第1章 噂
師走の雪は、足音を殺して街を埋める。
夕六つの鐘が鳴りやむと、グラウヴァルの下町の店々はいっせいに板を下ろした。大聖堂の鐘は六つを数え終えても、最後の音を雪の中に長く残した。北門はとっくに閉まっている。夜のあいだ、誰も城壁の外へは出られない。雪の向こうでは櫓の影が黒い塊になっていて、見張り番の灯りは消えたままだった。
ダリオは袖の中で手をこすり合わせ、雪の積もった通りを歩いた。三十代半ばの大男だ。腰に剣を吊り、外套の毛皮は擦り切れて肩口が寒い。髭の端が縮れている。その髭に雪がついて、見る間に白くなった。
(早く、一杯だ。)
(体の芯から熱いものが欲しい。)
屋根から落ちる雪が首筋に入り、溶けて背骨を伝う。轍は凍って硬く、足元が二度すべった。軒からはつららが折れて、目の前に落ちて砕けた。ダリオは首をすくめ、足を速めた。通りを行く人間は、襟を立てた巡回の隊員と、軒下へ滑り込んだ猫ぐらいのもので、誰も顔を上げて歩いていなかった。
錆び釘亭の看板は雪に埋れかけて、錆色だけが主張している。引き戸を開けると、湯気と麦酒と、湿った羊の毛皮の匂いが顔を舐めた。土間は融けた雪に濡れて、炉の煙が目を刺した。
「いらっしゃい、ダリオさん」
マスターの声だ。五十代の、よく通る丁寧な声。
店の中は、外よりはいくらか暖かい。角の炉に火が入って、黒い鉄鍋が湯を立てていた。梁は長年の煙を吸って、夜より黒い。マスターは肩に手ぬぐいを掛け、鍋の湯気の向こうに立っていた。
カウンターの空いた席に座る。
「麦酒を一つ。煮込みもだ。残りでいい、熱いのがいい」
「煮込みは今朝の残りですが、火には通しますよ」
マスターが呑口から麦酒を注ぐ。泡が立ち、縁すれすれで止まった。ダリオはジョッキを取るのももどかしく、半分を呷った。
喉の裏から熱が落ちていく。凍っていた指先が、ようやく動きはじめた。腹の奥まで熱が届いて、その日始まって初めて、肩の力が抜けた。
客はまばらだった。
角の席では、荷馬車の御者が煮込みを突ついている。羊毛商人と、毛皮の襟から顔だけ出した老人が、茶を啜っていた。日雇いらしい若い男が柱にもたれて居眠りをし、傍らの漬物壺が脇に押しやられていた。
誰もが外の雪の話をしていた。
「北街道は駄目だろうな」と御者が言った。「二里目まで進んだら、その先は雪で埋れてるそうだ」
「隊商が一つ、戻らないそうじゃないか」羊毛商人が声を潜める。「二週間前から音沙汰がないらしい」
「徴税役を迎えに行った連中だそうだ」
「参事会は何もしねえのか?」
「雪が解けるまで待つしかないだろ。誰がこんな雪の中、北へ行くもんか」
「馬鹿だな。この時期に北へ出るからだ。あの連中が戻らなけりゃ、年明けの勘定が立たねえそうだよ。上も上なら、焦れてるさ」
老人が茶碗を置いた。
「それだけじゃないぞ」
声は低く、乾いていた。
「三つ目の一里塚の先で、妙なもんを見たという奴がおる。晩秋から続いている話だ」
「妙なもん? 野盗か?」
「娘だ」老人は言った。「白い耳の娘だ。雪の中を歩いている」
「ははっ」羊毛商人が笑った。「爺さん、寒さで脳みそが凍ったんだろう。娘ならともかく、白い耳の狐ならいくらでも出るさ」
「炭焼きの爺さまが見たんだ。あいつは酒を飲まねえぞ」
老人は茶碗を両手で包み、壁の染みを見た。
「雪の上を歩いているのに、足跡がねえんだと。近づいても逃げねえ。こっちを見る。耳だけが、雪より白い」
御者が笑った。「幽霊だろ。こんな寒けりゃ、死人だって火が欲しくなる」
暖炉の薪が爆ぜた。
老人は笑わなかった。茶碗の縁を、ゆっくり指でなぞっていた。
*
煮込みが運ばれてくる。ダリオは黒パンを浸しながら、耳をそばだてた。
肉は固い。塩は効いている。腹の底を温めるには十分だ。肉より芋のほうが多かった。芋は煮えて柔らかく、肉よりずっと熱かった。
「この赤蕪漬け、いい色だな」と羊毛商人が言った。
「東の畑のやつです。今年は日照りのせいか、辛いですねえ」
「辛いくせに、やめられんのだ」
商人が小壺から鶉卵をつまみ出す。赤蕪漬けに沈んでいた卵は、真っ赤に染まっていて、その赤が何だかおかしいほど鮮やかだった。
ダリオは卵の壺を見た。
腹が鳴った。煮込みだけでは足りない。
「マスター。あの卵も一つくれ」
「赤蕪漬けの鶉卵ですね。銅貨二枚です」
卵は酢と塩で歯が浮くほど酸っぱく、その奥でじんと辛かった。
(うまい。)
(雪んこでも食ってるみてえだ。)
「麦酒が五枚、煮込みが十枚、卵が二枚」マスターが茶碗を重ねながら言った。「合わせて、銅貨十七枚です」
ダリオは腰の袋を探った。
出した銅貨は、十五枚。
机の上に並べ、数え直す。やはり十五枚だ。一枚は留め金の隙間に落ちてるらしい。ダリオは財布を敵でも睨むように見た。
「悪いな、マスター。二枚、後回しでいいか」
「またツケになりますよ」
「雪が解けたら払う」
「去年もそう言いましたね」
「去年は雪が解けただろ」
「雪は解けましたが、ダリオさんの財布は解けませんでしたよ」
ダリオは髭をひねった。縮れた毛が指に絡む。
「今度こそ本当だ。いい話が来てるんだ。春までには、ここで好きなだけ飲める」
「それは結構です」
マスターは十五枚の銅貨をさらりと数え、帳簿に墨で印をつけた。「残り二枚、確かに」
呆れるとも、怒るともつかない声だった。
銅貨の音に、居眠りの若い男が片目を開け、他人の金だと分かるとまた閉じた。
*
暖炉の火が小さくなる。
羊毛商人は上機嫌で鼻歌を歌っている。御者は明日は早えからと、角の席で丸くなった。
老人はまだ、壁の染みを見ていた。
ダリオはジョッキの底で、残った泡を回した。
(白い耳の娘。)
(雪んこの幻覚だろうよ。)
だが、笑ったのは酒を飲んだ者たちだけだった。
御者は笑って、それから黙った。明日は北門の外へ出るからだろう。
老人は笑わなかった。三里先の雪の中を、自分の目で見てきた顔をしていた。
マスターは噂など聞こえぬふうで、黙って呑口を拭いていた。
(まあ、いい。)
(雪の中に何が出ようが、俺の財布に銅貨が二枚足りないことのほうが、よほど現実だ。)
(明日は組合に、話がひとつくらい来るかも知れない。取って金を稼いだら、ツケを払う。あの爺さんに、熱い茶を一杯奢るくらいはしてもいい。)
ダリオは泡を呷って、ジョッキを置いた。
外では、雪がまだ降り続いていた。
白い耳の娘の噂を、笑う者と笑わない者がいる。




