第66話 民の前に立つ
屋敷の廊下を歩いていると、いつもと違う気配がした。
空気がざわついている。
風が吹いているわけでもないのに、どこか遠くで人の声が重なり合っているような、そんなざわめきが屋敷の壁を震わせていた。
角を曲がると、若い騎士が慌ただしく走ってきた。
普段は冷静な彼が、息を切らしている。
「リリア殿……!王都で、魔法式の設備が次々と暴走しています!」
「暴走……?」
「魔法灯が火花を散らし、水路は逆流し、扉や橋が勝手に動き出しているとの報告が……。魔導士団は魔法を使えず、騎士団だけでは対応しきれません!」
胸の奥が冷たくなる。
魔法の弱まりが進んでいることは知っていた。
けれど、設備が暴走するほど深刻だとは思っていなかった。
「公爵様は……?」
「すでに執務室で対応を協議されています。急いで向かってください!」
私は頷き、足を速めた。
廊下を走る騎士たちの足音が、いつもよりずっと重く響いている。
魔法が使えない王都は、まるで支柱を失った建物のように揺らいでいた。
執務室の扉を開くと、空気が張り詰めていた。
公爵は壁に貼られた王都の地図の前に立ち、複数の区画に印をつけている。
騎士団長は窓際で腕を組み、魔導士団長は書簡を広げていた。
三人とも、まるで戦場の前線にいるような表情だった。
「リリア殿。」
公爵が振り返った。
その声は静かだが、奥に緊張が潜んでいる。
「王都の各地で、魔法式の設備が暴走している。」
魔導士団長が書簡を手にし、丁寧な口調で続けた。
「魔法灯は点滅し、水路は逆流し、扉や橋は勝手に動き出しています。魔導士団は魔法を発動できず、対応ができません。」
騎士団長は低い声で言った。
「騎士団だけでは限界だ。民が怪我をする前に止めなければならない。」
公爵は地図の上に手を置き、静かに言った。
「魔法の弱まりは、王都全域に広がった。」
魔導士団長は地図の印を指した。
「こちらが昨日の範囲。そして、こちらが本日の範囲です。」
昨日よりも今日の印は明らかに広い。
王都の中心部だけでなく、商業区や住宅区にも広がっている。
騎士団長が息を吐いた。
「魔法に頼った生活が成り立たなくなる。民は不安だ。」
魔導士団長は苦い表情で頷いた。
「魔法式の設備が次々と停止し、民の生活は混乱しています。」
その時、執務室の扉がノックされた。
騎士団の隊員が入ってきて、深く頭を下げる。
「公爵様。王都南部で、水路の魔法が暴発しそうだとの報告が入りました。民が避難しています。」
公爵は眉をわずかに上げた。
「南部もか。」
騎士団長が静かに言った。
「魔法が不安定な区域が増えている。騎士団だけでは抑えきれない。」
魔導士団長は書簡を閉じながら言った。
「魔法の弱まりが進むほど、こうした現象が増えるでしょう。」
公爵はゆっくりと振り返り、私を見た。
その瞳は、静かで、揺るぎなく、どこか優しかった。
「リリア殿。」
胸の奥が強く震えた。
公爵が何を言おうとしているのか、分かってしまった。
「あなたを現場へ向かわせる。」
その言葉は、部屋の空気を一瞬止めた。
騎士団長が静かに言った。
「民の近くで魔法が暴走すれば、怪我人が出る。リリア殿の力が必要だ。」
魔導士団長も丁寧に続けた。
「リリア殿の力は、魔法の弱まりの影響を受けません。暴走した魔法を抑えられるのは、あなたしかいないのです。」
私は胸の奥に手を当てた。
初めて“民のいる場所”へ向かう。
噂が広がっていることも知っている。
民が私をどう見るのか、想像するだけで息が詰まりそうだった。
「……私が行けば、民は驚くでしょう。」
公爵は静かに頷いた。
「驚くだろう。だが、民はあなたを恐れているのではない。頼ろうとしている。」
騎士団長が落ち着いた声で言った。
「民は混乱している。魔法が使えない今、あなたの力は唯一安定している。」
魔導士団長は書簡を整えながら言った。
「リリア殿の力は、民の安全を守るために不可欠です。」
私は深く息を吸った。
胸の奥に緊張と不安が混ざる。
けれど、それ以上に、民を守りたいという気持ちが静かに広がっていく。
「……分かりました。行きます。」
公爵は静かに言った。
「ありがとう。あなたの決断は、民を救う。」
その瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。
緊張の中にも、確かな方向性が生まれたような、そんな感覚だった。
騎士団長が指示を出す。
「護衛を増員する。リリア殿を中心に動く。」
魔導士団長も続けた。
「現場で魔法の状態を確認しながら、リリア殿の力の反応を調べます。」
私は立ち上がり、窓の外を見た。
王都のざわめきが、風に乗って聞こえてくる。
民の不安も、怒りも、混乱も、すべてがその音に混ざっていた。
その中へ、私は向かうのだ。
初めて、民の前に立つ。
初めて、自分の力を“現場で”使う。
胸の奥が静かに震えた。
けれど、逃げたいとは思わなかった。
王都南部へ向かう馬車の中は、静かだった。
騎士団長は向かいの席で腕を組み、魔導士団長は書簡を読みながら眉を寄せている。
公爵は窓の外を見つめていたが、その視線は遠くの混乱を見据えているようだった。
馬車が揺れるたび、胸の奥がざわつく。
民の前に立つのは初めてだ。
噂が広がっていることも知っている。
「魔法を無効化できる令嬢がいる」という言葉が、どれほど民の期待を膨らませているのか想像するだけで息が詰まりそうだった。
公爵が静かに口を開いた。
「リリア殿。民はあなたを恐れているのではない。混乱の中で、頼れる存在を求めている。」
その言葉は、胸の奥に少しだけ温かさを灯した。
アレクシスに捨てられた時、私は“魔法が使えない令嬢”として価値を否定された。
けれど今、民はその力を必要としている。
騎士団長が落ち着いた声で言った。
「現場では、民があなたを見て動揺するかもしれない。だが、我々がそばにいる。心配はいらない。」
魔導士団長は書簡を閉じ、丁寧な口調で続けた。
「暴走した魔法灯や水路の魔法は、魔法の弱まりによって制御が失われています。リリア殿の力があれば、鎮められるはずです。」
馬車が止まり、騎士が扉を開けた。
外からは、民のざわめきが聞こえる。
怒りではない。
不安と期待が混ざった、複雑な音だった。
私は深く息を吸い、馬車を降りた。
王都南部の広場は混乱していた。
魔法灯が火花を散らし、光が不規則に点滅している。
水路は逆流し、民が必死に避難していた。
扉や橋が勝手に動き、騎士たちが押さえつけようとしているが、魔法式の力が暴れているため手に負えない。
その中で、私が姿を見せた瞬間、民の視線が一斉にこちらへ向いた。
「……あの人が……」
「噂の令嬢……?」
「本当に魔法を消せるのか……?」
驚きと期待が入り混じった視線。
その重さに、胸が強く震えた。
騎士団長が私の横に立ち、低い声で言った。
「リリア殿。魔法灯が最も危険だ。火花が民に当たれば怪我をする。」
魔導士団長も続けた。
「魔法の流れが乱れています。触れれば無効化できるはずです。」
私は頷き、魔法灯へ向かった。
火花が散り、光が不規則に明滅している。
魔法の暴走は、まるで苦しんでいるように見えた。
私は静かに手を伸ばした。
指先が魔法灯に触れた瞬間、光がふっと消えた。
火花も止まり、魔法式の紋様が静かに沈黙した。
広場が一瞬、静まり返った。
「……消えた……?」
「本当に魔法が……」
「ただの噂じゃなかったんだ……!」
民の間にざわめきが走る。
驚きと安堵が混ざった声が、次々と広場に広がっていく。
私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
自分の力が、誰かの恐怖を和らげた。
それが、こんなにも大きな意味を持つとは思わなかった。
騎士団長が静かに言った。
「リリア殿。次は水路だ。」
魔導士団長は丁寧に続けた。
「魔法が暴発しそうです。急ぎましょう。」
私は頷き、水路へ向かった。
水が逆流し、魔法式の紋様が不規則に光っている。
民が必死に避難しているが、魔法が暴れれば水が溢れ出す危険がある。
私は水路の縁に手を触れた。
魔法式の紋様が一瞬だけ光り、すぐに沈黙した。
逆流していた水が静かに落ち着き、流れが元に戻る。
「……止まった……!」
「本当に……魔法が消えた……!」
「助かった……!」
民の声が広場に広がる。
その声は、恐怖ではなく、安堵だった。
私は胸の奥が震えるのを感じた。
自分の力が、王都の混乱を止めるために必要とされている。
それを、初めて“現場で”実感した。
公爵が静かに近づき、私へ言った。
「リリア殿。よくやった。」
騎士団長も頷いた。
「民が救われた。」
魔導士団長は深く頭を下げた。
「リリア殿の力がなければ、被害はもっと広がっていたでしょう。」
私は広場を見渡した。
民が騎士たちに礼を言い、子どもが泣きながら母親に抱きついている。
魔法灯は静かに沈黙し、水路は穏やかに流れている。
その光景を見て、胸の奥に静かな熱が広がった。
私は、ただの“魔法が使えない令嬢”ではない。
民の不安を和らげる力を持っている。
それを、今日初めて知った。
広場のざわめきは、もう恐怖ではなかった。
期待と安堵が混ざった、柔らかい音だった。
私はその音を聞きながら、静かに息を吸った。
この力は、きっとまだ使える。
民のために。
王都のために。
そして、自分自身のためにも。
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