四日後の予定欄に初めて、仕事以外の言葉を書き込んだ。
『一日、休む』
たったそれだけの予定を書くのに、なぜか少し勇気が必要だった。




