第3章 北門
師走十五日、夜明け前。空はまだ墨を流したように暗い。
錆び釘亭の暖炉には新しい薪が入らず、昨夜の熾きが赤い目をつぶっているようだった。
ダリオはカウンターに座り、袖の底から銅貨二枚を板の上に滑らせた。
「ツケだ」
マスターは手ぬぐいで台を拭きながら、貨幣を掌に載せて確認した。
「確かに。……どこから出ましたか」
「リナから借りた。利子は帰りの麦酒一杯だ」
「それはうちの儲けになりますね」
「内緒の利子だ。書くなよ」
マスターは奥へ引っ込んだと思ったら、すぐに戻ってきた。麻袋を二つ、カウンターに置く。中身は黒パンと、塩の強い干し肉だ。
「道中です。塩は強いですが、雪の水と一緒に噛むと、まあ食えます」
「味は保証しない、というわけだ」
「舌が馬鹿になるほど塩っぱいですが、腹は持ちます。獣も寄りつきません」
ダリオは袋の一つを開け、黒パンの端を指で押した。木の枝のように硬い。
「生きて帰ってくださいよ」
「帰ったら一杯だ」
「熱いのを、用意しておきます」
ダリオは袋を腰に結びつけた。重みが、剣のそれとは違う安心感をくれる。
扉を押すと、外の冷気が肺の中の昨夜の麦酒の匂いを、一気に洗い流した。
*
北門の前には、一行が集まっていた。
門の脇の松明が雪面をぼんやり照らし、荷馬二頭が鼻を鳴らして白い息を吐く。そりには毛布と薪と食料が積まれ、紐でがちがちに縛られていた。ベルントはその紐を、何度も指でなぞって緩んでいないか確かめていた。
リナは麦藁色の髪に毛皮の頭巾を被り、父親のお下がりの杖を握りしめたまま、空を見上げていた。
「星が残ってます。今日は晴れですね」
「晴れの雪野が、一番冷える」
フィンが灰色の外套の襟を立てて言った。街の中の匂いがまだする顔だった。
門櫓の上に、黒い塊が一つ止まっていた。見上げると、ケスが手すりに止まってこちらを見下ろしている。
「風は北寄り。上は晴れだ」
「おはようさん。雀より早いな」
「鴉です」
ケスはそれきり、また北を眺めた。
ガズは荷馬の横の雪の上に立っていた。じっと動かず、白い息だけが生き物の印だった。
門の内側には、開門を待つ木こりが一人、騾馬と一緒にいた。ケスを見上げ、ガズを見て、少し離れたところへ移った。騾馬の鼻に向かって、低く何か言った。
空が白みはじめ、大聖堂の鐘が六つ打つ。
閂が抜かれ、重い扉が軋みを上げて、ゆっくりと開いた。
木こりが騾馬を引いて先に通り抜け、二度ほど振り返った。
門番のトマスが槍を持ち直した。若い顔に、生半可ではない緊張が張りついていた。
「トマス。卵はまだ好きか」
ダリオが声をかけると、トマスの顔が少しだけ解けた。
「好きですよ。新しい漬け物の店を見つけまして。赤蕪漬けの鶉卵が、一個銅貨二枚で」
「帰ったら食わせてくれるか」
「無事でお帰りください」
ダリオは軽く手を挙げ、門をくぐった。
門を出ると、世界が急に広くなった。雪に埋もれた街道が、高く澄んだ朝の空の下を北へ走っている。
*
最初の一里塚は、雪に半分埋もれていた。塚の上の標木だけが、黒い指のように空を指している。
風はないかわりに、冷えが骨まで入った。息が襟の毛皮に凍りつき、革の手袋の中で指が芯から冷える。そりの滑り木が雪を削る音が、一日中続く音だった。
時折、ケスが羽を広げて頭上へ出る。雪野には木も岩もなく、高さは翼でしか取れない。降りてくると、短く報告した。
「道は白で一続き。動くものなし。雪はこの先、ふえる」
「三里目から先は、冬のあいだ隊商が通れない道だと、聞いています」フィンが言った。
「通れない道を通るのが、今回の仕事だ」
ベルントはそりの紐を一度だけ撫でてから、言った。
「荷は、その先で待っています」
*
二里目の一里塚を過ぎる頃、道の景色が変わった。
両側に広がるのは、雪と枯れ草の荒れ野だ。枯れ草の中に、赤い棘草が点々と生えている。雪の上にも赤い実が散っていて、遠目には血の雫のようにも見えた。
風が吹くたびに、枯れた棘がカサカサと鳴った。
「なんだか綺麗ですけど」リナが言った。「嫌な色ですね」
「染料にはなるらしいが、この寒さじゃ誰も刈り取らん」
ダリオは足元を見た。靴紐に、赤い実が三つも絡みついている。棘の先が細かく、縄のようにしなやかに、革の目に食い込んでいた。
「実が絡むぞ。放っておくと、歩くたびに鳴く」
「音楽ですか?」
「足音が煩くなるだけだ」
実は靴紐だけではなかった。外套の裾、荷馬のたてがみ、そりの紐の結び目。払っても取っても、歩くたびに新しいのが絡む。リナは杖を持ったまま、片手で裾の実をちぎっては、雪の上に落とした。
「これ、食べられますかね」
「染料だ。食うと腹を壊す」
「赤いのに。食べられそうな色なのに」
「綺麗な色のキノコほど、腹を壊すんだ」
「……それ、新人に教えることなんですか?」
「今、教えた」
*
日が高くなり、雪面が急にまぶしく輝きだした。風の死んだ場所には、かすかな雪塵が光の中で舞っている。
その光の帯が、道端の岩に当たった。
ガズが、ぴたりと止まった。
先を行っていたダリオが気づいて振り返ると、ガズは岩の前で直立不動だった。灰色の鱗に日が当たり、尻尾だけがゆっくりと、満足げに地面を叩いていた。
「ガズ」
反応がない。
「おい、休憩はまだだ」
「……暖かい」
「雪の中だぞ」
「……ここだけ、夏」
ガズの目には熱が見える。あの岩が、あの一匹にどう見えているのか、ダリオには分からなかった。たぶん、燃えているのだろう。
リナがくすっと笑い、フィンが呆れたように息を吐いた。ダリオはガズの背中を叩く。
「岩は逃げん。行くぞ」
ガズは名残惜しそうに岩を一度振り返り、足を踏み出した。
昼前、ダリオは道端の岩陰を指した。
「飯だ。休憩は短く」
黒パンは拳骨で叩いて、やっと二つに割れた。
「石かと思いました」リナが言った。
「石よりは腹に入る」
干し肉は噛む前に目が沁みるほど塩っぱかった。雪を一掴み口の中で溶かしてから噛む。マスターの言ったとおり、まあ食えた。
食事の半ばで、荷馬が一度、大きくいななった。
何の前触れもなく、ただ鼻を鳴らして、首を振った。
「何かあるか」
フィンが手を剣の柄にかけて訊いた。
「ただの愚痴だろう」ダリオは荷馬の鼻を撫でた。「重いとか、寒いとか、飯が遅いとか」
「馬も文句を言うんですか」
「言わせてやれ。俺たちの代わりに言ってくれてる」
荷馬はまた、低くいななった。まるで「わかってる」とでも言うように。
*
昼過ぎの道は、来た道より静かだった。
日が傾くにつれ、雪の色が青灰色に変わる。影が長く伸び、風が少しずつ鋭さを増した。日中は柔らかかった棘草の実が、靴紐の先で氷のように硬くなり、歩くたびにカチカチと鳴った。
「野営だ」ダリオは言った。「あの岩陰だ。薪を拾え。火をおこす前に、雪を掘って風除けを作る」
リナが杖を握りしめ、フィンが荷馬を止めた。ケスは一番高い岩の上へ飛んだ。
空の端が、暗い藍色に沈みはじめていた。
西の空の最後の光が消えないうちに、一行は雪を掘りはじめた。
荒れ野の最初の夜が来る。




