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第65話 魔法無効化の令嬢の噂が広まる

 王都の空気が変わった、と気づいたのは、屋敷の廊下を歩いていた時だった。

窓の外から聞こえるざわめきが、いつもよりずっと荒い。

風の音ではない。

鳥の声でもない。

人の声が重なり合い、遠くで波のように揺れている。


 廊下の角を曲がると、若い騎士が慌てた様子で走ってきた。

普段は冷静な彼が、息を切らしている。


「リリア殿……!王都で、妙な噂が広がっています!」


「噂?」


「『魔法を無効化できる令嬢がいる』と……民が口々に。」


 胸が強く跳ねた。

その噂が自分のことだと、すぐに分かった。


 騎士は続けた。


「魔法灯が消え、水路が止まり、扉も橋も動かない。魔法式の設備が次々と止まり、民は不安で……。誰か、何か、頼れる存在を探しているようです。」


 その言葉は、王都の混乱がどれほど深刻なのかを物語っていた。


 私は急いで執務室へ向かった。

扉を開くと、いつもと違う空気が広がっていた。


 公爵は机ではなく、壁に貼られた王都の地図の前に立っていた。

騎士団長は窓際で腕を組み、魔導士団長は複数の書簡を広げている。

三人とも、まるで戦場の前線にいるような表情だった。


「リリア殿。」


 公爵が振り返った。

その声は静かだが、奥に緊張が潜んでいる。


「王都で、あなたの噂が広がっている。」


 騎士団長が続けた。


「民は不安だ。魔法が使えない今、頼れる存在を求めている。」


 魔導士団長は書簡を手にし、丁寧な口調で言った。


「魔導士団の魔法は完全に不安定です。発動しない、あるいは途中で消える現象が増えています。」


 私は息を呑んだ。

魔導士団が魔法を使えない。

それは、王都の防衛が大きく揺らぐことを意味する。


 公爵は地図の上に手を置き、静かに言った。


「魔法の弱まりは、王都全域に広がった。」


 魔導士団長は地図の印を指した。


「こちらが昨日の範囲。そして、こちらが本日の範囲です。」


 昨日よりも今日の印は明らかに広い。

王都の中心部だけでなく、商業区や住宅区にも広がっている。


 騎士団長が低い声で言った。


「魔法に頼った生活が成り立たなくなる。民は不安になる。」


 魔導士団長は苦い表情で頷いた。


「魔法式の設備が次々と停止し、民の生活は混乱しています。」


 その時、執務室の扉がノックされた。

騎士団の隊員が入ってきて、深く頭を下げる。


「公爵様。王都の複数の区画で、民が『魔法を無効化できる令嬢』について話しているとの報告が入りました。」


 公爵は眉をわずかに上げた。


「民が、か。」


 騎士団長が静かに言った。


「噂は広がっています。民は新しい力を求めている。」


 魔導士団長は書簡を閉じながら言った。


「魔法が使えない今、民は自分たちの生活がどうなるのか分からず、恐怖を感じています。」


 私は胸の奥に手を当てた。

王都の中心で沈黙する王太子アレクシス。

王宮を動かすはずのレグナードも何も言わない。

その結果、民は不安と怒りを抱え、噂にすがり始めている。


 公爵は窓の外を見つめながら言った。


「リリア殿。民はあなたの力を求め始めている。」


 その言葉は、胸の奥に深く響いた。

王都の混乱は、もう誰も無視できない。

そしてその中心に、私の力が必要とされる気配があった。


 騎士団長が静かに言った。


「リリア殿の力を正式に戦力として扱うべきだ。」


 魔導士団長も丁寧に続けた。


「リリア殿の力は、魔法の弱まりの影響を受けません。王都防衛に必要です。」


 公爵はゆっくりと振り返り、私を見た。

その瞳は、静かで、揺るぎなく、どこか優しかった。


「リリア殿。あなたの力は、民を守るために使わせてもらう。」


 “民のため”。

その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなった。


 アレクシスのためではない。

王宮のためでもない。

ただ、困っている人々のために。


 私はゆっくりと頷いた。


「……民の力になれるなら、協力します。」


 公爵は静かに息を吐き、わずかに表情を緩めた。


「その言葉だけで十分だ。」


 その瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。

緊張の中にも、確かな方向性が生まれたような、そんな感覚だった。


 王都の混乱はまだ続く。

噂はさらに広がるだろう。

民の不安も、怒りも、収まる気配はない。


 けれど、自分の力が誰かの恐怖を少しでも和らげるなら、それは、きっと無駄ではない。


 そう思えたのは、今日が初めてだった。


 公爵の言葉が部屋に響いた瞬間、空気がわずかに変わった。

それまで張り詰めていた緊張が、方向性を得たように動き出す。

騎士団長も魔導士団長も、同時に姿勢を正した。


 騎士団長が静かに言った。


「リリア殿を守る体制を整える。魔法が不安定な区域へ向かう可能性がある以上、護衛は増やすべきだ。」


 魔導士団長は丁寧に続けた。


「リリア殿の力がどの魔法に反応するのか、同行しながら調査いたします。範囲、限界、そして応用……すべて把握する必要があります。」


 私は二人の言葉を聞きながら、胸の奥が静かに熱くなるのを感じていた。

自分の力が、王都の混乱の中で必要とされている。

それは重いけれど、逃げたいとは思わなかった。


 公爵は机の上の書簡を一枚取り、私へ向き直った。


「リリア殿。民はあなたの噂を信じ始めている。魔法が使えない時代に現れた新しい力として。」


 その言葉は、私の心を揺らした。

民が私を“希望”として見ている。

そんなこと、今まで一度もなかった。


「……噂が広がるのは、怖いです。」


 正直に言うと、公爵は静かに頷いた。


「当然だ。だが、民はあなたを恐れているのではない。頼ろうとしている。」


 騎士団長も落ち着いた声で言った。


「民は混乱している。魔法が使えない今、あなたの力は唯一安定している。」


 魔導士団長は書簡を閉じながら言った。


「魔法の時代が終わりつつある中で、リリア殿の力は新しい秩序を作る可能性があります。」


 “新しい秩序”。

その言葉は、胸の奥に深く沈んだ。


 私は魔法が使えないことで、ずっと劣等感を抱えていた。

アレクシスに捨てられた理由も、それだった。

魔法が使えない令嬢は、王都では価値がないと決めつけられていた。


 けれど今、魔法が使えないことが、王都を救う力になっている。


 公爵は静かに言った。


「リリア殿。あなたを捨てたのは王太子であって、民ではない。」


 その言葉は、胸の奥に静かに染み込んだ。

アレクシスの沈黙は、私を拒絶したまま止まっている。

けれど民は、私を拒絶していない。


 騎士団長が続けた。


「民のために動くことは、王太子のために動くこととは違う。」


 魔導士団長も頷いた。


「リリア殿の力は、民の生活を守るためにこそ使われるべきです。」


 私は深く息を吸った。

胸の奥にあった痛みが、少しだけ形を変えた気がした。


「……私にできることがあるなら、使います。」


 公爵は静かに微笑んだ。


「その覚悟があれば十分だ。」


 その時、執務室の扉がノックされた。

騎士団の隊員が入ってきて、緊張した声で報告する。


「公爵様。王都北部で、魔法式の水路が突然再起動しようとして失敗したとの報告が入りました。水が逆流し、民が避難しています。」


 魔導士団長が目を見開いた。


「逆流……。魔法式の制御が完全に壊れています。」


 騎士団長は落ち着いた声で言った。


「民の安全を確保するため、騎士団を派遣する。」


 公爵は短く頷いた。


「すぐに動け。」


 隊員は深く頭を下げ、部屋を出ていった。


 魔法の弱まりは、もう“現象”ではなく“災害”になりつつある。

王都のあちこちで、魔法式の設備が暴走し、民が危険に晒されている。


 公爵は私へ向き直り、静かに言った。


「リリア殿。あなたの力は、民を守るために必要だ。」


 その言葉は、前半の決断よりもずっと重く、ずっと強かった。


 私はゆっくりと頷いた。


「……はい。」


 その瞬間、胸の奥にあった迷いがひとつ消えた。

自分の力が、誰かの恐怖を少しでも和らげるなら、それは、きっと意味のあることだ。


 窓の外では、王都のざわめきがさらに大きくなっていた。

噂は広がり続ける。

民の不安も、怒りも、収まる気配はない。


 けれど、私はもう、ただ見ているだけの存在ではいられない。

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