第14章 荒れ野の魔物
水滴が、もう一度落ちた。
動いたのは、ダリオ一人だった。
「掘るぞ」剣は抜かず、鞘ごと手にしたまま言った。「上だ」
「熱いのが入口にいる」ガズが言った。「真上だ」
「座り込まれたままじゃ、こっちは餌だ。雪の天井は薄い。掘って吹き抜けにして、そいつをこっちへ落とす」
「落とした、あとは」
「狭い所で斬る。あいつにせよ、こっちにせよ、廊下は狭すぎる」
リナが杖を握りしめた。指が白くなるほど強く握って、それから自分で少し緩めた。
「音で探るんだろ」とダリオはガズに訊いた。「なら、掘る音で呼べる」
ガズはしばらく黙していた。鱗のある指の腹を、石の床に当てている。
「……動いた。熱い塊が、頭を下げた」
「聞いてる、ってことだ」
ダリオは火打石と松明の残りをフィンに押しつけた。アルドリックたちと、担架の上のヨーストは廊下の奥へ下がる。ベルントが担架の綱を締め直して、それに続いた。
「掘るなと言ったら、手を止めろよ」
ダリオは入口の雪に鞘を叩き込んだ。三度。四度。雪塊が崩れ、灰青い空が差し込んだ。
五度目を叩き込んだところで、天井が、落ちてきた。
落ちてきたというより、流れ込んできた。
*
白い毛皮の塊が、音もなく廊下へ滑り込んできた。
長い胴。短い足がいくつも、左右に並んで、間なしに動く。目は小さく、濡れた珠みたいに光らなかった。頭だけが、鞘の音の残った方へ向いていた。
「離れろ!」ダリオは叫んだ。叫んだ瞬間に、後悔した。音で探る獣に、いちばん大きい音をくれてやったのだ。
獣が跳んだ。
ダリオは剣を抜いて横に払った。刃は毛皮を掠めただけだった。感触は、川底の丸石を叩いたようだった。
獣が笛を吹くような、高い音で鳴いた。
短い足が一度に動いて、突進してくる。
「下がれ!」
ダリオが転がり、獣の胴体が壁を削って通過した。石積みの壁が、鈍い音を立てて崩れた。石の粉と雪が、松明の火の中を舞った。
暗がりの中で、白い塊が一度だけ見えた。目では追えない。
「ガズ! どこだ」
「左! 熱いのが、左の壁沿いに戻る!」
ダリオは左へ踏み込んで剣を振った。今度は刃が食った。毛皮が裂けて、指一本ぶんの深さ。獣が高く鳴いて壁を蹴り、跳びはねた。ガズの太い尻尾が横から鼻先を殴り、獣はよろめいた。
廊下が狭い。獣にとっては、狭すぎる。
獣はそれを悟ったのか、入口の掘った穴へ、雪を蹴って戻りはじめた。
「リナ!」
リナが前に出た。杖が火を吐いた。
火の玉は獣の足元の雪に飛び込み、ジュウ、という短い音を立てた。
燃え広がらない。煙も出ない。獣も、ぴたりとは止まらなかった。
ただ、足元の雪が解けて、黒い水の溜まりが広がっただけだった。
「……あ」リナが呟いた。「溶けちゃった」
ダリオは笑いそうになった。笑っている暇はない。だが、獣の短い足が、その黒い水の中で滑ったのを、リナが見た。
リナも、それを見た。そして、杖を握り直した。
「水なら――」
杖を振る。
「凍れ!」
水が、音を立てて氷になった。湯気ごと、白く固まる。
獣の短い足が、地面に張り付いたように動かなくなる。爪が氷を掻き、長い胴が横倒しに滑った。獣は暴れた。氷が軋み、ひびが走る。
「今だ!」
ダリオは立ち上がり、剣を振り下ろした。肩の力を抜いて、振り子のように。
刃が白い背中を裂いた。今度は深い。血が、氷の上に赤い花を咲かせた。
獣が吠えた。氷を引きちぎる音がして、白い塊は廊下を走り抜け、掘った穴から雪原へ放り出された。
その通り過ぎざま、左の爪が、ダリオの肩口を掠めていった。
外套ごと、皮膚を裂く。熱い。血が、指先まで伝わってくる。
「走れ!」ダリオは叫んだ。「出ろ! 外へ!」
*
一行は、昨晩掘って入った穴の坂を伝って雪原へ出た。ダリオが最後だった。
外は晴れていた。昼の鐘は、ここまで届かない。それでも空の高さで、昼だと分かった。雪の照り返しが、目の奥を刺した。
血の匂いがした。
鉄と、濡れた砥石と、よく切れた刃物の匂いだ。雪の中を、どこからともなく漂ってくる。ダリオの肩からなのか、獣の背中からなのか、分からなかった。ただ、匂いだけが、寒さより確かに鼻についた。
十歩先で、白い塊が雪の中に据わっていた。
獣が、こちらを向いた。濡れた珠の目が、音のした方を探っている。
フィンの手の中の松明が、風に煽られて燃え上がった。
獣の頭が、火のほうへ引いた。短い足が、慌ただしく後ろへ動く。獣は雪を押し分け、西の棘草の茂みのほうへ、体を引きずるようにして走り去った。
「荷馬! 荷馬を!」フィンが叫んだ。
枯木の並びに繋いだ荷馬が、嘶いて暴れていた。そりの綱が一本、切れている。干し肉の包みがそりから滑り落ちて、雪に埋まっていた。
リナが走って行って、包みを掘り出した。
「雪、払えば食えるやつです」
「そんなことは、あとでいい。乗せろ!」
ダリオはヨーストを担架ごとそりに放り込んだ。アルドリックと老人たちが続く。フィンが荷を放り込み、帳簿の小箱だけは懐に入れてから、手で押さえた。
ケスが枯木によじ登り、一番高い枝から西と北をのぞいた。
「跡は西」と、上から声が落ちてきた。「棘草の茂みの奥。血が、点々と」
ダリオは塚の裏の雪原へ目をやった。
戦いの跡で、ぐちゃぐちゃだった。氷の破片と、黒い血の染みと、踏み荒らされた白い雪。崩れた雪の穴が、口を開けている。
その雪の上に、足跡があった。
一行のものではない。
熊に似た跡だが、指が六本ある。胴を引きずった深い溝がそれに添って、西の茂みへ向かっていた。途切れ途切れの血の点が、雪の上に朱の玉のように散っていた。
「深追いはしない」ダリオは言った。「行くぞ。南だ」
*
一行は南へ走った。半里ほど行って、ダリオは手を挙げた。
「止まれ」
誰も追ってこない。ガズが頷いた。
「熱は、ない。遠い」
一行は息を吐いた。荷馬が鼻を吹いた。白い息が、雪の上でひと筋立った。
リナが杖を握ったまま、自分の両手を交互に見た。
「火が二回と、氷が一回、残ってます」
「帰りの見張りに残しておけ」とダリオは言った。肩を押さえると、手のひらがぬるりと濡れた。
フィンが自分の袖を裂いて、黙ってダリオの肩に巻いた。血はすぐに布を染めたが、寒さで固まると、動くのも少し楽になった。
「痛むか」
「肩だけだ。足はある」
「……参事会には、私から報告する」とフィンは言った。「魔物のことも、全部」
「帳簿と税さえ無事なら、文句は言われんさ」
「肩の傷の話は」とリナが横から割り込んだ。「麦酒一杯の値打ちだ。あたしが貸した金の利子の、そのまた利子ね」
ダリオは返事をしないで、立ち上がった。
「行こう。日が沈むまでに、三里、南へ戻る」
一行はまた歩きはじめた。
しばらく行って、ダリオは一度だけ振り返った。
塚の輪郭が、遠くなっていた。崩れた穴の黒い口。その前の、氷と血とで踏み荒らされた雪原。あの雪の上を、指が六本の足跡と引きずりの溝が、西の棘草の向こうまで続いていた。
風が、もう跡の縁を削りはじめていた。
傷は深い。生きている。飢えている。
ダリオは肩の布を押さえて、前を向いた。
一行はまた、南へ歩きはじめた。




