第5話 捨てられた砦
「エミルが生きているなら、今夜のうちに人数だけでも確かめたい」
レム村の集会所で、エルナが古い見取り図を押さえながら言った。
外はすでに暗い。
村へ着いたのは午後遅くだった。十人の村人と薬を無事に届け、負傷したパヴェルを寝台へ移し終えた頃には、山の向こうへ日が落ち始めていた。
灰鷹砦から上がっていた三本の煙も、今は見えない。
集会所の机には、十二年前に王国兵が撤収する前の見取り図が広げられている。南に正門、東に兵舎、西に倉庫と厩舎。中央近くに井戸があり、その脇には小さな管理小屋が描かれていた。
北壁には、当時から崩落箇所を示す印がある。
「砦まで行って戻るなら、俺一人でいい」
キリクが地図を覗き込んだ。
「夜なら林から近づける。中へ入る必要もない。焚き火と見張りの数くらいは拾える」
「見つかったら?」
エルナが尋ねる。
「帰ってくる」
「戦ったら?」
「怒られる」
「分かってるならいいわ」
キリクが口元を歪める。
ガレスは二人の会話を聞きながら、見取り図の端へ指を置いた。
「確認するのは五つだ。人数、見張りの位置、エミルが生きているか、馬の数、北壁が今も通れるか。それ以上は要らない」
「武器は?」
「見える範囲でいい。調べるために近づきすぎるな」
「了解」
「あと一つ」
ガレスはキリクを見た。
「戻ることを最優先にしてくれ。明日の作戦を組む人間が、今夜いなくなるのが一番困る」
「元勇者一行は、斥候の扱いまで細かいな」
「代わりがいない仕事ほど慎重になるだけだ」
キリクはそれ以上言わず、短弓と外套だけを持って集会所を出た。
マルタは残る。
パヴェルはまだ出血の影響が強く、右脚も折れている。村には熱を出した者もおり、治療役を砦へ連れていく理由がなかった。
「こっちは任せな」
マルタが治療鞄を持ち上げる。
「ただし、エミルを見つけても怪我の程度を勝手に決めないこと。歩けるから無事とは限らないよ」
「連れて帰ったら、そのまま渡す」
「それでいい」
ガレスたちは交代で休んだ。
前日から歩き続け、途中では灰狼の群れとも戦っている。敵のいる砦へ向かう前に、数時間でも身体を横にしておく方がいい。
勇者たちと旅をしていた頃なら、夜通し動くこともあった。
だが、それができる人間を基準にして部隊を扱えば、どこかで必ず無理が出る。
今は四人しかいない。
一人が判断を誤っただけで、その穴を埋める余裕も少なかった。
◇
キリクが戻ったのは、夜半を過ぎた頃だった。
右膝から下に泥がついているが、怪我はない。
「六人。パヴェルの話と合う」
水を一口飲むと、キリクは机の上へ小石を並べた。
「南門に一人。剣持ち。古い物見台に弓が一人。井戸の脇の小屋に一人いて、槍を持ってる。残り三人は兵舎だ」
「エミルは?」
ロベルトが身を乗り出した。
「井戸の横の小屋にいる。窓から見えた。手は縛られてるが、自分で水を飲んでた。顔は腫れてる。少なくとも意識はある」
ロベルトの肩から力が抜けた。
「そうか……」
「安心するのは連れ戻してからにしてくれ。砦の中には馬が四頭。厩舎に繋いである。北壁は今も崩れたままだ」
キリクは北側に置いた小石を指で動かした。
「ここから一人ずつなら入れる。ただし、崩れた石の上を登る。明るくなれば物見台から見える可能性がある」
エルナはしばらく見取り図を見ていた。
「なら、正面から四人で行く必要はないわね」
ガレスが顔を上げる。
「どう分ける?」
「私とキリクが北から入る」
エルナの指が北壁から井戸へ動いた。
「キリクが先。私はその後ろ。エミルを見つけても、すぐには動かない。南側の注意がガレスたちへ向いてから小屋へ行く」
「俺とニコが正門か」
「ええ。戦いに行くんじゃない。姿を見せて、話をして。できるだけ中の人間を南へ寄せてほしい」
「時間稼ぎならできる」
「挑発して戦闘を始めるのは禁止」
「そこまで信用がないか?」
「六年も勇者と一緒に戦っていた人でしょう」
「偏見だな」
エルナは取り合わず、今度はニコへ向いた。
「ニコはガレスの半歩前。相手に弓があるから、小盾で胸と首を隠して。矢を受けるために前へ飛び出す必要はないわ。ガレスが下がったら一緒に下がる。敵が門から出ても追わない」
「分かりました」
「門へ近づきすぎないこと。あなたたちの役目は勝つことじゃない」
ニコは一度うなずいた。
「中を南へ向かせることですね」
「そう」
エルナはガレスへ視線を戻した。
「私たちが北壁へ着いたら、キリクが鳥の鳴き真似を二度する。それを聞いてから正門へ出て。それまでは街道の曲がり角で待機」
「エミルを出した後は?」
「状況次第。静かに連れ出せるなら、そのまま北へ抜ける。見つかったら、無理に砦を取らない。救出を優先する」
ガレスは異論なくうなずいた。
砦を奪う依頼ではない。
誘拐された村人を一人連れて帰ればいい。
敵六人を全員倒すことを目標に加えれば、それだけ余計な危険が増える。
「それでいこう」
出発は東の空が白み始める少し前に決まった。
完全な暗闇では北壁の崩落を登るのが危ない。日が昇ってからでは物見台の見張りに見つかりやすい。
その間を使う。
◇
近くで見る灰鷹砦は、村から眺めるよりひどい有様だった。
南門の片側は傾き、上部の石壁には木の根が入り込んでいる。かつて旗を掲げていたらしい塔は途中から崩れ、城壁の角には雑草が生えていた。
それでも、人が守れば砦として機能する。
城壁は高く、正面から入れる場所は南門しかない。
ガレスとニコは街道が最後に曲がる場所で待った。
まだ薄暗い空の下、遠くから鳥の声が一度聞こえる。
少し間を置いて、もう一度。
「行くぞ」
「はい」
ニコは小盾の帯を確かめ、ガレスと並んで街道へ出た。
隠れなかった。
むしろ、見つけてもらうために歩く。
百歩ほど進んだところで、南門の男がこちらに気づいた。
「止まれ!」
腰の剣へ手を掛ける。
ガレスは言われた位置で足を止めた。
「レム村から来た。エミルを返してもらいたい」
男の表情がわずかに変わった。
「知らんな」
「昨日、旧街道で軽荷車を襲った六人のうち一人が、お前と同じ灰色の外套を着ていたそうだ」
「帰れ」
「兄のパヴェルは生きてる」
今度は、男の目がはっきり動いた。
砦の中へ振り返り、短く声を上げる。
兵舎から二人の男が出てきた。
どちらも剣を持っている。
キリクの報告どおりなら、南側へ三人。物見台の弓手を合わせて四人がこちらへ意識を向けたことになる。
一人が門の前まで来た。
四十歳前後。灰色の外套の下に革鎧を着ており、他の二人が自然と半歩後ろへついている。
「パヴェルが生きているなら何だ」
「六人に襲われ、弟を連れ去られたと話した。灰鷹砦の井戸と倉庫について聞かれたこともな」
男は答えなかった。
「エミルを返せ。こちらはそれで村へ戻る」
「二人で来て、ずいぶんな要求だな」
「人数を増やせば返してくれるのか?」
「そういう話じゃない」
「なら、二人で十分だ」
男がガレスを睨む。
ニコは何も言わず、小盾を構えたまま立っていた。
物見台の弓手が位置を変える。
ガレスには見えていたが、そちらを見上げなかった。
「エミルはどこだ」
「知らんと言っている」
「なら、砦の中を見せてもらっても問題ないな」
「調子に乗るな」
一歩前へ出ようとした男を、ガレスは手で制した。
「俺は話をしに来た。そっちが剣を抜けば話は終わる」
「困るのはお前たちだろう」
「そうかもしれないな」
そこで、物見台から弦の音がした。
「ニコ」
名前を呼ぶだけで十分だった。
ニコは盾を上げる。
矢が板へ突き刺さり、身体が半歩押されたが、足は崩れない。
ガレスは動かなかった。
「今ので、話を続ける理由は一つ減った」
「次は外さないぞ」
物見台の男が二本目をつがえる。
門の前にいる三人も、こちらが退くのを待っていた。
時間は稼げている。
問題は、北側がどうなっているかだった。
◇
その頃、エルナとキリクは北壁の内側へ入っていた。
先に登ったキリクが石の状態を確かめ、足を置ける場所を一つずつ示す。エルナは長剣が石へ当たらないよう腰の鞘を手で押さえながら、崩れた壁を越えた。
砦の内側は静かだった。
南門から男たちの声が聞こえている。
「ちゃんと喋ってるな」
キリクが小声で言う。
「そこは心配してないわ」
「戦い始めてないかは?」
「少し心配してる」
二人は倉庫の壁沿いを進んだ。
井戸脇の小屋には、槍を持った男が一人いる。南の騒ぎが気になるのか、何度も門の方角へ顔を向けていた。
キリクが弓へ矢をつがえる。
エルナは首を横に振った。
殺す必要はない。
小屋の裏へ回り、キリクが地面の小石を兵舎側へ投げた。
音がした。
男がそちらを向く。
エルナは一気に距離を詰め、槍を持つ腕を外側へ押し込んだ。柄が壁へ当たり、男が振り返るより先に足を払う。
倒れたところへ剣先を首元へ置いた。
「声を出さないで。手を離して」
男の指が槍から離れた。
キリクがすぐに腕を縛る。
小屋の扉を開くと、壁際に若い男が座っていた。
手首を後ろで縛られ、右頬が腫れている。
「エミル?」
男が目を上げた。
「……誰だ」
「レム村から来た。パヴェルは生きてる」
数秒、意味が伝わらなかったようだった。
やがてエミルの顔が崩れる。
「兄貴が?」
「村でマルタが診てる。立てる?」
「ああ。脚は大丈夫だ」
エルナが縄を切ろうとした時、兵舎の扉が開いた。
中に残っていた最後の一人だった。
「おい!」
剣へ手を伸ばす。
エルナはエミルを小屋の中へ押し戻し、自分から前へ出た。
男が剣を抜く。
一撃目を長剣の根元で受け、外へ流す。二撃目が来る前に距離を詰め、柄頭を相手の顎へ入れた。
男がよろめいた。
さらに手首を打つ。
剣が石床へ落ちた。
「拾わない方がいいわ」
切っ先を向けると、男は動きを止めた。
「キリク、エミルを」
「任せろ」
南門の方から、怒鳴り声が聞こえた。
こちらの物音に気づいたらしい。
もう隠れる必要はなかった。
◇
「北だ!」
門の男が振り返った。
その直後、井戸側からエルナが姿を現す。
「ガレス!」
エミルはキリクに支えられながら、自分の足で立っていた。
門前の三人から余裕が消えた。
「どういう――」
物見台の弓手が北へ身体を向ける。
しかし、その時にはキリクの弓が先に向いていた。
「動かすな!」
エルナの声が砦へ響く。
「二人はこちらで押さえた。エミルも確保したわ」
門の中央にいた男が舌打ちし、剣を抜いた。
「てめえら……!」
ガレスは長槍を構えたが、前へは出ない。
「人質はいなくなった。ここから六人全員で斬り合う意味があるなら聞く」
「黙れ!」
男の隣にいた一人が走り出した。
ニコへ向かう。
「盾はそのまま!」
ガレスが半歩前へ出た。
ニコの小盾へ剣が当たる。力で受け止めさせず、ガレスは横から長槍の柄を差し込み、剣を持つ腕を上へ押し上げた。
空いた胴へ石突きを入れる。
男が息を詰まらせ、膝をついた。
追撃はしない。
その一人が崩れたことで、残る二人の足が止まった。
エルナは内側から。
ガレスとニコは外側から。
物見台の弓手にはキリクが狙いをつけている。
兵舎と小屋にいた二人も、すでに武器を失っていた。
中央の男は周囲を見た。
勝ち目がないと理解するまで、それほど時間はかからなかった。
「……武器を捨てれば、殺さないんだな」
「抵抗しなければな」
ガレスが答える。
男はしばらく睨んでいたが、剣を石の上へ落とした。
もう一人も続く。
物見台の男は最後まで迷っていたものの、キリクが弓を引き絞ると、諦めたように弓を床へ置いた。
六人全員を縛り終えた頃、東の山から朝日が差し始めていた。
◇
エミルは歩けた。
頬と腹に殴られた痕があり、手首は縄で擦れていたが、意識ははっきりしている。
「何を聞かれた?」
ガレスが尋ねる。
「井戸が今も使えるか。倉庫の屋根がどこまで残ってるか。北壁から荷を運び込めるか。それから、村とローデルを行き来する商人の数も」
「答えたのか?」
「知ってることだけは。殺されると思ったから」
「それでいい」
エミルが意外そうにガレスを見た。
「黙って死ぬより、帰ってきて警備隊に話してくれる方が助かる」
砦を調べると、盗品らしい毛皮や旅装、硬貨の入った袋が倉庫から見つかった。旧街道周辺を描いた粗い地図もあり、宿場や水場、休憩に使われる場所へ印がついている。
ただし、誰かから命令を受けていたと断定できる物はない。
キリクは地図を眺めたあと、丸めてガレスへ渡した。
「道を使う奴を狙うために調べてた、と見るのが普通だな」
「今のところはな。勝手に話を大きくしない方がいい」
押収品はそのまま残し、後でローデルの警備隊に確認させることにした。
そのついでに、ガレスは砦の中を歩いた。
井戸は底まで水が残っている。濁りや腐臭はないが、飲めるかどうかは別の話なので手はつけない。
倉庫は北側の屋根から雨が入っていたものの、南半分の床は乾いている。
兵舎は二室ならそのまま寝られる程度に残り、厩舎にも八頭分の仕切りがあった。
「見てるところが完全に住む人間なんだけど」
エルナが後ろから声を掛ける。
「使えるか確認してるだけだ」
「倉庫の雨漏りまで?」
「荷を置くなら重要だろ」
「誰が荷を置くの?」
「そこはこれから考える」
エルナは少し笑った。
北壁へ回る。
二人が入った崩落箇所は、大人一人が通れる程度に開いていた。守るなら塞ぐ必要があるが、木材で仮柵を組むだけなら大人数は必要なさそうだった。
正門も蝶番と支柱を直せば閉められる。
街道を見下ろせる位置も悪くない。
「村のすぐ近くに、これだけの場所が十二年も放置されてたのね」
「維持する金と人がなければ、石壁もただの荷物だ」
「使いたい?」
ガレスはすぐには答えなかった。
勇者一行を離れた時、自分で隊を作ろうと決めていたわけではない。
最初は護衛の仕事を一つ受けただけだ。
だが、ローデルからレム村まで来る間にも、隊商は野盗に襲われ、村人は狼に追われ、旧街道では人がさらわれた。
そのたびに宿場から人を集め、荷を整え、一から出発している。
ここに人と物資を置ければ、動き方はかなり変わる。
「使えるなら便利だ」
「ずいぶん控えめね」
「俺の砦じゃないからな」
ガレスは南門の古い紋章を見上げた。
「王国軍が撤収したからといって、拾ったことにはならない。今の管理権がどこにあるか確認する」
「そこは律儀なのね」
「後から十二年分の使用料を請求されたくない」
エルナが吹き出した。
「そっち?」
「大事だぞ」
◇
昼前にはレム村へ戻った。
エミルの姿を見たパヴェルは、寝台から起き上がろうとしてマルタに怒鳴られた。
「脚が折れてる男が何してるんだい!」
「エミルが……」
「見れば分かる。弟は逃げないから寝てな」
結局、エミルの方が兄の寝台へ行った。
マルタに診てもらったところ、打撲と軽い脱水はあるものの、数日休めば問題ないという。
捕らえた六人は村の倉へ入れ、武器を別の建物で保管した。
ニコは翌日、ローデルへ戻る予定だったため、警備隊へ渡す報告書を持っていくことになった。灰鷹砦で見つかった盗品と地図、捕虜六人の引き取りを依頼し、あわせて砦の現在の管理先も確認する。
「ボルクさんにも戻るって伝えておきます」
「ああ。帰りの隊商を置いていかれたら、こっちの責任になる」
「間に合います」
「急ぐ必要はない。街道で転んだら一日の得が全部消える」
ニコは素直にうなずいた。
集会所では、村長が古い見取り図をもう一度広げていた。
「王国軍が撤収した後は、ローデル辺境領の預かりになったと聞いております。ただ、十二年間、誰かが管理に来たことはありません」
「なら、領主側へ確認だな」
「砦を使うおつもりですか?」
ガレスは窓から北の山を見た。
今朝まで三本上がっていた煙は、もうない。
「許可が出れば、一度きちんと調べたい。井戸、壁、屋根、厩舎。直すのに必要な人間と材料も数える」
「護衛の仕事をするために?」
村長の問いに、ガレスは少し考えた。
「最初はそのつもりだった」
灰鷹砦には、水がある。
屋根も残っている。
荷を置ける場所があり、馬を休ませる場所もある。
そして何より、旧街道とレム村の両方へ人を出せる位置にある。
五人で十人を守るだけなら、毎回どこかで人を雇えばいい。
だが、この辺境で同じような仕事が続くなら、そのたびに寄せ集めから始めるより、帰る場所が一つある方がいい。
「許可が取れたら」
ガレスは見取り図の北壁へ指を置いた。
「まず、この穴を塞ごう。今度はこっちが寝ている間に入られたら困る」
エルナが隣から地図を覗き込む。
「その言い方、もう使う気でしょう」
「便利そうだとは言った」
「はいはい」
十二年間、人の手を離れていた灰鷹砦。
まだガレスたちの物ではない。
それでも、崩れた城壁と空の兵舎を見た時から、ただの廃墟には見えなくなっていた。
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