第47話 王太子アレクシス、到着
屋敷の前では、研究院の一団が騎士へ詰め寄り続けていた。
誰かが巻紙を握りしめ、別の者は紋章を掲げたまま騎士へ何かを訴えている。
その声は焦りというより、理解が崩れた者の混乱に近かった。
騎士たちは隊列を保ちながら応対していたが、研究院の者たちの動きは落ち着きを失い、屋敷の前は“答えを求める者たちの集まり”のようになっていた。
その騒ぎが頂点に達した瞬間、重い蹄音が敷地へ響き渡った。
地面を踏みしめる音は遠くから徐々に近づき、やがて屋敷の門前で止まった。
騎士たちが一斉に姿勢を正す。
研究院の一団も騒ぎを忘れたように動きを止めた。
その静寂の中、馬上から降り立った男がいた。
王太子アレクシス。
かつて私を捨てた男。
魔法至上主義の価値観に従い、魔法を扱えない私を“欠陥”と呼んだ男。
その男が、今、屋敷の前に立っている。
アレクシスの姿は、婚約破棄を告げたときの余裕とはまるで違っていた。
肩の力は抜け、目の奥には疲労が滲み、魔法の乱れに追い詰められた者特有の影が濃く落ちていた。
騎士団が周囲を固めると、アレクシスは迷いなく屋敷へ向かって歩き出した。
その歩みは速くも遅くもなく、ただ“目的だけを見ている者の歩み”だった。
公爵が窓の外を見つめながら、静かに言った。
「……来たな」
その声は驚きではなく、“避けられない瞬間が訪れた”ことを受け入れた者の声だった。
私は胸の奥がわずかに揺れるのを感じた。
恐れではない。怒りでもない。
ただ、過去と向き合う瞬間が近づいているという感覚だった。
アレクシスが屋敷の玄関前に立つと、騎士たちが左右へ道を開けた。
その中央で、アレクシスは私を見つけた。
目が合った瞬間、彼の表情がわずかに揺れた。
かつての余裕はどこにもない。
王太子としての威厳も、今は薄れている。
ただ、ひとりの男として、何かを失い、何かを求める者の顔だった。
アレクシスは息を整えようとしたが、その声は震えていた。
そして、私の名を呼んだ。
「……リリア。君に……会いに来た」
その言葉は、かつて婚約破棄を告げたときの冷たさとはまるで違っていた。
屋敷の空気が一変する。
研究院の一団は息を呑み、騎士たちは緊張を隠せず、公爵は静かに私の前へ立った。
「リリア殿」
公爵は私へ向き直り、落ち着いた声で告げた。
「話を聞くかどうか、決めるのは君だ」
その言葉は、私の背中を押すものではなく、私の選択を尊重する者の言葉だった。
私は短く息を吸った。
胸の奥にある感情は、怒りでも、悲しみでも、未練でもない。
ただ、自分がどこに立つのかを決めるための感情だった。
アレクシスは私を見つめたまま、何かを言おうとして口を開きかけたが、言葉は出てこなかった。
その沈黙が、かつての彼との距離をさらに際立たせた。
私は一歩前へ進んだ。
公爵がわずかに頷く。
屋敷の前で、王太子アレクシスと私が向き合う瞬間が訪れた。
その空気は、嵐の前の静けさのように張り詰めていた。
研究院の一団も騎士たちも、誰ひとり声を出さない。
ただ、私とアレクシスの間に流れる空気だけが、屋敷全体を支配していた。
私は静かに口を開いた。
「……話を聞きます。場所を移しましょう」
アレクシスは安堵とも緊張ともつかない表情で頷いた。
その瞬間、屋敷の前に漂っていた空気がわずかに動いた。
私は公爵とともに屋敷の中へ歩き出す。
アレクシスはその後ろをついてきた。
こうして、“過去と向き合う瞬間”が静かに幕を開けた。
執務室の扉が閉じられると、外の騒ぎが遠くへ押しやられたように静まり返った。
その静けさは、屋敷の中だけが別の世界になったかのようだった。
アレクシスの足音が、石床に淡く響いていた。
公爵は机の前へ歩き、椅子へ腰を下ろした。
私はその横に立ち、アレクシスは少し距離を置いて立ち止まった。
その距離は、かつての婚約者という関係を思い出させるには十分すぎるほど遠かった。
「ここで話をさせてもらえるだろうか」
アレクシスは周囲を見渡しながら言った。
王太子としての威厳を保とうとしているように見えたが、声の端に不安が滲んでいた。
公爵は軽く頷き、静かに促した。
「話す内容によりますが、まずは聞きましょう」
アレクシスは息を整えようとしたが、胸の奥に渦巻くものを抑えきれないようだった。
その指先はわずかに震えている。
私はその様子を見つめながら、言葉を待った。
「……王都が、崩れ始めている」
その一言で、空気がわずかに揺れた。
アレクシスは視線を落とし、言葉を探すように沈黙する。
やがて、絞り出すように続けた。
「魔法が……思い通りに動かない。術式が途中で途切れたり、暴走したりする。王宮でも同じだ。誰も……原因が分からない」
その声は、王太子としての報告ではなく、自分の世界が崩れた者の告白だった。
公爵は眉を寄せ、静かに問いかけた。
「それで、こちらへ?」
「……君に会う必要があった」
アレクシスは私を見た。
その瞳には、かつての傲慢さは一切なかった。
ただ、何かを失った者の影が揺れていた。
「リリア……君の力が、王都を救うかもしれない」
その言葉は、私を捨てた男が言うにはあまりにも皮肉だった。
私は静かに息を吸い、彼の言葉を受け止めた。
「私を捨てたあなたが、今になって私を頼る理由は……王都のためだけでしょう」
アレクシスは言葉を失い、唇を震わせた。
その反応は、私の言葉が予想以上に重く響いたことを示していた。
公爵は一歩前へ出て、冷静な視線を向けた。
「あなたは、リリア殿の力を“欠陥”と呼んだはずです」
アレクシスは苦しげに目を閉じた。
その表情は、過去の言葉が今になって自分を刺していることを示していた。
彼はゆっくりと顔を上げ、かすれた声で言った。
「……あの時は……そう思っていた。魔法がすべてだと……信じていたから」
その言葉は、言い訳ではなく、自分の価値観が崩れたことを認める者の言葉だった。
私は静かに問いかけた。
「今は違うんですか」
アレクシスは私を見つめた。
その瞳には、かつての自信はどこにもなかった。
「違う。魔法が……頼りにならない。王都の者たちも……皆、混乱している。自分たちが信じてきたものが……崩れていくのを見ている」
その言葉は、王都の現状を象徴していた。
魔法至上主義の価値観が崩れたとき、彼らは自分の立つ場所を見失ったのだ。
公爵は静かに言った。
「あなたがここへ来た理由は理解しました。しかし、リリア殿が応じるかどうかは別の話です」
アレクシスは息を呑んだ。
その反応は、彼が自分の立場を理解し始めている証だった。
私は静かに彼を見つめた。
「あなたは、私を捨てた時のことを覚えていますか」
アレクシスは肩を震わせた。
その反応は、過去の言葉が今になって重くのしかかっていることを示していた。
私は続けた。
「魔法を消してしまう私は、あなたにとって価値がなかった。でも今は、魔法が乱れて……私の力が必要になった」
アレクシスは苦しげに目を閉じた。
その沈黙は、言葉よりも重かった。
「……あの時の私は……愚かだった」
その言葉は、かつての王太子が決して口にしなかった種類の言葉だった。
公爵は静かに腕を組み、アレクシスを見つめた。
「愚かだったと認めるのは簡単ではありません。しかし、それだけでは足りません」
アレクシスは公爵へ視線を向けた。
その瞳には、焦りと迷いが混じっていた。
「では……どうすればいい」
「それを決めるのは、あなたではありません」
公爵は私へ視線を向けた。
その目は、私の選択を尊重する者の目だった。
「リリア殿。あなたがどう向き合うか、それがすべてです」
私は静かに息を吐いた。
胸の奥にある感情は、怒りでも悲しみでもなかった。
ただ、自分がどこに立つのかを決めるための感情だった。
アレクシスは私を見つめたまま、何も言えずに立ち尽くしていた。
その姿は、かつての王太子ではなく、ただのひとりの男だった。
私はゆっくりと口を開いた。
「……少し、考えさせてください」
アレクシスは小さく頷いた。
その表情には、安堵と不安が入り混じっていた。
公爵は静かに席を立ち、私へ向き直った。
「リリア殿。必要であれば、別室を用意します」
「ありがとうございます。少し……ひとりになりたいです」
公爵は頷き、扉へ向かった。
アレクシスはその場に立ち尽くし、私を見つめ続けていた。
私は視線を逸らし、静かに部屋を出た。
廊下の空気は冷たく、胸の奥に広がる感情を落ち着かせてくれるようだった。
私はゆっくりと歩きながら、自分がどこに立つのかを考え始めた。
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