↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/16

第3章 北門

師走十五日、夜明け前。空はまだ墨を流したように暗い。


錆び釘亭の暖炉には新しい薪が入らず、昨夜の熾きが赤い目をつぶっているようだった。


ダリオはカウンターに座り、袖の底から銅貨二枚を板の上に滑らせた。


「ツケだ」


マスターは手ぬぐいで台を拭きながら、貨幣を掌に載せて確認した。


「確かに。……どこから出ましたか」


「リナから借りた。利子は帰りの麦酒一杯だ」


「それはうちの儲けになりますね」


「内緒の利子だ。書くなよ」


マスターは奥へ引っ込んだと思ったら、すぐに戻ってきた。麻袋を二つ、カウンターに置く。中身は黒パンと、塩の強い干し肉だ。


「道中です。塩は強いですが、雪の水と一緒に噛むと、まあ食えます」


「味は保証しない、というわけだ」


「舌が馬鹿になるほど塩っぱいですが、腹は持ちます。獣も寄りつきません」


ダリオは袋の一つを開け、黒パンの端を指で押した。木の枝のように硬い。


「生きて帰ってくださいよ」


「帰ったら一杯だ」


「熱いのを、用意しておきます」


ダリオは袋を腰に結びつけた。重みが、剣のそれとは違う安心感をくれる。


扉を押すと、外の冷気が肺の中の昨夜の麦酒の匂いを、一気に洗い流した。


*


北門の前には、一行が集まっていた。


門の脇の松明が雪面をぼんやり照らし、荷馬二頭が鼻を鳴らして白い息を吐く。そりには毛布と薪と食料が積まれ、紐でがちがちに縛られていた。ベルントはその紐を、何度も指でなぞって緩んでいないか確かめていた。


リナは麦藁色の髪に毛皮の頭巾を被り、父親のお下がりの杖を握りしめたまま、空を見上げていた。


「星が残ってます。今日は晴れですね」


「晴れの雪野が、一番冷える」


フィンが灰色の外套の襟を立てて言った。街の中の匂いがまだする顔だった。


門櫓の上に、黒い塊が一つ止まっていた。見上げると、ケスが手すりに止まってこちらを見下ろしている。


「風は北寄り。上は晴れだ」


「おはようさん。雀より早いな」


「鴉です」


ケスはそれきり、また北を眺めた。


ガズは荷馬の横の雪の上に立っていた。じっと動かず、白い息だけが生き物の印だった。


門の内側には、開門を待つ木こりが一人、騾馬と一緒にいた。ケスを見上げ、ガズを見て、少し離れたところへ移った。騾馬の鼻に向かって、低く何か言った。


空が白みはじめ、大聖堂の鐘が六つ打つ。


閂が抜かれ、重い扉が軋みを上げて、ゆっくりと開いた。


木こりが騾馬を引いて先に通り抜け、二度ほど振り返った。


門番のトマスが槍を持ち直した。若い顔に、生半可ではない緊張が張りついていた。


「トマス。卵はまだ好きか」


ダリオが声をかけると、トマスの顔が少しだけ解けた。


「好きですよ。新しい漬け物の店を見つけまして。赤蕪漬けの鶉卵が、一個銅貨二枚で」


「帰ったら食わせてくれるか」


「無事でお帰りください」


ダリオは軽く手を挙げ、門をくぐった。


門を出ると、世界が急に広くなった。雪に埋もれた街道が、高く澄んだ朝の空の下を北へ走っている。


*


最初の一里塚は、雪に半分埋もれていた。塚の上の標木だけが、黒い指のように空を指している。


風はないかわりに、冷えが骨まで入った。息が襟の毛皮に凍りつき、革の手袋の中で指が芯から冷える。そりの滑り木が雪を削る音が、一日中続く音だった。


時折、ケスが羽を広げて頭上へ出る。雪野には木も岩もなく、高さは翼でしか取れない。降りてくると、短く報告した。


「道は白で一続き。動くものなし。雪はこの先、ふえる」


「三里目から先は、冬のあいだ隊商が通れない道だと、聞いています」フィンが言った。


「通れない道を通るのが、今回の仕事だ」


ベルントはそりの紐を一度だけ撫でてから、言った。


「荷は、その先で待っています」


*


二里目の一里塚を過ぎる頃、道の景色が変わった。


両側に広がるのは、雪と枯れ草の荒れ野だ。枯れ草の中に、赤い棘草が点々と生えている。雪の上にも赤い実が散っていて、遠目には血の雫のようにも見えた。


風が吹くたびに、枯れた棘がカサカサと鳴った。


「なんだか綺麗ですけど」リナが言った。「嫌な色ですね」


「染料にはなるらしいが、この寒さじゃ誰も刈り取らん」


ダリオは足元を見た。靴紐に、赤い実が三つも絡みついている。棘の先が細かく、縄のようにしなやかに、革の目に食い込んでいた。


「実が絡むぞ。放っておくと、歩くたびに鳴く」


「音楽ですか?」


「足音が煩くなるだけだ」


実は靴紐だけではなかった。外套の裾、荷馬のたてがみ、そりの紐の結び目。払っても取っても、歩くたびに新しいのが絡む。リナは杖を持ったまま、片手で裾の実をちぎっては、雪の上に落とした。


「これ、食べられますかね」


「染料だ。食うと腹を壊す」


「赤いのに。食べられそうな色なのに」


「綺麗な色のキノコほど、腹を壊すんだ」


「……それ、新人に教えることなんですか?」


「今、教えた」


*


日が高くなり、雪面が急にまぶしく輝きだした。風の死んだ場所には、かすかな雪塵が光の中で舞っている。


その光の帯が、道端の岩に当たった。


ガズが、ぴたりと止まった。


先を行っていたダリオが気づいて振り返ると、ガズは岩の前で直立不動だった。灰色の鱗に日が当たり、尻尾だけがゆっくりと、満足げに地面を叩いていた。


「ガズ」


反応がない。


「おい、休憩はまだだ」


「……暖かい」


「雪の中だぞ」


「……ここだけ、夏」


ガズの目には熱が見える。あの岩が、あの一匹にどう見えているのか、ダリオには分からなかった。たぶん、燃えているのだろう。


リナがくすっと笑い、フィンが呆れたように息を吐いた。ダリオはガズの背中を叩く。


「岩は逃げん。行くぞ」


ガズは名残惜しそうに岩を一度振り返り、足を踏み出した。


昼前、ダリオは道端の岩陰を指した。


「飯だ。休憩は短く」


黒パンは拳骨で叩いて、やっと二つに割れた。


「石かと思いました」リナが言った。


「石よりは腹に入る」


干し肉は噛む前に目が沁みるほど塩っぱかった。雪を一掴み口の中で溶かしてから噛む。マスターの言ったとおり、まあ食えた。


食事の半ばで、荷馬が一度、大きくいななった。


何の前触れもなく、ただ鼻を鳴らして、首を振った。


「何かあるか」


フィンが手を剣の柄にかけて訊いた。


「ただの愚痴だろう」ダリオは荷馬の鼻を撫でた。「重いとか、寒いとか、飯が遅いとか」


「馬も文句を言うんですか」


「言わせてやれ。俺たちの代わりに言ってくれてる」


荷馬はまた、低くいななった。まるで「わかってる」とでも言うように。


*


昼過ぎの道は、来た道より静かだった。


日が傾くにつれ、雪の色が青灰色に変わる。影が長く伸び、風が少しずつ鋭さを増した。日中は柔らかかった棘草の実が、靴紐の先で氷のように硬くなり、歩くたびにカチカチと鳴った。


「野営だ」ダリオは言った。「あの岩陰だ。薪を拾え。火をおこす前に、雪を掘って風除けを作る」


リナが杖を握りしめ、フィンが荷馬を止めた。ケスは一番高い岩の上へ飛んだ。


空の端が、暗い藍色に沈みはじめていた。


西の空の最後の光が消えないうちに、一行は雪を掘りはじめた。


荒れ野の最初の夜が来る。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。