第7話 魔王軍の斥候
北の尾根に人影を見つけたのは、夜半より少し前だった。
「一人。さっきから同じ木の陰にいる」
灰鷹砦の北壁で、エルナが声を落とした。
隣にいたニコは反射的に盾へ手を伸ばしたが、外へ出ようとはしなかった。中庭へ戻り、眠っていたガレスとキリクを起こす。
ガレスが北壁へ上がった時には、月が雲へ隠れていた。
「見えるか?」
「今は見えない。ただ、場所は変わってないと思う」
エルナが示した尾根までは、弓でも届かない。
キリクは石壁の陰へ身を沈め、しばらく耳を澄ませた。
「一人じゃないな。西にもいる。枝を踏んだ」
「近づいてくる気配は?」
「ない。砦を見てるだけだ」
ガレスは北壁から顔を出さなかった。
昼間に見つかった黒い矢羽。
割れた蹄に似た三人分の足跡。
そこへ今夜の監視が加わった。
偶然で片づけられる段階は過ぎている。
「予定どおり交代しよう」
ニコが少し意外そうな顔をする。
「何もしないんですか?」
「何もしないように見せる」
物見台も北壁も、決めていた時刻に見張りを替える。炊事場の灯りも普段と同じ時刻に落とし、誰も北へ向かって騒がない。
こちらが斥候の存在に気づいたと教える必要はなかった。
やがてキリクが鼻を鳴らした。
「西が動いた」
少しして、尾根の影も消えた。
エルナは長剣の柄から手を離す。
「帰った?」
「たぶんな」
「なら朝まで待つ」
ガレスはそれだけ決めた。
暗い山へ四人で飛び込む理由はなかった。
◇
夜が明けてから、キリクが北側を調べた。
昨日と同じ割れた蹄跡が三人分残っている。
ただ、砦を眺めていただけではなかった。
「ここで二人に分かれてる」
朝食後、キリクは古い見取り図の上に指を置いた。
「一人は西から砦を見た。残り二人は北東へ回ってる。最後は三人とも北へ戻った」
エルナが見取り図を覗き込む。
「北東に何かある?」
「旧道が小さな沢を渡る」
キリクが答えた。
砦から北東へ四キロほど。
今はほとんど使われていない道だが、山の向こうへ抜ける古い経路があり、途中で名もない沢を横切っている。
ガレスは砦ではなく、道の方を見た。
「確認しよう」
「誰で行く?」
「俺とエルナとキリク。ニコは残ってくれ」
ニコが顔を上げる。
「砦を守るんですね」
「ああ。マルタ一人にはしない。村から人が来たら中へ入れて、北へは出すな。何かあれば鐘を三回」
「分かりました」
食い下がらなかった。
ニコはそのまま門へ向かい、板盾と槍の位置を確かめ始める。
マルタも異論はなかった。
「捕まえて帰ってくるなら、なるべく息のあるのにしておくれ」
「注文が細かいな」
「死人は治せないからね」
それだけ言うと、マルタは治療鞄を中庭へ運んだ。
◇
三人は街道を使わなかった。
キリクを先頭に、木々の間を北東へ進む。
途中で見つかった足跡は三人分のままだった。
深くない。
荷物も重くないらしい。
沢の音が聞こえ始めると、キリクが拳を上げた。
三人とも止まる。
「いる」
そのまま姿勢を低くし、木々の間から沢を見た。
三人いた。
昨日の足跡と同じ、二つに割れた蹄を持つ者たちだ。
人間に近い体格だが、膝から下は短い毛に覆われている。額から後方へ短い角が伸び、三人とも灰色の革鎧と暗い外套を身につけていた。
一人は沢へ入っている。
手にした細い棒を川底へ差し、水面の位置へ印をつけていた。
二人目は道端にしゃがみ、一定間隔で結び目を作った縄を道いっぱいに伸ばしている。
最後の一人だけが弓を持ち、周囲を警戒していた。
矢羽は黒い。
「水深と道幅」
エルナが囁く。
「砦を襲う下見じゃないわね」
ガレスもうなずいた。
野盗なら、荷を運ぶ人間の数や通る時間を調べる。
あの三人が測っているのは、人ではなかった。
水。
道幅。
車輪が通れる場所。
「記録してる奴がいる」
キリクが顎を動かす。
沢にいる者の近くで、三人目とは別の――いや、道幅を測っていた一人が、細長い板へ炭で何かを書き込んでいる。
縄を畳み、板を革袋へ収めようとしていた。
エルナは三人の位置を一度見ただけで決めた。
「弓持ちはキリク。私は記録役へ行く。ガレスは沢にいる一人を外へ出さないで」
「分かった」
「捕まえられれば一人で十分。三人全部に欲を出さない」
そこでキリクが小さく笑った。
「そっちは騎士らしくないな」
「生きて帰る方が仕事だから」
エルナの返事と同時に、三人が動いた。
最初の矢はキリクが放った。
敵の身体ではなく、弓手のすぐ横の木へ刺さる。
警戒役が反射的にそちらへ身体を向けた。
エルナが斜面を駆け下りる。
「敵!」
記録役が叫び、革袋を掴んだ。
動きが速い。
驚いて固まるどころか、弓手はすぐに後退しながら射線を作り、沢の一人も測量棒を捨てて短剣を抜いた。
訓練されている。
沢から上がろうとした男の前へ、ガレスは長槍を差し込んだ。
穂先ではなく柄だ。
足を止める。
相手は短剣で槍を払おうとしたが、水の中では踏み込みが浅い。
ガレスが風を走らせると、水面が弾けた。
相手が目を閉じた一瞬に槍の石突きを胸へ入れる。
倒れはしなかった。
むしろ一歩下がり、すぐ体勢を立て直す。
その横を矢が通った。
敵の弓手だ。
ガレスではなく、エルナへ向けている。
エルナは足を止めずに剣で矢を逸らし、記録役へ迫った。
相手も短剣を抜く。
一合目で受ける。
二合目で距離を作ろうとする。
三合目には、もう逃げる方向へ身体を向けていた。
「勝つ気がない」
エルナが言った。
記録を持ち帰ることを優先している。
キリクの二本目の矢が、相手の逃げる先へ突き刺さった。
ほんの一歩、進路が変わる。
そこへエルナが踏み込み、剣の腹で手首を打った。
短剣が落ちる。
続けて肩へ体当たりし、地面へ倒した。
弓手が舌打ちする。
沢にいた一人が、今度はガレスではなく北へ走った。
ガレスは追わなかった。
倒れた記録役の側へ回り、槍を向ける。
キリクも、森へ消えていく二人ではなく、周囲へ弓を向け直していた。
「他には?」
エルナが聞く。
「見える範囲にはいない」
キリクが答えた。
それなら十分だった。
◇
捕らえた斥候の革袋から、細長い木板が三枚出てきた。
炭の棒。
結び目をつけた測量縄。
小さな方位器。
乾燥肉。
固焼きのパン。
半分ほど残った水袋。
寝具も鍋もない。
ガレスは食料を手に取った。
「今日一日分くらいだな」
「近くに戻る場所がある?」
エルナが聞く。
「その可能性が高い。何日も野営する荷じゃない」
キリクは木板を並べていた。
文字そのものは読めない。
だが記号は分かる。
「これ、水だろ」
波線。
その横に数字らしき印。
「こっちは道幅ね」
エルナが別の板を見る。
旧道と思われる線の横に、何か所も印がついている。
坂。
沢。
崩れた場所。
車輪が通れる幅。
灰鷹砦を示しているらしい四角い印もあった。
さらに南には、レム村と思われる記号がある。
ガレスは三枚を順に見た。
「道を調べてる」
「軍を通すため?」
エルナの問いに、ガレスはすぐ答えなかった。
「そこまではまだ決めない。ただ、三人の斥候だけで必要になる調査じゃない」
キリクがしゃがみ込み、地面の足跡を見直した。
「二人が逃げた方だけ見てくる。遠くまでは行かない」
「見える範囲まででいい」
「ああ」
キリクは森へ入り、しばらくして戻った。
顔つきが変わっている。
「北へ二百歩も行かないところで、古い道と合流してる」
「足跡は?」
「増えてる。踏み重なってて正確には数えられないが、三人や五人じゃない。それと車輪が二筋。蹄跡もある」
ガレスは木板を見た。
水深。
道幅。
坂。
その先に車輪の跡。
偶然として扱える材料は、一つずつ減っていた。
◇
捕虜は一言も喋らなかった。
名を聞いても、所属を聞いても、ガレスを見るだけだ。
無理に口を割らせることはせず、三人はそのまま灰鷹砦へ戻った。
正午を少し回っている。
門を開けたニコは、縛られた斥候を見ても持ち場を離れなかった。
「怪我は?」
「腕を打ってる」
「マルタさんを呼びます」
それだけ確認してから、ニコは中庭へ声を飛ばした。
マルタが出てくる。
「今度はずいぶん変わった客だね」
斥候の腕を診る。
骨折はない。
腫れが強いため布で固定し、縄が血流を止めないよう結び直させた。
「死なせないでおくれよ。治療した意味がなくなる」
「そのつもりだ」
捕虜を空いている小部屋へ入れたあと、五人は倉庫へ集まった。
木板を机へ並べる。
ニコは黙って一通り見た。
「こいつら、村を襲いに来たんでしょうか」
「分からない」
ガレスが答える。
「じゃあ、砦?」
「それも分からない」
ニコが少し考える。
「何なら分かるんです?」
「北に少なくとも十人前後か、それ以上の集団がいる可能性が高い。荷車を使っている。そいつらの斥候が、ここから南へ続く道と水場を調べていた」
事実だけを並べる。
そこから先はまだ推測だった。
「十人なら?」
ニコが聞いた。
「今の砦でもやりようはある」
「百人なら?」
「レム村を守る場所そのものを変える必要がある」
ニコの表情が固くなる。
ガレスは見取り図を引き寄せた。
「だから先に人数を知る。分からないうちから百人相手の準備をすれば、食料も人手も無駄になる。十人だと思い込めば、逃げる時間を失う」
エルナが南側の道を指した。
「村からローデルへ抜ける道は、今のうちに空けておいた方がいいわね」
「ああ。荷を道端へ積ませない。壊れた荷車も片づける。避難が必要になった時、そこで詰まる」
「村には私から説明する」
マルタが言った。
「病人と歩けない者を先に数えておくよ。パヴェルみたいなのが何人いるか分からないままじゃ、荷車が何台いるのかも決められない」
「頼む」
キリクは北側の地図を指で叩いた。
「俺は午後に物見台から北を見直す。森には入らん。煙と鳥の動きだけ拾う」
ガレスはうなずいた。
全員が自分の仕事を分かっている。
それなら話は早かった。
「ニコ」
「はい」
「明日の朝、ロベルトと村の荷車乗り一人を連れてローデルへ行ってくれ。お前が護衛だ。報告書と、この木板を一枚持っていく」
ニコはすぐ答えた。
「分かりました」
「その日のうちに戻ろうとするな。ローデルに泊まって、警備隊か代官所の返事を待て」
「はい」
疲れた馬に夜道を走らせる必要はない。
ガレスは報告書を書き始めた。
魔王軍とみられる斥候三名を確認。
一名拘束。
二名逃走。
北方の旧道で複数の足跡、車輪跡、蹄跡あり。
斥候は水深、道幅、勾配を記録していた。
敵の総数、目的、位置は不明。
援軍が欲しい、とはまだ書かなかった。
代わりに、周辺の警戒強化と北方情報の照合を求める。
書けるのは、確認した事実までだ。
◇
午後、レム村へ下りると、昨日訓練に来た六人が集会所へ集められていた。
誰も武器を持っていない。
ガレスはその方がいいと思った。
「明日から砦へ上がらなくていい」
村人たちがざわつく。
若い一人が口を開いた。
「俺たちじゃ役に立ちませんか?」
「違う。村でやることが増えた」
ガレスはロベルトが広げた村の簡単な図へ指を置く。
「荷車を一か所に集める。南へ出る道には物を置かない。歩くのが難しい人間を確認する。夜は二人一組で見張る。ただし、何か見つけても村の外へは出るな」
「戦わなくていいんですか」
「砦まで敵が来た時は俺たちが先に見る。村の仕事は、その間に動けるようにしておくことだ」
男は少し考えてから、うなずいた。
エルナが村人を二組に分け、見張る場所を決めていく。
マルタは村長と一緒に、寝たきりの者や高齢者を数え始めた。
キリクは村の北端から山を見ている。
ガレスには、やることが残っていた。
灰鷹砦へ何を置くか。
村に何を残すか。
三日分の食料を砦へ上げても、村の備蓄を減らしすぎない量はどこまでか。
逃げることになった場合、荷車へ積む物と捨てる物を先に決めておく必要もある。
敵の人数はまだ分からない。
だが、こちらが準備できることまで不明なわけではなかった。
夕方、キリクが山から戻ってきた。
森へ入ったわけではない。
村の北にある岩場へ登り、遠くを見ていただけだ。
「煙が上がった」
「どこだ?」
「北。かなり向こうだ。一本じゃない」
ガレスが顔を上げる。
「数は?」
「俺が見た時は四本。同じ場所じゃないが、近い」
炊事の煙なのか、合図なのかは分からない。
それでも、三人の斥候だけが山にいたという話ではなくなった。
ガレスは北の山並みを見た。
向こうも、こちらを見ている。
水を測り、道を測り、車輪を通せる場所を探している。
なら次に必要なのは、敵が来るまで待つことではない。
何人ならここで受け、何人なら村を下げるのか。
その境目を決めるための情報だった。
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