第70話 名乗りと、閉ざされた扉
応接室へ向かう廊下は、いつもより静かだった。
騎士たちの足音も、控えめに抑えられている。
まるで、この先にある扉が王都の均衡を左右するかのように、誰もが息を潜めていた。
私は歩きながら、胸の奥に残るざわつきを押し込むように深く息を吸った。
黒衣の一団の影。
民の不安。
そして、私を“鍵”と呼んだ公爵の言葉。
どれも昨日までの私には想像できなかった重さだった。
騎士団長が横に並び、低い声で言った。
「リリア殿。応接室にいる男……カイルと名乗ったそうだが、記録には存在しない。」
「記録に……?」
「ああ。王都の住民台帳にも、商人組合にも、騎士団の監視名簿にも該当がない。完全な“外部の人間”だ。」
胸の奥が冷たくなる。
民の代表を名乗りながら、王都のどこにも痕跡がない人物。
それだけで、警戒すべき理由として十分だった。
「彼は……危険ですか。」
「断言はできない。だが、あなたに接触するために“民の代表”を名乗ったのは確かだ。」
騎士団長の声は、昨日よりも硬かった。
その硬さは、私を守ろうとする意思の表れでもあった。
公爵が後ろから歩いてきて、静かに言った。
「リリア殿。あなたが応接室へ向かうこと自体が、王都の空気を変える。」
「空気を……?」
「民はあなたを希望として見ている。だが、別の勢力はあなたを“鍵”として見ている。あなたが誰と会い、何を話すかで、王都の均衡は簡単に揺らぐ。」
その言葉は、昨日までの私なら重すぎて受け止められなかっただろう。
けれど今は違う。
民の前で魔法を消したあの日から、私はもう“ただの令嬢”ではなくなった。
廊下の角を曲がると、応接室の前に騎士が二人立っていた。
扉の前で緊張した面持ちで待機している。
「公爵。中の者は落ち着いていますが、騎士の質問には答えようとしません。」
「答えない……?」
「はい。“リリア様に直接話す”と言い張っています。」
騎士団長が眉をひそめた。
「リリア殿。やはり危険だ。私が代わりに話を」
「いいえ。」
私は首を振った。
自分でも驚くほど、声は震えていなかった。
「私が行きます。」
公爵と騎士団長が同時に私を見た。
その視線には、驚きと心配が混じっていた。
「リリア殿……。」
「逃げても、追ってきます。なら、正面から向き合います。」
昨日までの私なら、こんな言葉は言えなかった。
けれど、黒衣の一団が私を探しているという事実が、私の背中を押していた。
公爵はしばらく私を見つめ、やがて静かに頷いた。
「……分かった。だが、決して一人にはしない。」
騎士団長が剣を握り直した。
「応接室までお送りします。何があっても、私が守ります。」
私は小さく頷き、扉の前に立った。
扉の向こうには、私の力を知る者がいる。
そして今、私を必要としている者がいる。
その存在が、王都の均衡を静かに揺らしていた。
扉に手をかけると、木の感触がひどく冷たく感じられた。
まるで、これから向き合う現実の冷たさを予告しているようだった。
騎士団長が小さく言った。
「リリア殿。深呼吸を。」
私は頷き、静かに息を吸った。
胸の奥のざわつきが、少しだけ落ち着く。
公爵が言った。
「入る前に、ひとつだけ伝えておく。」
私は振り返る。
「……何でしょう。」
「カイルは、あなたの力を“見た”と言ったそうだ。」
胸が強く脈打った。
「見た……?」
「そうだ。昨日の混乱のどこかで、あなたが魔法を消した瞬間を目撃した可能性がある。」
息が詰まる。
民の前で魔法を消したあの瞬間。
その場にいたのは、民と騎士だけではなかったのかもしれない。
「あなたの力を知る者が増えるほど、あなたの立場は危うくなる。」
公爵の声は静かだったが、その静けさが逆に重かった。
「だからこそ、慎重に話を進めてほしい。」
「……分かりました。」
私は扉に向き直った。
手が少し震えている。
けれど、逃げる気持ちはなかった。
騎士団長が扉に手を添えた。
「開けます。」
扉がゆっくりと開く。
その瞬間、応接室の空気が流れ込んできた。
静かで、重くて、どこか張り詰めた空気。
その空気の中心に、ひとりの男が座っていた。
黒衣ではない。
民の服でもない。
どこか旅人のような、しかし粗末ではない衣服。
カイルは、騎士に囲まれながらも落ち着いた態度で座っていた。
視線はまっすぐで、揺れがない。
私が姿を見せると、彼は静かに頭を下げた。
「来てくださって……感謝します、リリア様。」
その声は、思っていたよりも柔らかかった。
敵意も、焦りもない。
ただ、何かを伝えようとする強い意志だけがあった。
私は一歩踏み出した。
「あなたが……カイルさんですね。」
「はい。」
彼は顔を上げ、まっすぐ私を見た。
「あなたの力を見ました。だからこそ、伝えなければならないことがあります。」
その言葉は、扉を開ける前よりもずっと重く響いた。
私は息を整え、彼の言葉を受け止める覚悟を固めた。
応接室の空気は、外のざわめきとはまるで別世界のように静かだった。
騎士たちが壁際に控え、カイルはその中心で落ち着いた姿勢のまま座っている。
その静けさが逆に不気味で、胸の奥がじわりと熱くなる。
私はゆっくりと歩み寄り、彼の正面に立った。
「……私に話があると聞きました。」
カイルは顔を上げ、まっすぐ私を見た。
その瞳には、恐れも焦りもなく、ただ強い意志だけが宿っていた。
「はい。あなたにしか伝えられないことです。」
その言葉は、扉を開けた瞬間よりも重く響いた。
公爵が私の横に立ち、低い声で言った。
「カイル殿。まずは名乗れ。どこから来た。なぜリリア殿を知っている。」
カイルはわずかに視線を公爵へ向け、静かに答えた。
「名はカイル。出身は……王都ではありません。」
「ではどこだ。」
「それは、今は言えません。」
騎士団長が一歩前へ出た。
「言えない理由は何だ。隠す必要があるのか。」
「あります。」
カイルは即答した。
その声は揺れず、迷いもなかった。
「私がどこから来たかを明かせば、あなた方は私を“敵”と判断するでしょう。」
公爵の眉がわずかに動いた。
「敵ではないと言いたいのか。」
「ええ。私はあなた方の敵ではありません。」
その言葉は、嘘をついているようには聞こえなかった。
けれど、信じられるほど単純でもない。
私は口を開いた。
「私の力を見たと言いましたね。いつ、どこで。」
カイルは私へ向き直り、静かに言った。
「昨日の王都の混乱の中です。あなたが魔法を消した瞬間を、遠くから見ていました。」
胸が強く脈打った。
あの時、民の前で魔法を消した。
その場にいたのは民と騎士だけではなかったのかもしれない。
「あなたの力は……危険です。」
カイルの言葉は、まるで刃物のように鋭く心に刺さった。
「危険……?」
「ええ。あなたが魔法を消せるという事実は、王都の均衡を壊す力になります。」
公爵が低い声で言った。
「それを“危険”と呼ぶなら、なぜここへ来た。」
「危険だからこそ、伝えなければならないことがある。」
カイルはゆっくりと立ち上がった。
騎士たちが一斉に剣に手をかける。
「動くな。」
「座ったまま話せ。」
騎士団長の声が鋭く響く。
しかしカイルは怯える様子もなく、両手を見せるように軽く上げた。
「敵意はありません。武器も持っていません。」
その姿勢は、確かに攻撃の意思を感じさせなかった。
けれど、油断できるほど単純でもない。
私は一歩前へ出た。
「カイルさん。あなたは民の代表を名乗りました。でも、王都の記録には存在しない。あなたは……何者なのですか。」
カイルは少しだけ目を伏せ、そしてゆっくりと答えた。
「私は……“逃げている者”です。」
騎士団長が眉をひそめた。
「逃げている……?」
「ええ。追われています。」
「誰に。」
「それは……言えません。」
公爵が低い声で言った。
「言えないことが多すぎる。」
「言えない理由があるのです。」
カイルは静かに続けた。
「ただひとつだけ言えるのは……私を追う者たちは、あなたの力を探しています。」
空気が一瞬で凍りついた。
騎士団長が剣を握り直す。
「リリア殿の力を……?」
「はい。あなたの力を使えば、王都の魔法体系を崩せるからです。」
胸の奥が冷たくなる。
魔法を消す力が、民を救う力であると同時に、王都を破壊する力にもなり得る。
その事実が、初めて現実として迫ってきた。
「私は……あなたを守りたい。」
カイルの声は静かだった。
その静けさが逆に重かった。
「守る……?」
「ええ。あなたが彼らに捕まれば、王都は混乱に飲まれます。」
公爵が鋭い視線を向けた。
「彼らとは誰だ。」
「それは……まだ言えません。」
「言えない理由は何だ。」
「言えば、あなた方も危険に巻き込むからです。」
騎士団長が低く言った。
「すでに巻き込まれている。」
カイルはわずかに目を伏せた。
「……そうかもしれません。」
私は息を整え、静かに言った。
「カイルさん。あなたは私に何を求めているのですか。」
カイルはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、強い意志が宿っていた。
「あなたに……“知ってほしい”。」
「何を。」
「彼らが何をしようとしているのか。」
その言葉は、応接室の空気をさらに重くした。
「私は一人では止められません。あなたの力が必要です。」
騎士団長が即座に反発した。
「リリア殿を巻き込むつもりか。」
「違います。」
カイルは首を振った。
「巻き込むのではなく……“知らせる”のです。」
公爵が静かに言った。
「知らせるだけで済む話ではないだろう。」
「ええ。済みません。」
カイルははっきりと言った。
「あなたが動かなければ、王都は必ず混乱に飲まれます。」
その言葉は、昨日までのどんな警告よりも重かった。
私は胸の奥のざわつきを押し込むようにして、静かに息を吸った。
「……あなたが逃げている相手。私の力を探している者。彼らは……どこにいるのですか。」
カイルは答えようとした。
その瞬間、応接室の外から、騎士の叫び声が響いた。
「公爵!外に……黒衣の一団が現れました!」
空気が一気に張り詰める。
騎士たちが剣を抜き、応接室の扉へ向かう。
公爵が鋭く言った。
「リリア殿、後ろへ!」
私は反射的に下がる。
胸の奥が強く脈打つ。
黒衣の一団が、ついに、私の居場所を突き止めたのだ。
カイルは静かに目を閉じた。
「……来ましたか。」
その声は、覚悟を決めた者の声だった。
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