第4章 焚き火
師走十五日の夜。北街道の二里塚を越えた荒れ野、岩陰の掘った雪の窪みで、一行は最初の野営の支度をしていた。
風除けは腰の高さまで掘る。焚き火は風の背に寄せて。六人の影が雪を運び、薪を割り、そりの紐を解く。荷馬二頭は岩の陰に繋いだ。
「掘るとこ、これでいいですか」
「十分だ。風が上を通る。下に溜まらん」
ダリオは薪を一本、膝で折った。音が乾いて響く。灰の空には星が出ていた。雪の上は暗く、火の周りだけが世界のように見えた。
フィンがそりから毛布を降ろし、ベルントは自分の荷の紐を触って、締まりを確かめた。ガズは掘るのを手伝ったあと、火の近くに丸まって動かなくなった。尻尾だけが時々、雪を叩いた。
「ガズ、寝るのか」ダリオが訊いた。
「……日向の次は、火の前」
「夜は日向がない」
「……火の前は、夏」
ケスが高い岩の上から降りてきた。目が火の光を拾って、二つ、赤く光った。
「周り、見えるものはなかった」ケスは言った。「雪の野原と、棘草と、北の暗い空だけだ」
「魔物は」
「今のところ、ない。夜は分からんが」
「夜は分からん、か」
「夜は、目が信じるものしか見ない。だから高く、遠くを見る」
リナが干し肉を切り分けた。包みを広げ、六人ぶんの薄い切れ端を手渡していく。
「師走の荒れ野で、肉の匂いは贅沢ですね」
「贅沢じゃない。食料だ」
「贅沢な味の、食料」
ダリオは干し肉を噛んだ。塩っぱい。噛むほどに塩っぱい。塩が雪に溶けるのではなく、口の中で塩が増えていくような干し肉だった。次に噛むと、じわじわと肉の味が後から追いかけてくる。遅れてくる味。旅の味というのは、こういうものなのだろう。マスターの煮込みを思い出して、ダリオは首を振った。思い出すのはよくない。
「麦酒が飲みたい」
「水を飲みましょう」フィンが言った。「雪を溶かしたやつ」
「そいつは麦酒の親戚にもなってない」
「麦酒の親戚になる水は存在するんですか」
「存在しない。それが問題なんだ」
リナが笑った。ベルントも、小さく笑った。
*
火が安定してきた。薪が崩れる音だけが夜の音だった。
「ひとつ、聞いていいか」フィンが言った。「この旅のあいだの規則を、はっきりさせておきたい」
「規則」
「嘘のことだ。俺は参事会の使いだ。帳簿と税を街に戻すまで、嘘をつかれないと困る」
「お前は嘘をつける人間だ」ダリオは言った。「治安維持隊は組合の外だからな。内でも外でも、つけたいだけつけろ」
「それは……俺の話じゃない。この連中の話だ」
「連中の話か」
ダリオは火の向こうのガズを見た。
「ガズ。お前、嘘をつけるか」
ガズは顔を上げた。目が火の熱を捉えている。
「……つけない」
「つけないんじゃない。つけられるか、だ」
「……つけられない」
「そういうことだ」ダリオはフィンに向き直った。「亜人は嘘をつけない。ケスも同じだ。鴉人も、つけられん」
「俺もだ」ケスが言った。「しゃべる言葉は、見たものと同じ数しかない。余分は、ない」
「……嘘の数もあるんですか」リナが言った。
「ある。俺のは、ない」
フィンは眉を寄せた。「じゃあ、ダリオさんとリナは」
「俺たちも、組合の建物の中にいるあいだは、仲間には嘘をつかない。組合の誓約だ。ところがだ」ダリオは干し肉を指でつまんだ。「今、俺たちは城壁の外にいる」
「……それがどうした」
「外では、つける」
フィンはしばらく黙った。
「つけるのか」
「つける。普通につける」
「今も、つけられるのか」
「今も、つける。ほんの今、俺は麦酒が飲みたいと言ったが、実は水で十分だった」
「なっ——」
「ほら、こういうことだ」
フィンがベルントを見た。ベルントは荷の紐を触りながら、肩をすくめた。
「俺は商人だ」ベルントは言った。「南から来た。そっちの壁の中でも、外でも、つける」
「隊士は、嘘をつかないように」ダリオは言った。「ただし、誰がつけて、誰がつけられないかは、覚えておけ。それだけだ。覚えておけば、話の値打ちが分かる」
「話の値打ち」
「つけられないやつの話は、そのまま信じられる。つけるやつの話は、値切る。それだけの話だ」
フィンは納得したのか、していないのか、干し肉を噛んだ。噛む音だけが、しばらく火の音に混じった。
「じゃあ、質問します」リナが手を挙げた。「ダリオの親父は、今夜、いくつ嘘をつきましたか」
「数えたことはない。数え始めると、増える」
「……増えるんですか」
「嘘は数えると増える。小銭と逆だ。小銭は数えると減る」
「それは、違いますよ。小銭も嘘も、数え方次第でしょう」
リナが笑い、火の向こうでガズの尻尾が一度、地面を叩いた。ケスは枝の先をくわえて、何も言わずにそれを火へ放り込んだ。枝が小さく爆ぜた。
*
夜が深くなった。毛布にくるまって、火は小さめに抑えた。リナは自分の番の見張りの前に、座っていた。
「火、小さくしてすみません。私の見張りのあいだ、暖かくは……」
「小さくして正解だ」ダリオは言った。「夜の火は、遠くからでも見える。大きく燃やすのは、誰かに見つかりたいやつだ」
「じゃあ、そろそろ寝てください。私がやります」
「火の番は、新人でもできるか」
「できます。火の玉くらい、出せますから」
「ほう」
ダリオは眉を上げた。火のそばで、リナは父親のお下がりの杖を握った。癖だ。緊張すると、ぎゅっと握りしめる。
「火の玉を出して、薪に火移しをするんだ。楽な方法でしょ」
「なら、やってみろ」
リナは杖を握りしめた。握りしめすぎた。腕が震える。
「……えい」
杖の先が、白く光った——のではなく、音もなく、何も出なかった。空振りだった。
「……もう一回」
「……えい」
二度目も、何も出なかった。代わりに、杖の先から、焦げ臭い匂いだけが漂ってきた。何も燃えていないのに、焦げている。匂いだけが術になった。
「匂いだけ出ました」
「匂いは、術じゃない」ダリオは言った。
「分かってます……」
「火の玉は、どこへ行った」
「どこにも、行ってません。……たぶん、出す前に、なくなりました」
「出す前に、なくなるのか」
「緊張すると、そうなります」
「火の番のために、術を使う必要はない」ダリオは言った。「火の番は、火を見て、薪を足して、寝るやつを起こす。それだけだ。術は使うな」
「……はい」
「それでも使いたいなら、昼に使え。昼なら、焦げ臭くなっても、誰も気づかん……いや、ガズは気づくか」
「……気づく」火の前で、ガズが目だけ開けた。「……昼も、気づく」
「なら、遠くで使え」
リナは杖を膝に置いた。握りしめた指を、少しだけ緩めた。
「朝までに、練習しておきます。遠くで」
「遠くで、な」
ダリオは毛布に潜った。火が小さく揺れて、焦げ臭い匂いがふたたび漂った。リナが咳払いをした。
「……匂いは、すぐ消えますから」
「早く消えろ」
*
夜の半ば。見張りの交代のとき、ダリオは目を覚ました。
火は炭になっていた。リナが番を終えて毛布に戻り、フィンが代わりに座ったはずだった。ダリオは半身を起こし、水を一口飲んだ。
そのとき、聞いた。
遠い音。
風ではない。風は、棘草の枯れ枝をこすりながら、一定の調子で鳴いている。その下に、別の音があった。
低い。長い。引きずるような音。雪の上を、重いものが這っていくような——いや、違う。鳴き声なのか、地面の音なのか、判別がつかない。遠すぎる。距離が、音を溶かしている。
「聞こえますか」フィンが小声で言った。彼も起きていた。
「聞こえる」
「何の音でしょう」
「分からん」
「ケスに聞きますか」
「夜は、目が信じるものしか見ない、と本人が言ってた。夜の空に、何が見える」
「……真っ暗でしょうね」
「真っ暗だ」
音は、一度だけ鳴った。それきりだった。
荒れ野は、また風の音だけに戻った。雪の上は闇で、焚き火の炭が赤く、小さく脈打っていた。
ダリオは水筒の口を締めた。
「交代で寝ろ。朝まで、火は絶やさない」
「はい」
炭の赤い脈打ちが、夜の底で、小さく続いていた。




