第15章 白い耳
師走二十日。一行は三つ目の一里塚を後にして、傾きはじめた日を背に、南の雪原を歩いていた。
風は弱まっていたが、雪面は風に削られて硬い灰色の殻となっている。負傷者を乗せたそりが、その殻を割って進むたび、きしきしと乾いた音を立てた。
ダリオは列の先を歩きながら、左肩を押さえていた。巻かれた布は血を吸って固まり、板のようになっている。腕を振るうたびに傷が布を引き寄せ、肩の奥へ鈍い痛みが走った。それでも足は動く。足が動くあいだは、歩ける。
荷馬二頭がそりを引く。その上でヨーストが毛布にくるまれ、隊商の老人の一人が傍らで時折うめいていた。ベルントはそりの傍らを歩き、右手でそりの綱を、左手で息子の足首を握ったまま離さなかった。顔は雪と疲労で濁っていたが、背中から力が抜けていた。街を出たときからずっと、強張っていた背中から。
アルドリックはそりの後ろに続いた。地下の石の部屋に二週間籠もった徴税役は、酔ったように足をよろめかせながらも、倒れずに歩いた。フィンがその隣を歩く。腕には帳簿の小箱を抱え込んでいた。重い箱だった。北の村々の人々の生活と、参事会の勘定が、あの重みの中に詰まっている。
「水を」と、アルドリックが嗄れた声で言った。
「水筒にはまだあります」と、フィンは自分のを渡した。「ゆっくり飲んでください」
列のまんなかを、リナが歩いていた。
「火が二回と、氷が一回」と、彼女は歩きながら指を折って数えた。「まだ、いけます」
「取っておけ」と、ダリオは振り返らずに言った。「帰りの見張りに使え」
「もう帰ってるんですけどね」
「魔物が生きてるあいだは、帰りじゃない。退き足だ」
後衛はガズが歩いた。ときどき立ち止まり、尻尾を引き戻して、背後の雪原をじっと見る。
「どうだ」と、ダリオが訊いた。
「熱は、薄い」と、ガズは言った。「遠い。ただ……動いてはいる」
「動いてる?」
「ゆっくりだ。傷を舐めているのかもしれん」
ダリオは返事をしなかった。外套の襟を引き上げて、足を進めた。
*
西の空が赤く焼け、東の空が紺色に沈みかけたころ、枯木の梢の上からケスの声が落ちてきた。
「止まれ」
一行が止まると、鴉は羽を広げて道端の切り株に降り、枯れた棘草の茂みを翼で指した。
「あれ」
棘の先に、白い毛が絡んでいた。
拳ほどのひとふさの、白い毛。まわりの雪よりも白く、柔らかそうな毛だった。風が少し吹くと、ふわりと先だけが揺れて、また棘に絡みついた。
「兎の毛か?」と、フィンが訊いた。
「兎にしては長い」と、ガズが首を傾げた。「それに、生き物の熱がない。まるで最初から、そこに置かれていたみたいに」
「足跡は」と、ダリオがケスに訊いた。
「ない」と、鴉は言った。「獣の跡も、人の跡もない。雪面は風に削られている。この毛だけが、棘に引っかかっている」
ダリオは棘草の茂みへ歩み寄った。
毛は、綺麗だった。泥も血も焦げた匂いもない。荒れ野の獣の毛というより、街に住む誰かの髪のようだった。それも、真っ白な、汚れひとつない髪。
魔物の毛皮は、川底の丸石のように硬かった。あの硬さは、まだダリオの手のひらに焼きついている。だが、この毛は握れば溶けてしまいそうだった。
「あれ、もしかして」と、リナが小声で言った。「幽霊の?」
「幽霊に毛はないだろ」
「でも、足跡もなかったし」
「風が運んだんだ」
「白い髪って、誰のものだろうね」と、ベルントがぼんやりと呟いた。「老人? それとも……」
誰も答えなかった。
ダリオは手を伸ばしかけて、止めた。触れた途端に、何かが決まってしまうような気がした。
「触るな」と、ダリオは言った。「行くぞ」
「でも、このまま置いていくんですか」
「持ち主が探しに来るさ。持ち主がいるなら」
ダリオは棘草の茂みに背を向けて、足を進めた。背中で、リナが「ふーん」と息を吐くのが聞こえた。
白い毛は、そのまま棘に絡んで残された。誰も拾わず、誰も壊さず、一行が歩き去って風の音だけが戻ってくると、それは雪原のまんなかで、柔らかく白く、揺れ続けていた。
*
夜、一行は枯木の並びの陰、岩の風除けになる場所で野営した。
そりを止めようと、リナが後ろ向きで誘導していた。
「もっと右、いや、左! あと少し! 止まって!」
彼女はそりの勢いを止めようと雪に踏み込んだが、右足が雪から突き出たそりの柄を踏み外した。
「わっ」
雪の中に、杖ごと突っ込んだ。雪の上に足だけが二本、ぴくぴくと突き出た。
「大丈夫か」と、ダリオが駆け寄って足を掴んだ。
「うぐっ」。リナは雪を吐き出しながら引きずり出された。顔は寒さで真っ赤で、鼻の穴に雪が詰まっていた。
「杖が……」彼女は雪を吐きながら言った。「杖が折れてないか、心配で」
「自分の鼻は心配しないのか」
「鼻は擦りむいただけです。雪だるま作る練習だと思えば、安いもんです」
「次は上を向いて転べ」と、ガズが真顔で言った。「そのほうが、暖かい」
ダリオは鼻を鳴らして、彼女に荷運びを手伝わせた。
焚き火が赤く燃える。乾いた肉が網の上で焦げ、脂が落ちて小さな炎を立てた。パンは硬かったが、スープに浸せば温かかった。
ヨーストは父の肩に寄りかかって、干し肉を少しずつ齧った。アルドリックと老人たちは火を囲み、食事の塩気と熱を、黙って味わっていた。誰も多くは話さなかった。生きている手触りを、確かめるように火の熱を浴びていた。
フィンは帳簿の小箱を膝に抱えたまま、時々鍵穴を指先で確かめた。その手つきが落ち着いて見えたので、ダリオは彼が箱を渡すまでの自分の役目を果たした気でいるのだと思った。
ガズは火の近くで尻尾を丸め、目を閉じていた。熱を求める蜥蜴の身体が、赤い光を静かに浴びていた。
空はすっかり暗くなり、星がこの一週間のどの夜よりも澄んで出ていた。
東の空に赤い星が一つ、北の空に白い星がぎっしりと並んでいる。リナは首を伸ばして数えはじめた。
「一つ、二つ、三つ……」
三十を越えたあたりで、彼女は首をすくめ、フードの雪を払った。
「数えきれません。首が冷える」
「数えなくても、明日もそこにあるさ」と、ダリオは言った。
「明日は、街の中ですよ。天井が低くて、煙が溜まる」
「街の中にも、空はある。煙の隙間から、上を見ればいい」
「そうですか?」
リナはもう一度だけ空を見上げてから、襟を引き締めた。
*
ダリオは見張り番の岩の上に座った。
肩が痛む。心臓が打つたびに、傷がずきずきと脈を打つ。だが、その痛みは、生きてここにいる証だった。
南の空の暗がりに、点のような橙色の光が、瞬いた。
「なんだありゃ」と、見張りの交代に来たフィンが、同じ場所を見て言った。
「灯りだ」ダリオは言った。「北門の街の灯りだ」
「灯り? まだ数里あるはずでは」
「壁は灯りを弾く。晴れた夜なら、案外遠くまで見える」
「朝六つの鐘には、間に合いますか」
「朝の出立で、怠けなければな」
フィンはその灯りをしばらく見つめてから、白い息を吐いた。
「街の灯りを見るのは、久しぶりです」
「すぐに慣れるさ」
「門番は驚くでしょうね。これだけの人数で」
「驚くだろ。だが、門は開ける」
雪原の向こうで、街が眠っている。あそこには、暖かい酒と、堅い床と、参事会の帳面の匂いがある。もしかすると、不愛想な酒場の親父さえいる。
ダリオは肩の痛みを噛み締めながら、その灯りを眺めた。




