第6話 兵士を英雄にするな
「槍は置いて。今日は突き方から教えないわ」
灰鷹砦の中庭で、エルナがそう告げると、集まった男たちから戸惑った空気が返ってきた。
レム村から来た六人とニコ。合わせて七人いる。
彼らの前には、砦の修繕で出た廃材から作った木槍が六本、板を二枚重ねただけの訓練用の盾が三枚並べられていた。
エミルを救出してから三日目の朝だった。
翌朝にローデルへ向かったニコは、ボルクへの報告と護衛料の精算を済ませたあと、灰鷹砦へ戻ってきた。今回の護衛契約はレム村へ荷を届けた時点で完了として扱われ、次の仕事をまだ決めていないニコ自身が、しばらくガレスたちと行動したいと申し出たのだ。
昨日にはローデルの警備隊も村へ到着し、捕らえた六人と押収品を引き取っている。
同じ便で、領主代官所から灰鷹砦に関する書面も届いた。
正式な譲渡ではない。一か月間の仮使用許可である。
修繕費と食料は使用者負担。街道や魔物について得た情報は領側へ報告し、有事には連絡所として使わせること。それらを条件に、放棄されていた砦を使ってよいという内容だった。
ガレスとしては十分だった。
一か月もあれば、ここが使える場所なのか、それとも金ばかり食う石の塊なのか判断できる。
「二人ずつ組んで」
エルナの声で、六人が三組になった。
ニコだけが残る。
村人の一人が彼を見てから尋ねた。
「一人余ってますけど」
「余らせてるのよ」
エルナはニコへ木槍を一本渡した。
「あなたは最初、どこにも入らない」
「予備ですか?」
「そう。前にいる人間が疲れた時、怪我をした時、武器を落とした時に入る。七人いるから七人全部を最初から並べる、なんてことはしないわ」
ニコは納得したように位置を下がった。
村人たちの方は、まだ少し腑に落ちていないらしい。
ガレスは口を挟まず、倉庫から持ち出した板へ人数を書き込んでいた。
三組六人。
予備一人。
正門と北壁を同時に守るなら、この人数では足りない。夜番まで組むならなおさらだ。
だから今日やるのは、七人だけで砦全部を守る方法を考えることではない。
七人に、七人以上の働きをさせようとしないための訓練だった。
「盾役は前。槍役は半歩後ろ」
エルナが一組を呼び出した。
「敵を倒そうとしなくていい。盾役は止める。槍役は近づかせない。まずそれだけ」
村人の一人が板盾を構え、相棒が木槍を持つ。
エルナ自身が木剣を手にして、正面へ立った。
「始めるわよ」
次の瞬間には、盾役の男が前へ出ていた。
「止まって」
木剣が動く前に、エルナが声をかける。
「どうして前へ来たの?」
「先にぶつかった方がいいかと……」
「あなたが三歩出れば、後ろの槍も三歩出る。隣の組が動かなければ、そこだけ線が飛び出すわ」
男は自分の立っている場所を見た。
他の二組より確かに前へ出ている。
「ここは試合場じゃないの。自分の相手だけ見ないで」
位置を戻させ、もう一度始める。
今度は盾を前へ出したまま、男は踏み込まなかった。
エルナが右へ動く。
槍役が反応して穂先を追う。
「槍も追わない」
「でも、回り込まれます」
「だから隣がいるの。一人で全部止めようとすると、列が崩れる」
三度目で、ようやく二人の位置が保たれた。
エルナは攻撃せず、そのまま次の組へ替える。
六人全員を一度動かしたところで、ニコを呼んだ。
「最初の盾役と交代」
「まだ疲れてませんよ」
最初に立った男が言った。
エルナはそちらを向く。
「疲れてから交代するんじゃないわ」
男が黙る。
「腕が上がらなくなるまで立たせたら、後ろへ下がる時に守る人間が必要になる。まだ動けるうちに替える。その方が次にも使える」
今度はニコが盾を持った。
すでに二度の実戦を経験しているだけあって、村人より構えが安定している。
ただ、エルナが木剣を振った瞬間、ニコは反射的に前へ出た。
板盾と木剣がぶつかる。
「ニコ」
「……はい」
「あなたも同じ」
エルナは盾を軽く叩いた。
「守れるからって前へ出ない。後ろの人間まで、あなたと同じ速さで動けるとは限らないから」
ニコは一度後ろを見た。
槍役の村人とは、すでに一歩以上離れている。
「分かりました」
今度は素直に戻った。
ガレスは板に一つ印をつけた。
個人の腕ではニコが上。
だが、経験がある分だけ自分で処理しようとする癖もある。
使い方を間違えれば、長所がそのまま穴になる。
◇
昼前になると、マルタも村から上がってきた。
パヴェルの熱は下がり、村の病人たちも届いた薬で落ち着いている。朝の診察を済ませれば、日中は砦へ来られる程度には余裕ができていた。
マルタが最初に見たのは訓練ではなく井戸だった。
水を汲み上げ、臭いと濁りを確かめ、少量を煮沸する。それでも問題が出なかったため、当面は飲用に使うことになった。
「井戸が死んでたら、この砦も終わりだったね」
「毎日、村から水を担ぎ上げる部隊には入りたくないな」
ガレスが答えた。
「私は治療役だから、水運びの人数には入れないでおくれよ」
「最初から入れてない」
「ならいい」
マルタはそれだけ言うと、今度は中庭へ向かった。
ガレスも後を追う。
午前の訓練を終えた七人には休憩を取らせていたが、次に用意したものを見て何人かが眉をひそめた。
担架だった。
木の棒二本へ丈夫な布を渡し、その上に土を詰めた袋を載せてある。合わせて六十キロほどになるよう調整していた。
「次はこれを運ぶ」
ガレスが言う。
「二人で?」
「二人で」
村人が担架の上を見た。
「戦う訓練じゃないんですか?」
「前で誰か倒れたら、その人間を置いて帰るか?」
「……運びます」
「なら練習しておいた方がいい」
南門から兵舎まで。
途中には石の欠けた場所もあれば、緩い上りもある。
二人一組で担ぎ、一往復したら交代。残った一人は担架の横につき、足場と進路を見る。
一組目は勢いよく持ち上げた。
十歩ほどで前後の歩幅がずれる。
「待って、待って!」
後ろを持つ男が声を上げた。
前が止まる。
担架が傾いた。
マルタが腕を組んだ。
「今のが怪我人なら、かなり痛いよ」
二人の表情が変わる。
「重い方を持つとかあるんですか?」
「前後で高さが違うならある」
ガレスは担架の横へしゃがみ、持ち手の位置を示した。
「坂では上側が持ち上げすぎると身体が滑る。歩幅を合わせろ。急ぐなら足を速くするんじゃなく、交代を増やす」
もう一度。
今度は声を掛けながら進んだ。
「右、段差」
「分かった」
「一度止める」
先ほどより遅い。
しかし担架は揺れなかった。
二組目、三組目と続ける。
最後にニコが入り、一通り終えた頃には、槍の訓練より疲れた顔をしている者もいた。
村人の一人が腰を伸ばしながらぼやいた。
「戦わなくても、兵士ってきついんですね」
「歩けて、運べて、見張れて、それでも必要な時に戦える奴が一番助かる」
ガレスは水桶を指した。
「飲んだら十分休め。午後は柵だ」
「まだあるんですか」
「北壁を塞ぐ木が、勝手に立ってくれるなら休みにしてもいい」
さすがに何人かが笑った。
◇
午後は北壁の仮柵を直した。
村から上げた丸太を組み、内側から横木を通す。
ここでも七人全員を同じ作業へ集めなかった。
三人が木を運ぶ。
二人が組む。
一人が工具と縄を管理する。
残る一人は物見台に上がった。
「修理中まで全員下を向くな」
ガレスが言う。
午前中、盾を持っていた村人が物見台から顔を出した。
「何を見れば?」
今度はキリクが答えた。
「街道。北の尾根。鳥が急に飛んだ場所。煙。動く影。分からない物を見つけたら、勝手に正体を決めずに呼べ」
「狼っぽくても?」
「狼っぽい何か、と言え。それで十分だ」
村人は妙な顔をしたが、やがてうなずいた。
ガレスは少し離れた場所から作業を見た。
七人の動きはまだ遅い。
エルナやキリクのようには戦えない。
ニコほど盾も扱えない。
丸太を結ぶ縄も、一度では締まらない。
それでも朝とは違っていた。
重い物を持つ時には誰かが声をかけ、通路へ道具を置かなくなった。二人で持てない丸太には三人目を呼ぶ。
一人で何とかしようとする者が減っている。
エルナが隣へ来た。
「剣を振らせた時間、ずいぶん短かったわね」
「剣はお前が教えるだろ」
「そういう意味じゃない。村の人たちは、もっと派手なことを期待してたみたいだから」
「期待どおりにやって死なせたら、寝覚めが悪い」
ガレスは仮柵へ目を向けた。
「一人で強い奴を七人作るより、誰かが崩れた時に残り六人で穴を塞げる方が先だ」
エルナはしばらく黙っていた。
「勇者たちにも、そうしてほしかった?」
問いかけは軽くなかった。
ガレスもすぐには答えない。
「アレクたちは、自分で穴を塞げる」
「だから離れた?」
「だから、そのやり方を普通の兵士まで広げたくなかった」
エルナはそれ以上聞かなかった。
中庭では、ニコが村人と一緒に丸太を起こしている。
英雄の真似をさせるつもりはない。
走れる距離も、振れる槍の回数も、持てる荷の重さも、人間には限界がある。
その限界をなくすことはできない。
なら、限界を越える前に替わる人間を用意すればいい。
◇
日が西へ傾き始めた頃、北へ出ていたキリクが戻った。
予定より早い。
歩き方も、朝までとは違っていた。
「作業を止めろ」
門へ入るなり、キリクが言った。
声を聞いたエルナがすぐ振り向く。
「何があった?」
キリクは答える代わりに、革手袋をした掌を開いた。
黒い羽根が一本あった。
根元には短く切られた矢軸が残っている。
ガレスは受け取った。
黒い羽そのものなら珍しくない。
だが、羽軸を二つに割ってから麻糸で巻く、この付け方には見覚えがあった。
勇者一行にいた頃、魔王軍領の外縁で何度も拾った矢と同じだった。
「どこだ?」
「北の尾根。ここから歩いて一刻もかからん」
中庭の空気が変わった。
「人数は?」
「見てない。足跡は三つ。二本脚だが、人間の靴じゃない。先が割れた蹄の跡だ」
「こっちへ来た?」
「尾根から砦を見て、北東へ抜けてる。昨日の雨の後についた跡だから、古くても一日だ」
エルナが黒い矢羽を見る。
「斥候ね」
「たぶんな」
キリクが答えた。
「野盗が使う矢じゃない」
ガレスは物見台を見上げた。
そこでは、ついさっきまで村人が一人で周囲を眺めていた。
今朝までは、砦をどう使うか考えていた。
もう順番が変わった。
「北壁の作業はここまで。丸太と工具を全部内側へ入れる」
ガレスが言うと、七人が動き始めた。
午前中なら、誰かが理由を尋ねていただろう。
今は三人が丸太へ向かい、二人が散らばった工具を拾う。ニコは指示される前に南門へ走り、板盾を門脇へ運んだ。
エルナがガレスへ近づく。
「夜番を組む?」
「組む。物見台と北壁に一人ずつ。二刻で交代。キリクは最初だけ付き添って、見る場所を教えてくれ」
「七人を全部残すの?」
「村の六人は帰す。家族に何も知らせず夜まで拘束する方がまずい。代わりに明日の朝、村長と相談して常駐できる人数を決める」
エルナがうなずく。
「今夜は?」
「俺たちとニコで回す」
人数は少ない。
それでも今夜だけなら持つ。
無理を一晩で終わらせ、その間に明日以降の仕組みを作る。
ガレスは黒い矢羽を板の上へ置いた。
「それと、火は中庭で焚かない。炊事場の窓も塞ぐ。外から人数を読まれたくない」
キリクが北の空を見た。
「向こうがもう数えてたら?」
「その時は、明日数え直させる」
ガレスは砦の中へ視線を戻した。
朝には、七人をどう訓練するかだけを考えていた。
夕方には、その七人をどこへ置けば生き残れるかを考えている。
灰鷹砦の北には、魔王軍の斥候がいる。
そして今度は、こちらにも見張る目があった。
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