第5章 三つ目の一里塚
師走十六日。薄曇りの朝、荒れ野の雪窪みの底で、焚き火が白い灰だけを残していた。
夜のあいだに風が運んだ雪が、毛布の縁に薄く積もっていた。ダリオはそれを手で払い、凍った革紐を指で揉みほぐした。紐は指のあいだで白く凍みる。揉みほぐしてから、荷馬の背へ毛布を縛り付けた。馬は鼻から白い息を漏らし、草を求めて雪を掘った。掘れるのは、雪だけだった。
朝の食事は、乾いた肉と、灰のそばで凍らずに済んだ水だった。
「昨夜の音は、何だったんでしょうね」リナが言った。
「獣だろう。遠くの」ダリオは言った。
ガズに当たってみると、蜥蜴人は首を横に振った。「……見ていない。寝ていた」
それで話は終わりになった。フィンは手帳に『夜半、遠方に異音、一度』と書き、その下に線を引いた。
六つの鐘のころ、一行は歩き出した。フィンは『十六日、朝六つ、出発』と書き込んだ。
雪は昨日より深かった。すねまで沈み、ところにより膝まで沈んだ。先頭をダリオが歩き、あとはその跡を踏んで、そりが最後を滑った。荷馬が蹄を突き立てるたび、そりがきしんだ。轍は、もうどこにもなかった。二里塚のあたりまで残っていた車の跡も、雪が根気よく消した。ダリオの縮れた髭の端に、霜が白く積もった。
歩くたびに、赤い棘草の実が袖や裾に絡んだ。リナは三歩に一度、袖から実を摘み取るのが上手になっていた。
三つ目の一里塚に、一行は昼の鐘のころ着いた。
塚は雪を被った土の盛りだった。頂に立つ古い木の札は、文字が風化して読めなかった。彫った者の名も、道の名も、雪と年月が同じように埋めていた。
「ここから先は、冬のあいだ隊商は通らん道だ」ダリオは言った。「轍もない。通るのは、雪と風だけだ」
ベルントは北の空をしばらく見て、それから荷の紐に手をやった。何も言わなかった。
休憩に、雪を鍋に掬って溶かし、干し肉をちぎって湯に落とした。塩の味だけが湯にあった。その湯を飲みながら、リナが思い出したように言った。
「そういえば、酒場で聞いたんですけど。この先に、耳の白い娘が出るって噂……足跡も、残らないそうです」
「雪んこの見間違いだ」ダリオは肉の袋の口を締めながら言った。
「記録に、そういう話はありませんでした」フィンが言った。
「幽霊は買い物をしない。塩も毛織物も要らんからな」ベルントが言った。少し笑った。
「足跡を残さないなら、追いかけることもできないですね」リナは言って、自分で言ってから、少し首を縮めた。
その言葉に、誰も乗らなかった。風が塚の札を、低く鳴らした。
*
午後、雪はまた深くなった。
リナがそりを避けて一歩、道を外れた。雪が音もなく飲み込んだ。麦藁色の頭だけが雪面の上に出て、杖の先が小さく振れていた。
「落ちました」
「見れば分かる」ダリオは襟をつかんで引き上げた。雪の塊がずしんと崩れ、リナの懐から銅貨が三枚、雪の上に散った。
リナはまず、銅貨を数えた。
「……十一、十二、十三。ああ、十四枚……一枚、ない」
「どこへ行った」
「穴の底です」リナは穴を覗き込み、それから掘らずに済む顔をして穴から離れた。「一枚、雪に捧げます」
「捧げるな」
「ダリオの親父、日が暮れますよ」
「あとで掘れ。今は行くぞ」
穴の縁には、リナが這い上がったときの足の跡が几帳面に残っていた。ガズはそれを覗き込んでいた。
「……熱い」蜥蜴人は言った。「足の跡が、熱い。すぐ消える」
「私の、ですか」
「……体の温かさだ。雪は、しばらく覚えている」
風は北西から吹いていた。棘草の枯れ枝を、枝と枝ですれ合わせて鳴らす。乾いた、一定の音だった。雪面に風が細い筋を描き、筋が消え、また描いた。音は変わらない。日も変わらない。荷馬がときどき鼻を鳴らし、それも風の音に混じった。誰も話をしなくなった。話をしても、風が持っていった。一行は、雪の中を歩き続けた。
*
道の東に、風に削られた岩が現れた。ケスが足を止めた。
「登ります」
岩は灰色で、雪をほとんど乗せていなかった。鴉人は羽の襟を翻し、三跳びで頂に立った。黒い小さな影が、白い世界の上で長いこと動かなかった。
下では、一行が息を整えて待った。フィンは手帳に『昼、三里目の塚、通過』と書いた。待つあいだ、リナが岩の陰で杖を振ると、焦げ臭い匂いが風に運ばれてきた。
「……見えた」ガズが言った。「小さい火が、一つ。すぐ消えた」
「練習になってます」
「匂いは、すぐ消えませんね」フィンが言った。
「火より先に、匂いだけが上手になりました」リナが言った。
やがて、黒い影が羽を広げて降りてきた。
「煙は、見えない」ケスは言った。「轍も、見えない。北は、雪だけだった」
ベルントが紐を握り、離した。
「西の空が、鉛色だ。重い雲が低く積もっている。降るかもしれない」
「降ったら、そりが重くなるな」ダリオは言った。
「それから」ケスは言った。「雪の上に、白い筋が一本。東の荒れ野から道を横切って、西へ。半里ほど先だ」
一行は道の先を覗き込んだ。雪面には風の筋が走っていて、白いのか灰色なのか、はっきりしなかった。
「雪の波だろ」ダリオは言った。「風で擦れた跡だ」
「……そう見えるなら、そうかもしれない」
リナが小声で、幽霊の通り道とか言わないでくださいよ、と言った。笑ったのは、リナだけだった。
ケスはそれ以上、何も言わなかった。いつのまにか、列のいちばん後ろに回っていた。
*
午後の雪面に、影はなかった。薄雲が太陽の輪郭を消し、白さの中に距離がなかった。遠くのものは遠くに見える。だが、この平らな白さの上では、遠さの読みようがなかった。
ケスは列のいちばん後ろを歩き、歩幅を数えた。岩の上から見た白い筋は、このあたりを横切るはずだった。
大男の背中がその先を通り、そりがその横を滑った。荷馬の蹄が、何かを潰した。麦藁色の頭は、前を歩く商人の背中を見ていた。風が正面から吹いていて、誰も足元を見なかった。
凍った雪面に、点が続いていた。
ケスは歩幅を半分にして、その上を歩いた。
足跡だった。
小さく、素足のようだった。つま先に五つの丸い指の跡。かかとは細い。歩幅は短く、ところどころ、間隔が詰まっていた。雪の表面は風に擦れて灰色を帯びているのに、跡の底の雪だけが、新しく降ったように白かった。
ケスはしゃがみ、跡の横の雪を指でつまんだ。ただの雪だった。冷たかった。それなのに、跡の底だけが白い。
白い足跡だった。
跡は道を横切り、西の棘草の間に入り、雪の波に紛れて消えていた。
ケスは立ち止まった。
今日、麦藁色の髪の娘が、三里目の塚の下で噂を話していた。耳の白い娘は、足跡を残さない、と。
足跡は、あった。
兎の跡ではない。鹿でもない。靴を穿いた人間なら、革の紋が残る。この跡に、紋はなかった。
「ケス」前から、大男の声がした。「何を見てる」
「……雪を、見ていた」
それは嘘ではなかった。
ケスは歩幅を戻し、列に追いついた。何も言わなかった。言うべき言葉が、まだ見つかっていなかった。
背後の雪面では、北西の風が、白い点をひとつずつ埋めていった。




