第2章 依頼
師走十四日、朝七つの鐘が鳴り終わる頃、ダリオは冒険者組合の扉を押した。
扉は重く、蝶番が軋んだ。石壁の冷たい匂いと、古い紙の匂いがする。
暖炉の薪は松だった。
脂が多く、火の粉が飛びやすい。灰の積もった炉床に、新しい薪がくべられたばかりで、根のほうがまだ黒いまま、燃え移ろうとためらっていた。火の粉がひとつ、石壁に飛んで、消えた。床板には年輪みたいな焦げ跡が点々と残っている。何年もかけて火の粉が跳ね続けた証拠だった。
「いい話は、来てるか?」
ダリオは擦り切れた毛皮の外套から、昨夜の雪を払った。
奥の卓に、組合長のエーリカ・ランゲが座っている。
四十代半ば、刃のような目つきの女だ。その隣に、見慣れぬ商人が一人。
南訛りの、腹の出た五十代。話す前に荷の紐を触る癖がある、と聞いていたが、その通りだった。男は今も、膝の革鞄の紐を、指でゆっくりなぞっている。
「ベルント様だ」エーリカは言った。「参事会の依頼に、金を足してくれた」
「金貨二十枚を、ですか」
「その通り」ベルントは言った。
エーリカが依頼票を卓に置いた。参事会の用紙で、隅に判が押されている。
『北の村々へ出た徴税役アルドリックの迎え。帰還の折、税の帳簿と集めた税の護送を務めること。あわせて、消えた隊商の捜索』
余白に、走り書きがあった。
『迎えの隊商が戻らない』
「徴税役は、カルトブルンという寒村で雪に足止めされてる」エーリカは言った。「北の村々の税の帳簿と、集めた税の一部を手にしている。年明けの勘定までに戻さないと、参事会の帳簿が立たない」
「上が焦れてるわけだ」
「送れるのは我らだけだ。治安維持隊から隊員が一人、帳簿を運ぶために出る。他は、あんたの仕事だ」
ダリオは依頼票を見た。
余白の走り書きは、墨が薄い。書いた者が焦っていたか、書くのが面倒だったか。
二週間前、隊商が一つ、北街道で消えている。帰り道に消えたと聞く。行方は、誰も知らない。
「そもそも、なんで冬に北へ出た」ダリオはベルントに向き直った。「三つ目の一里塚から先は、冬のあいだ隊商不通だ。帳簿にもそう書いてある」
「参事会が出した、徴税役殿の迎えの隊商です。荷は二週間前、北へ売る毛織物と塩です。隊商に託した。戻らない。雪に埋もれれば、俺の財産のままだ」
ベルントは言った。言う前に、紐を触った。結び目を確かめるように、一回、二回。
「迎えの隊商が戻らない。なら、荷と、徴税役殿と、一緒に探して帰ってきてくれれば、それでいい。金貨二十枚です」
「報酬は、総額金貨五十枚」エーリカは事務的に言った。「前払いが金貨十枚。成功報酬が参事会の分二十枚、ベルント様の分二十枚。失敗すれば、成功報酬はなし」
金貨五十枚。
ダリオは炉の火を見た。松の根が、ようやく赤くなりかけていた。
雪の中を五里も六里も、魔物と野盗のいる荒れ野を歩く。安くはない。だが、手を出すには重い値段だ。
「受ける」
*
「で、他の面子は?」
「そこにいる」
麦藁色の髪の少女が、杖を握りしめたまま立ち上がった。
「リナです。魔法使い、新入り。杖は父親のお下がりですが、火の玉くらいは出せます」
「いくつだ」
「十六です」
「雪の中で出せるか」
「……なんとかします」
緊張すると杖を握りしめる癖がある、とダリオは見て取った。リナは慌てて指を開き、また握りしめた。食えないパン種を捏ねるような手つきだった。
窓際には、鴉人がいた。
黒い羽、鋭い目。窓枠の一番高いところに座っている。
「ケスだ。高い所から、遠くまで見える」
「どれくらい遠くまで」
「見えるところまでだ。鴉は嘘をつかない」
声は低く、乾いていた。
壁にもたれているのは、蜥蜴人だ。
灰色の鱗、太い尻尾。
「ガズ……だ」
言葉少なに、ダリオの顔ではなく、ダリオの靴を見た。それから手を見た。靴と手で人を覚える、と後に聞くことになる。
「熱が、見える」
「そりゃ、便利だ」
灰色の外套の若い男が、姿勢よく座っていた。
「フィン。治安維持隊の隊員だ」
「参事会の使いか」
「税の帳簿と、集めた税を街へ戻すのが務めだ。儲け話じゃない。命令だ」
真面目そうな顔をしていた。若い。
「斥候と衛士は、組合が外から雇った」エーリカは言った。「登録簿には載らん。金は前払い済みだ」
「俺はダリオ。剣を使う」ダリオは皆を見回した。「南の商人殿と、北の徴税役殿。金貨五十枚のために、雪の中を歩くことになった」
リナは、前払いの金貨二枚を手のひらに載せていた。
「二金貨ってことは、銅貨八百枚!」
「銀貨に換えりゃ四十枚だ」ダリオは言った。
「でも、銅貨のほうが、袋をぶら下げた時の重みがあって……」
「重いだけだろう」
「いいんです。数えるのが好きなんです」
リナは卓に金貨を並べ、指で計算をはじめた。
「麦酒が百六十杯。煮込みが八十皿。赤蕪漬けの鶉卵が、四百個」
「食って腹を壊すな」
「一日一個なら、四百日分です」
「一年とちょっとだな。年が明けても、卵が残るぞ」
「え。……あれ? 年明け……って、師走は三十日まで……」
リナは指を折りかけ、やめて頭を掻いた。
「まあいいです。初めての大きな金なんです。毎晩、寝る前に数えます」
「数えすぎると擦り切れるぞ」
「金貨は擦り切れません」
「指が擦り切れる」
「ところでダリオの親父」リナは金貨を握りしめたまま言った。「前ぶんが入ったら、錆び釘亭のツケ、払っといてあげましょうか」
「自分で払う。銅貨二枚だ」
「昨夜、稼げたら必ず払うって言ってましたよ」
「ここは組合の中だ。仲間に嘘はつけん。だが門を出れば、軽い約束は雪みたいに溶ける」
「ええっ。外って、そういう世界なんですか」
「だから前払いってものがある。手元の銅貨こそ、真実だ」
「……なんだか、信用できませんね」
「半分は冗談だ」
リナは胡散くさそうに、金貨を懐にしまった。
ベルントが立ち上がり、革鞄を肩にかけた。
そして、また紐を触った。
「俺も一行に加えてほしい。荷の行方は、自分の目で確かめたい」
「商人が雪野を歩くのは、珍しいな」
「荷は命なんです」
言う前に、紐を一度だけ撫でた。
エーリカはペンを取った。
依頼票の末尾に、依頼の条件を書き込み、名を署す。力のこもった、角のある書きっぷりだった。墨が乾くのを待ち、砂をぱらりと振って、依頼票を卓の向こうへ滑らせた。
『エーリカ・ランゲ』
署名は、金貨十枚よりも重く見えた。
「出発は、翌朝六つの開門だ」エーリカは言った。「北門の外は、雪の荒れ野だ。遅れたら、門を閉められるぞ。帰りが遅れれば、越冬だ」
「鐘の鳴る前には並ぶ」
「そりと荷馬は用意させる。毛布、薪、食料。干し肉は多めに持たせる。酒は野宿で二杯までだ」
「なぜ俺に言う」
「一番大きいからだ」
ダリオは依頼票を二つ折りにして、外套の内側にしまった。
暖炉の松が、ようやく根まで火を呑み、炎を立ち上げた。脂が爆ぜ、火の粉が石壁に散って消える。
朝六つの鐘で、門が開く。
その向こうは、雪だ。




