手を洗うという商談
魔王軍南方補給所は、ラゼルの町から馬車で半日ほどの場所にあった。
山田とレオルが到着すると、二百名近い兵が木造の柵に囲まれた敷地で働いていた。
武器を整備する者。食料袋を運ぶ者。大鍋の前で、肉を切る者。
角や牙を持つ者が多いが、仕事の風景だけを見れば、日本の物流倉庫と大きく変わらない。
違うのは、荷車を引いているのが馬ではなく、六本脚の大きな蜥蜴であることくらいだった。
『ヤマダ! こっちだ!』
バルガスが、補給所の奥から手を振っている。
隣には、短く切った白髪と太い腕を持つ女性の魔族が立っていた。年齢は五十代ほど。額に一本だけ角があり、灰色の外套の下から薬瓶を詰めた革帯が見える。
『衛生医官のサーヴァだ。俺が腹を壊したときから、ずっと世話になっている!』
『余計な情報を付けるな』
サーヴァはバルガスの脇腹を肘で小突いた。
『門の商人。先に言っておくが、異界の薬を試したいわけではない』
「承知しています。私も薬は扱っておりません」
『昨日から、新たに七名。これで三十六名だ。高熱はないが、腹痛と下痢が続く。重症者はいない』
「水源は同じですか」
『井戸が二つ。飲み水は煮沸している』
「食事を作る場所を見せてください」
調理場には、巨大な鍋が四つ並んでいた。
生肉を切る台。
焼いた肉を切り分ける台。
水を汲む桶。
一見、きちんと分けられている。
ただし、肉を切っていた兵士が、手についた脂を布で拭き、そのまま焼き上がったパンを籠へ移した。
別の兵士は、同じ木柄の柄杓を井戸水の桶と、洗い物用の桶へ交互に入れている。
「手は、どこで洗いますか」
『水桶がある』
サーヴァが指した先には、大きな桶が一つ置かれていた。
複数の兵が、その中へ手を直接入れて洗っている。
「石鹸は」
『風呂の日に使う。高価だから、毎日は使わん』
バルガスが答えた。
「調理の前や、生肉に触れた後には使いませんか」
『水で落ちるだろう』
「見た目の汚れは落ちても、腹痛の原因になるものが残る可能性があります」
『目に見えない呪いか』
「呪いではありません。非常に小さく、目では確認できない生き物が原因になることがあります」
バルガスが、自分の両手を見た。
『手に魔物が住むのか』
「その表現ですと、少し違います」
『だが、分かりやすい!』
サーヴァは笑わなかった。
『門の向こうでは、それをどう防ぐ』
「石鹸と流水で手を洗います。生肉を扱う場所と、調理後の食品を扱う場所を分けます。布や器具も共用しません」
『流水とは、川で洗うのか』
「桶の水へ手を入れるのではなく、上から流した水で洗います」
山田はノートへ簡単な図を描いた。
台の上へ水を入れた容器を置き、下部の栓を開ける。流れた水は、別の桶へ落とす。
「これなら、同じ水へ何人も手を入れずに済みます」
『石鹸を二百個売ればいいのか!』
「まだ、売るとは申し上げていません」
『なぜだ!』
「原因が手洗いだけとは限りません。まずは調理担当者と医療担当者へ限定し、使い方を含めて試すべきです」
『全員へ配ったほうが早い!』
「正しく使われなければ、石鹸を置いただけで終わります」
山田は調理場の人数を数えた。
調理担当が二十四名。衛生所と倉庫担当を含めても、最初は四十名で足りる。
「一人に一個ではなく、洗い場ごとに設置します。石鹸は百二十個。水桶に取り付ける簡易栓を十二個。器具を分けるための色付きの布と、絵で分かる手順書を提案します」
『もっと売れるのに、また減らすのか』
「必要な量を確認しています」
バルガスは頭を掻いた。
『お前から物を買うと、なぜか注文が小さくなる』
「追加が必要になれば、そのときにご注文ください」
サーヴァが、山田の図を受け取った。
『試す価値はある。十日間で、調理場を二つに分けよう。一方は今まで通り。もう一方は、門の商人の方法を使う』
「同じ食材を使い、記録を残してください」
『記録は私が取る』
レオルが口を開いた。
『使用した石鹸の数、手を洗った回数、体調を崩した者の所属を、同じ形式で記録しましょう。比較できなければ、結果を判断できません』
サーヴァが、レオルを見た。
『奴隷か』
『異世界支部の職員です』
レオルは、迷わず答えた。
山田は何も付け加えなかった。
補給所を一通り確認し、ラゼルへ戻ったのは夕方だった。
支部の扉の前に、一人の女性が腕を組んで立っていた。
年齢は六十前後。濃紺の作業着を着て、腰には石鹸を切る細い刃物を下げている。
『あんたが、門の向こうから石鹸を持ち込む商人か』
「まだ持ち込んでいませんが」
『持ち込むつもりではあるんだろう』
「試験用に、少量を検討しています」
『少量から始める商人が、一番厄介なんだ』
女性は、支部の看板を睨んだ。
『石鹸職人組合長、マルタ・セルドだ。うちの仕事を奪うつもりなら、先に話を聞かせてもらおう』




