↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/16

第1章 噂

師走の雪は、足音を殺して街を埋める。


夕六つの鐘が鳴りやむと、グラウヴァルの下町の店々はいっせいに板を下ろした。大聖堂の鐘は六つを数え終えても、最後の音を雪の中に長く残した。北門はとっくに閉まっている。夜のあいだ、誰も城壁の外へは出られない。雪の向こうでは櫓の影が黒い塊になっていて、見張り番の灯りは消えたままだった。


ダリオは袖の中で手をこすり合わせ、雪の積もった通りを歩いた。三十代半ばの大男だ。腰に剣を吊り、外套の毛皮は擦り切れて肩口が寒い。髭の端が縮れている。その髭に雪がついて、見る間に白くなった。

(早く、一杯だ。)

(体の芯から熱いものが欲しい。)

屋根から落ちる雪が首筋に入り、溶けて背骨を伝う。轍は凍って硬く、足元が二度すべった。軒からはつららが折れて、目の前に落ちて砕けた。ダリオは首をすくめ、足を速めた。通りを行く人間は、襟を立てた巡回の隊員と、軒下へ滑り込んだ猫ぐらいのもので、誰も顔を上げて歩いていなかった。


錆び釘亭の看板は雪に埋れかけて、錆色だけが主張している。引き戸を開けると、湯気と麦酒と、湿った羊の毛皮の匂いが顔を舐めた。土間は融けた雪に濡れて、炉の煙が目を刺した。


「いらっしゃい、ダリオさん」


マスターの声だ。五十代の、よく通る丁寧な声。

店の中は、外よりはいくらか暖かい。角の炉に火が入って、黒い鉄鍋が湯を立てていた。梁は長年の煙を吸って、夜より黒い。マスターは肩に手ぬぐいを掛け、鍋の湯気の向こうに立っていた。


カウンターの空いた席に座る。


「麦酒を一つ。煮込みもだ。残りでいい、熱いのがいい」


「煮込みは今朝の残りですが、火には通しますよ」


マスターが呑口から麦酒を注ぐ。泡が立ち、縁すれすれで止まった。ダリオはジョッキを取るのももどかしく、半分を呷った。

喉の裏から熱が落ちていく。凍っていた指先が、ようやく動きはじめた。腹の奥まで熱が届いて、その日始まって初めて、肩の力が抜けた。


客はまばらだった。

角の席では、荷馬車の御者が煮込みを突ついている。羊毛商人と、毛皮の襟から顔だけ出した老人が、茶を啜っていた。日雇いらしい若い男が柱にもたれて居眠りをし、傍らの漬物壺が脇に押しやられていた。

誰もが外の雪の話をしていた。


「北街道は駄目だろうな」と御者が言った。「二里目まで進んだら、その先は雪で埋れてるそうだ」

「隊商が一つ、戻らないそうじゃないか」羊毛商人が声を潜める。「二週間前から音沙汰がないらしい」

「徴税役を迎えに行った連中だそうだ」

「参事会は何もしねえのか?」

「雪が解けるまで待つしかないだろ。誰がこんな雪の中、北へ行くもんか」

「馬鹿だな。この時期に北へ出るからだ。あの連中が戻らなけりゃ、年明けの勘定が立たねえそうだよ。上も上なら、焦れてるさ」


老人が茶碗を置いた。

「それだけじゃないぞ」

声は低く、乾いていた。

「三つ目の一里塚の先で、妙なもんを見たという奴がおる。晩秋から続いている話だ」

「妙なもん? 野盗か?」

「娘だ」老人は言った。「白い耳の娘だ。雪の中を歩いている」

「ははっ」羊毛商人が笑った。「爺さん、寒さで脳みそが凍ったんだろう。娘ならともかく、白い耳の狐ならいくらでも出るさ」

「炭焼きの爺さまが見たんだ。あいつは酒を飲まねえぞ」

老人は茶碗を両手で包み、壁の染みを見た。

「雪の上を歩いているのに、足跡がねえんだと。近づいても逃げねえ。こっちを見る。耳だけが、雪より白い」

御者が笑った。「幽霊だろ。こんな寒けりゃ、死人だって火が欲しくなる」

暖炉の薪が爆ぜた。

老人は笑わなかった。茶碗の縁を、ゆっくり指でなぞっていた。


*


煮込みが運ばれてくる。ダリオは黒パンを浸しながら、耳をそばだてた。

肉は固い。塩は効いている。腹の底を温めるには十分だ。肉より芋のほうが多かった。芋は煮えて柔らかく、肉よりずっと熱かった。


「この赤蕪漬け、いい色だな」と羊毛商人が言った。

「東の畑のやつです。今年は日照りのせいか、辛いですねえ」

「辛いくせに、やめられんのだ」


商人が小壺から鶉卵をつまみ出す。赤蕪漬けに沈んでいた卵は、真っ赤に染まっていて、その赤が何だかおかしいほど鮮やかだった。

ダリオは卵の壺を見た。

腹が鳴った。煮込みだけでは足りない。


「マスター。あの卵も一つくれ」

「赤蕪漬けの鶉卵ですね。銅貨二枚です」


卵は酢と塩で歯が浮くほど酸っぱく、その奥でじんと辛かった。

(うまい。)

(雪んこでも食ってるみてえだ。)


「麦酒が五枚、煮込みが十枚、卵が二枚」マスターが茶碗を重ねながら言った。「合わせて、銅貨十七枚です」


ダリオは腰の袋を探った。

出した銅貨は、十五枚。

机の上に並べ、数え直す。やはり十五枚だ。一枚は留め金の隙間に落ちてるらしい。ダリオは財布を敵でも睨むように見た。


「悪いな、マスター。二枚、後回しでいいか」

「またツケになりますよ」

「雪が解けたら払う」

「去年もそう言いましたね」

「去年は雪が解けただろ」

「雪は解けましたが、ダリオさんの財布は解けませんでしたよ」


ダリオは髭をひねった。縮れた毛が指に絡む。

「今度こそ本当だ。いい話が来てるんだ。春までには、ここで好きなだけ飲める」

「それは結構です」


マスターは十五枚の銅貨をさらりと数え、帳簿に墨で印をつけた。「残り二枚、確かに」

呆れるとも、怒るともつかない声だった。

銅貨の音に、居眠りの若い男が片目を開け、他人の金だと分かるとまた閉じた。


*


暖炉の火が小さくなる。

羊毛商人は上機嫌で鼻歌を歌っている。御者は明日は早えからと、角の席で丸くなった。

老人はまだ、壁の染みを見ていた。


ダリオはジョッキの底で、残った泡を回した。

(白い耳の娘。)

(雪んこの幻覚だろうよ。)


だが、笑ったのは酒を飲んだ者たちだけだった。

御者は笑って、それから黙った。明日は北門の外へ出るからだろう。

老人は笑わなかった。三里先の雪の中を、自分の目で見てきた顔をしていた。

マスターは噂など聞こえぬふうで、黙って呑口を拭いていた。


(まあ、いい。)

(雪の中に何が出ようが、俺の財布に銅貨が二枚足りないことのほうが、よほど現実だ。)

(明日は組合に、話がひとつくらい来るかも知れない。取って金を稼いだら、ツケを払う。あの爺さんに、熱い茶を一杯奢るくらいはしてもいい。)


ダリオは泡を呷って、ジョッキを置いた。

外では、雪がまだ降り続いていた。

白い耳の娘の噂を、笑う者と笑わない者がいる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。