腐らない肉を求めて
高橋は机の引き出しから、小さな銀色の器具を取り出した。耳に掛ける補聴器のような形をしている。
「これは通訳石だ。こっちの魔術師が作った。耳に付けると、相手の言葉が日本語に近い意味で聞こえる。こちらの発言も相手には向こうの言葉として伝わる」
「便利ですね」
「ただし、固有名詞と専門用語は弱い。書き言葉は翻訳できない」
「契約書は」
「今までは俺が、現地の商人に金を払って読ませていた」
「秘密は守れているんですか」
「異界の商品を扱う商人だとは知られている。日本という国やゲートの位置までは話していない」
「支部の存在は」
「王国と魔王軍の一部は知っている。彼らはここを『門の商館』と呼んでいる」
魔王軍という単語が、会議室の資料にはなかった。
「課長。現在、この世界は戦争中ですか」
「言っていなかったか」
「聞いていません」
「アルセリア王国と、北東の魔王領は長く争っている。全面戦争になったり、停戦したりを繰り返している。今は国境で小競り合いが続いている程度だ」
「程度、ですか」
「現地の感覚ではな」
「弊社は王国側と取引するんですね」
高橋はすぐには答えなかった。
「両方だ」
「両方」
「うちは中立を条件に商売を始めた。武器と奴隷は扱わない。王国にも魔王領にも、原則として同じ基準で商品を売る」
「軍への携行食は、軍需物資では」
「そこが今回、君に判断してほしい部分でもある」
「私にですか」
「社長は、武器そのものではないと考えている。ただ、缶詰を売れば兵士は長く行軍できる。薬を売れば負傷兵が戻る。トラックを売れば兵站が変わる。何をどこまで扱うか、まだ明確な答えはない」
「答えがないまま、支部を作ったんですか」
「答えが出るまで何もしなければ、商社は一件も取引できない」
営業らしい言葉だった。
高橋は窓の鎧戸を開けた。
その向こうには、石畳の通りが延びていた。
赤茶色の屋根。二階建ての商店。荷車を引く大きな角のある獣。人間に混じって、長い耳を持つ者や、額から短い角を生やした者が歩いている。
遠くには城壁が見え、その上を鳥よりも大きな影が横切った。
山田はしばらく窓辺に立っていた。
驚きはあった。恐怖もあった。しかし、それ以上に、目の前の町が普通に動いていることが不思議だった。
パンを売る者がいる。値段を交渉する客がいる。荷物を運ぶ者がいて、帳簿を付ける者がいる。
世界が違っても、商売は存在する。
「今日の予定は」
「王国兵站局の担当者が、二時に来る」
山田は腕時計を見た。
「あと十五分ですが」
「だから急いで来た」
「商品サンプルは」
「冷蔵庫の横にある」
段ボール箱を開けると、牛肉の大和煮、豆のトマト煮、サバの味噌煮、桃の缶詰が入っていた。缶切りが十本、紙皿と割り箸もある。
「選定理由を教えてください」
「長期保存できる食品を、俺が近所のスーパーで買った」
「そうではなく、味や栄養、宗教上の禁忌を確認したかという意味です」
「そこまで分からん。現地で聞いてくれ」
高橋は腕時計を見て、立ち上がった。
「では、俺は戻る」
「戻るんですか」
「本社で三時から部長会議がある」
「私は初めての異世界で、十五分後に王国軍と商談ですが」
「新規顧客との初回面談だ。いつも通りやればいい」
「いつも通りの範囲が広がりすぎています」
高橋は扉の前で振り返った。
「山田」
「はい」
「危ないと思ったら、契約より先に帰ってこい。売上は作り直せるが、人間は仕入れ直せない」
その言葉だけは、冗談ではなかった。
「承知しました」
黒鉄の扉が閉じた。
異世界支部に、山田一人が残った。
固定電話の横には、内線番号が貼られている。
『本社・高橋課長 呼出:九番』
山田は通訳石を耳に掛け、ネクタイを締め直した。机を拭き、缶詰を種類ごとに並べ、紙に日本語で確認項目を書いた。
利用人数。
保存期間。
輸送方法。
調理設備。
禁忌食材。
予算。
決裁者。
聞くべきことは、いつもの新規案件と変わらない。
やがて、木の扉が三度叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのは、濃紺の軍服を着た大柄な男だった。五十代半ば。短く刈った白髪と、古い傷の走る右頬。胸には銀色の徽章が三つ並んでいる。
その後ろに、書記らしい細身の青年が立っていた。
軍人は室内を見回し、山田に視線を止めた。
『門の商人は替わったのか』
通訳石を通した声は、わずかに金属音を帯びていた。
「本日より担当いたします。株式会社ゲートレーディング異世界支部の山田と申します」
『ヤマダ』
「はい」
『アルセリア王国兵站局、第三補給監のグレゴール・ハインツだ。我々は、腐らない肉を求めている』
山田は机の上の牛肉缶を一つ取り上げた。
「まず、正確に申し上げます。腐らない肉ではありません」
グレゴールの眉が動いた。
『話が違うな』
「適切に保管すれば、長期間、腐りにくい肉です。違いをご説明するところから始めさせてください」
初めての異世界商談は、相手の期待を下げるところから始まった。
お読みいただきありがとうございます。
次話では、王国軍との缶詰商談が本格的に始まります。




