第7章 棘の跡
師走十七日の朝、雪は小雪に変わっていた。
粉のような雪が、空から絶え間なく降りてくる。枯れ木の下の石積み小屋の周りだけ、雪の白さが濃くなっていた。屋根の雪が夜のあいだに厚くなり、枝の一本が重みに耐えかねて、ぼこんと落ちた。
入り口の雪掘りをしていたリナが、声を上げた。
「あうう……ダリオの親父、助けてください」
見ると、彼女の杖が雪に深々と刺さっていた。昨晩、適当に突き立てたのが災いしたらしい。麦藁色の髪の少女が、杖の端を両手で握って引っ張っているが、びくともしない。足で雪を蹴って体を反らすものだから、いっそう深く沈んでいく。
「足で踏ん張るな。折れるぞ」
「だって、抜けないんですもん」
「朝から騒がしい」小屋の中からフィンが顔を出した。「城門より賑やかだな」
ダリオは溜息をついて、雪の中から杖を引き抜いた。ポンという鈍い音がして、リナが尻もちをついた。はねた新雪が、彼女の顔に白くついた。
「次からは、横にせい」
「はい……すみません」
リナは杖を抱えて立ち上がり、杖の先の雪を掌で払った。その指先は赤く凍えていた。
ガズが小屋の陰から這い出してきた。灰色の鱗に雪が積もり、尻尾の先でそれを払う。彼は東の空を見上げ、首を横に振った。
「日が、ない」
「蜥蜴には辛い朝だな」
「辛い。だが、動けば暖かい」
ベルントは小屋の中で荷紐を締め直していた。話す前に、また紐を触っている。フィンが荷馬の背の雪を払い、そりの紐を解いた。革紐は夜のあいだに凍って、折れそうに硬い。指でほぐしてからでないと、結び目が緩まない。
一行は小屋を出た。空は鉛色で、風は冷たいが、吹雪ではない。荷馬二頭が鼻息を吐き、白い湯気が立った。
「進路は北だ」ダリオは言った。「三里塚の先で、隊商の痕を探す」
「西の煙は?」
「あとだ。まずは足元だ」
*
荒れ野を進む。
雪は膝まで沈むが、歩けないほどではない。列の中ほどを歩けば、前の者が踏み固めた雪に足を置ける。それでも、一歩ごとに息が白く膨らんだ。荷馬の蹄が、雪の下の固い地面をぽこぽこと叩く。
道の両側には、赤い棘草が雪から頭を出して生えていた。乾いた実が、風に揺れるたびにカサカサと鳴る。その音が雪原の静けさに混じって、いつまでも後を絶たなかった。
「相変わらず、目に悪い色だな」ダリオは言った。
「染料になるって言ってましたね」リナが応えた。
「腹に入れりゃ毒だがな。赤いものが食えるとは限らない」
「昨日、私の外套の裾にも絡んでました。取ろうとしたら棘が刺さって」
「取ろうとするな。むしろ目印になる」
ガズが列の後ろで、尻尾の先をぱちぱちと動かしている。蜥蜴人は寒さに弱い。日向が出ないかと、絶えず周囲の岩を見ているのだ。
「ガズさんは、その草の熱も見えるんですか?」フィンが訊いた。
「枯れた草は冷たい。雪も冷たい」ガズは言った。「あんたらの足跡だけ、しばらく熱い」
「それは便利で、不気味な話だな」
「昼の鐘までに、何か見つかればいいんだが」ベルントが言った。
「見つかるさ。この雪の中だ。通った者は、何かを残していくものだ」
*
しばらく歩くと、ケスが立ち止まった。
「待て」
鴉人の鋭い目が、雪の上の何かを捉えている。翼のような腕が上げられ、列が止まった。
ダリオは先頭へ歩を進めた。
そこに、枝が落ちていた。
いや、落ちていたというより、突き刺さっていた。赤い棘草の枝だ。太めの幹が根元から折られ、先端の実が雪に突き刺さっている。赤い実が、白い雪の上で点々と染みのようについていた。風で一粒転がり、また止まった。
「誰かが、道を外れたな」ダリオは呟いた。
棘草の茂みは、素通りできる代物ではない。革の外套でも裂ける。わざわざ突っ切るということは、何かがあったに違いない。
ダリオは手袋をしたまま、枝を引き抜いた。折れ口は湿っていて、中の木部はまだ青い。折られてから、そう日は経っていない。
「最近だ」
「逃げたんですか?」フィンが訊いた。
「あるいは、追われたか」
「誰が、ですか?」
「これから考える」
ダリオは枝を持って、茂みの奥を覗き込んだ。棘草が押し分けられた跡がある。雪の表面には、何かが引きずられたような薄い溝が見えた。溝は西へ向かって、棘草の間を縫うように続いていた。だが、足跡は雪で曖昧になっていて、はっきりとは読めない。
「跡は新しいか?」ケスが訊いた。
「雪に埋まりかけだ。昨晩よりは前、二日も前ではない」
「片側だけ、深い溝だ」ケスは言った。「片足を引きずっている」
「荷車の轍はない。馬の蹄もない」ダリオは言った。
「じゃあ、一人?」
「少なくとも、この跡を作ったのは一人だ」
リナが枝の実を指差した。
「その実、私の紐に絡んでたのと同じ赤です」
「この荒れ野の棘草は、どこも同じ赤だ」ダリオは言った。「だが、この枝は道の南側のだ」
彼は街道を指した。隊商が通るべき道の痕は、ここから十歩ほど北にある。この枝は、南側の茂みから折られたものだ。
*
一行が立ち止まっている間も、雪は降り続いていた。
ふと、ダリオは足元に視線を落とした。
そこに、鳥の羽が一枚落ちていた。
薄汚れた灰色の羽だ。雪雀か、あるいは似たような小鳥のものだろう。風に吹かれて、雪の上でかるく揺れていた。
誰もそれを拾おうとはしなかった。ただ、雪の中の一枚の羽が、そこにあるだけのことだった。
リナがそれを見て、何か言いかけて、やめた。枝の赤い実のほうが、彼女の目を引いたのだろう。羽はまた、風に揺れた。
*
「追うか?」フィンが訊いた。
ダリオは西を見た。溝は棘草の間を縫って、雪原の白さの中へ消えてゆく。そこは、隊商が通るべき街道からは外れている。
もし隊商がここを通ったのなら、轍が残っているはずだ。だが、ここにあるのは、人が一人歩いたような跡だけだ。
「ベルントさん」ダリオは振り返った。「あんたの隊商には、馬と荷車がいたな」
「ええ。馬二頭と、荷車が……三台でしたか。荷の勘定は、ややこしくて」
「ここに轍はない。つまり、この跡は隊商のものじゃない」
「では、誰の跡でしょうね」
「さあな。野盗の見張りか、迷子か、それとも」
ダリオは枝を捨てた。赤い実が雪の上で跳ねた。
「手がかりが、道筋とずれている」
「どういうことですか?」リナが訊いた。
「隊商は街道を北へ向かったはずだ。だが、この枝と溝は、西へ向かってる。別の話だ」
「じゃあ、誰の跡ですか?」
「さあな」ダリオは言った。「雪んこの跡かもしれん」
リナが顔を上げた。
「嘘ですか?」
「城壁の外だ。嘘も方便だ」
「ひどい」
「真面目な話だ。この荒れ野で、一人で西へ歩く人間は、長持ちしない。幽霊なら、凍えることもないか」
フィンが小さく笑った。ガズは首をかしげた。
「幽霊に、足の溝か」
「幽霊は引きずらないか。知らんけどな」
「追いませんか?」リナが訊いた。
「追わない。手がかりが道筋とずれているなら、まずは道筋を確かめる。轍が見つかれば、そのとき考え直す」
ダリオは街道のほうへ歩き出した。背後で、リナが慌ててついてくる音がした。フィンが荷馬の紐を引いた。ガズは最後まで西を見ていたが、やがて列に戻った。
雪の下から、赤い棘草の実が、じっと彼らを見送っていた。




